強風

 

正山千夏

 
 

強風に逆らって
自転車で坂道をくだる
ことに熱中していたら
いつのまにか
よくわからないところに
出てきてしまった

色とりどりに咲くさるすべり
白赤ピンクの美しさに
泣けてくる
熱風吹きすさぶなか
痛む左胸に手をあてて
直射日光に焼かれる夏
 

芝生に寝転んで空をながめた
強風だからか
つぎつぎと湧きあがっては
流れていく大きな雲は
まるで海の上を行く船のよう
私を乗せて猛スピードで
どこかへ走り去っていく

はだしで芝生の上を歩けば
足の裏 じかに地球の感触
それが触発するのか
深い深い海の底から
なぜだか湧きあがる想い
もまた強風で
どんどん吹き飛ばされていく

 

 

 

無い地の内地

 

ヒヨコブタ

 
 

ある日突然歩いていく方向が見えなくなる
ときがある
こころに刺さって抜けない刺をどうしたらいいかわからぬ日もある
それでも立ち止まらぬよう陽をよけて歩き
とぼとぼと
ぽとぽとと

思い出すことに救われる日もある
懐かしさが温もりのみのこともある
その真逆のときは
静かにしていようか

かつて故郷で内地と呼んだこの島は
かつての彼らには「無い地」だったのかもしれぬと思う
戻れぬ故郷を
戻らぬと決意して歯をくいしばったひとたちを
ときおり思う

そのひとたちの多くをわたしは知らず
僅かな情報は辿りたいと願った一部のことしか伝わらなかった

わたしは

どこにでも行けるのだろう
じっさい
どこにも行かなくとも

可能性という文字に放心し
戸惑いなぜかとぼんやりする日々に

思い出せる温もりは
明日に繋がると信じてきたんだ

現実にそうでなくとも
現実が醜く目を背けたくとも苦しすぎることも

繋がれた何かのさきにわたしがたまたまいる
どこの未来の命にも繋がらぬわたしが

 

 

 

愛はかげろうのように

 

今井義行

 
 

愛はかげろうのように
・・・・・・・わたしの 好きな 歌なのです。

美しい旋律が広く知れ渡っているので
祝い事にも多くながれるようだけれど。
世界中を彷徨いめぐり幸福もあったが
とうとう自分を掴む事はできなかった
と、締め括られるこの曲・・・・・・・
高級娼婦の回顧のかたりになっており、
哀しみを哀しくかたる儚いシャンソン
も佳いのだけど。この孤高の一曲には
およばないのではないか。
モータウン初の、白人シンガーによる
ものでもある。

愛はかげろうのように
・・・・・・・わたしの 好きな 歌・・・・・・・。

自分を、掴まえなくてはならない
と いうことはない と 想うよ

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

まばたきをするだけでも 脂あせをかいた猛暑は過ぎて
デイケアルームの空調の設定も変わった

「午後のプログラムです」

作業療法士さんによる
作業療法が はじまる

(今日、突然 メガネが 割れてしまったら どうしよう──)
(今日、突然 冷蔵庫が 壊れてしまったら・・・・・・・・・・)

「サインバルタカプセル」20mg×3と
「リフレックス錠」15mg×3で、
日々の焦燥感を乗り越えているンだ、わたし

「今日は、お酒にまつわることを内容に含めて
子どもたちを対象にした
短い授業を 作文にしてください
そして、それを 参加者を
子どもたちに見立てて 発表してください
設定場面は それぞれの自由です
質疑応答は 無しとします」

デイケアルームは「えー、原稿用紙に鉛筆で
作文を書くなんて何年ぶりだろう」と どよめいた

わたしを含め 皆、それぞれにスマホで
漢字を調べ始めたりした

わたしは、鉛筆で原稿用紙に向かいあい
制限時間の20分で作文を書いた
それは、詩の手紙のような 形になった

わたしの順番が訪れて、コの字型に並べられた
机の真ん中で わたしは短い授業を読み上げた

『設定/小学校6年生を対象にした
某クラスの部屋』です。

こんにちは。わたしは、イマイヨシユキと言います。55歳です。
わたしは、お酒で体を壊してしまった人が通う、病院から来ました。
みなさんのお父さんやお母さんは、お酒を飲みますか。
お酒が原因でお父さんとお母さんがけんかをしたりして、
悲しい思いをしたことはありますか。
みなさんが大きくなっていく中で、これから、いろいろ、
やってみたいことが出てくると思います。
スポーツ選手になってみたいとか、お店をやってみたいとか、
世界中を回れるようなお仕事をしてみたいとか・・・・・・・。

わたしは、小学生の頃から、文章を書くことが好きでした。

大人になったら、文章を書くお仕事につきたいと思っていました。
わたしは、大学を卒業した後、出版社に入りました。
けれども、会社員というお仕事になじむことができずに、
会社ではたらきながら、自分の気持ちを、詩に書くようになりました。

そして、27歳のとき、はじめて詩集を出して、
わたしは、詩人になりました。

詩人は、お金が稼げないので、
会社ではたらきながら、詩を書き続けました。
とても、しあわせな気持ちでした。
けれども、会社のお仕事をあまりしないで、
お仕事の時間にも、詩を書いていて、
そのことが、会社の人たちに、知られるようになりました。

ある日、わたしは、会社の人に呼び出されて
「あなたは、会社の役に立っていないから、やめてください」と言われました。
わたしは、46歳のときに、会社をくびになりました。

わたしは、その後も、自分の仕事は詩人だと思って、詩を書き続けました。
そのことと同時に、前から好きだった、お酒を飲む量もどんどん増えていきました。
そして、とうとう、お酒で体を壊してしまいました。

詩を書くことや、お酒を飲むこと。
わたしは、自分の好きなことだけを続けてきて、
体を壊して、貧乏にもなり、55歳になりました。
わたしは、わたしの今までを振り返って、何の後悔もありません。

けれども、これから小学校を卒業して、巣立っていくみなさんに向けて、
好きなことだけを一生懸命、続けていってください、と
伝えることが出来ないのが、残念で、苦しくなってきてしまいます。

わたしは今、お酒をやめていて、健康は回復してきました。

今までに、8冊の詩集を、出しました。
わたしが死んだ後、どこかで誰かが、
わたしの詩を見つけてくれるかもしれません。
そんなことがあったら、とてもしあわせです。

わたしは、みなさんに、このようなお話をしましたが、
でも、みなさんが大切にしていることは、
もちろん大切にしていってください。
健康を大切にしながら、
どうぞ、素敵な人に成長していってくださいね!

(今日、突然 水道が 溢れてしまったら どうしよう・・・・・・・・・)

「サインバルタカプセル」20mg×3と
「リフレックス錠」15mg×3で、
日々の切迫感を乗り越えているンだ、わたし

(リプライズ)

愛はかげろうのように
・・・・・・・それは、わたしの 好きな 歌なンです。

美しい旋律が広く知れ渡っているンで
祝い事にも多くながれるようだけれど。
世界中を彷徨いめぐり幸福もあったが
とうとう自分を掴む事はできンかった
と、締め括られるこの曲・・・・・・・
高級娼婦の回顧のかたりになっており、
哀しみを哀しくかたる儚いシャンソン
も佳いンだけど。この孤高の一曲には
およばないンではないか。

自分を、掴まえなくてはならない
と いうことはない と 想うヨ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

自分を、掴まえなくてはならない
と いうことはない と 想うンダヨ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

目の前の律動

 

辻 和人

 
 

ピョタッ
白い体が
空気を抉って
ピョコタッ
もう1回
抉って
やっと
進んでいる
レドだ
白くて丸々
白くて丸々
レドと言えばそんな猫だ
それがどうだ
丸々してたものの
白い影みたいじゃないか

「レドちゃん、大変なことになっちゃって。
外から帰ってきたら右の後足びっこ引いてて、
おしっこもしないのよ。
びっくりして獣医さんのところに連れてったら、
しっぽの付け根の骨が折れてて、
脊髄が傷ついてるんだって。
それでおしっこできなくなってるんだって。」

母からの電話で実家に急行
何でも
父が庭に出た隙を突いて外に飛び出してしまった猫たち
ファミは1時間くらいで戻ってきたけど
レドはずっと戻らず
翌朝ベランダに佇んでいたレドは
ピョタッ
ピョコタッ
左後足を引きずる姿になってたって
しっぽも垂れたままだって
事故に遭ったらしいんだけど
自動車なんて滅多に通らないところだし
誰かに乱暴された可能性もあるって

早朝獣医さんの近くのバス停で父と待ち合わせ
キャリーの中のレドは
目ばかり大きい
ヒュオーン
聞いたことのない高くひん曲がった声だ
名前を呼ばれ診察室に入る
台に乗せられたレドは観念したようにおとなしい
かつて丸々していたものの
白い影
ピョコタッ
固まった

優しそうな女医さんがカテーテルでの排尿の仕方を教えてくれる
1人が体を押さえてペニスから尿道を飛び出させ
もう1人がカテーテルを通す
猫のペニスは
小さい小さい
尿道は
細い細い
え、こんなトコに通せるの?
何度やってもカテーテルの先が尿道とすれ違う
ヒュオーン
見かねた女医さんが代わってくれた
あっという間に黄色い液体が管を流れる
注射器で3回と半分
昨日の昼からだから溜まってたんだって
最初は難しいけど慣れるとできるようになるって
それまで大変だけどここまで通ってきてって
優しそうな女医さん
レドの頭を撫でながら
おしっこを自力で出すのはもう無理だって

帰ってキャリーから出す
ピョタッ
周りの空気を
抉って、抉って
ピョコタッ
やっと
進んでく
柱に白い影みたいな体をスリスリ
キャリーから出られて良かったって
家に戻れて良かったって
そら、我慢したご褒美にお姫様だっこだぞ
お腹撫で撫ですると
首筋うぃーんと伸ばして目を細く
おおっ、いつものレドだ
喉元いっぱいマッサージ
首を軽く左右に振って振って
もっともっと
おおっ、いつもの甘えん坊のレドちゃんだぞ

床に下ろすと
きりっと目を上げて
お気に入りの冷蔵庫の上に飛び上がろうと
ガキッ
あらら
足台にしようとした棚から転げ落ちちゃった
痛そー、ややっ
ピョタッ
すばやく起き上って
ピョコタッ
後足引きずり引きずり
今度は押し入れの前へ
2番目にお気に入りの場所だ
ここもちょっと高い位置にある
戸を開けてやろう
動く方の後足を
踏ん張って踏ん張って
頭を微妙に上げ下げ上げ下げ
ピョタッ
飛び乗った
ピョコタッ
前足に力を入れて下半身を引き上げた
成功だ
ピョタッ
ピョコタッ
奥に進むと
ふにゅっとまあるくなって
爪を舐め舐め
すると
何?、何?って感じでファミがやってきて
ヒョコッ
押し入れに身軽に飛び乗り
レドの隣に座った
並んで一緒に舐め舐めだ

無抵抗の猫を棒で殴りつける奴
そんな奴が近くにいるのかもしれないんだって
自分より弱い奴が苦しむのを
楽しむ奴がいるかもしれないんだって
ゾッとする
けどけど、実は
レドは家では甘えん坊だけど外に出れば乱暴者の猫でさ
庭に迷い込んだよその猫を追い回して
ケガをさせたことがあるってさ
あんまり力を入れて相手を噛んだものだから
前歯が1本折れちゃったくらいでさ
今回も他の猫と大喧嘩して
そいつはやられてる方の猫に加勢しようとしてレドを叩いたかもしれないさ

そんなことより
そんなことより

目の前だよ
ピョタッ
ピョコタッ
ピョタッ
ピョコタッ
ひと眠りを終えて押し入れから這い出てきた
影じゃない
白い体が
空気を抉ってる
エサ用のお皿をチラ見して
空っぽなのを知って
フゥーン
短く鳴いた
自力でおしっこはできないが
食欲はあるんだって
抱っこされれば
首筋伸ばすんだって
冷蔵庫に上るのをしくじったら
押し入れに上るんだって
ピョタッ
ピョコタッ
拍子にちょっと間が空いているのがいい
空気を抉って
抉って
やっと
進んでる
よし、猫缶取ってきてやろう
腰を上げると
気配を察してついてきたレドが
目の前で生み出す律動
ピョタッ
ピョコタッ
目の前だ

 

 

 

家族の肖像~親子の対話その31

 

佐々木 眞

 
 

 

「わろてんか」、好きですよ。
そうなの。
しりとりしよ。わろてんか
か、か、かりんとう。

それから、ってなに?
そのあと、だよ。

震え上がるの、嫌だお。
そう。お父さんも。耕君、震えあがったの?
おれ、震えあがったよ。
って、誰が言ったの?
スネオだお。

お父さん、わかちあうって、なに?
分け合うことだよ。

台なしって、なに?
なにもかも、むちゃくちゃになることよ。

関係って、なに?
こっちとこっちの間のことよ。

メイサ、怒っちゃったよ。
なんて怒ったの?
「オトナ高校」で「このクソジジイ」って。

お母さん、要望って、なに?
お願いすることですよ。
ヨーボー、ヨーボー。

自信無くしちゃ、ダメでしょう?
そうよ。

わたしオダカズマサです。
こんにちはオダカズマサさん。
お母さん、オダカズマサ印刷して。

お母さん、ぼく「おんめさま」すきですお。
そう、お母さんも。

これヤブコウジですか?
これはヤブコウジじゃなくて千両
ぼく千両万両すきですお。
お母さんもよ。
ヤブコウジ、どこにあるの?
玄関の外よ。
ぼくヤブコウジ好きですお。
ヤブコウジ、いいよね。

お父さん、ムは無理のムでしょ?
そうだね。

箱根登山鉄道、山に向って登りますよ。
そうだね。

お父さん、ハズレってなに?
当たらないことだよ。

ぼく、ニワトコ好きです。お母さん、ニワトコ、ない?
ないの。昔庭にあったんだけどね。

ぼく、ウラジロ好きですよ。
お父さんも。

ひとめぼれ、一目で好きになることでしょ?
そうだよ。
お母さん、圧倒的って、なに?
ものすごい、ってことよ。

お母さん、魂ってなに?
心の中にあるものよ。

お父さん、ぼく、セゴどん好きですお。
お父さんも好きだよ。
セゴどん、セゴどん、セゴどん

エレベーター、扉に触れたらいたいでしょ?
そうだね。
エレベーター、下がって扉に触れないようにします。
そうしようね。

ひたい、オデコでしょ?
そうだよ。

果てしないって、なに?
どこまでも、いっぱい続いていくことよ。

しまった、って失敗したことでしょ。
そうだよ。
しまったあ。

ぼく、この音楽、好きですお。
えっ、都はるみの「北の宿から」だよ。
ぼく、「北の宿から」好きですお。

ぼく、この音楽好きですお。
え、「北酒場」だよ。
ぼく、「北酒場」好きですお。

お母さん、ぼく、回り道すきだお。
そう、お母さんも。

自信なくしちゃだめでしょ。
そうだよ。自信なくしちゃだめだよ。

お母さん、ことしジュンサイ買ってね。
買いましょうね。
お父さん、ハスはジュンサイに似てるでしょ?
似てるね。

お母さん、いきおいってなに?
早いことよ。

お父さん、ぼく、ソナタ好きですよ
じゃあ、ソナタ弾いてよ。
嫌ですお。

お母さん、スポンサーって、なに?
お金を出す人よ。

ユウちゃん、なんで泣いたの? しんどいからでしょ?
そうね。

ぼく、キャップ、好きですお。
キャップ、ふたでしょ?
そうだよ。

ぼく、キャップの仕事やります!
あんまり頑張り過ぎないでね。
はい、分かりました。

とっておきって、なに
とても大事にしているものよ

 

 

 

入院記

 

須賀章雅

 
 

墓参りに行かなければならないと考えていた。田舎にある父母の墓へ一度線香をあげに行かなければなるまい。最近のわが不調、この数年の低落ぶり、没落ぶりは長いあいだ両親の墓を放ったらかしにして荒れるにまかせてあるのに起因するのかもしれぬ、もとより信仰心などなく、墓参りで人生がいささかなりとも上向くのであれば、一日無駄にするのも後々意味があると思うような恩知らずの親不孝者が一念発起、旅費捻出のために無理をして倉庫で日がな一日、ただ黙然と中身の分からぬ箱を積み上げる日雇い仕事をやり、入った徹夜明けの水風呂が良くなかったのか、左腕が痺れ始めたかと思うと胸に激痛が走り、それはこれまでの生涯でかつて経験した覚えのない甚だしい痛みであり、堪えているうちにさらに痛みは激しくなり、鏡を見ると顔は緑色の怪人に変身しており、とりあえず這いつくばりながら身支度をして思案にくれていたが次第に呼吸をするのも苦痛となり、墓参りはまたの機会にしてまずは現在のこの狂おしい症状から解放されんがために病院へ行ってみようと決心し、水槽の中でのほほんと眠る同居者、一匹のゲンゴロウに、ちょっくら行ってくるわ、と力なく挨拶してから真夏の午前の眩しい屋外へ出てふらふらと歩み出し、電柱に凭れかかりながら片手を挙げてタクシーを拾い、何処でもいいから病院へ一刻も早く、と頼んでシートに倒れ込んで目を瞑ったのであるが、今度は沸き起こる痛みのために、ぐおおお、だの、うえええ、だの、もももーん、だのという叫びが口から上がるのを如何ともしがたく、これはきっと死ぬ、自分の存在はこれで終わる、と覚悟をし始めた辺りに到着した病院では、七人のナースたち(後から知ったことであるが皆うつくしい女たち)に取り囲まれてたちまち服を脱がされ裸にされて、なぜか剥がされなかったTシャツを捲られ、胸部に線のついたあまたの吸盤を貼り付けられ、口中にスプレーを噴射されて、「口閉じて、鼻で呼吸して」と命じられるままにすると胸の痛みはなんとか収まってくれたが、今度はストレッチャーの上で剃毛され排尿用の管をぐりぐり押し込まれて、あまりの痛みと恥辱にのたうち廻って咆哮すると、ええい、静かにおし、男らしくなさいってば、と命じる女の声は失踪した妻そっくりであり、局部麻酔をかけられて、右脚の腿から血管を通じて心臓に達する管を挿入され、左腕に点滴の管三本、鼻の穴に酸素吸入の管を取り付けられた頃には意識が遠のいてゆき、かようにしてめくるめく入院生活が始まったのであるが、私は雪の夜を駆けるウマとなり故郷D市のクラス会へ出向いたり、花火の上がる夜の病室の窓に燃え上がり溶けるヒマワリになったりしてなかなかに多忙であって、中年の眼鏡をかけた蛙を思わせる医師が喜びを隠そうともせずに説明するには、私の症状は「詩的冠攣縮性狭心症」である由で、酒煙草はもちろんタブーであるが、あなたの場合は詩を書くことが心臓の冠動脈という血管に大変な負担になっている実に特異なケースで詩はもう止めた方がいいでしょう、と診断するので、そういえば生活を顧みずに詩などにウツツを抜かしているうちにいつしか妻もいなくなり、田舎へ墓参りの算段もつかなくなってしまったのであるよなあ、と柄にもなく神妙な気持になっているところへ、トマコマイにいる兄が父と母を連れて見舞いに現れ、昔はずいぶんと夫婦仲の悪い二人であったのになあ、と懐かしさも一入なのであるけれど、珍しい症例として今しばらくの滞在を医師から請われている詩を書く男は保険にも加入しておらず、かといって現金もなく、今回の支払額が如何ほどになるかを想像すると胸に鋭い痛みが走るのを覚え、それから今や唯一の家族と云っていい存在である孤独なゲンゴロウの安否が天井から下がる重たげな雲の中、にわかに気になってくるのだった……

 

 

 

電話

 

佐々木 眞

 
 

ルルルルルル
もしもし。こちら、ササキさまのお宅で、よろしかったでしょうか?
なぬ。
ササキさまのお宅で、よろしかったでしょうか?
なんじゃと。よろしかったでしょうか、じゃと。よろしくなんか全然ないぞ。
あのお、どこがよろしくなかったでしょうか?
あのなあ、お前さんの日本語は、てんで日本語じゃあないぞ。そもそも、お前さんは誰だ。
は、はい。大変失礼いたしました。エーユーのヤマダと申しますが。
そうか、携帯会社のエーユーのヤマダヨ君か。それじゃヤマダ君、あんたに「こちらササキさまのお宅でよろしかったでしょうか?」と電話で言えと教えたのは、どこのどいつじゃ?
は、はい、私の上司のキタジマですが。
そうか、それじゃあ、上司のキタジマ君を出したまえ。
上司のキタジマは、ただいま外出させて頂いておりますが。
それそれ、それが良くない。おらっちが頼んで外出したんじゃなくてそっちの都合で外出したんだから、「上司のキタジマは、ただいま外出しております」でいいのら。
「上司のキタジマは、ただいま外出しております」
そうそう、それでよろしい。それはともかく、上司のキタジマくんが帰社したら、よーく教えてやれ。いいか、そういうときには「わたくしエーユーのヨシダと申しますが、ササキ様のお宅でしょうか?」と尋ねるんじゃ。
そ、そうなんですか。大変失礼しました。
そうすれば、はじめておいらも、「はい、ササキですよ」と答えれる、じゃなくて、答えることができるのよ。
ははあ、そうなんですか。
ご一新の昔から、そうに決まっておる。
ははあ、ご一新ですか。大変失礼いたしました。
失礼は許してやるから、もういちど最初からやってみよ。まずおらっちがベルを鳴らすから、お前さんはそのあとに続けるんじゃ。ええな。
ルルルルル………。もしもし、どなたじゃな?
は、はい、えーと、わたくしはエーユーのヤマダと申しますが、こちらはササキさまのお宅でしょうか?
おお、よしよし、やればできるじゃないか。それじゃあ、これからうちに電話する時は、おらっちがいま教えた通りに喋ってくれ。そしたら諸事万端うまくいくからな。
はい、承知いたしました。いろいろご迷惑をおかけしました。
うむ。よろしく頼むよ。じゃあな。
ありがとうございます。それでは失礼します。
ガチャン。

ルルルルルル
もしもし、こちらササキさまのお宅で、よろしかったでしょうか?
なぬ。
ササキさまのお宅で、よろしかったでしょうか?
なんじゃと。よろしかったでしょうか、じゃと。よろしくなんか全然ないぞ。
あのお、どこがよろしくなかったでしょうか?
あのなあ、お前さんの日本語は、てんで日本語じゃあないぞ。そもそもお前さんは誰だ。
は、はい。大変失礼いたしました。ドコモのヤジマと申しますが。
そうか、今度は携帯会社のドコモのヤジマ君かあ。
それじゃヤジマ君、あんたに「こちらササキさまのお宅でよろしかったでしょうか?」と電話で言えと教えたのは、どこのどいつじゃ?
は、はい、私の上司のヨシカワですが。
そうか、それじゃあ、上司のヨシカワ君を出したまえ。
上司のヨシカワですか。ヨシカワの方は、ただいま外出させて頂いておりますが。
それそれ、それが二重に良くない。いま君は、ヨシカワの方っていうたけど、君の上司にはヨシカワ君とヨシカワの方という人と、2名おるんかいな。
いいえ、ヨシカワの方は1名だけですが。
1名しかいないヨシカワなのに、なんで方がつくの? ヨシカワの方の方を取って、ヨシカワと発音しなさい。
はい、申し訳ありません。その方、以後気をつけます。
また方かいな。それからヨシカワの方だけど、おらっちが頼んで外出したんじゃなくて、そっちの都合で外出したんだから、「上司のヨシカワは、ただいま外出しております」でいいのら。
はい。上司のヨシカワの方、ただいま外出しております。

 

 

 

由良川狂詩曲~連載第26回

第8章 奇跡の日~必殺のラジカセ

 

佐々木 眞

 
 

 

ケンちゃんはしっかりと目をつむり、唇をひきしめて、まっすぐ川底へと沈んでゆきました。
全長2メートルにおよぶ飢えた巨大な魚は、双眼を真紅の欲望に輝かせながら、少年の周囲をきっちり3回旋回すると、1、2、3、4と、ストップウオッチで正確に5つの間隔を置いて、冷酷非情の鋭い牙をむき出しにして、ケンちゃんに躍りかかりました。

―――その時でした。

突如勝ち誇ったアカメたちが、頭を気が狂ったように振り回しながら、もんどりうってあたりをころげ回りました。
そのありさまは、まるで甲本ヒロトが「リンダ、リンダ」を歌っている最中に、胃痙攣の発作を起こして、渋公のステージを端から端までのたうち回ったときのようでした。

狂暴なアカメたちは、完全に理性を失い、全身を襲う激痛に耐えかねて、猛スピードで急上昇したり、かと思うと突然急降下したリして、千畳敷の大広間狭しと悶え苦しんでいましたが、とうとう自分から河底の岩盤に激突して、いかりや長介のように長くしゃくれた下顎を、普通の魚くらいの適正な長さに修整するという仕事を、この世の最後に成し遂げると、いきなり下腹を上にしてニヤリと笑ってから、次々に赤い2つの眼を自分で閉じてあの世へ行ってしまいました。

「ケンちゃーん、ケンちゃーん、ダイジョウブ? ぼくだよ。ボクですよお!」
その声にふと我に帰ったケンちゃんが、声のする方に向って、そお―と眼をひらくと、いきなりギラギラと輝く午後3時半の太陽が、まともに頭上から落ちてきて、ケンちゃんは反射的に眼を閉じました。

眼の痛みが少しとれてから、もう一度そろそろと瞼を動かすと、相変わらず強烈な太陽光線を背に、一人の少年が、ラジカセを持って立っているのが分かりました。
少年は、もう一度やさきく声をかけました。
「ケンちゃん、無理しなくていいから、そのまま寝てな。コウ君だよ。ケンちゃんのお兄ちゃんのコウだよ」
「ど、ど、どうしたの、コウちゃん?」
「コウちゃんじゃなくて、コウ君」
「ご、ごめん。コウくん。どうしてここにいるの? どうしてここまでやって来たの?」
「もちろん、ケンちゃんを助けるためだよ」
「で、でも、どうやって?」
「実はね、昨日の晩、お父さんがニューヨークから突然帰ってきたんだ。
お父さんはケンちゃんが一人で綾部へ行っているって話を聞いて、とても心配してね、昨夜ケンちゃんが寝てしまった後で綾部に電話しておじいちゃんからいろいろ取材したんだ。由良川の魚の話とか漁網の話とかいろいろね……。
それでおよそのことは分かったんだけど、どうもひっかかることがあるから、「おいコウ、お前ちょいとひとっ走り綾部まで行ってケンを助けてこい」、って、そういう話になったんだ」
「なーーんだ、そうだったのかあ。それにしても何カ月も行方不明のお父さんだったくせに、ぼくなんかよりお父さんの方がよっぽど心配だよ」
「お父さんの話はあとでゆっくり聞かせてあげるよ。それよりケン、顔じゅう血だらけだぜ。大丈夫かい? 一人で立てるかい?」
「ありがとう。もうダイジョウブ。それよりお兄ちゃん、どうして、どんな風にしてぼくを助けてくれたの?」
「うん、昨夜12時40分品川駅前発の京急深夜バスに乗り込んでね、ケンちゃんが由良川に出かけた直後に「てらこ」に着いたその足で、ここへやってきてね、それからずーっとケンちゃんのやることを見ていたんだ。
もしもヤバそうになったらなにか手伝おうと思って、スタンバッていたわけ」
「そうだったのかあ。ちっとも知らなかった。おじいちゃんもなにも教えてくれないし」
「突然行って驚かせるつもりだから、なにも言わないで、って口止めしてあったのさ。それよりケンちゃんがアカメに襲われたときは、本当にどうなることかと思ったよ」
「ぼく、アカメの尾っぽでぶんなぐられたでしょ。そのとき、こりゃあヤバイなあ、って思ったんだけど、それから先のことは、なにも覚えていないの。お兄ちゃん、どうやってぼくを救ってくれたの?」
「これだよ、これ。このラジカセが役立ってくれたのさ」
「えっ、なに? ラジカセでアカメを殴り殺しちゃったの?」
「バカだなあ、そんなことできるわけないだろう。
実はね、この前、学校の遠足で江ノ電に乗って江ノ島水族館に行ったとき、たまたまこのラジカセを持って行ったの。このラジカセ、録音もできるだろ。それでね、電車に乗る前、友達の声とか、駅の物音とか、それから踏切の信号の音とかを回しっぱなしで録音したテープに、イルカショーの現場音もついでに録音しようとしたんだけど、間違えて録画ボタンじゃなくて再生ボタンを押しちゃったの」
「へええ、そうなんだ」
「そしたら、会場全体に小田急の踏切のカンカンカンという警告音が鳴り響いたもんだから、あわてて止めようとしたんだけど、突然イルカが、餌をあげるおねえさんの言うことをまったく聞かなくなって、全部のイルカが狂ったようにジャンプしたり、プールサイドを転がりまわったりして、どうにもこうにも収拾がつかなくなってしまったの」
「へええ。びっくり。でも、いったいどうして?」
「しばらくはぼくも焦りまくったんだけど、ようやくラジカセのストッップボタンを押した途端、まるで嘘のようにイルカたちは平静を取り戻して、急に大人しくなってしまったの」
「へえええ、不思議、不思議」
「水族館には部厚いガラスに遮られていない水槽もあって、そこにタイとかヒラメとかカツオとかが泳いでいたので、上からラジカセの音を流してみたら、魚たちがみんなパニックになったみたいに、跳んだり跳ねたりして悶え苦しむんだ」
「へえええええ、そんなバナナ」
「それでいろいろな音源を再生して、魚の様子をよーく観察してみると、江ノ電の踏切が鳴るあのカンカンカンという信号音が、魚たちにダメージを与えていることが分かったんだ。三蔵法師が孫悟空の乱暴を止めさせようとするときに、「金・緊・禁」と3つの呪文を唱えた途端、孫悟空の頭を、輪が締め付けるだろ。カンカンカンは、魚たちにとってはちょうどあの呪文みたいなものなんだ」
「へええ、お兄ちゃん、凄いじゃん。それって必殺の秘密兵器じゃん」
「まあね。それで家に帰ってから、いろいろ調べてみたんだ。江ノ電は小田急電鉄の電車なんだけど、江ノ電に限らず小田急の踏切の信号は、嬰へ長調で鳴っているんだね。ほとんどのメーカーの蛍光灯が、いつも低いロ長調の音を、ツバメの鳴き声のようにジジジと発しているように」
「嬰へ長調!? オンガクの話」
「まあ聞け、弟よ。そして、そのロ長調の、ジーーと鳴る蛍光灯の音が、帝国ホテルに泊まる耳に敏感な音楽家の神経を傷つけているように、嬰へ長調で規則正しくカンカンと鳴り続ける金属音が、タイとかヒラメとかカツオとか、フナとかコイとかナマズとか、フグやアイナメやオコゼやリュウグウウノツカイなどに激烈な痛みを与えているみたいなんだ」「アカメは?」
「もちろん、バッチリさ。ただし信号音といっても小田急だけ。横須賀線の踏切はみんなイ短調で、こいつは魚にはてんで効き目なしなんだ」
「ふーん、そうなんだ」
「それが分かったんで、お兄ちゃんは綾部に向う前の晩に、江ノ電のあかずの踏切の前で、嬰へ長調のカンカンカンの音を死ぬほど録音しておいて、こいつがなにか役にたつこともあるかなあと思って、ラジカセにセットしたままここに持ってきたってわけ。それがケンちゃんのピンチにあんなに役立つとは夢にも思わなかったよ。アカメときたら超意気地なしで、もう一発でノックアウトだたからね」
「へーえ、そうだったの。必殺メロディ電撃光線だね。びっくり! でもコウちゃんのお陰でぼくは命拾いできたんだ。お兄ちゃん、本当にありがとうございました」
「いいってことよ。ぼくたち兄弟じゃないか。困った時はお互いさまさ。長い人生、これからも助け合っていこうぜ!」
「うん!」
「さあ、そろそろ堤防に上がろうか。もうすっかり陽も落ちたね。きっとみんな心配してるぞ。早く帰ろうよ」

 
 

つづく