広瀬 勉
#photograph #photographer #concrete block wall
Apr 18
中西龍
https://youtu.be/ZQHDUmiujc8
Muerte, ¿dónde está tu victoria? Muerte, ¿dónde está tu aguijón?
Apr 19
「失われたのはパブリックである」から10年経った。今や世界は音声off機能の無いzoomのようなもので、理性の外側の領域の炙り出しが始まっている。強者と弱者はメビウスの輪のように絡み合いながら共に死滅するのだ。
私は自分の頭がネズミの頭のように小さくなったのを感じた。死ぬ前に一回り小さくなるのは知っている。
前もって死体を溢れさせている、現象ですらない裂け目が私である
らしかった
「悪にでもなる」がコンビニに溢れていた時期があった。裂け目としての自分があり得ない未来に跳躍するのが希望なら、つまりその等式が希望なら、私たちは「ナチにでもなる」
40万と聞いてそのクラスなら「目覚める前に遺伝子組み換え添加物漬けにする」の符牒だったのでは?と一瞬は思った
Tengo esperanza de que va a haber una resurrección tanto de justos como de injustos
Apr 20
ロンドンに居た頃日本語というと義父から毎月送られてくる文藝春秋しかなかったので頭のなかがすっかりおじさんになるという剰余享楽を体感しました
https://twitter.com/KS_1013/status/1513954014538637312?s=20&t=oJilCN9ubciA2jsYJ5FYBw
日常など続いていくわけがない。右手と額のしるしが続いていくだけだからだ。明日がデジタル・タトゥー化されていく進み行き
進み行きて大江の文末によくある
大江
人間が戦いを終わらせることができないのはなぜだと思いますか
藤棚の傍には必ずホークウィンドのジャケみたいなmumble beeがいるが怖くない

山越のsikuruスリランカでゲロおいしかった今日はホタルイカ
Apr 21
クラクラアブリール
足を洗ってカウンターだけのサイフォンを始めて、おいこれなんだっけママ、都忘れよ。

年号や数え年の共通点はゼロを1と見做すことである
令和ゼロ年の不在は不在(ゼロ天皇)自体を積極的に規定するものと見做される
それは既存の天皇に含まれない全ての天皇を一つの年号として含む
これはすなわち天皇としての浩宮、天皇全体の一部ではない部分としての浩宮part of no partなのである
だから数え年の人生は、人間が絵の一部ではなく、絵についた染みであることを正しく示しているのだ
いや僕も最初はアブリルラヴィーンか思てんけどな、オカンが言うには、店長自ら炙ってくれるらしいんや
毎日がXデーです
ヒロシ
I wanna be your dogは淡々と歌わないと眈々とはならんとです
Apr 22
重層を使うことを思いついた時点で路地の鉢植え氏は負けていた
逃げる場所は非決定ではなく逃げる場所がないという決定だからである
リベラル左派の分断こそがパンデミックの目的であった
そしてそれはこういうことかと接種してみせる魂が逆説的に命の芳名録にカウントされたのだ
Le digo a cada uno de ustedes que no piense de sí mismo más de lo que debe pensar
ポンコピピンはびっくらポンコピピンに変えたらいいと思う
今来たがってるのは城戸君、ゑでぃさんたちとかだけど投げ銭以上の援助が出来ないのがパンデミック以前みたいで
THOSE WERE THE DAYS MY FRIEND
https://youtu.be/2KODZtjOIPg
Había paz en la región.
近い戦争と遠い戦争がある。きみたちは戦争の音、戦争の知らせを聞く。
https://6105.teacup.com/iaf/bbs/5615
Apr 24
白い、薄汚れたとまではいかないけれどトドのように大きい
千羽鶴を折る時間を生贄にする
理性
ロギコス
合理的な
聡明な
言語化された原則の、文法を理解する
規則を探すな
無差別攻撃を避けるためにプロにやらせろという一理は宇田丸の押井新作への批判を少しばかりは、虚無の鏡餅の上に乗ってるお飾り付けた蜜柑くらいの一理という意味で、ずらしますかね
Me alegra recibir insultos
Apr 25
Sigamos amándonos unos a otros
コブラで落ち着くのはエンタメとして良いがじゃ参加ウグライナフェンの戦果どうなったんだと諦めの地盤沈下
八重までも散って呑み込む茶漬哉
#poetry #rock musician
運ばれてきた
2台のワゴンのプラスチックごし
バクバクッ
真っ赤な手足を火のように投げ出して暴れる者
白い布に包まれたままヒクヒク微動している者
こかずとんだ
コミヤミヤだ
昨日妻ミヤミヤから帝王切開の日程が早まって明日になった、と電話があった
コロナ禍だから立ち会えない
但し双子の赤ちゃんには新生児保育室に運ぶ途中の廊下で会える
そわそわ待機していたぼく、かずとん
呼び出されて
ばったり、その瞬間
バクバクッ
嬉しい、とかない
かわいい、とかない
生命体だ
しわくちゃに
白い皮脂震わせて
息してる
見つめて心臓バクバクッ痛くなる
「写真撮っていいですか」「ちょっとならいいですよ」
透明プラスチックに光が乱反射
不格好な写真が撮れた
「ではエレベーター来ましたのでまた後ほど」
慌ただしく運ばれていき
バクバクッ
バクバクッ
痛いッ
ぼくも息してるじゃないか
ぼくとぼくから分離した小さな者たち
薄暗い廊下でばったり邂逅した計3体
揃いも揃って
息してた
小学校三年か四年の頃だと思う。10歳、1962年頃か。
家業はうどん屋だったので、うどん粉と小麦粉とメリケン粉は同じものだということは、当然のごとく知っていた。ある時、通学団で学校へ行く時か、家へ帰る時か忘れてしまったが、僕が皆に「うどん粉と小麦粉とメリケン粉は一緒だよ。」と言うと、こぞって「嘘つき。」と皆が言う。
皆は、うどん粉と小麦粉とメリケン粉は違うものだと思っていたのだ。僕が、何度も、強く主張すればするほど、「嘘つき。」の連呼は激しくなる。泣いた記憶はない。とてつもない理不尽さに怒りを感じて憤怒の極みになったが、暴れたり大声を出したりはしなかった。ただただ、歯を喰いしばって、耐えていた。
僕はどちらかと言うと、おどけ者で、皆を、驚かせたり、楽しませたり、よくしていた。突飛なことを言ったり、やったりしていた。イソップの狼少年のように普段から人が困るような嘘をついて、自分自身が喜んでいたわけではではなく、まあ、他の人のためにおどけていた。嘘のようなことを言ったりやったりして、でもそれは他愛のないことばかりで、皆もそれを分かっていて喜んでいた。と思う。多分。おそらく。
この時は、おどけたり、喜びそうなことを言ったりしたわけではない。ただ、当たり前のことを、さらっと言っただけだ。
これとは別の話だが、意図的に嘘をついたことはある。その時は、嘘をついたという感覚がなかった。小学校一年の時だから、7歳、1960年か、う?計算違うか?、まあ良い。
小学校一年だったことは、間違いない。というのは、伊勢湾台風のあった年だからだ。なぜ、はっきり覚えているかというと、名古屋の南の方で、水害で家を流されたりした人達が、僕の通っている小学校に避難してしばらく暮らしていたが、その避難所になった場所が、僕の学校の一年生の校舎だったからだ。一年生の校舎だけ、平屋で別棟だったから、使い勝手が良かったのだろう。
伊勢湾台風の直後、一年生の国語の作文の授業で、課題が「伊勢湾台風の思い出」というのがあった。思い出となるほどには、時間は経っておらず、まあ、今から考えると、ドギュメンタリーを書け、ということだったのだろう。小学校一年生という年齢にとっては、かなりきつい作業を要求されたとも思う。
あの時、つまり、伊勢湾台風の渦中、(僕の家は鶏小屋を解体して出てきた古材で作ったボロ屋だったが)瓦一枚も飛ばされず、ガラス一枚も割れなかった。たまたま、風上に大きな家があって、その建物の陰で助かったからだろう。名古屋市千種区と昭和区の境目のところだったが、僕の家以外の周辺は、かなりの被害状況で、屋根が丸ごと飛ばされた家もあった。全く被害のない家は皆無だったと思う。電信棒も倒れていたし、根こそぎ倒れている木もあった。
僕は、全く被害のない自分の家のことを、良かったと当然思うには思ったが、一方、変な心情が生じていて、悔しくもあった。台風一過の翌日、学校へ行くと、みんなが、瓦が飛んだ、ガラスが割れた、などなどと、自慢(?)し合っている。何の被害もなかったことが悔しかったのだ。おそらく、僕は、黙っていた。おどけ者で、しゃべり好きの少年が、無言でいるのは皆にとっても異様だっただろう。もしかしたら、よっぽどの被害があって、悲しみに打ちひしがれていると誤解されていたのかもしれない。この辺の心情は、変ではあるが、今でも理解できる。
作文で、僕は、嘘をついた。いや、正確には、作文というのは嘘を書いても良いと思っていたのだろう。小説という概念は、小学校一年生の僕には持ち合わせていなかったが、虚構を書いても良いと、勝手に思っていた。
内容で、はっきりと覚えているのは、自分の家の被害状況を克明に筆記したことだ。もちろん、被害は受けてないので、全て捏造であるが、捏造という概念すらも無い。
当時、台風が来るとなると、近所全員、全家屋が、戸板を材木で、窓や扉に、釘で打ちつけ、建物を防御した。あたりは、まるで学生運動で校舎に砦を作ったバリケードが連鎖するような風景である。あの、釘を打ち付ける響く音の記憶も濃厚だ。
僕の家も、南側の、扉や窓は、そのようにガンガンと材木を釘で打ちつけたが、何故か西側の一間ほどの引き戸だけは無防備だった。その引き戸の透明ガラス越しに、外の台風の様子が見れた。看板とか、瓦とかが、飛んでいるのも見える。雨もたたきつけていた。ずーっと、ずーっと、見ていた。
作文では、『その扉の透明ガラス越しに、外の様子を見ていると、飛んできた看板が、ガラスを割って家の中に飛び込んできた、僕達は咄嗟に逃げたので、怪我は無かったが、家の中はみずびたしになった、しかし、隣の家の陰になっていたからか、瓦一枚も飛ばなかったというのは、不幸中の幸いだった。』というようなことを書いた。そのように書けば、先生も含めて、みんなが感心すると思って書いたのだ。
案の定、その作文は、とても優れているということで、先生に褒められて、皆の前で自分で朗読させられた。とっても、自慢だったし、嘘をついている感覚は皆無だった。
蛇足かなあ。
もうひとつ、下駄箱のザラ板の話を思い出した。
小学校二年生。1961年。(ま、どうでもいいけど、僕の記憶の中では、そうなっている。1961が、反対から読んでも、1961、それに気が付いたのが小学校二年生の時、感動してみんなに言ったが、みんなは無関心だった記憶がある。)
で、小学校二年生の時、僕は、特に、美意識や道徳意識も無く、毎日、下駄箱あたりの掃除をしていた。掃除当番でも無い。そのような役割があったわけでも無い。ただ、なんとなく、毎日、掃除していた。
ホームルームか、なんか他の授業だったかは忘れた。先生が、「毎日、下駄箱の掃除をしている子がいます。素晴らしいですね。とっても良い行いです。皆もこういうこと見習って下さい。」と言った後、「やってる子は、手を挙げてください。」というので、僕は、勢いよく手を挙げた。僕は、褒められることを目的にやっていたことではないけれど、若干恥ずかしかったが、胸を張って「はい」と言って立ち上がった。
なんと、先生は、「こういう事は、黙ってやるから素晴らしいのです。人前で言うことではありません。正直に人前で言ってしまっては、駄目です。」と、言う。
僕は、手を挙げて、と言うから、素直に手を挙げたまでだった。その時、子供の時、すぐ反論はできなかったが、今から考えても、理不尽だ。
端的に言うと、僕は嘘つきは嫌いだし、嘘をつくのも嫌いだ。