この秋の訪れは独眼流のウインク生活となっちゃった。

 

鈴木志郎康

 

 

秋の訪れだ。
九月になって、
曇って、
雨が降ったり止んだりが続いていたが、
午後のひととき、
さっと晴れて、
日差しが戻ってきた。
秋の陽だ。
秋の陽だ。
懐かしいなあ。
記憶にぐいぐいと引き込まれていく。
勝手口から差し込む強い日差し、
六年前に、
そこにわたしがいて、
そして入院したんだった。
背中を切られた。
腰部脊柱管狭窄症の推弓切除。
そして更に翌年の秋には、
右の人工股関節置換の手術。
その前の冬には
左の人工股関節置換の手術。
そして更に又もや
それは夏だったけど、
腰部脊柱管狭窄症の再手術、
張り付いた神経をはがすのが、
大変だったと、
医師が言った。
強い秋の日差し、
入院の時の日差しが
頭にこびりついている。
秋の日から始まって、
その後、
手術が繰り返されちゃったんですね。
今や外に行くには電動車椅子、
家の中では二本の杖。

それからの
毎日は、
パジャマ姿で
午後はベッド生活
テレビで刑事ドラマ、
訳ありで解決する
平穏なテレビ画面。
そこに、
突然、濁流が流れちゃたんですよ。
濁流が家々を押し流して行くんですね。
すごい、すごいね。
ベッドで、
ぐいぐいと引き込まれ、
でも、
わたしはのうのうと、
ヘリコプターの中継を見ていて
いいんだろうか。
高みの見物になちゃう。
鬼怒川の堤防の決壊。
2015年9月10日の午後ですよ。
押しなされて行く寸前の家から、
人が自衛隊のヘリに吊り上げられちゃってる。
あっ、濁流の中に立つ電柱に掴まってる人がいる。
二時間、どうなっちゃうのって目が離せない。
ようやく吊り上げられましたよ。
ほっとしたよね。
翌日の朝日新聞を見ると、
「増水一気つかんだ電柱」
の記事で、
彼は64歳のタクシー運転手の坂井正雄さん
という人だったんだ。
息子さんも
奥さんも無事で、
よかったっすね。

ところで、
わたしは、
その翌日、
ベッドから起きたら、
立てかけてある大きな一枚の写真が
ずれて二枚重ねなってるじゃん。
うそっ、
一枚が二枚に見えてる。
物が二つに見えるんですね。
テレビの二つの同じ画面が交錯しているじゃん。
メガネがおかしくなったかって、
動かしても重ならない。
こりゃ、目が変になったと、
その翌日、
麻理と、
代々木上原駅近くの
代々木上原眼科に電動車椅子で行って、
いろいろと検査して、
診てもらったら、
眼球には異常はないとのこと。
複視は、
神経の問題だってこと、
総合病院の神経内科に行くように勧められた。
それから、
家に帰って、
物を取るときは
片目をつぶって
ウインク生活。
活字を読むときは
別のメガネの片方のレンズに紙を貼っての
独眼流、
独眼流でウインク生活、
ウインク生活の独眼流。
麻理が
眼帯を作ってくれて、
独眼流で、
パソコンに向かって、
詩を書いてる。

一週間後、
2015年9月18日、
東邦大学医療センター大橋病院の
神経内科の
麻理の難病を見極めてくれた
中空医師を頼って、
診てもらいに行った。
中空医師は
若くて飾らない人だった。
わたしの話を聞いて、
採血と
脳のCTの検査をして、
脳梗塞の疑いで、
更に詳しい検査をするために、
即入院となって、
車椅子のまま
病室に運ばれた。

入院とは思ってもみなかったから、
何の準備もしてないので、
一時的退院の許可を貰って、
家に取って帰して、
麻理と手早く、
ボストンバッグに、
洗面道具やら
下着やら
何やら
いろいろ詰めて
タクシーで再入院となったんですね。

ベッドに横になると、
血液をサラサラにするための
点滴が始まり、
夕食になった。
いやー、
その夕食が、
「擬製豆腐の煮付け
春雨の中華和えに
海苔の佃煮」って献立で、
美味しかったね。
カードを差し込んで、
有料テレビを見ていると、
九時には消灯、
病室の
カーテンで囲まれたベッドは
真っ暗、
うとうとっと、
ひと眠りしたかと思ったら、

奴らが跳び出て来て、
パジャマダンス、
ウッソ!
奴らが跳び出て来て、
パジャマダンス、
ウッソ!

てな事で闇の中で、
言葉を追っかけてったわけ。
そんな日が続いてると、
旧友で親友の戸田桂太が
思いがけず見舞いに来て、
何か欲しいものがないか、
と言うので、
懐中電灯が欲しいと言ったら、
病院の外まで行って探して
買って来てくれた。
嬉しかったね。
それで、
真っ暗夜中、
枕元の小さな目覚まし時計の
針を見れるようになったんだ。
病室の夜中の時間、
時計の針が生きてくる。

入院は5連休を挟んで、
九日間。
連日の12時間の点滴と、
血液をサラサラにする薬と
日替りメニューの美味しい食事。
何と、
2キロも痩せたぜ。
女の子にはダイエット入院がお勧め!
夜中、何度も車椅子で
トイレに運んでくれた
看護師さんたち、ありがとう。
その間に、
MRIなど詳しい検査で、
脳梗塞の疑いは晴れたが、
複視は治らなかったけんど、
複視の原因は不明で、
更に通院で、
詳しくMRIを撮って、
原因追求を続けるって、
美人の担当医師の佐々木先生のお言葉。
連日の朝方、
四時頃に目が覚めて
六時点灯までの、
白けて行く窓ガラスを眺めて、
ごちゃごちゃの物思いちゃっ。

病室ぞ
秋の明け方
詩を思う
わたしゃ、八十
複視になっちゃって

はは、短歌になってるじゃん。
朝日歌壇に投稿してみっか。
ワクワクするね。
九日間の入院生活を終えて、
9月26日に退院となりました。
家に戻って、
またまた、続く
独眼流ウインク生活。

 

 

 

ある日の休日 その後

 

みわ はるか

 

 

前回の知人とテニスをしたあとの話。

わたしたちはものすごく空腹だった。
久しぶりに大量の汗をかくほどの運動をした後だからなのか、9月下旬とは思えないほどのぎらつく太陽にエネルギーを奪われたからなのか・・・。
とにかく何かを胃に放り込みたかった。

そのスポーツ施設は主要幹線道路沿いに位置していたため飲食店はわりとたくさんあった。
休日だからだろう。
どこのお店も家族連れや友達同士、カップルなどで賑わっていた。
わたしたちは少し考えた。
そこから幾分移動しなければならなかった が、昔ながらの家々が立ち並ぶ地域まで足をのばすことにした。
その辺りには昔から家族で代々経営しているのであろう飲食店がいくつかあった。
車も時々しか通らないような静かな場所だった。
そんな町の中を知人と一緒に歩くのも楽しかった。
わたしたちはある中華料理店を見つけた。
小さな平屋造りの店だった。
2人で顔を見合わせ思い切って入ってみると、カウンター10席ほどの場所に先客は1人だった。
小太りの40代半ばと思われるお腹がぽっこりと出たおじさんだった。
その男性はわたしたちのことを一瞥したもののすぐに何事もなかったように食事にもどった。
わたしたちは遠慮がちにその男性から2席空けて 座った。
見下ろすように設置してあるテレビからは今日のニュースをアナウンサーが読み上げている。
白髪、小柄、白のユニフォームを着たおじいちゃんがその店の店主だった。
たくさんのメニューがある中からラーメン、餃子、串カツを注文した。
その少し後知人が遠慮がちにわたしに尋ねた。
麻婆豆腐を追加で頼みたいというのだ。
もちろん好きなもの食べてと伝えるとにこーっと笑みを浮かべた。
わたしは今まで知らなかったが知人は麻婆豆腐が死ぬほど好きらしかった。
知人の新たな面を知れた瞬間だった。

黙々とその店主は料理を作っていた。
慣れた手つきで黙々と。
すると、奥か ら40代くらいだろうか、1人の女性が入ってきた。
栗色に染めた髪はよく手入れされていて、決して派手ではないが小奇麗な人だった。
そこに嫁いだお嫁さんであることは容易に想像できた。
店主とはとくに目を合わすことや、談笑することもなく料理の手伝いを始めた。
ただそれは見ていて自然というか、不快なものではなく、長年一緒に生活を共にしていてできあがった形な気がした。
むしろ心地いいものだった。

料理は一気に運ばれてきた。
わたしたちはそれを分けっこして食べた。
知人は何よりも先に麻婆豆腐をむしゃむしゃとほおばった。
よっぽど気に入ったらしくずっーとそればかり食べていた。
このままでは全部食べられてしまうとわたしも横から自分のレンゲを入れ、すくい、口に運んだ。
ぴりっと辛いそれは申し分なくおいしかった。

1人で食べていたらきっとちーっともおいしくもなく楽しくもなかっただろう。
お店の敷居を一緒にまたぐ、椅子に座る、メニューを一緒に覗き込む、料理が運ばれてくるまで一緒に店内をみまわす、運ばれてきたらもぐもぐと口を動かす、感想をぺちゃくちゃと言い合う、そしてまた始めと同じ敷居をまたいでその店を後にする。
ただそれだけのことなのに、誰かと一緒に時間を共有するのはこんなにも自分を愉快にしてくれる。

別れの時間だった。
次いつまたこんな時間が作れる かはわからない。
お互いわかっているのに「またね。またテニスしよう。」とどちらからともなく言い合った。
「またね」なんて無責任な言葉だ。
けれど自分たちに言い聞かせるような言葉でもあると思った。
知人はいつもわたしの背中が見えなくなるまでずっとにこにこと手をふってくれる。
少し寂しそうにも見えるその笑顔をいつもわたしは忘れられない。
「またね」が近いうちにあることを願ってわたしも最後に大きく手を振った。

そんなある日の休日はこれで終わり。