涙の乗車券

 

今井義行

 
 

I want to stay with you in Japan!

あなたは ワタシを もとめていたの?
それとも 二ホンを もとめていたの?

14歳年下の フィリピーナ
シングルマザーのフィリピーナ

マニラで一緒に申請したけれど

彼女は 短期滞在ビザを得られず
成田へのフライトチケットをキャンセルした

He’s got a ticket to ride
He’s got a ticket to ride
He’s got a ticket to ride
and he don’t care.

あの人、もう乗車券も買ってあるわ
乗車券も買ってあるわ
乗車券も買ってあるわ
私の気持ちなんて気にもしてない

He said that living with me
was bringing him down
Yeh
He would never be free
when I was around.

私と一緒にいると
落ち込んじゃうって言うの
そうよ
私がそばにいると
自由になれないんだって *ネットより引用

あなたは まだ既婚者だった 前婚未解消のまま
11 年経っていた

フィリピンには
結婚の制度はあるけれど
離婚の制度は ないのだ

健やかなるときも病めるときも
添い遂げる国なので

わたしは ひとり
マニラ空港から帰ることになった

彼女は弁護士を立てて
離婚を成立させると言った

けれど わたしは
I want to be free in Japan.
と 言ったのだ

彼女は「私は約束する」と
言ったのだけど

わたしは 「なにを?」と
聞き返したのだった
彼女のブラックの手を握って

 

 

 

銀座の夜のトランペット

音楽の慰め 第30回

 

佐々木 眞

 
 

 
あれは確か1980年代の半ばを過ぎた頃だったでしょうか。
私は久保田宣伝研究所が運営する「宣伝会議」主催するコピーライター講座の講師として、毎月何回か、当時銀座の松屋の裏手にあった教室に通って、コピーライター志望の若者相手に、自分流のカリキュラムを作って、まあなんというか、いちおう教えていました。

80年代になると、昔は「広告宣伝文案作成業」などと称されていたコピーライターが、突然時代の寵児のような人気職種になり、第2の仲畑、糸井を目指す人たちが「宣伝会議」の養成講座に群がるようになっていたのです。

「1行100万円!」のコピーライターを目指す気持ちはわかりますが、そう簡単に1流のコピーライターなんかなれるものではない。あらゆる芸事と同じで、生まれながらの才能がない人がいくら努力しても、ダメなものはダメなのです。

じっさい私がそうでした。いくら努力しても2流どまりだなと、早い時期に分かってしまったのです。もちろん若き学友諸君だって、そんなことは、3カ月もコピー修行を続けていれば、自分自身で分かって来ます。

そうなると話が早いので、第1級のプロになることを諦めた若者たちと、2流のコピーラーターに甘んじている臨時雇われ講師の私は、2時間の授業が終わると、そのまま安い居酒屋に直行し、その日の僅かばかりのギャラで、らあらあと気勢を上げて飲んだくれていたのでした。

確かある夏の夜のこと、いつものように学友諸君と一緒に、夜風に吹かれて銀座3丁目から4丁目の交差点にさしかかったところで、誰かが吹いているトランペットの音色が街の騒音を縫うようにして聞こえてきました。

日産のショールームの前あたりに、いかにも人世にくたびれ果てた顔つき、そしてくたびれた背広を着た一人の年齢不明の白人男性が、過ぎゆく人や車にはまったく無関心に、夜空に向かってペットを吹いています。超スローペースのメロディを、ゆったりゆったりと吹き流しています。

唇に当てているのは相当古びたトランペット、吹いているのはジャズのようですが、果たしてそれをジャズと決めつけていいのかどうか。その男は、じつに単純なメロディのようなものを、きわめて自由な、そして超遅いテンポで、なにか大切なことを、どうしてもこの際言うておかねばらなぬことを、自分自身に向かって言い聞かせるように、あるいはどこか遠くへ行ってしまい、行方不明になってしまったもう一人の自分に切々と訴えかけるように、朗朗と歌っているのです。
腹の底からジンジン歌っているのです。

それは例えてみれば、白人の虚無僧が吹く西洋尺八のリバティ音楽のようでした。

何人かの勤め帰りのリーマンたちに混じって、しばらくその西洋虚無僧の尺八の音に耳を傾けているうちに、私はこの10年間というもの、なんだか手ひどく抑圧された心が、ゆっくりと解き放たれるような気がしてきました。

ジャズのようだけどジャズじゃない。要するに、これはただの音楽なんだ。しかしただの音楽にしては、物凄すぎる。いったい何なんだ、これは? そうかこれが音楽なんだ。

とりとめのない想念がなおも渦巻く、こんがらがった頭の中を断ち切ろと、私が目を閉じて嫋々と鳴り響くソロに酔い痴れていると、突然隣で一緒に聴いていたホンダ君が叫ぶように口走りました。

「先生、もしかしてこれ、本物のチェット・ベーカーじゃないすかねえ」

 

 

 

*天才的ジャズ・ミュージシャンChet Baker(1929-1988)は、1988年にオランダ・アムステルダムのホテルから転落し、58歳で亡くなったが、その少し前の1986年と翌87年に来日している。

 

 

 

あの縁側にすわり続けている

 

駿河昌樹

 
 

空白空白あゝ おまえはなにをして来たのだと…
空白空白吹き来る風が私に云う
空白空白空白空白空白空白空白空白中原中也「帰郷」

 
 

国というものへの落胆や
さらには
絶望も
今年のお盆に
魂迎えの灯をいくつか添えるだろうか

なんといったかな、
あの小さな古いお寺は

木の乾き切った
あの祠にも
顔のすっかり崩れた
古いお地蔵様の
並びにも
まだ
だれか
花を添えているだろうか

蚊取線香を焚いて
大きな団扇を動かしているだけで
あやまちなく
人生の大道にある気がする
あの縁側に
こころだけは
いまも戻る

だれもいなくても
みんながいるような
夏のひろい庭に向かった
あの縁側に
すわり続けている

 

 

 

サウンド・オブ・サイレンス

 

今井義行

 
 

アメリカにはポールサイモンがいた
いまだって いきてるって?
いまだって 在るのは〈 The Sound of Silence 〉です
〈 沈黙の音 〉ですか そんな現代詩の題みたいな曲が
よく全米No 1になったな
1966年の 出来事だった──・・・・・・

わたしは、まだ小学校に入っていなかった

In restless dreams I walked alone
そわそわした夢の中、僕は独りで
歩いていた

Narrow streets of cobblestone
石畳の狭い通りをね

Neath the halo of a street lamp
街灯の明かりの下

I turned my collar to the cold and
damp
僕は街の寒さに襟を立てた

When my eyes were stabbed by
the flash of a neon light
僕の目にネオンの光が飛び込んだ

That split the night And touched
the sound of silence
それは夜を切り裂き、「静寂」に
触れたんだ *ネットより、引用

わたしも「静寂」に触れたその時々に
ガラス細工の鳴るような音を聴いたものだった
〈 The Sound of Silence 〉
来し方を顧みれば
わたしは 3度 結婚を考えたことがあった
そのひとつひとつの出逢いが終わるまぎわに
ガラス細工の鳴るような音を聴いたのだった

月曜日のデイケアは
フリーテーマの ミーティングの日で
その日のわたしは こんな発言をした

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

●私事でひと月ほどデイケアを休んでいましたが、今日から
週3回のペースで復帰いたします。また、よろしくお願いいたします。
●このひと月の間、何をしていたかと言いますと、
フィリピンに滞在していました。2016年にFacebookで知り合って、
事実婚状態にあったフィリピン人女性を日本に招くためのビザの申請の為です。
結果は、これで3度目の「不許可」となりました。
●今回、日本語で交渉したいと思い、日本人が経営するエージェンシーに
ビザ申請代行を依頼しました。
彼女がシングルマザーであることは承知していましたが、
提出書類から、彼女が今現在もまだ結婚していることが判りました。
11年間、元夫との結婚の解消手続きが為されていませんでした。
●わたしが無職で生活力がないとうことが「不許可」の原因かもしれません。
本当の所はわかりません。
彼女は大変良い人で、わたしに対して常に優しく接してくれました。
しかし、これでは、将来的に、日本で一緒に暮らすのは無理である、と
判断して、帰国後、関係を清算しました。
これまで、スマホに蓄積されてきた写真など、大量のデータの削除などを
行いました。そんな時、むなしいこと、この上ありませんでした。
わたしは、身寄りも友人も、殆どありませんので、
スマホを携帯していること自体、意味が無くなってしまいました。
●お酒に関する話題に移ります。
フィリピン滞在中から、いま現在に至るまで、
HALT(Hungry,Angry,Lonely,Tired)の4つの条件がすべて揃ってしまう
瞬間に襲われることが、しばしばでした。
しかし、それでも、飲酒欲求は全く湧いてきませんでした。
何故なのかと考えをめぐらせてみますと、「自分は、もうこれ以上、
最低の人間にはなりたくない」という気持ちが強いからだと思い当たります。
●正直なところ、「人間を、もう辞めてしまいたい」という、
烈しい希死念慮にも、しばしば憑りつかれています。
けれど、それを実行してしまって、周りの人達にまた多くの迷惑をかけ、
本当に、最低最悪の人間になるわけにはいきません。
苦しくても、これからのデイケア参加を通じて、
生活の立て直しを図ろうと考えています。
●わたしは55歳になりました。まだまだ、人生は続いていきます。
しかし、何のために生きていくのか、と考えると、何も思い浮かばず、
ただただ、途方に暮れてしまいます。
断酒生活は継続できるかもしれませんが、ただそれだけで、
やがて高齢の障害者となっていき、ひっそりとこの世から消えていくのかと
思うと、本当にさびしい限りです。

何のために生きていくのか
3度目に結婚を考えたその彼女はルソン島ブラカン州のPasayoという
住宅街の持ち家で
朝から褐色の腕に刷毛を持って壁に白いペンキを塗っていた

彼女は自分の褐色の肌を「醜い肌」だと言い
わたしの肌を「白くて綺麗」といつでも言った
そして 家の中も 執拗に白く染め上げていた

何のために生きていくのか
暮らしを白く染め上げていくためではない──・・・・・・
と わたしは思った
さまざまな色の日々を味わいたいとわたしは思った

「扉が真っ白になったわ」と
彼女はソファーに横たわっているわたしを見て微笑った
彼女の褐色の鼻に白いペンキが付いていた
「ミルク色の生活だわ」
彼女は完璧主義のカソリック教徒 そして
日本へ行ってわたしと暮らすことを強く願っていた
そんな彼女がなぜ前婚未解消なのか
わたしには不思議でならなかった
その一方で 健やかなる時も病める時も
手と手とを繋ぎあっていくような 一夫一婦制が
わたしには 足枷にも感じられた
そして 彼女のビザの申請が「不許可」となった時
わたしは、ガラス細工の鳴るような音を聴いたのだった

I want to be free in Japan

帰りの飛行機の中から
遠ざかるフィリピンの島々を眺めながら
わたしは、わたし
つがいには成れないと 思ったのだった
途方に暮れる と しても、ね。

アメリカにはポールサイモンがいた
いまだって いきてるって?
いまだって 在るのは〈 The Sound of Silence 〉です
〈 沈黙の音 〉ですか そんな現代詩の題みたいな曲が
よく全米No 1になったな
1966年の 出来事だった──・・・・・・

わたしは、まだ小学校に入っていなかった

わたしは 3度 結婚を考えたことがあった
そのひとつひとつの出逢いが終わるまぎわに
ガラス細工の鳴るような音を聴いたのだった
と わたしは、記した。

 

 

 

盆踊り大会

 

みわ はるか

 
 

「久しぶりに地元の盆踊り大会に行かない?花火もあるって!」
数年ぶりに幼馴染から来たメールだ。
「いいね。うん行くよ。確か変わってなければ役場からシャトルバスが出てるはずだからそれで行こう。」
わたしはすぐに返信した。
送信ボタンを押し終えると数年ぶりに会う彼女のことを考えた。
どんな人になっているだろう。
そして自分はどんな風に見られるのだろう。
色んなことを想像しながら、さて、自分は何を着ていこうかなとクローゼットの中の服を思い浮かべた。

8月15日はわたしの故郷の盆踊り大会が開かれる日だ。
雨が降ろうが風が吹こうが必ずこの日だ。
よっぽどのことのがない限り最後の花火まで強行突破される。
延期はない。
ドーム状の形をした舞台では遠方から招待した少し有名な人たちが踊ったり歌ったりする。
メイン会場の中央ではみんなが輪になっててぬぐいを持ちながら踊る。
屋台もたくさん出るけれどわたしの一番のお気に入りはきらきら光るブレスレットやイヤリングを売っていたお店。
それを身に着けると不思議と心はうきうきしてその日だけ特別なお姫様になったような気分だった。
その魔法は残念ながら次の日には消えてしまうのだけれど・・・。
もともとコテージが周りにはたくさんあったので遠方からの人もそこそこ来ていた。
湖が売りだったため山々に囲まれたそこはとても静かで落ち着いた場所だった。
打ち上げる花火が空だけでなく湖にも映って鏡のようになる瞬間、それは本当に美しかった。
今まで何ヵ所かで花火を見たことがあるけれど、今でも故郷の花火が一番きれいだと信じている。

急いで車を走らせて役場に着くともうその友人は到着していた。
栗色に染めたきれいな髪の毛に少しパーマをあてポニーテールでまとめていた。
白い無地のワンピースは彼女の肌の白さを際立たせていたしとてもよく似合っていた。
眼鏡屋さんのショーケースに入っているようなものすごくおしゃれな丸眼鏡には思わず「それ度は入ってるの?」と突っ込んでしまった。
「入ってる、入ってる!ボーナスで思い切って買ったんだ!」
聞いた値段に本当に驚いたけれど、ケラケラケラケラ笑う彼女は昔となにも変わっていなくてほっとした。
シャトルバスの中でも会場でも色んな話をした。
仕事のこと、両親のこと、兄弟のこと、友人のこと・・・・・・。
話す内容は子供のころとはまるで違ったけれど(当たり前なのかもしれないけれど・・・)彼女は前向きだった。
確か大人になって久しぶりに会ったのは共通の友人の葬儀だったと記憶している。
同級生を若くして亡くした、
一緒に校庭を駆け回ったやんちゃな子が今では2児の母になった、
上京して見上げると首が痛くなるほど上の方のビルの中で仕事をしている元生徒会長、
農家の長男として大根やにんにく、じゃがいも、白菜、人参と丁寧に丁寧に育てている人、
東京で少しは名の通るイラストレーターになった人(アニメの最後のエンディングでその子の名前を見つけた)、
一度は遠い土地に嫁いだけれど出戻った人。
わたしたちの間で時は過ぎた。
なんだか少しさみしかった。

無事に最後の花火まで滞りなく終わった。
昔見た花火と変わりなくきれいだった。
あの短くもなく長くもない時間がちょうどいい。
最後にうちわの抽選会がある。
これは事前に番号が書かれたうちわが各家に配られていて、会場でそれを見せると登録される。
最後にその登録された番号の中から抽選で数十人に景品が配られるといった仕組みだ。
今年は5等ティッシュボックス、4等洗剤、3等正方形の箱だったけれど中はよく分からなかった、2等扇風機、1等バーベキューセットであった。
1等が当たったらやっかいだなどうやって持って帰ろうと考えていたが当たるはずもなく杞憂に終わり、本当に欲しかった扇風機にもかすりもせず、
5等のティッシュボックスさえもらうことができなかった。
「まあ、こんなもんだよ~。」
ケラケラケラケラと洗剤の箱をかかえた彼女は笑っていた。
最後売れ残りを防ぐために1パック100円になった屋台のから揚げを買いに彼女は一目散に走って行った。
明日の昼ごはんのお弁当のおかずにするそうだ。
にこにこと戻ってきた彼女は満足そうだった。

帰りのシャトルバスを降りる直前彼女は言った
「少しゆっくりしようと思う。尾道から今治にサイクリングロードがあってさ一人で旅しようと思う。」
それは相談ではなく報告だった。
決意表明にもとれた。
彼女は近い未来にきっと実現するだろう。
無責任なことは言えないけれど応援している。
彼女なら大丈夫、なんだって大丈夫。
わたしが出会った中でも5本の指には入るスーパーポジティブな人だから。

 

 

 

麦子の絵の具

 

塔島ひろみ

 
 

麦子はピンク色のパンを焼く
ピンクの空に緑色の雲が浮かび
淡い紫の月がかかっている
黄色い風が吹いて、青いものたちが寝そべっていた
大きな 壁のような一枚のパンが麦子の世界だ

これがお子さんの見ている世界ですよ
と、インストラクターの女性は言って、私の顔にメガネをかけた
遠くのものは見えてないです、とも言った
その色鮮やかな世界に、私の知っているものは何も見えず、
娘もいない

鮮やかな食パンの断面にバターを塗り
娘と食べる
ピンクの空の味がする
と言うと、「違うよ」と言われた

パンが小さくなってくると、後ろ側によく晴れた東京の空が見えてきた
安っぽい、ウソくさい、私の大好きな、大切な、真夏の東京の青空だ
焼くことも食べることもできない、
触れないそれ
空っぽのそれ
を横切って、
こんな季節にユリカモメが1羽、飛んでいる

自分の空ではない、北緯35度44分の灼熱の空を
ユリカモメがたった一羽で飛んでいる

麦子は今日もパンを焼く
真紅のクロワッサンを焼いている
バラみたいだね、と言うと、「違うよ」
と言って、パンをちぎっては庭にまき
ドクドクと水色の絵の具をこぼした

鳩、カラス、鳥たちが水色の庭に降りてきた
娘のパンをついばんでいる
カモメもきた
麦子は一心にパンをまく
いつのまにか鳩も、カラスも、カモメも、娘も
口先が真っ赤に染まっている

手を延ばすと鳥たちは バタバタと一斉に飛び立っていく
弧を描きながら、空に向かって飛んで行って、
私の世界から消滅した

視線を戻すと
娘もいなくなっている

 
 

(2018年8月7日 東京視力回復センター船橋で)

 

 

 

さとう三千魚さんの詩集「貨幣について」を読みながら

 

佐々木 眞

 
 

今月の20日、すなわち2018年8月20日にさとうさんの最新詩集が出版されました。
「浜辺にて」という632ページもある大著が出たのが、昨年の5月20日でしたから、このペースは驚きに近いものがあります。

この間、さとうさんはリーマンを辞めて郷里に戻り、「詩人になる」と宣言されていますから、余人には窺い知れないが、心中深く期するところがあったのでしょう。

彼は極力難解な言葉を避け、誰にもわかりやすい簡素で平明な言葉を用いて、自分の世界を言い表そうとしています。それはおそらく、これまでのいろいろな試行錯誤の果てにつかみとった彼のやり方なのでしょうが、自分の思想と詩法に、よほど自信がないとできないはずです。

それからさとうさんの詩集には、毎回必ずといっていいほどテーマがあります。
前回の「浜辺にて」では、英語の基本的な単語を、自分の頭と暮らしの中で噛み砕いて、それを創世記のように再定義する、という離れ技に挑戦しておられました。

今回は、彼が親炙する画家の桑原正彦氏から提示された「貨幣」というテーマに依って、貨幣のあり方と本質を考えようとして、この思索的な連作詩が書かれたようです。

従って本書を読む人は、おのずから貨幣についての思索を余儀なくされることになるでしょう。ちょいとばかり難儀なことですが。

私はこれまで「貨幣」について考えたことなんか一度もありませんでしたが、さとうさんが巻末に挙げている経済学者の岩井克人さんの、貨幣についての講演を、むかし耳にしたことを、はしなくも思い出したので、その折りのメモを頼りに自分なりの貨幣についてのヴィジョンを尋ねたいと思います。

その夜、岩井さんは、財布の中からいきなり一枚の1万円札を取りだしたので、私たちは、「あ、1万円だあ」と思って目の色を変えました。この場にヤギがいたら、もっと目の色を変えたことでしょう。

ヤギは、これは食べると美味しい紙だと思っているから、ウメエーと鳴いて、目の色を変えますが、私たち人間は、これが単なる紙切れだと思いながらも、それでいろんな本や服や食べ物を買えるので、値打ちがある紙だと思っています。

しかしそれが偽札でなくても、本当に値打ちがあるかどうかは、日本銀行、またの名日本国でも、100%保証しているわけではありません。たとえば子供が1円玉を1000個集めて銀行に持って行った場合、銀行は20個以上の1円玉を「お金じゃない」と言って拒否することが法律上できるそうです。

岩井先さんによれば、昔から有名な「和同開珎」とか「皇朝十二銭」とか、政府がいろいろなお札やお金を発行してきたけれど、いくらお上が躍起になって命令しても、お金として使われなかった例がいっぱいあるそうです。

お金は単なる紙切れだから、物としての価値はない。
では、なんでそんな吹けば飛ぶような紙切れが、絶大な価値を持つかというと、岩井さんは、「すべての人がこれを価値あるものと認めているから価値がある」と仰るのです。

ふーむ。これこそ貨幣がひそかに内蔵している逆説的な魔法だな、と、そのとき私は思いましたな。

もしも私が、これは1万円ではなく、福沢諭吉の肖像が浮き彫りになっているただの紙切れだと喝破し、それと同じように私の隣の人も、そのまた隣の人々も、次々に裸の王様を見るような目で見るようになれば、その瞬間に夢は破れ、大いなる共同幻想はドドンと崩れおちてしまう。

もしかすると、現世秩序のすべてが!

それから岩井さんは、貨幣と同じように、言葉も、すべての人がこれを価値あるものと認めているから価値がある存在なのだ、と厳かに付け加えられました。

この詩集の「あとがき」で、さとうさんは、「詩は貨幣の対極にあるものです」と宣言されていますが、もしかすると、貨幣も詩の言葉も対極にあるものではなく、きわめて近しい関係にあるのかもしれませんね。

ふと見れば、岩井先生の小太りの姿が、どこにも見当たらない。

アッと叫んで私たちが、窓の外を見ると、先生はいつのまにか銀座8丁目の高層ビルヂングの10階を飛び出した先生が、本物とも偽物とももはや見分けがつかなくなった万札を盛大にばら撒きながら、満天の星が輝く銀座通りの上空を、フクロウと一緒に楽しそうに飛び回っておられるのでした。

 
 

注 文中の岩井克人氏の言葉は、2004年に行われた「資生堂ワード」講演会におけるメモに基づいて自由に作成されているが、ラストの行動は、ある参加者の幻視に基づくものである。