michio sato について

つり人です。 休みの日にはひとりで海にボートで浮かんでいます。 魚はたまに釣れますが、 糸を垂らしているのはもっとわけのわからないものを探しているのです。 ほぼ毎日、さとう三千魚の詩と毎月15日にゲストの作品を掲載します。

忘却セッケン

(1993年 詩集「忘却セッケン」より)
 
 

正山千夏

 
 

雑誌で
自分はどこからきて
どこへいくのかということを考えている科学者の話を
読んだ

その時 私は
電車の中で
家へ向かっていた

遠い遠い昔に
忘れ去られたことを再び
憶い出そうとする
その人の顔のところに私の親指があたっていた

家にたどり着いたら
また、私は
忘却セッケンで手を洗ってしまった。

机に向かって
自分はどこからきたのか
憶い出そうとした
(私は、多分、男と女が結合してそして女の人の中からきたみたいだ

けれど、
私の体液の表面張力で(それは、コトバかもしれない)
その細かな水の玉に強引に
くるめてくることができる記憶は
ほんのちょっとです(科学者の言う宇宙のチリより小さいみたい)

その夜 お風呂に入って
また、私は
忘却セッケンで身体を洗ってしまった。

この忘却セッケンが
どんどん小さくなって
しまいになくなるとき
私は終点に着くのだ

 

 

 

百円アトピー

 

塔島ひろみ

 
 

私はかかれるためにこの世にあり
光彩を放つ

水玉模様のアームカバーから はみだした腕を
かく女
その赤黒いいびつな物体はあなた自身で、
私ではない

かかれるためにある私は
太陽とか、空気とか、ドラム缶とか、総理大臣とかの
力を借りて 存在感を増し
人気を博した

私をかくために大黒屋店員を辞めた青年Nは
首筋からボロボロ落ちる自分の一部を
勝ち取ったような表情でかき集め 屑カゴに捨てた
Nの頭で音楽(大塚愛)が鳴り
ザーと音を立てて 減っていくN
そして今度は客として大黒屋に私を買いに行く Nと
百円で買われていく 私と
それを眺めている私

増える私
減らない私
決してかかれず、傷まない私
百円アトピー

私をかくために成長し
私をかくためにお米をとぎ、
私をかくために私をののしる世界に だけど私はまったく不調和で

今日も あちこちの私とそっと目を合わせながら
望郷の歌を口ずさむ

 

 

(2017年9月20日 東京大学附属病院皮膚科待合室で)

 

 

 

ずっと心配

 

佐々木 眞

 
 

 

「ひよっこ」の時子は、ツイッギー・コンテストに当選するんでしょうかねえ。
みね子のお父さんの頭と、マスコミに追われて逃げてきた川本世津子の仕事も心配。
北朝鮮のミサイルより、ずっと心配。

三横綱が休場して、高安と宇良も休場した秋場所は、どうなるんだろう。
私の好きな、「日本人より日本人な横綱」ただひとりで、大丈夫なんだろうか。
北朝鮮のミサイルより、ずっと心配。

突然の解散総選挙で自公+新党の保守勢力が圧勝して、「保守にあらずんば人にあらず」の国になったら、憲法第9条なんてどうなるんだろう。
北朝鮮のミサイルより、ずっと心配。

きのう、青大将の長くて白い抜け殻を庭で見つけた。
あれは、今頃どこにいるのか。天井で、とぐろを巻いているのかしらん。
北朝鮮のミサイルより、ずっと心配。

寄る年並みに勝てず、われら老夫婦が先立ったら、残された子供はどうなるんだろう。
いったい誰が彼の歯を磨いて、爪を切ってくれるんだろう。
北朝鮮のミサイルよりずっと心配。
北朝鮮のミサイルよりずっと心配。

 

 

 

○○スパゲッティ=

 

ヒヨコブタ

 
 

わたしのために野菜が刻まれる
じゅうじゅう
それらを聞きながら

スパゲティはケチャップたっぷり
ベーコンより豚バラ
粉チーズは少し控えめに

我が家のスパゲティ=ナポリタンだ

ケチャップはストックしておくのを忘れるな
1度でほぼ使いきるから
お買い得でもメーカーは守ること

父のスパゲティ
うまくいったときの70点以上くらいのときの

父の満足そうな食べる姿

わたしのための目の前のスパゲティ

 

 

 

午前4時

 

長田典子

 
 

ふいに 誰かが
頬に くちづけをする

階下から
張りのある声が聞こえる
活気のある抑揚
フェルマータがまざる
懐かしいアレグロ
お父さんだ

あさいちばんで
取引先と電話している
デスクの横で
お母さんが笑顔でふりむく

お父さん
また商売を始めたんだね
柔道はあんなにつよいのに
お金はまったく計算できないんだから
こんどこそ儲かるといいね
すぐにへこたれるお父さんを
これからも よろしくね
お母さん

お母さんは計算機を打ちはじめる
スタッカートは
むなぐるしい予感

ショパンのワルツが聞こえる
乱舞し
湿った匂いがする

お父さん
ピアノを買ってくれてありがとう
お母さん お祭りやお正月に
いつも着物を着せてくれて
ありがとう

しあわせ
春の土ぼこりの匂い
バッハのパルティータ
かけあしの
ファルテッシモ
石畳の靴音は
濡れている

きょうも
お父さんとお母さんは
どこか遠いところに
いそいでお出かけ
車に乗って
いつも

もっともっと たくさん
いろんな ありがとうを 言わなくちゃ
はやく もっと
言わなくちゃ

お父さ-ん!
お母さ-ん!
声が出ない

雨音とともに立ちのぼる
春の土ぼこりの匂い
パルティータ
アレグロ
猫がくるったように部屋じゅうを
かけまわる

あれ

ショパン
アレグロのワルツ

あれ やっぱり そうだよね
お父さんも
お母さんも
もうとっくに
この世にいないのだった……

のどをならして
猫のミュウちゃんが
わたしの鼻を
甘噛みしている

ようやっと
眼をあけると
泣いていた

夜明け前4時

何かがドアを開けて
かけあしで出ていく
ふくすうの
足音

車が濡れた路面をはしっていく

 

 

 

MISTY FOREST

 

狩野雅之

 
 


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今回も明示的なテーマはありません。(タイトルは読者向けの便宜的なものです)
 
わたくしごとですが、これほどセレクションに苦しんだことはありません。数週間七転八倒しました。(今回ははじめて浜風文庫掲載を前提に撮りました)
 
その結果が「この程度」でありまして、内心忸怩たるものがありますが、これはこれでひとつの到達点ではありますので受け入れようと思います。
 
わたしは組み写真がもっとも不得手なものですが、「浜風文庫」においては写真掲載は「組み写真」が紙面上最も良いと個人的には考えています。
 
もし1点のみの掲載に留めるのであるならば、写真1点とショート・エッセイが相応しいのでは無いかと思います。
 
そちらの方がわたしとしては得意なのですが、やはり組み写真への取り組みは大切な修練でありそれを発表する場も数少ないゆえ、これはとことん「組み写真」でいくべきだと考えています。(どこまで続けられるかは「神のみぞ知る」ことではありますが)
 
写真というものはやはりプリントしてテーブル上に並べ、それを眺めながらさまざまに並べ替えセレクトしてページを構成する(あるいは展示を構成する)ものなのだと改めて思い知らされます。作品としての写真はプリントして初めて写真になるというのは永遠の真理なのかもしれません。(わたしに限っていうならば、モニター画面上でのセレクションはもはや不可能だと思い知りました)
 
そして写真にこころ惹かれるときそこには必ずそのひとにとっての「プンクトゥム」があるのです。(ロラン・バルトのいうように)
 
今回は改めてそのことに気づく機会となりました。
 
ありがとうございました。

 

狩野雅之 拝