エル・スール

 

原田淳子

 
 

 

“あ”と打つと “雨”と変換される”愛”

朱ほおずきを指でなぞれば
“心臓”と変換される
青ほおずきは秋の鞘

Siriは賢く、真実を逸らす
指先のアカウントで世界は変換され
行方不明の身体たちが犇めきあう
抜け殻を拾い、抱きしめる
歌のように体温がまだ残っていた

駅が住処だった燕たちは
幸福のパースペクティブを描き
南へ渡っていった
胸をサーモンピンクに染めて
エジプトにゆくのだろう

彼女から手渡された鏡
割れた破片はひかるゆめ
額縁のなかの荒野で
アレチノギクたちが合唱する
わたしたちこそ、真実です

南にゆきそびれた燕のために
幸福の王子の肩に似た枝を描く
アレチノトリの終の住処

雨あがり
蟲たちの王国の夜の配置がかわる
南から北へ、夏の終焉

 

 

 

あきれて物も言えない 26

 

ピコ・大東洋ミランドラ

 
 


作画 ピコ・大東洋ミランドラ画伯

 
 

東京五輪は閉幕した。「 自分で身を守る段階 」になった。

 

ここのところ絶句している。

ほとんど、
絶句している。

ここのところ、
部屋で、
ジャズばかり聴いている。

ALBERT AYLER.

THELONIOUS MONK.

MAL WALDRON.

LES McCANN.

JUTTA HIPP.

CLIFFORD BROWN.

BUD POWELL.

JOHN COLTRANE.

今日は敗戦の日、雨の日曜日だった。
前線が停滞し西日本各地に豪雨をもたらしている。

絶句している。
6月の終わりに桑原正彦の死の知らせを聞いてから何も手につかない。

 

犬のモコと散歩している。
車で海を見に行く。
ジャズを部屋で聴いている。
女が刻んだサラダを馬のように食べている。

東京五輪は終わったという。
東京の感染は「制御不能」なのだという。

「医療 機能不全」
「自分で身を守る段階」
という見出しが新聞に立っている。

遠い昔のことのように思えるが現在の日本のことなのだ。

この日本という泥舟の船頭たちは操縦を誤まっているように思える。
敗戦を終戦と言い繕い高度成長という神話に酔い失われた20年を通過して時間は随分と過ぎてしまった。
この泥舟の船頭たちはもう一度、新自由主義グローバリズムの先に高度成長の夢をオリンピックでみようとしたのだったろう。

東日本大震災からの復興を世界に示すというビジョンは、
いつコロナに打ち勝つというビジョンに取り替えられたのだったか。

あきれて物も言えない。

夕方、クルマのプレーヤーに宇多田ヒカルをコピーした。
女とクルマで港町を流した。
宇多田ヒカルの「誰かの願いが叶うころ」を繰り返し聴いてクルマを流した。

曇り空の下に灰色の海は広がっていた。
海は空の色を映す。
雲の隙間から光が海面に射していた。
海は河口からの濁流でまだらに茶色く濁っていた。

「誰かの願いが叶うころ、あの子が泣いているよ」* と宇多田ヒカルは歌っていた。
「もう一度、あなたを抱きしめたい、できるだけ、そっと」* と、

歌っていた。

 

そこに小さな光が見えた。
呆れてものも言えないが言わないわけにはいかない。

 
 

作画解説 さとう三千魚

 
 

* 宇多田ヒカル「誰かの願いが叶うころ」から引用させていただきました

 

 

 

西の山が見えない

 

さとう三千魚

 
 

今朝は西の山が見えない

淡墨を

白い空に
横に曳いたのか

幽かに
浮かんでいる

きみか

そこに
いるのか

恥ずかしそうに
笑っている

神田の
鶴亀で

飲んだね

また会えると思っていた
また会えると思っていたよ

今朝
真っ白の空に浮かんでいる

窓のこちらで
この男は

絶句の言葉を探してる

窓の外で
燕たち

チキチキと鳴いている
チキチキと鳴いて

飛んでいる

 

 

 

#poetry #no poetry,no life

Pearl fisher

 

工藤冬里

 
 

8月10日-16日

加工映像の人たちはフラットアースの星のようだ
ガス台に収まってしまう
ガス台には二種類しかない
少し汚れたガス台か、とっても汚れたガス台かのどちらかだ
あと
老人になれる人となれない人がいる
版木的老人は脱タブローになり得る
それと
カムラさんてずっとイギリスに居たんだ
そうかそうか

スカスカなのにそんなにウレタンですか
息苦しいですもんね
コロナもヘチマもあったもんじゃない
捕虜の扱いは丁重に

西部邁の太田龍への深い怨恨が一筋流れていて反米土俵ブントの陰影が味わい深いが、それは洗車後にサイドミラーから流れるカルキ入り水道水に過ぎず、それは黙って拭き取られる。
それよりもあらゆる妄想が揚げ足取られる。避雷針的な先端然り、更地願望然り。無意識を考察すること。

筆の付け立て



No se olviden de compartir lo que tienen con los demás

おまえもそうなってしまうのか
どの煎餅も片足を引き摺っている
傷の、型があるのだ

The government of a planet has forbidden people to worry about the next day.
So the Resistance decided to fight back by cutting time into a thousand pieces.

サラにとって空気のように溢れるギルガメシュの暴力エロゲー性は、ウルのシーンに対して距離を置かせるに十分だった。ラジオを捻れば空気のように流れ出るJpopの中で笑顔の異邦人としてサラは暮らした。
ギルガメシュは、3分の2は神で、3分の1が人間という設定だった。つまり洪水で絶えたネフィリムである。住民は、「彼の肉欲はどんな処女をも彼女の愛人のために、また戦士の娘をも、貴人の妻をもそのままにしてはおかない」と言って、神々に苦情を述べた。女神アルルはエンキドゥをギルガメシュの対抗者として創造した。ところが、この二人は敵同士になるどころか、親友になった。エンキドゥはやがて死に、がっくりしたギルガメシュは、「わたしは死んだら、エンキドゥのようになるのではなかろうか。災いがわたしの腹に入った。わたしは死を恐れて、大草原を放浪する」と言って泣いた。彼は不死の秘密を求めて、神々と共に不滅性を与えられていた、大洪水の生存者ウトナピシュティムを捜しに出かけた。
ギルガメシュはついにウトナピシュティムを見つけ,彼は洪水の話をする。洪水書字板として知られている、この叙事詩の第11書字板にあるように、ウトナピシュティムはその洪水に関して与えられた指示についてこう語っている。「(この)家を壊して,船を造れ! 所有物を手離し、なんじの命を求めよ。……なんじすべて生けるものの種を取って船に乗せよ」。これはノアと大洪水に言及している聖書の記述と多少類似しているように思える。しかし、ウトナピシュティムはギルガメシュに不滅性を付与することはできない。失望したギルガメシュはウルクに帰郷し、この記述は彼の死をもって終わっている。この叙事詩の致命的な主旨は,現代と同じ、死の悲哀や不安とあの世のことである。先行するシュメール神話ではノアに相当するのはジーウースードラであり、ノアのことを知っていたサラはウルの都市文明を対象化し見限ることが出来たのではないか。

ジーウースードラは松山が85人になったのを見て「シュメールの日曜日」を解散した

消えてしまったので水銀メッセンジャーサービスに転送を頼もう

https://youtu.be/i6oG7gTzm2I

ぼくは太陽にほえろのテーマです
https://twitter.com/YukoT86002805/status/1425660005433282564?s=20

ウルから出かけるアッカド語
親族から離れて笑うセム語系
蜘蛛の子を散らすように沢山の雲の一部の死者がインタヴューに応じる本来の形式
あまりにも考えにくいことだったので笑ったのは人間らしい一面
娼婦は報酬ではなく全能性に信仰を持つ
泣いて食べない静かな場所で、或いは静かな場所をイメージして、軍隊の統率者に何でも話すと
雨がびちょびちょ降っている
品川駅に
祈りが降ってくる
癩病の象の看守に硬い部屋から溢れさせる
この惑星は赤十字の献血ルームだが
ギリシャの品川駅にも大雨が降り
わんこにはパン屑が降り
奴隷は天に味方し
いつも身体の枠を超える
荒野で息絶える目撃証人がまだ生きているうちに墓を暴くと古伊万里が出てくる
どんな人が脱落しそうになりながら歩いていたのかJpopの人が歩いていたのか
死んだ日を覚えておくといい

豊富な話題
豪雨

オレオレ
ネットリテラシー

廃棄された梨園

ネカフェで過ごす子供達

フラットアースで四季を説明しやが

月が鏡で唯一の地球の地図という説が大変おもしろい

へライザーの吉本作家はdaigoについてなんかまとめてみろよ
折角若い奴がTV見なくなったのにネットがスペクタクル局化するぞ

これで思い出したんだけど俺登校中タバコの吸い殻を拾わなくてはいけない強迫で中学校に辿り着けなくなった時期があった。全部0か1だった。ADHDとかの名前はまだ無かった。 https://twitter.com/garinitomato/status/1425431559717351426?s=20

オケラ最初にルビ振つて呉れよ。調べちやつたぢやないか https://twitter.com/ogatakamenosuke/status/1426062182479847425?s=20

野良カボチャ受粉出来ず雨

フラットアースにも天動説と地動説があるのな
そうなると地の円だろうが球だろうが概念的にはそう変わらない

酸化グラフェンじたいに真逆の知見あり熊本の研究者の殺人もありよく調べないと矢張り治験はまだお勧めできない。副作用無しと不活性化で釣ってるだけかもしれん。

最初期に不活性化は不可能と散々報道していた筈だ。どこをどうクリアしたのか。

十分の一を孤児寡困窮者に渡すと言う時どういうシステムだったかを考えるとコミュニティと同時に憲法めいた法が必要で、私たち左右はその道義を捻り出すことが出来ない。

夕方、かなかなが終わるまでは仕事する

ロック史で使った中世化の概念を変更しなければならない。工芸性で言えばナイーブは最近興ったのであって技術が失われたのは寧ろ現代の方だからだ。

ゼロスタートは前触れなしにいきなり波形が立ち上がって欲しいということだと思いますが、僕は前触れに文学的な意味を持たせてしまう方です
環境音も寧ろ歓迎してしまう方です
これは話し合いというよりプログレとパンクの肌触りの違いのような、作りに行く音楽と出来てしまう演劇の一部としての音楽との違いだと思

マンハッタンの、ハーレムから14thまで赤信号がなかったことがあり、その時、南を見通しながら

ぶっとばせどこまで行っても赤信号

という句を作ったのを思い出した

それより極北に行きたければ南に向かわないといけないの知ってた?

雨に濡れず寝れるぴったりの場所は水泥の生協とすき家の間にある地下水路です

一言で言うと、白と黒のナメクジが雌雄入れ替わったりしながら戦っていてだな、捨象していい中世を使って逸らせようとしている、それが左右歴史史だ
https://youtu.be/ZYe2mIkXKMQ
https://twitter.com/Iwanamishoten/status/1426075441996046337?s=20

死んだ人を埋めた場所が山の中腹に見えて
なぜそんなことをしなければならなかったのだろうと不思議に思うその違和感を封印していたことに気付く

花が咲くまでに至らない子は多い
アヘンの代用にされることもある

ヤブラン
球根が麦門冬
皮膚の炎症を抑え、鎮咳に用いる

信頼できないニュースの役割は一切を信頼させない情況を作り出すことにある
あなた​の​死者​は​生きる。 私​の​民​の​死体​は​起き上がる。 土​の​中​に​住む​者​たち、目​を​覚まし、歓声​を​上げ​なさい! あなた​の​露​は​朝露​の​よう​で​あり、 大地​は​無力​な​死者​を​生き返ら​せる。isa26:19

偽ることが出来ないものを探せ

w/yU SonodA@poncopipin
https://youtu.be/8RNBavCw6KU

品川駅に雨はいつもびしゃびしゃ降っている

Ve, vende las cosas que tienes, y da a los pobres

黒字に白の方が描き易い

劇とはどんな人にも場所が与えられる案曲のことであり、ジェイコブ・ウレンがそれを実践していたのだが、今はどうなのだろう、二役しかないのに全員が参加させられている。


冒頭
すでに人も時もありはしないのに, そのいっしゅんのばめんを固定した小さな紙きれをうしなったことがさらに遠く昏くうしないでもしたようにこだわられるのはきみょうなさかしまだが,

で既になんだかベケット読んでるみたいな気分にさせられる

完全に枯れた私のオオアレチノギク

朕も玉音放送を試みます

反米反天皇に徹していても逸れていくものを私達は見てきました。それは親米親天皇でも親米反天皇でも反米親天皇でも同じことでした。
米で表されているのは地理です。天皇で表されているのは人です。ヒューマン・ジオグラフィックが間違っていたのです。
正しく地理と人を 把握すれば耐え難きを耐え忍び難きも忍べるようになります。

https://youtu.be/tjZ1L0bXMW8

パールフィッシャーかかった
暗いグラスゴーでビーチボーイズ聴いて作りあげたサウンド

カジノキ

 

 

 

#poetry #rock musician

ダムに沈んだ古里を奪還する詩の力
長田典子詩集「ふづくら幻影」を読んで

 

佐々木 眞

 
 

 

2019年の衝撃の意欲作「ニューヨーク・ディグ・ダグ」に間をおかずに登場した本作は、とりあえずは、作者の失われた古里の思い出と、幼き日への郷愁の物語である。

 

私たちの郷里は、この半世紀の間の社会変化の大波のおかげで、地理上は同じ緯度経度にあっても、いずこもすっかり姿かたちを変えてしまった。 

 

「あとがき」に拠れば、作者が生まれ、27世帯の人々と共に身を寄せ合うようにして暮していた神奈川県相模原市(旧津久井郡不津倉)の旧居は、1965年に完成した城山ダムによって湖の底に沈んでしまったという。

 

作者の家は、ダムの底に沈んだ。ことわざにある通りに、「桑田変じて海」となってしまったのである。

 

そして作者が、ダムに沈んだ懐かしい故郷の家族や、四季折々の山川草木の美しさや、幼き日の遊び仲間たちに思いを致すとき、それがいつの間にか、歌になる。詩になる。

 

その故郷喪失の歌は、もちろん「盲目の泉」に指輪を落としたメリザンドの歌のように悲しい旋律で歌われてはいるのだが、よーく耳を傾けてみると、ただ物哀しいだけではない。

 

みずうみの中に閉じ込められた宝石のような怜瓏、スノードームの中で万華鏡のように繰り広げられる精霊や天使たちの愉快な踊りまでもが、耳の奥の方で、微かに鳴り響いているような気がするのである。

 

私は、作者はこの詩集の中で、ひとたびは喪失した古里を限りなく優しく抱きしめ、卓抜な記憶と想像の力、とりわけオノマトペの推力を駆動し、古今東西の童話や童謡を自在に踏まえながら、その古里に似てはいるものの、もう少し新鮮な変異を遂げた、「ユニバーサルな心の故郷」を、もういちど零から再創造しようという稀有の試みに挑んでいるのではないかと、ふと思った。

 

おわりに些事ながら、最近私の息子が「津久井やまゆり園」と障害者問題を考える個展を開催していて、その中にその近縁の相模川を描いた大きな油彩画があったので、その偶然に驚きながら本書を読ませていただいたことを付記しておきたい。

 

 

 

また旅だより 36

 

尾仲浩二

 
 

酷暑とオリンピックとコロナの東京からそっと抜け出して
山奥の温泉宿に新しい写真集の編集をやりに行った。
滝に面した一軒宿で車がなければどこにも出かけられない。
いわゆる缶詰状態なので、作業はとても捗った。
毎晩ひとりで宿の豪華な夕食を食べるのはつまらないし
節約もあって朝食だけのコースにした。
なので夜のつまみも缶詰の五日間。

2021年8月6日 長野県茅野にて