今ここにある「聖家族」の記録

村岡由梨第一詩集『眠れる花』を読んだ。

 

長田典子

 
 

 

村岡由梨さんの第一詩集『眠れる花』(書肆山田刊)を読んだ。201ページの厚い詩集は、二部構成で、33篇の詩が収められている。

表紙には画家の一条美由紀さんによる「村岡由梨肖像画」が効果的に配置され、インパクトがある。一条さんの絵は、いつもとても個性的で不穏な物語性、そして詩的な不条理性を孕んでいるように感じて、目が離せなくなる魅力を感じる。その一条さんの絵が表紙なのだから、存在感を感じさせないわけがない。裏表紙には娘さんの眠さんによる「村岡由梨肖像画」が描かれている。コンテチョークで描いたのだろうか…一枚の絵なのに折り目を境に表情が明と暗に分かれるように巧みに描かれており、表紙に負けない迫力で迫ってくる。タッチの違う描き手による村岡さんの肖像画は、激しい本の内容とよく合っている。
詩集の場合、自費出版のため、詩人本人が多くをプロデュースしなければならないことが多い。表紙はじめ本のたたずまいそのものに、どれだけ著者が心を込めて詩集製作に取り組んだかが現れることが多いように、個人的には感じている。村岡由梨さんの第一詩集『眠れる花』は、本を見た瞬間から、著者の強い思いを感じさせる。

もともと映像作家である村岡由梨さんは、詩作を始めてすぐの2018年11月からウェブサイト「浜風文庫」で発表を続けた。2021年1月まで書かれた作品を2021年7月31日発刊の201ページもの詩集に纏めてしまった。創作への熱いエネルギーを感じる。著者自身は、あまり意識していないかもしれないが、初めから、ご自身の内部を言葉にしてさらけ出す、さらけ出してしまえる凄さは詩を書く大きな才能だと注目している詩人だ。

タイトル『眠れる花』は、長女の眠(ねむ)さんと次女の花さんの名前から付けられており、詩集中に同タイトルの詩が収められている。村岡さんの娘さんたちを想う気持ちが伝わってくる。多くの詩の中に、思春期真っ只中で、感受性が人一倍強い娘さんたちのエピソードや、精神的に揺らぐ母親の村岡さんを娘さんたちが励ます言葉、やはり鋭い感受性ゆえに揺れ母親としてこれでいいのかと自分を厳しく問いただす村岡さんの悩み、映像作家の夫の野々歩さんも登場し、家族の温かくも危うい日常が描かれている。娘さんたちのピリピリした感受性に、村岡さんも野々歩さんも同じ目線の高さで対応し、受け止め、お互いの鋭さが音叉のように共鳴し合い増幅する。壊れそうなお互いを、必死に支え合う家族の姿は、「今ここ」にある「聖家族」の姿をリアルに描いている。

村岡さんの詩は、夢やイメージが唐突に出てきて唐突に途切れたりする。読んでいる方は、混乱する。だが、その混乱した世界こそが、村岡さんの世界なのだと知る。もしも、手慣れたやり方で、それぞれの連の運びをスムーズにしようとしたら、もう、村岡さんの詩ではなくなってしまう。

村岡さんは詩のなかで、自身の過去をどんどん暴いていく。自身に付きまとい激しく苦しめる自己憎悪の原因をつきとめようとする。村岡さんの感じている自己嫌悪や自己否定感は、そのへんにある生半可なものではない。非常に激しく厳しく救いようがないほど深い感情だ。村岡さんは、常にその忌まわしい感情と闘っている。隙あらば自分を抹殺しかねないほどのどうにもならない感情なのだ。さぞきついだろうと思う。
村岡さんが今まで11本の映像を制作し、2018年から詩を書き始め追及していることは、自身のその自己憎悪と自己否定を表現すること、そして、映像制作や詩作で、そのありかを実体として掴み抽出しようとしている行為のように思う。実体が把握できれば、うまく共存することもできるようになるかもしれない。

「クレプトマニア」という詩では小学生の頃の万引きの話が描かれている。そして自分へ自己憎悪を言葉として形にして受け止めてみる。当然、当時の母親や父親の言動も思い出すことになる。そしてさらに救われがたく深く落ち込んでしまうのが行間からうかがえる。しかし、娘さんたちの次のような健気な励ましの言葉や行動を思い出し書くことで、何とか立ち上がろうともがいている。

 

中学3年生の娘が言いました。
『嫌い』っていう言葉は人を傷つけるためにある言葉だから、
簡単に口に出してはいけないよ

でも、私は、私のことが嫌いです。

小学6年生の娘が言いました。
「私が私のお友達になれたらいいのに」

 

また、

 

「ママさん、ママさん」
そう言って、ねむは
はにかみながら私を抱きしめる。
「人ってハグすると、ストレスが3分の1になるらしいよ。」
そう言って、はなが
ガバッと覆いかぶさってくる。

 

「イデア」では、それまで過激な表現が多かった映像作品から脱皮したような穏やかな家族の日常と病弱な愛猫の死を通して、存在とは何かを問いかけているように感じる11本目の同タイトルの映画「イデア」の感想を夫の野々歩さんが言う。

 

「君が今日まで生きてきて、この作品を作れて、本当に良かった。」

 

初期の頃から一緒に映像制作をしていた野々歩さんの言葉の重みを感じ、読者もほろっとする。ここでも、村岡さんは、激しい自己憎悪と自己否定感から、何とか救われようと言葉を連ねる。

『眠れる花』は、ストレートで散文的な言葉に圧倒される。そして強烈な場面が次々に描かれている。現代詩を読み慣れている人にとって、これは詩なのだろうか、と疑問をもつかもしれない。わたしは愚かにも、散文かエッセイのように、行分けされた詩を頭の中で繋げてみた。もちろん、繋がらなかった。これは、まぎれもなく詩なのだと再認識した。詩集中の多くの詩は、詩の概念やロジックからはみ出ている。そこが凄い。村岡さんの大きな才能を感じずにはいられない。

「青空の部屋」では、

 

太陽に照らされて熱くなった部屋の床から
緑の生首が生えてきた。
何かを食べている。
私の性器が呼応する。
もう何も見たくない。
もう何も聞きたくないから。
私は自分の両耳を引きちぎった。
耳の奥が震える。
私が母の産道をズタズタに切り裂きながら生まれてくる音だ。

 

植物のような緑の生首は、新鮮で生命力にあふれかえっている。それは、母の産道を切り裂きながら産まれてくる著者自身だ。現在、精神的な病を抱えている村岡さんは、娘さんたちのために、常に「よい母親」でなければならないと思っている。生首のイメージが現れたとき、村岡さんの母親と自身が母親であることが重なってしまい、「性器が呼応する」。激しく自己を憎悪し、「耳を引きちぎ」りたくなる……。

 

そして、漆黒の沼の底に、
白いユリと黒いユリが絡み合っていた。

 

自分が分裂していく…。その姿を詩の言葉で確認する。そして再生への道を模索していく……。そんな、懸命に生き延びようとする村岡さんの姿に感動する。

「ぴりぴりする、私の突起」では、助産婦に

 

「乳首を吸われると、性的なことを想起してしまって、
気持ちが悪くて、時々気が狂いそうになるんです。
乳首がまだ固いから、切れて、血が出るんですけど、
自分の乳首が気持ち悪くて、さわれなくて、
馬油のクリームを塗ることができないんです。」

 

と打ち明け、笑い飛ばされてしまう。おそらくこの助産婦は極めてフツーの人で、フツーの発想以外を信じないタイプの人だ。しかし、人を相手にする仕事の人だったら、相手が抱える深い闇を見抜き、寄り添おうと努力して欲しいものだと思う。また、村岡さんだけでなく、赤ん坊に乳首を吸われて性的なことと結びつけてしまう女性は、口には出さないだけで、案外多くいるように思う。あたりまえのことではないか……。ただし、村岡さんは誰よりも強い自己憎悪の感情の持ち主だ。だから、自分の乳首を気持ち悪くて触れない……。このことを多くの女性を相手に仕事をしている助産婦さんには理解して欲しかった。

自分のことで恐縮だが、わたしは、妊婦を見かける目を逸らしたくなる。妊婦の膨れたお腹の中に、赤ん坊とは言え、もう一人の人間がまるまって、そこにいる……そう考えただけで、正直、気持ち悪くて直視できない。妊婦は未来を育む赤ん坊を身籠っているというポジティブなイメージしか世の中の人は認めない。でも、わたしには、どうしても受け入れられない存在だ。わたしは妊婦には絶対になりたくなかった……。30代になってから10年以上に渡って下腹部がのたうち回るほど酷く痛み、遂に何も食べられなくなって体重が30キロ台になりガリガリに痩せてしまった時期がわたしにはある。男性と同様に社会で働きたい(働くべきだ)という強い気持ちから、女性性や母性を激しく否定する潜在意識が宿っているのだろう。跡取りとして長男の誕生を切望されていたところに女児として生まれてしまった生い立ちも、深く影響しているはずだ。やっかいなことに潜在意識はコントロールできない。痛みは月経の周期に合わせて月に3週間は襲ってきた。子どもを孕みにくい月経が始まったとたんに身体はすっきりと痛みから解放され、月経が終わると再び断続的にやってくる七転八倒するほどの痛みが続いた。やっとの思いでよい医師に出会え、原因が激しい鬱状態からくる痛みだとわかった。クリニックに通い適切な投薬を受けていることもあり、現在は痛みの症状が出なくなった。これも激しい自己嫌悪や自己否定の類からきているはずだ。こういう自己嫌悪、自己否定の在り方についても、世間の人はなかなか理解できないだろう。

女性、特に母親に対して、世間はいまだに固定的観念を押し付け、抑圧する。しかし、21世紀の現代、その固定的で抑圧的な観念から、進化できないものかと思う。女性であろうと母親であろうと、十人十色の生き方や感じ方があっていいはずだ。

「絡み合う二人」では、母である村岡さんと思春期の娘さんとの微妙な愛情関係が描かれている。微妙な愛情関係とは、母と娘、母と恋人、母と女友だち…そんな複雑な温かい関係だ。しかし、思春期の娘の胸のふくらみに、母として、いつか自分から巣立って離れていってしまうという不安がよぎる。そこから母乳で娘さんを育てるご自身を回顧する連が強烈だ。

 

青空を身に纏った私は、
立方体型の透明な便器に座って
性の聖たる娘を抱いて、授乳をしている
娘が乳を吸うたびに
便器に「口」から穢れた血が滴り落ちて、
やがて吐き気をもよおすようなエクスタシーに達し
「口」はピクピクと収縮痙攣した。
無邪気な眼でどこかを見つめる娘を抱いたまま
私は私を嫌悪した/憎悪した。

 

この鮮やかな連にわたしは驚愕し、感動した。ここには、「新しい、誰も描かなかった母子像」が輝くように存在している。後光を放っている「現代の母子像」として、わたしの胸を射抜いた。

 

小さくて無垢な娘は、お腹がいっぱいになり、
安心したように眠りに落ちていった。

あなたは、悪くない
ごめんね。
ごめんなさい。
穢れているのは、あなたではなく、私なのだから。

 

美しく眠る赤ん坊に向かって謝る村岡さんがいる。読者であるわたしは、思わず声をかけたくなる。「あなたはちっとも穢れてなんかいない。並外れてご自身に、ご自身の身体に、敏感なだけなんだよ。」と伝えたくなる。ありていな言い方になるが、多くの女性は母性と経血を結び付けたりはしない。村岡さんだからこそ、感じられる特別な感覚であり感性だ。村岡さんには、自分の感じたイメージを迷いなく言葉にしていく凄さと度胸を感じる。

詩集には「眠は海へ行き、花は町を作った」「変容と変化」「新しい年の終わりに」など、家族の危うくもほのぼのとした内容の詩も多く含まれている。

2021年6月6日(日)、13日(日)にイメージフォーラムで行われた「村岡由梨映像展<眠れる花>」で上映後のトークで村岡さんは、「日頃、実体に対する不安があり、フィルム制作そのものに実感を感じる」と話していた。会場で配られたパンフレットの2016年に制作した「スキゾフレニア」(16ミリ)の説明には、「私は今、ここに存在しているのでしょうか。今、このキーボードをたたいているのは、本当に私なのでしょうか。このキーボードは本当に、ここに存在しているのでしょうか。この椅子は、本当に、ここに存在しているのでしょうか。この、床は、本当に、ここに存在しているのでしょうか。……」と魂の悲鳴のような言葉が書かれている。村岡さんが一人の人間としてぎりぎりのところで懸命に踏ん張り、生きていることがわかる。

自分の存在、自分を取り巻く世界の存在を確かめるために、映像制作をしてきた村岡さん。その制作体験を礎にしながら、今度は言葉にして、存在を確かめ、書くことを始めた村岡さん。事象を客観視し気付いていく様子が、行を追う読者にもリアルに感じられ一緒に納得させられる。ぎりぎりの状態まで追い詰められながらも、家族の存在に助けられて生き抜いてきた。激しい自己嫌悪と自己憎悪に苦しめられつつも、村岡さん自身も家族を支え大きな力になっているはずだ。これからも、ご自身の感覚や感性からの表現を大切にし、映像制作、そして詩作を続けていただきたい。あえて詩について注文するとしたら、ざっくりと捉えた粗削りな言葉の中味を、さらに開いて細かい表現の仕方にも触手を伸ばして欲しい。とても楽しみな映像作家であり詩人だ。

村岡由梨さんの第一詩集『眠れる花』には、裏表紙となった娘さんの眠さんの絵はじめ、花さんの詩や夏休みの立派な工作の写真、そして病のため1年で命を終えた愛猫のしじみの写真、夫となった野々歩さんとの運命の出会いの話なども織り込まれている。今ここにある「聖家族」の記録となっている。真摯で壮絶な家族の物語は、どこの家庭にも潜んでいる狂気を暴いているようにも思える一冊だ。

 

 

 

 

長田典子『ふづくら幻影』読書メモ

 

長尾高弘

 
 

 

『ふづくら幻影』は、作者が幼少時に暮らし、人造のダム湖である津久井湖の底に沈んだ旧神奈川県津久井郡中野町不津倉にまつわる詩作品を集めた詩集である。以下は、個々の作品の感想。まだ詩集を読まれていない方は、先に詩集を読んだ方がよいかもしれない。

「祈り」。「涙」という縦の動きが「水位」という言葉で横に広がる「湖面」という境界となり、その下に沈んだ祖先との間に長い距離ができる。この場合、水は必然的に冷たいものになるだろう。最後の「永遠に結露する」が見事。

「夏の終わり」。湖が渇れて地上に現れたかつての村の絵が二度描かれる。おじおばが若かった頃はまだどこがどこだったかわかるが、「新しく家族となった男」と数十年後に来たときにはもうどこがどこだかわからない。湖底というふだん見えないものが見えたときに数十年という時間が重層化される。「男」という言葉がちょっと冷たく感じられて気になる。

「上を向いて歩こう」。「幼すぎた私の涙」の5行と坂本九の歌で工場にいた家族、親戚、奉公人の思いを描いている。天井が夜空になって星が輝くことから、決して辛い涙ばかりではないのだろう。

「バャリースのオレンヂジュース」。働く人々の褻の日々を描いたあとで晴れの日が描かれる。ふたつの詩で高度経済成長期の空気をよく伝えていると思う(私も長田さんよりさらに幼いながらその時代を生きたので、ぼんやり思い出すものがある)。

「セドリックとダイナマイト」。タイトルのふたつはセットであることが明かされる。でも、補償金はまだ入っていないのだ。このセドリックの種明かしの1行が初読のときから印象に残った。火消しの場面は、この詩集では書かれていない家族の運命の伏線になっているようだ。最後から2番目の連はひょっとするとなくてもよかったのかもしれない。

「しらんぷり」。「大きな魚」が効いている。日常と非日常。外から来た人の死が明らかになったところで繰り返される「いつも通り」も効いている。最後の連を読むと、遠くから見ると光っているのに近づくとただの石になってしまう川の石の連が自然の恐ろしさの伏線になっていたのかと気づく。

「蛍」。50年前は私が住んでいた柏市でも行くべきところに行けば蛍が見られた。20代の頃、越後湯沢で見たのが最後だなあ、と蛍がいた頃のことを思い出す。すごい技を持っているおじさんというのも、ごくわずかになっただろう。その時代を知っている者には、時代が変わったことがよく伝わってくる。

「水のひと」。過去には夢ではなく現実だったはずの野辺送りの行列が夢のように美しく描かれている。とりどりの色とひらひら、ゆらゆらといった畳語(ひとびとというのもある)がそのような効果を盛り上げていると思う。最後の「商店街のある町で/溺れたひともいるそうです」の2行が、村を失ったことの後悔を問わず語りに示していてうまいと思う。

「お祭り」。過去の村の生活を美化しているだけではなく、男の子は神輿をかつげるのに女の子はかつがせてもらえないというジェンダーの問題を告発口調ではなくそっと示している。「黒曜石」は、「ツリーハウス」や「空は細長く」でも何食わぬ顔をして再登場する。

「かーん、かーん、キラキラ」。ジェンダーでは差別される側だったが、民族では差別している側に立っている。食べもののなかに砂が混ざり込んでいたときのような苦さがある。でも、この作品が入っていることによって、この詩集が描く村の生活は深みが増したと思う。

「川は流れる」。これを読んで改めて地図を見た。相模川の源流が山中湖にあることを初めて知った。川をせき止めて作った湖の詩集に川の源流の話は欠かせないだろう。最後の「めだかに遊んでもらっていたのも気づかずに/川がお母さんのようだったのも気づかずに」の2行が効いている。

「ツリーハウス」。村が湖底に沈んだあとの再訪の詩であり、「夏の終わり」と対応している。このふたつの詩の間に過去の村の絵が入っている。「蛍」からの3作が、開発と無関係だった頃の村の生活を活写していて、それが詩集のちょうど中央あたりになっており、時間をU字形にたどっている。山羊の黒曜石と「わたし」のうんこの対比が面白い。

「午前四時」。亡くなったご両親が夢に現れる。浜風文庫で故郷を離れたあとのお父上との激しい対立関係についての作品をすでに読んでいるので、「もう借金取りに追いかけられるのはいやだからね/こんどこそ儲かるといいね」という2行をいずれまとめられるだろうその詩集の予告編のように受け取ってしまった。でも、ここでは「もっともっと たくさん/いろんな ありがとうを 言わなくちゃ」といった行に救われる。

「黄浦江」。メアンダーはmeanderで蛇行という意味の英語。前作『ニューヨーク・ディグ・ダグ』を思い出させる。国境を越えて蛇行という共通点を持つ中国の川と外国の人が登場することによって詩集の風通しがよくなっている。

「空は細長く」。今という時間から過去を振り返っている。スサノオが退治したヤマタノオロチなるものもおそらく川であり、彼は治水の力によって権力を獲得したのだろう、というようなことを思い出す。詩集内の位置からも、湖の底に沈んだ川沿いの村へのレクイエムのような響きを感じる。

「巡礼」。ユーラシア大陸の西の果てで東の果ての故郷を思う。時間も戦国から現代までをたどり、「セシウム」が効いている。スケールが大きくて、詩集の締めくくりの詩にふさわしい。

途中で少々文句もつけてしまったが、時代と人が見事に描かれていて、構成がよく練られているすばらしい詩集だと思う。最後にもうひとつ文句を言ってしまうと、製紐工場の最後を見たかった。それは次の詩集で明らかにされるのかもしれないけど。

 

 

 

不確かさを確かめる

中村登詩集『笑うカモノハシ』(さんが出版 1987年)を読む

 

辻 和人

 
 

 

第3詩集となる『笑うカモノハシ』は前の2冊に比べてぐっと言葉の運びに飛躍が少なくなり、意味が辿りやすいものになっている。同時に論理の筋道や構成がずっと複雑になっている。比喩を使って物事を象徴的に示すのではなく、時空をじっくり造形することで詩が展開されていく。『水剥ぎ』の頃には、一見解き難く見える暗喩が現実の一場面一場面を鋭く名指していた。3年後の『プラスチックハンガー』では非現実的なイメージを遊戯的に軽やかに展開する中、ふとした瞬間に生身の現実の吐露に立ち戻るという仕方で、虚構と現実の間を越境する面白さを打ち出す書き方だった。『笑うカモノハシ』では、物語を散文的な言葉遣いでかっちり展開させ、その物語を、思惟する作者の姿の比喩として使っている。
ここで中村登の生活の変化というものを考えてみたい。鈴木志郎康がまとめたウェブページ「古川ぼたる詩・句集」によると、中村登は1951年に生まれ、和光大学を卒業後、大学の仲間と印刷所を始めたそうである。1974年に結婚し、1979年に東洋インキ製造株式会社に入社とある。和光大学は当時左翼運動の盛んな大学だったので、中村登もその影響を受けたかもしれない。普通の就職を避けて起業したがうまくいかず失業。結婚し子供ができ、若くして一家の大黒柱になった中村登は結局、就職することになる。『水剥ぎ』における過激な暗喩は、不安定な生活への激しい不安が直接反映されていると考えられる。性にまつわる詩が多いのも若さ故ということであろう。『プラスチックハンガー』の詩は、会社勤めに慣れ、子供たちはまだ幼いながらも手がかからなくなってきて、心に余裕ができた頃に書かれている。言葉の運びに遊びが多くなっているのはそうした心境のせいもあるだろう。そして『笑うカモノハシ』では、30代半ばに差し掛かり、ぼんやり見えてきた老いや死について想いを巡らせ、世の中を俯瞰して見ようとする態度が見られる。まだ十分若いが青年期を過ぎ、自分を取り巻くものについて客観的に考えてみようという感じだろうか。こうしてみると、中村登が環境や生理的な変化に即応し、作風を変化させていることがわかる。

思考の詩と言っても、詩的な修飾によって思索を綴っていくのではなく、「笑うかも」とトボけながら、その時々の思考の姿を肉感的に描いていくのである。
まずは冒頭の詩「あとがきはこんなかっこいいことを書いてみたかった」を全行書き写してみよう。

 

空0現実とは気分
空0
空0波動の連続体であるという
空0大胆な仮説が
空0自分の欲望
空0から
空0見えた世界を呼びとどめる

空0呼びとどめ
空0どちらに行けば極楽
空0でしょう
空0どちらさまも天国どちらさまも地獄世界は
空0あなたの思った通りになる
空0思った通り
空0風のように、鳥のように、花のように、苦しみにも
空0千の色彩、千の
空0顔がある

空0千の色彩、千の顔が
空0「いたかったかい」
空0馬鹿げた質問だが
空0わたしには他に
空0話しようがなかった。

(『日本語のカタログ』『メジャーとしての日本文化』『メメント・モリ』映画『路(みち)』のパンフレット『ジョン・レノン対火星人』より全て引用)

 

()の注釈から、全体が複数のテキストからのコラージュで成り立っていることがわかる。他の中村登作品には見られない「かっこいい」言葉が並んでおり、そしてそのことをタイトルで示している。言葉についての言葉、つまり「メタ詩」だが、照れながらも彼の関心事を率直に語っているようである。現実は「気分/の/波動の連続体」、主体のその時々の気分が現実を決定する、天国も地獄も気分次第、現象は千変万化するがそれも主体の気分を反映したもので、それ以上は話しようがない、大意としてはこんな感じだろうか。ここで中村登は、万物は常に流転するといった哲学を語っているのでなく、自分という存在の頼りなさ、不確かさについて語っている。世界に触れるのは自身の感覚と身体を介してしかできない、それは自分という存在の頼りなさや不確かさを実感することと同じ……。この感慨は「扉の把手の金属の内側に/閉じこもってしまいたい でも/閉じこめられてしまえば/出たいと思う」(「便所に夕陽が射す」より)と書いた『水剥ぎ』の頃から登場していたが、この詩集では「不確かさを確かめる」ことをメインテーマに据えている。

「自重」は互いに関連のない4つのシーンを集めた詩である。その4連目。

 

空0声を聞いて
空0声の刺激に
空0鼓動をかくし
空0ドアにかくれてトイレで
空0手淫、
空0勃起しはじめるものの
空0わけのわからなさ、男根というものが
空0わけのわからないものになって三年経ち四過ぎ
空0なにもかも
空0なにも知らないというままで
空0わたしは
空0この男のなかから
空0消えうせることになってしまうのか

 

トイレに籠って自慰をする、普通の男性の生理的な行動と言えるだろうが、そんな自分の行為を作者は「わけのわからないもの」と位置づけている。子作りを終え、微かに性欲の衰えも自覚されている。自慰行為をするといっても以前ほど行為に没頭できなくなり、妙にシラけた気分になってしまう。30代にもなればそういう覚えは珍しくないし、普通は仕方のないこととして流してしまう。が、中村登はそれを注視し、自分を「この男」に置き換え、更にそこから消え失せる想像をする手間をかける。何らかの結論が出たわけではなく、非生産的極まりない想像だ。しかし、「不確かさを確かめる」ことに憑かれた中村登はそれをやらないわけにはいかない。

不確かなもの、曖昧なもの、あやふやなもの、を追求するという点で徹底しているのが「夢のあとさき」である。

 

空0さっきまで草か木になるんじゃないかって
空0思っていたと中村がいうと
空0へェーいいわね花になるなんて思えたのは
空0十七八の娘の頃だけだったわ
空0という森原さんが
空0この間たまたま清水さんと
空0向い合わせになってね
空0清水さんはねこう頭の上に
空0いっぱい骨があるんですって

 

詩人同士と思われる仲間たちとワイワイお喋りするところから始まる。どうやら話題は死んだらどうなるか(!)という物騒なもの。しかし、話のノリは軽い。こんな調子でだらだらと会話が続いた後、会合が終わり、話者は妻と待ち合わせの場所に行こうとして道に迷ってしまう。

 

空0池袋では出口がいつもわからなくなる
空0待ち合わせたスポーツ館の方へ行く出口がどれなのか
空0わからなくなっていつもちがう方へ出て
空0いちど出てからこっちじゃないかと探して
空0引き返してから反対側へ出てでないと行けない
空0カミさんと池袋に行ったことがないから
空0カミさんと池袋に行く中村は
空0きっと
空0なじられる

 

詩の後半はこのようにまただらだらと、待ち合わせの場所に辿り着けない(結局電話をして迎えに来てもらう)愚痴のようなものを綴る。この「だらだら」は意図的なものであり、口調としては弛緩しても詩の言葉としては緊張感がある。だらだらした時間も確実に生きている時間の一部であり、後から見ればだらだらしているが、直面したその時その時は抜き差しならぬ現実そのものである。中村登はそうした時間の質感の不思議さを、自分の身に即して書き留めようとしている。

「胸が雲を」は家族の間に流れる空気の機微を描いている。個であり群でもある、という当たり前と言えば当たり前の関係を、わざと突き放し、「不思議なもの」として眺めている。

 

空0ボクとカミさんはそれぞれ
空0立ったり座ったり横に曲がったりして
空0たまに止まっていると
空0ここがどこなのか見失うことができる
空0自分が誰なのか見失うことができる
空0常々独身に戻って
空0気ままに人生をやりなおしたいと思っている
空0ボクが
空0「別れようか?」
空0「あなたがそうしたいと思ってんならわたしはいつだってOKよ」
空0いとも簡単に答える
空0そんな簡単に別れて後悔しないのか?
空0もっと深刻に理由(わけ)を探したらどうだ!
空0「どうして別れたいの?」
空0「だってあなたが先に別れようか? っていったんじゃあない」

 

互いに信頼し合っているからこその微笑ましい会話だが、夫婦と言えども個と個なのだから、どちらかが強く望めば別れることは実際に可能なのだ。冗談であっても口に出してしまうと複雑な想いが残る。そこに、「もっていたオモチャを/遊び相手にくれてしまった/子供」が戻って来る。子供がいると家族という形が安定して見えることは見えるが、

 

空0オモチャをなくしてしまったボクたち三人の子供の胸の中
空0自転するものがある

 

父親と母親と子供ではなく、子供と子供と子供がいる、と言い換える。別々に生まれ、別々に死ぬ、頼りない個が集まっているだけなのだ。三人とも、「ここ」とか「誰」とかを「見失うことができる」のである。中村登の築いた家庭は強い愛情の絆で結ばれているが、それでも個である限り、物理的にいつか離れ離れになることを免れることはできない。

そして「チンダル現象」は、物理としての現実を俯瞰した視点で問題にした詩である。

 

空0子供たちがチンダル現象だ、といっている。

空0宇宙の写真をみたことがある、とてつもない宇宙の、その写真のなかでは、太陽さえも、

空0チリかホコリのようなものだ、った。

空0窓から射しこんできた光の、なか、微小な粒子が、ゆらいで、舞い、うっとりと、光の河

空0が、にごっている、あの天体の写真のよう。

 

チンダル現象とは、光が粒子にぶつかって散らばった時に見える光の通路のことで、木漏れ日などがそうだ。この詩は一行ごとに空行が挿入されており、チンダル現象の光の進路を摸しているように見える。世界の成り立たせる原理について、以前の詩には見られなかったような抽象的な思索を繰り広げていくが、それで終わらず、自身の存在について想いを巡らせていく。詩の中ほどに「生物が、海から、あがってきた」ことを「無残な記憶」とした上で次のような見解を述べるのだ。

 

空0それは、わたしたちが、このネコや、このヒトである、そのことが、すでに、
空0そのことで、力の抑圧なのだった。

 

本来水の中にいるのが自然だったのかもしれない生物にとって、陸にあがって生活するということ自体が抑圧ということ。これは作者の実感からきたものだろう。平穏な毎日の中に何かしらの抑圧を感じる。社会のせい、人間関係のせい、という以前に、自分の力では如何ともし難いもっと根源的な原因があるのではないか。詩の最終行は「チリか、ホコリにすぎない、微小な球体の表面では、信じ、なければ、開かれない、無数の扉が虚構のことに、思えてくる」と、測り難い自然の営みへの畏れが語られる。

「水の中」でも、世界の理についての見解が披露される。

 

「 子供にせがまれてつかまえたその川の子魚を飼っている。水槽に入れて、エサをやった後はしばらく眺めている。と、魚と目が合ってしまう。魚は川の中にいればひとの顔を正面から見ることなんてことはないだろうにと思ったその時、魚がぼくとは全く違う別の世界の生き物であることに、あらためて気がついた。魚は水中の生き物だ。そしてぼくは水中では生きていけない生き物だ。 」

 

魚の目から見た自分の姿。本来ならあり得ないはずの出会いの形。中村登はここで自分という存在を自然界の秩序の中で相対化してみせる。水槽で魚を飼うという、自然の秩序を乱す行為によって逆に秩序の形が見え、そこから自分の存在の特異性が見えてくるのである。
俯瞰した視点で自分の存在とは何かを問えば、一個の生命体であるというところに行き着くが、生命体には寿命があり、その儚さが意識に上らざるを得ない。

「水浴」は、子供が生まれたばかりの子猫を拾ってきたことの顛末を、句読点を抜いた散文体で描いた詩。子猫は弱っていたがスポイトで与えた牛乳を次第に吸うようになっていく。

 

「 よしよしとしばらく腹のふくらみをなでよしよしと頭をなでていると抱いている手にしっとりと暖かいものが流れ出し次にはポロッと米粒くらいの黄色いウンコをするのでぬれタオルで尻をふいてやり目のあたりをたぶん親猫が舌でそうするだろうように指でさすってやっていると予定していた海水浴に行く日も近づいてきているしこのままネコの子を置いて出かけるわけにもいかないしもう行かないものと決めている七日目の晩右目が半分ほど開き左目がわずかに割れたように開き牛乳をあたため用意している間中も抱いている手のひらをなめ 」

 

子猫が死の淵から生還していく様子が細かな描写でもって描かれる。最後は「湯ぶねに水を張り行水よろしく水を浴び体重計にそっと頭を下げて下腹をわしづかんであと三キロ三キロと股間を見おろすむこうからとっ、とっ、とっ、とっ、とっ、とくるものに目のまえがくらむ」と、子猫が元気になった様子を示す。楽しみにしていた海水浴をあきらめ子猫の介護に尽くす家族の暖かさに胸を打たれるが、より印象的なのは、生き物が死と隣接していることを念頭に置いた作者の描写の仕方だろう。目の前の生き物が死んでしまうかもしれないというびくびくした気持ち。子猫が元気になって良かったという事実よりも、生は死を内包している、その観念を浮かび上がらせるために、せっせと細かな描写を積み重ねているように見える。

生命の在り方への関心が個体差という点に向かうこともあれば、

 

空0うちにもどって
空0娘、一九七四年二月十二日生。
空0その娘の母、一九四九年二月四日生。
空0十二才の足と
空0三十七才の足と
空0見くらべて
空0十二才の足の方が大きくて平べったい
空0歩いた道のちがいが
空0足に出ていて
空0三十七才のは
空0ころがってた石ころ
空0つかんだままの
空0甲が張ってて小さくて
空白空白空白空白(「やり残しの夏休み自由課題」より)

 

生命の連関について、神秘的なスケールで考えてみたりもする。

空0きのうまでは見ていて見ることがなかった
空0ないところに咲いた花が
空0死んだ祖先の魂ではないのか
空白空白空白空白(「花の先」より)

空0樹木のような意識は、個体を通って、個体を離れてもなおつながっているような
空0意識は、目には見えないけれども、ある日、花が咲いたように、思いもよらないところに、
空0パッと開かれるのを、どこかに感じているから、花に呼ばれるように花見をしにいく。
空白空白空白空白(「花の眺め」より)

 

これらの詩は、自分という個体がこの世のどのような秩序の中で位置づけられているかについて想いを巡らすものである。そして、そうしたテーマを自分の頭の中の出来事として完結させるのでなく、身近な人とのつきあいを通して展開した作品もある。

 

「 トーストでなくてふつうのパン、ウインナ、目玉焼、トマト、三杯砂糖を入れた紅茶を三杯、それだけを食べて、頭をとかす、ウンチをする、それから八時半頃、歩いて野田さんは出社する、朝はセカセカするのがキライだから、まわりはほとんど商店街だ、 」
空白空白空白空白(「八百年」より)

 

野田さんは会社の同僚のようだ。出社から退社までの様子を、事実だけを列挙し、感情を廃したとりつくしまのない調子で淡々と描写していくが、最後の2行で見事に「詩」にする。

 

「 月ようから金ようまで、野田さんは、こうして、もう、八百年は経ってしまっている感じがする、八百年か、と野田さんは言った。 」
空白空白空白空白(「八百年」より)

 

家と仕事場を往復する単調な毎日を、「八百年」という言葉が、非日常的な響きのするものに変えていく。実際は「八百年」というのは雑談の中で冗談のつもりで出た言葉なのだろう。しかし、句読点のない、読点だけでフレーズを切る無機的なリズムの中では、「八百年」は平凡な毎日がそのまま虚無に通じていくかのようだ。

 

「 陽射しが、すこし、弱くなって、Tシャツ、ビーチサンダル、で、すごせる、野田さんは、朝、おそくおきて、奥さんの、尚子さんが、家のことをすませたら、林試の森に、出かける、オニギリ十二、三個、麦茶、オモチャで、出かける、オニギリはだから、玉子くらいの大きさで、林試の森は、目黒と品川の境、近くに、フランク永井の邸宅があったり、 」
空白空白空白空白(「ピクニック」より)

 

「八百年」と同様の調子で始まるこの詩だが、中ほどから印象的な展開が始まる。

 

「 太陽の光が、差しこんで、チリにあたって、濃くなって、ちょうど、写真のなかの、星雲のようで、野田さんは、無数の、チリの、チリのひとつの、うえに、なにかの、はずみで、ピクニックに来てしまった、朝の、光の、波打際で、光を追い越させている、と、尚子さんも、秋一郎くんも、生きている写真だ、あっというまに、なつかしくなって、 」
空白空白空白空白(「ピクニック」より)

 

陽が差し込んだのをきっかけに、家族の楽しいイベントが一転して物理現象に還元され、更に神秘体験のような状態に入ってそのままエスカレートしていく。

 

「 木立の緑が、光って、カメラ、野田さんは、もう、自分が、カメラになってしまって、いる、光が、濃くなって、そこが、じんじん、じんじん、チリのようなものを、吸い込んで、吹き出して、ものすごいスピードで、止まっている。 」
空白空白空白空白(「ピクニック」より)

「ものすごいスピード」で「止まる」とはどういうことか。今「生きている」のに「写真」で「なつかしくなる」とはどういうことか。普通、人は、ピクニックをする時は日常生活の論理で考え行動し、宇宙の原理について考える時は、日常を脇に置いた、科学的ないし哲学的な構えを取る。それらをつなげては考えない。だが、ピクニックも宇宙の現象の一つであることに間違いない。中村登は「詩の領域」を設定し、平穏な日常の風景が神秘体験と化す離れ業をやってのけるのである。

「密猟レポート」は、こうした超越的なアイディアを、ナンセンスなストーリーを通して綴った詩である。

 

空0今夜、Nさんらとクルマで
空0東北自動車道をとばし、
空0野鳥を密猟しに山に入ります。
空0夜を高速で飛ばすのは
空0まったく神秘な気分です。
空0ひかりのふぶくなか
空0なつかしい地面をただようのです。

 

ふざけた口調で、ホラ話であることを読者に明らかにする。このまま間の延びた調子で密猟の様子で語っていくが、後半、話は不意に脱線する。

 

空0先日のわたしは
空0酒を飲みながら
空0友人の家の水槽に
空0変なことを口ばしっていました。
空0ゆらゆらと水槽で泳いでいる
空0金魚を見ているうち
空0ふっと
空0太陽もウジ虫も
空0区別がつかなくなっていました。

 

そして突然、次のような取ってつけたようなエンディングを迎える。

 

空0わたしたち4人は銃をもっていなかったため
空0熊にやられて死んでしまいました
空0わたしたち4人が死んでも自分たちがここに
空0ほんとうは何をしにきたのかわかりませんでした。
空0わたしたち4人が死んでも自分たちが
空0この地上にほんとうは何をしにきたのかわかりませんでした。

 

仲間と鳥の密猟に行き、ふと意識が飛んで別のことを考え、最後は熊に食べられて死んでしまい、その死について自問するが答えが見つからない……。ナンセンスなホラ話の形を取っているが、この詩は人の一生を戯画化したものだろう。例えば地球を通りがかった宇宙人から見れば、地球人の一生などこんな感じなのではないだろうか。何のために生きているかは遂にわからないが、自分を取り巻く世界の不思議について問わずにはいられない。忙しい暮らしの合間にふっとできた、ユルフワな哲学の時間のイメージ化である。

中村登と一緒に同人誌をやっていたこともある同年代の詩人さとう三千魚にも、類似した傾向の作品がある。

 

空0で、
空0朝には
空0女とワタシの寝息が室内にひろがっています。
空0朝の光が、
空0室内いっぱい寝息とともに吐き出された女とワタシの、感情の粒子
空0に、斜めにぶつかり、キラキラ、光っています、室内いっぱいひろ
空0がった女の、感情の粒子とワタシの感情の粒子もまた、ぶつかり、
空0朝の空間に光っています。
空白空白空白空白(「ラップ」より)

 

平凡な日常の一コマをあくまで日常的な軽い口調で、宇宙の中で起こる物理現象に還元する、そしてその測り知れなさに戦慄する。中村登と共通する部分を持っていると言える。しかし、さとう三千魚の詩の言葉がその測り知れなさに向かって高く飛翔していくのに対し、中村登の詩は地べたに降りていく。さとう三千魚の詩においては、「女」や「ワタシ」は人間としての実体を離れ、高度に記号化されて「粒子」として昇華される。だが中村登の詩は、どんなに抽象的な方向に頭が向いていても、最後は身体を介した、ざらざらした暮らしの手触りに戻っていくのである。妻も、子も、猫も、同僚も、記号化され尽くされることはなく、個別の生き物として存在する。広大な宇宙の隅っこにしがみついている、温もりある生き物としての不透明感を維持しているのである。その核にいるのはもちろん中村登自身であり、自らの矮小さへの自覚が、世界の不確かさを確かめようとする態度に顕れているのである。

詩集の末尾に置かれた「にぎやかな性器」は、不確かな世界の中で共生し、命を紡いでいく生きとし生けるものへの賛歌である。中村登自身ももちろんその一員だ。それでは、全行を引用して本稿を閉じることにしよう。

 

空0にぎやかな鳥の鳴き声
空0にぎやかな蚊のむれ
空0にぎやかな葉むら
空0にぎやかな性器

空0なぜわたしはにぎやかな鳥の鳴き声なのか知らない
空0なぜわたしはにぎやかな蚊のむれなのか知らない
空0なぜわたしはにぎやかな葉むらなのか知らない
空0なぜわたしはにぎやかな性器なのか知らない

空0鳥はなぜ知らないわたしがにぎやかである
空0蚊はなぜ知らないわたしがにぎやかである
空0葉むらはなぜ知らないわたしがにぎやかである
空0性器はなぜ知らないわたしがにぎやかである

空0ふあっきれいにぎやかな鳥の鳴き声
空0ふあっきれいにぎやかな蚊のむれ
空0ふあっきれいにぎやかな葉むら
空0ふあっきれいにぎやかな性器

空0鳥のにぎやかな鳴き声の性器はまたうつくしい
空0蚊のにぎやかなむれる性器はまたうつくしい
空0葉むらのにぎやかなむれる性器はまたうつくしい
空0にぎやかな性器はまたうつくしい

 

 

 

書けば、形になる。 02

── もしかしたら「邦楽」の良い ものは1部に過ぎないのではないか?

 

今井義行

 
 

プロローグ

前回の「洋楽エッセイ」に続いて、「邦楽エッセイ」を書いてみる事にした。しかし、前回「洋楽エッセイ」を書いてみて驚いたのは、浜風文庫の読者は、大衆音楽を殆ど聴かないのではという事だった。これはとても意外な事だった・・・しかし、クイーンやカーペンターズやビートルズくらいは、さすがに知っているはずだとも思った。わたしは、その時、詩人というのは、俗っぽいものには背を向けてしまうのかもしれないと感じた。エッセイで扱う対象は必ずしも「詩」でなくてもいいはずだ。これが「クラシック」だったら、少しは反応があったのかもしれない。それは、純音楽だからだ・・・けれど、わたしは、凝りもせず「邦楽エッセイ」を書いてみる事にした。とはいえ、わたしは、実は「邦楽」の方は、あまり聴いてはこなかった。そのため「洋楽」よりも遥かに知識を持ってはいない。しかし、なるべくネットで調べて書く事はやりたくないので、「洋楽編」よりも短くなってしまうかもしれないけれども、あくまで自分の言葉で、取り組んでみる事にした。



(取り上げたアーティストは、ほぼ、順不同。またわたしの記憶によるエッセイである為、誤りがあるかもしれない。)

 

● フリッパーズ・ギターについて。

活動期間は1987年 – 1991年。初めは、5人編成からなるグループだったのだが、その後、小山田圭吾と小沢健二の2人組ユニットとなり、「渋谷系」と呼ばれる洒落た音楽を次々に世に送り出し、席巻を巻き起こした。
わたしは、フリッパーズ・ギターの大ファンで、CDは、リリースされる度にすべて買い集めた。小山田圭吾と小沢健二は、ともに和光学園の出身でとても仲が良かったようだ。
わたしは、その頃既に詩を書いていて、1963年生まれのわたしは、1968年生まれの彼らに、猛烈なジェラシーを感じていた。わたしは詩作に夢中だったけれども、実は音楽も演ってみたかったのだ。フリッパーズ・ギターの3枚目にしてラスト・アルバムとなった「ヘッド博士の世界塔」は、頭がクラクラするほど、サンプリングを多用した大傑作だった。
フリッパーズ・ギターは「ダブル・ノックアウト・コーポレーション」名義で、他のアーティストにも、よく楽曲を提供していた。
・・・ところが、その後、彼らはあっけなく、解散してしまった。しかもツアーの真っ最中の事だった。解散の理由は、「音楽的な意見の相違」などではなくて、楽曲を提供していた、元おニャン子クラブの「渡辺満里奈」の奪い合いだったという。本当に、何処か、笑えてしまうところのあるユニットだった・・・

 

● 小山田圭吾について。

今回の東京オリンピックのテーマ曲を担当する予定だった、小山田圭吾。20数年前の、身障者のクラス・メイトへの、壮絶なイジメが発覚して大炎上となり、結局、小山田圭吾はテーマ曲に関わる仕事を辞任する事となった。このイジメにまつわる事は、ヤフー・ニュースなどのコメント欄で本当に多数の書き込みがあって、小山田圭吾は、FAXとSNS上だけで謝罪し、小山田圭吾の所属事務所もまた形ばかりの謝罪をした。そういう経緯の後、オリンピックの主催者側も、大慌てで対応せざるおえなくなったという出来事は、まだ皆んなの記憶に新しいところだろう。

確かに20数年前の音楽雑誌のインタビューで、そのイジメについて、自慢気にベラベラ喋りまくっていた小山田圭吾は自業自得と言われても仕方がないだろう。20数年前の雑誌のカルチャーはそういうものだったという指摘もあるが、わたしはそうは思わない。
いま現在も、全国の何処かで、そのような「(身障者が対象となるような事をはじめとした)相手が死なない程度なら何をやっても良い」という悪質なイジメは行われているはずで、わたしも学生時代からそのようなイジメの現場はたくさん見てきた。そしていまわたしが思うのは、イジメられた側にとって、その体験とは大変な苦痛な事であり、その傷は生涯消えるものではないという点に於いて、小山田圭吾が音楽界から干されてしまいつつあるのは当然の成り行きだとは思う。しかし、クラスでのイジメの場では、報復を怖れたりして完全に傍観者となってしまう夥しい生徒たちもいるはずで、その事もとても大きな罪なのではないかとわたしは思うのだ。そして、わたしもまた、イジメが行われているそのような現場での、確かに傍観者の1人となっていた。このイジメについての問題は、もっと時間をかけて考えられなければならない事ではないだろうか?
ヤフー・コメント欄でわたしはこのような記事を見つけた。「小山田圭吾は、末期ガン患者の方が闘病している病棟で、真夜中に演奏して苦しんで呻き声を出すのを聞いて楽しんでいた」というものだ。こうなってくると小山田圭吾は、イジメの常習犯というよりも「変質者」に近いところがあるのかもしれない。
けれども、テレビにもよく出ている漫画家の蛭子さんは、ヒトの葬式に出席する度に、どうしてもゲラゲラ笑う事を止められないという。そのような蛭子さんが非難されず、小山田圭吾が非難されるというのは、キャラクターの違いという事なのだろうか?そこのところは、分からない。

ところで、この場では小山田圭吾の創る音楽について語らなければならない。わたしは、フリッパーズ・ギター解散後の小山田圭吾のCDは、最初のアルバムから、途中までは買っていた。最初の内は、それは完全に「ポップ・ミュージック」だったのだが、だんだん聴き進めていく内に小山田圭吾が関心を持って創作していくものは「ポップ・ミュージック」から、ブライアン・イーノが創る音楽のような「アンビエント・ミュージック」へと移行していくという事がだんだん分かってきた。わたしは、「アンビエント・ミュージック」にはあまり興味がなかったので、小山田圭吾の音楽は、次第に聴かなくなっていった。けれども、その音楽の方向性によって、小山田圭吾の音楽は、世界でも、知られるようにもなっていったのだった・・・そうして、小山田圭吾は、東京オリンピックのテーマ曲を担当する事になったのだった。


 

● 小沢健二について。

今度は、フリッパーズ・ギターのもう1人のメンバー、「オザケン」の愛称でよく知られている小沢健二について語る事にしよう。
先ず、わたしは、小沢健二の大ファンだ。ソロ・デビューから現在に至るまで、そのファン心は、一切変わってはいない。東大文学部卒業、指揮者・小沢征爾の甥というような育ちの良さがあるにせよ、そんな事はどうでもよく、小沢健二は、日本のポップ・ミュージック界に於ける、天才クリエイターである。ああ、オザケンは、なんて素晴らしいのだろう!!

1993年にリリースされた、セカンド・アルバム「ライフ」は、名曲満載である。「今夜はブキーバック」「ラブリー」をはじめ、捨て曲一切ナシ!!歌声の不安定さ(音痴)がよく指摘されるが、そんな事はどうでもよかった。とにかく、小沢健二は魅力的な声をしている。「フリッパーズ・ギター」時代にはまだ感じられる事のなかった、歌詞、メロディの秀逸さは、2021年になった現在でも、まったく色褪せる事は無い!!王子様キャラで、紅白歌合戦にも、2年連続で出演してしまった。
ところが、1995年だったか、1996年だったか、突然、日本から姿を消し、ファンをとても驚かせたが、近年、19年振りに50歳を超えた小沢健二はまたソロ活動を再開させて、これもまたファンならず日本のポップ・ミュージック界に大きな驚きを与えた。19年振りのシングル曲は、内容はかつてのように飛び切りにポップなものだったが、その曲のタイトルは、何と「流動体について」という、小沢健二にしかできない、まったく嫌味の無い、文学性に富んだものだった。歌声の不安定さ、声の良さは、実に健在!!わたしの心は、歓喜でいっぱいになってしまった・・・!!

ニュー・アルバムもリリースして、その内容でも、天才振りを存分に発揮。気まぐれな小沢健二は、これからも音楽活動を続けていくのか、それともまた、かつてのように突然ファンの前から姿を消してしまうのか?それが予測のできないところが、また素晴らしい!!と、わたしは思っている。
ああ、「オザケン」、アナタはわたしにとって、いつまでも変わる事のない、永遠の天才アーティストである・・・!!


 

● B’Zについて。

B’Zは秀でたルックス・歌唱力を持つ稲葉さんと卓越したギターの演奏力を持つ松本さんから成る、男性ロック・ユニットで、30年前のデビューから50歳代後半になった現在に至るまで、リリースする曲、リリースする曲、そのすべてを途切れる事なく大ヒットさせてきた、稀有なアーティストである事は、誰もが認めるところだろう。
B’Zは、実に巧いアーティストなのだが、彼らの創る音楽は、アメリカのベテラン・ロック・バンド「エアロ・スミス」をお手本にしている事は、誰の耳にも、明らかだった・・・

いつだったか、タモリが司会をする「ミュージック・ステーション」という番組にB’Zが出演して、そして、特別ゲストとして、本家の「エアロ・スミス」も来日・出演して、番組内で、順番に、パフォーマンスを披露する事となった。確かにB’Zは実力派のユニットなのだが、本家「エアロ・スミス」のパフォーマンスがあまりにも素晴らし過ぎたので、完全にB’Zのパフォーマンスは、影が薄くなってしまった・・・その事は、おそらく、その日の「ミュージック・ステーション」を観ていただろう誰もが気づいていたに違いないのだが、B’Zだけが気づいていない、というとても可哀そうな事態になってしまっていたのだった・・・
後日、わたしの女ともだちから電話が掛かってきて、「ねえねえ、この前のミュージック・ステーション観た?B’Zとエアロ・スミスが一緒に出た日!」「ああ、観てたよ」「わたし、よく本家のエアロ・スミスを目の前にして、自分たちも巧いと勘違いして、演奏できるものだと思ったら、こっちの方が、恥ずかしくなっちゃって、どうしようもなかったわよ!!」「ああ、確かに、そうだったよねえ・・・」

そのようなわけで、日本を代表するロック・ユニット、B’Zは、全国に、大恥を晒す事になってしまったのだった・・・

 

● YOSHIKIについて。

わたしは、ベテランロック・バンド「X JAPAN」のリーダー、YOSHIKIの事が、とても好きである。先ずは、50歳代半ばだというのに、とっても美しいがゆえに。どうしてあんなに美しさが保たれているのかは分からない。けれど、本人はインタビューに答えてこう言っている。「実は、僕は、影では、血の滲むような努力をしているんですよ」ああ、そうだろうなあ・・・と、わたしは納得したものだった。
・・・ところで「X JAPAN」の元々のバンド名は単なる「X」だった。それが、バンドが世界進出を目指すようになってから、バンド名は「X JAPAN」に改名された。しかし、世界を目指すからと言って新しいバンド名が「X JAPAN」とは、何とも単純過ぎるというか、アタマが悪そうというか、わたしはそのような気もちを押さえられなかった。でもそんな事、どうでも良いじゃないか、と、わたしは思ってしまうのだった。なぜなら、YOSHIKIがとっても美しいがゆえに。
「X JAPAN」は、メジャー・デビューしてから、わずか3枚しかオリジナル・アルバムをリリースしていない。3枚目のアルバム「DAHLIA」をリリースしてから、既に30年近くが経っている。けれど、YOSHIKIはインタビューに答えてこう言っている。「アルバムは、もう殆ど出来上がっているんです。でも、最後のパートで、どうしても納得がいかない箇所もあって・・・」多くのファンは、もうしびれを切らしているというのに。完璧主義過ぎなのか、それとも今や音楽の聴かれ方が、CDからダウンロードの時代になってしまったからなのか。今のところ、YOSHIKIは、明言をしてはいないようだ。でもそんな事、どうでも良いじゃないか、と、わたしは思ってしまうのだった。なぜなら、YOSHIKIがとっても美しいがゆえに。
さて、この場は「音楽についてのエッセイ・邦楽編」であるから、「X JAPAN」YOSHIKIの音楽的な特徴について、語っていかなければならない。YOSHIKIは、ピアノとドラムを演奏する事が出来る。けれども、わたしは楽器を演奏する事が出来ないのでYOSHIKIのピアノとドラムが巧いのかどうなのか、あまり判断できないのだけれども、YOSHIKIの演奏力は、何となく「普通」なのではないか、と感じてもいる。ピアノの方は優雅に弾いているが、もしかしたら「ヤマハ音楽教室大人クラス」程度なのではないかという気もする。ドラムの方は、一所懸命叩いているのは分かるのだが、演奏しきって、ステージに倒れ込み、失神する姿などは、失神しているフリをしているのではないかと勘ぐってしまう。しかし、わたしにとっては、そのような事は、どうでもよく思えるのだった。なぜなら、YOSHIKIがとっても美しいがゆえに・・・
なお余談になるけれども、ロサンゼルス在住のYOSHIKIは、とても流暢な英会話が出来るとも聞く。しかし、その英語力も、もしかしたら日本のECC音楽学院で駅前留学をして学んだのではないかという疑惑をわたしは持っている。しかし、わたしにとっては、そのような事は、どうでもよく思えるのだった。なぜなら、YOSHIKIがとっても美しいがゆえに・・・


 

● YMOについて。

いまでは世界中の殆どの音楽ファンが知っていると思われる、日本発の「テクノ・ポップ」のパイオニア、YMO。そのメンバーは、細野晴臣、坂本龍一、高橋幸宏という充分にキャリアのある3人組である。かなり豪華なメンバーから成っていると言えよう。
しかし、わたしは、わたしが高校生の頃に流行った、初期のYMOのアルバムは、殆ど好きではない。有名な「ライディーン」や「テクノポリス」などの曲は、メロディーが陳腐過ぎて、発表当時から、かなりどうしようもないものではないかと思っていた。
わたしは、YMOのアルバムでは、そのキャリアの後期に於いて、優れたものが立て続けにリリースされたと思っている。「浮気な僕ら」「BGM」最後のアルバムとなった「テクノデリック」は、いずれも秀作ばかりである。
さて、YMOのメンバー、3人組の内、誰が最も才能があるのかについては、わたしが高校生の頃からかなり話題になっていた。やはり、日本の音楽シーンを1960年代後半からずっと牽引してきた細野晴臣ではないか、というのが、殆どの人たちの予想ではあった。しかし、メンバーの内、最も地味に感じられた、高橋幸宏が、実はYMOサウンドの要だったのではないか、というのが、最近のわたしの考えである。
アルバム「浮気な僕ら」は、YMOにとって、初めての歌モノ・アルバムで先行シングル「君に胸キュン」がヒットして、「歌のベストテン」に出演したりもした。またNHKの何かのキャンペーンに使われた「以信電信」は、わたしにとって、どこかビートルズ・サウンドを彷彿とさせるもので高橋幸宏は、ドラムが巧いだけにとどまらす、歌声もとても素晴らしいもので、本当に優れたアーティストだなと思った。
その高橋幸宏は、近年、脳腫瘍を患って、手術をして、その後、無事に回復をして「TAKEFIVE」というバンドを新しく結成した。高橋幸宏がリーダーのアルバムが近々リリースされる予定だったのだが、そのメンバーの中に、小山田圭吾が入っていたために、結局、発売中止になってしまった。何とも残念な話である・・・

 

● 坂本龍一について。

いまでは「世界のサカモト」として知られるようになったYMOのメンバーの1人、坂本龍一ではあるが、わたしは、坂本龍一の才能については、かなり疑いを持っている。
坂本龍一は、映画「ラスト・エンペラー」のテーマ曲を担当して、それが認められ、アカデミー賞最優秀作曲賞を受賞する事に至ったわけである。そして、その事によって、「世界のサカモト」と称されるようになったわけなのだが、アカデミー賞最優秀音楽賞受賞の最大の理由は、映画「ラスト・エンペラー」のテーマ曲がとてもオリエンタルな作風であったからだと、わたしは思っている。
では、坂本龍一の最高の作品は何かというと坂本龍一がソロ名義で創作した「千のナイフ」と大島渚監督の映画作品で担当した「戦場のメリークリスマス」のテーマ曲、この2つだけだと考えている。
わたしは、かつて、坂本龍一が担当したすべての映画音楽を収録したベスト・アルバムのCDを購入した事があるのだが、何と驚いた事に、他の曲は、本当に、今1つ、今2つであったという出来事に・・・とても愕然としたという記憶を、今でも忘れる事ができない。
「世界のサカモト」と呼ばれ、押しも押されぬアーティストとして知られる事となった坂本龍一ではあるが、本人は、その事について、どのように感じているのだろうか・・・
東京芸術大学でクラシック音楽を学んだ坂本龍一、YMOでは「教授」の愛称で親しまれた坂本龍一ではあるが、だからといって、必ずしも優秀な音楽家にはなるわけではないという事を、わたしは知ってしまったような気がしてならないのである・・・

 

● MISIAについて。

このエッセイの中で、1人も女性アーティストを取り上げていないので、せめて1人くらいは取り上げておこうと思い立った。ところが取り上げてみたい女性アーティストがなかなか思い浮かばない・・・松田聖子、中森明菜、安室奈美恵などがちょっと頭をよぎったが、彼女たちについては、散々テレビで観てはきたものの、エッセイに書くほどの知識を持ち合わせてはいない。また松任谷由実、中島みゆきなどのシンガー・ソングライターについても、有名な人たちであるにも関わらず、殆ど聴いてきてはいなかった。

そこで、最近、「紅白歌合戦」の大トリを務め、日本中を感動させ、また、最近では、東京オリンピックでの国歌を斉唱した事などで、かなり露出の多くなってきたMISIAについてなら、多少なら書けるかな、と思って、取り上げてみる事にした。
MISIAは、1998年のデビューで、その女性ヴォーカリストとしてのキャリアは、既に20年を超えている。その頃デビューした女性ヴォーカリストは、ディーバと称され、かなりのアーティストがいたと思うのだが、わたしは、殆ど覚えていない。MISIAについては、名前が変わっていたので、かすかに覚えている程度である。それから現在に至るまでの間に、テレビ・ドラマの主題歌を担当して、その曲が大ヒットしたくらいならば覚えてはいる。
今では、巧いヴォーカリストは、男性ならば、玉置浩二、女性ではMISIAという聴かれ方が定着しているようだ。わたしは、昨年の「紅白歌合戦」で大トリを務めたときのMISIAの歌唱を聴いたが、その少し前にテレビ番組の収録中に落馬をして背骨を傷め、その出来事を押して出演したときのMISIAの歌声を聴いたが、かなり圧巻ではあった。しかし、それは洋楽に長く親しんできたわたしにとっては「日本では巧いヴォーカリスト」としてしか評価する事はできない、と感じてしまった・・・それくらい、海外の、特にアメリカでの女性ヴォーカリストの層は厚く、故・ホイットニー・ヒューストン、マライア・キャリーなど名前を挙げればキリはない。この差は、MISIAには申し訳ないが、ヴォーカリストとしての喉の構造が違うとしか説明はできないと思う。けれども、MISIAが日本を代表する女性ヴォーカリストとして長く活動をしていく事は、おそらく間違いはないだろう。余談になるけれども、MISIAは、動物愛護活動を長く続いているとも聞いている。


 

● 北島三郎について。

日本が世界に誇るソウル・ミュージック「演歌」についても書いてみたいのだけれど、日本人なのに、わたしはこのジャンルについてもめっぽう弱い・・・「演歌」は、日本の民謡から発展して、大衆音楽に発展したくらいの事しか知識がない・・・

けれど「サブちゃん」こと「北島三郎」についてなら、少しは何か書けるのではいかと思ったので、ここでは北島三郎について書いてみたいと思う。
北島三郎は、1958年にデビューして、その後、演歌一筋、日本を代表するヴォーカリストとして現在に至っている。そのヴォーカリストとしての実力は、玉置浩二の比ではなく、アメリカの・故フランク・シナトラと肩を並べるほどであると、わたしは思っている。
活動歴半世紀以上、紅白歌合戦への連続出場は連続50回という記録を持ち、その50回目を区切りに、紅白歌合戦からは身を引くという事となり、50回目を目指してあちこちに手を回し、紅白歌合戦への出場を目論んでいた、和田アキ子とは本当に精神性のレベルが違い過ぎるとしか言いようがない。日本のカーネギー・ホールとも言える「新宿コマ劇場」での座長としての貫禄あるステージ活動もまた、圧倒的であるとしか言いようがない、と聞く。家が八王子にある北島三郎に憧れて、若い歌手たちが頻繁に弟子入りに訪れるという事も、当然の事だと言えるだろう。
ところで、北島三郎の代表曲の1つで、若い層にも充分知られている「与作」という曲は、「与作は木を切る ヘイヘイホー」というフレーズが印象的な大変な名曲だと思われるが、「与作とは、一体、誰なのか?なぜ、そんなに夢中になって木を切っているのか?」・・・が、明かされていないのが、謎めいていて、本当に素晴らしいと言えよう。まさにレジェンドとしての仕事を全うしているとしか言いようがない。
北島三郎は、現在84歳。昨年の紅白歌合戦では、特別席が用意され、4時間以上もの歌手たちの歌唱にひたすら耳を傾けていたが、最後にウッチャンから、紅白歌合戦についての感想を求められて、このように述べたのだった。「いやあ、わたしは本当に感動をしました。わたしは、半世紀以上、歌手をやってきたわけだけれども、時代は移り変わって、ジャンルなどには関わらず、素晴らしい歌手たちが、これからの音楽界を引っ張っていくのだなあ、とつくづく思って、感無量になりました」と言い切って、その姿を観たわたしは、北島三郎に対して「国民栄誉賞」を贈っても良いのではないかと強く、思ったのだった。政府の政治家たちの耳は、一体どういう構造をしているのかと、激しい怒りが湧いてきたほどであった。
日本が誇る音楽界のレジェンド、北島三郎には、ぜひ長生きをしていただいて、その歌声を皆んなに届けてほしいものだと、わたしは強く願ったのだった・・・


 

● 岡林信康について。

わたしが、日本のフォーク・ソングを熱心に聴くようになったのは、高校1年生のときの事だった。最初に大ファンになったのは、吉田拓郎であった。インディーズ・レーベル、「エレック・レコード」から、メジャー・レーベル「CBSソニー」へと移籍してからは、フォークの神様と呼ばれ、リリースするアルバムのどれもが大ヒットして、その人気は、大変なものだった。
しかし、その後、吉田拓郎、井上陽水、小室等、泉谷しげるの4人が立ち上げた新レーベル「フォーライフ・レコード」の社長になってからは、吉田拓郎の音楽家としての才能は、どんどん枯渇したと感じたわたしは、だんだんフォーク・ソングからは離れていってしまった・・・
・・・さて、前置きが長くなってしまったけれども、わたしにとっての第2次フォーク・ソング・ブームが始まったのは、2年ほど前からで、誰のファンになったかというと、吉田拓郎の先行世代で1968年にデビューした、最初のフォーク・ソングの神様と言われた、岡林信康である。
岡林信康の実家は、京都の教会で、父親はその教会の牧師だった。そういう事もあって、岡林信康は、同志社大学の神学部に進学したのだが、その後、牧師の父親との確執のため、家出をして、姿を消してしまった。岡林信康は、職業を転々として、アコースティック・ギターを持つようになり、1968年にフォーク・ソング歌手として、デビューする事となった。そして、山谷の労働者の暮らしぶりを歌った、あまりにも有名な「山谷ブルース」、部落問題をテーマにして歌った「チューリップのアップリケ」「手紙」などの曲を次々に発表して、一躍、時の人となったのだった。
1969年に開かれた「全日本フォーク・ジャンボリー」で、岡林信康は早くも、アコースティック・ギターからエレキ・ギターに持ち替え、フォーク・ソングのファンからの罵声を浴びつつ、ステージに立ち、「私たちの望むものは」「自由への長い旅」などのプロテスト・ソングを披露した。その時のバック・バンドの顔ぶれは、ベース・ギター細野晴臣、エレキ・ギター高中正義、鈴木茂、ドラムス松本隆、キーボード矢野誠(矢野顕子の元夫)という顔ぶれで、後の「はっぴぃえんど」の主要な顔ぶれとなるミュージシャンが3人も含まれていたというのは、凄い事である。この事からも、岡林信康の目利きぶりが、はっきりと分かると言えよう。ちなみに「はっぴぃえんど」は、初めての日本語のロック・バンドとして、今だに語り継がれているけれども、わたしは、そうは思っていない。初めての日本語のロック・バンドは、グループ・サウンズ「スパイダース」であり、「スパイダース」に続く「タイガース」や「テンプターズ」「ゴールデン・カップス」だと、わたしは捉えている。
岡林信康は現在、74歳で、今だにフォークの神様として活動を続けており、昨年23年ぶりのニュー・アルバムをリリースして、大きな話題となった。

岡林信康は、ライヴでのユーモアに富んだMCでも知られているのだが、Facebookでの「岡林信康・オフィシャルサ・サイト」の新しい記事には、次のような事が掲載されていた。

【近況報告⑥】

「散歩中の岡林信康さんが、神社の狛犬(こまいぬ)にかまれるという事件が起こった。フォークの神様と呼ばれた岡林さんを神社の神に仕える狛犬が「商売ガタキ」だと思っての犯行だと思われるが、単なる傷害事件か、それとも複雑な宗教論争に発展するような事件なのか、警察では慎重に捜査を進めている。
(イヌアッチケーニュース)」
2021年8月12日
岡林信康

岡林信康のユーモアは、ここでも健在で、岡林信康のライヴに1度は足を運んでみたいと思っているわたしは、岡林信康には、90歳くらいまで生きていただいて、現役「フォークの神様」として、歌い続けてほしいものだと願っているのだった。

 

● 小室哲哉について。

今では、過小評価、或るいは過去の人として扱われているようなところのある、小室哲哉ではあるが、小室哲哉は、J─POP史上最高の天才である。なぜわたしが、そう思うのかというと、1986年の渡辺美里の大ヒット曲「My Revolution」の作曲家であるという、この1点に尽きる。こんな名曲、そうそう、誰にでも創れるものではない。
1980年代の、TM NETWORK(小室哲哉、宇都宮隆、木根尚登の3人で構成される日本の音楽ユニット。このユニットにも、「GET WILD」という名曲がある)での活動を経て、プロデューサーとしても頭角をどんどん表していった小室哲哉だが、デビューしても鳴かずとまずだったアイドル歌手、安室奈美恵や華原朋美の才能に気づき、一流のアイドルとして成長させていった能力は、本当に大きいものだった。ただ小室哲哉のプロデュースから早めに手を引いた安室奈美恵に対して、小室哲哉と恋愛関係になり、すっかり寄り添って、結局、小室哲哉に捨てられて、自殺未遂をした後に、情緒不安定になり、どんどん人気が凋落していった華原朋美は、とても気の毒な事になってしまった。今では40歳代後半となり、一般人と結婚して、育児をしながら、ヒット曲はもう出ないが、今でもテレビで昔と変わらぬ歌唱をしている華原朋美を観ると、「がんばれ、トモちゃん!!」と応援してしまうのは、おそらく、わたしだけではないだろう。
さて、華原朋美を切り捨てた後、卓越したキーボード奏者の自分自身とヴォーカリストのケイコ、ラッパーのマーク・パンサーと組んで、1995年から1996年にかけて、J─ポップ界に小室哲哉をリーダーとしたグループ、globeを結成して、日本のJ─POP界に一大ムーブメントを巻き起こした事は、多くの人の記憶に残っている事だろう。
しかし、小室哲哉は、美輪明宏の言う「人生は、プラス・マイナスの法則で出来ている。人生をすっかり謳歌した人には大きな凋落が待っており、結局は、プラス・マイナス・ゼロなのである」という事を見事に体現してしまった・・・妻のケイコは脳梗塞で倒れ、自分自身は著作権関係の問題で逮捕され、財産を失い、とうとう還暦を前にして、音楽界から引退する事となってしまった・・・
そのような小室哲哉ではあるが、やはり彼の音楽家としての才能は、今でも色褪せる
事はなく、globeの残した数々のヒット曲には、必ず、再評価を得る時代が訪れる事であろうという、わたしの予想は、確実に当たると信じている。頑張れ、小室哲哉!!

 

* わたしはいま58歳で、10年経てば70歳近くになってしまうという事に、最近気がついた。日本人の寿命が長くなったとはいえ、70歳ちょっとで亡くなってしまう人たちは、かなり多い。10年経ってしまうのなんて、あっと言う間の事である。
* わたしは、30年以上詩は書き続けてきたけれども、散文の方は常に苦手意識があって、殆ど書いてこなかったという経緯があり「いま、書かなくて、一体いつ書くのだ」という気もちになり、遅ればせながらようやく散文を書き始めた、というわけなのである。これから先、エッセイだけではなく、たくさんの論考を書いていきたいと考えている。

 

2021年 8月16日 今井義行

 

 

 

ダムに沈んだ古里を奪還する詩の力
長田典子詩集「ふづくら幻影」を読んで

 

佐々木 眞

 
 

 

2019年の衝撃の意欲作「ニューヨーク・ディグ・ダグ」に間をおかずに登場した本作は、とりあえずは、作者の失われた古里の思い出と、幼き日への郷愁の物語である。

 

私たちの郷里は、この半世紀の間の社会変化の大波のおかげで、地理上は同じ緯度経度にあっても、いずこもすっかり姿かたちを変えてしまった。 

 

「あとがき」に拠れば、作者が生まれ、27世帯の人々と共に身を寄せ合うようにして暮していた神奈川県相模原市(旧津久井郡不津倉)の旧居は、1965年に完成した城山ダムによって湖の底に沈んでしまったという。

 

作者の家は、ダムの底に沈んだ。ことわざにある通りに、「桑田変じて海」となってしまったのである。

 

そして作者が、ダムに沈んだ懐かしい故郷の家族や、四季折々の山川草木の美しさや、幼き日の遊び仲間たちに思いを致すとき、それがいつの間にか、歌になる。詩になる。

 

その故郷喪失の歌は、もちろん「盲目の泉」に指輪を落としたメリザンドの歌のように悲しい旋律で歌われてはいるのだが、よーく耳を傾けてみると、ただ物哀しいだけではない。

 

みずうみの中に閉じ込められた宝石のような怜瓏、スノードームの中で万華鏡のように繰り広げられる精霊や天使たちの愉快な踊りまでもが、耳の奥の方で、微かに鳴り響いているような気がするのである。

 

私は、作者はこの詩集の中で、ひとたびは喪失した古里を限りなく優しく抱きしめ、卓抜な記憶と想像の力、とりわけオノマトペの推力を駆動し、古今東西の童話や童謡を自在に踏まえながら、その古里に似てはいるものの、もう少し新鮮な変異を遂げた、「ユニバーサルな心の故郷」を、もういちど零から再創造しようという稀有の試みに挑んでいるのではないかと、ふと思った。

 

おわりに些事ながら、最近私の息子が「津久井やまゆり園」と障害者問題を考える個展を開催していて、その中にその近縁の相模川を描いた大きな油彩画があったので、その偶然に驚きながら本書を読ませていただいたことを付記しておきたい。

 

 

 

書けば、形になる。

── わたしを育ててくれた洋楽への短い考察

 

今井義行

 
 

プロローグ

詩は、それまでの、或いは現在の、作者の体験から生まれてくるものだと思うけれど、そして、それは概ね作者の読書体験であることが多いように思うけれど。わたしも或る程度は読書体験はしてきたものの、わたしは読書がどうにも苦手なので、その内容は殆ど忘れてしまった。

それでは、わたしが何から影響を受けてきたのかというと小学生から現在に至るまでの、洋楽鑑賞だと思う。ただし、わたしは洋楽鑑賞マニアではないので、有名なミュージシャンについてしか語ることはできない。それでも、「書けば、形になる。」と信じてエッセイとして、書き残しておくことにした。(登場するミュージシャンの名前は順不同。また、わたしの記憶に基づいた記述であるため、間違いがあるかもしれない。)

 

● ローリング・ストーンズについて。

言わずと知れたビートルズと並ぶイギリス出身のバンド。だけれど、ブルース・ベースの曲が、あまりにもキャッチーでないため高校生まで、その良さが殆ど分からなかった。

ところがなぜか大学生になってから、そのグニャグニャしたグルーヴに、すっかり飲み込まれてしまった。

アルバムは1960年代末からの「レット・イット・ブリード」から1976年の「女たち」までは名盤続きで、1枚に絞り込むなどできない。

ちなみに有名な「スタート・ミー・アップ」を含む1980年の「刺青の男」は、過去に録音した曲の寄せ集めであるため、かなり大味で名盤とは言えない。

ところで、ギタリストにミック・テイラーが在籍していた時代が、ローリング・ストーンズの最盛期だったことはよく言われることだ。ミック・テイラーが脱退した後、誰が後任になるかについてジェフ・ベックという噂が出た。ジェフ・ベックを見かける度に「吐きそうになる」と言っていたキース・リチャーズの発言からして、さすがにそれはないだろうと思ってはいたが、まあ無事に後任ギタリストは人柄も穏やかだと言われるロン・ウッドに収まった。ロン・ウッドならバンド内の不和も和らげられるだろうから最適だと思った。

ところでバンドの最年長のチャーリー・ワッツは常々「ローリング・ストーンズは会社のようなもの。わたしはローリング・ストーンズの社員なんだよ。」と言っていた。そのチャーリー・ワッツがミック・ジャガーを激しく殴りつけたことがあるという。ミック・ジャガーがチャーリー・ワッツに向かって「俺のドラマー。」と言ったからだ。チャーリー・ワッツはミック・ジャガーの傲慢に向かって「2度とわたしのことを、俺のドラマーなんて呼ぶな。呼んだらタダじゃおかない!」と叫んだのだ。

もう10年に1度くらいしかオリジナル・アルバムをリリースしなくなってしまったローリング・ストーンズだけれど、現在ニュー・アルバムを制作中だと聞く。ローリング・ストーンズは、どこまで転がり続けるのだろう?わたしは、ローリング・ストーンズは解散などせずに、自然消滅していくような気がしている・・・。

 

● マイケル・ジャクソンについて。



マイケル・ジャクソンは、ソロ・アーティストして、群を抜いて大成功を治めたミュージシャンであると思う。わたしは、マイケル・ジャクソンが、本当に好きである。

1970年代後半に、「オズの魔法使い」が原作で、黒人キャストだけで制作された「ウィズ」というミュージカル映画があり、音楽監督はクインシー・ジョーンズだった。主役のドロシー役は、ちょっと歳の行き過ぎたダイアナ・ロスで、そして、かかし役がその頃10代後半だったマイケル・ジャクソンだった。

映画は、ブリキマンやライオンやかかしたちが踊りながら去っていく場面で終わるのだが、マイケル・ジャクソンが演じるかかしのダンスだけが突出していて驚かされたものだ。

多くの人たちが、クインシー・ジョーンズがマイケル・ジャクソンを見出したと思っているようだが、実際はその逆で、ソロ・アーティストとして低迷していたマイケル・ジャクソンが、クインシー・ジョーンズに「僕の音楽プロデューサーになってくれないか?」と持ちかけたのが、事の始まりだ。そこには、マイケル・ジャクソンの目利きぶりが、早くも、顕著によく現れている。

その後は、誰もが知っての通り、クインシー・ジョーンズがプロデュースした「オフ・ザ・ウォール」「スリラー」「バッド」という大ヒット・アルバムが続くが、わたしは、そのどれもが嫌いである。殊に世界で5000万枚を売り上げ、今でも売れ続けているという「スリラー」は、とても嫌いだ。

「スリラー」が大ヒットした1984年当時は、MTVが台頭してきた時代であり、視覚的に誰もがマイケル・ジャクソンを観られるようになっていた。マイケル・ジャクソンのパフォーマンスが神がかっていた事もあるが、また黒人アーティストとして初めて白人アーティストのエドワード・ヴァン・ヘイレンやポール・マッカートニーを起用した事もあるが、とにかく歌詞が幼稚過ぎた。それが5000万枚ものセールスを挙げたというのは、子どもから高齢者までが楽しめる音造りと内容だったからではないだろうか?

わたしがマイケル・ジャクソンを本当に天才だと思ったのは、マイケル・ジャクソンがクインシー・ジョーンズの手を離れて制作した「デンジャラス」からである。このアルバムでは、もの凄くお金をかけて錚々たるサウンド・クリエイターを掻き集めて制作された作品である事は明白だったが、そして並のミュージシャンだったならば、彼らの操り人形となってしまうところだが、マイケル・ジャクソンの場合は例外的にそのような事は超越していた。このアルバムでは、錚々たるサウンド・クリエイターと天才マイケル・ジャクソンとがぶつかり合う奇跡的な作品となっていた。

そして「デンジャラス・ツアー」の出来がまた素晴らし過ぎるものだった。人類にでき得る最高のものを創出したと言える。
ところで、マイケル・ジャクソンは、見れば明白だと言うのに、何故「自分は、整形などしてはいない」と否定し続けたのだろうか?人間誰しも老化していくというのにそれに徹底的に抗ったという事なのだろうか?天才のする行為は本当に不可解という他ないが、マイケル・ジャクソンの顔が段々と崩れていくのには揶揄されても仕方のないようなところもあった。
マイケル・ジャクソンが50歳を迎えたとき、マイケル・ジャクソンはロンドンのアリーナでコンサートをすると記者会見をして、「THIS IS IT!!(やるぞ!!)」と大きな意欲を見せた。ところが、その後、マイケル・ジャクソンは急逝してしまい、ロンドンでのアリーナ・コンサートは、無くなってしまった・・・マイケル・ジャクソンのこの死には諸説あるようだけれども、わたしは「暗殺」だと思っている。マイケル・ジャクソンを生かしておいてはならないという巨大な謎の勢力が、確かに存在していたに違いないと思うのだ。


 

●クイーンについて。

クイーンは、フレディ・マーキュリーのエイズによる45歳という若き死を以って神格化されたバンドだという評価が固まっているようだが、本当にそうなのだろうか?クイーンは確かに巧いバンドなのだが、リアル・タイムで中学生の頃からクイーンのアルバムを聴き続けていた者には、どうにも違和感がある。

クイーンの人気は日本から火がついたもので、クイーンのメンバーも大の日本びいきであり、またメンバーのルックスも良かったので、とにかく女子中学生の間で爆発的にアイドルとして人気が出た。当時のアイドル・ロック・バンドを中心に発行されていたミュージック・ライフの人気ランクでは常にクイーンの各メンバーが首位を独走していたのを覚えている。それ故、男子のロック・ファンからは、クイーンを聴いている奴らは情けないという事になってしまいわたしと妹は、密かにクイーンを聴いていた・・・

クイーンのアルバムでは、あまりにも有名な「ボヘミアン・ラプソディ」を含むサード・アルバム「オペラ座の夜」が最高傑作と言われているようだが、それにはあまり異論はないのだけれど「オペラ座の夜」は多彩な種類の音楽から成り立っているためロック・アルバムとしての最高傑作を挙げるとすれば、ヒット曲「キラー・クイーン」を含む、セカンド・アルバムの「シアー・ハート・アタック」ではないかと思う。このアルバムでは、ブライアン・メイのギター、ロジャー・テイラーのドラムス、ジョン・ディーコンのベース、フレディ・マーキュリーのヴォーカル、その全てが絡み合って、見事なロック・アルバムになっていると思う。
フレディ・マーキュリーの45歳でのエイズによる早逝は、「早すぎる才能の死を悼む。」という論調、或るいは「可哀そう。」という論調も含まれていたと思うが、わたしは、前者の論調には同意するものの「可哀そう」という見方には、大変な違和感を覚えてしまう。
わたしは、フレディ・マーキュリーの人生の選択肢には、2つあったように思われる。1つ目は「ファンのためにも、ヴォーカリストとして末永く歌い続ける。」という事、もう1つは「性的嗜好として個人的な男色家としての人生を愉しみ切る。」という事。フレディ・マーキュリーは後者を選択したという事だ。セーフ・セックスなど一切心がけず、あくまでナマでの性行為に没頭し、エイズに感染したという事は、アナル・セックスを好み、精液を直腸に注ぎ込まれる事に至福の喜びを感じたという事で、そのセックスには微塵の後悔などなかっただろう。わたしは、この事についてはフレディ・マーキュリーに拍手を送りたい気もちだ。

わたしが社会人になった1986年は、アメリカからエイズが上陸した年で、「せっかくこれからセックスを愉しもうと思っていたのに、すっかり水を差されてしまった。」という落胆でいっぱいだった。この事は、つまり自分で自分の命を守ろうとする事であり、数十年経って、今やコロナ禍で世界は大騒ぎ。わたしには、表現活動を続けていきたいという願いがあるにしても、マスク着用、手指のアルコール消毒、手洗い、うがいの励行・・・というように、未だ自分の命を守るために、ちまちまと努力しているわけである。必要な事なのかもしれないが、何だか情けない人生を送ってきてしまったような気も何処かに持っているような気もする・・・

フレディ・マーキュリーは、ヴォーカリストとしても素晴らしかったと思うけれど、自分の人生を例え短命でもきっちり謳歌したという点で、尊敬に値すると、わたしは思うのだ。


 

● カーペンターズについて。


わたしが小学校4年生のときに、自分のお小遣いで初めて買った洋楽のレコードが、カーペンターズの「シング」だった。本当は「イエスタデイ・ワンス・モア」のシングルが欲しかったのだけれど、売り切れだった。1973年当時の日本は、空前のカーペンターズ・ブームで湧いていて、武道館での来日公演のチケットの申し込みはビートルズを超えたと大きな話題になっていた事をよく覚えている。もちろん本国アメリカでもヨーロッパ各国でもカーペンターズは大人気だった。

カーペンターズは、作曲家バート・バカラックの流れを汲むアーティストで、1969年のデビュー以来、プロデューサー兼アレンジャーの兄リチャード・カーペンターとヴォーカルの妹のカレン・カーペンターと共にハーモニーの美しいカーペンターズ・サウンドを造形していき、セカンド・アルバムに収録されていた「遥かなる影」のビルボード・チャート1位をきっかけに、アルバムのリリースを重ねていくごとにそのサウンドは洗練されていき、多忙なツアーの合間に制作されたとはとても思えないアルバム「ナウ・アンド・ゼン」でそのサウンドと人気は頂点を極めた。何よりアルト・ヴォイスが大変に魅力的で英語の教材にもなったというカレン・カーペンターのヴォーカルの魅力がカーペンターズ・サウンドの中核を成していたのは確かだが、リチャード・カーペンターのカレン・カーペンターのヴォーカリストとしての才能を活かし切るプロデューサー兼アレンジャーの仕事振りも実に的確なものだった。あまりにも有名な「イエスタデイ・ワンス・モア」が弱冠20歳のカレン・カーペンターの歌唱力で発表された事には今でも驚きを禁じを無い。

リチャード・カーペンターは常々カーペンターズ・サウンドとは「タイムリー・アンド・タイムレスにある」のだと語っていたのだが、その意味は、後にファンが知る事となった・・・
ポップ・グループが避ける事のできない人気の少しづつの凋落も、アルバム「ナウ・アンド・ゼン」の発表後、3年振りにリリースされた「ホライゾン」あたりから明確になっていった。このアルバムからは明るい曲調の「プリーズ・ミスター・ポストマン」がシングル・カットされ、見事にビルボード・チャートの1位に輝き、そのポップ・サウンドとしての出来栄えは実に素晴らしかったものの、それまでのカーペンターズの魅力が、片思いの女性の心情を切々と歌い上げる事の魅力が中核を成していたにも関わらず「プリーズ・ミスター・ポストマン」は万人狙いとも言えるファミリー・レストラン的なヒット曲として成功してしまったため、その後が続かなくなり、人気の凋落が始まってしまった。そして、若すぎるカレン・カーペンターの拒食症による1983年の32歳での若すぎる死は、カーペンターズ・サウンドの終わりを告げるには、あまりにも凄惨過ぎた。

後に日本で制作されたテレビ・ドラマ「未成年」では、カーペンターズの「青春の輝き」という曲が主題歌として用いられ、テレビ局には「カーペンターズのニュー・アルバムはいつ発売されるですか?」「カーペンターズの来日公演は、いつ行われるのですか?」という問合せが殺到して、カーペンターズのベスト・アルバムは瞬く間にオリコン・チャートを駆け上がり、200万枚もの売り上げを記録して、社会現象にまでなってしまった。アメリカのビルボード・チャートではこの曲は25位でとどまっていてヒット曲にはならなかったのだが、この曲の日本での成功により、「青春の輝き」は、日本では「イエスタデイ・ワンス・モア」を超えるものとなった。
ここに、リチャード・カーペンターが公言していた、カーペンターズ・サウンドとは「タイムリー・アンド・タイムレスにある」という言葉が証明される事となった。未だに、少なくとも日本に於いては、カーペンターズの代表曲は「青春の輝き」であるとされ、いつまでも聴き継がれている。

 

● ビー・ジーズについて。


ビー・ジーズは1970年に日本で公開され、大ヒットとなった映画「小さな恋のメロディ」で用いられた「メロディ・フェア」や「若葉のころ」によって、白人ポップ・グループとして認識されていると思うのだが、その本質は白人ソウル・グループとしての才能にあると思う。やはり「小さな恋のメロディ」で用いられた「トゥ・ラヴ・サムバディ」という曲は、元々飛行機事故で亡くなってしまったオーティス・レディングに向けて制作されたものだったと言う。
その後、人気の浮き沈みを乗り越えながら、やはり大ヒットした映画「サタディ・ナイト・フィーバー」の音楽を全面的に担当して、ファルセット・ボイスを駆使した独特のヴォーカル・スタイルで世界的にディスコ・ミュージックのブームを巻き起こす事となったわけだが、このときの音楽プロデューサーがアレサ・フランクリンの名盤「スピリット・イン・ザ・ダーク」を手掛けたアリフ・マーディンであった事は重要な事だ。

ビー・ジーズが1970後半にヒット曲を立て続けに発表した頃、そのファルセット・ヴォイスには賛否両論あったようだが、わたしはその後に登場する事となる若き日のプリンスの最初期のアルバムに見られたファルセット・ヴォイスにその影響が顕著に現れていると考えている。

また、ビー・ジーズは黒人アーティストへの楽曲提供も盛んに行なっており、ダイアナ・ロスに提供された曲も、ディオンヌ・ワーウィックに提供された曲も、軒並み大ヒットを記録していた。
わたしは、ビー・ジーズの横浜アリーナに於ける来日公演を聴きに行ったが、初期のヒット曲からディスコ・ミュージック時代までの曲が立て続けに披露され、その1連の流れが全く違和感を感じさせなかった事に、やはりビー・ジーズは、白人ソウル・グループなのだという思いを確信した事を覚えている。

その後、ディスコ・サウンド・ブームの終焉とともに、また3人のメンバーの内、2人のメンバーが亡くなってしまった事により、ビー・ジーズは自然消滅した形になっているようだが、ビー・ジーズが世に送り出した楽曲の数々は、記録として残っているばかりではなく、人々の記憶に残るものとなっているように思う。


 

●ボブ・ディランについて。

ボブ・ディランがノーベル文学賞を受賞した事は、まだ記憶に新しいところだが、ボブ・ディラン自身は受賞式には出席せず、代わりにパティ・スミスが受賞式に出席して、見事にボブ・ディランの「激しい雨が降る」を歌い上げ、人々に感銘を与えた事は記録に残る事だと思う。ボブ・ディランもパティ・スミスも、ボブ・ディランのノーベル文学賞受賞には、ノーベル賞の話題作りだと気づいていたと思うのだが、パティ・スミスの受賞式への出席は、ボブ・ディランへのリスペクトそのものだったと言える。その頃、当のボブ・ディランは、劣化した声で「ネバーエンディング・ツアー」なるものを続けていたようで、アメリカの何処にいるのかもわからず、連絡がつかなかったようで、老境に達しながら「何をやっているんだ。」という具合で、気まぐれというか、何処か可愛らしいというか(笑)、実にしょうもない男ではある・・・

ボブ・ディランは、フォーク・ソングの先駆け、ウディ・ガスリーの影響を受けて、プロテスト・ソング「風に吹かれて」や「時代は変わる」などを発表して、フォークソング・ファンに熱狂的に迎えられたが、その後、歌の巧いモダン・フォーク・グループ、ピーター・ポール・アンド・マリーにより、それらの曲のメロディ・ラインがとても美しい事が認知され、ヒット曲にもなった。
1960年代半ば、ボブ・ディランがアコースティック・ギターからエレキ・ギターに持ち変えて活動を始めたとき、かねてからのフォークソング・ファンからは激しい罵声を浴びる事となったのだが、そんなときにリリースされた「ライク・ア・ローリング・ストーン」という6分近い曲は、全米で広く受け止められ、ボブ・ディランにとって、初のビルボード・チャートの1位を記録する事になったのだった。

フォークソング・シンガーがアコースティック・ギターからエレキ・ギターに持ち変え、フォークソング・ファンから罵声を浴びるという現象は日本にも飛び火して、岡林信康や吉田拓郎がそのような体験をしたわけだが、吉田拓郎の「結婚しようよ」が大ヒットしてしまった事により、「ライク・ア・ローリング・ストーン」が受け容れられたように日本のフォーク・シンガーたちも一般に受け容れられる事になったのだった。

1978年にボブ・ディランが初の来日公演を行なったとき、演奏スタイルを次々に変えてしまうボブ・ディランは、派手なラスベガス・ショーのスタイルで演奏して、聴衆を戸惑わせた。そのとき聴衆の1人としてボブ・ディランの演奏に接した美空ひばりからは「岡林信康の方が遥かに良い」と言われる事ともなったのだった。その発言には、美空ひばりが岡林信康から2曲の作品を提供されていた事も関係していたといういきさつもあるのではないかとも思われる。

ボブ・ディランの活動の全盛期はビートルズをも嫉妬させたという、1960年代末のアルバム「ブロンド・オン・ブロンド」から1975年のアルバム「欲望」までとされ、殊に「血の轍」は最高傑作とされているようで、わたしはその事に何の異論はないけれども、わたしにとっての愛聴盤は地味なカントリー・アルバム「ナッシュビル・スカイライン」で、1曲目のカントリー界の大御所ジョニー・キャッシュとの掛け合いによる曲も何の遜色もなく、見事なものとなっている。
デビューから現在に至るまで、ボブ・ディランのフォロワーは後を絶たないが、当のボブ・ディランは「ネバーエンディング・ツアー」で、今頃、アメリカの何処にいるのだろうか・・・?

 

●デヴィッド・ボウイについて。

2016年に(もう、そんなに経つのか)デヴィッド・ボウイが亡くなって、レディ・ガガが先頭に立って、追悼集会を行なったり、遺作となったアルバム「ブラック・スター」がビルボード・チャートの1位になったりしたときも、わたしはデヴィッド・ボウイの長年のファンだったにも関わらず、あまり大きくは心が動かなかった。

10年ほどアルバムのリリースがなかったので、どうしたのか、と思ってはいたけれども「地球に落ちてきた男」とまで言われていたデヴィッド・ボウイでさえ、癌で69歳で亡くなってしまうのだな・・・とは漠然と思った。
リリースされたアルバムは殆ど買い揃え、デヴィッド・ボウイの生涯を辿ってきたわたしは、デヴィッド・ボウイから多くの事を学んできたように思う。
知っている人は多いと思うが、1972年に、「ジキー・スター・ダスト」というキャラクターを自らに与えてイギリスのグラム・ロックを牽引したデヴィッド・ボウイ。顔に独創的なメイクを施し、山本寛斎デザインの衣装に身を包み、そのパフォーマンスは多くのオーディエンスを虜にした。何よりもとにかく「1番初めに挑戦してみる。」というアーティストとしての姿勢に魅了された。

デヴィッド・ボウイは、そのような派手なパフォーマンスをしながらも、インタビューでは次のように答えている。「わたしは、ボブ・ディランのようなアーティストを目指している。あくまでアルバム・アーティストとして在り続けて、時々シングルのヒット曲を出すような・・・。」
実際デヴィッド・ボウイは、「アラディン・セイン」「ダイアモンドの犬」などとキャラクターを変え続けて、アルバムの名盤を本国イギリスを中心にリリースし、精力的にツアーを展開しながら、時々シングルのヒット曲を出すという姿勢を貫いた。

そんなデヴィッド・ボウイではあったが、尖鋭的なアルバムを発表したのは、アルバムの制作場所をベルリンに移したり、アメリカに移したり、また本国イギリスに移したりしながらアルバムを発表した1979年のアルバム「スケアリー・モンスターズ」までに限られている。

その後、デヴィッド・ボウイは1983年制作の大島渚が監督した映画「戦場のメリークリスマス」に出演して、坂本龍一や北野武と共演したが、坂本龍一が映画音楽作曲家としてアカデミー賞を受賞したり、北野武が芸人から映画監督にも活動の場を広げていった事を考えると、デヴィッド・ボウイの俳優としての活動は凡庸であったと言わざるを得ない。
デヴィッド・ボウイは、再び活動の拠点をアメリカに移し、ヒット・アルバムの仕事人とまで言われたナイル・ロジャースのプロデュースのもと、「レッツ・ダンス」というダンス・アルバムをリリースして、そのアルバムはアメリカを中心に大ヒットしたが、その事は、アメリカでは、ダンサブルなアルバムでしか成功しないという事を証明してしまい、その後のアルバムはその2番煎じとなっていってしまい、尖鋭的であったデヴィッド・ボウイのサウンド造りの活動は、他のアーティストのダンサブルな音造りの後追いの形となってしまい、その事はおそらくデヴィッド・ボウイの死まで続いていったと思われる。
1度手を染めてしまったもので1度成功を得てしまうと、もう後戻りはできないという事をわたしは学んだ。
だからこそ、わたしは2016年にデヴィッド・ボウイが亡くなって、レディ・ガガが先頭に立って、追悼集会を行なったり、遺作となったアルバム「ブラック・スター」がビルボード・チャートの1位になったりしたときも、わたしはデヴィッド・ボウイの長年のファンだったにも関わらず、あまり大きくは心が動かなかったのである。

 

● ビートルズについて。


20世紀に最もその名を世界中に知らしめた、偉大なるロック・バンド、ビートルズの活躍振りに、異論を唱える人はまずいないだろう。リリースされたシングルは全て大ヒット、リリースされたアルバムは全て大ヒット。解散してから50年以上も経つというのに、デジタル・リマスターされた過去のアルバムその全てが今だにビルボード・チャートの上位を占めてしまう事などに於いても、このようなバンドはビートルズをおいて他に例がない。
また、10年に満たないその活動期間に於いて、リリースされるアルバムごとに、リスナーを毎回驚かすような進化が顕著だったという事も本当に大きな要素であるだろう。

そんなビートルズではあるのだけれども、わたしは、ビートルズに対しては、好きでも嫌いでもない。名曲の数々を世に送り出したビートルズに対して、わたしがそのような感情を抱く1つの理由は、単純にそれらの曲に対してのわたしの趣味嗜好によるところが大きいと思う。

とはいえ例外的に、「イエスタデイ」「ペーパー・バック・ライター」「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」「レット・イット・ビー」などは、あるのだけれども・・・

名曲の数々を世に送り出したビートルズに対して、わたしが好きでも嫌いでもないという感情を抱くもう1つの理由は、ビートルズが、そのキャリアに於いて、途中でライヴ活動を辞めてしまい、スタジオ・ワークにすっかり移行していってしまったという点にある。その環境の中で数々の傑作アルバムが制作されていったという事は分かるのだが、ビートルズが何故そのような選択をしていったかの理由については、彼らのファンではないわたしには分からない。

ローリング・ストーンズの大ファンであるわたしにとって、ローリング・ストーンズを好きなその最大の理由の1つは、ローリング・ストーンズがライヴ活動を重要視して、ロックの持つ昂揚感やスリリングさを非常に体現していた事にある。その点に於いて、わたしは、ビートルズに対して、何だか物足りさを感じてしまうのだ。
ビートルズがリリースしたアルバムの中でも、20世紀ポピュラー・ミュージックの金字塔と称される「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」については、各楽曲の質の高さ、各楽曲が緻密に制作されていった事などについて、十分に理解できるのだけれども、とにかく聴いていて、閉塞感が半端でなく、何だか窒息してしまいそうな感覚に、わたしは見舞われてしまうのだ。
このアルバムに影響されて、ローリング・ストーンズが「サタニック・マジェスティーズ」というアルバムを制作して、その出来栄えはなかなか良かったにも関わらず、「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」の出来栄えには遠く及ばなかった事、ビーチ・ボーイズの天才ブライアン・ウィルソンがスタジオに籠もって「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」のようなアルバムを制作しようとしたあまり、精神疾患に罹患してしまった事などを考えると、いかに「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」というアルバムが秀でたものである事は分かるのだけれども・・・
また、ビートルズのおびただしい名曲の数々が、ポール・マッカートニーとジョン・レノンの競合によって、緊張感高く制作された事も、非常にビートルズの稀な成功にとって関わっている事だろう。
ビートルズが解散してからのポール・マッカートニーとジョン・レノンのソロ活動にについても見るべきところは多くあるけれども、ビートルズ時代の稀な成功には遠く及ばない。
またビートルズ解散の理由について、オノ・ヨーコがビートルズの活動に割って入ったという事もしばしば指摘されるところだが、ビートルズのファンにとっては、オノ・ヨーコの存在は本当に邪魔で仕方なかった事も想像にかたくないのだが、わたしには、オノ・ヨーコは前衛アーティストとして見るべきところがとても多い人物だと感じられる。
いずれにしても、ビートルズが20世紀に最もその名を世界中に知らしめた、偉大なるロック・バンドである事には変わりはないと、わたしは思っている。

 

*********************


 

書けば、形になる。書かなければ、思っているだけで終わってしまう。そのような気もちで、わたしは、このエッセイを書いた。

 

 

 

「虚対虚」の言葉から透けるナイーブな私

中村登詩集『プラスチックハンガー』(一風堂 1985年)を読む

 

辻 和人

 
 

 

中村登の第一詩集『水剥ぎ』は、暗喩を多用した、一見意味の辿りにくい言葉でできた詩集だった。しかし、中身は作者の少年時代から現在までの生活史を忠実に追ったもので、比喩が生活のどういう局面を指しているかは容易に想像ができる。比喩は深い含みを持ってはいるが、言葉と現実が一対一の直接的な対応を見せているという点で、実は極めてシンプルな構造を備えている。しかし、3年後に刊行された『プラスチックハンガー』では様子が異なっている。この詩集も暗喩が多用されているが、『水剥ぎ』のように言葉が作者の現実を素直に指し示してはいない。作者の実生活や心情がベースにあることはわかるが、言葉の示す範囲が曖昧であり、意味を明確に把握することができない。言葉と現実が直接対応するのでなく、現実を挟んで、言葉と言葉が対応している。前作より複雑で手の込んだ技法が盛り込まれていると言えよう。
巻頭に置かれた表題作「プラスチックハンガー」を全編引用してみる。

 

空0ズズズーッとひきずりおろすと
空0腹が割れて
空0左肩、右肩の順に出している
空0右ききの右手で
空0欲しかった
空0褐色の革ジャンパーを脱いでいて
空0屠殺された牛の皮だ
空0屠殺する
空0男の手がある
空0のだと思いもしなかった
空0生きていた牛の手ざわりもない
空0鞣皮を
空0キッパリと脱ぎ捨てるそこに
空0仄白い
空0首が出ている
空0手が這い出している
空0ぴくぴくと引きもどされては
空0指が逃げている
空0牛の鞣皮を着た男に追われる
空0私の夢の中にまだ
空0妻はいてくれたのか
空0見ていた胸が
空0隆起していた その女は
空0電車の中でクリーム色のコート
空0暗く着ていた
空0膨んだ胸のコートを脱いで
空0パタン とこうしてタンスをしめるのだろう
空0コートをハンガーに掛けたのだ
空0プラスチックのそれに
空0「日々の思いを吊るす」のだとは

空0ツルリ
空0のびる舌を
空0巻きあげていく
空0真っ赤な内臓がぬたっている
空0その男もその女も
空0股に股たぎらせもっとしていくらしても
空0よくなって疲れて
空0眠っているのだ
空0眠っている妻の声が
空0耳に
空0耳の奥に 耳の奥底に木霊しているが
空0………
空0闇のお宮の怖い大根(おおね)の間を
空0子供の私と妻が
空0足音を殺して駆け回っている

 
 
場面としては、牛革のジャンパーを脱いでプラスチックのハンガーに掛ける、というだけである。ジャンパーは欲しくてやっと手に入れたものだが、手にした途端、それは衣類というカテゴリーから離れて、原材料である牛という生き物に行き着く。牛がジャンパーになる過程では「屠殺」が不可欠だ。生き物の命を奪うという行為である。「屠殺する/男の手がある/のだと思いもしなかった」ということは、購入する際は思いもしなかったが今は実感しているということだ。話者は「鞣皮を/キッパリと脱ぎ捨てるそこに/仄白い/首が出ている」と、屠殺された牛同様の自身の命の無防備さを感じる。ついさっきまで何とも思わないでジャンパーを着ていた自分が、今度は牛を屠殺した男になり代わり、無防備な自分を殺しに来る場面を夢想し、更にその夢想の中に「女」が現れる。その直前に「妻はいてくれたのか」の一行があり、誰かは知らない架空の「女」であることがわかる。
クリーム色のコートを着ていた女は、帰宅して、話者同様コートをハンガーに掛ける。その何気ない行為には生活の鬱屈が詰まっている。話者は妻とともに床につくが、夢想の中の男女は鬱屈した生活を忘れようとするかのように激しい性行為に耽る。それは命を生み出すものだが、牛の屠殺のイメージが濃厚なため、むしろ命の危うさを印象づける。話者と妻は、性を知らなかった子供の頃に立ち戻り、その際どさに恐れおののく。
現実の場面としては、牛革のジャンパーを脱いでハンガーに掛け、妻とともに就寝する、というだけである。が、製品であるジャンパーが、元は牛を殺して作られたものであるという事実を強迫観念のように打ち出し、拡大することで、平穏な日常の裏に潜む危うさを見事に表現していく。部分を見ると、整合性の取れない不条理なイメージの連なりのように見えるが、全体を見ると、生命体である限り脆いものでしかない私たちの日常の危うさが象徴的に浮き上がってくる仕掛けになっている。

この飛躍の多い書き方は全編に渡っており、逐語的に意味を取りながら読もうとすると混乱する。言葉と現実が対応しているのでなく、言葉と言葉が対応した、「虚対虚」の空間を作っているのだとわかれば、一気に流れが掴める。

 

空0あした6時に起こしてくれるう
空0なんてゆう
空0起こして下さい は他人行儀だし
空0起こせ! は指導者風だし
空0すると起こしてくれるう、の
空0るう は水に溶ける
空0ルーさながらに聞こえるらしく
空0ホント ホントウに起きられるの とくる
空0ルーに 本当はきびしい
空0ルーは溶けてユラユラとただよい出す
空0頼りない 今までがそうだったから
空0ユラユラとホントウの関係は
空0不実なコトバ
空0とかを飼ってしまう
空白空白空白空白「朝のユラユラ」より

 

家族にモーニングコールを頼むという場面を描いているが、もちろんこの詩のテーマはそういう実用的なことではない。「くれるう」と伸ばした語尾の音を問題にしている。「るう」「ルー」「ユラユラ」といった、脱力的な語感に徹底的に拘り抜き、奇妙な論理の流れを作っていく。

 

空0不実 とかゆわれ いくどもいくども絶対と
空0石のようなモノをむりやり飲みくだしたので
空0男の喉はぐりぐり隆起しておまけに
空0ぐりぐりをふたつも袋に入れている
空0ユラユラの中に沈んだっきり
空0石のように重いモノは
空0なかなか起きあがれやしない それが
空0ユラユラと石のようなモノとの関係であって
空0少しいい訳がましい
空0とにかく起きてやんなきゃなんないって
空0決めたんだよ!ついまたいきむ

 

こんな調子で、ナンセンスな思いつきから無責任に比喩を作り出し、比喩のまた比喩、そのまた比喩というように、どこまでもつなげていく。時間が許せば永遠に続けられるだろう。発端は、人にモーニングコールをお願いする際のちょっとした遠慮の気持ちなのだが、元の現実のシーンからどんどん離れ、現実に帰着しないような、意味の空洞を堅固に造形していくのである。ここで作者が書きたかったものは、気分の浮遊そのものであろう。今さっき「現実のシーンからどんどん離れ」と書いたが、実用的なことから離れて気分がユラユラ浮遊していくという状態は、日常の中でよくあることである。つまり、作者は理性で把握しやすい現実から故意に離れることで、実は現実の中に存在する、理性では掴み難いある意識の様態を明確に描き出しているというわけなのである。

端的な言葉遊びの詩としては次のようなものがある。

 

空0

磨かれた鉄の唇を吸って

空0

丸太まぐわい毛深いまぐわい それでか

空0

「中村君は女の人のおとを犬か猫かにしか

空0

考えられないひとだからね」 その

空0

犬にも猫にもニンゲンの女性器を

空0

移植できないかと願っていたのだ

空0

肉欲の独裁

空0

にくのさかさが

空0

くにのさかさが

空0

じゅにく

空白空白空白空白「板の上」より(太字は原文ママ)

 

空0みみにじじじじい
空0みみにじじじじい
空0みみにせみがとんでいます
空0みみにきをうえます
空0ふゆのせみがふゆのきにとまります
空0じじじじじじいっと
空0ふゆのつちに
空0しもがおります 
空0うわっ しもうれしい うわっ
空0うれしいしもふんで
空0ぐさぐさぐさぐさぐさあっと
空0ふゆのせみをつかまえようって
空0こどもがかけてきます
空白空白空白空白「しもやけしもやけ!」より

 

どちらの詩も、どこへ行くのかわからない、不定形な言葉の流れが特徴的である。「板の上」では、人間の女性器を動物に移植するという、気味の悪い思いつきを連ねているが、ただただ言葉を弄んでいるだけで、背徳的な観念を深めようなどとはしていない。「しもやけしもやけ!」では、真冬の霜が下りる時季に蝉が現れるというナンセンスそのものの設定で、こちらもただ言葉を弄ぶだけだ。意味の上での展開は重要ではない。逆に、これらの詩では「言葉を弄ぶこと」自体が重要なテーマになっている。言葉は、意味としての発展はないが、流れとしてはどんどん発展していっている。空疎な思いつきがあるリズムをもって次々と流れ出る、ということは、そうした無為な心的状態を忠実に言語化しているということだ。訴えたい何かしらの観念があるわけではない。言いたいことは何もないが言葉だけは吐き出したい、そうした気分の表出である。これは、無意識の表出を試みたシュールリアリズムの自動記述とは全く異なるものだ。意識の深層が問題になっているのではなく、意識の表層が徹底的に問題にされている。つまり、夢のような奥の深い世界を探っているのではなく、意識は醒めきっているし足は地に着いている。ただ、膠着した日常に対する底の浅い苛立ち、反感といったものがある。そうしたものは誰もが日頃覚えるものであるが、ばかばかしいものとして、次の瞬間には頭を振って打ち捨てるのが常だろう。しかし、中村登はそうした「底の浅い」気分を丁寧に拾い集め、リズムを与えて可視化させる。どこへ行くかわからない不定形な流れだが、何となくそうなっているのではなく、言葉がある核を目指しているように見えないように、固まらないように、常に方向を分散させるやり方で言葉を制御した結果が、これなのである。意識の「底の浅さ」というものを言葉によって組織的に生成させた詩だということだ。

求心性を拒む書法は同時期のねじめ正一の詩にも見られるものでる。

 

空0朝、九時四十八分、シャッターひき上げるや秤見乍ら黒豆袋詰めす
空0す隣りの豆屋の長男におはようございますと挨拶し乍ら、また遅刻
空0時給五百四十円のアルバイト嬢待てずに店の前ざっと掃き、店先ひ
空0ろげる陳列台ひっくり返してはハス向いの阿佐谷パールセンター七
空0年連続商店会長いただく『神林仏具店』の旦那が張り切り弾んでき
空白空白空白空白「三百円」より 

 

この詩における「底の浅さ」の表現は中村登より遥かに徹底している。倫理主体としての作者を完全に排除し、日常における様々な事象を重みづけしないままに精密に描写し、ひたすら並列させていく。これは現実そのものの表現ではなく、現実を素材とした記号の表現と言うべきだろう。そして、冷たい記号の集積による「虚対虚」の表現の向こうから、現代社会に対するフラストレーションが透けて見える構図になっている。
それに対し、中村登は不透明な「個」を手放すことができなかった。

 

空0プラテンを叩く音が見えます
空0向かいの四階で
空0和文タイプライターを打っているのです
空0活字の一本一本はそれほど重くありませんが
空0ピシッとプラテンに用紙を巻いて
空0原稿をキャッチし
空0目指す活字を拾って打ちつけるのは
空0肩が凝ります
空0目が痛みます
空0刷られる前の活字は
空0三ミリ角ほどの鉛柱の頭に
空0逆さの姿で刻まれています
空0文字盤にはどれもこれも
空0見分けのつかない虫のように
空0ゴッソリと隠れています
空白空白空白空白「セコハンタイプライター」より

 

まずは和文タイプを打っている人がいる現実の情景があり、印刷会社に勤めている作者にはその作業がかなりきついものであることがわかる。作者はそこから不意に次のようなファンタジーを生じさせる。

 

空0さてプラテンの円筒に巻く用紙は
空0真っ白な一枚の空です
空0そこに鉛の活字をアームの先でツンとくわえ
空0白い空を満たしていきます
空0「私の目は鳥の空腹」と四階のタイピストは
空0くわえ上げていっては黒々と巣を
空0密にしていきます
空0眼下の野にゴッソリ隠れている虫のなかから
空0おいしい虫を
空0パクン パクパクパクン パクパクパクン と
空0次々に宙に飛び交い
空0その胎で虫たちの魂を転生させます

 

聞こえてくる音から存在を確かめられるだけの「四階のタイピスト」との、想像の中での暖かな触れ合いが描かれる。この暖かさはねじめ正一の詩にはないものだ。意識の表層を描いているうちに、ふっと表面を突き破って深みに嵌ってしまう。

 

空0整然と並んだ鉛の行列の頭をなでて思います
空0肉筆よりも活字を多く見てきて
空0見慣れて美しく感じます
空0見慣れ慣れる慣性は
空0感性をつくるのでしょうか
空0見慣れた手から見慣れた文字が書きつけられ
空0私の肉筆は左へ左へと曲がって右に向きを変え
空0そして左へと蛇行します
空0見慣れても少しも美しくありません
空0不思議なものです

 

手書きの文字よりも活字に美しさを感じると告白した後、作者は子供時代の純情な思い出を掘り起こし、手書きと活字、日常と詩の対比をもじもじとした態度で行う。

 

空0きれいに印刷された活字を手本にして
空0子供の私の手はかじかみました
空0それから肉親を恥ずべき物のように
空0思っていた頃
空0好きになったむこう町の少女とすれ違う時は
空0かじかんでさよならもいえませんでした
空0きれいに印刷された文字が
空0そのむこう町のかわいい少女というわけで
空0とりわけ美しく印刷された少女が
空0詩であるとき
空0肉親をもった私は
空0どうも固くなります

 
 
「セコハンタイプライター」は、現実の細かな描写から入り、言葉遊びを弄しながら、最後は極めて個人的で身体的な体験・感性に降りていくという詩である。全体として言葉を記号として扱い「虚対虚」の関係を構築していくスタイルを取りながら、部分的にそのスタイルに穴をあけ、綻びを作って、極めて個人的なナマな感情を露出させていく。この「破綻」が意図的なものなのか、図らずもそうなってしまったのか、それはわからない。いずれにせよ、中村登の「人の良さ」が滲み出た言語表現であり、そこに詩の魂を感じてしまう。

最後に巻末に置かれた短い詩を全行引用してみよう。

 

空0もしかして
空0そう思って
空0いやそんなことはない
空0と思いなおして
空0駅まで歩いているが今
空0器具せんつまみをひねった
空0という指を
空0渦を巻いてくる
空0人込みの中で探している

空0ないのである
空白空白空白空白「ガス栓」全行

 

出がけにガスの元栓を閉めたか閉め忘れたか不安になる。これに類する経験は誰しもあるだろう。中村登は、歩きながらつまみをひねった自分の指をもぞもぞ探すが、見つからない。自分探しは不首尾に終わってしまうわけである。前作『水剥ぎ』で行った「現実対比喩」の構造を超えた、「虚対虚」の詩を目指したものの、ついどうしても「虚」と「虚」の間に作者固有の現実を一枚挟み込んでしまう、そんな風に見える。「虚」と「実」がぐちゃっと混ざる瞬間がどの詩にもあり、その不透明感が、逆にこの詩集の魅力を形作っているのだ。元栓をひねる幻の指を探して右往左往する意識の運動が、言葉の運びに刻み込まれ、詩集の個性になっている。どこまでもナイーブな作者の人柄が言葉の構築の仕方に素直に表れていると言えるだろう。

 

 

 

鈴木志郎康 写真集「眉宇の半球」について

 

さとう三千魚

 
 

 
 

随分とそこにある。
何度か開いてみた。
何度も、開いてみてきた。

鈴木志郎康の写真集「眉宇の半球」を机の上に置いている。

志郎康さんの写真集「眉宇の半球」と、
志郎康さんの「徒歩新聞」合本と詩集「わたくしの幽霊」と「攻勢の姿勢」などなどは、わたしの机の上に置いてある。

志郎康さんと、
わたしが鈴木志郎康という詩人のことを馴れ馴れしく呼ぶのは志郎康さんはわたしの先生だと思っているからなのだ。しかし鈴木志郎康という詩人は「先生」と自身を呼ばれるのが嫌いなので、わたしは志郎康さんと呼ぶのだ。

わたしは志郎康さんから東中野にある新日本文学会の木造の建物の詩の教室で1979年頃に詩を教わったのだった。

その頃、
志郎康さんから「徒歩新聞」という冊子をいただいていた。
赤瀬川原平さんの絵が表紙にある小さな薄い冊子だった。
また、わたしが持っている志郎康さんの詩集「わたくしの幽霊」の扉には志郎康さんのサインがある。
はじめて志郎康さんの詩集を購入してサインを書いてもらったのではなかったろうか。

さとうみちお様
 一九八〇年七月九日
      鈴木志郎康

志郎康さんの写真集「眉宇の半球」が机の上に置いてある。
「眉宇の半球」は随分とわたしの机の上にありつづけた。

わたしは志郎康さんの「眉宇の半球」について書こうとしている。
このままこれらの志郎康さんの本はわたしの机の上で、わたし一人、開いて、見れれば良いではないかとも思ってしまうが、わたしは志郎康さんの本に出会い、開いて感じたことを書き留めようとしている。
志郎康さんに新しく出会い、志郎康さんを発見するためにわたしは言葉を書き留めようとしている。

写真集「眉宇の半球」は1995年12月1日に発行されている。
編集・発行者は津田基さん、発行所は株式会社モールと写真集の奥付に記されている。

1975年から1995年の間に魚眼レンズと呼ばれる180度の画角のレンズを使用しフィルムカメラで撮影されたモノクロの写真が纏められた写真集だ。
1975年から1995年というのは志郎康さんが40歳から60歳までの間、詩集「やわらかい闇の夢」を上梓した翌年から阪神・淡路大震災があった年までだ。志郎康さんの最初の妻の谷口悦子さんが1995年に亡くなっている。

表紙には志郎康さんの掌に包まれた八重桜の花の魚眼写真が使われている。
指が太いから志郎康さんの掌だとわかる。魚眼レンズの写真は円形に写され円の周りは黒くなるから写真部分が丸くトリミングされて表紙に配置されている。
巻末の写真メモには「1992年多摩美上野毛キャンパス。新入生ガイダンス合宿に出発する朝。」と記されている。
裏表紙には、これも志郎康さんの指だろう、紫陽花の花を太い指の手が摘もうとしている魚眼写真だ。
写真メモに「1993年自宅テラスで。」と記されている。

円周魚眼レンズの写真たちは世界が丸く切り取られている。
巻末にある志郎康さんの写真メモの一部を引用してみる。

「3 1995年8月文京区白鳥橋。」

「4 撮影年月不詳。日本橋浜町付近。幼い頃の記憶と結びつく。」

「5 1975年墨田区立花、中川の土手。1945年3月10日の戦災のとき、ここを母と祖母と逃げて走った。」

「9 1993年自宅付近。トンネルは何時も取りたくなる。」

「13 1975年亀戸天神で、麻理と草多1歳。」

「21 1975年頃、江東区木場で、麻理。」

「33 1992年8月江東区森下と白河に掛かる高橋。」

「42 1993年7月札幌市。」

「46 1990年8月新幹線車窓の眺め。」

「47 1990年8月新幹線車窓の眺め。」

「52 1990年広島市。」

「53 1991年8月霧ケ峰高原で、野々歩。」

「59 1992年5月阿賀野川河畔の津川で。川口晴美さん。「現代詩の会」グループ旅行。」

「62 年月場所不明。」

「79 1990年西多摩郡檜原村、払沢の滝。」

「88 1992年8月江東区白河の渡辺洋さん宅での家族像。気分のいい夕方。」

「94 1992年自宅仕事場で。自写像。」

「95 1993年頃、自宅仕事場での自写像。」

「96 1993年頃、自宅仕事場で。」

「97 1993年頃、自宅仕事場で。」

「98 1989年7時間半に及ぶ映画『風の積分』のフィルムの一部分のコマ。」

「100 1993年頃、自宅仕事場での自写像。」

「101 1995年8月 自宅仕事場での自写像。」

「102 年月場所不明。」

頁数と志郎康さんの写真メモだけでは、写真がないからイメージが浮かばないだろう。わたしには写真集「眉宇の半球」があり、そのページを開いて写真の景色を見ることができる。

「3 1995年8月文京区白鳥橋。」

白鳥橋は飯田橋から江戸川橋に向かった首都高5号池袋線が神田川に沿って左に大きく曲がるところだろう。
神田川に丸い橋脚が垂直に立ち、淀んだ川の上に首都高が覆い被さっている。
首都高は戦後、1959年に工事が着手され1964年東京オリンピック開催前にはかなりの部分が開通している。

地方の農民など労働者の都市への出稼ぎや移動を加速させ首都高は完成されていったのだろう。

「4 撮影年月不詳。日本橋浜町付近。幼い頃の記憶と結びつく。」

真ん中に電柱が真っ直ぐに天に伸びて空には電線が縦横に伸びていてその下の電柱の両脇に下町の木造日本家屋が犇めいて並んでいる。軒下には植木鉢が並んでいる。

「5 1975年墨田区立花、中川の土手。1945年3月10日の戦災のとき、ここを母と祖母と逃げて走った。」

1944年8月に山形の赤湯に学童疎開して栄養失調で脚気になり10月に東京の亀戸の家に戻り空襲にあったのだろう。3月の東京大空襲で焼け出されたという。写真には川に沿って土手が続き土手の向こうに日本家屋が低く連なっている。

「9 1993年自宅付近。トンネルは何時も取りたくなる。」

代々木上原のJRのガード下のトンネルか?
蒲鉾のようにトンネルがありトンネルの向こうに道路が二股に分かれていてその上の空が明るい。

「13 1975年亀戸天神で、麻理と草多1歳。」

若い麻理さんが草多さんを抱いて表情がやわらかい。草多さんが笑っている。

「21 1975年頃、江東区木場で、麻理。」

木造の商店か、「ちとせ」という看板が入口の上に掛かっている。その前に若い麻理さんが立っている。

「33 1992年8月江東区森下と白河に掛かる高橋。」

川の向こうに高層集合住宅が建っている。橋を男性が自転車で渡って行く。

「42 1993年7月札幌市。」

志郎康さんがホテルの部屋のベッドに服を着たまま横たわっている。
棚に置いたカメラでタイマーを使い撮ったのだろう。

「46 1990年8月新幹線車窓の眺め。」
「47 1990年8月新幹線車窓の眺め。」

ひとつは車窓から真っ直ぐに伸びた川と土手が撮されている。
もうひとつは車窓から撮されたトンネルの手前の鉄骨構造物と電線などが流れ去っている。

「52 1990年広島市。」

柵の向こうに原爆ドームがしらじらと佇んでいる。人がいない。

「53 1991年8月霧ケ峰高原で、野々歩。」

少年の野々歩さんが草むらで笑っている。山々が見える。

「59 1992年5月阿賀野川河畔の津川で。川口晴美さん。「現代詩の会」グループ旅行。」

若い川口晴美さんが河畔の岩の上に腰を下ろして微笑んでいる。背景に川が流れている。

「62 年月場所不明。」
「102 年月場所不明。」

この二つの写真メモは「年月場所不明。」とだけ記されている。
写真メモの意味をなさない。
62頁の方の写真には背の高い野の花が繁茂していてその花々の向こうに農家の納屋のようなもが見える。
102頁の方の写真には枯れた葦原が風に薙ぎ倒されたような光景が画面の全面に広がり葦原の向こうに林が見えている。

どちらも写真の光景は円形に切り取られている。

志郎康さんはこの写真集に「魚眼映像は気持ちいい」というタイトルのエッセイを寄せている。

「魚眼の写真が気に入っている。単純に撮っていて面白い。中心を通る直線以外はすべて歪んでしまうというのも面白いが、対象との間に絶対的な距離が生じてくるというところがいい。たいてい写真というのは、撮る人の対象へのこだわりが出てくるわけで、そこが面白いとされるところなのだが、魚眼はそれとは逆に対象に対する無関心が出てくるところとなる。魚眼レンズで撮ると、誰が撮っても同じになる。そこがいい、と、それ以上に素敵だという気分になれる。わたしがそこに現れないですむのが素敵なのだ。

以前、『極私的魚眼抜け』という魚眼映画を作ったが、その時は魚眼レンズが対象世界を「中心」と「周辺」に置きかえてしまうということに気がついたのだったが、今度は『風の積分』をやってみて、「空洞」を作れるということに気がついてワクワクさせられた。

・・・中略・・・

つまり、「わたしの作品」だなんていえない。対象はまるまる自然の変化なんだから、当たり前のことだ。それをどう映像にするかというところに、「わたし」があるといっても、カメラがオートで撮っているのだから、「わたし」が立ち会っていることもなく、不在は不在である。でも、わたしがやったんだから、やった主としている。わたしがやっていて、わたしがいない。これが最高に気持ちがいいっていうことだとわかった。」

と志郎康さんは書いている。

“魚眼レンズで撮ると、誰が撮っても同じになる。そこがいい、と、それ以上に素敵だという気分になれる。わたしがそこに現れないですむのが素敵なのだ。”

ということなのだ。

“わたしがそこに現れないですむのが素敵なのだ。”と書きながら、
しかし、魚眼レンズで志郎康さん自身を撮った写真が写真集の最後に続いている。

「94 1992年自宅仕事場で。自写像。」
「95 1993年頃、自宅仕事場での自写像。」
「96 1993年頃、自宅仕事場で。」
「97 1993年頃、自宅仕事場で。」
「100 1993年頃、自宅仕事場での自写像。」
「101 1995年8月 自宅仕事場での自写像。」

そこには志郎康さんが対象物のように素っ裸になって写し出されている。
にこりともしていない志郎康さんが写っている。

「街中を歩いても、テレビを見ても、言葉やらイメージやらが多くて非常に鬱陶しい。そういう関係に毒を盛って毒を制するような関係が、これらの写真と向かい合ったときに持てれば幸いである。」

そう、志郎康さんは写真集のあとがきに書いている。

この世界には人によって作られたイメージや言葉が溢れている。
それらのイメージや言葉は人を商品や貨幣や党派などに誘導するための効果が目指されたものだろう。
それらは人々を誘導するための嘘さえもを含んでいることだろう。

「そういう関係に毒を盛って毒を制するような関係」と志郎康さんは魚眼写真のことを言っている。

「毒を盛って毒を制するような関係」とは詩や写真で我を無にして新しい我に至るということだろう。それは”無我”ということだろうか?

“無我”とは世界との関係のことだろう。
志郎康さんはそのことを”極私”と言った。
志郎康さんの”極私”は詩や写真の働きによって自己を世界に開いて自由になるということだ。

その”極私”をわたしも生きてみたいと思っている。

 

 

 

閉じこもってしまいたい でも/閉じこめられてしまえば/出たいと思う

中村登詩集『水剥ぎ』(魯人出版会 1982年)を読む

 

辻 和人

 
 

 

中村登(後年、古川ぼたると改称)の詩は、長い間私の関心の的であり続けている。私が大学に入って間もない頃、渋谷のぱろうるで第1詩集『水剥ぎ』を手に取り、即、購入したのだった。私は高校の時から現代詩に対する関心を抱き始めていたが、読んでいたのは既に実績のある年配の詩人の詩集ばかりで、若い詩人の作品はほとんだ読んだことがなかった。中村登(1951年生まれ)の詩を、私は「現代詩手帖」の広告で知ったのだったが、私(1964年生まれ)にとっては感覚的に共感するところが多く、店頭で立ち読みしてすぐ気に入ったのだった。以来、しばらくの間、枕元に置いて寝る前に必ずどれかの詩を読んでいた。更に、詩集『プラスチックハンガー』(1984年 一風堂)、『笑うカモノハシ』(1987年 さんが出版)を愛読し、彼が参加していた詩誌「ゴジラ」や「季刊パンティ」にも目を通した。まるで中村登のおっかけのようなものである。後に自分が詩作を始めてからも、彼の詩はいつも頭のどこかにひっかかっていた。彼ならどう書くだろう、と考えたりしていたのだ。「季刊パンティ」が終わった後、詩を余り書かなくなっていたが、2012年にさとう三千魚さんを通じてブログ「句楽詩」で詩作を再開したことを知り、嬉しく思った。
私は一度本人にお会いしたことがある。鈴木志郎康さんの講演の場で偶然一緒になった。穏やかな表情の快活な方という印象だった。お話ししたいことがあったが、用事があったので一言挨拶を交わしただけだった。その後、ネット上で少しやりとりをした。いつかゆっくりお話をしたいものだと思っていたが、2013年4月、急死されたと聞いて驚いた。脳出血とのことだった。もう新しい詩が読めないのかと思うと寂しい気持ちでいっぱいだが、残された作品を論じることはできる。

私は中村登の詩のどこがそんなに気に入っていたのか。彼の詩は、身の周りのことを書いた私詩的なものが多く、一般の目を引くドラマチックな題材などは一切扱わなかった。言葉の運びは巧みだったが、華麗な比喩を使うこともなければ抒情美でうっとりさせることもなかった。一見すると、ネクラな、ぱっとしない詩という印象を与えられる。
しかし、二十歳前の若者だった私は夢中になったのだった。読み込んでいくと、はらわたに浸み込むように、その真価がわかってくる。中村登の詩には、彼が生活の中で抱えた問題-金銭の問題とか人間関係の問題とか健康の問題とかいったテーマのはっきりした問題ではなく、もっともやもやした、個人的な問題-を正確に言葉にしようと苦闘する様が刻む込まれているのがわかってくるのである。

まず、冒頭に置かれた表題作「水剥ぎ」を全文引用してみよう。

 

空0水を一枚ずつ剥ぐ。
空0今宵の流れは何処へめぐるか。
空0乳白色に迫ってくる河は、
空0巨大な交尾に浮上する。
空0交尾に狂う河だ。
空0河が固い喉を裂いた。
空0ふるえを飲む。
空0泥を飲む。
空0関東ローム層のスカスカした暮らしの
空0腕がこわばる、
空0樹を飲む。
空0橋を飲む。
空0道路を飲む。
空0家を飲む。
空0自我へ渡る睡眠中枢を断ち、
空0喩に痩せた夢飲まず。
空0大陰唇押し広げ、
空0飲み下す舟の軸先が突き刺さる扁桃腺の浅瀬で、
空0否定項目が苛立ってくる。
空0ちくちくと畜生。
空0蓄膿する眼底に意味を流しては囚われるばかりだ。
空0青大将が鎌首もたげて顔色見てるな。
空0小水程の氾濫とみくびっていやがる。
空0煙立つ深夜の四畳半ギッと握り締め、
空0ずり足で河へ入る。
空0向う脛掬われ溺れそうだ。
空0家族を薙ぎ倒し、
空0記憶が胸元で濡れようと一瞥、
空0だが、明日は何処へちぎれるか解らぬ。
空0詩人奴が新しい喩を使う事件が不在だと嘆いている。
空0事件!
空0「何処にどんな気持ちのいい河があるんだ」

空0水剥ぎ、
空0交尾に狂う河を浮上させ、
空0幻想の瘡蓋剥ぐ。

 

荒れる河を前に昂揚した心情を歌い上げた、緊張感溢れる詩だ。畳みかけるような鋭角的なリズムが、凶暴化していく気分を描いている。「ふるえを飲む。/泥を飲む。」以下の「飲む」のリフレインが特に効いている。河は、様々なものを飲み込んでいくが、「自我へ渡る睡眠中枢を断ち、/喩に痩せた夢飲まず。」とあるので、自意識だけは飲んでくれない。逆に言えば、河が、自意識が裸で突っ立っている状態を作っているということだ。更にその後、「大陰唇押し広げ、/飲み下す舟の軸先が突き刺さる扁桃腺の浅瀬で、/否定項目が苛立ってくる。」とあり、性の営みも出てくるが、それは話者に豊かな官能をもたらすものではなく、むしろ苛立ちを掻き立てる。話者は「蓄膿する眼底に意味を流しては囚われるばかりだ」と物事に意味を求めるのを止め、「煙立つ深夜の四畳半ギッと握り締め、/ずり足で河へ入る。」と、たった一人で、荒れる自然の営みの中に入っていく。自分を支えてくれるはずの家族も「薙ぎ倒し」、過去も捨てる。自己表現の手段である詩でさえも、「詩人奴が新しい喩を使う事件が不在だと嘆いている。」と揶揄する。そして、「事件!/「何処にどんな気持ちのいい河があるんだ」と吠えるのである。
制度化されたものを一切拒否したい。が、事はそう簡単ではない。途中で「青大将が鎌首もたげて顔色見てるな。/小水程の氾濫とみくびっていやがる。」の2行がある。吠えながら、自分を縛ってくるものから逃れることはできない、と、心の底でわかっている。自由を希求するヒロイズムではなく、それが不可能なことの憂鬱が語られた作品なのだ。

鈴木志郎康はこの詩集の跋文の中で「詩集の頁をめくって行くうちに、ひとつの歩調を持って、水から離れて乾いて行くという経路を辿っているのである。『渇水』して乾いて行くのであるから、息苦しくなってしまうのだ」と述べている。では、序詩と言える表題作の後、どう「渇水」していくかを見てみよう。

詩集の始めの方は釣りのことを書いた詩が多い。中村登は子供の頃から河で釣りを楽しんでいたようだ。「切りつめズボン少年の夏は河口へ」は、少年時の作者と思われる人物が自転車を河口へ走らせるが、河口は赤潮に満ちていてお目当てのハゼは釣れず、また自転車に乗って引き返すという詩である。

 

空0飛白肩手ぬぐい貼り当て軒先に立つのを
空0ひしゃく振り祖父が
空0水打散らす
空0ボクら弟前に押し
空0コジキコジキ囃子
空0イッチャンニット黄歯頬かぶり笑い
空0コウチキローサンのバケツブリキに
空0味噌ムスビころげころげ
空0“稲が燃えるぞ アッハッハー
空白梨が燃えるぞ アッハッハー“

 

少年時代の作者は近所の人たちと親しくつきあっていたことがうかがえる。釣りはそれをすること自体楽しいが、社交の場としても機能していたようだ。同年代のイッチャン、大人のコウチキローサン、祖父も近所に住んでいる。そしてみんな一緒に釣りを楽しんでいた。中村登が少年時代を過ごした1960年代の埼玉の農村では、関係の密な地域共同体が生きていたのだろう。ゲームセンターもなく映画館もない、そんな中で、釣りは地域のみんなを結びつける貴重な娯楽だったのではないかと思われる。
釣りは潤いのある共同体を映し出す鏡のような存在だったが、中村登が成人する頃には様子が変わってくる

 

空0あぎとに突然
空0一条の水が突き刺さった
空0喉を引かれるままに
空0膜を破り見た
空0俺のような死体が
空0草のなかで
空0乾いた鱗が反りかえっていた
空白空白空白空白「魚族」より

 

空0青草を敷いて
空0闇に竿先を見つめる
空0失職の夜は
空0針ほどの目に暗くて
空0頼りたかった
空0河を渡る電車の窓光
空0旋回する飛行機の尾灯や建物の明りが
空0赤い腫れもののように
空0浮きあがる
空白空白空白空白「夜釣りの唄」より

 

釣りはみんなでわいわい楽しむものから一人でするものに変わっている。ここでの釣りは、「乾いた」自分を見つめる、孤独との対峙の場である。埼玉の農村も郊外の波が押し寄せてきたのだろうか。

 

空0逃げてゆく
空0逃げてゆこうとする魚が私を
空0引っ張る
空0たまらず竿を立てる
空0一日中釣りのことで毎日を過ごしたい
空白空白空白空白「釣魚迷(つりきちがい)」より

 

ここでの作者は、「切りつめズボン少年」だった頃とは全くの別人になっている。周囲との関係を絶って、逃げてゆくものをひとすら追いかける、という行為の中に自分を閉ざしているのである。

作者は結婚し、家族を持つが、そこでも安らぐことはできない。

 

空0娘が陽を溜めた
空0赤茶が
空0トウモロコシは泡の中
空0からんでる
空0私だけが浮き上がる
空0ドラム缶に転げる
空0200㎏に軋んだ
空0工場の爪は
空0髪にすすがれ
空0鮮やかになる隙間で
空0浴場
空0と限り掴む
空白空白空白空白「湯上りに娘の耳を」より

 

作者は風呂からあがって幼い娘に優しく向き合うが、工場での無機的な労働の記憶が消えず、自分が周囲から浮き上がっているように感じてしまう。

 

空0ムカデが妻を誘っていた
空0子供らが傍で関節を折っていた
空0男の子の手にハシが突き刺さっていた
空0女の子の胸にキキがララと笑っていた
空0妻は息を殺して這っていた
空0全足が喚起する苦しげな腹でムカデは
空0妻を包み込むように身をよじった
空白空白空白空白「妻の病」より

 

家の中にムカデが這い出て緊張が走る光景と妻との性行為がダブルイメージで描かれている。駆除すべき虫が、夫である自分に成り代わって、妻と交合する。最も親密なエロスの場からも爪はじきされた気分なのだ。或いは、夫であり父である自分が、家族によって駆除される存在のように感じられてしまうのか。

この状況は、テレビがまだ普及しきれていない時代のことを書いた「夜の荷台」という詩と好対照をなす。「(町の最初のテレビが八時になろうとしていた。昼のうち道路の砂利を新しくしていた父が慌てて夕飯を喰う)」という前ふりで始まるこの詩は、

 

空0頭の上にうなっている
空0時間ではなくいつも蠅が(トオサン百姓)
空0季節が首を吊ったまま(ボク子供のノブ)
空0目の裏に鮮やかな
空0呼び戻す胃で
空0上等兵が杓文字で殴る
空白空白(頬につくわずかな飯粒がうれしかっ
空白空白空0たってトウサンが言うのを聞いたし、菊と宝刀
空白空白空0があるとも、その腰)

 

父と子が一体となって町に一台しかないテレビにかぶりついている様子が描かれている。父は農作業の傍らに土木工事に従事し、家族を養っていたようだ。父は戦争の記憶が鮮烈であり、その記憶は戦争を舞台としたドラマを通じて子に継がれている。釣りと同じくテレビも皆で楽しむものだった。親子の間で記憶の断絶はない。
しかし、農業で食べられていた時代はどうやら父の代までで、作者が成人する頃には農業が衰退してしまったのだろう、作者は工場で働く他なくなる。

 

空0赤い顔料が渦巻く
空0言葉を熱く頭にめぐらす粒子が
空0こすれて発熱する
空0熱を溜める体に
空0顔料が流動する工場は
空0言葉が言葉をもっている言葉は連れて行く
空白空白空白空白「熱い継ぎ目」より

 

単調な作業の繰り返しの中で、人との接触を絶たれて行き場を失った言葉が、独り言のように頭の中で生まれては消えていく。労働疎外とは、こうした感覚が麻痺した状態を指すのであろう。

次に全文引用する「防爆構造」は、本詩集で最も完成度の高い作品と思われるが、当時の作者の切迫した心情を描いている。

 

空0工場の朝へ
空0足が溜る
空0吹き出す
空0口を
空0防爆に
空0モーターの
空0螺子込み垂れ籠み
空0きっちりと
空0火花を摘んである
空0時折り 爪が
空0蓋に咬まれつぶれる
空0死血が溜る
空0排卵の月は筋めく股
空0妻かって?
空0餅切り
空0くっつかないように
空0片栗粉まぶし
空0餡子も熱いうち金時と
空0塞いでしまう
空0伝説の四天王では詰まらない
空0容器をまちがえたか
空0詰め物がちがうか
空0凝ってくる
空0影に引かれて
空0蝙蝠
空0こんもり夜が
空0帰ってきた玄関で腰に
空0警棒が
空0たかっている
空0腐りものを探しているのだ
空0発酵寸前の
空0いい匂いがするのだ
空0チューブ巻きあげ
空0ハンバーグがにょっきり出たりするので
空0肛門開きのぞき込む
空0台帳のナカムラさんですか
空0と丁寧に念入りな箪笥抽斗押入鴨居
空0やがて
空0性交の数まで根堀り葉堀り長さ太さに穴の深さを
空0手帳する
空0それではアレもあるだろう
空0もちろんアレもあります
空0まだぬくといアレだぞ
空0ハイハイそうです
空0ぶっくりふくれる
空0子宮です

 

ねじめ正一はこの詩に対し、「防爆構造とは、一つ間違えば爆発する構造に他ならない。いや、もっと言えば爆発が不可避だからこそ防爆構造なのである」と述べている。まさにその通りだろう。勤務先で監視されながらふらふらになるまで酷使され疲弊した作者は、家に帰っても「監視されている」という感覚が消えない。夫婦の営みとその結果としての妻の妊娠は、普通なら潤いに満ちた愛を示すが、そうした最も親密な行為さえも「監視されている」という感覚を伴ってしまう。性行為は体を重ねて求めあう濃密な行為だが、唐突に出てくる「ハンバーグ」という言葉は、そこから愛する者同士のコミュニケーションという本質的な要素を抜き去って、行為の物理的な生々しさだけを強調する。「警棒」が家庭内に侵入し、行為から意味を除去し、即物的に記録していくのだ。その不快さに対し、我慢に我慢を重ねている、それが「防爆構造」なのである。
「防爆構造」を抱え込んだ意識は

 

空0私は思うこともなく煙草に火をつけていると
空0扉の把手の金属の内側に
空0閉じこもってしまいたい でも
空0閉じこめられてしまえば
空0出たいと思う
空白空白空白空白「便所に夕陽が射す」より

 

のように、自分が何をしたいのかわからない、ふらふらした「モノ」のような様態となる。このふらふらと行先の定まらない意識は、様々な奇怪な幻想を紡ぎ出すようになる。

 

空0あぶな坂の夕陽の辺りに
空0乳首が上下している
空0髪をすきにくるあなたは
空0南風に
空0ケガをしたのですか?カアサン
空0妻の股から今し方あなたの
空0首が降りて来ました
空0その首を吊り下げて
空0坂の中腹にさしかかると
空0飛んで刺しにくる 初めは
空0アルコールでスッと拭きました
 空白空白空白空白「私の声が聞こえますか」より

 

空0壁を剥ぐ
空0妻の股には傷口が深くえぐられ赤い内面に
空0血液がしたたる
空0倒れた妻を抱き血液をなめいとおしむ脳の
空0空地に土砂降りの雨が溢れ
空0沼をかきむしるその手に
空0缶カラッ、看板、破けた
空白空白空白空白「夜の空地」より

詩集の後半では、性的なモチーフから、非現実的で不気味なイメージを引き出す局面がたびたび出てくる。妻は魔女のように極端にモノ化されて表現される。こうした対象のモノ化は、生活に疲れ切って荒んだ作者自身の意識の表出であろう。

 

空0妻と子供らが帰ってこない
空0熱い夜は窓を開けて寝る
空0風のなかではぴらぴらと少しも
空0位置がはっきりしないそれが
空0家庭の本質、とつい絵の中のコウモリが
空0監獄の天窓めがけて飛び立つ夢を描く
空0夢が描けない俺は
空0未決の留置場で朝ごとにバスが来る
空0なんでも吐いてしまいな
空0と言われても
空0ただの酔っぱらいの俺に何が吐ける?
空白空白空白空白「風に眠る」より

 

妻が子供を連れて実家に帰ったのだろう。もしかしたら夫婦の間で何か揉め事があったのかもしれない。作者は深酒し、家庭というものについて改めて考えるが、答えを出せないまま吐き気に苦しむ。架けてある絵にはコウモリが描かれており、それは空想の中で、こともあろうに「監獄の天窓」に向かって飛ぶ。しかも作者は監獄に入るという、どん底ではあるが決然とした運命には行き着かず、「留置場」という中途半端な場所で生殺しに近い状態に置かれる。吐きたくても吐けない、という状況設定に作者の心境が窺える。

 

空0妻と行く先々の話を
空0今から話した
空0子供は六歳の雪江と三歳の秋則で私は妻より
空0二年遅れて死ぬ
空0死ぬ日から数えて
空0今はいつなのか
空白空白空白空白「大嵐のあった晩」より

 
 
この詩を書いた時中村登は30歳になっていないのだ。まだ若い作者がこんなことを思いつくのは、未来に希望を見い出せないからではないか。かけがえのない生きる時間というものも、一種の「モノ」として捉えている。土から引き剥がされ水から引き剥がされ、それでも一家の大黒柱として、家族を養うために過酷な労働に従事することをやめられない。その苦い認識が作者を人生の行き止まり地点に連れていくのだろう。

 

空0粗方の荷物は昼のうちになかに運び込んだ
空0傷つくのを気づかってくれた
空0大きなものは重い重いと言いながらも
空0置き場が見えていた
空0タンスとか冷蔵庫とか父とか母とかは
空0弟や義兄が手伝って家に帰った後夜になった
空白空白空白空白「引っ越した後で」より

 

「タンス」「冷蔵庫」と、「父」「母」が、「モノ」として同じ比重で扱われている。「切りつめズボン少年の夏は河口へ」で描かれた暖かな人間関係と何と異なることか。作者は、家族を、淡々とした筆致でもって、とことん突き放して描いている。心を故意に、虚ろで鈍感な状態にしているように見える。
その虚ろな心的状態は「漏水」という詩で端的に描かれる。

 

空0目が割れている 何処の
空0家庭の蛇口も深夜には
空0閉じられる
空0水圧があがる 見えないが
空0内部が磨滅しているのだろう 隙間から
空0水がもれている

空0私に隠して
空0感情の接点をむすんでいる
空0妻の背中で
空0漏れた水が流れ込む その底に
空0闇水が眠っている

 

「防爆構造」の緩みを、蛇口から水が漏れる場面に即し、外側から内側から、精密に描出していく。目に見えないところで、摩耗し、漏れていくものがある。それは確かに感じられる。しかし、何が摩耗し何が漏れるのか、作者自身にもはっきりと説明することができない。はっきり説明できないもどかしさと不安を、詩の言葉でなら克明に表現できる。中村登を詩に向かわしめる動機は、ここにある。

社会的な面で、中村登の詩を巡るポイントは二つあると思う。一つは都市化・郊外化の流れで、住民の関係が密な村落共同体が壊れていき、個人がバラバラな状態に向かっていったということ。釣りは、みんなでわいわい楽しむのが常であったが、それが孤独を見つめる行為と変化した。テレビも同様である。少年時代が幸福であっただけに、その変化はひとしお不自然なものに感じられたであろう。郊外化を推し進めたのは、高度成長の副作用と言える農業の衰退であり、若者は土を離れて工業に従事せざるを得ない状態となった。働く者の判断で仕事を進めることのできた農業と違い、工場では労働を徹底的に管理され、人間性を剥ぎ取られたような扱いを受ける。労働に対する疎外の感覚が生まれるということだ。
もう一つはジェンダーの問題である。中村登は20代で結婚し、父親となった。保守的な地域において、男性が家庭を持つということは、家の長として家族を養う責務を追うということになる。性的役割分担制は、しばしば女性の自由と権利を侵害するが、男性の場合でもそうである。どんなに辛くとも対面を保つために金を稼ぎ続けなければならない。都市化のために、自分の裁量で事を進められる自営的な仕事が立ち行かなくなり、資本によって雇用され稼ぐしかなくなった時、人間性を侵す残酷な扱いを甘受しなければならない。しかも、形の上で女性を支配する側として立つ男性の場合、その辛さを口に出すことは世間的に許されないのである。男性の過労死・自殺が多いのはそうした理由によることが多い。
その点で言えば、中村登の詩は、「女性詩」として括られていた同時代の詩との親和性が高いように思うのである。

 

空0あんたがもってきた時計のおかげであたしは
空0キャベツの千切りの速度が決められた
空0その気づくはずがなかった慣習という
空0単純な不幸のために
空0あたしはあんた好みに重くなっていく
空0寝ているあたしを隅においやり
空0家具と並べてながめ
空0なじめていない丸い部分を削りとる
空白空白空白空白白石公子「家庭」より

 

空0穴であると感じた
空0私は、自分を穴でしかないと感じた
空0そういうふうに私が抱く特権が
空0今のあなたには与えられているということか
空0ただし、穴には感情がない
空0私はどうでもよくなった
空白空白空白空白榊原淳子「飼い殺し2」より

 

この二人の詩人は、女性として受けた抑圧を、赤裸々にうたいあげている。心の抑鬱を、自らの性や身体の在り方に即して、読者に直接語りかけていくのだ。その語りの激しさに心を打たれないではいられない。常に個人の身体感覚を基点に言葉を繰り出す点において、中村登の詩は二人の女性の詩人の詩と酷似している。「女性詩」とは、女性が書いた詩のことなどではなく、女性の書き手が多いことはあったにしても、固有の性と身体から出発し常にそこを基調とする詩を指すのではないだろうか。であれば、中村登の詩も「女性詩」の範疇に入るように思うのである。
但し、白石公子、榊原淳子という二人の詩人がどちらも、被抑圧者として抑圧者を「告発する」という姿勢を露わにしているのに対し、中村登の方は姿勢がすっきりせず、もごもご内向している感じである。この「もごもご感」は、家父長として「抑圧する側」に立たされているために、「告発」という形を取れないために表れる。男性のジェンダーを語ることの困難がここにある。そして中村登は、このすっきりしないもごもごした様態を、詩の言葉でもってできる限り正確に伝えようと、苦闘していると言える。

「閉じこもってしまいたい でも/閉じこめられてしまえば/出たいと思う」という詩句には中村登の詩の特質が凝縮して表れている。こういう苦しさがあるのでこうしたい、と事態を打開する道を模索するのでなく、打開の道などないと諦観した上で、閉じこもったり出たり、ふらふらしている。その逡巡ぶりは一人の男性が生きて苦しんでいる時間の伸縮そのものであり、詩を読み始めたばかりの私はそこに惹かれて夢中になったのだった。

 

 

 

経験を抽象化した仮想のネットワーク
今井義行「空(ソラ)と ミルフィーユカツ」を読んで

 

辻 和人

 
 

2020年12月10日に「浜風文庫」で公開された今井義行の「空(ソラ)と ミルフィーユカツ」は、読み物として心を動かされると同時に、飛び抜けて斬新で明確なコンセプトを備えており、文学の教材としても使える詩のように感じたのだった。
おいしい「ミルフィーユカツ」を食べた話者が、店を出た後なぜか爽快な気分にならず、空が濁って見えてしまう。その理由を探るという詩。全行を引用しよう。

 

空0空(ソラ)と ミルフィーユカツ

空0ソラ、 サクッ 口元が ダンス、ダンス、ダンス!! 
空0ソラ、 サクッ 口元が ダンス、ダンス、ダンス!!
空0いい気分だったのに

空0ん?

空0ふと 見上げた空が 濁って見えてしまった
空0夕べ 飯島耕一さんの詩 「他人の空」を
空0久しぶりに 読み返した そのせい なのかなあ───

空0「他人の空」
空0鳥たちが帰って来た。
空0地の黒い割れ目をついばんだ。
空0見慣れない屋根の上を
空0上ったり下ったりした。
空0それは途方に暮れているように見えた。
空0空は石を食ったように頭をかかえている。
空0物思いにふけっている。
空0もう流れ出すこともなかったので、
空0血は空に
空0他人のようにめぐっている。

空0戦後 シュールの 1篇の詩
空0鳥たちは 還ってきた 兵士たちの ことだろう
空0途方に暮れている 彼らを受け止めて
空0空は 悩ましかったのかも しれない けれど──

空0そう 書かれても
空0わたしは 素敵なランチタイムの 後で
空0もっと さっぱりとした 青空を 見上げたかったよ
空0暗喩に されたりすると
空0地球の空が いじり 倒されてしまう 気がしてしまってね

空0わたしが 食事に行ったのは 豚カツチェーン店の 「松のや」

空0食券を買って 食べるお店は
空0味気ないと 思って いたけれど
空0味が良ければ 良いのだと 考えが変わった

空0そうして今 わたしを 魅了して やまないのは
空0「ミルフィーユカツ定食 580円・税込」
空0豚バラ肉の スライスを 何層にも 重ねて
空0柔らかく 揚げた とっても ジューシーで
空0アートのような メニューなんだ

空0食券を 買い求めた わたしの 指先は
空0とっても 高揚して ダンス、ダンス、ダンス!!

空0運ばれてきた ミルフィーユカツの 断面図
空0安価な素材の 豚バラ肉が 手間を掛けて 何層にも
空0重ねられてある ソラ、ソラ、ジューシー!!

空0運ばれてきた ミルフィーユカツを 一口 噛ると
空0ソラ、 サクッ 口元が ダンス、ダンス、ダンス!!
空0ソラ、 サクッ 口元が ダンス、ダンス、ダンス!!

空0そうそう
空0豚カツ屋さんには 必ず カツカレーが あるけれど
空0あれには 手を染めては いけないよ
空0カツカレーは 豚カツではなく カレーです

空0カレーの 強い風味が
空0豚カツの衣の 塩味を 殺してしまう
空01種の 「テロ」 だからです

空0ただでさえ 今 街は コロナ禍  なんだから

空0空を見上げながら 入店した わたし

空0ソラ、1種の 「テロ」は 即刻 メニューから
空0ソラ、駆逐すべき ものでしょう──

空0わたしが ミルフィーユカツを パクパク してる時
空0ある ミュージシャンが クスリで パク られた
空0という  ニュースを 知った
空0この世では 美味なものを パクパク するのは
空0ソラ、当然の こと でしょう──

空0鬼の首 捕ったような 態度の 警察は どうかしてる

空0トランスできる ものを パクパク するのは
空0ソラ、ニンゲンの しぜんな しんじつ
空0ソラ、攻める ような ことでは ないでしょう!?

空0わたしは ミルフィーユカツで トランスしたし、
空0ミュージシャンは クスリで トランスしたし、
空0飯島耕一さんの 時代には 暗喩で トランス 
空0できたんでしょう──

空0だから 「他人の空」も ソラ、輝けたのでしょう

空0鳥たちが帰って来た
空0──おお そうだ あいつらが帰ってきたんだ
空0空は石を食ったように頭をかかえている
空0──おお そうだ みんな頭かかえてた
空0血は空に
空0他人のようにめぐっている。
空0──おお そうだ 他人みたいな感触だったよ

空0わたしは 詩を書いている けれど
空0もう  滅多に 暗喩は  使わない

空0詩は 言葉の アートだけれど
空0今は いろいろな トランス・アイテムが あるから
空0敢えて 言葉で 迷路を造る
空0必要は そんなに 無いんじゃない かな

空0わたしは そう 思うんだ けれど──

空0平井商店街を歩いて しばらくすると
空0濁っていた空が 再び輝き出した

空0飯島さんにとってソラは暗喩
空0ミュージシャンにとってソラはクスリ

空0しかし、

空0カツカレーを駆逐して  ミルフィーユカツを パクパク した わたしにとって

空0ソラは、ソラで 問題 無いんじゃないかな!?
空0(引用終わり)

 

話者は前の日に飯島耕一の有名な詩「他人の空」を読んでいた。敗戦後の社会の気分を暗喩で表現した詩である。「空」は現実の空ではなく、当時の民衆の沈んだ気持ちを暗示している。「他人の空」は全行引用され、この詩に組み込まれる。一方、話者は食事中、ネットのニュースか何かで、あるミュージシャンがドラッグ所持の疑いで逮捕されたことを知る。

ここから話者は独自の考えを巡らす。飯島耕一は当時の民衆の漠然とした不安を掬い上げるために暗喩を使った詩を書いた。当時の読者は漠とした感情が喩によって的確に可視化されたことに驚き、その魅力に夢中になったことだろう。敗戦は当時の人々にとって共通の関心事だったろうから。「血は空に/他人のようにめぐっている」は、敗戦、そして帰還兵を巡る当時の人々の名づけようのない気持ちを見事に表現している。的確な比喩を発見した詩人の興奮、そしてそれを受け止める当時の人々の興奮を、話者は想像する。

一方、ミュージシャンの方はドラッグの摂取によって昂揚した気分になり、非現実的な世界で遊ぶことに夢中になった。違法ではあるが、彼が名づけようのない幸せな興奮を味わったことは間違いない。話者はそのこと自体は良かったこととし、むしろ逮捕した警察の方を咎めている。

話者自身と言えば、ミルフィーユカツに「アート」を見出すほど夢中になった。カツの風味を殺す「カツカレー」を退け、ひたすらそのおいしさを味わう。「安価な素材の 豚バラ肉が 手間を掛けて 何層にも/重ねられてある ソラ、ソラ、ジューシー!!」とくれば、読者も松のやのミルフィーユカツ定食を味わいたくなってくるに違いない。

ここで「ソラ」という概念が重要な役割を果たす。「ソラ」はもちろん頭の上に広がっている現実の空から抽出されたものだが、現実の空から離れて独り歩きする。人が夢中になる程大事なもの、快く興奮させてくれるもの、そうした意味合いが込められているが、それだけではない。濁りがない、ということが重要な要素となるのだ。それは、おいしいものを食べて、晴れ晴れした空の下を歩くはずが、なぜか濁った空の下を歩く羽目に陥ってしまったという、名づけようのない話者の身体感覚から出てきたものだ。つまり「ソラ」は、名づけようのないものであると同時に、話者の身体感覚に即した明確極まりない概念であるのだ。

この仮想の概念「ソラ」が、この詩に登場する者たちを結びつける。飯島耕一にとって社会全体の空気を象徴的に表現する暗喩が「ソラ」であり、ミュージシャンにとっては現実から逃避させてくれるクスリが「ソラ」である。そして話者は、ミルフィーユカツに代表される、自分を取り巻く日常を「パクパク」味わい尽くすことそのものが、自分にとっての「ソラ」なのだと宣言する。話者はいい気分になって、輝きを取り戻した現実の空の下を颯爽と歩き出す。何とも見事な展開。

作者が作り上げた「空」ならぬ仮想の「ソラ」は、本来無関係だったものたちを緊密に関係させ、話者の経験を抽象化した不思議なネットワークを、言葉の空間の中に明確に浮かび上がらせる。「固有」というものの複雑さを取りこぼさずに「公共化」する比喩。今井義行の、話者を巡る「固有の状況」から比喩を抽出するやり方は、「全体の状況」からざっくり比喩を作った飯島耕一の時代からの比喩の進化を、鮮やかに示しているのである。