家族の肖像~親子の対話その35

 

佐々木 眞

 
 

 

お母さん、イソウロウってなに?
何もしないでおうちに居続ける人のことよ。

ぼく、光触寺と報国寺好きですお。
そうなの。じゃあ行きましょうか?
いやですお。

ぼく、岡田准一になりました。
こんにちは、岡田准一さん。

お父さん、加藤の藤は、藤沢の藤でしょ?
そうだね。
ぼく、藤沢好きですお。
そうなんだ。

ぼく、ふじさん牧場、好きですお。
そうなの? そういう牧場があるの?
ありますよ。

明日は図書館行ってえ、西友行きますお。
分かりました。

どうぞお入りください、どうぞお入りください。
「どうぞお入りください」って誰に言われたの?
小児療育で。

ササキマサミ先生、なんで小児療育やめたの?
定年で、だよ。

ぼく、イクタナオヤ君、好きですお。
イクタ君、どうしてるんだろうね?
わかりませんお。

ぼくは、線香花火、好きですお。
そうか。今年の夏にやろうか。
やらなくていいですお。

太田胃酸、胃が痛いときでしょう?
そうだよ。耕君、胃が痛いの?
痛くないお。

ぼく、オオヤさん、好きですお。
そう、お母さんも。
オオヤさんが「お仕事がんばってね」と言ったお。
そう。良かったね。

お父さん、比嘉さん、泣いてたよ。
そう。「比嘉さん泣くなよ」と言ってあげなよ。

お母さん、おくれてるみたいって、どういうこと?
おくれてることよ。

お父さん、イグサ、水の中でしょう?
そうだね。

証明ってなに?
どうしたらこうなるかっていうことよ。

お母さん、なんとなくって、なに?
お母さん、なんとなく、耕君好きです。

お母さん、集金ってなに?
お金を集めることよ。

お母さん、われらって、なに?
わたしたち、ってことよ。

ぼく、学校、好きですお。
そうなんだ。どこの学校?
鎌倉の。

お父さん、ホームって、とまるところでしょ?
そうだね。
お父さん、ぼく八百屋さん、好きだお。
そうなんだ。

お母さん、お腹いっぱいって、なに?
お腹いっぱい食べることよ。

お父さん、うろついちゃダメでしょう?
そうねえ、うろついちゃダメだよ。

お母さん、髪の毛をバサっとしてください。
はいはい、分かりましたよ。

お母さん、今日トマトシチュウとサケご飯にしてね。
はい、分かりましたよ。

お父さん、埼京線、終点は大宮でしょ?
そうなの?

お母さん、ぼく、ドクダミ好きですお。
そう。お母さんも。
ド、ク、ダ、ミ、好き!

お母さん、一人ぼっちって、なに?
一人だけのことよ。

お母さん、このさい、ってなに?
お母さんはねえ、このさい耕君にも、元気でいてもらいたいのよ。

お母さん、ややこしいって、なに?
ややこしや、ややこしや、のことよ。

ウオーキング、散歩でしょ?
そうだよ。耕君、ウオーキング行かないの?
行きませんよ。ぼく、お仕事しますよ。
そうなんだ。

お母さん、ぼく、タイムショック、好きでしたお。
そうなんだ。

お父さん、ハスはジュンサイに似ているでしょう?
そうだね。似ているね。

お母さん、ぼく、鬼は外、好きですお。

お母さん、平和ってなに?
とてもなごやかで、しあわせなことよ。

西城秀樹、脳梗塞だったの?
そうだよ。
おばあちゃんといっしょですね。
そうだね。

ぼく、キャプテン翼、好きだよ。
そう。

解除って、なに?
もう大丈夫、ってことよ。

なんで信号機切れたの? 大水出たからでしょ?
そうだよ。

比較的って、なに?
くらべてみると、よ。

お母さん、ガチャピンとムック好きですよ。ぼくポンキッキ好きだったんですお。
そうなの。

お母さん、なごむって、なに?
やさしくなることよ。
感じることでしょう。
そうねえ。

湯治場って、なに?
ゆっくりするところよ。

コウ君、血液型、B型なの?
そうよ。いやO型だったかな?
事故に遭ったときに、間違ったやつを輸血されると、ヤバイんじゃないの。
わああ、止めてください。止めてください。
コウ君、大丈夫、大丈夫。地獄耳だね。

おじいちゃん、おばあちゃん、具合悪かったでしょう?
そうね。

トラブルは、故障でしょう?
まあそうだね。

ぬきは、いらないことでしょう?
ぬき? 耕君ぬき、のぬきか。耕君なしで、ってことだよ。

103系すべてうしなわれた、ってなに?
それって何に書いてあったの?
「鉄道ファン」だお。
そうか、103系の電車が全部無くなったということだよ。

頭に入れとくって、なに?
頭のなかで覚えておくってことだよ。

大雨警報解除って、なに?
雨はもう大丈夫、ってことよ。

 

 

 

水のひと

 

長田典子

 
 

ひとびとが並んで登って行く
坂道
いまにも雨が降り出しそうな
暗い 霞んだ
崖の淵を
かみだれ ひらひら かぜに舞い
水色の装束のひとびと
そろそろ 進む
靄に浮かぶ四角い木の箱
ぐらぐらゆれて
そらに向かう船のよう
あかい火 あおい火 きいろい火
ゆらゆら灯し

けんろくさんだ
ひいじいさんだよ
おむかえがきたんだよ

船は靄のなかをそろそろ進み
進み
いまごろ
とがり山の8合目
夜中に目が覚め
ふとんの中で
思いだす
けんろくじいさんは四角い船で
おそらにおでかけ
あかい火 あおい火 きいろい火
ゆらゆら灯し

かみだれ ひらひら かぜに舞う
なんにちなんねんいくせいそう
めぐりめぐりて

あかい火 あおい火 きいろい火
ゆらゆらゆれて
ひとり ふたり さんにん と
ひとびとは 崖を上に上に登って行った
それぞれの火を残したままに
ばらばらに
おむかえもなく 船もなく
そらではなく
電気の町へ

村は水底(みなぞこ)にしずみました

かみだれ ひらひら
なんにちなんねんいくせいそう
めぐりめぐりて

あかい火 あおい火 きいろい火
靄でかすんだ水底で
灯っている
水中火(すいちゅうか)
泳いでいる

けんろくじいさんは
水底にもどっているそうです

電気の町で
溺れたひともいるそうです

 

※連作「不津倉(ふづくら)シリーズ」より

 

 

 

ほかには

 

駿河昌樹

 
 

他人のひもじさや
いたみを
さびしさを
こころもとなさを
見ないでおける
こころが
何十億もこびりついているうちは
地球でできることは
なにもない

空気の温度や湿度のうつりかわり
風の誕生や消滅
空の色彩の変化のかぎりなさ
雲の形状の無限の多様さ
木や草のそよぎ
いたるところに踊る
ひかりと闇のたわむれ
それらを見続け
感じ続け
いつもいつも
追いつくことのできない
ことばの情けなさに
親しみ続けていく
ほかには

 

 

 

くり返されるオレンジという出来事 1

 

芦田みゆき

 
 

一匹の犬だ。

その日、ホームセンターの駐車場で、犬はじっとこちらをにらみつけている。
街灯にしっかりと繋がれているが、今にもこっちへ駆けだしてきそうだ。よく
見ると、何やら口に銜えている。遠くからだと人形の頭のようにも見えたもの
で、ちょっとぎょっとして近寄ってみた。

口に銜えていたのは、一個のオレンジだ。歯が深くまで刺さり、果汁がだらし
なくしたたっている。食べているという感じでもなく、犬は、ただ、オレンジ
を銜えたまま、じっと遠くを視ている。

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「夢は第2の人生である」改め「夢は五臓の疲れである」 第68回

西暦2018年文月蝶人酔生夢死幾百夜

 

佐々木 眞

 
 

 

不思議なことだ。あんなに滅茶苦茶に汚れていた部屋が、私がベッドで眠っている間に、塵一つない整然としたピッカピカの部屋に、生まれ変わっていたのだ。7/1

さるアーチストから連絡が入って、開場寸前の展示会の出品商品を、急遽差し替えることになった。差し替え品には、赤いシールを張り付けることになったのだが、すでに全商品に貼ってあるので、どうしていいか分からず、スタッフは大混乱に陥った。7/2

ラフマニノフの8枚組CDの廉価盤が、タワーとHMⅤの両方から出ているのだが、どちらが安いのかが分からないので、どっちに発注しようかと、迷いに迷う愚かなわたし。7/3

私のライバルの辣腕女プロデューサーは、とても陰険な女性で、上司やスポンサーに、私の悪口をさんざん吹き込んだので、最近はさっぱり仕事もなくなった。このままでは、首を斬られてしまうにちがない。7/4

今夜は満月なので、ドビュッシーが「月の光」を弾いたり、「月光の会」の面々が、月に向って、なにやら叫んでいるようだ。7/5

モザールの「フィガロの結婚」の第4幕の演奏中に、突如R.シュトラウスの「薔薇の騎士」の第3幕が乱入してきたので、オペラハウスは大混乱に陥った。7/6

安倍蚤糞が、国民に薬品の売れ残りの在庫を買い上げるよう、町内会を通じて強制割り当てしてきたので、頭にきた一部の民草は、ついに武装蜂起して蚤糞夫妻を血祭りに上げた。7/7

岩波書店から、子規の3面立体漫画が発売された。1点を中心として3方向に展開される絵巻物なので、3人が同時に読めるが、1人の人が、全部を読み終わるのには、時間がかかる。7/8

その時、俄かに美しい旋律が、私の脳内に湧きおこったので、私はこのメロディを伴奏にしながら、キャメラがヴェネチアの浜辺で遊ぶ幼子の上を、アドリア海に向かって前進していく映像を思い浮かべ、恍惚となった。7/8

確かここら辺に、ワーナー映画の新社屋があるはずだと思って、ビルジングの裏表を歩き廻るのだが、第3次世界大戦後の銀座は、すっかり様子が変わってしまったので、なかなか試写室に辿りつけないでいる。7/8

一度語られた文章は、ただちに一枚の平面と化してしまう。それを、私の手を使ってぢかに修正することは無理なので、器具を用いて、周囲から削ったり、付け加えたりすることしかできない。7/9

ローマでは、(私はまだ行ったことがないのだが)、ホテルのレストランの有名シェフに懇意にしてもらったが、別れしなに「今度来るときは、パイオニアの営業マン抜きで、直接私のところに来なさい」と囁いた。7/9

ここ中国だか、アラビアだかのホテルでは、何を頼んでも、3羽の鶏を持ってくる。赤、青、白の鶏たちは、その3色の組み合わせを巧みに利用して、(私らのリクエストに応えたり応えなかったりしながら)、卵や、オムレツや、スープや、卵焼きなどを、産み落とすのだ。7/10

この魔法のホテルでは、お客が困ったときに備えつけの「アラジンランプ」を押すと、ただちにアラジンが出てきて、いかなるリクエストにも応える、というので、世界中にその名を知られていた。7/11

「どっちにしても、ナミさんは、ミチオについて行ったんですよね」と、その小説を読んだ生徒は、短い感想を述べた。7/12

「大声でしゃべると、それだけで爆発するおそれがある」、というので、わたしらは「ダイジョウブ、ダイジョウブ」とささやきながら、人質の全身に巻かれている爆弾爆発誘導ロープを、ゆっくりゆっくり解いていった。7/13

国民は、国の命令で、おおかたのデータを自発的に抹殺したが、ハメ撮りの生動画だけは残して、ひそかに天井や床下に隠匿した者が多かった。7/14

家族共同で制作した、手作り絵本のダミーを、らんか社のタカハシ社長のところへ持参しようか、それともやめようか、と、悩みながらまんじりともしない間に、夏の熱帯夜は明けていった。7/15

真夜中に物音がするので、階下に降りてみると、ケンの友達のタカギ、オオキ、ヒデポンなど数名が、捨て犬ともども、我が家のタタキに寝転んでいた。7/16

百貨店との取引の改善について、一知半解のうろんな言説を唱えたら、大勢の知人から反論が殺到して、冷汗三斗だった。7/17

韓国へ行った時に、赤い壺をお土産にして「これは、日帝が朝鮮半島を侵略したおりの、血染めの壺だよ」と説明したのだが、誰も喜ばなかった。7/18

私は、その超大物ⅤIPの殺害に失敗した。しかし、その後ある女が、そいつを見事に仕留めたのだが、官憲に逮捕され、裁判の結果、ただちに死刑に処されてしまった。7/19

こないだやっつけたはずの男が、まだ生きていて、部落ではたったひとつしかない、泉の水を飲ませろ、というたので、問答無用と、カノン砲で粉砕してやった。7/20

何とかして、その女の気を惹こうと、いろいろ働きかけたり、欲しいというものは何でも買い与えたが、それがすべて逆効果となり、彼女は、若い男の誘いに乗って、どこか遠いところへ逃げて行った。7/21

胸を張って、「私は、常に自分に嘘のない仕事をしてきたつもりです」と語るサクライ氏の背後の塀のブロックには、彼のこれまでの業績が、具体的かつカラフルに、一枚一枚表示してあった。7/22

わいらあ、すべてをみそなわす、在天の法王様の軍隊によって、ギタギタに粉砕されてしもうたんや。7/23

私が、早撃ち王であることを自覚したのは、たまたま出場した、村の早撃ち大会で、優勝してからのことだった。7/25

東京から大阪に出張したら、予想以上の暑さなので、熱中症になってしまい、白昼の太陽がくわっと照るつける御堂筋を、よろよろ歩いている。このままでは、死んでしまうに違いない、と思いつつ、それでも、よろよろ歩いている。7/26

東京駅からスカ線に乗って、鎌倉まで帰ってきた私は、網棚から荷物を降ろそうとしたのだが、同じような紙袋が、ぎっしり横一列に並んでいるので、どれが私のペーパーバッグなのか、てんで分からない。はてさて、困った困った。7/27

オペラハウスに入ると、座付きの管弦楽団が、マーラーの最後の交響曲を演奏していた。ただ私ひとりのために。7/28

世の中がだんだん不景気になってきたので、わが社では、請求書の金額欄を3行にして、1行目は本体価格、2行目は消費税、3行目はカンパ指定金額を書くことにした。7/29

あれから30年、僕はすっかり腐敗堕落したカメラマンになり下がってしまい、顧客がリクエストしたものを、そのとおりに撮影するだけの、ロボットのような存在になってしまった。7/30

あまりにも暑いので、これはもしかすると熱中症で死んでしまうぞ、と思いながら寝ていたら、誰かがエアコンのスイッチを入れたようで、部屋の片隅から涼風が入り込んできたので、一息つくことができた。7/31

 

 

 

ある事故を知って

 

みわ はるか

 
 

坂本九の歌がいいなぁと前から思っていました。
切なくて、前向きで、でもやっぱり悲しくて。
昭和の名曲だなぁとしみじみ思います。
40代で亡くなった理由をつい最近まで知りませんでした。
それがとても大きな事故で、語り継がれるべき話であるのにわたしは知りませんでした。
食い入るようにネットの記事を読み、何度もフライトレコーダーを動画で見ました。
それは、わたしにとって、ひとつひとつがものすごく衝撃的な内容でした。
どんな気持ちで揺れ動く機体の中で時を過ごしたのか。
どんな気持ちで機長はハンドルを握っていたのか。
最後、もうだめだと分かったとき何百人もの人たちは頭の中で何を思い描いたのだろうか。

事故を知った遺族の人たちもまたやりきれない気持ちでいっぱいになったのだと思います。
またすぐ会えると思っていた家族、友人、恋人。
ばいばーいと手を振って別れたばかりだった人ともう二度とは会えなくて。
それはわたしなんかが想像するよりももっともっと辛い感情のどん底に突き落とされた感じなのだと思います。

当時の機長の奥さんのインタビューがテレビで流れていました。
「生前より主人は申しておりました。
絶対に事故はしない。だけれども、もしおこってしまった時にはそれはどんな理由であろうともわたしの責任である。」
と。
それは、仕事に誇りを持った人だけが言える素敵な言葉だと思いました。

この事故に対しては、色んな立場の人が、色んな角度から意見を出しています。
わたしはこの事故の詳細を恥ずかしいことに最近知ったばかりで知らないことの方が多いです。
だから、今、そのことに関して書かれた本を読んでいます。
もっともっと知りたいのです。
日本人として知りたいのです。
そして、その時の人たちの感情を少しでもすくい取ることができたら、今生きている人間として少し認められるような気がするのです。

 

 

 

ベル

 

塔島ひろみ

 
 

弁当を食べる席を探していた
一つ、空いているところを見つけ、座ろうとしたとき
周囲の視線に気がついた
小さな女の子と、お母さん
大きなマスクをつけたジャンパーの男性
私を見てくる
角の席で新聞を見ながらコッペパンを食べるおばさんも、横目で、新聞ではなく私を確かに見ている
たくさんの視線が私の全身に突き刺さる

それはフェアでないと彼は言った
あなたたちも見せてほしいと、彼は言った
医者も見せてほしい
自分の病気を見せてほしい、差し出してほしいと
彼は言った

やっと呼ばれた診察室で
私は長靴下をおろし、カーディガンを脱いで、腕をまくる
この日を待っていた
お腹も、背中も、太股も、頭皮も、全身、こんなんなっちゃいました、てことを
見てもらいたくて、新しい下着で、脱ぎやすい服で、来たのだった
医者は私の足と腕をチラと見たら、はいいーですよと言って、すぐ向う向いちゃって、電子カルテに記入している
「薬を変えましょう」
それは私の望んでいた結論だったから
これ以上、何を見せる必要も、言うこともなかった

医者の背中が、カチャカチャと定例の「ひどい時用」処方箋を書いている
背中は、衝立のように冷たく聳え、私との交流を拒んでいた
医者の後ろで、醜い足が晒しっぱなしになっている
足の放出する排気ガスめいた気体が、私の鼻腔にだけ不快に届く 靴下をあげる
私の病気は再び私の内部に納まって、スカートに染みがにじんでいるだけである

この医者は、見せるだろうか
会計に向かう階段を降りながら、私は思った
医者たちが関心を寄せる○○疱瘡が再発したら、
私の皮膚を、ピンセットで大事そうに突き、驚嘆する彼女に、先生も見せて下さいよと上目づかいに脅迫したら、見せるだろうか
見せるもののない自分を恥じて、ゾクリと、私から手を離すだろうか
それとも自分の潰瘍を、自分の虫歯を、自分の犯罪を、あるいは自分のささやかな日常を、私に差しだして、見せるだろうか
そして歪んだ指で私の下着を持ち上げて、更にじっくり私を見るだろうか
私は彼女の腕をつかみ、見るだろうか
差しだされた傷口に、秘匿に、鼻を押し当て、その饐えた臭いを嗅ぐだろうか

そのとき私と彼女は対等で、仲間だろうか

私は 彼女を見たいだろうか

男の後ろポケットで、呼び出しのポケットベルが鳴り続けて、うるさかった
男は我々の視線を気にしつつも、ベル音をまるで気に留めず、袋から弁当を取り出して机に置いた
子連れの若い母親が、男に呼びかけた
「呼び出しベルが鳴ってますよ。呼ばれてますよ」
え?!
彼を見ていた私たちは安心し、少し笑った感じの顔をして
彼を見ることをやめ、やりかけていた自分自身の行為に帰った
そのとき彼が言ったのだ
見せて下さい

フェアではないから、見せて下さい
あなたも見せて、自分の病気を差しだして下さいよ、
私は耳が悪いんです、聞こえないんです
見せてくれなきゃ、わかんないんですよ!

男は自分に聞こえないベルを止めないまま
一度出した弁当をカバンにしまい始めた
もう彼を見る人は誰もいない
男は席を立って遠ざかり、見えなくなったが、
呼び出しベルの音はいつまでもランチルームに聞こえてくるのだ

 

(12月25日 東大附属病院にて)