2022年の憲法記念日

 

長尾高弘

 
 

ウクライナには
日本の憲法9条のようなものがなく、
歴としたウクライナ軍がある。
みんなそれを忘れてないか?
ロシアが侵攻したのは、
ウクライナ軍がロシア系住民を殺してる
という主張からだ。
(それは言いがかりだという人もいるけど、
 ぼくは本当だと思っている。
 証拠の動画は捏造されたものには思えなかった。
 でも、さしあたりその点については白黒をつけないでおこう)
もし、ウクライナ軍なんてものがなければ、
ロシア軍だってウクライナに攻めていくことは
できなかったはずだ。
自衛戦争の形をとりつくろわなければ
今どき戦争なんて始められないのだから。
なんで軍隊なんか持ってしまったのだろう?

日本には憲法9条がある。
でも、自衛隊という軍隊にしか見えないものがあり、
アメリカと日米安全保障条約という軍事同盟を結んでいて、
アメリカの戦争に参加する集団的自衛権なんてものも
行使することになってしまった。
日本のまわりは中国、朝鮮、ロシアと
アメリカが敵扱いしている国がずらりと並んでる。
朝鮮など、休戦してるとはいえ、
アメリカとはずっと戦争状態のままだ。
最近は台湾をめぐってアメリカが中国に脅しをかけており、
日本もしっぽを振ってついていこうとしてる。
南西諸島は中国の方を向いたミサイル基地だらけだ。
おまけにウクライナ紛争をきっかけに、
世論調査では改憲した方がいいという人の方が多いと
新聞が騒いでる。
「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることの
ないやうにすることを決意し」たんじゃなかったのか?
「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、
 われらの安全と生存を保持しようと決意した」んじゃ
なかったのか?
もう過去の過ちは繰り返さないという決意は
どこに行っちゃったのか?

 

 

 

在最後的春天裡;
最後の春のなかで、

 

Sanmu CHEN / 陳式森

 
 

在最後的春天裡;
總是散去,雲和人
而靈床堆著經籍泥土
有蜂,有傷口
沈重的段落
是陰鬱的中提琴。

在最後的春天裡;
群蜂飛舞。
蜂鳴,將挖出的泥土存放。
骨頭!危機的碑片
岩塊和鐵,還有土,
以及水的阻力。

在最後的春天裡;
露出傷口。
哦!鳥啊,只有骨頭堆才算數!
寄存的雨如史無聲
而心,畫軸一般展開。

在最後的春天裡,
嶄新的特首說:「我,和我們」
預告春天的囚徒
明天將再被捕⋯⋯
而山徑通向原野,
拔節的芒草在練習祈禱。

在最後的春天裡;
一顆落單的念珠遺置靈床。
昏死如同「相信」。
我的呼吸只是風的一部分;
虎斑是聖城的遺囑。

 

2022年5月11日 香港西貢

 
    .
 

在最後的春天裡;
 最後の春のなかで、
總是散去,雲和人
 結局は散ってゆく、雲も人も
而靈床堆著經籍泥土
 そして遺骸を横たえるしとねには古書が泥のように積み重なる
有蜂,有傷口
 蜂がいる、傷口がある
沈重的段落
 重苦しい一節は
是陰鬱的中提琴。
 陰鬱なビオラだ。 

在最後的春天裡;
 最後の春のなかで、
群蜂飛舞。
 蜂が群れ飛ぶ。
蜂鳴,將挖出的泥土存放。
 蜂は羽音を立て、ほじりだした土を置いていく
骨頭!危機的碑片
 骨! 危機を伝える石碑の破片
岩塊和鐵,還有土,
 岩塊と鉄、そして土、
以及水的阻力。
 さらに水の抵抗。

在最後的春天裡;
 最後の春のなかで、
露出傷口。
 傷口をさらけ出す。
哦!鳥啊,只有骨頭堆才算數!
 ああ!鳥よ、骨の山が築かれてそれでやっと恰好がつくというのか!
寄存的雨如史無聲
 預けられた雨は歴史のように音もないが
而心,畫軸一般展開。
 心は、掛け軸のように拡げられている。

在最後的春天裡,
 最後の春のなかで、
嶄新的特首說:「我,和我們」
 こんどの新しい行政長官はいう、「私、そして私たち」と
預告春天的囚徒
 それは春の囚われ人が
明天將再被捕⋯⋯
 明日にはまた捕らわれるのを予告するかのようだ・・・
而山徑通向原野,
 そして山道は原野に向かって通じ、
拔節的芒草在練習祈禱。
 ずんと伸びたススキはお祈りの稽古をしている。

在最後的春天裡;
 最後の春のなかで、
一顆落單的念珠遺置靈床。
 ぽつんとひとつの数珠が遺骸を横たえるしとねに残された。
昏死如同「相信」。
 気絶して正気を失うことは「信じる」ことと同じだ。
我的呼吸只是風的一部分;
 私の呼吸は風の一部分にすぎないのだが、
虎斑是聖城的遺囑。
 南の海の宝貝は聖なる都の遺書なのだ。

 

2022年5月11日 香港西貢 
 2022年5月11日香港・サイクンにて

 

日本語訳:ぐるーぷ・とりつ

 

 

 

 

 

詩について 03

 

塔島ひろみ

 
 

詩の旅

 

離婚して、生まれ育った町に戻ってきた。
私はこの町が嫌いで、子ども時代、とにかくもう嫌でたまらず、早くここから出ていきたかった。
そこへ、不本意にも舞い戻って、もう9年目にもなるけれど、いまだ、かつての友だちの誰ひとりとも出会っていない。見かけもしない。
彼らはどこへ消えてしまったのか?
それとも老けこんで、会っても気づかないだけなのか?

「友だち」と言っても、私はこの嫌いな町の中学を卒業すると同時に誰とも親交がなくなったので、単に「学校が一緒だった知ってる人」という意味で、該当者は多い。少なくとも100人以上はいると思う。
その人たちが一掃され、私だけが今、この町にいる。
つまり人が入れ替わった、あのときと違う、町にいる。
そしたら今、私はこの町が好きだろうか?

中学の卒業アルバムの後ろについていた「生徒住所録」を見て、幾人かの「友だち」の住所を訪ねてみる。
するとそこには、もうまったく別の人が住んでいたり、空家になり、放置されていたりした。
なんとも言えない。
そこには、なんとも言えない、いろんなものがごちゃごちゃになって、漂っていた。
学校時代の彼らの、その行動の、表情の、感情の、背景とか。
その後の彼らの、私が知らない、今ここに住んでいる人も知らないだろう歴史とか。
私と友だちが何十年も昔に交わした会話とか。
木とか。雨とか。においとか。
町を流れる2本の川。
その川の影とか。

当時中学校は荒れていた。その中でも一番スケバンだった彼女の所番地に、先月行った。
その番地は、大きなマンションに吸収されてあとかたもなかった。
マンションのまわりには古い町工場が並び、ガチャガチャと機械の音が聞こえてき、作業服の人がマンホールに片手を肩まで突っ込んでいた。
すぐ先は川で、川沿いの敷地にNTTの鉄塔が立ち、その隣りの囲われたスペースに、タンクローリーや大きなトラックが次々入っていく。中には土砂の山がいくつもあり、大小のブロック塀が積まれ、ショベルカーが並んでいる。「○○建材」とあった。
その先の角地に、「水神社」があった。

小さな祠。その横に「水神社」とだけ書かれた石柱がある。
境内には、狛犬もなく、供え物もなく、さい銭箱もなく、神社の説明書きもなく、あまり関係なさそうな「○○橋之記」と、すぐそこにかかる橋の歴史が刻まれた碑があるきりだった。
「夫れ祖国再建の基は産業復興に在り産業の進展は交通機関の完備に俟つ」
歴代村長の執念が架橋とその戦後の再建を果たしたことが述べられていた。

『葛飾区神社調査報告』(東京都葛飾区教育委員会)には、この町の水神社についての記述がある。
祭神は水波能売神(みずはのめのかみ)。
1729年、幕府の勘定吟味役の井沢某が人柱伝説により河川開削のときに祀ったこと。
その後の大正期に、川の改修工事の際100メートル下流の現在地にうつったこと。
それはしかし、彼女んちのそばに私が見つけた水神社ではなく、上流にあるもう少し大きな、別の水神社についての記述なのだ。
「本区は水稲栽培が一般農民の基本になっていたので、稲作に不可欠の灌漑用水の守護神として水神を祭ることが多い。しかし現在は多く鎮守社の摂社になって・・・」。(『葛飾区神社調査報告』)
私が見た水神社は、この地区の鎮守社に吸収された、鎮守社の一部に過ぎないものだった。

鎮守社に行くと、「御祭神 日本武尊、相殿(熊野様)イザナギノミコト イザナミノミコト スサノオノミコト」と書かれていた。
水神についての記述はないが、年間行事のなかに「7月18日 水神祭」が入っていた。

調べると、水波能売神は、イザナミノミコトの尿から生まれた、女神だった。

病いの苦しみのなかで、イザナミのたぐり(54)から成り出た神の名は、カナヤマビコ、つぎにカナヤマビメ。つぎに、糞から成り出た神の名は、ハニヤスビコ、つぎにハニヤスビメ。つぎに、ゆまり(55)から成り出た神の名は、ミツハノメ。

 

           (54)たぐり 嘔吐した、その吐瀉物。
           (55)ゆまり オシッコのこと。

             (『口語訳 古事記(完全版)』三浦佑之、文藝春秋)

 

それで、水の女、という詩を書いた。

 
 

詩「水の女」
https://beachwind-lib.net/?p=33599

 

 

 

テレパシーの取説

 

一条美由紀

 
 


コピーされたDNAが考えたフリをして
銀色の手袋をしてる
頭脳をハッキング
秘密はもはや得られない
全人類に共有の記憶 体験 感情
ギクシャクとしたダンスでタップを踏んでいる
承認はいらない
フロントガラスも傷だらけ
システムをクラッシュして
笑い声と眠りの中を泳いで行く。
乳母車の中で眠っているのは誰なの?

 


5年前のあの日の写真 あなたの声が立ちあがる。
青空が憎くなる気持ちを持て余し、
ヒールに履き替え、駅に急ぐ

 


今が真実ならそれでいい
真実もまた変化するものだから

 

 

 

薔薇の名前

 

工藤冬里

 
 

アニソンを通してしか真理を語ることが出来ないのでアキシュの王を騙す
格上シャンベルタン対密造ビオのような敗戦が繰り越されている
名前を見てから花を見るのと、花を見てから名前を見るのとどう違うか比べながら歩いた
どうも言葉が先らしい
脳は誰だか分からぬまま一枚づつ着せられて何処に戻るか
薔薇は花ではない

ヴィブラートが滅びを跨いでいる
怯えたヴィブラートは無駄な信仰
石の上の奇矯な行動によって認められる
娼婦の行動も記念として垂れ下がった
個人の墓から思いの中に取り出して
さらに餅をください
生来の意欲の前段階をimmnotherapyで強めてください
中間色の版画家の石の色した物語りの中で
家族は
民族浄化の決定がなされてからエステに意味を付与するしきたりが始まった
王にもフィッシング・メールを送ったので
教授の講義のテーマが変わった
仮面の内側の大三島は
ビールだけではない
royce’は信じない
負けない
親しくならない
死ななくていいので地上の体の各部を殺せば
プレス機で押し潰される前に弁当箱を救う
トイレで平手打ち
あゝ無理なことではないんだ
石化した盾型の白や青ざめた孔版画のヴァージョン
無理だと分かるには時間がかかる
毎日が宴会
限界だが離れたくはない
新しい人形の筋膜注射
音声案内のAI嬢にG.I.joe
思い出グラスシャンベルタン
東西南北ではなく上下内外を見る
今は木はみどりではなく黄色
石手川のほとりで枯れなかった
嘘をつくことだけ不可能
形式を遡る
踵を砕くとはもう地上でサンダルを履くことはないから
見えるものは張りぼてなので
ものづくりに価値はなかった
時間は水とは違って溜めることができない
午後の秋
のいろどり
従順な行動を伴っている千人に一人
の花

 

 

 

#poetry #rock musician

歩いて

 

駿河昌樹

 
 

     Suis-je amoureux ?
     ―Oui, puisque j’attends.
      Roland Barthes
      〈Fragments d’un discours amoureux〉 1977

 
 

雨がうつくしい

たぶん
迷子になったまま

歩いて

あるか
なきかの
こころの
花ばな
つよくはない
やさしく降る雨に
打たして

歩いて

やわらかい葉が
もう
いっぱい出ていて

雨に打たれて

わたしも花ばな
あるか
なきかの
こころの
花ばな

逝ってしまったひと
逝くひと
はじめから
いなかったひと

雨に打たれて

花ばな

夜ですから
くらい
くらい
もっとくらいところへ
行こう

歩いて

こころの
花ばな

《わたしは愛しているのか?
 ―そう、
 わたしは待っているのだから》*

 
 

*ロラン・バルト『恋愛のディスクール・断章』(1977)

Roland Barthes 〈Fragments d’un discours amoureux〉, Seuil, 1977