関東大震災後のモノクロームがじわーっと来たね。

 

鈴木志郎康

 

 

俺っち、戸田桂太の
『東京モノクローム 戸田達雄・マヴォの頃』を、
詩に書き換えつつ、
じっくりと、
読み返してしまったっちゃ。
ガラガラ、
ガラガラポッチャ。
読み終わって、
詩に書いて、
じわーっと来たね。
長い詩になっちまったっちゃ。
東京モノクローム、
モノクローム、
関東大震災の後に、
マヴォイストたちなどの、
多く人と交わって、
自分の表現と生活を獲得して行く、
若い男タツオの姿が見えてくるっちゃ。
東京モノクローム、
モノクローム、

わたしの親友の
戸田桂太さんよ、
おめでとうです。
息子が書いたこの一冊で甦えった
今は亡き父親の戸田達雄さん
おめでとうです。

一九二三年九月一日
午前十一時五十九分から
三回の激震があったっちゃ。
関東大震災だっちゃ。
十九歳だった
戸田達雄さんは、
丸の内ビルヂングの
ライオン歯磨ショールームの地下の仕事場で、
切り出しナイフを砥石で研いでいたっちゃ。
ガラガラ、
ガラガラ。
あわてて地下から一階へ外へ逃げたというこっちゃ。
その若者を「タツオ」と名付けて、
桂太は青年時代の父親を
一冊の本に蘇らせたっちゃ。
ガラガラ、
ガラガラ、
ガラガラポッチャ。

激震の直後に、
タツオは上司の指示で、
同僚の女の子を、
向島の先の自宅まで送り届けることになるのだっちゃ。
地震直後の、
炎を上げて燃え上がる街中を、
タツオと女の子は、
何処をどう歩いて行ったのか。
ギイグワギーッ、
グワグワ。
そこで、ドキュメンタリストの
戸田桂太が力を発揮するんざんすね。
東京市役所編『東京震災録 別輯』なんてのによって、
時間を追って燃え盛る街の中を
逃げ行く二人の足取りを蘇させたっちゃ。
タツオが生きた身体で活字の中に現れたっちゃ。
俺っち、タツオと親しくなってしまったよ。
ガラガラポッチャ。

東京の街中を、
走り抜けるタツオ。
勤め先の若い女性を
丸ノ内から向島の
彼女の家族のもとに送り届けるために、
燃え広がる
東京の街を、
若い女性とともに、
走り抜けるタツオ。
ギイグワギーッ、
グワグワ。
膨大な震災記録を
縫い合わせて、
崩れた街の
日本橋から浅草橋へ、
更に、火の手を避け、
ギリギリのタイミングで、
吾妻橋で墨田川を渡って、
言問団子の先の堤で、
拡がってくる火におわれ、
猛火と熱風に煽られながら、
墨田川河畔を通り抜けて、
ギイグワギーッ、
グワグワ。
女の子を、
向島の奥の両親の元に届けたのだっちゃ。
ガラガラポッチャ。
タツオの足跡を
蘇らせた息子の桂太。
その夜は線路の上で、
尻取り歌を歌う老婆と過ごしたってこっちゃ。
ガラガラポッチャ、
超現実的な不思議な夜っちゃ。
直後の燻る焼け野を駆け抜ける身体で得た体験が、
父親の創造力の原点になってるってこっちゃ。
ガラガラポッチャ。
死者行方不明者が十万五千人超の関東大震災、
ガラガラポッチャ。
大震災を経験した
タツオがその後どう生きたかが
問題なんだ。
ガラガラポッチャ。
父親の人生を縦軸に、
東京の時代を語る
『東京モノクローム』が始まるんですね。
モノクローム、
モノクローム、
東京モノクローム。

大震災の年は、
前衛美術運動が沸騰した年でもあったってことだっちゃ。
タツオは五月の村山知義の展覧会で、
木切れ、布切れ、つぶれたブリキ缶などなどが縦横に組み込まれた作品を見て、
〈胸の奥底を揺すぶられるほど〉に、
仰天したってこっちゃ。
ガラガラポッチャ。
その村山知義、尾形亀之助らによって、
先端的な芸術運動の
「マヴォ」が六月二十日に結成されてたってこっちゃ。
そして、七月の「マヴォ第一回展」を見て、
村山知義の
〈「鬼気迫る」ような感じの盛られた作品に魅せられた〉
タツオの心はときめいたに違いないっちゃ。
そして知り合った尾形亀之助の魅力の虜になってしまうのだっちゃ。
ガラガラ、
ガラガラ、
ガラガラポッチャ。
マヴォ同人たちは
二科展に落選した沢山の作品を数台の車に積んで移動展覧会をやろうとしたが、
警官に阻止されてしまったってこっちゃ、
各新聞に掲載されて「マヴォ」の名は一躍世間に知られたってこっちゃ。
ガラガラポッチャ。
これが八月二十八日で、四日後の
九月一日に関東大震災が起こったのだっちゃ。
先端的芸術家たちの運動はどうなっちまうんだってこっちゃ。
ガラガラ、
ガラガラポッチャ。

面白いねえ、
戸田桂太さん。
大震災と芸術運動と重なったところに注目してるんだねえ。
「マヴォ」同人たちの心の変化、
そして我が主人公タツオの心の変化。
震災後、タツオは、
ライオン歯磨を辞めさせられることになった
同僚の故郷の北海道に一ヶ月の休暇を取って旅行する。
上司から三十円の餞別をもらったっちゃ。
東京モノクロームの焼け野原を頭に抱えて、
そこで絵を描いたってこっちゃ。
ガラガラ、
ガラガラポッチャ。
十二月に東京に戻り、
〈丸ビルのウガイ室の壁〉で、
北海道で描いた小品の展覧会をしたのだったっちゃ。
翌年、タツオはライオン歯磨を辞めちまう。
画家として、表現者として自立したというこっちゃ。
食うや食わずの貧乏になるってこっちゃ。
ガラガラポッチャ。
タツオ、二十歳、
「マヴォ」に加盟して一番若いメンバーとなったのだっちゃ。
そして二、三ヶ月後の一九二四年の四月に、
タツオの郷里の前橋で「マヴォ展」が開かれて、
そこに萩原朔太郎が見に来たっちゃ。
ガラガラポッチャ。
展覧会終了後に「合作モニュメント作品」を進呈して、
朔太郎に喜ばれたというこっちゃ。
ガラガラポッチャ。
タツオが勤めていた
「ライオン歯磨宣伝部」の
敬愛する先輩の大手拓次から
萩原朔太郎の『月に吠える』の初版本を借りて、
その初版本を読んだっちゃ。
『月に吠える』の初版本、
ガラガラポッチャ。
『月に吠える』の初版本を
タツオは手にしたってこっちゃ。
〈首ったけに魅了されてしまい〉
何年も返さなかったというこっちゃ。
タツオは朔太郎に会えて嬉しかったに違いないっちゃ。
それはそうと、
子供向け絵雑誌の画料で暮らす
タツオの貧乏は壮絶なものだったってことだっちゃ。
ところがマヴォイストたちは、
自分たちの作品で収入を得ようと、
「マヴォ建築部」を作って、
バラックや店を黒山の見物人の前で、
歌を歌いながらペンキで塗って行ったというこっちゃ。
タツオは風呂屋の富士山のペンキ絵も描いたってこっちゃ。
ガラガラ、
ガラガラポッチャ。

「マヴォ」とは縁が切れた
尾形亀之助を、
タツオは「亀さん」と呼んで
この不思議な魅力がある人物のとりこになっていたってこっちゃ。
ガラガラポッチャ。
〈美青年でお金持で、たいそうおしゃれで、
ネクタイをたくさん持っていて、
飯を食わせてくれて、絵の具を使わせてくれる、
そして、高価なものを行き当たりバッタリで買ってしまう〉
尾形亀之助は、
銀座でばったり会ったタツオを誘って、
二等車で上諏訪まで行ったっちゃ。
そこでただピンポンする、酒を飲むだけだったといこっちゃ。
ガラガラポッチャ。
無為を楽しむ亀之助さんか。
「オレもう東京に帰りたくなっちゃった」と
二十一歳のタツオは一人で汽車賃をもらって帰ったというこっちゃ。
タツオは亀之助とは違う人生を生きるってこっちゃ。
ガラガラポッチャ。

そして、タツオは、
東京では「マヴォ展」などに作品を発表して、
表現者として活躍を始めたのだっちゃ。
その時に、
タツオが玄関を間借りして寝起きしてた
同郷の親しい萩原恭次郎が、
震災の体験を踏まえた、
東京のダイナミズムに立ち向った、
図版や写真を使った構成物としての
衝撃的な詩集『死刑宣告』が出版されたっちゃ。
ガラガラ、
ガラガラ、
ガラガラポッチャ。
そこにタツオたちマヴォイストの、
リノカット版画が挿絵に使われてるってこっちゃ。
タツオはもはや尖鋭的な表現者になったのだっちゃ。
ガラガラポッチャ。
版画は震災体験に触発された白黒のモノクローム、
それが「東京モノクローム」、
モノクローム。
尾形亀之助は尾形亀之助で、
詩や絵画などの芸術表現を作家の収入に結びつけようと、
雑誌『月曜』を編集発行したってこっちゃ。
ガラガラポッチャ。
島崎藤村や室生犀星などの大家が寄稿し、
宮沢賢治が「オッぺルと象」を発表し、
タツオも寄稿したりしたが、
資金回収もできずに失敗に終わってしまったってこっちゃよ。
ガラガラ、
ガラガラポッチャ。

その後、タツオは
薬局のショーウィンドウの飾り付けの仕事に精を出して、
仲間とともに、
広告図案社「オリオン社」つくることになったってこっちゃ。
ガラガラ、
ガラガラポッチャ。
宣伝美術の仕事は時代の最先端を行く仕事だったっていうこっちゃ。
美術家集団の「マヴォ」は、
風刺漫画を描いたりする社会的思想的行動派と、
ショーウィンドウを飾る商業主義に直結した街頭進出傾向との、
二つの流れを作ったってこっちゃ。
ガラガラポッチャ。
大震災から二年余りで設立した「オリオン社」は、
時代の流れに乗って、どんどん成長して行き、
東京のど真ん中、銀座に事務所を構えて、
十年後には、株式会社となっちゃって、
タツオは戸田達雄専務取締役になるのだっちゃ。
ガラガラ、
ガラガラポッチャ。
尾形亀之助とはどうなったか。
少し羽振り良くなったタツオが、
趣味の銃猟で撃つたツグミなどの小鳥を持って、
久しぶりにそれで一杯やろうって、
亀之助を訪ねると、
雨戸を閉めた真っ暗な部屋で、
〈亀さんは一升壜の酒を手で差し上げ、雨戸の節穴から差し込む細い太陽光線をその壜に受けて「ホタルだ、ホタルだ」と歓声をあげてはラッパ飲みをし、次々とラッパ飲みをさせているところだった。〉
タツオは、
〈これはいけない、別世界へ迷い込んでしまったと思って、すぐに外へ出た。そして逃げるようにその家を後にして歩き出した。〉
ガラガラ、
ガラガラポッチャ。
それ以来、タツオは尾形亀之助に会っていない。
東京モノクローム、
モノクローム。
関東大震災から八十八年後に東日本大震災が起こったっちゃ。
戸田桂太は、
〈そこに生きた個人の気分にふれたいという思いを懐いただけ〉というこっちゃ。
ガラガラ
ガラガラポッチャ

タツオは、
震災後の若い芸術家たちの中で、
生きるための道を探り歩いて行ったんですね。
息子の戸田桂太は
その青年の父親を、
見事に蘇らせた。
親友のわたしは嬉しいです。
ラン、ララン。

ところで、
俺っちの親父さんは
若い頃、何してたんだろ。
戦災で辺りが燃えて来たとき、
親父から、
「何も持つな、
身一つでも逃げろ」って、
言われたっちゃ。
ああ、あれが、
親父の大震災の体験だっちゃ。
ガラガラポッチャ。
聞いた話って言えば、
若い頃、下町の亀戸で
鉢植えの花を育てて、
大八車に乗せて、
東京の山の手に
売りに行って、
下りの坂道で、
車が止まらなくなってしまって、
困った困ったって、
話していましたね。
大八車に押されて、
すっ飛ぶように走ってる
若い親父さん。
いいねえ。
ラン、ララン。

 

(注)本文中には、戸田桂太著『東京モノクローム 戸田達雄.・マヴォの頃』2016年文生書院刊からの多数の引用があります。〈〉内は本文そのままの引用。