散歩道

 

みわ はるか

 
 

世間一般ではもう目一杯咲いているところがあるというのに、うちの近所ではまだ咲く気配がない。
そう、6月といえばのあの代表的な花。
小さな花弁がたくさん集まって、水滴なんかが滴り落ちての、あの紫陽花である。
葉も爽やかな緑色で美しい。
ふだんはギョッと思うようなカタツムリなんかがついていても愛でてしまう。
公園の端っこ、畑のそば、歩道のわき、校庭の奥の方・・・・・。
ふとした所に意外とどしっと存在している。
個人的には淡い水色がかわいらしくて好き。

最近、時間があればスタスタと歩いている。
冬は寒いのが大嫌いなので引きこもりがちになってしまう分、この時期はできるだけ外に出る。
古くから建っている家々。
ペンキがだんだん剥げてきてはいるけれど、柱はしっかりして頼もしい。
今でもあるんだなぁと驚いたのは、瓶の牛乳を入れるためのケースが玄関先に置いてあったこと。
昔、わたしの家でも毎晩運んでもらっていた。
台所があるであろうと思われる場所のすりガラスの窓。
そこには洗剤、花瓶、おたまやフライパン返し等が吊り下げられている。
夏だからだろう、窓を開け網戸から涼しい風を取り込んでいる食卓。
LEDとは違う少し黄色がかった明かりの下、箸が器や皿に触れる音が聞こえる。
テレビの野球中継に交じって、ときたま食卓を囲む人たちの笑い声が漏れ出ている。
時には怒声や大泣きしている子供の声も。
その生活音はとても心地よかった。
やっぱり家族は同じ場所にいるのがいいなぁと思う。
何か見つけたとき、今日あった面白かったこと、どんより納得できなかったこと。
聞いてほしい、解決策はなくともただ隣で聞いてほしい。
なんともない少し退屈だなと思う日常こそが最も尊い。

とある中学校の側を横切る。
そこには新築の家々がたくさん並んでいる。
近くにはスーパー、幼稚園、郵便局、銀行・・・・・。
ファミリー層が住むには好立地な場所だ。
お洒落な外観に、素敵な花々が彩る庭。
玄関先には小さな靴が干してあったり、まだ補助輪がついた自転車がお行儀よく置かれている。
カーテンの替わりにブラインドを使用している窓もあった。
1つ1つの窓もわりと大きく感じる。
窓わきに置かれたディズニーシリーズであろうぬいぐるみがこちらをじっと見ている気がしてそっと目線をずらした。
モダンな家々に少し圧倒され恐縮してしまった。

駅の近くにはアパートやマンションが多い。
古いものだと「~ハイツ」や「~荘」のようなアパート。
歩くと結構音が響きそうな階段を上がると同じ扉がズラッと並んでいる。
おそらく単身用の住まいだ。
趣があってまるで小説の世界に入ったかのような世界観。
ぎぃ~と開く扉の音もまたいい。
なぜかある扉の前にはとれたばかりの玉ねぎがこれでもかというくらい積まれていた。
セキュリティがしっかりしているマンションも最近はとても多い。
エントランスで鍵なのか指紋なのかわたしには到底想像できないが、本人確認を求められるようだ。
それを見事に突破するとエレベーターで自分の部屋がある場所までたどり着ける。
きちんと清掃されているんだろうなと思われる外観はただただきれいだった。
洗濯物をベランダに干している所もほとんどなさそうだ。
気温の高い日中さえ窓を閉め切っているようでレースのカーテンだけが外からは見えた。
隣に住んでいる人が誰かも分からず、住人だけがどんどん循環して入れ替わっていくのだろう。
それはとっても楽で快適だけれども、ほんの少し寂しい気持ちになった。

そんなこんなでわたしは時間があれば歩いている。
ただただ歩いているのだけど、毎日たくさんの発見があってとても刺激的だ。
橋の上からじっと川の流れを見て、その流れに逆らうように動いている魚を探したりする。
季節によって異なる花を注意深く観察したりする。
畑で栽培されている野菜を見て旬なものは何かをチェックする。
稲が植えられたばかりの田んぼにゆるりと泳ぐオタマジャクシを「わっ」と叫んで驚かしたりする。
太く大きな松の木を首が痛くなるまで見上げ続けたりする。

わたしの散歩はしばらく続く予定だ。
冬が来る前までの限定的なワクワクする冒険を。

 

 

 

スイカわり

 

塔島ひろみ

 
 

青いTシャツの背にはくっきり リュックの形に日焼跡が残っている
太陽を背負って歩いてきたのだ

だから太陽の熱さは知っているが
太陽の重さを知っているが
彼は
太陽を見たことがない

前を向いたままするするとリュックをおろし、そこに置いた

汗ばんだ肩を、二度三度上下させたあと、振り向きもせず帰っていった

黒いサングラスをかけていた

黄昏の放課後
授業を終えて生徒たちが校門を出る
ランドセルカバーの色に塗られた寄宿舎への誘導ブロックが
警官のように彼らを待ち構えているのだが

今日は誰もその手に乗らない

それは太陽が教えてくれた

リュックサックの中に石のように閉じ込められた太陽が教えてくれた

太陽はずるずると引きずられた
日が暮れる
彼らは太陽を連れ、
点字ブロックなどまるで無視して、
道すらも無視して、
野猿のように自由自在に、
歩いて歩いて、
そしてどうやら目的の場所に着いた
(方向感覚を失い 私はここがどこなのか見当もつかない)
(街灯もないのだ)

パーン!
気持ちよい音
しぶきのようなものが飛んでくる
もう一度、 パーン!
するどい破片が頬に当る

太陽は砕かれ まったくの闇が訪れた

くすくすと かわいらしい笑い声がそこかしこから聞こえてくる
いくら目をこらしても
この闇では彼らの姿はおろか 頬に当った破片の輪郭すら見ることができないけれど

涼しげな一陣の風が
私のよく知る甘い香りを運んできた

そして
太陽を食べた少年たちのからだが
闇の中でキラキラ光を放つのを私は見たのだ

(火薬のにおい・・・)

 
 

( 6月某日、都立盲学校そばで )

 

 

 

げんせ/こんじょう

 

薦田愛

 
 

もつれた糸がほどけない
ふがいない指のこわばる
おもうにまかせないというのは
このことか
じぶんの指であるのに
うっと
もりあがるつぶがこぼれる
しおからく

ねてもさめても
はなかんでも
こぼれて
しおからい
ままなので
のがれる
こんじょう
いな にちじょうを
ひざからくずれおちて
のがれる
めをふせて
そのひとはむくろをはこぶ
この
むくろを
みずからの
むくろひとつを
ひきずりおろし
のがれる

ゆれてぬれて
ねがえりをうつ
ひとひふたひ
めくれあがるささくれの
かわききるまでに
たりない
たりない
ひとなぬか

ゆれてぬれて
ふるえて
もんどりうつ
むくろ
みずからの
むくろを
むかえに
そのひとは
むくろひとつを
ひきずりおろした
ところに
きて
わらっているすこし
ああ
わらって
いい
げんせ
こんじょうだった
ここは

もつれた糸を
探りなおす
指のゆがみ
探りあてられない
あの
糸のわだかまり
ああ
からむことさえ
なかったのか
届いてさえ
ないのを
それとしらずに

ゆれてぬれて
ひとなぬか
果てて
しおからい
ほおをぬぐった
むくろをはこびいれる
いえ
(家)
そのふちに
こきみどりにあけの
はむれみっしり
くちなしの花びらが
ななえ八重
おもたげに
しろく
ふくらんでいる
むくろのうちにも
ながれいる
あまく
ぬりこめる
ああ
げんせ
こんじょうだ
ここは

 

 

 

猫のいたずらに思う

 

ヒヨコブタ

 
 

猫が落としたその詩集は
若き日講演会のあとにサインをしてもらった懐かしいものだった
そのときのことを緊張のあまりわたしは覚えておらず
付き添ってくれた友が
後々今まで笑って話してくれる
ペンは友のものだったこと
筆圧が強いのですねと言われ
間髪を入れずにはいと答えたこと
それらのやりとりすべてが
懐かしく愛おしい時間だ

こころしずみがちであるいまも
そのことを思うと
くすりとするわたしがいる
確かに
あの時間は存在したのに
遠く、友とわたしだけの作り話のように

そのひとは世を去り
たくさんのことばを遺した
わたしのなかには
穏やかに微笑むそのひとが
いつもいるような気がする

猫はよくわたしにとってかけがえのないものに
いたずらをする
けれども
このいたずらは
すこし苦くて
ほんのり甘いような日々を連れてきた

あの頃が総て愉しく充実していたはずもない
苦しくてもがいていたのはいまと同じだ

ただそこに若さがあり
友からペンを奪い取るような
情熱もあった

あの大教室で
最後の三人になって
交わしたことばは
わたしの明日をいつも照らす
いつも、これからもおそらくは
変わらずにあたたかいだろう

 

 

 

TORI209

 

工藤冬里

 
 

、夏至の夕暮れに

6月22日
@oshienai_0 柳瀬尚紀の名訳ですね
https://twitter.com/oshienai_0/status/1406993454786236421?s=20

https://pic.twitter.com/DQipQw6yax

6月23日
@jjjuliaaaa 新日本紀行で覚えているのは夕日の川崎の工場地帯にピンクフロイドの風のDbmとG#mのオルガンが流れるところと、倉敷の回の、池のほとりで三上寛が「ションベンだらけの湖」を歌うところです。
https://twitter.com/jjjuliaaaa/status/1407207439536070663?s=20

6月24日
陸上部だったんですごいわかる
スポーツで病むというのはドングリを自覚しないからだ
優雅な労働を体育に置き換えて
ギリシャを越えるべきなのだ
idolがエディプス複合発症を生む
僕はジョギングシューズを買えなくてそれでも是認を得ようとブラバン後の頭ノ向部落一周を課していたので右足首を壊した
https://twitter.com/franzkafkabot/status/1407801715693215745?s=20

Para todo hay un tiempo determinado; un tiempo para buscar y un tiempo para dar por perdido

曇り空、アガパンサス並に風化したアガペー
猫動画で麻痺させるゾンダーコマンド

オリンピック選手に選ばれた人は最晩年に出場出来るシステムにすれば老化と死の原因が際立って良い証言になるだろう。
同じように徳のある素晴らしい人物も、百歳以上にならないと政治家になれない法律にすれば自治の限界が明瞭になって良い結果を生むだろう。

昔泥棒日記的な生活を送っていた頃の万引きの師匠で社青同解放派の某君が霞が関とNHKを占拠して吉本隆明を呼んで首相になってもらう、というプランを語っていたが、百歳以上制が確立されたいま、そういう夢のある考え方は過ぎ去った、ということだ。

6月25日
Ellos son los que salen de la gran tribulación

2010年代が非常に神話的であったことを確認するのが20年代のいまである
00年代は今考えると前世紀よりも古かった
それは世紀末がちゃんとしてなかったことによる
19世紀末しか存在していない
ロシアは完全に何も信じていないので大幅に歴史を変えることが出来る
中国は古代をまだ信じている
日本は坩堝

どびゃあ
https://twitter.com/ParksJindai/status/1408051226474811394?s=20

はなまるで冷麺風冷かけを食べていたから土砂降りになった

メルシャンで出たグレープフルーツのシードル!?が飲みたくないのに飲まなくてはいけなくなった状態の時に飲むものとしてまあまあいける
ほかのものは何口か飲むことを想像しただけで滅入ってくるがこれにはそれがなかった
何も飲まずに寝ればいいという話ではあるが

6月26日
今日のきみ剣が少し錆びている
アキノノゲシ

スペリオールに松本大洋が原田左之助のことを漫画に仕立てたのを出している。松山の奴なんだよね。南堀端に碑がある。
一つの世代の中には過ぎ去りゆく者とまだ生きている者の二つの濃淡が交りあっている。それは出エジプトでも特攻隊でも、そして新選組でもそうだ。その機微が、よく描けている。

6月27日
土から生えるとなよなよしてもよくなる
考えてみればワカメも海底の岩から生えている
東京のアスファルトに生えた水草は水の駅の階段をたくさん歩いて腰が鍛えられている
浮草は水が床
友達はあめんぼう
あまえんぼうのトチメンボー

Hagan por los demás todo lo que les gustaría que hicieran por ustedes

私はだるい
私はだるいと言う者が
森の中で眠り
蚊に食わ
人類と地球の本来の姿
子孫はアダムの罪に何の責任もないので
贖いの知識が力を持つ条件は感謝
人類と地球の本来の姿

https://imslp.org/wiki/Category:Rzewski,_Frederic

 

 

 

#poetry #rock musician