あきれて物も言えない 24

 

ピコ・大東洋ミランドラ

 
 


作画 ピコ・大東洋ミランドラ画伯

 
 

工藤冬里のボックスCD「goodman 1984-6」が届いた

 

24回目の5月には、なにを書こうとしていたのだったか?
5月の「あきれて物もいえない」を飛ばしてしまった。

“あきれて物も言えない 21 “では、わたしが毎日、詩を書くことについて、書いた。
2月だった。

“あきれて物も言えない 22 “では、モコと、女と、わたしの暮らしについて、書いた。
3月だった。

“あきれて物も言えない 23 “では、福島の原発汚染処理水の海洋放出ついて書いた。
4月だった。

書くべきことがないのはいつものことだった。
書くべきことがないということをいつもことさらに書いてきたのだった。

詩もそうだ。
はて、困ったと、いつも空を見上げて、書きはじめるのだった。

困ったなと、
あきれるところから書きはじめるのだった。

そして、
6月には、

工藤冬里のボックスCD「goodman 1984-6」が届いた。
ボックスCD「goodman 1984-6」の工藤冬里の音楽を聴いている。

絶句した。
あきれた。

工藤冬里もあの1980年代を生きていたのだったろう。
ほとんどすべては終わっていたように思えた時代だったろう。

絶句の後に、
工藤は、
ピアノの鍵盤を叩いたのだろう。
ギターの弦を爪弾いたのだったろう。

演奏中に電話が鳴ったりしている荻窪のGoodmanという場所で仲間たちと鍵盤を叩いたのだったろう。

わたしはいま、
工藤冬里の「僕は戦車[I am a tank](20 Feb 1985)」に絶句する。

空0戦車の中でまどろんでいた
空0目覚めぬ見張りの鎧の中は血でいっぱい
空0血は戦車の内側に流れ出ていた
空0この辺り一帯は廃墟
空0ペリカンの上に空漠の測り網
空0やまあらしの上に荒漢の測り網が張り巡らされる
空0Singing’ with the harp
空0is prophesying my wars.
空0Singin’ with the harp
空0is prophesying the war. *

そして、「unknown Happiness ‘of’ the past(20 Feb 1985)」に絶句する。
そして、また、「guitar improvisation ‘86 7/3 at home」にも絶句する。

1980年代以降の資本主義は世界を平らに踏み潰していたのだったろう。
わたしもその時代を東京で生きていた。
わたしの知らなかった工藤冬里も荻窪のあたりで生きていたのだろう。
1980年代に「キャタピラー」というタイトルの詩をわたしも書いていただろう。
いま彼と彼の仲間たちの音楽を聴くと不自由の中での自由を感じることができるだろう。

工藤冬里のボックスCD「goodman 1984-6」には、
「パラレル通信」[ GO AHEAD,MAKE MY DAY 1987 5.1 ]という当時の冊子の複写が付録として付いてきていた。
そこには1985年当時の工藤冬里のテキストが資料として掲載されていた。

「私達はコード進行をその生み出す種々の実によって選びとり、更生することができます。決してそこから別の音楽様式が生まれる訳ではありませんが、私達はそのことによって音楽に対する平衡のとれた態度を示すことができます。高さも深さも私達にとって意味のないものになろうとしています。深い精神性なるものも他愛のない子供の歌も同じ平面で考えることができるようになります。それは良い果実を生みだすこと、・・・・・・・・・・何であれそうしたものを思いつづけていることです。」

いま、新聞には疫病や、ワクチンや、非常事態宣言や、宣言の解除や、オリンピックや、オリンピックにおける政府と専門家との意見や、対立や、河合元法相の実刑判決や、原発汚染処理水の海洋放出や、ミャンマーのクーデターと市民への弾圧、香港リンゴ日報幹部の逮捕、イランの保守強硬派新大統領の誕生などなどの記事が掲載されています。

混乱した世界のなかで人々はどこに向かっているのでしょうか?

ここのところ工藤冬里のボックスCD「goodman 1984-6」の音楽を聴きつづけていました。
工藤冬里の歌もこの世界の中にあります。

「それは良い果実を生みだすこと、・・・・・・・・・・何であれそうしたものを思いつづけていることです。」

私達はあの時代の中で発声された工藤冬里の苦渋に満ちた”肯定的な声”を聴くことができます。
そこに小さな光が見えています。

 

夕方の西の山は灰色の雲の下に青く佇んでいます。
呆れてものも言えないが、言わないわけにはいかないのです。

 
 

作画解説 さとう三千魚

 
 

* 工藤冬里の”僕は戦車[I am a tank](20 Feb 1985)”より引用しました。

 

 

 

Bluebeam、或いはツユクサは食べられます

 

工藤冬里

 
 

6月15日-20日

6月15日
目を閉じれば空色のペンキの空漠
頭は
バスケットボールをドリブルする時みたいにギンギン鳴る


寒気団の伏拝

庭石菖はテキサスの花である
英語では繋がっていればなんでもドレスと言う
ワンピースとは言わない
命名
Inconspicuous reset

アメリカナデシコ、アメリカコトリミミカキグサ、ヒナギキョウ

6月16日

6月17日
アレチハナガサはバーベナ・アルヘンチーナに似ている
と思ったら矢張りそうだった
命名はアルヘンチーナの妹頌

ツユクサは食べられます

住みたくない
住むところがない
金を払わないと住むところがない
家を建てるとか考えたこともない
食べられる雑草はある
米はこの前もらった
じたばたする沢蟹を裏返してやる
アレチハナガサとかアレチノギクとか
wastelandに拡がるものしか
相手にしない
大事なのは大目に見ることでもやられっ放しになることでもなく、こちらが怒りを捨てる、ということ
標的としての子供がいる
子供は希少だ
ぼくは花をもらった
他人のものを欲しいと思ってはならない
白地は好きだが苔は生やしておけ
嫌なことがありすぎた
スマホが照らす目先のレイライン
unscrupulousな筋肉培養業者のように住む場所がない
住むところがないと吐き気がしてくる
スマホの強いライトが足元を照らすと吐き気がしてくる
俯いてスマホを見る全ての人は嘔吐する蛍
場所がないことに馴れてしまった
家はない
ブルービームを見抜けるだけだ
棒杭をクロスと呼ぶのは嘘だということ、奇跡はないこと、パルーシアは見えないこと、
それらがいかにシールドになるか

6月18日

6月19日
この本の一章と四章がえらい面白くてさあ

死なないで生き続ける
遺伝的欠陥
草葉の陰
死んだ人は何も知らない
意識は生まれてから
生まれる前は
傷を放り出す瞬間
復活の場面
眠い
紫の箱
白紙が埋め尽くされて死ぬ
命の型
鉄骨ピラミッド
全ての星を撫でる
億兆京垓
オレンジとライトグリーンのチャチな扇形
許すとは悪いことを大目に見ることでもやられっ放しになることでもなくこちらが怒りを捨てるということ

とうとう蛍はいなくなった
いなくなったホタルを生きている

ホタルいなけりゃ生きられないか
いないホタルを生きている
#都都逸
https://twitter.com/_YukioHakagawa/status/1406224959991476231?s=20

6月20日
愛すべきエンデ、当時転生などないことが自明だったからこういうことが言えたのです。カエルに蠱惑されてはいけません。
https://twitter.com/Michael_Ende_jp/status/1406379497083981824?s=20

黒い快気祝い

 

 

#poetry #rock musician

「夢は第二の人生である」或いは「夢は五臓六腑の疲れである」第91回

 

佐々木 眞

 
 

 

西暦2021年卯月蝶人酔生夢死幾百夜

 

町内会長がやって来て、「4月から国の税率が変わったので、服の売り方も変わり、服の売り方の変化を国の税率に反映する」と言うのだが、我々あきんどには、何のことやらさっぱり分からなかった。4/1

いつの間にやらわが家に有毒核物質が累積していたので、気がつけば老いたる父母が死んでしまっていた。4/2

私は半世紀前から辻に立ち、黄昏て沈みゆくこの国の悲愴な末路を、声を大にして「悔い改めよ!」と預言してきたが、誰も耳を傾けようとはしなかった。4/3

おらっちは、突然大金持ちになったので、auの携帯とHМVのCDを全部買い占めて、とりあえず北京へ飛んだ。4/4

売れない文をしにカンキュウモンダイ原子ロ物象にしたらカンバイ。4/5

太刀洗、三郎ノ滝を過ぎて小さな泉を覗くと、オタマジャクシが泳いでいた。そこから朝夷奈峠を登っていくと、春型の小さなモンキアゲハやカラスアゲハが岩肌の水を吸っていた。熊野神社の参道では、大きな赤い花弁を沢山つけたシャクヤクの木が「ようこそ」と迎えてくれた。4/6

頼まれてやった訳ではないが、パンストのPRの仕事が大当たりしたので、スポンサーから喜んでもらえるか、と思っていたところ、意外にも苦情が来た。その商品は、とっくの昔に製造中止にしているといううのであるがあ。4/7

王様の私が、洞窟の中に入ると、民草たちは、いちおう私に敬意を表するかのように一番突き当たりの広間に通してくれたのだが、ふと気がつくと、私の物々しい武装は完全に解除されているのだった。4/8

レースの2順目に差し掛かると、ファンとボランティア奴が、よってたかって余の走行を妨害し始めたので、予はついに、持参したライフル銃を、彼奴等の上空で暴発させた。4/9

「火の丸の割れ目に潜りこむんだあ!」と、オオツキさんが叫んだ。4/10

うちはビール屋だが、いつもの配達員が月期半ばで辞めたので、残りは他の販売員にやってもらうことにした。4/11

もう30日以上、巴里のこのモグラの巣のような地下の迷路の突き当たりの部屋に住んでいたので、きっとみんなが心配していると思って、私は3時間以上もかけて地上に出たのよ。4/12

私はその男を見事に説得して、職場復帰させたうえ、たまたま飛び込んできた黄金色の巨大なセセリチョウを捕まえたのだ。もしかすると新種かもしれない、と思うだに胸が弾んだ。4/13

T大の学長に就任したМ氏は、毎日学食で一皿500円のカレーライスを食べて、生活費を切り詰め、少しでも無職の息子に金を残そうとしていた。4/14

その作品は見るからにうす汚なく、なぜかといえば、薄汚い悪童たちしか出てこないからなのだが、どういう風の吹き回しか、カンヌでグランプリを獲得してしまった。4/15

「新人は隠し芸を披露せよ」と部長が命じたが、そんなことは出来ない私は、彼奴をピストルで撃ち殺してやったら、皆からおおうけだった。4/16

私は500人を収容できる大教室で、ハンドマイクを握り締め、谷崎の「陰翳礼讃」について汗水たらして語り続けたが、誰一人耳を傾ける者はいなかった、とさ。4/17

その館では、腐食女子が出演を待っていたが、トーマス・ハイウエイの丘では、アリストテレスが、政治学について滔々と論じていた。4/18

偶然前の会社で、同僚だったAに会ったので、キッチャ店で長々と話しこんでいたら、彼はまだ私の昔の恋人と付き合っていて、彼女はまだ私に未練があるそうなので、なかなか簡単にキッチャ店を出られなくなってしまった。4/19

「海亀」と呼ばれている超小型艇で、単身肉弾攻撃する子供たちの最期の悲鳴が、この岬の先端からは時々聞えた。4/20

半世紀以上にわたって、毎晩博文館の「10年連用日記」にモンブランの万年筆で孜孜として綴ってきた私の日記を、久し振りに読み返してみたが、なめくじがのたうち回ったようなインキの跡が残っているだけで、まったくの意味不明であった。4/21

事前調査も研究もしないで、「取材」と称して人に会いに行くダメジャーナリストに、私は「せめてこれだけは持って行けよ」と言うて、メモ帳とちびた鉛筆を渡してやったのよ。4/22

世界で1,2を争う腕前の2人のビスポーク・テーラーの戦いは、熾烈かつ華麗なもので、世界中の顧客がその見物に押し掛けた。4/23

救急車の中では、妻が私の右手を握ってくれたが、その手が異様なくらい冷たいので、きっと気が動転して具合が悪いるのだろう、と思って「大丈夫?」と声を掛けようと思ったが、声がでないよ。4/24

今回の選挙に出るA氏は、市の社会福祉活動の重要な一翼を担う人物で、その姿は、まるで大型ブルトーザーが、邪魔ものどもを薙ぎ倒して前進するさまを思わせた。4/25

この国の映画は、みな長尺ばかりなので、試写会もおおかた前後の2回に分けて開催されているのだが、どの映画をどこまで見たか分からなくなってしまうので、えらく評判が悪いずら。4/26

「私がかつて人間だった時」という題名の詩を書こうと、朝まで粘っていたが、どうにもこうにもうまくいかなかった。構想は出来ていても、その内部をどう埋めていくのかについてのアイデアが、てんでなかったようなのだ。4/27

牢屋に入れられた死刑囚から頼まれて、ワーグナーの「指輪」のフルスコアを差しいれたのだが、それで彼の生涯の最後をいささかなりとも黄昏色に彩れるとしたら、以て瞑すべきだと思った。4/28

今までいろんな国の写真だと思って、大切にとっておいたのだが、それらの大半が、おふらんすの写真であると判明したので、私は急遽、独逸やベルギーやイタリアに出張して、撮影せざるを得なくなった。4/30

 

 

 

けものみち

 

原田淳子

 
 

 

王道から外れたら
もう ひきかえせない

光と闇が絡まる
ことばのけもの

光る葉を辿り
漂白された皮を脱ぎ捨て
裏の真を探す

砂に崩れてゆく
臆病な羞恥心
尊大の自尊心

足跡は遺らない

想い出は意味ではない
目撃者はいない

塩柱を逃れて
ふりかえらずに疾れ疾れ

脈打つ、湖
彼方の鼓動



捧げられた時
過去が未来に噛みつき
遠吠えをあげる

崖をかけあがり
鳥の羽音を聴く

暁月