広瀬 勉
#photograph #photographer #concrete block wall
何もない
何も感じない
心に空白が生まれる
子どものように無邪気に
頭の中で戯れる
意識のエラン・ヴィタルは
未来へと向かって飛躍する
真っ白な時間
その中に無限の広大な空間がある
そして 私は再び 無へと歩み始めた
今日は どこまで辿りつけるのだろう
夏の夜。深夜、午前二時頃だった。
5キロほど離れたところにある銭湯の帰り。自転車だった。パトカーに追い回され、富岡荘の路地に逃げ込んだ。別に何も悪いことをやってはいないので、「その自転車止まりなさい」というパトカーからの声を完全無視、逃げ切ったか…と一瞬思った。
しかし、警官数人はパトカーからかけ降り、狭い路地にドタドタと入って来た。警官達はしつこく、狭い暗い階段を駆け上がり、僕の部屋の前までくっついて来た。富岡荘二階の5号室が僕の部屋だ。警官達は何か言っていたが、僕は一切無視を通した。僕が鍵を開けると、警官達はバツが悪そうに目を見合わせ立ち止まったが、謝りもせずのそのそと帰って行った。
実言うと、この時、若干、警官を挑発していた。たまたま遭遇したパトカーを見て、わざと一気に自転車のスピードを上げたのだ。自宅の富岡荘のすぐそばだったこともある。このところ、職務質問ばかり何度も受けて辟易していた。ほんとうに面倒臭いとその都度思っていた。
また今回、挑発行為に及んだのは、度重なる職務質問の少し前に、理不尽な警官と口争いだが喧嘩したことがあったので、潜在意識として、警官に対する不信感が募っていたからであろう。
それは、深夜、銭湯に向かう時に警官に呼び止められた時のことである。深夜二時までやっている銭湯、ただ、急がないと閉まってしまう時刻だった。
僕はその当時、朝10時から夕刻6時までは松坂屋というデパートの電気売り場の店員として働いていて、その後ほぼ連続で、夕刻6時過ぎから深夜1時くらいまで大統領というキャバレーでボーイとして働いていた。
毎日、長時間汗だくで働いているので、風呂には入りたい。風呂が唯一の心身復活の場である。アパート富岡荘には風呂は無い。つまり銭湯に行くのが必須でもあった。
ただ、近くの銭湯は、12時過ぎには閉まってしまう。5キロほど離れたところにある銭湯は午前2時までやっている。仕事を終えてからでも間に合う。でも、ギリギリなのだ。
その銭湯に自転車で向かう深夜、同じく自転車の警官に呼び止められた。銭湯が閉まる時間ギリギリなので、職務質問に付き合っている時間は無い。ということで、とにかく銭湯まで一緒に来て、僕が風呂から出て来るまで待ってくれ、と伝えたが、意に解さない。押し問答で、とうとう喧嘩になった。結局、あの日銭湯に行けたかどうか、記憶に無い。記憶にあるのは、あの警官の言い草。「俺は今警官だが、もとヤクザだった。」ということで、なんか脅しを感じたこと、それに、こんなことに時間を費やして風呂に入ることもできなくなることに、僕は完全に腹を立て、「許せん」ということで、殴りはしなかったが殴る寸前までいった。結局は、仲直りして、握手までしたが、おそらく、銭湯の閉店時間には間に合わなかったと思う。
ということで、このところ、警官に対して、不信感というか、形一片で、融通が効かんという、なんとも理不尽さを実感していたので、先の、警官挑発に至った次第である。
で、この富岡荘の、狭い暗い急な階段のすぐ上には、和式便所が二つ。木のドアで、いわゆる鍵は無く、内側から小さな真鍮製のフックをかける。
で、この便所から派生する、排泄の夢の記憶を辿ってみようと思い、警官云々を前書きにした。
排泄の夢の記憶は、次回にしよう。
今朝
西の山は群青色です
天辺は
空につづく
薄い雲に隠れている
天辺では
霧の中
ゆりの花も
濡れて
霧は風に流されているだろう
高橋アキの
“cheap imitation” を聴いてる
部屋の
窓を
あけている
子どもの時に見た
空の雲たち
空には小鳥たちが囀っていた
小鳥たち
おもちゃでは
なかった
#poetry #no poetry,no life
8.17-22
かなかなは下に下に折り重なることで消え方を調整し別れを和らげる
日めくりのグラデーションで灰に消える
https://youtu.be/Ig_wfLfI0Y8
それに対して合唱は未来へ折り重なるものである
ゴールデン街の「純喫茶」ナベサン用にデザインしたうどん鉢のシリーズ

この流れで、小山楽曲歌伴を「作りにいく」かたちで録音した。
三輪龍作は「作りにいく」かたちの作家である。和彦さんはそうではない。
AI時代のチャンス・オペレーションとはマトリックスの亀裂からの引き出し黒だと言えるだろう。
Más que cualquier otra cosa, protege tu corazón
インターネット国家タリバン
役場横のポストモダン期の打ちっぱなしに雨漏りがし始めていてあの、デリダガーとか盛んに言ってた一級建築士も漏れる建築とか言い始めるかも
ここのうどん屋は昔作った面河渓シリーズの一輪挿しを飾ってくれてたのが石彫りの地蔵みたいなのに代えられていてだから漏るんだよとかは言わないけれど残念

narcotic-free country
と打ったところで雷
ギルバートオタリバン
と打ったところで禁Twitterストライキ
Así como el hierro afila el hierro, un hombre hace mejor a su amigo
Jueves diecinueve de agost
自宅出産時の胎盤を親族が煮て食べるという因習に繊細さの闇を感じる
空が銅になり地が鉄になり息子や娘を食べる
友達のアンソニー。癌なんだって
https://youtu.be/05AgkLZkH88
かなしいね
https://youtu.be/rDuy874spGg
松屋のシーフードカレーがイカのア
ミノ酸を受け止め棚引かせている
石臼は左手で反時計回りに回すので昔の女の人は左腕が強かった筈です。
石臼内部の溝の彫り方は摺鉢と同じで、外に押し出すようになっています。これは人類史の初期から考案されなければならなかったデザインのひとつです。
蕎麦殻と粉を分けるという難問に向かうとき、全摺りのコーヒーミルは役に立ちませんでした。先入主としての、風であおり分けるというイメージは穀粒に関しては正しいのですが、摺るという密室の行為に関しては見当違いでした。
あおり分けられ、篩にかけられます。命とは、あおり分けられ、そして、ふるい分けられるものなのです。
重力は関係ありません。ましてや「重力と恩寵」など。
関係するのは密度とサイズだけです。
重いものほど小さい。
焦げたグラデーションの縁(へり)に対して晴れ間の枝がきっぱり
なぜ悪いことや苦しいことが起こるのか、原因は3つあり、ひとうは、人が人を支配することで人のあつまり全体が利己的で残酷になったということ、ふたつ目は純粋に偶然性の所産である誰の所為でもない事故や災害、三つ目は世界を配下に収めている独裁者の所為
家原さんからrがどっさり届きました





https://youtu.be/EcuN-jHtan8
捕まえるか殺すか
上手な罠
を貰うデカスロン選手
の地図
アドバイスできるほど賢くはない
経験は必要ない人類猿の銀河
海と森はダメージからの回復を教える
水は武器
野良はそれでも治りにくい強い人に倣いたい
pslm27:7-12
静岡から新作T送られてきたので着てみました
#poetry #rock musician
前回の「洋楽エッセイ」に続いて、「邦楽エッセイ」を書いてみる事にした。しかし、前回「洋楽エッセイ」を書いてみて驚いたのは、浜風文庫の読者は、大衆音楽を殆ど聴かないのではという事だった。これはとても意外な事だった・・・しかし、クイーンやカーペンターズやビートルズくらいは、さすがに知っているはずだとも思った。わたしは、その時、詩人というのは、俗っぽいものには背を向けてしまうのかもしれないと感じた。エッセイで扱う対象は必ずしも「詩」でなくてもいいはずだ。これが「クラシック」だったら、少しは反応があったのかもしれない。それは、純音楽だからだ・・・けれど、わたしは、凝りもせず「邦楽エッセイ」を書いてみる事にした。とはいえ、わたしは、実は「邦楽」の方は、あまり聴いてはこなかった。そのため「洋楽」よりも遥かに知識を持ってはいない。しかし、なるべくネットで調べて書く事はやりたくないので、「洋楽編」よりも短くなってしまうかもしれないけれども、あくまで自分の言葉で、取り組んでみる事にした。
(取り上げたアーティストは、ほぼ、順不同。またわたしの記憶によるエッセイである為、誤りがあるかもしれない。)
活動期間は1987年 – 1991年。初めは、5人編成からなるグループだったのだが、その後、小山田圭吾と小沢健二の2人組ユニットとなり、「渋谷系」と呼ばれる洒落た音楽を次々に世に送り出し、席巻を巻き起こした。 わたしは、フリッパーズ・ギターの大ファンで、CDは、リリースされる度にすべて買い集めた。小山田圭吾と小沢健二は、ともに和光学園の出身でとても仲が良かったようだ。 わたしは、その頃既に詩を書いていて、1963年生まれのわたしは、1968年生まれの彼らに、猛烈なジェラシーを感じていた。わたしは詩作に夢中だったけれども、実は音楽も演ってみたかったのだ。フリッパーズ・ギターの3枚目にしてラスト・アルバムとなった「ヘッド博士の世界塔」は、頭がクラクラするほど、サンプリングを多用した大傑作だった。 フリッパーズ・ギターは「ダブル・ノックアウト・コーポレーション」名義で、他のアーティストにも、よく楽曲を提供していた。 ・・・ところが、その後、彼らはあっけなく、解散してしまった。しかもツアーの真っ最中の事だった。解散の理由は、「音楽的な意見の相違」などではなくて、楽曲を提供していた、元おニャン子クラブの「渡辺満里奈」の奪い合いだったという。本当に、何処か、笑えてしまうところのあるユニットだった・・・
今回の東京オリンピックのテーマ曲を担当する予定だった、小山田圭吾。20数年前の、身障者のクラス・メイトへの、壮絶なイジメが発覚して大炎上となり、結局、小山田圭吾はテーマ曲に関わる仕事を辞任する事となった。このイジメにまつわる事は、ヤフー・ニュースなどのコメント欄で本当に多数の書き込みがあって、小山田圭吾は、FAXとSNS上だけで謝罪し、小山田圭吾の所属事務所もまた形ばかりの謝罪をした。そういう経緯の後、オリンピックの主催者側も、大慌てで対応せざるおえなくなったという出来事は、まだ皆んなの記憶に新しいところだろう。
確かに20数年前の音楽雑誌のインタビューで、そのイジメについて、自慢気にベラベラ喋りまくっていた小山田圭吾は自業自得と言われても仕方がないだろう。20数年前の雑誌のカルチャーはそういうものだったという指摘もあるが、わたしはそうは思わない。
いま現在も、全国の何処かで、そのような「(身障者が対象となるような事をはじめとした)相手が死なない程度なら何をやっても良い」という悪質なイジメは行われているはずで、わたしも学生時代からそのようなイジメの現場はたくさん見てきた。そしていまわたしが思うのは、イジメられた側にとって、その体験とは大変な苦痛な事であり、その傷は生涯消えるものではないという点に於いて、小山田圭吾が音楽界から干されてしまいつつあるのは当然の成り行きだとは思う。しかし、クラスでのイジメの場では、報復を怖れたりして完全に傍観者となってしまう夥しい生徒たちもいるはずで、その事もとても大きな罪なのではないかとわたしは思うのだ。そして、わたしもまた、イジメが行われているそのような現場での、確かに傍観者の1人となっていた。このイジメについての問題は、もっと時間をかけて考えられなければならない事ではないだろうか?
ヤフー・コメント欄でわたしはこのような記事を見つけた。「小山田圭吾は、末期ガン患者の方が闘病している病棟で、真夜中に演奏して苦しんで呻き声を出すのを聞いて楽しんでいた」というものだ。こうなってくると小山田圭吾は、イジメの常習犯というよりも「変質者」に近いところがあるのかもしれない。
けれども、テレビにもよく出ている漫画家の蛭子さんは、ヒトの葬式に出席する度に、どうしてもゲラゲラ笑う事を止められないという。そのような蛭子さんが非難されず、小山田圭吾が非難されるというのは、キャラクターの違いという事なのだろうか?そこのところは、分からない。
ところで、この場では小山田圭吾の創る音楽について語らなければならない。わたしは、フリッパーズ・ギター解散後の小山田圭吾のCDは、最初のアルバムから、途中までは買っていた。最初の内は、それは完全に「ポップ・ミュージック」だったのだが、だんだん聴き進めていく内に小山田圭吾が関心を持って創作していくものは「ポップ・ミュージック」から、ブライアン・イーノが創る音楽のような「アンビエント・ミュージック」へと移行していくという事がだんだん分かってきた。わたしは、「アンビエント・ミュージック」にはあまり興味がなかったので、小山田圭吾の音楽は、次第に聴かなくなっていった。けれども、その音楽の方向性によって、小山田圭吾の音楽は、世界でも、知られるようにもなっていったのだった・・・そうして、小山田圭吾は、東京オリンピックのテーマ曲を担当する事になったのだった。
今度は、フリッパーズ・ギターのもう1人のメンバー、「オザケン」の愛称でよく知られている小沢健二について語る事にしよう。
先ず、わたしは、小沢健二の大ファンだ。ソロ・デビューから現在に至るまで、そのファン心は、一切変わってはいない。東大文学部卒業、指揮者・小沢征爾の甥というような育ちの良さがあるにせよ、そんな事はどうでもよく、小沢健二は、日本のポップ・ミュージック界に於ける、天才クリエイターである。ああ、オザケンは、なんて素晴らしいのだろう!!
1993年にリリースされた、セカンド・アルバム「ライフ」は、名曲満載である。「今夜はブキーバック」「ラブリー」をはじめ、捨て曲一切ナシ!!歌声の不安定さ(音痴)がよく指摘されるが、そんな事はどうでもよかった。とにかく、小沢健二は魅力的な声をしている。「フリッパーズ・ギター」時代にはまだ感じられる事のなかった、歌詞、メロディの秀逸さは、2021年になった現在でも、まったく色褪せる事は無い!!王子様キャラで、紅白歌合戦にも、2年連続で出演してしまった。
ところが、1995年だったか、1996年だったか、突然、日本から姿を消し、ファンをとても驚かせたが、近年、19年振りに50歳を超えた小沢健二はまたソロ活動を再開させて、これもまたファンならず日本のポップ・ミュージック界に大きな驚きを与えた。19年振りのシングル曲は、内容はかつてのように飛び切りにポップなものだったが、その曲のタイトルは、何と「流動体について」という、小沢健二にしかできない、まったく嫌味の無い、文学性に富んだものだった。歌声の不安定さ、声の良さは、実に健在!!わたしの心は、歓喜でいっぱいになってしまった・・・!!
ニュー・アルバムもリリースして、その内容でも、天才振りを存分に発揮。気まぐれな小沢健二は、これからも音楽活動を続けていくのか、それともまた、かつてのように突然ファンの前から姿を消してしまうのか?それが予測のできないところが、また素晴らしい!!と、わたしは思っている。
ああ、「オザケン」、アナタはわたしにとって、いつまでも変わる事のない、永遠の天才アーティストである・・・!!
B’Zは秀でたルックス・歌唱力を持つ稲葉さんと卓越したギターの演奏力を持つ松本さんから成る、男性ロック・ユニットで、30年前のデビューから50歳代後半になった現在に至るまで、リリースする曲、リリースする曲、そのすべてを途切れる事なく大ヒットさせてきた、稀有なアーティストである事は、誰もが認めるところだろう。
B’Zは、実に巧いアーティストなのだが、彼らの創る音楽は、アメリカのベテラン・ロック・バンド「エアロ・スミス」をお手本にしている事は、誰の耳にも、明らかだった・・・
いつだったか、タモリが司会をする「ミュージック・ステーション」という番組にB’Zが出演して、そして、特別ゲストとして、本家の「エアロ・スミス」も来日・出演して、番組内で、順番に、パフォーマンスを披露する事となった。確かにB’Zは実力派のユニットなのだが、本家「エアロ・スミス」のパフォーマンスがあまりにも素晴らし過ぎたので、完全にB’Zのパフォーマンスは、影が薄くなってしまった・・・その事は、おそらく、その日の「ミュージック・ステーション」を観ていただろう誰もが気づいていたに違いないのだが、B’Zだけが気づいていない、というとても可哀そうな事態になってしまっていたのだった・・・
後日、わたしの女ともだちから電話が掛かってきて、「ねえねえ、この前のミュージック・ステーション観た?B’Zとエアロ・スミスが一緒に出た日!」「ああ、観てたよ」「わたし、よく本家のエアロ・スミスを目の前にして、自分たちも巧いと勘違いして、演奏できるものだと思ったら、こっちの方が、恥ずかしくなっちゃって、どうしようもなかったわよ!!」「ああ、確かに、そうだったよねえ・・・」
そのようなわけで、日本を代表するロック・ユニット、B’Zは、全国に、大恥を晒す事になってしまったのだった・・・
わたしは、ベテランロック・バンド「X JAPAN」のリーダー、YOSHIKIの事が、とても好きである。先ずは、50歳代半ばだというのに、とっても美しいがゆえに。どうしてあんなに美しさが保たれているのかは分からない。けれど、本人はインタビューに答えてこう言っている。「実は、僕は、影では、血の滲むような努力をしているんですよ」ああ、そうだろうなあ・・・と、わたしは納得したものだった。
・・・ところで「X JAPAN」の元々のバンド名は単なる「X」だった。それが、バンドが世界進出を目指すようになってから、バンド名は「X JAPAN」に改名された。しかし、世界を目指すからと言って新しいバンド名が「X JAPAN」とは、何とも単純過ぎるというか、アタマが悪そうというか、わたしはそのような気もちを押さえられなかった。でもそんな事、どうでも良いじゃないか、と、わたしは思ってしまうのだった。なぜなら、YOSHIKIがとっても美しいがゆえに。
「X JAPAN」は、メジャー・デビューしてから、わずか3枚しかオリジナル・アルバムをリリースしていない。3枚目のアルバム「DAHLIA」をリリースしてから、既に30年近くが経っている。けれど、YOSHIKIはインタビューに答えてこう言っている。「アルバムは、もう殆ど出来上がっているんです。でも、最後のパートで、どうしても納得がいかない箇所もあって・・・」多くのファンは、もうしびれを切らしているというのに。完璧主義過ぎなのか、それとも今や音楽の聴かれ方が、CDからダウンロードの時代になってしまったからなのか。今のところ、YOSHIKIは、明言をしてはいないようだ。でもそんな事、どうでも良いじゃないか、と、わたしは思ってしまうのだった。なぜなら、YOSHIKIがとっても美しいがゆえに。
さて、この場は「音楽についてのエッセイ・邦楽編」であるから、「X JAPAN」YOSHIKIの音楽的な特徴について、語っていかなければならない。YOSHIKIは、ピアノとドラムを演奏する事が出来る。けれども、わたしは楽器を演奏する事が出来ないのでYOSHIKIのピアノとドラムが巧いのかどうなのか、あまり判断できないのだけれども、YOSHIKIの演奏力は、何となく「普通」なのではないか、と感じてもいる。ピアノの方は優雅に弾いているが、もしかしたら「ヤマハ音楽教室大人クラス」程度なのではないかという気もする。ドラムの方は、一所懸命叩いているのは分かるのだが、演奏しきって、ステージに倒れ込み、失神する姿などは、失神しているフリをしているのではないかと勘ぐってしまう。しかし、わたしにとっては、そのような事は、どうでもよく思えるのだった。なぜなら、YOSHIKIがとっても美しいがゆえに・・・
なお余談になるけれども、ロサンゼルス在住のYOSHIKIは、とても流暢な英会話が出来るとも聞く。しかし、その英語力も、もしかしたら日本のECC音楽学院で駅前留学をして学んだのではないかという疑惑をわたしは持っている。しかし、わたしにとっては、そのような事は、どうでもよく思えるのだった。なぜなら、YOSHIKIがとっても美しいがゆえに・・・
いまでは世界中の殆どの音楽ファンが知っていると思われる、日本発の「テクノ・ポップ」のパイオニア、YMO。そのメンバーは、細野晴臣、坂本龍一、高橋幸宏という充分にキャリアのある3人組である。かなり豪華なメンバーから成っていると言えよう。
しかし、わたしは、わたしが高校生の頃に流行った、初期のYMOのアルバムは、殆ど好きではない。有名な「ライディーン」や「テクノポリス」などの曲は、メロディーが陳腐過ぎて、発表当時から、かなりどうしようもないものではないかと思っていた。
わたしは、YMOのアルバムでは、そのキャリアの後期に於いて、優れたものが立て続けにリリースされたと思っている。「浮気な僕ら」「BGM」最後のアルバムとなった「テクノデリック」は、いずれも秀作ばかりである。
さて、YMOのメンバー、3人組の内、誰が最も才能があるのかについては、わたしが高校生の頃からかなり話題になっていた。やはり、日本の音楽シーンを1960年代後半からずっと牽引してきた細野晴臣ではないか、というのが、殆どの人たちの予想ではあった。しかし、メンバーの内、最も地味に感じられた、高橋幸宏が、実はYMOサウンドの要だったのではないか、というのが、最近のわたしの考えである。
アルバム「浮気な僕ら」は、YMOにとって、初めての歌モノ・アルバムで先行シングル「君に胸キュン」がヒットして、「歌のベストテン」に出演したりもした。またNHKの何かのキャンペーンに使われた「以信電信」は、わたしにとって、どこかビートルズ・サウンドを彷彿とさせるもので高橋幸宏は、ドラムが巧いだけにとどまらす、歌声もとても素晴らしいもので、本当に優れたアーティストだなと思った。
その高橋幸宏は、近年、脳腫瘍を患って、手術をして、その後、無事に回復をして「TAKEFIVE」というバンドを新しく結成した。高橋幸宏がリーダーのアルバムが近々リリースされる予定だったのだが、そのメンバーの中に、小山田圭吾が入っていたために、結局、発売中止になってしまった。何とも残念な話である・・・
いまでは「世界のサカモト」として知られるようになったYMOのメンバーの1人、坂本龍一ではあるが、わたしは、坂本龍一の才能については、かなり疑いを持っている。
坂本龍一は、映画「ラスト・エンペラー」のテーマ曲を担当して、それが認められ、アカデミー賞最優秀作曲賞を受賞する事に至ったわけである。そして、その事によって、「世界のサカモト」と称されるようになったわけなのだが、アカデミー賞最優秀音楽賞受賞の最大の理由は、映画「ラスト・エンペラー」のテーマ曲がとてもオリエンタルな作風であったからだと、わたしは思っている。
では、坂本龍一の最高の作品は何かというと坂本龍一がソロ名義で創作した「千のナイフ」と大島渚監督の映画作品で担当した「戦場のメリークリスマス」のテーマ曲、この2つだけだと考えている。
わたしは、かつて、坂本龍一が担当したすべての映画音楽を収録したベスト・アルバムのCDを購入した事があるのだが、何と驚いた事に、他の曲は、本当に、今1つ、今2つであったという出来事に・・・とても愕然としたという記憶を、今でも忘れる事ができない。
「世界のサカモト」と呼ばれ、押しも押されぬアーティストとして知られる事となった坂本龍一ではあるが、本人は、その事について、どのように感じているのだろうか・・・
東京芸術大学でクラシック音楽を学んだ坂本龍一、YMOでは「教授」の愛称で親しまれた坂本龍一ではあるが、だからといって、必ずしも優秀な音楽家にはなるわけではないという事を、わたしは知ってしまったような気がしてならないのである・・・
このエッセイの中で、1人も女性アーティストを取り上げていないので、せめて1人くらいは取り上げておこうと思い立った。ところが取り上げてみたい女性アーティストがなかなか思い浮かばない・・・松田聖子、中森明菜、安室奈美恵などがちょっと頭をよぎったが、彼女たちについては、散々テレビで観てはきたものの、エッセイに書くほどの知識を持ち合わせてはいない。また松任谷由実、中島みゆきなどのシンガー・ソングライターについても、有名な人たちであるにも関わらず、殆ど聴いてきてはいなかった。
そこで、最近、「紅白歌合戦」の大トリを務め、日本中を感動させ、また、最近では、東京オリンピックでの国歌を斉唱した事などで、かなり露出の多くなってきたMISIAについてなら、多少なら書けるかな、と思って、取り上げてみる事にした。
MISIAは、1998年のデビューで、その女性ヴォーカリストとしてのキャリアは、既に20年を超えている。その頃デビューした女性ヴォーカリストは、ディーバと称され、かなりのアーティストがいたと思うのだが、わたしは、殆ど覚えていない。MISIAについては、名前が変わっていたので、かすかに覚えている程度である。それから現在に至るまでの間に、テレビ・ドラマの主題歌を担当して、その曲が大ヒットしたくらいならば覚えてはいる。
今では、巧いヴォーカリストは、男性ならば、玉置浩二、女性ではMISIAという聴かれ方が定着しているようだ。わたしは、昨年の「紅白歌合戦」で大トリを務めたときのMISIAの歌唱を聴いたが、その少し前にテレビ番組の収録中に落馬をして背骨を傷め、その出来事を押して出演したときのMISIAの歌声を聴いたが、かなり圧巻ではあった。しかし、それは洋楽に長く親しんできたわたしにとっては「日本では巧いヴォーカリスト」としてしか評価する事はできない、と感じてしまった・・・それくらい、海外の、特にアメリカでの女性ヴォーカリストの層は厚く、故・ホイットニー・ヒューストン、マライア・キャリーなど名前を挙げればキリはない。この差は、MISIAには申し訳ないが、ヴォーカリストとしての喉の構造が違うとしか説明はできないと思う。けれども、MISIAが日本を代表する女性ヴォーカリストとして長く活動をしていく事は、おそらく間違いはないだろう。余談になるけれども、MISIAは、動物愛護活動を長く続いているとも聞いている。
日本が世界に誇るソウル・ミュージック「演歌」についても書いてみたいのだけれど、日本人なのに、わたしはこのジャンルについてもめっぽう弱い・・・「演歌」は、日本の民謡から発展して、大衆音楽に発展したくらいの事しか知識がない・・・
けれど「サブちゃん」こと「北島三郎」についてなら、少しは何か書けるのではいかと思ったので、ここでは北島三郎について書いてみたいと思う。
北島三郎は、1958年にデビューして、その後、演歌一筋、日本を代表するヴォーカリストとして現在に至っている。そのヴォーカリストとしての実力は、玉置浩二の比ではなく、アメリカの・故フランク・シナトラと肩を並べるほどであると、わたしは思っている。
活動歴半世紀以上、紅白歌合戦への連続出場は連続50回という記録を持ち、その50回目を区切りに、紅白歌合戦からは身を引くという事となり、50回目を目指してあちこちに手を回し、紅白歌合戦への出場を目論んでいた、和田アキ子とは本当に精神性のレベルが違い過ぎるとしか言いようがない。日本のカーネギー・ホールとも言える「新宿コマ劇場」での座長としての貫禄あるステージ活動もまた、圧倒的であるとしか言いようがない、と聞く。家が八王子にある北島三郎に憧れて、若い歌手たちが頻繁に弟子入りに訪れるという事も、当然の事だと言えるだろう。
ところで、北島三郎の代表曲の1つで、若い層にも充分知られている「与作」という曲は、「与作は木を切る ヘイヘイホー」というフレーズが印象的な大変な名曲だと思われるが、「与作とは、一体、誰なのか?なぜ、そんなに夢中になって木を切っているのか?」・・・が、明かされていないのが、謎めいていて、本当に素晴らしいと言えよう。まさにレジェンドとしての仕事を全うしているとしか言いようがない。
北島三郎は、現在84歳。昨年の紅白歌合戦では、特別席が用意され、4時間以上もの歌手たちの歌唱にひたすら耳を傾けていたが、最後にウッチャンから、紅白歌合戦についての感想を求められて、このように述べたのだった。「いやあ、わたしは本当に感動をしました。わたしは、半世紀以上、歌手をやってきたわけだけれども、時代は移り変わって、ジャンルなどには関わらず、素晴らしい歌手たちが、これからの音楽界を引っ張っていくのだなあ、とつくづく思って、感無量になりました」と言い切って、その姿を観たわたしは、北島三郎に対して「国民栄誉賞」を贈っても良いのではないかと強く、思ったのだった。政府の政治家たちの耳は、一体どういう構造をしているのかと、激しい怒りが湧いてきたほどであった。
日本が誇る音楽界のレジェンド、北島三郎には、ぜひ長生きをしていただいて、その歌声を皆んなに届けてほしいものだと、わたしは強く願ったのだった・・・
わたしが、日本のフォーク・ソングを熱心に聴くようになったのは、高校1年生のときの事だった。最初に大ファンになったのは、吉田拓郎であった。インディーズ・レーベル、「エレック・レコード」から、メジャー・レーベル「CBSソニー」へと移籍してからは、フォークの神様と呼ばれ、リリースするアルバムのどれもが大ヒットして、その人気は、大変なものだった。
しかし、その後、吉田拓郎、井上陽水、小室等、泉谷しげるの4人が立ち上げた新レーベル「フォーライフ・レコード」の社長になってからは、吉田拓郎の音楽家としての才能は、どんどん枯渇したと感じたわたしは、だんだんフォーク・ソングからは離れていってしまった・・・
・・・さて、前置きが長くなってしまったけれども、わたしにとっての第2次フォーク・ソング・ブームが始まったのは、2年ほど前からで、誰のファンになったかというと、吉田拓郎の先行世代で1968年にデビューした、最初のフォーク・ソングの神様と言われた、岡林信康である。
岡林信康の実家は、京都の教会で、父親はその教会の牧師だった。そういう事もあって、岡林信康は、同志社大学の神学部に進学したのだが、その後、牧師の父親との確執のため、家出をして、姿を消してしまった。岡林信康は、職業を転々として、アコースティック・ギターを持つようになり、1968年にフォーク・ソング歌手として、デビューする事となった。そして、山谷の労働者の暮らしぶりを歌った、あまりにも有名な「山谷ブルース」、部落問題をテーマにして歌った「チューリップのアップリケ」「手紙」などの曲を次々に発表して、一躍、時の人となったのだった。
1969年に開かれた「全日本フォーク・ジャンボリー」で、岡林信康は早くも、アコースティック・ギターからエレキ・ギターに持ち替え、フォーク・ソングのファンからの罵声を浴びつつ、ステージに立ち、「私たちの望むものは」「自由への長い旅」などのプロテスト・ソングを披露した。その時のバック・バンドの顔ぶれは、ベース・ギター細野晴臣、エレキ・ギター高中正義、鈴木茂、ドラムス松本隆、キーボード矢野誠(矢野顕子の元夫)という顔ぶれで、後の「はっぴぃえんど」の主要な顔ぶれとなるミュージシャンが3人も含まれていたというのは、凄い事である。この事からも、岡林信康の目利きぶりが、はっきりと分かると言えよう。ちなみに「はっぴぃえんど」は、初めての日本語のロック・バンドとして、今だに語り継がれているけれども、わたしは、そうは思っていない。初めての日本語のロック・バンドは、グループ・サウンズ「スパイダース」であり、「スパイダース」に続く「タイガース」や「テンプターズ」「ゴールデン・カップス」だと、わたしは捉えている。
岡林信康は現在、74歳で、今だにフォークの神様として活動を続けており、昨年23年ぶりのニュー・アルバムをリリースして、大きな話題となった。
岡林信康は、ライヴでのユーモアに富んだMCでも知られているのだが、Facebookでの「岡林信康・オフィシャルサ・サイト」の新しい記事には、次のような事が掲載されていた。
【近況報告⑥】
「散歩中の岡林信康さんが、神社の狛犬(こまいぬ)にかまれるという事件が起こった。フォークの神様と呼ばれた岡林さんを神社の神に仕える狛犬が「商売ガタキ」だと思っての犯行だと思われるが、単なる傷害事件か、それとも複雑な宗教論争に発展するような事件なのか、警察では慎重に捜査を進めている。
(イヌアッチケーニュース)」
2021年8月12日
岡林信康
岡林信康のユーモアは、ここでも健在で、岡林信康のライヴに1度は足を運んでみたいと思っているわたしは、岡林信康には、90歳くらいまで生きていただいて、現役「フォークの神様」として、歌い続けてほしいものだと願っているのだった。
今では、過小評価、或るいは過去の人として扱われているようなところのある、小室哲哉ではあるが、小室哲哉は、J─POP史上最高の天才である。なぜわたしが、そう思うのかというと、1986年の渡辺美里の大ヒット曲「My Revolution」の作曲家であるという、この1点に尽きる。こんな名曲、そうそう、誰にでも創れるものではない。
1980年代の、TM NETWORK(小室哲哉、宇都宮隆、木根尚登の3人で構成される日本の音楽ユニット。このユニットにも、「GET WILD」という名曲がある)での活動を経て、プロデューサーとしても頭角をどんどん表していった小室哲哉だが、デビューしても鳴かずとまずだったアイドル歌手、安室奈美恵や華原朋美の才能に気づき、一流のアイドルとして成長させていった能力は、本当に大きいものだった。ただ小室哲哉のプロデュースから早めに手を引いた安室奈美恵に対して、小室哲哉と恋愛関係になり、すっかり寄り添って、結局、小室哲哉に捨てられて、自殺未遂をした後に、情緒不安定になり、どんどん人気が凋落していった華原朋美は、とても気の毒な事になってしまった。今では40歳代後半となり、一般人と結婚して、育児をしながら、ヒット曲はもう出ないが、今でもテレビで昔と変わらぬ歌唱をしている華原朋美を観ると、「がんばれ、トモちゃん!!」と応援してしまうのは、おそらく、わたしだけではないだろう。
さて、華原朋美を切り捨てた後、卓越したキーボード奏者の自分自身とヴォーカリストのケイコ、ラッパーのマーク・パンサーと組んで、1995年から1996年にかけて、J─ポップ界に小室哲哉をリーダーとしたグループ、globeを結成して、日本のJ─POP界に一大ムーブメントを巻き起こした事は、多くの人の記憶に残っている事だろう。
しかし、小室哲哉は、美輪明宏の言う「人生は、プラス・マイナスの法則で出来ている。人生をすっかり謳歌した人には大きな凋落が待っており、結局は、プラス・マイナス・ゼロなのである」という事を見事に体現してしまった・・・妻のケイコは脳梗塞で倒れ、自分自身は著作権関係の問題で逮捕され、財産を失い、とうとう還暦を前にして、音楽界から引退する事となってしまった・・・
そのような小室哲哉ではあるが、やはり彼の音楽家としての才能は、今でも色褪せる
事はなく、globeの残した数々のヒット曲には、必ず、再評価を得る時代が訪れる事であろうという、わたしの予想は、確実に当たると信じている。頑張れ、小室哲哉!!
* わたしはいま58歳で、10年経てば70歳近くになってしまうという事に、最近気がついた。日本人の寿命が長くなったとはいえ、70歳ちょっとで亡くなってしまう人たちは、かなり多い。10年経ってしまうのなんて、あっと言う間の事である。
* わたしは、30年以上詩は書き続けてきたけれども、散文の方は常に苦手意識があって、殆ど書いてこなかったという経緯があり「いま、書かなくて、一体いつ書くのだ」という気もちになり、遅ればせながらようやく散文を書き始めた、というわけなのである。これから先、エッセイだけではなく、たくさんの論考を書いていきたいと考えている。
2021年 8月16日 今井義行
ある朝ふと目を覚まして「古楽のたのしみ」という音楽番組を聴いていたら、ランベール・ド・ボーリュ―:作曲の「ああ、どうすれば良いのか」*という曲を流していた。
初めて聴く曲を、初老のバリトンが唄っていた。
ああ、どうすればよかったのか?
ああ、どうすればよかったのか?
その翌日の木曜日にテレビを見ていたら、夏井いつき先生が、画面から首を突き出して
「あなたは才能無しの凡人です!」と決めつけるので、私はガックリと項垂れた。
ああ、どうすればよかったのか?
ああ、どうすればよかったのか?
またその翌日の金曜日に、ドストエフスキーの「罪と罰」を読んでいたら、サンクト・ペテルブルクのやっちゃ場を歩いていた聖植松ラスコーリニコフが、私に向かって「この世の中には殺されても仕方のない、あんたみたいな凡人と、そんな凡人どもを殺す権利のある非凡人のおらっちしか、いないんだじょー」と叫ぶので、私はまたしてもガックリと項垂れた。
すると、血の上の救世主教会の横丁から飛び出してきたムイシュキン公爵が、「だいじょうぶ、僕は生まれながらの病気で馬鹿だけど、それでも一生懸命生きているんだ。おたくのコウ君もそうでしょう。それなりに健康で普通の人なら、なおさら一生懸命に生きなきゃ」という。
ああそれなのに、おらっちのこのざまは、いったいどうしたことだ。
ああ、どうすればよかったのか?
ああ、どうすればよかったのか?
デルタ型に続いてラムダ型なる新型コロナ・ウイルスの最新型の変異株が現れて、世界中で大繁殖している。
本日の感染者は全世界で2億860万9830名、死者は438万2461名。我が国でも118万7058名の感染者と1万5497名の死者が出ている。**
昨夜スカがなんかスカスカ宣言していたが、この勢いは、もはや誰にも止められないだろう。
ああ、どうすればよかったのか?
ああ、どうすればよかったのか?
東京五輪でキツネどもが「おまんた音頭」を歌い、タヌキどもが「猫じゃ猫じゃ」を踊り狂う前に、イスラエルや中国並み、とは言わないまでも、せめて先進国の真ん中の国並みにワクチンを接種してさえいれば、こんな亡国の憂き目をみることにはならなかっただろうに。
ああ、どうすればよかったのか?
ああ、どうすればよかったのか?
私は、これまで2回も獰猛な雀蜂に刺され、アナフィラキシーのショックで死ぬほど苦しい酷い目に遭っている。***
今から一昔前、2度目に朝夷奈峠で刺された時には、愛犬ムクと一緒だった。
「ムクムク、早くおうちに戻って、愛するミエコさんを連れて来ておくれ!」
と頼んだが、こいつめ、地に伏した私の顔を、ペロペロ嘗めるだけだった。
ああ、どうすればよかったのか?
ああ、どうすればよかったのか?
やっと辿りついた麓の病院では、「今度刺されたら命は保証できませんよ」と脅かされて、以来、野道では肌身離さず「エピペン」****
を携える身となったが、今度のコロナ騒動で「先生、ワクチンを接種してもいいですか?」と訊ねたら、「これまで900人以上死んでますからねえ、どっちも怖いけど、あなたはまあ止めといた方が安全でしょう」という返事でした。*****
ああ、どうすればよかったのか?
ああ、どうすればよかったのか?
雨がザンザン降りの四つ辻に、真っ赤なリンゴが、ひとつ落ちていました。
ああ、ここは自由と民主がふたつながらに抹殺されてしまった死都香港。
その林檎を拾いあげて、民族衣装ロンジーの袖でそっと拭いている美しい初老の女性は、たしかアウンサンスーチー。
ああ、どうすればよかったのか?
ああ、どうすればよかったのか?
哀しいね、嗚呼、哀しいね。
しかし、しかし、おらっちは何にも出来ずに、こんな出来そこないの詩を、右翼と国家主義者たちが指導する滅びの国で書いているだけさ。
ああ、どうすればよかったのか?
ああ、どうすればよかったのか?
くそおう、むしゃくしゃしやがる。
いつも私にだけ狂ったように吠える犬がいるので、「今日こそはぶっ殺したろ!」と思って、玄関を飛び出したが、その日に限ってどこにもいない。
ああ、どうすればよかったのか?
ああ、どうすればよかったのか?
するてえと、左の横から音もなく走ってきた軽自動車に、あっと言う間もなく撥ねられて、空中で1回転して、救急車で緊急外来に担ぎ込まれた。
不幸中の幸いで、頭に異常こそ出なかったけれど、全身打撲、打ち身、擦り傷、腱板損傷、その他その他で、いわゆるひとつの死に損ない、さ。
ああ、どうすればよかったのか?
ああ、どうすればよかったのか?
おまけに交通事故の衝撃で、顔面神経麻痺になってしまったので、二目と見られぬひょっとこ顔になったうえ、悲しいことに、お得意の口笛が吹けなくなってしまったよ。
ああ、どうすればよかったのか?
ああ、どうすればよかったのか?
リハビリは1日2回合計100回!
下顎を動かさずに、唇を左右に動かせ、なんてできないよ。
左右の小鼻を、ふくらましては、また小さくする、なんてできないよ。
ああ、どうすればよかったのか?
ああ、どうすればよかったのか?
強烈にひんまがって、二目と見られぬひょっとこ顔になったうえ、お得意の口笛が吹けなくなってしまったおらっちを、毎朝毎晩温かな手を当てて治してくれたのは、妻のミエコさん。
いくら感謝しても足りないよ。
ああ、ありがとうミエコさん
ああ、ありがとうミエコさん
それなのに、ああそれなのに、おらっちは、彼女を青い綺麗な海に連れていく約束すら、まだ果たしていないのだ。
ああ、どうすればよかったのか?
ああ、どうすればよかったのか?
最近幽冥境を異にした人たち。山内静夫、大島康徳、寺内タケシ、原信夫、李麗仙、中山ラビ、江田五月、伊藤京子、中嶋弘子、サトウ・サンペイ、その他その他。
年があらたまり、月が替わっても、そんなこととは関係なしに、どんどん人が死んでいく。
ああ、どうすればよかったのか?
ああ、どうすればよかったのか?
あの「ワンサカ娘」を作曲して世に出た小林亜星選手も、死んぢまった。
「ワンサカ娘」で一世を風靡し、30年に亘っておらっちの家計を支えてくれたアパレルメーカーも、中国のメーカーに買収された挙げ句に、潰れっちまった。
レナウン丸は、亜星氏と「ワンサカ娘」を歌いながら、歴史の波間に消えていったのだ。
ああ、どうすればよかったのか?
ああ、どうすればよかったのか?
昔々そんな原宿の会社に毎日通っていて、ある朝にわか雨で青いドレスを濡らしている、2課所属の可愛い女の子がいた。私は傘に彼女を入れてやろうと思い思いしながら、とうとうそれができなかった。
ああ、どうすればよかったのか?
ああ、どうすればよかったのか?
千駄ヶ谷の外苑中学の前にはイチョウ並木があって、そのイチョウ並木には、時々凶悪なハシブトカラスが潜んでいて、なぜだかいつも私を狙って急降下して、後頭部をゴンゴン激しく突つくのだった。
嗚呼それが、2021年の今日の転落に繋がる70年代のはじまりだった。
ああ、どうすればよかったのか?
ああ、どうすればよかったのか?
ロシアではオブローモフ、日本では三年寝太郎がいることは知っていたが、最近の中国では「寝そべり族」が現れたそうだ。
超なまけものリーマンだった私は、ある日「ナマケモノ」というブランド名の24時間着の畢生の企画書を真面目に書いたが、なぜだか没になったことを思い出した。
ああ、どうすればよかったのか?
ああ、どうすればよかったのか?
あーた、コロナ禍の老人には、家でテレビを見るか、本を読むしかやることがないずら。
そんなある日、お金の余裕がまったくなく、ステージ4のガンと戦っている妹の話をしていたら、突然涙が止まらなくなってしまった。
驚いている妻に「こんな話の途中で泣く予定はまったくなかったのだが」と弁解めいたことを言うてはみたのだが。
ああ、どうすればよかったのか?
ああ、どうすればよかったのか?
今年も梅雨がやってきた。
雨や曇りの日には、洗濯物が乾いたかどうかを尋ねて、一日に40本も妻に電話してくる自閉症の長男、コウ君。
ああ、どうすればよかったのか?
ああ、どうすればよかったのか?
金曜日の午後、そのコウ君が大和市の施設から帰ってきた。
洗濯物を自分で洗おうとするので、「こらあ、いい加減にしろお! 洗濯はお前じゃなくて、洗濯機がやるんだあ!」と怒鳴ってしまった。
普段は可愛い可愛いとネコかわいがりしていたくせに。
ああ、どうすればよかったのか?
ああ、どうすればよかったのか?
すると、絵描きの次男がいう。
「お父さん、しっかり長生きしてくれなきゃ困るよ。お父さん、もっと背筋を伸ばして、格好良くしてもらわないと困るよ」
ああ、こいつが噂の80-50問題かあ。分かっとる、分かっとるけどもなあ。
ああ、どうすればよかったのか?
ああ、どうすればよかったのか?
画家は貧乏暇なしだから、妻やおらっちの年金が無くなれば、自分の年金払いも破綻するに違いない。
民草が、草を喰らい、濁水を呑んで払い続ける税金を、この国の劣悪な指導者たちが、おのれの私利私欲のために、あっと言う間に蕩尽するのだ。
ああ、どうすればよかったのか?
ああ、どうすればよかったのか?
夏になった。
コロナ大感染と大雨とリハビリと家の修理が、4大パンデミックに大同団結して、いっぺんに押し寄せてきた。
毎食後11種類の薬を飲むと、一日中ぐったりする。
アフガニスタンでは、米軍のいささか早すぎた撤退で、なんとまあタリバンが復権して、「餡味噌タリバンタリリバナあ!」と歌っているそうだ。
ああ、どうすればよかったのか?
ああ、どうすればよかったのか?
去年は空前の大豊作で、庭にいっぱいの果実をつけた夏ミカン。
ところがこの春、突然葉っぱの色が変わって、夏場には急速に元気をなくしてしまった。
もしや交通事故で死にかけた私の、身代わりになってくれたのではないでしょうか?
全身茶色い枝になった冷たい木を励ますように、あるいは悼むように、一頭のナミアゲハが飛び回る。
ああ、どうすればよかったのか?
ああ、どうすればよかったのか?
馬齢を重ね続けた私は、この秋喜寿を迎えるようだ。
もう歳も歳だし、いつコロナの感染死や天変地異に遭うか分からないし、げんにこの4月23日には交通事故で死にかけたから、死んでしまうのは仕方がない。
けれどもしばらく前から手掛けている、おらっちの最初で最後の全詩集が、まだ世に出ない。
あれは私の遺書だ。もしもこれが出る前に死んぢまったら、おらっちどうしよう。
ああ、どうすればよかったのか?
ああ、どうすればよかったのか?
嗚呼、わいらあ、どないしたら良かったんかいのお?
*「ああ、どうすれば良いのか」 ランベール・ド・ボーリュ―:作曲 (合唱)ル・ポ
エム・アルモニーク、(指揮)ヴァンサン・デュメストル
**2021年8月19日朝日新聞朝刊掲載の「米ジョンズ・ホプキンス大の累計」による。
***「アナフィラキシー」 アレルゲンなどが体内に入ることによって、複数の臓器や全身にアレルギー症状が表れ、命に危険が生じ得る過敏な反応が出ることをアナフィラキシーといい、その中でも血圧低下や意識レベルの低下、失神など、生命の危険を伴う重症の場合をアナフィラキシー・ショックと呼ぶ。
****「エピペン」は、アナフィラキシー補助治療剤の商標名。食物や蜂毒による異常が生じた場合、医者にかかるまでの緊急対応として、太腿にエイヤっと突き刺して使用する。
*****2021年8月4日、厚生労働省は新型コロナ・ワクチン接種後に死亡した事例は7月30日までに919例に上ったと発表した。