広瀬 勉
#photograph #photographer #concrete block wall
夕方の鐘が鳴った
西の光が
明るい
障子には
白木蓮の葉を青くひろげて
葉の影が
揺れている
朝には
雨はあがり
女は灰色の
車で出掛けていった
モコと
ふたり
見送った
雲が流れていた
サラダを馬のように食べた
それから
一日
冬の毛布を洗った
ベランダの物干しに掛けた
ディキンスンの詩をコピーした
たくさんコピーした
どこにも出掛けなかった
高橋悠治のピアノを聴いていた
風が吹いていた
雲が流れていた
* 高橋悠治のCD「サティ・ピアノ曲集 02 諧謔の時代」”スポーツとあそび” より
#poetry #no poetry,no life
本を読むことや
なにか書きつけることについて
もっとも核心的なことを
たいていの人はわかっていない
文字は
否応なしに
人を無私にする
なにかを読んでいる人というのは
名前や履歴や肉体のある誰それではすでになく
読むということの発生場や瞬間でしかない
書いている人も同様で
おそろしいほど抽象的で
非物質的な現象そのものとなっている
文字をめぐる形而上的現象学こそ
まず考究されるべきで
いわゆる文芸的鑑賞や批評は
二の次三の次にされねばならない
文芸形而上学者の
モーリス・ブランショのような人が
いくらも必要とされる所以である
難波中タピオカ詰んでアタオカがッ
引き換えの飛行機の低空
コークのひとが出したリックさんの新作がDon’t Think と言うんだけどtwiceが付かないからそもそもくよくよするのは考えるからであって考えなければこの悩みもないんじゃないか、というメッセージと受け取った。失敗して苦しんでいる皆さん、これを聞いて考えないで生きよう。シュール越えだなこれは。
ギリギリまで他のことで頭を満たしておき、疲労困憊して気絶するように寝ないと頭を襲われてしまう。
decadeの特色を前世紀から辿ってみると、2020年代は真の意味でリアルタイムの時代なのではないかと思う。つまりすべての制作が今の言葉でなされていっていることを量として引き付けて実感しながら急いで片をつけていく。漫若勇咲「『私のはなし 部落のはなし』の話」を読んでそう思った。
なんというか、すべてが嘘くさいとか言ってる場合じゃなくて、ほんとうしかなくて、たくさんの風船があるように思うけれどもそれは錯覚で、一つしかない中の、その密度で決まる、みたいな。その力を重力とはもはや言わない、とか。
目玉に映った風景はまだ選択されていない
家ではない家が建ち並んでいるこうした状況にあって
すべて倒壊するという言い方もまた
シェバのジュヌスだな
https://youtu.be/80_ydUz6CI0
其処此処にその木の形に藤の花
花のない体も藤に被われり
藤の花被って木々に形あり
娘役界面として着る藤の花
体のない藤が着物となっている
山々は娘となった藤だらけ
形から更に垂れたるwisteria
藤の花着てしまった木の末路 哉
着るもののない始まりにwisteria
wisteria未来にも在り逆さ虹
形なき未来を被えwisteria
wisteria恐怖と希望は垂れ下がる
藤棚を管理するノイズツイート
mumble bee hawkwindの振動で
蜂は房藤空木とだけ呟く
何が揺れ何が揺れなかったか分かれ今日の神戸の逆向きの虹
avatarも靨と言ひつ笑ふのはavatarとしての月のあたくし




凶暴な
猪が出た
と放送
あり散歩止め
られたので寝る
猪は
うちの畑で
ごろごろし
てたと隣の
人が言ってた
#poetry #rock musician
日の当たらないアパートの6畳間で細面の女が内職をしている
白い管の両端をジャキン、ジャキンと小さなハサミで切りおとし
次々水槽に放り込む
不良品を作る仕事
だと女は言った
水槽で不良品たちは不格好に丸まって
金魚になった
その空地は
誰のものでもなく家と家、高い塀に囲まれて道から見えない
雑草が生い茂る地面がこんもり塚状になっているのは
その下に不良品がどっさり埋まっているからで彼らは誰にも見つからず掘り返されることもなく
その暗く湿った空地で生き延び密かにに交配を重ねながら土地に根付き
竹になった
周囲をツユクサやマメ科の雑草がおおい彼らを守った
時が経って人は死んだ
壊すため、滅びるために人が作ったさまざまなモノの残骸があちこちに残り
もうそれを片づける人はいない
化学物質、放射能、かつて人が「奥戸」と呼んだ一帯は水に浸かり
カラスもテントウムシもいなくなったが
竹が
所有され損なった空地で育った不良品の末裔が
黒い水面から顔を出し 風に揺れる
誰にも見られず 役に立たないまま
風に揺れる
そのそばで白い金魚がにょろにょろ動いた
(4月某日、奥戸3丁目「塚」前で)