山下徹「ふたりだけの時間」について

 

 

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山下徹さんから「ふたりだけの時間(2014年6月11日〜7月19日)」という冊子をいただいてから、
この小さな冊子を鞄にいれて持ち歩いていた。

なぜか、持ち歩いていた。
この小さな冊子のなかの言葉たちは痛く感じられた。

そして、なんどか、読み返していた。

はじめに、という扉のことばがある。

 

この物語の主な登場人物はふたりです。

ボク     この物語の作者(通称、とんちゃん)
えっちゃん  ボクのワイフの通称

えっちゃんはお医者さんからガンと告知されて1ヶ月余りで永眠するのですが、この物語は作者、つまり、ボクは、迫り来る死を前にした、ふたりだけの時間を書きました。

 

つまり、この小さな冊子は山下徹さんのワイフであるえっちゃんと山下徹さんの2014年6月11日から7月19日までの記録なのだ。

 

6月14日(土)

午後3時過ぎ、我が家の2階にボクの昔のエレキバンド仲間のUが置いていった電気ピアノでえっちゃんがベートーベンの「喜びの歌」を弾いている。ボクはドアを開け、彼女の前に立った。ボクラは夢中になって抱きしめあった、ボクは、まるでケダモノが咆哮するように泣き叫んでいた。

6月20日(金)

どうしても東京へ行くという。もう身体も弱ってきているし、腹水も出て苦しいはずなのに、絶対に行くよ、えっちゃんはボクをねめつけてひかない。確かに渋谷のMがん研究所のM先生のセカンドオピニオンの予約をしているし、彼女は東京生まれ東京育ちだから、死を覚悟して故郷に帰りたいだろう。ふたたび関西まで帰れなくても、東京の方がいい病院があるだろうし、もうボクはえっちゃんの心だけにどこまでもひきずられていこう、だから、えっちゃん、ふたりいっしょに、あした東京へいこう・・・・・・

6月24日(火)、6月25日(水)は、比較的おだやかな日々をすごせたと、ボクは思う。「おだやか」とはいっても、おたがいにガンについて沈黙する、これまでボクらはガンについて幾度話し合ったことだろう、死の沈黙の上に成立する「おだやか」だったろう。

おそらく愛は、瞬間ではなかったろう。時間によって生成・発展するものだったろう、あるいは時間の中で、厳しい試練にあい、消滅してゆく・・・・・・ボクラに関していえば、43年間かけて、愛は成長し、日々深くなって、おそらくいまがその頂点なのだろう、この水を打ったような静かな沈黙の中で、ほんのそこまで近づいた死を前にして。

6月26日(木)になって、オキシコンチン5mg、オキノーム散2.5mgでは、痛みを緩和できなくなってきたのか。オキノーム散を飲む頻度が増えている彼女の姿をみるのだった。

 

 

ここに記録された言葉はなんだろう。

なぜ、これらの言葉が痛いほどに切実にわたしに届くのか?
詩やエッセイや小説などの言葉による作品性のことを考えているのではない。言葉の本来性について考えさせられているのだ。

山下徹さんは扉の言葉で、この物語の主な登場人物はふたりであり、ふたりだけの時間を書きました、と書いている。
だが、ここにあるのは記録だろう、日記だろう。それを山下徹さんは物語なのだといっている。物語は他者にむかって語られるだろう。
ここにある「ふたりだけの時間」という記録は他者に向けて開かれた物語の扉なのだと山下徹さんは語りかけているのだろうか?

ここにある言葉の切実さは「えっちゃん」を支える言葉たちなのだ。そして「えっちゃん」を支えるということが「ボク」を支えているのだ。
そして、その言葉たちを山下徹さんは「物語」として他者に開らこうとしているのだと思えた。

ここに言葉のもつ本来性を見る思いがしたのだ。

 

 

7月3日(木)。ボクの祈りがかなえられた日。きのうのように一日を過ごし、夕方には車椅子でジャックと。7月4日(金)もボクの祈りがえっちゃんに届いた日。アイスクリーム少量。アンリ・シャルパンティエのクッキーひとかけら、病院の売店のシャーベット、アイスコーヒー3分の1くらい。夕方。おとついのように、きのうのように、ジャックと面会。

7月8日(火)
毎日、ベットのへりにボクと並んで座り、アイスコーヒーを飲み、氷をかじり、レモンシャーベットを食べている。後は少量の果物など。天使のようにやせてきた。腹水は7〜8ℓとなっているらしい。白血球の値が高い、からだはガンと闘っているのか?ボクラは病室であいかわらず楽しい生活を送っている、えっちゃんにキスしていい?ときくと、いいと答えてくれる。

7月15日(火)

午前5時から、
こおりを食べる
水をのむ 歯をみがく 水をのむ
レモンシャーベット
こおり
左胸の下あたりが苦しいという
看護士さんにモルヒネをいれてもらう

いま何時ときく 5時
いま何時ときく 5時5分

髪をとかす

6時過ぎ
芦屋ロールのクリームの部分を
3回 小さじで
はちみつ
こおり
両手がこきざみに震えて
握力が弱くなって

いま何時 6時半

夕方 6時過ぎ
こおり レモンシャーベット
プリン ゼリー 芦屋ロールの
クリームをさじで少しずつ食べる
サクランボ1個
ボクの
天使
眠る。

 

 

ここに書かれている言葉はもともとは「ふたりだけの時間」として書かれた記録だろう。しかし奇跡的に詩のコトバになりえていると思う。

これらの奇跡的なコトバに喚起されて、わたしの古い記憶がよみがえる。
こどものころの記憶だ。

初夏の午前だろうか、
目の前に田圃がひろがり緑のなかに稲の葉先が一面、風で揺れていた。

軒下の日陰の敷石の上に小石を積みかさねていた。
子猫か、蝉か、だれかの墓をつくっていた。

雄物川の水の中にもぐり水面をみあげていた。
水面には太陽が光り輝いていた。

まだ、言葉を覚えるまえの記憶もあるだろう。
言葉は伝達のためだけにあるのではないだろう。
詩の言葉も伝達には適さない言葉だろう。

しかし、詩のコトバは、古い記憶や自然などヒトを支えるものと親和性を持っていると思える。それは永遠だろう。しかも一瞬の永遠だろう。
一瞬の大切なものを忘れてはいけない。

詩のコトバは死に臨むひとりのヒトを支えることもあるだろう。

いのちは
愛しあうための
空地

山下徹さんは7月19日(土)の最後の日記にそのように書いています。

 

 

※文中の引用は全て、別冊「芦屋芸術」「ふたりだけの時間」より引用させていただきました。

 

 

 

@150210 音の羽  詩の余白に

 

萩原健次郎

 

 

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獣の足跡を追う仕事をしていると、自分の中に蠢く律動に対して正直になる。
猿の背に発信器を装着する。山の端から、麓を滑空するように動いている動線をたどる。
付近の農家から、作物を荒らす被害がでていて、その苦情にこたえるかたちで、私のような職業が成り立っている。
滑空するように蠢いているかと思えば、まる一日、まったく移動しないときもある。疲れているのか、死んでいるのか、あるいはそこに獣たちの食物があるのか、想像をしてみるが、深く考えない。
発信器は、一頭に付ければいい。獣たちの首領が、大家族を引き連れているから。
鹿の場合は、番が多い。雄と雌。どちらか一方が老いていることがよくある。
猿の群れとこの鹿の番が、ひとところで動線が交差するときが稀にある。双方ともに、動きが留まらないところをみると、諍いの類はほとんどないように思える。
この私に、発信器を付ければどうだろうか。獣たちの動線を探る、変わった職業の、人間の動線。
ふだんは、麓を巡回し、山並みを見つめている。肉眼では、獣たちは樹木に隠れてその姿を確認することはできない。ただ、私には、緑色のLEDで浮かび上がる細い線の絵図が見える。見えるのは、それだけ。
いつも無音。煩わしいことに、頭の中では、奇妙な不協和音ばかりが重なる弦楽の音楽が流れている。
あるとき、首領猿の動線が、数日にわたってまったく止まってしまうことがある。
その地点を確認し、藪の中へ入っていく。至近距離に近づいても、まったく動こうとする気配は確認できない。その時点で、歩を早める。死んでいるのだ。
この私に、発信器を付けていればどうだろうかとまた想像してみた。動いてる緑色の電子線は、猿ではなく生きている私だけなのだ。
私の生は、だれに発しているのだろか。
電子の信号は、私と言う身体が、土中に溶けてしまったとしても、発することをやめないだろう。
獣たちも、私もこの山並みの宙空に交差する、破線を生きている。
毎日、山を眺め歩いていて、私は獣たちの声を聞いたことがない。
ただ、軋む弦音の擦りきれる悲鳴のただ中にいる。
きょう、私は空模様のわずかな変化に気づかなかった。
修学院山の、重なり合う常緑の墨色に、霙がまっすぐの白線を描いていた。