あのミナミジサイチョウが捕まった!

 

辻 和人

 
 

マジですか?
2019年11月、茨城県のペットショップから逃げた
南アフリカ産のでっかい鳥
ミナミジサイチョウ
2021年6月5日午後、千葉県白井市の田畑で捕獲されたって
寝る前のヤフーニュースで眠気ぶっ飛んだ

あの不敵な面構え
あのド派手な面構え
逃げ出したって報道を目にした時から
ぼく、この鳥の「ファン」だったんだよね
ギョロッ目の周りは真っ赤っ赤
喉の膨らんでる辺りも真っ赤っ赤
真っ黒胴体の上で
燃えるよう
嘴は先っぽ折れてるけどそれでもシュッと長く
翼広げれば2メートル
バサッ
バサッ
空気を重たく切って
不敵だねえ
ド派手だねえ

空0おや、ケージの扉が開いてる
空0ちょっくら外の世界を覗いてみようか
空0バサッ
空0バサッ
空0ありゃま
空0故郷とは全然違う景色だなあ
空0いろんな形の岩がにょきにょき突き出てるなあ
空0四角くてガス出す動物がちょこちょこ忙しく走り回ってるなあ
空0飛ぶのは実はあんま得意じゃないけど
空0バサッ
空0バサッ
空0お腹空いてきた
空0道端に置いてあるいい匂いする袋、うっすい膜突いて破って
空0チョンチョン、ゴクッ
空0うん、食える食える
空0ちょっと騒々しいし
空0どっかもっと落ち着けそうなトコはないか
空0おっ、緑いっぱい
空0おっ、お水いっぱい
空0良さげな感じ
空0ここに腰を据えるとするかぁ

目撃情報が相次いでテレビにもたびたび登場
畑の周りの草っ原を余裕ある足取りで歩く
よっちよっちよっち
土をほじくり返したぞ
レポーター「あっ、何か食べましたね!」
ミミズだかゾウリムシだか
嘴を大きく開いて
カエルも食べる
ヘビだって
するするっ飲み込んじゃう
たくましいねえ
アフリカ生まれの生き物に日本の冬は厳しいかろうって?
へっちゃらさ
もう2回も冬越しちゃったよ
風を避ける場所なんか森の中に幾らでもある
枯草の下には食料の甲虫もいる
そして初夏
「エサは豊富にあるし今の時季は体力が有り余っていて捕まえるのが難しい」
なこと言ってたペットショップの職員が車2台で追跡
特に警戒することもなく自分から車に近づいていくミナミジサイチョウ
よっちよっちよっち
息飲む瞬間
ところが車と車の間をすり抜けて
バサッ
バサッ
レポーター「飛び立ってしまいました」
人間ども、マヌケだねえ

まあ、そんなことあんなこと
お昼のワイドショーで見てたんだけど、遂に

ミナミジサイチョウ、職員の腕に
おとなーしく抱かれてる
ビニールハウスの横にいたので追い詰めて網で一気に捕獲しました、とのこと
職員は嘴を軽く掴んでいたけれど
腕の中で暴れる様子もなく
ギョロッ目
不敵だねえ
ド派手だねえ

絶滅危惧種なのにペットショップで売ってるってのが
そもそも「?」なんだけど
南アフリカより日本の千葉県の風土に合ってたのかもしれないな
住民から「ずっといて欲しい」なんて声もあがってたらしい
2、30羽も離したらたちまち殖えて
絶滅危惧する必要、なくなっちゃったりして

先住のカラスやスズメと一線を画する
不敵でド派手な面構え
よっちよっちよっち
バサッ
バサッ
1年半の休暇を思う存分楽しむ
カエルだってヘビだって
生きてピクピクしてる奴を思う存分食して
潜在能力を思う存分発揮
羨ましいね
憧れちゃうね
そう言えば
ちょっと前にアミメニシキヘビが逃げ出したって事件があった
アパートで飼われていてケージの鍵が壊れ
にょろにょろっ外へ出ていってしまった
大勢で捜索したけど見つからない
水路をつたって逃げだら捕獲は困難、なんて「専門家」の人が言ったらしいけど
別の「専門家」はアパート内にきっといると主張
屋根裏をあたってみたら
果たして
柱に巻きついてた
やさしく解きほぐすとおとなーしく捕獲者の腕の中へ
何でも一回外へ出たもののまたアパートに舞い戻ってしまい
ひたすら屋根裏で縮こまっていたという
アミメニシキヘビは小心者
外の世界が怖い
外の食べ物なんか食べたくない
誰かケージに連れ戻してくれないかなあ
ミナミジサイチョウとは真逆の人生観だ

自由と安定
さて、どちらがいいか?
1カ月たって改めて朝の通勤電車の中で考えてみた
自由に飛び回るのは楽しいけど
もし食料が見つからなかったら
もし恐ろしい外敵がいたら
決して気楽ではいられない
一方安定を選ぶってのも意外と落とし穴がある
柱に巻きついていて誰も見つけてくれなかったら飢え死にだ
ケージから逃げ出さなかったとしても
飼い主さんにもしものことがあったらもうアウト
今ここで寝不足の目をこすって電車に揺られてる人たちは
テレワークが叶わない勤め人が多いだろう
隣の席で一心不乱にゲームやってるニイチャンだって
「来月店閉めるから」って言われたら目を白黒させるしかない
じゃあフリーで頑張るかってことになると
うーん、食っていけないかも
ぼくも一度会社辞めてるけど何だかんだ言って再就職したしね
ミナミジサイチョウ
君って勇気ある成功者だったんだね

てこと考えながらスマホでヤフーニュース覗いたら
「6月に捕獲された『絶滅危惧種巨大鳥の名前』を柏市立手賀東小学校の児童が命名」
マジですか?
あの鳥に名前はあるのかという問い合わせが殺到
ペットショップが地域の小学校に命名をお願いしたとのこと
名前は「ファミリア」
アフリカの言葉で「家族」を意味するそうな
小学校で命名式までやってる
「もっとここにいてほしかったけど、いつまでも幸せに暮らしてほしい。手賀沼の宝です」
「家族のような学校に大きな鳥が遊びに来てくれて半年間みんなで過ごすことができた。『ファミリア』が過ごしやすい場所だったこの手賀の豊かな自然を守っていきましょう」*
迷惑かけたくせに宝ときたか
ペットショップの職員の腕に止まった「ファミリア」
ギョロッ目
真っ赤っ赤
不敵な面構え
ド派手な面構え
頭撫でられてご満悦
小学生たち、大喜び
おいおい、「ファミリア」
せっかくホメてやったのに
お前、ホントは
自由でも安定でもどっちでも良かったのかぁー?

空0ご飯は出てくるしゆっくり寝られるし
空0悪いことはないよなあ
空0もう一回くらい外の空気を吸いに出かけるのもいいけど
空0このままここにずっといてもいいよなあ
空0いてもいいよなあ
空0いなくてもいいよなあ
空0よなあ
空0よなあ

 
 

*2021年7月11日の朝日新聞の報道による

 

 

 

「虚対虚」の言葉から透けるナイーブな私

中村登詩集『プラスチックハンガー』(一風堂 1985年)を読む

 

辻 和人

 
 

 

中村登の第一詩集『水剥ぎ』は、暗喩を多用した、一見意味の辿りにくい言葉でできた詩集だった。しかし、中身は作者の少年時代から現在までの生活史を忠実に追ったもので、比喩が生活のどういう局面を指しているかは容易に想像ができる。比喩は深い含みを持ってはいるが、言葉と現実が一対一の直接的な対応を見せているという点で、実は極めてシンプルな構造を備えている。しかし、3年後に刊行された『プラスチックハンガー』では様子が異なっている。この詩集も暗喩が多用されているが、『水剥ぎ』のように言葉が作者の現実を素直に指し示してはいない。作者の実生活や心情がベースにあることはわかるが、言葉の示す範囲が曖昧であり、意味を明確に把握することができない。言葉と現実が直接対応するのでなく、現実を挟んで、言葉と言葉が対応している。前作より複雑で手の込んだ技法が盛り込まれていると言えよう。
巻頭に置かれた表題作「プラスチックハンガー」を全編引用してみる。

 

空0ズズズーッとひきずりおろすと
空0腹が割れて
空0左肩、右肩の順に出している
空0右ききの右手で
空0欲しかった
空0褐色の革ジャンパーを脱いでいて
空0屠殺された牛の皮だ
空0屠殺する
空0男の手がある
空0のだと思いもしなかった
空0生きていた牛の手ざわりもない
空0鞣皮を
空0キッパリと脱ぎ捨てるそこに
空0仄白い
空0首が出ている
空0手が這い出している
空0ぴくぴくと引きもどされては
空0指が逃げている
空0牛の鞣皮を着た男に追われる
空0私の夢の中にまだ
空0妻はいてくれたのか
空0見ていた胸が
空0隆起していた その女は
空0電車の中でクリーム色のコート
空0暗く着ていた
空0膨んだ胸のコートを脱いで
空0パタン とこうしてタンスをしめるのだろう
空0コートをハンガーに掛けたのだ
空0プラスチックのそれに
空0「日々の思いを吊るす」のだとは

空0ツルリ
空0のびる舌を
空0巻きあげていく
空0真っ赤な内臓がぬたっている
空0その男もその女も
空0股に股たぎらせもっとしていくらしても
空0よくなって疲れて
空0眠っているのだ
空0眠っている妻の声が
空0耳に
空0耳の奥に 耳の奥底に木霊しているが
空0………
空0闇のお宮の怖い大根(おおね)の間を
空0子供の私と妻が
空0足音を殺して駆け回っている

 
 
場面としては、牛革のジャンパーを脱いでプラスチックのハンガーに掛ける、というだけである。ジャンパーは欲しくてやっと手に入れたものだが、手にした途端、それは衣類というカテゴリーから離れて、原材料である牛という生き物に行き着く。牛がジャンパーになる過程では「屠殺」が不可欠だ。生き物の命を奪うという行為である。「屠殺する/男の手がある/のだと思いもしなかった」ということは、購入する際は思いもしなかったが今は実感しているということだ。話者は「鞣皮を/キッパリと脱ぎ捨てるそこに/仄白い/首が出ている」と、屠殺された牛同様の自身の命の無防備さを感じる。ついさっきまで何とも思わないでジャンパーを着ていた自分が、今度は牛を屠殺した男になり代わり、無防備な自分を殺しに来る場面を夢想し、更にその夢想の中に「女」が現れる。その直前に「妻はいてくれたのか」の一行があり、誰かは知らない架空の「女」であることがわかる。
クリーム色のコートを着ていた女は、帰宅して、話者同様コートをハンガーに掛ける。その何気ない行為には生活の鬱屈が詰まっている。話者は妻とともに床につくが、夢想の中の男女は鬱屈した生活を忘れようとするかのように激しい性行為に耽る。それは命を生み出すものだが、牛の屠殺のイメージが濃厚なため、むしろ命の危うさを印象づける。話者と妻は、性を知らなかった子供の頃に立ち戻り、その際どさに恐れおののく。
現実の場面としては、牛革のジャンパーを脱いでハンガーに掛け、妻とともに就寝する、というだけである。が、製品であるジャンパーが、元は牛を殺して作られたものであるという事実を強迫観念のように打ち出し、拡大することで、平穏な日常の裏に潜む危うさを見事に表現していく。部分を見ると、整合性の取れない不条理なイメージの連なりのように見えるが、全体を見ると、生命体である限り脆いものでしかない私たちの日常の危うさが象徴的に浮き上がってくる仕掛けになっている。

この飛躍の多い書き方は全編に渡っており、逐語的に意味を取りながら読もうとすると混乱する。言葉と現実が対応しているのでなく、言葉と言葉が対応した、「虚対虚」の空間を作っているのだとわかれば、一気に流れが掴める。

 

空0あした6時に起こしてくれるう
空0なんてゆう
空0起こして下さい は他人行儀だし
空0起こせ! は指導者風だし
空0すると起こしてくれるう、の
空0るう は水に溶ける
空0ルーさながらに聞こえるらしく
空0ホント ホントウに起きられるの とくる
空0ルーに 本当はきびしい
空0ルーは溶けてユラユラとただよい出す
空0頼りない 今までがそうだったから
空0ユラユラとホントウの関係は
空0不実なコトバ
空0とかを飼ってしまう
空白空白空白空白「朝のユラユラ」より

 

家族にモーニングコールを頼むという場面を描いているが、もちろんこの詩のテーマはそういう実用的なことではない。「くれるう」と伸ばした語尾の音を問題にしている。「るう」「ルー」「ユラユラ」といった、脱力的な語感に徹底的に拘り抜き、奇妙な論理の流れを作っていく。

 

空0不実 とかゆわれ いくどもいくども絶対と
空0石のようなモノをむりやり飲みくだしたので
空0男の喉はぐりぐり隆起しておまけに
空0ぐりぐりをふたつも袋に入れている
空0ユラユラの中に沈んだっきり
空0石のように重いモノは
空0なかなか起きあがれやしない それが
空0ユラユラと石のようなモノとの関係であって
空0少しいい訳がましい
空0とにかく起きてやんなきゃなんないって
空0決めたんだよ!ついまたいきむ

 

こんな調子で、ナンセンスな思いつきから無責任に比喩を作り出し、比喩のまた比喩、そのまた比喩というように、どこまでもつなげていく。時間が許せば永遠に続けられるだろう。発端は、人にモーニングコールをお願いする際のちょっとした遠慮の気持ちなのだが、元の現実のシーンからどんどん離れ、現実に帰着しないような、意味の空洞を堅固に造形していくのである。ここで作者が書きたかったものは、気分の浮遊そのものであろう。今さっき「現実のシーンからどんどん離れ」と書いたが、実用的なことから離れて気分がユラユラ浮遊していくという状態は、日常の中でよくあることである。つまり、作者は理性で把握しやすい現実から故意に離れることで、実は現実の中に存在する、理性では掴み難いある意識の様態を明確に描き出しているというわけなのである。

端的な言葉遊びの詩としては次のようなものがある。

 

空0

磨かれた鉄の唇を吸って

空0

丸太まぐわい毛深いまぐわい それでか

空0

「中村君は女の人のおとを犬か猫かにしか

空0

考えられないひとだからね」 その

空0

犬にも猫にもニンゲンの女性器を

空0

移植できないかと願っていたのだ

空0

肉欲の独裁

空0

にくのさかさが

空0

くにのさかさが

空0

じゅにく

空白空白空白空白「板の上」より(太字は原文ママ)

 

空0みみにじじじじい
空0みみにじじじじい
空0みみにせみがとんでいます
空0みみにきをうえます
空0ふゆのせみがふゆのきにとまります
空0じじじじじじいっと
空0ふゆのつちに
空0しもがおります 
空0うわっ しもうれしい うわっ
空0うれしいしもふんで
空0ぐさぐさぐさぐさぐさあっと
空0ふゆのせみをつかまえようって
空0こどもがかけてきます
空白空白空白空白「しもやけしもやけ!」より

 

どちらの詩も、どこへ行くのかわからない、不定形な言葉の流れが特徴的である。「板の上」では、人間の女性器を動物に移植するという、気味の悪い思いつきを連ねているが、ただただ言葉を弄んでいるだけで、背徳的な観念を深めようなどとはしていない。「しもやけしもやけ!」では、真冬の霜が下りる時季に蝉が現れるというナンセンスそのものの設定で、こちらもただ言葉を弄ぶだけだ。意味の上での展開は重要ではない。逆に、これらの詩では「言葉を弄ぶこと」自体が重要なテーマになっている。言葉は、意味としての発展はないが、流れとしてはどんどん発展していっている。空疎な思いつきがあるリズムをもって次々と流れ出る、ということは、そうした無為な心的状態を忠実に言語化しているということだ。訴えたい何かしらの観念があるわけではない。言いたいことは何もないが言葉だけは吐き出したい、そうした気分の表出である。これは、無意識の表出を試みたシュールリアリズムの自動記述とは全く異なるものだ。意識の深層が問題になっているのではなく、意識の表層が徹底的に問題にされている。つまり、夢のような奥の深い世界を探っているのではなく、意識は醒めきっているし足は地に着いている。ただ、膠着した日常に対する底の浅い苛立ち、反感といったものがある。そうしたものは誰もが日頃覚えるものであるが、ばかばかしいものとして、次の瞬間には頭を振って打ち捨てるのが常だろう。しかし、中村登はそうした「底の浅い」気分を丁寧に拾い集め、リズムを与えて可視化させる。どこへ行くかわからない不定形な流れだが、何となくそうなっているのではなく、言葉がある核を目指しているように見えないように、固まらないように、常に方向を分散させるやり方で言葉を制御した結果が、これなのである。意識の「底の浅さ」というものを言葉によって組織的に生成させた詩だということだ。

求心性を拒む書法は同時期のねじめ正一の詩にも見られるものでる。

 

空0朝、九時四十八分、シャッターひき上げるや秤見乍ら黒豆袋詰めす
空0す隣りの豆屋の長男におはようございますと挨拶し乍ら、また遅刻
空0時給五百四十円のアルバイト嬢待てずに店の前ざっと掃き、店先ひ
空0ろげる陳列台ひっくり返してはハス向いの阿佐谷パールセンター七
空0年連続商店会長いただく『神林仏具店』の旦那が張り切り弾んでき
空白空白空白空白「三百円」より 

 

この詩における「底の浅さ」の表現は中村登より遥かに徹底している。倫理主体としての作者を完全に排除し、日常における様々な事象を重みづけしないままに精密に描写し、ひたすら並列させていく。これは現実そのものの表現ではなく、現実を素材とした記号の表現と言うべきだろう。そして、冷たい記号の集積による「虚対虚」の表現の向こうから、現代社会に対するフラストレーションが透けて見える構図になっている。
それに対し、中村登は不透明な「個」を手放すことができなかった。

 

空0プラテンを叩く音が見えます
空0向かいの四階で
空0和文タイプライターを打っているのです
空0活字の一本一本はそれほど重くありませんが
空0ピシッとプラテンに用紙を巻いて
空0原稿をキャッチし
空0目指す活字を拾って打ちつけるのは
空0肩が凝ります
空0目が痛みます
空0刷られる前の活字は
空0三ミリ角ほどの鉛柱の頭に
空0逆さの姿で刻まれています
空0文字盤にはどれもこれも
空0見分けのつかない虫のように
空0ゴッソリと隠れています
空白空白空白空白「セコハンタイプライター」より

 

まずは和文タイプを打っている人がいる現実の情景があり、印刷会社に勤めている作者にはその作業がかなりきついものであることがわかる。作者はそこから不意に次のようなファンタジーを生じさせる。

 

空0さてプラテンの円筒に巻く用紙は
空0真っ白な一枚の空です
空0そこに鉛の活字をアームの先でツンとくわえ
空0白い空を満たしていきます
空0「私の目は鳥の空腹」と四階のタイピストは
空0くわえ上げていっては黒々と巣を
空0密にしていきます
空0眼下の野にゴッソリ隠れている虫のなかから
空0おいしい虫を
空0パクン パクパクパクン パクパクパクン と
空0次々に宙に飛び交い
空0その胎で虫たちの魂を転生させます

 

聞こえてくる音から存在を確かめられるだけの「四階のタイピスト」との、想像の中での暖かな触れ合いが描かれる。この暖かさはねじめ正一の詩にはないものだ。意識の表層を描いているうちに、ふっと表面を突き破って深みに嵌ってしまう。

 

空0整然と並んだ鉛の行列の頭をなでて思います
空0肉筆よりも活字を多く見てきて
空0見慣れて美しく感じます
空0見慣れ慣れる慣性は
空0感性をつくるのでしょうか
空0見慣れた手から見慣れた文字が書きつけられ
空0私の肉筆は左へ左へと曲がって右に向きを変え
空0そして左へと蛇行します
空0見慣れても少しも美しくありません
空0不思議なものです

 

手書きの文字よりも活字に美しさを感じると告白した後、作者は子供時代の純情な思い出を掘り起こし、手書きと活字、日常と詩の対比をもじもじとした態度で行う。

 

空0きれいに印刷された活字を手本にして
空0子供の私の手はかじかみました
空0それから肉親を恥ずべき物のように
空0思っていた頃
空0好きになったむこう町の少女とすれ違う時は
空0かじかんでさよならもいえませんでした
空0きれいに印刷された文字が
空0そのむこう町のかわいい少女というわけで
空0とりわけ美しく印刷された少女が
空0詩であるとき
空0肉親をもった私は
空0どうも固くなります

 
 
「セコハンタイプライター」は、現実の細かな描写から入り、言葉遊びを弄しながら、最後は極めて個人的で身体的な体験・感性に降りていくという詩である。全体として言葉を記号として扱い「虚対虚」の関係を構築していくスタイルを取りながら、部分的にそのスタイルに穴をあけ、綻びを作って、極めて個人的なナマな感情を露出させていく。この「破綻」が意図的なものなのか、図らずもそうなってしまったのか、それはわからない。いずれにせよ、中村登の「人の良さ」が滲み出た言語表現であり、そこに詩の魂を感じてしまう。

最後に巻末に置かれた短い詩を全行引用してみよう。

 

空0もしかして
空0そう思って
空0いやそんなことはない
空0と思いなおして
空0駅まで歩いているが今
空0器具せんつまみをひねった
空0という指を
空0渦を巻いてくる
空0人込みの中で探している

空0ないのである
空白空白空白空白「ガス栓」全行

 

出がけにガスの元栓を閉めたか閉め忘れたか不安になる。これに類する経験は誰しもあるだろう。中村登は、歩きながらつまみをひねった自分の指をもぞもぞ探すが、見つからない。自分探しは不首尾に終わってしまうわけである。前作『水剥ぎ』で行った「現実対比喩」の構造を超えた、「虚対虚」の詩を目指したものの、ついどうしても「虚」と「虚」の間に作者固有の現実を一枚挟み込んでしまう、そんな風に見える。「虚」と「実」がぐちゃっと混ざる瞬間がどの詩にもあり、その不透明感が、逆にこの詩集の魅力を形作っているのだ。元栓をひねる幻の指を探して右往左往する意識の運動が、言葉の運びに刻み込まれ、詩集の個性になっている。どこまでもナイーブな作者の人柄が言葉の構築の仕方に素直に表れていると言えるだろう。

 

 

 

Windowsの準備をしています

 

辻 和人

 
 

「Windowsの準備をしています、コンピューターの電源を切らないでください」
ぐぅるぐる
「Windowsの準備をしています、コンピューターの電源を切らないでください」
ぐぅるぐる

Windows10のアップデート
朝食後メールチェックでもするかって
パソコン立ち上げたらいきなり始まっちゃった
トイレ済ませてもぐぅるぐる
お風呂の掃除終えてもぐぅるぐる
やだねえ
イライラするねえ
せめてアップデートは手動でさせてくれないかな
自分でタイミング決められれば心構えができるのに
いきなりぐぅるぐるだもん

画面の人工青空で
ぐぅるぐる泳ぐ
白い点
OS様
利用者のいらいらを形にして見せてくれてんのか?
そりゃ良いサービスだこと
ぐぅるぐる
いぃらいら
OS様、OS様
「Windowsの準備をしています、コンピューターの電源を切らないでください」
まだ苦しまなければならないのですか?
コーヒーもう2杯目
手にしたカップがぶぅるぶる震えそう

おおっ、やっと終わった
1時間半
やっとOS様の許しが出ました
ありがたや、ありがたや
パスワードを入力して立ち上がるのを待つ

人工青空みるみる消えてく
のんびり風車にピンクの花畑に白い雲
いつもの美しげな人工田園風景が現れましたよ
え、うっちょー!
何だこれ
デスクトップに置いてたフォルダやファイルがきれいさっぱりなくなってる!
まずいよまずいよ
作業中のファイルもあったのに
ローカルディスク覗いても見つからない
バックアップ取ってないのにどうしよう
シャットダウンして立ち上げ直したけど結果は同じ
OS様、OS様
何とかしてっ
OS様はのんびり風車に白い雲をたなびかせるばかり

仕方ないのでパソコンのメーカーに電話
「アップデートの際に稀にですがディスクに損傷が出るケースがあるんですよ。
最悪の場合、専門の業者に相談しなければならなくなります。
ですが、その前にまず再起動かけてみましょう」
言われた通りに再起動
また人工青空に
白い点
ぐぅるぐる
すると、うっぷ
のんびり風車とピンクの花畑と白い雲の上に
消えたフォルダやファイルがきらきら蘇ってる!
「おおっ、復旧してます、これ、どういうことなんですか?」
「そうですか、良かったですね。
実は原因は私どもにもわからないんですよ。
アップデートはマイクロソフトがやってることなんで」
「でも、一度立ち上げ直したんですよ?」
「昔は不具合が出て立ち上げ直せば復旧するものは復旧したんですが
今はただ立ち上げ直すんじゃダメなんです。
再起動かけなければダメなんです。
理由は私どもにはわかりません。
その辺のことはマイクロソフトさんが握っていますから。
とにかく次からは
おかしいなと思ったら、ただシャットダウンするのでなく再起動かけて下さい。
それと、もしもの場合に備えてマメにバックアップ取るようにしておいて下さい」

OS様、OS様
御心がわかりません
なぜ勝手にアップデートが始まるのでしょう
なぜこんなに時間がかかるのでしょう
なぜシャットダウンでなくて再起動なのでしょう
なぜのんびり風車とピンクの花畑と白い雲なのでしょう
OS様は答えない
ようやくOUTLOOK起動して
新着メールチェックする目もうつろなぼくの頭の中で
蘇る
人工青空に
白い点
ぐぅるぐる
ぐぅるぐる

 

 

 

閉じこもってしまいたい でも/閉じこめられてしまえば/出たいと思う

中村登詩集『水剥ぎ』(魯人出版会 1982年)を読む

 

辻 和人

 
 

 

中村登(後年、古川ぼたると改称)の詩は、長い間私の関心の的であり続けている。私が大学に入って間もない頃、渋谷のぱろうるで第1詩集『水剥ぎ』を手に取り、即、購入したのだった。私は高校の時から現代詩に対する関心を抱き始めていたが、読んでいたのは既に実績のある年配の詩人の詩集ばかりで、若い詩人の作品はほとんだ読んだことがなかった。中村登(1951年生まれ)の詩を、私は「現代詩手帖」の広告で知ったのだったが、私(1964年生まれ)にとっては感覚的に共感するところが多く、店頭で立ち読みしてすぐ気に入ったのだった。以来、しばらくの間、枕元に置いて寝る前に必ずどれかの詩を読んでいた。更に、詩集『プラスチックハンガー』(1984年 一風堂)、『笑うカモノハシ』(1987年 さんが出版)を愛読し、彼が参加していた詩誌「ゴジラ」や「季刊パンティ」にも目を通した。まるで中村登のおっかけのようなものである。後に自分が詩作を始めてからも、彼の詩はいつも頭のどこかにひっかかっていた。彼ならどう書くだろう、と考えたりしていたのだ。「季刊パンティ」が終わった後、詩を余り書かなくなっていたが、2012年にさとう三千魚さんを通じてブログ「句楽詩」で詩作を再開したことを知り、嬉しく思った。
私は一度本人にお会いしたことがある。鈴木志郎康さんの講演の場で偶然一緒になった。穏やかな表情の快活な方という印象だった。お話ししたいことがあったが、用事があったので一言挨拶を交わしただけだった。その後、ネット上で少しやりとりをした。いつかゆっくりお話をしたいものだと思っていたが、2013年4月、急死されたと聞いて驚いた。脳出血とのことだった。もう新しい詩が読めないのかと思うと寂しい気持ちでいっぱいだが、残された作品を論じることはできる。

私は中村登の詩のどこがそんなに気に入っていたのか。彼の詩は、身の周りのことを書いた私詩的なものが多く、一般の目を引くドラマチックな題材などは一切扱わなかった。言葉の運びは巧みだったが、華麗な比喩を使うこともなければ抒情美でうっとりさせることもなかった。一見すると、ネクラな、ぱっとしない詩という印象を与えられる。
しかし、二十歳前の若者だった私は夢中になったのだった。読み込んでいくと、はらわたに浸み込むように、その真価がわかってくる。中村登の詩には、彼が生活の中で抱えた問題-金銭の問題とか人間関係の問題とか健康の問題とかいったテーマのはっきりした問題ではなく、もっともやもやした、個人的な問題-を正確に言葉にしようと苦闘する様が刻む込まれているのがわかってくるのである。

まず、冒頭に置かれた表題作「水剥ぎ」を全文引用してみよう。

 

空0水を一枚ずつ剥ぐ。
空0今宵の流れは何処へめぐるか。
空0乳白色に迫ってくる河は、
空0巨大な交尾に浮上する。
空0交尾に狂う河だ。
空0河が固い喉を裂いた。
空0ふるえを飲む。
空0泥を飲む。
空0関東ローム層のスカスカした暮らしの
空0腕がこわばる、
空0樹を飲む。
空0橋を飲む。
空0道路を飲む。
空0家を飲む。
空0自我へ渡る睡眠中枢を断ち、
空0喩に痩せた夢飲まず。
空0大陰唇押し広げ、
空0飲み下す舟の軸先が突き刺さる扁桃腺の浅瀬で、
空0否定項目が苛立ってくる。
空0ちくちくと畜生。
空0蓄膿する眼底に意味を流しては囚われるばかりだ。
空0青大将が鎌首もたげて顔色見てるな。
空0小水程の氾濫とみくびっていやがる。
空0煙立つ深夜の四畳半ギッと握り締め、
空0ずり足で河へ入る。
空0向う脛掬われ溺れそうだ。
空0家族を薙ぎ倒し、
空0記憶が胸元で濡れようと一瞥、
空0だが、明日は何処へちぎれるか解らぬ。
空0詩人奴が新しい喩を使う事件が不在だと嘆いている。
空0事件!
空0「何処にどんな気持ちのいい河があるんだ」

空0水剥ぎ、
空0交尾に狂う河を浮上させ、
空0幻想の瘡蓋剥ぐ。

 

荒れる河を前に昂揚した心情を歌い上げた、緊張感溢れる詩だ。畳みかけるような鋭角的なリズムが、凶暴化していく気分を描いている。「ふるえを飲む。/泥を飲む。」以下の「飲む」のリフレインが特に効いている。河は、様々なものを飲み込んでいくが、「自我へ渡る睡眠中枢を断ち、/喩に痩せた夢飲まず。」とあるので、自意識だけは飲んでくれない。逆に言えば、河が、自意識が裸で突っ立っている状態を作っているということだ。更にその後、「大陰唇押し広げ、/飲み下す舟の軸先が突き刺さる扁桃腺の浅瀬で、/否定項目が苛立ってくる。」とあり、性の営みも出てくるが、それは話者に豊かな官能をもたらすものではなく、むしろ苛立ちを掻き立てる。話者は「蓄膿する眼底に意味を流しては囚われるばかりだ」と物事に意味を求めるのを止め、「煙立つ深夜の四畳半ギッと握り締め、/ずり足で河へ入る。」と、たった一人で、荒れる自然の営みの中に入っていく。自分を支えてくれるはずの家族も「薙ぎ倒し」、過去も捨てる。自己表現の手段である詩でさえも、「詩人奴が新しい喩を使う事件が不在だと嘆いている。」と揶揄する。そして、「事件!/「何処にどんな気持ちのいい河があるんだ」と吠えるのである。
制度化されたものを一切拒否したい。が、事はそう簡単ではない。途中で「青大将が鎌首もたげて顔色見てるな。/小水程の氾濫とみくびっていやがる。」の2行がある。吠えながら、自分を縛ってくるものから逃れることはできない、と、心の底でわかっている。自由を希求するヒロイズムではなく、それが不可能なことの憂鬱が語られた作品なのだ。

鈴木志郎康はこの詩集の跋文の中で「詩集の頁をめくって行くうちに、ひとつの歩調を持って、水から離れて乾いて行くという経路を辿っているのである。『渇水』して乾いて行くのであるから、息苦しくなってしまうのだ」と述べている。では、序詩と言える表題作の後、どう「渇水」していくかを見てみよう。

詩集の始めの方は釣りのことを書いた詩が多い。中村登は子供の頃から河で釣りを楽しんでいたようだ。「切りつめズボン少年の夏は河口へ」は、少年時の作者と思われる人物が自転車を河口へ走らせるが、河口は赤潮に満ちていてお目当てのハゼは釣れず、また自転車に乗って引き返すという詩である。

 

空0飛白肩手ぬぐい貼り当て軒先に立つのを
空0ひしゃく振り祖父が
空0水打散らす
空0ボクら弟前に押し
空0コジキコジキ囃子
空0イッチャンニット黄歯頬かぶり笑い
空0コウチキローサンのバケツブリキに
空0味噌ムスビころげころげ
空0“稲が燃えるぞ アッハッハー
空白梨が燃えるぞ アッハッハー“

 

少年時代の作者は近所の人たちと親しくつきあっていたことがうかがえる。釣りはそれをすること自体楽しいが、社交の場としても機能していたようだ。同年代のイッチャン、大人のコウチキローサン、祖父も近所に住んでいる。そしてみんな一緒に釣りを楽しんでいた。中村登が少年時代を過ごした1960年代の埼玉の農村では、関係の密な地域共同体が生きていたのだろう。ゲームセンターもなく映画館もない、そんな中で、釣りは地域のみんなを結びつける貴重な娯楽だったのではないかと思われる。
釣りは潤いのある共同体を映し出す鏡のような存在だったが、中村登が成人する頃には様子が変わってくる

 

空0あぎとに突然
空0一条の水が突き刺さった
空0喉を引かれるままに
空0膜を破り見た
空0俺のような死体が
空0草のなかで
空0乾いた鱗が反りかえっていた
空白空白空白空白「魚族」より

 

空0青草を敷いて
空0闇に竿先を見つめる
空0失職の夜は
空0針ほどの目に暗くて
空0頼りたかった
空0河を渡る電車の窓光
空0旋回する飛行機の尾灯や建物の明りが
空0赤い腫れもののように
空0浮きあがる
空白空白空白空白「夜釣りの唄」より

 

釣りはみんなでわいわい楽しむものから一人でするものに変わっている。ここでの釣りは、「乾いた」自分を見つめる、孤独との対峙の場である。埼玉の農村も郊外の波が押し寄せてきたのだろうか。

 

空0逃げてゆく
空0逃げてゆこうとする魚が私を
空0引っ張る
空0たまらず竿を立てる
空0一日中釣りのことで毎日を過ごしたい
空白空白空白空白「釣魚迷(つりきちがい)」より

 

ここでの作者は、「切りつめズボン少年」だった頃とは全くの別人になっている。周囲との関係を絶って、逃げてゆくものをひとすら追いかける、という行為の中に自分を閉ざしているのである。

作者は結婚し、家族を持つが、そこでも安らぐことはできない。

 

空0娘が陽を溜めた
空0赤茶が
空0トウモロコシは泡の中
空0からんでる
空0私だけが浮き上がる
空0ドラム缶に転げる
空0200㎏に軋んだ
空0工場の爪は
空0髪にすすがれ
空0鮮やかになる隙間で
空0浴場
空0と限り掴む
空白空白空白空白「湯上りに娘の耳を」より

 

作者は風呂からあがって幼い娘に優しく向き合うが、工場での無機的な労働の記憶が消えず、自分が周囲から浮き上がっているように感じてしまう。

 

空0ムカデが妻を誘っていた
空0子供らが傍で関節を折っていた
空0男の子の手にハシが突き刺さっていた
空0女の子の胸にキキがララと笑っていた
空0妻は息を殺して這っていた
空0全足が喚起する苦しげな腹でムカデは
空0妻を包み込むように身をよじった
空白空白空白空白「妻の病」より

 

家の中にムカデが這い出て緊張が走る光景と妻との性行為がダブルイメージで描かれている。駆除すべき虫が、夫である自分に成り代わって、妻と交合する。最も親密なエロスの場からも爪はじきされた気分なのだ。或いは、夫であり父である自分が、家族によって駆除される存在のように感じられてしまうのか。

この状況は、テレビがまだ普及しきれていない時代のことを書いた「夜の荷台」という詩と好対照をなす。「(町の最初のテレビが八時になろうとしていた。昼のうち道路の砂利を新しくしていた父が慌てて夕飯を喰う)」という前ふりで始まるこの詩は、

 

空0頭の上にうなっている
空0時間ではなくいつも蠅が(トオサン百姓)
空0季節が首を吊ったまま(ボク子供のノブ)
空0目の裏に鮮やかな
空0呼び戻す胃で
空0上等兵が杓文字で殴る
空白空白(頬につくわずかな飯粒がうれしかっ
空白空白空0たってトウサンが言うのを聞いたし、菊と宝刀
空白空白空0があるとも、その腰)

 

父と子が一体となって町に一台しかないテレビにかぶりついている様子が描かれている。父は農作業の傍らに土木工事に従事し、家族を養っていたようだ。父は戦争の記憶が鮮烈であり、その記憶は戦争を舞台としたドラマを通じて子に継がれている。釣りと同じくテレビも皆で楽しむものだった。親子の間で記憶の断絶はない。
しかし、農業で食べられていた時代はどうやら父の代までで、作者が成人する頃には農業が衰退してしまったのだろう、作者は工場で働く他なくなる。

 

空0赤い顔料が渦巻く
空0言葉を熱く頭にめぐらす粒子が
空0こすれて発熱する
空0熱を溜める体に
空0顔料が流動する工場は
空0言葉が言葉をもっている言葉は連れて行く
空白空白空白空白「熱い継ぎ目」より

 

単調な作業の繰り返しの中で、人との接触を絶たれて行き場を失った言葉が、独り言のように頭の中で生まれては消えていく。労働疎外とは、こうした感覚が麻痺した状態を指すのであろう。

次に全文引用する「防爆構造」は、本詩集で最も完成度の高い作品と思われるが、当時の作者の切迫した心情を描いている。

 

空0工場の朝へ
空0足が溜る
空0吹き出す
空0口を
空0防爆に
空0モーターの
空0螺子込み垂れ籠み
空0きっちりと
空0火花を摘んである
空0時折り 爪が
空0蓋に咬まれつぶれる
空0死血が溜る
空0排卵の月は筋めく股
空0妻かって?
空0餅切り
空0くっつかないように
空0片栗粉まぶし
空0餡子も熱いうち金時と
空0塞いでしまう
空0伝説の四天王では詰まらない
空0容器をまちがえたか
空0詰め物がちがうか
空0凝ってくる
空0影に引かれて
空0蝙蝠
空0こんもり夜が
空0帰ってきた玄関で腰に
空0警棒が
空0たかっている
空0腐りものを探しているのだ
空0発酵寸前の
空0いい匂いがするのだ
空0チューブ巻きあげ
空0ハンバーグがにょっきり出たりするので
空0肛門開きのぞき込む
空0台帳のナカムラさんですか
空0と丁寧に念入りな箪笥抽斗押入鴨居
空0やがて
空0性交の数まで根堀り葉堀り長さ太さに穴の深さを
空0手帳する
空0それではアレもあるだろう
空0もちろんアレもあります
空0まだぬくといアレだぞ
空0ハイハイそうです
空0ぶっくりふくれる
空0子宮です

 

ねじめ正一はこの詩に対し、「防爆構造とは、一つ間違えば爆発する構造に他ならない。いや、もっと言えば爆発が不可避だからこそ防爆構造なのである」と述べている。まさにその通りだろう。勤務先で監視されながらふらふらになるまで酷使され疲弊した作者は、家に帰っても「監視されている」という感覚が消えない。夫婦の営みとその結果としての妻の妊娠は、普通なら潤いに満ちた愛を示すが、そうした最も親密な行為さえも「監視されている」という感覚を伴ってしまう。性行為は体を重ねて求めあう濃密な行為だが、唐突に出てくる「ハンバーグ」という言葉は、そこから愛する者同士のコミュニケーションという本質的な要素を抜き去って、行為の物理的な生々しさだけを強調する。「警棒」が家庭内に侵入し、行為から意味を除去し、即物的に記録していくのだ。その不快さに対し、我慢に我慢を重ねている、それが「防爆構造」なのである。
「防爆構造」を抱え込んだ意識は

 

空0私は思うこともなく煙草に火をつけていると
空0扉の把手の金属の内側に
空0閉じこもってしまいたい でも
空0閉じこめられてしまえば
空0出たいと思う
空白空白空白空白「便所に夕陽が射す」より

 

のように、自分が何をしたいのかわからない、ふらふらした「モノ」のような様態となる。このふらふらと行先の定まらない意識は、様々な奇怪な幻想を紡ぎ出すようになる。

 

空0あぶな坂の夕陽の辺りに
空0乳首が上下している
空0髪をすきにくるあなたは
空0南風に
空0ケガをしたのですか?カアサン
空0妻の股から今し方あなたの
空0首が降りて来ました
空0その首を吊り下げて
空0坂の中腹にさしかかると
空0飛んで刺しにくる 初めは
空0アルコールでスッと拭きました
 空白空白空白空白「私の声が聞こえますか」より

 

空0壁を剥ぐ
空0妻の股には傷口が深くえぐられ赤い内面に
空0血液がしたたる
空0倒れた妻を抱き血液をなめいとおしむ脳の
空0空地に土砂降りの雨が溢れ
空0沼をかきむしるその手に
空0缶カラッ、看板、破けた
空白空白空白空白「夜の空地」より

詩集の後半では、性的なモチーフから、非現実的で不気味なイメージを引き出す局面がたびたび出てくる。妻は魔女のように極端にモノ化されて表現される。こうした対象のモノ化は、生活に疲れ切って荒んだ作者自身の意識の表出であろう。

 

空0妻と子供らが帰ってこない
空0熱い夜は窓を開けて寝る
空0風のなかではぴらぴらと少しも
空0位置がはっきりしないそれが
空0家庭の本質、とつい絵の中のコウモリが
空0監獄の天窓めがけて飛び立つ夢を描く
空0夢が描けない俺は
空0未決の留置場で朝ごとにバスが来る
空0なんでも吐いてしまいな
空0と言われても
空0ただの酔っぱらいの俺に何が吐ける?
空白空白空白空白「風に眠る」より

 

妻が子供を連れて実家に帰ったのだろう。もしかしたら夫婦の間で何か揉め事があったのかもしれない。作者は深酒し、家庭というものについて改めて考えるが、答えを出せないまま吐き気に苦しむ。架けてある絵にはコウモリが描かれており、それは空想の中で、こともあろうに「監獄の天窓」に向かって飛ぶ。しかも作者は監獄に入るという、どん底ではあるが決然とした運命には行き着かず、「留置場」という中途半端な場所で生殺しに近い状態に置かれる。吐きたくても吐けない、という状況設定に作者の心境が窺える。

 

空0妻と行く先々の話を
空0今から話した
空0子供は六歳の雪江と三歳の秋則で私は妻より
空0二年遅れて死ぬ
空0死ぬ日から数えて
空0今はいつなのか
空白空白空白空白「大嵐のあった晩」より

 
 
この詩を書いた時中村登は30歳になっていないのだ。まだ若い作者がこんなことを思いつくのは、未来に希望を見い出せないからではないか。かけがえのない生きる時間というものも、一種の「モノ」として捉えている。土から引き剥がされ水から引き剥がされ、それでも一家の大黒柱として、家族を養うために過酷な労働に従事することをやめられない。その苦い認識が作者を人生の行き止まり地点に連れていくのだろう。

 

空0粗方の荷物は昼のうちになかに運び込んだ
空0傷つくのを気づかってくれた
空0大きなものは重い重いと言いながらも
空0置き場が見えていた
空0タンスとか冷蔵庫とか父とか母とかは
空0弟や義兄が手伝って家に帰った後夜になった
空白空白空白空白「引っ越した後で」より

 

「タンス」「冷蔵庫」と、「父」「母」が、「モノ」として同じ比重で扱われている。「切りつめズボン少年の夏は河口へ」で描かれた暖かな人間関係と何と異なることか。作者は、家族を、淡々とした筆致でもって、とことん突き放して描いている。心を故意に、虚ろで鈍感な状態にしているように見える。
その虚ろな心的状態は「漏水」という詩で端的に描かれる。

 

空0目が割れている 何処の
空0家庭の蛇口も深夜には
空0閉じられる
空0水圧があがる 見えないが
空0内部が磨滅しているのだろう 隙間から
空0水がもれている

空0私に隠して
空0感情の接点をむすんでいる
空0妻の背中で
空0漏れた水が流れ込む その底に
空0闇水が眠っている

 

「防爆構造」の緩みを、蛇口から水が漏れる場面に即し、外側から内側から、精密に描出していく。目に見えないところで、摩耗し、漏れていくものがある。それは確かに感じられる。しかし、何が摩耗し何が漏れるのか、作者自身にもはっきりと説明することができない。はっきり説明できないもどかしさと不安を、詩の言葉でなら克明に表現できる。中村登を詩に向かわしめる動機は、ここにある。

社会的な面で、中村登の詩を巡るポイントは二つあると思う。一つは都市化・郊外化の流れで、住民の関係が密な村落共同体が壊れていき、個人がバラバラな状態に向かっていったということ。釣りは、みんなでわいわい楽しむのが常であったが、それが孤独を見つめる行為と変化した。テレビも同様である。少年時代が幸福であっただけに、その変化はひとしお不自然なものに感じられたであろう。郊外化を推し進めたのは、高度成長の副作用と言える農業の衰退であり、若者は土を離れて工業に従事せざるを得ない状態となった。働く者の判断で仕事を進めることのできた農業と違い、工場では労働を徹底的に管理され、人間性を剥ぎ取られたような扱いを受ける。労働に対する疎外の感覚が生まれるということだ。
もう一つはジェンダーの問題である。中村登は20代で結婚し、父親となった。保守的な地域において、男性が家庭を持つということは、家の長として家族を養う責務を追うということになる。性的役割分担制は、しばしば女性の自由と権利を侵害するが、男性の場合でもそうである。どんなに辛くとも対面を保つために金を稼ぎ続けなければならない。都市化のために、自分の裁量で事を進められる自営的な仕事が立ち行かなくなり、資本によって雇用され稼ぐしかなくなった時、人間性を侵す残酷な扱いを甘受しなければならない。しかも、形の上で女性を支配する側として立つ男性の場合、その辛さを口に出すことは世間的に許されないのである。男性の過労死・自殺が多いのはそうした理由によることが多い。
その点で言えば、中村登の詩は、「女性詩」として括られていた同時代の詩との親和性が高いように思うのである。

 

空0あんたがもってきた時計のおかげであたしは
空0キャベツの千切りの速度が決められた
空0その気づくはずがなかった慣習という
空0単純な不幸のために
空0あたしはあんた好みに重くなっていく
空0寝ているあたしを隅においやり
空0家具と並べてながめ
空0なじめていない丸い部分を削りとる
空白空白空白空白白石公子「家庭」より

 

空0穴であると感じた
空0私は、自分を穴でしかないと感じた
空0そういうふうに私が抱く特権が
空0今のあなたには与えられているということか
空0ただし、穴には感情がない
空0私はどうでもよくなった
空白空白空白空白榊原淳子「飼い殺し2」より

 

この二人の詩人は、女性として受けた抑圧を、赤裸々にうたいあげている。心の抑鬱を、自らの性や身体の在り方に即して、読者に直接語りかけていくのだ。その語りの激しさに心を打たれないではいられない。常に個人の身体感覚を基点に言葉を繰り出す点において、中村登の詩は二人の女性の詩人の詩と酷似している。「女性詩」とは、女性が書いた詩のことなどではなく、女性の書き手が多いことはあったにしても、固有の性と身体から出発し常にそこを基調とする詩を指すのではないだろうか。であれば、中村登の詩も「女性詩」の範疇に入るように思うのである。
但し、白石公子、榊原淳子という二人の詩人がどちらも、被抑圧者として抑圧者を「告発する」という姿勢を露わにしているのに対し、中村登の方は姿勢がすっきりせず、もごもご内向している感じである。この「もごもご感」は、家父長として「抑圧する側」に立たされているために、「告発」という形を取れないために表れる。男性のジェンダーを語ることの困難がここにある。そして中村登は、このすっきりしないもごもごした様態を、詩の言葉でもってできる限り正確に伝えようと、苦闘していると言える。

「閉じこもってしまいたい でも/閉じこめられてしまえば/出たいと思う」という詩句には中村登の詩の特質が凝縮して表れている。こういう苦しさがあるのでこうしたい、と事態を打開する道を模索するのでなく、打開の道などないと諦観した上で、閉じこもったり出たり、ふらふらしている。その逡巡ぶりは一人の男性が生きて苦しんでいる時間の伸縮そのものであり、詩を読み始めたばかりの私はそこに惹かれて夢中になったのだった。

 

 

 

人形の夢と目覚め

 

辻 和人

 
 

ソファ ミーソドシーソレ ドーミーーードシ
ラーファレドーシー ド(ソソファミー)ー

「お風呂が沸きました」

夕食後、食器片づけてテーブル拭いた直後

これね
ウチの給湯システムで
お風呂が沸いたのを知らせる合図のメロディー
家を建てて最初にお風呂使った時
「あ、聞いたことある」
でも曲名は思い出せず
だからどうってこともないのでほっぽっておいたんだけど
最近になってわかりました

友人ち訪ねたら8歳のユミちゃんがピアノ披露してくれたんだよね
わざわざ白リボン胸につけてくれちゃってさ
かわいくお辞儀までしてくれちゃってさ
手首がこくっと傾ぐと細い指先から
どこか聞き覚えのあるメロディーが次々流れる
つっかえることなく演奏は進み
ソファ ミーソドシーソレ
ああ、これこれ
ぼくもちっちゃい時弾いたんだった
しかもピアノの発表会で披露したんだった
終わってにこやかにお辞儀
パチパチパチ 上手上手
楽譜見せてもらう
テオドール・エステン作曲「人形の夢と目覚め」
これだ、これだ
懐かしいなあ

「ミヤミヤ、お風呂沸いたってさー」
キッチンもテーブルもきれいになったことだし
ミヤミヤがお風呂入っている間
ちょっとお姉さん型にバージョンアップしたユミちゃんをお招きして
7歳だったミニかずとんの発表会の様子を覗いてみましょう
ユミちゃんさん、どうぞよろしくお願いします
「こちらこそ、よろしくお願いします」

さて、ミニかずとん、紺のブレザーで紫のネクタイ締めてますね?
「まあまあでしょうか。おかあさんにやってもらったのかな。
歩き方がぎくしゃくしてカッコ悪いですね。
下ばかり見てないでもっと頭を上げた方がいいですね」
はい、今でもミヤミヤによく「頭上げっ」と言われます
椅子の調整が終わって演奏始まります
最初は人形が眠りにつくパート
ソーファ ミーファ ソーー ミーー
「うん、出だしは悪くないね。
左手の分散和音もしっかり弾けてる。
あ、腕が交差するトコちょっともたついたかも。
練習曲では腕が交差する場面あんまり出てこないから。
でも、お人形さんがだんだん眠たくなってくる雰囲気がよく出てると思います」
ありがとうございます
しっかし顔はのっぺり無表情だね
ユミちゃんさんみたいににこやかな感じは出せないのかな

次はいよいよ
ソファ ミーソドシーソレ ドーミーーードシ
ラーファレドーシー ド(ソソファミー)ー
「お風呂が沸きました」でおなじみ、人形が夢の中で遊ぶパートです 
や、さっきよりお目々尖がってるか
「テンポ速すぎるかな、アガッてるかな。
肘、開きすぎ。
どんどん速くなってる、速くなってる、
左手追いつけない、あーあ、はずしちゃった。
まあ、仕方ないですね。
遊んでれば転ぶこともありますよ。
まあ、お人形さん、はしゃぎすぎちゃったって考えれば
まあ、たいしたことないですよ」
おーっ、さすが
ユミちゃんさん、お姉さんですねえ
おっと、次のちょっと哀調を帯びたフレーズ
ミレ# ミーシレドーシラ シーミーーーミレ#
ミーシレドーレミ レ(ソレレドシー)ー
立ち直ってきたかな
「さっきちっちゃく深呼吸してましたよね。
落ち着きを取り戻した感じでなかなかいいんじゃない?」
はぁ、ありがとうございます
また「お風呂が沸きました」のフレーズに戻ってこのパート無事終了

ミドソッミドソッ シッレッレー
レシソッレシソッ ドッミッミー
ミドソッミドソッ シッレッレー
レシソッレシソッ ドッミッドッッ
人形が夢から覚めて動き出すパート、だけど
「うーん、さっきの失敗が尾を引いて
慎重すぎ、テンポ遅すぎ。
お人形さん、朝の体操するよって勢いの曲なのに
溌剌としてないなあ。
ミニかずとん君、男の子なのに打たれ弱すぎ」
ユミちゃんさん、「男の子なのに」なんて言ったら
ジェンダーバイアスかかってるって文句言われちゃいますよ
「平気平気、だってミニかずとん君が弾いてるの1971年なんでしょ?
この時代だったら平気ですよ」
そういう考え方もあるかあ
「でもまあ、安心して聴けるかな。
おっとりした曲になっちゃったけど
夢から覚めて二度寝するお人形さん、って考えれば、ね」
ミニかずとん、口を一文字に結んで
安全策を取る決意を露わにしているぞ
ミドソッミドソッ レシソッドッ
ミドソッミドソッ レシソッドッ
ドドーーッド ドーーー
終わりました
パチパチパチ
「とりあえずちゃんと弾けたよ。うまいうまい。
お疲れさまーっ」
ミニかずとん、ほっとした顔で椅子から降りて
両手を両脇にぴったりくっつけて
ぎこちなーくお辞儀
ぎくしゃくぎくしゃく
舞台の袖に退散
ユミちゃんさんもありがとうございました
「どういたしまして。楽しい演奏聴けて良かったです」
お世辞もお姉さんっぽいユミちゃんさんでした☆

ミニかずとん
思ったよりちっちゃかったな
思ったより緊張してたんだな
思ったより臆病だったんだな
かずとんが無駄遣いしなかったり出世しなかったりするのは
この頃からの思い切りの悪さからきてるんだな
大丈夫、そういう部分はさ
いつかミヤミヤっていう
決断力バツグンの女の人が現れて
しっかり補ってくれるからさ
そのままでいいんだよ
だいぶだいぶ未来の話になるけど
ぎくしゃくぎくしゃく
いいんだよ
「かずとーん、上がったからお風呂入ってーっ。
後でお風呂場で上着干すからハンガー2つ持ってきてーっ」
はぁーい
それじゃ、明日の晩もよろしくね

ソファ ミーソドシーソレ ドーミーーードシ
ラーファレドーシー ド(ソソファミー)ー

「お風呂が沸きました」

 

 

 

レドの年譜

 

辻 和人

 
 

2021年2月
掃除したし庭の水撒きしたし
ミヤミヤ出かけちゃったし
ふわぁーっ
何か意義あることしようと思います
そうだ、愛猫レドの一生
ざっくり書き出してみよう
もうすぐ一周忌だしね
紅茶でも飲みながらね

2008年5月
全身真っ黒な猫が当時住んでいた祐天寺のアパートに現れました
気まぐれにスルメ投げてやったら毎日来るようになりました
ミルクあげたりしました
クロと名づけました
部屋の前にちょこんと座っている姿が凛として美しかったです

2008年6月
しばらく姿を見せないなと思っていたら
クロが4匹の子猫を連れてきました
三毛と、ほとんど白でちょっと三毛のが2匹と、白に黒がちょっと混じった奴の計4匹
まとめて面倒見ることにしました
ファミ、レド、ソラ、シシと名づけました
レドは白に黒がちょっと混じったオス猫で他はメス猫でした
ミルクを盛った皿を置くと家族5匹が代わりばんこに首を突っ込んでいました

2008年11月
子猫たちが大きくなってきて遊びたがるようになりました
真夜中アパートの前に出て
原っぱのススキ引っこ抜いて猫じゃらし代わりに揺らすと
夢中で飛びついてきました
レドは本気になりやすくススキを握った指に噛みついてきたりしました
ちょっと血が出ました

2008年12月
一番なついているファミが部屋に入りたいそびりを見せ始めました
結局部屋に入れました
たちまち我が物顔で部屋の中を歩き回るようになりました
あれよあれよというまにレドもソラも入ってくるようになりました
シシは警戒心が強く部屋にも入らないし体を撫でさせてもくれませんでした
夜、大家さんの家の門の上で並んでぼくを待ち構えていました
鍵を開けるとみんなぼくより先に部屋の中に入っていきました
クロは子猫たちと別行動を取るようになりました

2009年1月
動物病院でファミに不妊手術を受けさせました

2009年2月
ソラ、シシ、クロに不妊手術を受けさせました

2009年3月
レドの手術も終わりました
まったりしていたメス猫たちと違い
唯一のオス猫レドは動物病院でやたらと神経質でした
エサも食べずおしっこもせず
お願いだから早く引き取りに来て下さいと言われました
庭に放すとぼくの目の前でおしっこしました
プレゼントしたマグロをモリモリ食べました

2009年5月
急にレドが姿を見せなくなりました
次いでクロが姿を見せなくなりました
周辺を毎日毎日探し回りましたが見つかりませんでした
猫嫌いの住民が捕獲した可能性があると思いました

2009年6月
伊勢原にいる両親に頼み込んでファミを飼ってもらうことにしました
早朝キャリーバッグに入れて電車で実家まで運びました
小田急線の中で鳴いて暴れて困りました
帰ったらソラとシシもいなくなっていました
ソラとシシに会うことは2度とありませんでした
その後ファミは1度脱走しましたが順調に実家に慣れていきました

2009年7月
クロがひょっこり戻ってきました
猫嫌いの住民が捕獲してどこかに放したけれど
老練なクロだけは土地勘があり戻って来れたのかもしれないと思いました
クロの面倒も見ていましたがそのうちどっかに行ってしまいました

2009年11月
相変わらず祐天寺の猫路地で夜な夜な猫たちを探し回っていたところ
あるマンションの駐車場でレドを発見しました
深夜
全くの偶然でした
光る目
闇を横切ってきゅっと止まりました
白、ちょっと黒の
ぼくもレドもしばらく動けませんでした
アパート周辺の猫嫌いの住民が捕まえてここに放したようです
そして猫好きの誰かがご飯の世話をして下さったようです
毛並みもつやつやしていましたが少し噛み傷がありました
ノラ猫同士で喧嘩をしていたようです
レドは小さい時から気性が荒かった
荒かった荒かった
アパートの庭に紛れ込んだ他のノラ猫を相手がギャンギャン鳴くまで追っかけた
飛びついてきたので抱き止めました
犬みたいにペロペロ舐めてきました
アパートに戻すと危ないのでついてきそうになるのを振り切って帰宅しました
それから毎晩おいしいものを持ってマンションの駐車場に会いに行きました
アパートに連れ戻すとまた怖い目に遭いそうでした
帰る時は腕を振り上げて威嚇しついて来ないようにしました

2009年12月
ある晩、レドは振り切っても振り切ってもついてきました
駐車場に戻れ、と脅すような仕草をしましたがだめでした
ああ、遂にアパートに来てしまいました
もう部屋には入れないようにしようと思いましたが
ベランダに回ってガラス戸に体を力いっぱい打ちつけ打ちつけ
大きな声で鳴きました
近所迷惑なので部屋に入れました
不安だった時の記憶からかやはり大きな声で鳴きました
近所迷惑で困り果てました
両親に相談しレドも実家で飼ってもらうことにしました
実家に着いて家に放すとファミが近づいてきました
ファミはレドのことをすっかり忘れておりました
威嚇しながらレドを追い回しました
歯をむき出してすっごい怖い顔でした
レドはすっかり脅えて逃げ回った挙句玄関の隙間に逃げ込みました
仕方がないので水とご飯を置いて祐天寺に帰りました
レドが隙間から出てきたので2階の部屋に入れて鍵をかけたとの連絡がありました

2010年1月
お正月にレドに会いました
かなり落ち着いていて特に母に懐いていました
父は怖がっていて懐いていませんでした
ぼくの顔を見ると飛びついてきました
膝に乗せて小一時間程も撫で撫でしました
トイレもちゃんとしてご飯も食べているとのことでした
部屋のドアは開けっ放しにされていました
撫でている最中、ファミが入ってきました
レドをじろっと睨んでレドのお皿のご飯をひと口食べていきました
母によるとファミはまだ威嚇するものの以前程ではないそうでした

2010年2月
レドとファミはだんだん仲が良くなってきました
レドはファミの跡をつけて慎重に頭や背中を舐めました
ご機嫌を取っているように見えました
でもファミはレドとすれ違いざま
鼻をパシッと猫パンチすることがありました
自分の方が先にこの家に来たからえらいんだぞと言っているように見えました
レドがやり返すことは一切ありませんでした

2010年3月
レドはファミとかなり仲良くなってきました
相変わらずファミの方が偉そうにしていましたが
プロレスごっこをすると体の大きいレドが勝ちました
2匹並んで冷蔵庫の上で眠りました
魚を焼くと匂いに興奮して冷蔵庫から飛び降りて母の膝にまとわりついたりしました
母は陶器の店を経営していて朝出かけると寂しそうでした
夜は母の布団の中で眠りました
父にも時々机の上でべたっと伏せの姿勢をしてマッサージをねだりました
安心したぼくは余り実家に寄らなくなりました
レドもファミもぼくに対して少しよそよそしくなっていきました

2021年2月
ちょっとトイレ休憩
パソコンの前にずっと座っていると腰を伸ばしたくなってきますね

2010年8月
レドが庭を通りがかった猫と喧嘩し左の長い牙を失いました
レドもファミもノラ猫だっただけに外に出たがりました
ガラス戸がちょっとでも開いていると隙間を狙って飛び出していきました
ファミは外に出ても1時間くらいで戻ってきましたが
レドは半日は帰ってきませんでした
帰ると甘えん坊で食いしん坊の家猫に戻りました
懐いている母の気を引きたくて
畳の上や台所でおしっこしたりしました
わざわざ母の目の前でおしっこしました
母は怒らず頭やお腹を撫でてやりました

2012年1月
婚約者のミヤコさんを連れて実家にお正月の挨拶に行きました
ミヤコさんはレドの口元にマグロを運んでご機嫌を取ろうとしました
レドはマグロを食べたそうでしたが最終的にはそっぽ向いてしまいました

2012年2月
かずとんことぼくはミヤミヤことミヤコさんと入籍しました
祐天寺のアパートを引き払い、レドとファミは故郷を喪失しました

2018年6月
母からレドが大けがをして大変なことになったとの連絡がありました
後ろ足を引きずっていて、おしっこをしないので病院に連れて行ったら
腰の骨が折れ脊髄を損傷していて治らないとのことでした
カテーテルを尿道に入れ排尿させてやらないとおしっこできないとのことでした
ベランダの戸の隙間から逃げて羽を伸ばした際に負傷したようでした
車は余り通らない場所だし猫が高いところから落ちてケガすることも考えにくく
近所の猫嫌いの誰かが棒のようなもので殴った可能性がありました
引退した父は猫の世話を自分のメインの仕事だと考え
毎日猫たちのおしっことうんちの回数を記録していたのですぐ気がつきました
父の手柄でした
猫を外へ逃がしてしまい悪かったと謝っていましたが
悪いのは父ではなくおしっこをしていないことに気づいたのは父の手柄でした
実家に飛んでいくと
レドはよたよたびっこひいて歩いていました
へこたれている様子はなく割と普通でした
食欲もあり夕食時には人間の食卓を熱心に覗いていました
しばらく毎日バスで動物病院に通って排尿してもらわないといけないということでした
やがて両親が動物病院で排尿介助を習いました
父が体を押さえてペニスを飛び出させる係
母が尿道にカテーテルを通しておしっこを取る係
だんだん慣れて1日2回おしっこを取ることができるようになりました
ぼくもやらせてもらいましたがうまくいきませんでした

2018年7月
レドは後ろ足に力がついてきてだんだん元気になってきました
自力で排尿はできませんが以前のように丸々した感じになってきました
でも腰の感覚がなくうんちは垂れ流しで
ポロポロ落とすのを拾って床をアルコールで消毒する毎日でした

2018年8月
偶然かもしれませんがレドがトイレでうんちをしました
レド自身がものすごくびっくりしました
興奮して家じゅうを駆け回りました
レドがトイレでうんちをしたのはそれが最後でした
オムツを履かせることにしました
この頃にはレドは排尿介助を嫌がらずに受け入れるようになりました
終わるといい子いい子してあげていたので
かわいがってもらう機会と思っていたのかもしれません
ファミがその様子を見てちょっとやきもちを妬いていました

2018年9月
レドが動物病院への通院の帰りに逃げ出しました
キャリーバッグが開いてしまいIさんという方のお宅に隠れてしまいました
父母が呼びかけてもぼくが呼びかけても近づいてきません
膀胱が破裂したら死が待っているので気が気ではありませんでした
4日目の早朝、遂に母が倉庫の床下にいたレドの足を掴んで引っ張り上げました
母に抱っこされるとレドは急におとなしくなりました
動物病院に直行して手当てを受けました
家に帰るとファミがシャーッと軽く威嚇しました
レドは威嚇されても動じることはありませんでした
夜は何事もなかったようにご飯をねだり母の布団で眠りました

2018年10月
レドは血尿が出たりして腎臓が弱っていることがわかりました
ぼくは排尿介助に再チャレンジし遂にマスターしました

2019年10月
母が裏口の戸を開けた隙を突いてまたレドが脱走しました
家の周りをうろうろするだけで遠くに行く様子はありませんでした
心配したぼくはレドを捕獲しようとしましたができませんでした
父が戸をあけっぱなしにしていればそのうち家の中に入ってくるよと言いました
ぼくが引き上げた直後に家に入ってきました
これがレドの最後の外出になりました

2020年1月
実家に新年の挨拶に行きました
ぼくとミヤミヤの他、姪のAnjuとボーイフレンドが来ました
賑やかすぎたのかファミもレドも押し入れにこもってしまいました
押し入れに隠れたレドの首筋をたっぷり撫でてやりました
気持ち良さそうに喉をゴロゴロ鳴らしました
これが生きているレドとの最後の対面になりました

2020年2月
会社帰りの電車の中で母から電話がありました
レドが突然倒れて息をしていないとのことでした
夕食の食卓でいつものように椅子に上って人間のご飯をねだり
肉を2切れもらい、もっともっというそぶりをしていたところ
突然椅子から転げ落ちたとのことでした
動物病院の先生が夜にもかかわらず駆けつけてくれました
心臓麻痺で即死とのことでした
3日後、実家でレドのお葬式をしました
最後にレドに触りました
石のようでした
父と一緒に庭に穴を掘って埋めました
母は別れが辛いと葬式に立ち会いませんでした
ファミがベランダの窓ガラス越しに様子をじっと見つめていました
大好きだったホタテの缶詰と牛乳を土の上に振りかけました
フキを植えました
父は何か生えていた方が寂しくないだろうと言いました
目をつむって手を合わせました
帰ってから母に電話すると
10年も同じ布団で寝ていたから胸に穴が空いたようだと言いました
ファミはしばらくレドを探すようなそぶりを見せていました
何となく落ち着かず食も細ってしまいました
でもしばらくするとレドのいない状態に慣れて普段と変わらない様子になりました

2021年2月
はい、たった今レドの年譜を詩っぽく書いてみました
ふぁうーっ
カップの紅茶、ひと口しか飲まないまま冷めちゃった
紅茶は冷めたけど
レドの気配は温かい
フフッ、ぼくが生きているうちは、温かい
ミヤミヤまだ帰ってこないな
おーしまい

 

 

 

経験を抽象化した仮想のネットワーク
今井義行「空(ソラ)と ミルフィーユカツ」を読んで

 

辻 和人

 
 

2020年12月10日に「浜風文庫」で公開された今井義行の「空(ソラ)と ミルフィーユカツ」は、読み物として心を動かされると同時に、飛び抜けて斬新で明確なコンセプトを備えており、文学の教材としても使える詩のように感じたのだった。
おいしい「ミルフィーユカツ」を食べた話者が、店を出た後なぜか爽快な気分にならず、空が濁って見えてしまう。その理由を探るという詩。全行を引用しよう。

 

空0空(ソラ)と ミルフィーユカツ

空0ソラ、 サクッ 口元が ダンス、ダンス、ダンス!! 
空0ソラ、 サクッ 口元が ダンス、ダンス、ダンス!!
空0いい気分だったのに

空0ん?

空0ふと 見上げた空が 濁って見えてしまった
空0夕べ 飯島耕一さんの詩 「他人の空」を
空0久しぶりに 読み返した そのせい なのかなあ───

空0「他人の空」
空0鳥たちが帰って来た。
空0地の黒い割れ目をついばんだ。
空0見慣れない屋根の上を
空0上ったり下ったりした。
空0それは途方に暮れているように見えた。
空0空は石を食ったように頭をかかえている。
空0物思いにふけっている。
空0もう流れ出すこともなかったので、
空0血は空に
空0他人のようにめぐっている。

空0戦後 シュールの 1篇の詩
空0鳥たちは 還ってきた 兵士たちの ことだろう
空0途方に暮れている 彼らを受け止めて
空0空は 悩ましかったのかも しれない けれど──

空0そう 書かれても
空0わたしは 素敵なランチタイムの 後で
空0もっと さっぱりとした 青空を 見上げたかったよ
空0暗喩に されたりすると
空0地球の空が いじり 倒されてしまう 気がしてしまってね

空0わたしが 食事に行ったのは 豚カツチェーン店の 「松のや」

空0食券を買って 食べるお店は
空0味気ないと 思って いたけれど
空0味が良ければ 良いのだと 考えが変わった

空0そうして今 わたしを 魅了して やまないのは
空0「ミルフィーユカツ定食 580円・税込」
空0豚バラ肉の スライスを 何層にも 重ねて
空0柔らかく 揚げた とっても ジューシーで
空0アートのような メニューなんだ

空0食券を 買い求めた わたしの 指先は
空0とっても 高揚して ダンス、ダンス、ダンス!!

空0運ばれてきた ミルフィーユカツの 断面図
空0安価な素材の 豚バラ肉が 手間を掛けて 何層にも
空0重ねられてある ソラ、ソラ、ジューシー!!

空0運ばれてきた ミルフィーユカツを 一口 噛ると
空0ソラ、 サクッ 口元が ダンス、ダンス、ダンス!!
空0ソラ、 サクッ 口元が ダンス、ダンス、ダンス!!

空0そうそう
空0豚カツ屋さんには 必ず カツカレーが あるけれど
空0あれには 手を染めては いけないよ
空0カツカレーは 豚カツではなく カレーです

空0カレーの 強い風味が
空0豚カツの衣の 塩味を 殺してしまう
空01種の 「テロ」 だからです

空0ただでさえ 今 街は コロナ禍  なんだから

空0空を見上げながら 入店した わたし

空0ソラ、1種の 「テロ」は 即刻 メニューから
空0ソラ、駆逐すべき ものでしょう──

空0わたしが ミルフィーユカツを パクパク してる時
空0ある ミュージシャンが クスリで パク られた
空0という  ニュースを 知った
空0この世では 美味なものを パクパク するのは
空0ソラ、当然の こと でしょう──

空0鬼の首 捕ったような 態度の 警察は どうかしてる

空0トランスできる ものを パクパク するのは
空0ソラ、ニンゲンの しぜんな しんじつ
空0ソラ、攻める ような ことでは ないでしょう!?

空0わたしは ミルフィーユカツで トランスしたし、
空0ミュージシャンは クスリで トランスしたし、
空0飯島耕一さんの 時代には 暗喩で トランス 
空0できたんでしょう──

空0だから 「他人の空」も ソラ、輝けたのでしょう

空0鳥たちが帰って来た
空0──おお そうだ あいつらが帰ってきたんだ
空0空は石を食ったように頭をかかえている
空0──おお そうだ みんな頭かかえてた
空0血は空に
空0他人のようにめぐっている。
空0──おお そうだ 他人みたいな感触だったよ

空0わたしは 詩を書いている けれど
空0もう  滅多に 暗喩は  使わない

空0詩は 言葉の アートだけれど
空0今は いろいろな トランス・アイテムが あるから
空0敢えて 言葉で 迷路を造る
空0必要は そんなに 無いんじゃない かな

空0わたしは そう 思うんだ けれど──

空0平井商店街を歩いて しばらくすると
空0濁っていた空が 再び輝き出した

空0飯島さんにとってソラは暗喩
空0ミュージシャンにとってソラはクスリ

空0しかし、

空0カツカレーを駆逐して  ミルフィーユカツを パクパク した わたしにとって

空0ソラは、ソラで 問題 無いんじゃないかな!?
空0(引用終わり)

 

話者は前の日に飯島耕一の有名な詩「他人の空」を読んでいた。敗戦後の社会の気分を暗喩で表現した詩である。「空」は現実の空ではなく、当時の民衆の沈んだ気持ちを暗示している。「他人の空」は全行引用され、この詩に組み込まれる。一方、話者は食事中、ネットのニュースか何かで、あるミュージシャンがドラッグ所持の疑いで逮捕されたことを知る。

ここから話者は独自の考えを巡らす。飯島耕一は当時の民衆の漠然とした不安を掬い上げるために暗喩を使った詩を書いた。当時の読者は漠とした感情が喩によって的確に可視化されたことに驚き、その魅力に夢中になったことだろう。敗戦は当時の人々にとって共通の関心事だったろうから。「血は空に/他人のようにめぐっている」は、敗戦、そして帰還兵を巡る当時の人々の名づけようのない気持ちを見事に表現している。的確な比喩を発見した詩人の興奮、そしてそれを受け止める当時の人々の興奮を、話者は想像する。

一方、ミュージシャンの方はドラッグの摂取によって昂揚した気分になり、非現実的な世界で遊ぶことに夢中になった。違法ではあるが、彼が名づけようのない幸せな興奮を味わったことは間違いない。話者はそのこと自体は良かったこととし、むしろ逮捕した警察の方を咎めている。

話者自身と言えば、ミルフィーユカツに「アート」を見出すほど夢中になった。カツの風味を殺す「カツカレー」を退け、ひたすらそのおいしさを味わう。「安価な素材の 豚バラ肉が 手間を掛けて 何層にも/重ねられてある ソラ、ソラ、ジューシー!!」とくれば、読者も松のやのミルフィーユカツ定食を味わいたくなってくるに違いない。

ここで「ソラ」という概念が重要な役割を果たす。「ソラ」はもちろん頭の上に広がっている現実の空から抽出されたものだが、現実の空から離れて独り歩きする。人が夢中になる程大事なもの、快く興奮させてくれるもの、そうした意味合いが込められているが、それだけではない。濁りがない、ということが重要な要素となるのだ。それは、おいしいものを食べて、晴れ晴れした空の下を歩くはずが、なぜか濁った空の下を歩く羽目に陥ってしまったという、名づけようのない話者の身体感覚から出てきたものだ。つまり「ソラ」は、名づけようのないものであると同時に、話者の身体感覚に即した明確極まりない概念であるのだ。

この仮想の概念「ソラ」が、この詩に登場する者たちを結びつける。飯島耕一にとって社会全体の空気を象徴的に表現する暗喩が「ソラ」であり、ミュージシャンにとっては現実から逃避させてくれるクスリが「ソラ」である。そして話者は、ミルフィーユカツに代表される、自分を取り巻く日常を「パクパク」味わい尽くすことそのものが、自分にとっての「ソラ」なのだと宣言する。話者はいい気分になって、輝きを取り戻した現実の空の下を颯爽と歩き出す。何とも見事な展開。

作者が作り上げた「空」ならぬ仮想の「ソラ」は、本来無関係だったものたちを緊密に関係させ、話者の経験を抽象化した不思議なネットワークを、言葉の空間の中に明確に浮かび上がらせる。「固有」というものの複雑さを取りこぼさずに「公共化」する比喩。今井義行の、話者を巡る「固有の状況」から比喩を抽出するやり方は、「全体の状況」からざっくり比喩を作った飯島耕一の時代からの比喩の進化を、鮮やかに示しているのである。

 

 

 

任せてる委ねてる

 

辻 和人

 
 

柔らかい
柔らかいぞ
うぬ?
硬い
硬いぞ

どたっと
お願いしまーすっして
ぐたっと
はい、始めまーすっした
ミヤミヤとかずとん
夕食後に時々見られる光景
肩こりさんで首こりさんで腰こりさん
月に1,2回マッサージ受けに行くんだけど
それじゃ全然足りない
ミヤミヤからの強い要請により
かずとん、定期的にツボ押し施すことになりました
「違う、そうじゃない」っていろいろ手ほどきされて
今では立派なマッサージ師(?)です

人差し指で首の両側の凹んだところをチョン
ふっと沈ませて、次第に強く
あ、ここ、ここ
ここ、硬い
ここ、凝ってる
チョン、チョン
今度は肩
肩甲骨の周りを親指で探って
くうっと凹んだ一帯
ゆっくり押して
ここ
硬い
チョン、チョン
うつ伏せのミヤミヤ
かずとんの指の動きに体を任せて
うっとり顔
びくっともしない
満足してくれてるんだなあと思うと
かずとんも満足です

この間、ちょっくら実家に帰ったんだよね
足が弱くなってきた父が心配でね
亀谷本店の饅頭片手に伊勢原へ
父はまあ思ったより元気そうで安心した
コロナ禍の最中なんで20分くらいしかいなかったけど
そのうち5分はファミへのマッサージに費やしたんだよ
12歳のファミはどっしりしたおばさん猫になってて
もう高いところにも登らないし
ヒモを揺らしてもじゃれたりしない
でもマッサージはだぁい好きさ
よっこらしょっと抱え上げて膝の上でうつ伏せにすると
どたっと
ぐたっと
リラックスしてびくっとも動かない
任せてる委ねてる
最近ご無沙汰だけど
12年前から知っているかずとんの指
細い背骨に沿って柔らかい柔らかい皮膚の凹みに潜む
小さな小さな点のような硬さを
チョン、チョン、チョン
軽く刺激して
ほうら
うっとり顔だ

それじゃミヤミヤの方も背中やりますかね
ファミよりはがっしりした骨の両側には
肉の襞があって
柔らかい
柔らかいぞ
人差し指ゆっくり沈ませていくと
キュッ、硬い
硬いぞ
見つかった
チョン、チョン
ミヤミヤ、うっとり顔で
どたっと
ぐたっと
任せてる委ねてる

ファミはお尻の周りのマッサージも大好きでね
いつもは尻尾を触ると嫌そうな顔をするんだけど
マッサージする時だけは嫌がらない
お尻の周りの肉はちょっと厚いんで
尻尾の付け根のトコから
親指に力を集めて
ヂョーン、ヂョーン
硬い点見っけて
長押し、長押し、すると
ひょん、ひょおおん、って
軽く尻尾を左右に振って応える様が
かわいいんだよねえ

さて、ミヤミヤも腰やりますよ
座りっぱなしの仕事だから腰に負担がかかるんだよねえ
まず背骨と腰椎の間
凹んでるけど柔らかくはない
ここ、親指にぐいっと力を入れて
ファミだったら強すぎるって睨まれるかもだけど
硬い、硬い点あるぞって
グョーン、グョーン
長押し、長押し
ミヤミヤ人間だから痛がらない
どたっと
ぐたっと
ますます任せてる委ねてる
よし、じゃあ次は尾てい骨のちょっと下
柔らかく、はない
半球型に盛り上がった一帯
ギョン
硬い
ギョン
硬いぞ
力を込めても大丈夫
力を込めなきゃだめ
デスクチェアに座り続けて
パソコン打ったり電話かけたり
その間上半身の重みに耐え続けてきたんだ
硬い
硬いぞって
悲鳴あげてたんだ
かずとん、助けに参上
長押し、長押し
ギョーン、ギョーン
うっとり顔だ
効くねえ

そうだ、そうだ
レドを忘れちゃいけない
レドちゃんはねえ
ファミと違って尻尾の周りを触られるのが大好きで
撫でてるとごろっと寝転んでお腹出す
お腹をいっぱい撫で撫ですると目が細く細くなる
頃合い見てひっくり返して膝に乗せる
頭から尻尾まで一気に
グョーン、グョーン
何度も往復
ゴロゴロ、ゴロゴロ
喉鳴らす音、おっきいぞ
最早どこが硬いか柔らかいかわかんないけど
ちょっと乱暴なくらいのかずとんの指で
レドもうっとり顔

ありがとうございましたっして
どういたしましてっして
気持ち良かったよっして
またやるからねっして
ミヤミヤとかずとん
夕食後に時々見られる光景
まだうつ伏せで
余韻楽しんでる

そこに伊勢原からファミが加わる
フキの植わった庭の土の下からレドも加わる
かずとんの前で
ミヤミヤとファミとレド
並んで
どたっと
ぐたっと
任せてる委ねてる
困っちゃうな
働いたばっかのかずとんの指
でもでも
奉仕を待ってる3体のうつ伏せ
このままにしとくわけにはいかない
よし、もいっちょ
頑張らなきゃだな

 

 

 

生身の詩人の生身の現場

鈴木志郎康詩集『化石詩人は御免だぜ、でも言葉は。』(書肆山田)について

 

辻 和人

 
 

 

この詩集に収められた作品が書かれたのは、多摩美術大学を退職してからしばらくたち、足腰の調子が悪くなって車椅子を使うようになり、奥さんである麻理さんが難病に罹っていることが判明した頃である。物理的な行動半径がますます狭くなってきて、『ペチャブル詩人』の頃のように杖をついて電車に乗るということも簡単にはできなくなってきた。この状況の下で、社会との接点としての詩の存在は大きくならざるを得ない。志郎康さんは多くの詩集を刊行し、大きな賞も受賞した高名な詩人であるが、この局面においての詩への想いは、メディアの中で評価されたり話題にされたりすることによって満たされるものではない。身体の自由が効かなくなりつつあるこの局面において、詩を書くことは自己確認そのもの、詩を発表することは人間関係を築く行為そのものだからである。ハイブロウな芸術作品を世に送り出して評価を問う、などといったノンキな態度は問題外。「詩人」であることが、生活の上で何よりも切実な問題としてクローズアップされるのである。
ということで、この詩集では「詩人」であることの「宣言」が、これでもかとばかりのアクの強い身振りによって示されていく。
 

空0ホイチャッポ、
空0チャッポリ。
空0何が、
空0言葉で、
空0出てくるかなっす。
空0チャッポリ。
空0チャッポリ。

 
というふざけた調子で始まる「びっくり仰天、ありがとうっす。」は、今まで出してきた詩集の頁が全て白紙になってしまうというナンセンスな事態を書いた作品である。
 

空0五十三年前の、
空0たった一冊しかない、
空0俺の最初の詩集、
空0『新生都市』を
空0開いたら、
空0どのページも、
空0真っ白け。
空0すべてのページが
空0真っ白け。
空0慌てて、
空0次に
空0H氏賞を受賞した
空0『罐製同棲又は陥穽への逃走』を
空0開いたら、
空0これも、
空0すべてページが
空0真っ白け。
空0どんどん開いて、
空0二十六冊目の
空0去年だした
空0『どんどん詩を書いちゃえで詩を書いた』まで
空0開いて、
空0ぜーんぶ、
空0真っ白け。
空0チャッポリ、
空0チャッポリ。

 
注目すべきは、心血注いで制作してきた詩集群が「真っ白け」になってしまったことを、話者が面白がっていることである。「チャッポリ」というお囃子の掛け声のようなフレーズがそれを生き生きと伝えている。詩集は、メディアやアカデミズムから見れば、詩人の「業績」である。志郎康さんはその「業績」としての詩を全力で否定し、身軽になって好き放題に書くことを全力で喜んでいるようだ。
 

空0これこそ、
空0天啓。
空0活字喰い虫さん、
空0ありがとうっす。
空0また、
空0どんどん書きゃいいのよ。
空0チャッポリ。

 
「どんどん書きゃいい」というのは、詩が業績として化石化することを否定し、書きたい気持ちのままに書く「行為」に集中するぞという宣言であろう。この詩集のメッセージとなるものを直截打ち出した、潔い態度表明である。但し、現実はそううまく割り切れるわけではない。志郎康さんは周到にも、こう付け加えることを忘れない。
 

空0てなことは、
空0ないよねえ。
空0ホイポッチャ、
空0チャッポリ。

 
「へえ、詩って自己中なのね、バカ詩人さん。」は「ある男」と「その連れ合い」の会話の形を取った詩だが、過去を捨ててカッコつけず人目を気にせず書かれた詩はこんな風になるしかない。
 

空0ヘッ。
空0バカ詩人!
空0そっちじゃなくてこっちを持ってよ。
空0こっちのことを考えてね。
空0詩人でしょう、
空0あんた、
空0想像力を働かせなさい。 
空0バカ詩人ね。
空0男は答えた。
空0仕方ねえんだ。
空0書かれた言葉はみんな自己中、
空0言葉を書く人みんな自己中、
空0詩人は言葉を追ってみんな自己中心。
空0自己中から出られない。
空0自己中だから面白い、
空0朔太郎なんか超自己中だ。
空0光太郎も超自己中だ。

 
実は自己の望む言葉の形を突き詰めていくこと、つまり「自己中」に徹することは、至難の業なのだ。小説の言葉の多くは市場を前提とする。だから他人からのウケを気にしなければならない。しかし、詩の言葉は違う。詩の言葉は個としての生命体の心の生理的な欲求から生まれるものだ。市場でのウケを前提としない詩の言葉は、本来「自己中」に徹し、常識はずれな姿になったとしても、その姿をとことん先鋭化させるべきなのであるが、大抵の詩人は読者や仲間の詩人からの反応を気にして手が鈍ってしまう。この詩は、「連れ合い」と何かを運ぶような行為をしているシーンを描いている。「男」は不器用で、相手とのバランスをうまく取ることができない。それは生活の上ではマイナスポイントだが、詩作の上ではプラスに作用する。その逆転ぶりを志郎康さんは爽快な笑いで表現していくのだ。

「生身の詩人のわたしはびしょ濡れになり勝ちの生身をいつも乾かしたい気分」では、詩人であることが端的にテーマになっている。
 

空0詩を書けば詩人かよ。
空0ってやんでい。
空0広辞苑には
空0詩を作る人。詩に巧みな人。詩客。「吟遊詩人」②詩を解する人。
空0と出ている。」
空0ほらみろ、詩を作れば誰でも詩人になれるってことだ。
空0いや、いや、
空0ところがだね、
空0新明解国語辞典には、だね、
空0「詩作の上で余人には見られぬ優れた感覚と才能を持っている人。」
空0とあるぜ。
空0そしておまけに括弧付きで、
空0《広義では、既成のものの見方にとらわれずに直截チョクセツ的に、また鋭角的に物事を把握出来る魂の持主をも指す。例「この小説の作者は本質的に詩人であった」》
空0だってさ、魂だよ、魂。
空0危ない、
空0やんなちゃうね。

 
詩は才能のある特別な人のためにあるのではない、詩への道は誰にでも開かれている。表現の平等性が強調される。
 

空0定年退職して、
空0毎日、詩のことばかり考えてる
空0俺は、
空0正に詩人なんだ。
空0「余人には見られぬ優れた感覚と才能」なんてことは
空0どうでもよく、
空0詩を書いて生きてる、
空0生身の詩人なんだ。
空0生身の詩人を知らない奴が、
空0詩人は書物の中にしかいないと信じてる奴が、
空0新明解国語辞典の項目を書いたんだろうぜ。

 
ここで「生身」という言葉が出てくる。この詩のキーワードである。詩は文学全集に収められた文化遺産などではなく、生きている人のものだというのだ。
 

空0この現実じゃ
空0詩では稼げないでしょう。
空0作った詩を職人さんのように売れるってことがない。
空0他人さまと、つまり、世間と繋がれない。
空0ってことで、
空0生身の詩人は生身の詩人たちで寄り集まるってことになるんですね。
空0お互いの詩を読んで、質問したり、
空0がやがやと世間話をする。
空0批評なんかしない、感想はいいけど、
空0批評しちゃだめよ。
空0詩を書いてる気持ちを支え合う。
空0そこで、互いの友愛が生まれる。
空0詩を書いて友愛に生きる、
空0素晴らしいじゃない。

 
詩は、作品という表現の「結果」であるより、生きている人が、言葉を生きるという「行為」をしたことが重視される。そして、生きている詩人同士が言葉を生きた「行為」を受け止め合う「友愛」のすばらしさが説かれる。私自身も、志郎康さんを含めたこの「友愛」の場に何度も参加したが、それは夢のような楽しい時間だった。それは生きている人が生きていることを確かめ合う時間であり、表現が生身の人間のためのものであることを実感できた時間だった(ちなみに、その場は有志により今でも続けられている)。
 

空0生身が生の言葉で話し言い合うって、
空0気分が盛り上がりましたね。
空0これですよ。
空0生の言葉で盛り上がって、
空0熱が入って、
空0びしょ濡れの生身を乾かすってことですね。

 
「生きてるから/詩を書く。」と断言する志郎康さんは「詩を書くって定年後十年の詩人志郎康にとっちゃなんじゃらほい」で、生活と詩との関係を赤裸々に描く。こんな感じである。
 

空0毎週月曜日に、
空0ヘルパーさんはわたしのからだにシャワーの湯を浴びせてくれるっす。
空0一週間はたちまち過ぎて、
空0その間に、
空0わたしはいったい何をしていたのか、
空0思い出せないってことはないでしょう。
空0昨日は今日と同じことをしてたじゃんか。
空0ご飯食べてうんこして、
空0そのうんこがすんなりいかないっす。
空0気になりますんでざんすねえ。
空0うんこのために生きてるって、
空0まあまあ、それはそれ、
空0新聞読むのが楽しみ、
空0そしてあちこちのテレビの刑事物ドラマ見ちゃって、
空0でも、その「何を」が「何か」って、
空0つい、つい、反芻しちゃうんですねえ。

 
こうして排便がうまくいかないこと、ドラマを見るそばから筋を忘れてしまうこと、アメリカ大統領選挙の報道に接したこと、夜中に3回排尿すること、など生活の細々したことをリズミカルな調子で延々と綴った後、精神疾患に悩む詩人の今井義行さんの一編の詩を取り上げる。そこには、勤務時間に詩を書いていて自分は「給料泥棒」だったと書かれてあった。志郎康さんがFACEBOOKで「ところで、この詩作品は人の人生にとって「詩とは何か」という問いをはらんでいますね。」とコメントすると、今井さんは「わたしは詩作は、自分が楽しいだけでなく、他者の心を震わすこともあるという意味で、十分社会参加であると捉えていますので、他の分野も含めて、保護法があっても良いじゃない、とも思います」と返す。それに対する志郎康さんの考えは、
 

空0現在の詩作の意味合いと、
空0詩人の生き方をしっかりと、
空0返信してくれたんでざんすね。
空0パチンッ。
空0そういう考えもあるなあって、
空0思いましたでざんすが、
空0パチンッ。
空0パチンッ。
空0わたしは、
空0「詩人保護法」には反対って、
空0コメントしちゃいましたでざんす。
空0他人さんのことはいざ知らず、
空0わたしの詩を書くって遊びが、
空0国の保護になるなんざ、御免でざんす。

 
というもの。今井さんの考えは、障害に苦しむ自身の立場を詩によって社会の中に制度的に位置づけようとするものである。これは、病気によって社会との結びつきが細くなってしまった今井さにとって切実な問題である。志郎康さんはそのことをきちんと受け止めた上で、「誰にも邪魔されない一人遊び」としての詩作の行為の大切さを語るのだ。私は、このやりとりこそが「友愛」なのではないかと思う。「読んでくれる人がいれば、/めっけもん、」という志郎康さんは、生身から出て生身に受け渡される表現の経路に固執する。日常の瑣事を延々と綴ったのは、詩の営みも頑としてそうした生の営みの中にあることを印象づけるためであろう。その上で、個人が生きるということが、メタレベルにある何者かによって統制されることへの拒否を表明するのである。しかし、それでも詩人としての悩みはある。
 

空0詩を発表するところの、
空0さとう三千魚さんの
空0「浜風文庫」に甘えているんでざんす。
空0やばいんでざんす。
空0ホント、やばいんでざんす。

 
志郎康さんは詩を発表する媒体を、詩人のさとう三千魚さんのブログ「浜風文庫」に頼っている。他人が作った「制度」に依存しているということである。本来であれば自前の媒体も持ち、詩の「友愛」の場を広げるべきだが、その余裕がない。延々と日常を描写したり詩についての考えを述べたりしてきた志郎康さんは、ここにきて「やばい」という気分に陥ってしまった。そして驚くべきことに、詩の末尾でその不満をぶちまけ、尻切れトンボに詩を終わらせてしまうのである。
 

空0この詩を書いて、
空0読み返したら、
空0わたしゃ、
空0急激に不機嫌なったでざんす。
空0ケッ、ケ、ケ、ケ、ケ。
空0パチンッ、

 
このエンディングは、周到な計算によって仕組まれたものであろう。詩の末尾は読点であって句点ではない。想いにケリがつかず、詩が終わった後でも気分が継続していることを示す、その言葉の身振りをしっかり書き入れているのである。

詩は文学であり出版と関係が深い。詩にまつわる制度の最たるものと言えば、商業詩誌ということになるだろう。「心機一転っちゃあ、「現代日本詩集2016」をぜーんぶ読んだっちゃあでざんす。」は、「現代詩手帖」1月号の「現代日本詩集2016」を読んだ感想を詩にしたものである。今までは気になる詩人の詩を読むだけで、特集の詩を全部読むことはなかった。それを「心機一転」読んでみることにしたというのである。
 

空0心機一転ってっちゃあ。
空0そりゃ、まあ、どういうことでざんすか。
空0現代詩っちゃあ書かれてるっちゃあでざんすが、
空0選ばれたり選ばれなかったりっちゃあ、
空0こりゃまあ、こりゃまあ、でざんす、ざんす。
空0日本国にはどれくらいっちゃあ、
空0詩人がおりますっちゃあでざんすか。
空0ひと月前の「現代詩手帖」12月号っちゃあ、
空0「現代詩年鑑2016」とあってっちゃあ、
空0その「詩人住所録」っちゃあ、
空01ページ当たりおよそ44名ほどと数えてっちゃあざんす。
空0それが47ページっちゃあで、
空0おおよそ2068名くらいが登録されておりますっちゃあでざんす。
空0いや、いや、
空0もっと、もっと、
空0詩人と自覚している人は沢山いるはずっちゃあでざんすよ。
空0それに自覚してなくてもっちゃあ、
空0沢山の人が詩を書いているはずちゃあでざんすよ。

 
世の中には沢山の人が詩を書いているが、ここには雑誌が選んだ詩人の作品だけが載っている。当たり前のことであるが、詩人たちの間では、誰が選ばれて誰が落ちた、ということが気になるだろう。志郎康さんはそうしたことに着目するのは避けてきていたが、ここにきて制度の中で詩がどのように扱われているかをじっくり見てみようと思ったわけだ。それを志郎康さんは「心機一転」という言葉を使ってユーモラスに表現している。
 

空0「現代詩手帖」さんが、
空0今、活躍してるっちゃあ、
空0推奨する
空0数々の受賞歴のあるっちゃあ、
空048人の詩人さんっちゃあでざんすよね。
空0ざんす、ざんす。
空0つまりで、ざんすね。
空048人の詩人さんっちゃあ、
空0「現代日本詩集2016」っちゃあ、
空0まあ、今年の日本の詩人の代表ってことっちゃあでざんすね。
空0選ばれればっちゃあ、
空0名誉っちゃあ、
空0嬉しいっちゃあでざんす。
空0んっちゃあ、んっちゃあ、
空0ざんす、ざんす。
空0うふふ。
空0うふふ。
空0ハッハッハッ、ハッ。

 
志郎康さんは律儀にも、毎朝の4時に起きて作品を読み、SNSに感想を記した。
「11人のお爺さん詩人と2人のお婆さん詩人の詩を読んだ。皆さん老いを自覚しながら自己に向き合うか、またそれぞれの詩の書き方を守っておられるのだった。ここだけの話、ちょっと退屈ですね。」
「10人の初老のおじさんおばさん詩人の詩を読んだ。ふう、すげえー、今更ながら、書き言葉、書き言葉、これって現代文語ですね。」
「11人の中年のおじさんおばさん詩人の詩を読んだ。中年になって内に向かって自己の存在を確かめようとしているように感じた。複雑ですね。」
「11人の若手の詩人の詩を読んだ。自己の外の物が言葉に現われてきているという印象だが内面にも拘っているようだ。これで「現代日本詩集2016」の48人の詩人の詩を読んだことになる。まあ、通り一遍の読み方だが、書かれた言葉の多様なことに触れることはできた。今更ながら日常の言葉から遊離した言葉だなあと思ってしまった。」。
結構辛辣である。そして個々の詩人の作品についても記していく。
 

吉増剛造の詩については、

空0その誌面にびっくりっちゃあでざんすが、
空0吉増さんの感動が文字を超えていくっくっくっちゃあが、
空0言葉の高嶺っちゃあでざんすか、
空0ただただ驚くばかりっちゃあで、
空0真意っちゃあが、
空0解らなかったっちゃあでざんすねえ。
空0残念でざんす。
空0んっちゃあ、んっちゃあ
空0ざんす、ざんす。
空0うっ、ふう。

藤井貞和の詩については、

空0「短歌ではない、
空0自由詩ではない、
空0自由を、
空0動画に託して、
空0月しろの兎よ、」っちゃあ、
空0うさちゃんに呼びかけてっちゃあでざんすね。
空0何やら深刻なことを仰せになってるっちゃあでざんす。
空0そしてでざんすね。
空0「あかごなす魂か泣いてつぶたつ粟をいちごの夢としてさよならします。」っちゃあて、
空0終わっちまうっちゃあでざんすよ。
空0ウッウッウッ、ウッ。
空0ウッウッウッ、ウッ。
空0藤井貞和さんの魂がわかんないっちゃあでざんすねえ。
空0悔しいっちゃあでざんす。
空0んっちゃあ、んっちゃあ、
空0ざんす、ざんす、ざんす。

瀬尾育生の詩については、

空0今回の詩のタイトルっちゃあ、
空0「『何かもっと、ぜんぜん別の』もの」っちゃあ、
空0またまたあっしには通り一片で読んだだけっちゃあ、
空0何のことがかいてあるっちゃあ、
空0理解できないっちゃあ詩っちゃあでざんした。
空0繰り返し読んだっちゃあでざんす。
空0第一行からっちゃあ、
空0「薄れゆく記憶のなかで濃い色を帯びた瞬間を掘り出す金属の手当ては」っちゃあ、
空0何だっちゃあでざんす。
空0それからっちゃあ、
空0「バルコニーの日差しが斜めになるときは
空0その窓を開けておいて。滑るようにそこから入ってくる神の切片を/迎えるために。」
空0「神の切片」っちゃあ、
空0何だっちゃあ、
空0わからんっちゃあでざんす。

 
といった具合である。志郎康さんは詩を一行一行丁寧に読み込んでいくのだが、感想は総じて、文意が不明確で何を言わんとしているかがわからない、というもの。これは実は、一般の読書家がこれらの詩に対して抱く感想とほとんど同じであろう。むしろ一行一行を丁寧に読んで理解していこうとするからこそ、こうした感想が生じるのだ。現代詩には、日常的な言葉の使い方から離反した、文意の辿りにくい作品が多い。どこに行って何をしたという人間の具体的な行為ではなく、言葉の飛躍の間に暗示される、詩人の内面世界が重視される。その極度の抽象性は、詩人の内面は特別で崇高なものだとするヒロイズムの表れであり、ヒロイズムを共有する現代詩人同士の間では受け入れられるが、関係のない一般の人には理解不能なものになってしまっている、ということではないだろうか。つまり、「現代詩人」が「現代詩人」に向けて書いているのであって、「生身の人」が「生身の人」に向けて書いていない、ということ。そうした詩人の在り方が雑誌への掲載という形で制度化されることに対し、鋭い批判を放っている。その批判の仕方がまた、雑誌を読む具体的な行為に即し、対象となる詩人の実名を引きながら、「生身の人」として行っていくのが何とも痛快である。逆に言えば、曖昧に褒めたりせず、詩を一行一行丹念に読んだ上での理解を具体的に記すという点で、「生身の人」としての真摯な対応をしているとも言える。
この苛立ちは「俺っちは化石詩人になっちまったか。」において、
 

空0突然ですが、
空0俺っちは、
空0生きながらに、
空0詩人の化石になっちまってるのかね。
空0なんとかせにゃ。
空0チャカチャッ。
空0そういえば、
空0あの詩人は生きながらにして、
空0もう化石になっちまったね。
空0いや、
空0あの詩人も、
空0まだ若いのに、化石化してるぜ。
空0いや、
空0いや、
空0あの高名な詩人も
空0まだ生きてるけど、
空0既に化石詩人になっちまったよ。
空0俺っち、
空0バカ詩人やって、
空0なんとか、かんとか、
空0生きてるってわけさ。
空0チャカチャカ、
空0チャカチャカ、
空0チャっ。

 
と、リズミカルに「バカ詩人」をやることにより「化石詩人」を回避する決意に表れている。

この一個の生命体として「生きる」ことに対する意識の敏感さは、飼い猫の病気について書いた「ママニが病気になってあたふたと振り回される」によく出ている。ママニは元野良猫で、母親似だったためママニと名付けられたという。もう16歳で人間言えば80歳程の高齢になるが、ある日血を吐いて倒れ、餌を食べなくなってしまった。
 

空0水の器の前に来て、
空0考え込んでいて飲まない。
空0餌の器には見向きもしない。
空0飲まず食わずじゃ、
空0死んでしまう。
空0病院で教えてもらった
空0強制給餌だ。
空0麻理がママニを太股の上に抱いて、
空0わたしが前足と後ろ足を両手で抑えて、
空0麻理が注射器で、
空0こじ開けた口の中に
空0ペースト状の餌を注入する
空0ママニは
空0暴れて、
空0口を
空0ガクガクさせて、
空0餌を飲み込む。
空0これを繰り返して
空010ccを
空0食べさせるのがやっと。
空0やっと、やっと、やっと。
空0死なせたくないけど、
空0強制給餌は
空0辛い。

 
ママニの給餌の様子が精密に描写される。その時々の志郎康さんや麻理さんの心配が伝わってきて胸が痛くなってくる。
 

空0なるべく、
空0好きなものなら何でも
空0食べさせてください。
空0と言われて、
空0麻理は、
空0ママニが病気になる前から、
空0ミャオミャオ
空0と喜んで食べた、
空0おかか、
空0そのおかか入りのペースト状の餌を、
空0手のひらにのせて、
空0口元に近づけたら、
空0食べたんですよ。
空0そう、食べた。
空0カニカマボコも、
空0麻理が噛んで、
空0手のひらにのせると
空0どんどん食べる。
空0子持ちししゃも、
空0少し食べた。
空0水も
空0麻理の手のひらからなら
空0ちょっと舐める。
空0牛乳も
空0手のひらから
空030ccも
空0飲んだ。
空0おしっこもした。
空0そして、遂に、
空0十五日振り、
空0いや、十六日振りで、
空0ウンコをしたんだ。
空0これでなんとか、
空0ママニは
空0元気になれるか。

 
ここまで読んで、ああ良かったと、胸を撫でおらさない読者はいないだろう。この連における細かな行替えは、ママニの命を心配をする当事者が、ママニの一挙手一投足に注視する心の動きに即応している。生身が生身に向き合う真剣さが、言葉の形にぴくぴくと鮮明に表れているのだ。読者は生身の人間として、作者の生身の時間を共有する気持ちになれる。「化石詩人」にこうした詩は書けない。「バカ詩人」でなければできない仕事と言えるだろう。

『ペチャブル詩人』では退職後の孤独な時間を「空っぽ」な時間として積極的な意味づけをし、『どんどん詩を書いちゃえで詩を書いた』ではそんな「空っぽ」な時間での日常実践を活力溢れた筆致で描き、この『化石詩人は御免だぜ、でも言葉は。』では、とうとう生身の詩人が生の詩を書く現場を晒すところまできた。ここで言う「空っぽ」とは、空虚ということではない。個体が生きる自由で孤独な時間の持続のことを指している。生きているということは「空っぽ」を生み出し続けることに他ならず、詩を書くことは意義や評価に囚われない「空っぽ」の詩を書くことである。それは鈴木志郎康という個人にとって、「うんこ」をすることと同列の、生命体にとって必須の営みなのである。詩作をテーマにした詩はこれまでにもあったが、生身の生活の営みということに徹してこのテーマを描いた詩人は鈴木志郎康が初めてだろう。こうして見ると、志郎康さんの詩はある詩集から次の詩集へと、問題意識がきちんと受け渡され進展していることがわかる。そして次の『とがりんぼう、ウフフっちゃ。』では、この「空っぽ」の持続から生まれたダイナミックな「ナンセンス」の概念が、詩のテーマとしてクローズアップされることになるのである。

 

 

 

食っちゃおうか

 

辻 和人

 
 

2枚の柔らかな薄ピンクの皮膚
唇だ
そこに薄グレーの細長い奴
ぺろっと横たわる
夜中いびきかいたらお互いうるさいからね
それに喉乾燥して風邪ひきやすくなるからね
寝る時口にテープ貼ることにしない?
ミヤミヤが決めて、かずとんも実行した
呼吸苦しいかな
大丈夫
すーっ、鼻呼吸に移行
眠くなってきた

薄グレーの細長い奴
ぱっちり目覚める
2枚の薄ピンクの間で
伸び縮み伸び縮み
裏返りそうになって
キャッ、キャッ
いびき、食っちゃおうか
いびき、食っちゃおうよ
くっす、くっす
やがてやがて
とおーくでアラーム鳴る
ミヤミヤとかずとん
一緒に唇からテープ剥がし
よく眠れた?
眠れたよ
顔洗って
薄ピンク2枚ぱっちり活動始めると
屑籠の見えない底では
伸び縮み伸び縮み、はもうしないけど
キャッ、キャッ
くっす、くっす、くっす