ミミズ談義

 

根石吉久

 

写真-641

 

ミミズのことを書こうかと思った。
畑にまたミミズが増えているのである。

畝の脇に通路を作るのに、ポリエチレンのシートを敷き、その上を刈った草で覆ってみた。ポリエチレンのシートは、生ごみ処理用に売られている大型の黒い袋の二辺を鋏で切って作るのだが、開けば90センチ×160センチのシートができる。
90センチは歩くだけの通路には広すぎるので、シートの端を折って下に入れ込んでしまう。これを敷いたら、通路に草が生えて歩きにくくなる問題はまったく解決した。それだけでなく、畑が見通せるようになった。どこに何をやったか、どこが途中までやったままになっているかが見えるようになった。

労力が消失しにくくなったのである。

一つの仕事をしていて、畑の別の場所に行くと、先に片付けなければならない別の作業が見つかることがある。みつかったものを優先してやっているうちに、先にやっていた仕事がわからなくなる。草が生えて、先にやっていた仕事の場所自体がわからなくなることもある。特に梅雨の時期から盆にかけて、どんどん伸びる草がやりかけてある仕事とその場所をわからなくしてしまう。去年までは、草を刈って通路で乾かし、土の中に埋めることを繰り返していたのだが、草を肥料にして草を育てていることになることが多かった。
畑がいつも見渡せると、そういうことがなくなり、労力を消失することがなくなった。去年までと今年とはまるで違う。

シートの上を刈った草で覆うのは、シートが風に飛ばされないようにするためである。草がクッションになって、歩いて疲れないという利点もある。
草は乾いてからも何度も足で踏まれるのでだんだん細かくなっていく。通路の枯れ草はシートによってその下の土と遮断されるので、靴が泥で汚れるということもなくなった。
畑の帰りにコンビニに寄りコーヒーを頼むようなことをしたとき、店の中で靴が泥だらけであることに気づき気がひけたことがあった。今年からそれもない。

今は畝にポリマルチをしないことを試している。ポリマルチをしてもしなくても、畝にはミミズがいない。畝の土に混ぜる有機資材を、刈って乾かした草からモミガラに変えたが、そのことによる変化はない。枯らした草にせよモミガラにせよ、堆肥にしないで、直接土と混ぜたところにはミミズは増えないようだ。

通路に降った雨が畝の方に流れるように、通路と畝の境目になるところでポリエチレンのシートの端をめくり、土を畝に上げて、わずかな傾斜を作るという作業をすることがある。その作業をしていて、通路と畝の境に限ってミミズが増えていることに気づいた。シートの端に近いところは、シートの下にもいるがシートの上にいる数の方が多い。乾いた草が踏まれて、5センチに満たないくらいの枯れ草の層ができるが、その層の下、ポリエチレンシートの上にミミズがいる。通路の草をめくると、ポリエチレンの上をミミズが逃げる。

今は六月で雨が多い。
水を含んだ枯れ草の層の下にいるのは全部ドバミミズだ。

五月にほとんど雨が降らなかった。その間はミミズを見なかったが、雨が降り始めたら、通路と畝の境目あたりの枯れ草をめくれば必ずドバミミズを目にするようになった。10センチくらいの長さのやつが多い。

YouTube で炭素循環農法を広めている人が、ミミズのいる畑はよくない畑だと言っているのを聞いたときはびっくりした。畑にミミズが多いと言って自慢している人は恥を自慢しているようなもんだと言うのだった。
畑をやっている友達にその話をすると、友達もびっくりした。ミミズの多い畑を駄目だというのは初めて聞いたと言うのだ。

その後、シマミミズとドバミミズは住んでいるところが違うなと思った。人間の都合で、有機物の分解過程を腐敗と発酵に区別するが、シマミミズは明らかに腐敗に傾いた土の中にいる。シマミミズのいる土は臭い。

堆肥を積んであるのを見なくなった。今では、「普通の農業」は農機具会社、農薬会社、化学肥料会社に飼われているが、日本人が百姓仕事を熱心にやれた頃は、堆肥の裾にはシマミミズがいたものだ。
子供の頃、鮒を釣る餌を手に入れたいときは、堆肥の裾を木の棒でほじってシマミミズをつかまえた。棒で土をほじると腐敗臭がした。

炭素循環農法の偉そうなおやじが、ミミズのいる畑はよくないと言っているのが、シマミミズのいる畑のことならわからないでもない。シマミミズのいるところは確かに浄化された土とはほど遠い状態の土だ。見るからに酸っぱそうな感じの土だ。食ってみたことはないが・・・。

シマミミズは大きくても7、8センチの長さで、ドバミミズよりはずっと小型だ。ドバミミズの大きいやつは二十センチを越えるようなやつがある。

ドバミミズにはのんきなところがあって、雨が降ると安心して道の上などに這い出す。急に晴れて強い日差しにさらされ、潜り込める柔らかい土がみつけられずに死んでいるのを見ることがある。子供の頃は死んだドバミミズを見て、単にでかいミミズだと思っていただけだった。それがドバミミズという名前を持っていると知ったのはいつのことなのか思い出せない。
子供の頃は、シマミミズとドバミミズが住む環境が違うことには気づいていなかった。シマミミズとドバミミズを名前で区別することはなかったが、違うミミズだとは思っていた。要するに、小さいミミズと大きいミミズという風に区別していた。肌の光の撥ね具合で、違うミミズだということはわかった。

ドバミミズはたまに見るだけだから、どこにどんなふうに生きているのかは謎だった。子供がドバミミズをつかまえることができるのは、ドバミミズが子供の目の前に来たときであり、子供がドバミミズのいるところに行くことはできなかった。この場合の子供とは、ひとまず10歳前後の俺一人のことである。

堆肥を見れば、シマミミズのいるところだと知っていたから、シマミミズは住所不定ではなかった。堆肥のあるところに定住するからシマミミズをつかまえるのは簡単だった。
ドバミミズは住所不定というか、流れ者なのかと思っていた。雨の後、道の上でドバミミズが死んでいるのは、流れ者の行き倒れという感じがあった。シマミミズに較べれば、ずうたいというくらいにでかいので哀れであった。

川口由一の農法を本で読み、真似したみたことがある。真似はごく一部で、「草は刈ってその場に置く」というやり方だけを真似したのだった。朝方寝るような暮らしをしている者には、明るくなったら畑にいるような真似はできなかった。
「草は刈ってその場に置く」をやってみてわかったことは、刈って置いた草の下にドバミミズが増えることだった。ははあ、ドバはこういうところにいるやつだったのかとようやくわかった。いつ自分が大人になったのかはわからないが、ドバミミズの棲んでいるところは、おおざっぱに言って、大人になってからわかったのだった。

草を刈ってその場に置くと、草にもよるが、土と草が接触する部分ができる。根元で刈れば枯れる草なら土とよく接触する。芝草のたぐいは、根元で刈っても、切った茎の芯からまた草の体になる薄い緑が伸びてきて、前身だった枯れ草を持ち上げてしまうから、刈った草と土が接触しにくい。
ドバミミズは、枯れた草と土が接触するところを這って湿った枯れ草を食っているらしい。枯れ草の層は、たとえ3センチばかりの薄い層でも、その下にいるドバミミズに直射日光が射さないようにしてくれる。つまり日光に対する屋根になる。晴れた日には土の中から水気があがってくるから、枯れ草の下部には湿り気がある。そういうところにドバミミズがいる。あんまりみんな乾いてしまったら、ドバミミズは土の下にもぐるだろう。
芝草を刈ったところは、芝草の新しい芽が柱になって屋根は空中「低く」持ち上がってしまう。刈れば新しい芽を出さない草なら、枯れ草の屋根の下部はドバミミズの餌になる。ドバは、屋根の下にいて屋根を食っているのだ。

ドバミミズの餌、乾いた草が水を吸ったものは発酵も腐敗もしていない。発酵と腐敗の中間の状態、どっちかに傾く前のニュートラルな状態の草をドバミミズは好むのではないかと思う。

ドバミミズは活発である。こんなに移動するのかとわかったのは、畝の草を刈っている時だった。「草は刈ってその場に置く」ということをやっていると、ノコギリ鎌が畝の草を刈る震動が土に伝わる。ドバミミズはそれを嫌う。土の中から這いだし、遠くへ逃げようとして這う。けっこうきびきびと這う。しきりに逃げようとする。

ドバミミズの棲息環境がわかった頃は釣りをしていたので、ナマズやコイを釣る餌を手に入れるのに、ドバミミズのこの習性を利用した。畑に行き、畑仕事をするためではなく、釣り餌を手に入れるために、畝の草をノコギリ鎌で刈るのだ。ドバミミズがあわてて這いだしてくる。速く動くから草の間を這っていてもわかる。それを拾うと、10分もかからずに3時間や4時間釣りをするための餌は簡単に手に入るのだった。

酸っぱそうな嫌な臭いがする土、腐敗過程の中にある土の中で、ろくに動きもせずまどろんでいるシマミミズと、緊急事態を感じてしきりに動くドバミミズはまるで違う。
シマミミズは棒で掘り起こされてもろくに動かない。5センチ前後の体をノローとさせるだけだ。場所を移そうなんて気は全然ない。
ドバミミズはずうたいがでかいくせに、移動をいとわない。這うのが速い。シマミミズのように伸びたり縮んだりして進むのではない。長いまま這う。蛇のような鱗はないが、体をくねらせて進む。ドバミミズには明らかに意志というものを感じる。

子供の頃、シマミミズのことを単にミミズと呼んでいた。その頃、ドバミミズには呼び名がなかった。でかいミミズというだけのことだった。ドバミミズ、略称ドバだが、ドバという呼び名は、釣の本かなんかで読んだのかもしれない。

これだけ生活環境も生活態度も違うものを、ひとくくりにミミズと呼んで、「ミミズのいる畑はよくない畑」などと言う炭素循環農法のおっさんは、あまりにも大雑把だと言うしかない。こんなおっさんが好き勝手を言って、シュタイナーだのなんだのとテツガクテキなことをぬかすのを聞くと笑ってしまう。炭素循環農法自体が大雑把で、シマミミズのようにまどろんでいるのだ。

シマミミズとドバミミズくらいはちゃんと区別しろ。そうじゃないと、炭素循環農法自体がシマミミズだ。反農薬でやるかいがない。俺のことじゃない。炭素循環農法にとってかいがないのだ。
川口由一なら、シマミミズとドバミミズの違いのことはすぐにわかってもらえるだろうと思う。川口の農法が俺に一番役だったのは、鯉の釣り餌を手に入れることだったにしても・・・。
川口がシマミミズとドバミミズを区別しないということはないだろう。福岡正信はどうだろう。あの人は大雑把というのではなくおおらかなのだが、シマとドバは区別しないかもしれない。

ドバミミズのいる土は臭くない。枯れ草が湿った臭いはするが腐敗臭ではないし、発酵臭でもない。
ドバミミズの糞ははっきりそれとわかるくらいの大きさがある。丸い糞だが、直径で2ミリくらいある。片手で掬うだけですぐ集まるくらいにポリエチレンのシートの上にいっぱい糞をしてあるところでは、糞を畝に移して土とまぶしてしまう。何が「ミミズのいる畑はよくない畑」かよ。臭わないドバミミズの糞は、そのまますぐに土になる。それが悪い土だとはとうてい信じられない。「俺、ドバミミズの味方です」であるのであるのであるのである。

ドバミミズの糞を畝の土に混ぜてやれば、畝の土は良い土になるんだよ、炭素循環農法のおっさん。ドバミミズの糞を微生物がまた食ってくれるんだよ、おっさん。

炭素循環農法に限らない。川口由一だってそうだ。理屈にとらわれたら、そこでまどろんだシマミミズになるのだ。

いきなりだが、吉本隆明だってそうだったと思う。晩年の談話をメディアがねじ曲げた可能性は考えられるが、それ以前に、朝日新聞や岩波書店を毛嫌いする一方で、原発村から原稿料をもらっていた。そんなことにつべこべ言う気もないが、亡くなる前の発言は、自分が長年言い続けた理屈に自分がとらわれてしまっていたと思う。あの事故を直視して、事故そのものから考えていったとは思えない。起こったことをあまりにも速く判断し、被害を小さく見積もってしまった。ただいま現在15/06/30でも、被害の規模は本当はわかっていないのだ。

吉本は科学に対する信仰と科学者に対する信頼が強すぎた。科学者連中も金で転ぶんだということは多分一度も書いたことがないのではないか。科学者が白を黒と言うことはあるのだ。福島第一原発事故直後に雨後の筍のようにテレビに出てきたやつらを見よ。
そんな連中は科学者でもなんでもないと言うのなら、それはその通りだ。しかし、吉本はいつも科学者には甘かった。

福島第一原発が爆発した後、「原発をやめれば猿に逆戻りだ」という発言を読んで、冗談じゃねえと思った。

吉本は、京都奈良くんだりの四季の風情だけ言葉にする詩人どもを否定したかったのかもしれない。その頃にでも、四季を歌わずに、四季に従っていた百姓たちはいた。百姓たちから搾取したのでなければ、キゾクドモは歌など歌っていられなかった。
その百姓たちがどんなふうに土とつきあっていたかは、記録としては何も読んだことがない。そういうものはまるで残されていないのかもしれない。だからあてずっぽうを言うしかないが、その時代では、土の浅いところに枯れ葉などの有機物を混ぜ続ける「古代農法」とそんなに距離はなかったのではないか。鎌倉か江戸かは知らないが、牛や馬を使って土の深いところまで耕すようになって「古代農法」は廃れたのではないか。記録がない限り、自分が今やっている農法からのあてずっぽうを言うしかないのであてずっぽうを言っている。

「古代農法」という語は、炭素循環農法からの借り物であることはお断りしておかなければならない。

炭素循環農法が「有機物を土の浅いところに混ぜる」と言うとき、「浅いところ」というのがミソである。何度も当てずっぽうで申し訳ないが、「浅いところ」というのが「古代農法」の眼目だろうと思う。それは「耕す」とか「耕起」という観念とは違う。単に「混ぜる」というだけのものだ。5センチから10センチ程度の土を動かすだけなのだ。

土が軟らかくなってくれば、何の道具も要らない。手で混ぜるだけでできる。それを古代の人々が知らなかったとは考えにくい。

「古代農法」というものがあったとして、それはただ想像することができるだけだ。これが農の原形だろうというものを、想像し、やってみることができるだけだ。

奈良時代や平安時代あたりでも、「混ぜる者たち」は「歌う者たち」とはまるで違うものを見ていたのだと思う。眺めて歌う者と、土の硬さや柔らかさを触ることで知る者とは、まるで違うものを見て(観て)いたのだと思う。同じ四季を相手にしていたのであっても、目や耳で「観る」者たちと、手で触って「観る」者たちがいたのだと思う。
身分も糞もなく、その違いはあったのだと思う。

吉本の言葉には、こちらの胸のまんなかにずどんとくる言葉がある。だけど、ずっと読んでいるうちに、なんか違うんじゃねえかというわだかまりがたまってくるのは、吉本が農を知らなかったということなのだろうと思う。おそらく科学ほどには農を知らなかった。そんなことは、俺が東京の下町の暮らしを、暮らしそのものとして知らないことと同じで、知っていたからどうだというのでもない。それは体に根付く前の知識に過ぎないというだけだ。

吉本さんは農村を知らないんじゃないかと正津勉が言ったことがあり、その通りだと思ったことがある。今は、それも違っていたと思う。吉本は農政も農村も知っていたと思う。隣の家の晩飯のおかずまでわかるようなところは、東京の下町も農村も同じだ。それに対する嫌悪や愛着は同型ではないかもしれないが、慣れの度合い、親しみの度合い、それに対するひそかな反発の度合いというところでは同じようなものがある。
吉本は農政も農村も知っていたが、農そのものは知らなかったのだと思う。俺の中にわだかまってくるのはそれだけのことだ。それはしょうがないことなのだ。

俺が読んでいる吉本隆明は、土佐の松岡祥男さんが発行している「吉本隆明資料集」のシリーズだけだが、喉に魚の骨がひっかかったような感じがあって読み続けることをやめることができない。そういう種類のわだかまりがある。

農って何だ。土という基体に触るものだ。土に触る体が知るものだ。土に触る体が知っていくものだ。それは書くという作業に似ていないか。自分が書いた言葉を自分が読んで、反芻される過程が書く作業にはある。
固かった土が軟らかくなっていくプロセスに触り続けることは、畑という原稿用紙にびっしりと字を書くようなことではないか。反芻は、目の前にあり、しかも向こうにある。書くという行為がこっちにあるものなら、農は向こうにある。
菌が世代交代を繰り返し、ミミズが小動物が反芻し、また菌に返す。言葉も、菌であり、ミミズであり、小動物である。目に見えたり見えなかったりし、育ったり育たなかったりする。

俺の農は、市場経済に取り込まれる前のものだ。いや、鍬や鋤や牛や馬以前のものだ。そこにポリエチレンのシートを一枚噛ませただけのものだ。

これは体力のない人にもできる。基本形だけだったら、道具も要らない。ああ、200円で買えるノコギリ鎌一本くらいはあった方がいいか。農薬も科学肥料も農業機械も使わずに、少なくとも自家消費分の野菜を作ることはできる。

農ってのは、タオってことだなとは思うが、それで話が通じるニホンの現在ではない。ひとまず、ドバミミズにかぶせられるフウヒョウヒガイをひっぺがすことくらいから始めるしかないのだ。

 

 

 

Les Petits Riens ~三十五年はひと昔

蝶人五風十雨録第2回「六月三十日」の巻

 

佐々木 眞

 

 

1981年6月30日 火曜
記事欠落。

1982年6月30日 水曜
巴里Rue de Carneの Hotel Stellaに宿す。

1983年6月30日 火曜
AddendaのCM。CⅩのアナウンサーのフィッテング。

1984年6月30日 土曜 曇り時々晴れ
AddendaのCM。ベルギー大使館のシャンタル・コルネイユ美人にて好まし。モデルが地球儀を投げるアイデアは余の演出案なり。久野去り、永原入社。

1985年6月30日 日曜 晴れ
巴里にて朝から夕方まで愛機ベータムービーにてセーヌ、エッフェル、凱旋門、ノートルダム寺院、メトロの中などをライブ撮影。夜Hotel Concorde St.Lazareのバーにて偶然J=L.ゴダールに会う。昨日はスイスのロールの自宅兼スタジオで一緒だった。

1986年6月30日 月曜 曇り
午後電通にてソフィージョルジュTVCM試写。原君の演出なり。

1987年6月30日 火曜
アルフィオにて池田ノブオvs今井広報室長MTG。

1988年6月30日 木曜 曇り
今年の梅雨はうっとおしいが空梅雨ではない。雨も降る。橋本次長、宣伝部長としてダーバンに転籍。

1989年6月30日 金曜 晴れ
ナベプロS課長来社。チョー・ユン・ファの「男たちの挽歌Ⅱ」をみる。日本のやくざ映画からの引用があって笑わせる。

1990年6月30日 土曜 曇り
会社休みて「福翁自伝」を読む。プロパン屋のおじさんがプロパンの運搬で傷ついた玄関の石段を丁寧に直してくれた。次男のテスト結果悪し。前途を憂う。

1991年6月30日 日曜 くもり
妹が黙想会を終えてわが家にやって来た。新宗教家となりて大悟せしか。ユーゴ・クロアチア共和国と連邦軍の戦い再燃の気配あり。

1992年6月30日 火曜 雨
課長会。気合いを入れて報告してやった。マリークレール、GQ、オッジの編集の人たちと会う。

1993年6月30日 水曜 雨
ボーナスでる。去年より多いのか少ないのか分からず。田中さんが庭に植えてくれた桃が
2個なりました。

1994年6月30日 木曜 くもり
午前中かなり大きな地震あり。午後3時より会社の前の大蔵省住宅で不発弾処理あり。村山内閣組閣終わる。副総理兼外相に河野、大蔵武村など。主要部は自民が抑える。
スタイリストの鈴木さんからパーカー万年筆を頂く。余に「啓発された」と仰るが身に覚えなし。

1995年6月30日 金曜 くもり 蒸し暑い
真夏のような暑さの中を表参道、原宿、渋谷とマーケットリサーチ。HMVにてマクベス,死の都、薔薇の騎士のLD買う。1万4千円也。

1996年6月30日 日曜 くもり
昨夜次男がパリに行きたいというので地図を出して説明してやった。
長男と一緒にいると私を嫌って叩くので困る。

1997年6月30日 月曜 晴れ
香港本日をもって英国より中国に返還さる。じつに155年ぶりのことなり。チャールズ英皇太子、マウントバッッテン総督、中国李鵬首相参加の祝典開かれたるが生憎の雨なりき。

1998年6月30日 火曜 晴れ 暑し
失業率1%。午後伊藤忠ファッションシステム、米国マテル社との三者会談。交渉不調ならタカラのジェニー人形と組むという案もある。

1999年6月30日 水曜 雨
昼豪雨あり。余は長年務めた会社を辞するのほか道なきか。

2000年6月30日 金曜 晴れ
午後同文社の前田、斎藤両氏と池袋に無印良品を訪ね、婦人画報メンクラ企画を売り込む。午後五反田ダーバンにてメンズ打ち合わせ。同級の直木賞作家、高橋義夫氏起用案でOKとなる。

2001年年6月30日 土曜 小雨
終日文化服装学院講義の準備をする。

2002年年6月30日 日曜 くもり
W杯決勝戦カーンの健闘空しくドイツ0-2でブラジルに敗れる。北朝鮮が韓国船を銃撃し4名死す。太刀洗にてニイニイ蝉鳴く。

2003年年6月30日 月曜 はれ
昨夜突然次男帰宅し、寿司を喰らいて夜また戻る。3月以来の椿事なり。丸坊主となりてなかなか男前なり。余を前にしていろいろ批判する。頼もしきかな。

2004年6月30日 水曜 雨
台風襲来の余波で、新幹線止まる。義母縁側から転落すれど、さいわい無事なりき。

2005年年6月30日 木曜 雨のち曇り
工芸大の三浦さんは綺麗だ。次男に30万振りこんだので次男よろこぶ。ビデオを買ったそうだ。

2006年6月30日 金曜 曇り暑し*
とうとうたまりかねて文芸社に催促のメール入れる。文化の試験の採点をする。
小泉がブッシュを訪ねて、プレスリー大好き等々莫迦なことを喋っている。

2007年6月30日 土曜 晴れのち雨
カーペットを干した。耕と熊野神社に行ったが例の怪しいメガネ男はいなかった。
先日宮沢元首相が死んだ。

2008年6月30日 月曜 小雨のち曇り
文化服装学院授業。建築課題で都庁タワーに登る。文化女子大講義はネット広告。

2009年6月30日 火曜 曇り
東京工芸大学へ行く。就職相談相手の学生は1名のみ。就職課のS課長は本日より厚木へ転勤となり、厚木から新任女性課長がやってくるそうだ。

2010年6月30日 水曜 雨のち曇りのち晴れ
猛烈な暑さなり。昨夜W杯日本PK戦でパラグアイに敗れる。岡ちゃんも選手もよくやった。

2011年6月30日 木曜 晴れのち一時にわか雨
耕を迎えにいったが雨が上がる。十二所で義姉たちとランチ。従弟の子の障がいありやなしやを案ず。

2012年6月30日 土曜
この日の記録欠落して無し。

2013年6月30日 日曜 晴れたり曇ったり
日経歌壇投稿全滅。市内の商工会議所で行われた高橋源一郎氏の講演を聞く。はなはだ面白し。彼はまた鎌倉に戻り、比企ガ谷辺に住んでいるようだ。

2014年6月30日 月曜 曇り
妻湘南鎌倉病院にてパニック障害の判定。すべて余のなせる業と深く反省するも時既に遅し。

2015年6月30日 火曜 曇り 蒸し暑し
新幹線車内で焼身自殺。2名死亡、負傷者多数。
ギリシアは借金を返せず債務不履行寸前。財政破綻の責はチプラス首相と国民自身にある。もって他山の石とすべし。
歯痛に耐えながら藤沢で息子の小田急回数券、大船で乾電池を買う。

 

東西で宰相居直り水無月尽 蝶人

 

 

 

赤と黒のボールペンドローイング

 

今井義行

 

 

神田の川面のとがった金属線のゆくえに
和泉橋は架かっている 中古カメラ店はもう開いている
靖国通りを右折して、
「おはようございまあす」と迎える
白衣を引き摺る石黒ダノン
作業療法士というより歳のわかい探偵のようだ
なぜわたしが彼女を石黒ダノンと呼ぶかといえば
朝8:30にわたしが必ず食べる
発酵乳プチダノンと重なるからだ

この五月に入所したばかりだという

太陽の燃えがらを思いうかべながら
きせつのかわりめに着る服にはいつもまようんだ
──と わたしは・・・・
リハビリルームの賑わいの中で
苦笑して それから少し微笑ってみた

都合の良い丘からは相手の内面など読めはしない

大きな大きなボールを両腕に挟んで膨らんで膨らんでいくイメージ、
それから吸って吸って吸って吐いて、はあ───

かつて入院してベッドで血中の毒素を抜く
初期点滴治療を受けたとき
わたしは「詩人としての精神まで解毒されてたまるか」
とあらがったものだった
けれど いまはそういうところからは解かれている
≪一日は遠い
むかしのことのようだ≫という
さとう三千魚さんの詩句にうなずきながら

詩は たましいのミルフィーユのようですね
と思う

よく晴れた午後。
ゆるやかに蛇行する旧中川の河川敷に沿ってのんびりと歩いていった日曜日があった
そこでは名も知らぬ魚がぴしゃんと跳ねたり
名も知らぬ小さな薄紫の花がひっそり咲いたりしていた
鉄橋をくぐるとき
水面に鷺が立っていてこつこつと藻草をつついていた
吸って吸って吸って吐いて、はあ───
深い呼吸や筋肉をぐっと伸ばすことが楽しみになった

作業療法士を子どもあつかいしちゃあいけないな
と顧みて 子どもについてふと考える
子ども 子ども 子ども 子どもたち・・・・

子どもたちは 無論 天使たちではなかった
子どもたちは 人類の 素人たちだった
まだ はじまったばっかりの
何もかもが 途中の生物であるから
ときどきに 図らずして
宇宙の奥が ぎらっと顔をのぞかせるような
色彩の嵐を 広告の裏に描きなぐったり
身体に入ったばかりの ことばを
霧吹きのように 吐きだして
部屋中を 新鮮なことばの森林に変える
森林浴のなかへ差し込む 夏陽のかがやき

子どもたちは 多分 新星などではなかった

年齢を重ねると 拙いなりに学習をして

図らずして 人間のプロになってしまう
そんな喜びと悲しみを自覚できてるか
わたしたちは 生きてあることの慣れと
競走しなければ こころなど伝わらない

昼休みリハビリルームのテーブルでわたしは詩を書いた

「赤と黒のボールペンドローイング」

壁に飾られた大きな額の中に
きっちりとした横長の長方形があって
そこに・・・・・どしゃぶりの黑い針金が降りしきっている
その図柄は 参加者のアッキオが
数回の入院と度重なる自殺思念を経て
手先がたどり着いた「ボールペンドローイング」なのだという
極細のボールペンの切っ先で垂直に下ろされた
フリーラインは緻密に描き重ねられていて
その姿は至近距離で見ると真黒な霧の塊にしか感じ取れないのだが
数mほど離れた自分の座席から眺めてみると
真黒な霧の塊の間から深紅のあかい柱が等間隔に浮かび上がってきて
わたしは そのとき深紅の格子窓の向こうに広がる黑い庭に
臨んでいるような心地になったのだった───
何度かしか隣り合わせたことのない
アッキオの「赤と黒のボールペンドローイング」
わたしは格子窓の向こうの黑い庭を一緒に歩きながら
アッキオともっと話してみたいなと思った

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

わたしには 地面を見ながら
歩く 癖があるのです
哀しいわけではないけれど
姿勢が 俯き気味なのでした

地面には地面の話し声がする
硝子の欠片や蟻の姿が
よく見えて うれしい

オールド・ブラック・ジョーが聞こえる
(フォスターはminorityに共振したひとなんだ)

あ、この小石は光っているから
家に持って返ろう

散歩をしているとき地面に
八つ手の影が はっきり見えた

八つ手のグレイの影は
ひとつひとつの
指の先を大きく開いて
手を振り続けていた

わたしの靴底は 八つ手の影と
楽しく話しているみたいだった

アッキオのA4の古いノートには書きかけたことばの断片や
草むらのようなスケッチがめぐらされていた

指紋もあちらこちらに付いていた・・・・・

歌わなくなってしまったひとたちを知っている
歌わなくなってしまったおんなはひとみで歌う
なぜ歌わなくなってしまったのかはききません

音楽が奏でられると ひとみは
うれしそうに 時にさびしそうに運動している

まつげはどうしてあるのだろう
おんなは泣かない もしもの受け皿か

でも まつげとまつげのあいだには
こまやかな すきまがあるから
泣いたとしても すきまから零れます
名を知らぬ紙のはなびらの端が
花のように折れています───

下町では沢山のインドのひとと
行きかう機会もときにはあった
彼等は日本語で
逞しく生きてる 笑いながら

インドのひとと 近い空間に
居合わせるおりに
気づくことがある
インドのひとのからだの香りは
燻った シナモンの香りなのだ

老若男女問わず シナモンだ

水無月の香木──六月の薫香
それは 古代から続いている
スピリチュアルな癒しの香り
なのだろうか・・・・・

終礼の時間に司会の席で石黒ダノンが
満面の笑みで
「お酒って、とても偉大なものですね!」といった
断酒のリハビリルームでなぜそういうことばが出てくるか
参加者にも不思議すぎるし
おそらく本人にも分かっていないのではないか
でも天真爛漫すぎるのでそれはそれでいいのか
それにしても・・・・・
作業療法士というより歳のわかい探偵のようだな

「今井さん、また月曜日にね」
そういって、
66歳のアッキオは二階の階段をおりていった