突堤には

 

さとう三千魚

 
 

大風は
過ぎていった

日曜日
午後

海浜公園にいた

空は晴れ渡っていた

海浜公園の
堤防の

壁面のセメントの割れ目から白く

海水が
滲み出ている

十字のカタチに滲み出て
乾いている

沖の突堤には
テトラが覆いかぶさっていた

テトラの上には
カモメたちがいた

イソヒヨドリもいた

イソヒヨドリの雄は
青い鳥だ

春には玉の声で鳴く

雌は
首を傾げていた

突堤には

カモメたちがいる
イソヒヨドリもいる

イソヒヨドリの声を聴いたことがある

 

 

 

#poetry #no poetry,no life

sketch for summer

 

さとう三千魚

 
 

晴れた

今朝は
青空に西の山が浮かんでいるよ

きみは
いま

どこにいるの

夏が終わって
オリンピックの後で

durutti column の “sketch for summer” を聴いているよ

夏には
秋田の西瓜を食べたな

夏は終わって
巨峰を食べたよ

シャインマスカットも食べたよ
梨も食べた

水彩スケッチのきほんという本が届いた

秋には

浜辺の景色をスケッチして葉書を送るよ

秋には
きみに

 

 

 

#poetry #no poetry,no life

あきれて物も言えない 27

 

ピコ・大東洋ミランドラ

 
 


作画 ピコ・大東洋ミランドラ画伯

 
 

滝が落下していた

 

ここのところ絶句している。

ほとんど、
絶句している。

朝には窓を開けて西の山を見ている。

昨日の朝も、
窓を開けて西の山を見ていた。

絶句している。
6月の終わりに桑原正彦の死の知らせを聞いてから何も手につかない。

桑原とはこの疫病が終わったら神田の鶴亀でまた飲もうと思っていた。飲もうと約束もしていた。
もうあのはにかんで笑う桑原と会って話すことができない。

絶句している。

昨日の朝も、
窓を開けて西の山を見ていた。

それから松下育男さんの詩「遠賀川」と「六郷川」という詩を読んだ。
それらの詩は「コーヒーに砂糖は入れない」という今年18年ぶりに出版された松下育男さんの新しい詩集に入っていた。

それらの詩をわたしは既に読んでいてどこかわたしの川底のようなところに沈んでいたのだろう。
松下さんの詩は川底のような場所から語られた声だったろう。

そして、
窓の遠くに見えていた青緑の西の山に滝が流れ落ちるのが見えた。

幻影だった。
松下さんの詩を読んだことによる幻影だったのだと思う。

 
 

空0多摩川は下流になると六郷川と名を変えた

空0私が育ったのは六郷川のほとり

空0川は私たちの生活のすみずみを流れていた

空0日本人のふりをしていたが
空0私たちは実のところ川の人だった *

 
 

そう、松下育男さんは「六郷川」という詩で書いている。

わたしも川のほとり、雄物川という川の近くで生まれて育った。

子どものころ、
ただ、川を見に行くことがあった。
釣りをする人たちを後ろから見ていた。
夏休みには川で遊んでいた。
川に潜って川底を泳ぐ魚たちを横から見ていた。
川の人は魚の言葉がわかる人たちだろう。
声を出して話さないが魚たちにも言葉があるだろう。

西の山に真っ直ぐに落下する白い滝を見てわかったような気になった。

水は上から下に落ちるのだ。
それで川になる。
川は流れて海になる。
それからいつか海は空にひらかれる。

当たり前のことだ。そんなことが腑に落ちた気がした。

 

今日は日曜日だった。
雨の音がした。
朝から雨が降っていた。
西の山は灰色に霞んで頂は白い雲に隠れていた。

午後に雨はあがった。
姉から秋田こまちの新米が届いた。

高橋アキの弾く「Cheep Imitation」を聴いていた。
「Cheep Imitation」はサティの「ソクラテス」を題材としてジョン・ケージによって作曲されたという。
それはケージがサティに捧げた音たちだったろう。

 

そこに言葉はなかった。
そこに小さな光が見えた。

呆れてものも言えないが言わないわけにはいかないと思えてきた。

 
 

作画解説 さとう三千魚

 
 

* 松下育男 新詩集「コーヒーに砂糖は入れない」(思潮社)から引用させていただきました

 

 

 

光だった

 

さとう三千魚

 
 

今朝も
モコに起こされた

一度
3時に起こされて

おしっこに
連れていった

庭に降ろすと
モコは

暗闇にしゃがんで

した

それで
ベッドに戻って眠った

次は
6時だった

もう
外は明るかった

大風が過ぎて空は晴れわたっていた

洗濯機をまわした
録画してあった中村哲さん追悼のアフガンのドキュメンタリーを見た

「武器ではなく 命の水を」
というタイトルの映像だった

“彼らには分からぬ幸せと喜びが、地上にはある。” *
“乾いた大地で水を得て、歓喜する者の気持ちを我々は知っている。” *

中村哲さんの手記が
テロップで流されていた

“彼ら”

とは
アメリカや日本や連合国の人たちだったろう

“長い戦乱の後の干ばつで喰うものもない者たちの上に爆弾を降らせるのか”と中村哲さんは語っていた

午後には
RC寺田の息子さんに電話して

クルマの切れたテールランプを交換してもらった
古いクルマだからランプカバーを固定するボルトが錆びて固まっていた

息子さんはクルマの下に潜り込んで
汗と埃にまみれて

ランプを交換してくれた

帰って
夕方に

モコと
散歩にいった

西の山の上の群青の空に星が光っていた

金星だった

いつだったか
桑原正彦が電話で”光だ”と言っていた

光だった
光っていた

 

 

* NHKドキュメンタリー「武器ではなく 命の水を」から引用しました

 

 

 

#poetry #no poetry,no life

憶えていない

 

さとう三千魚

 
 

夕方に
帰った

帰って
冬里さんの詩

“なぜに泣かすか宗右衛門町よ”を
浜風文庫に上げた

“もらい泣きではなく死そのものをさびしく思う”

冬里さんは書いてた

それから
ビールを飲んだ

内緒で
缶ビールを飲んだ

モコが
見てた

平日は禁酒している
飲みだすとキリがないから

平日は
禁酒してる

それからメールを待ってた

こないから
ベッドに横になると眠ってた

夜中
目覚めると

横には

モコと
女が眠っていた

寝息がする

モコと
女の

寝息が
する

夢は見なかったのかな
憶えていない

最近
夢は

憶えていない

昨日のことは憶えている

日曜日の午後に
浜辺を

車で流した

曇り空の下のたいらな海を見ていた

 

 

 

#poetry #no poetry,no life

浜辺で会った

 

さとう三千魚

 
 

ここのところ
アレクセイ・リュビモフのピアノを聴いている

リュビモフの顔は

死んだ

義兄に
似てる

平均律クラヴィーア曲集の第一巻

前奏曲を
聴いてる

繰り返し
聴いてる

そこに

義兄がいて
兄がいる

母がいる
父がいる

中村登さんがいる
桑原正彦がいる

一昨日だったか


河口まで自転車で走った

河口にはサーファーたちが浮かんでいた
ノラたちがいた

空は曇ってた

海浜公園では
ヤマダさんに会った

ヤマダさんはサッカーの選手だった

いまは
育成の仕事をしているといった

義父が亡くなって
みんなで見送ったといった

よくしてもらった
といった

いまあるのはみんなのおかげだといった
感謝しかないといった

 

 

 

#poetry #no poetry,no life

夏休みが終わる

 

さとう三千魚

 
 

夏休みには
川で遊んでいた

近くの雄物川で
泳いでいた

釣りキチ三平の川だった

水底に水草が揺れて
魚たち

水流に逆らって
泳いでた

群れて
泳いでいた

横に並んで
腰を振って

泳いだ

毎日
川で泳いでいた

毎日
川で遊んだ

川には
魚がいた

川には
死体もいた

魚や鳥や猫や犬や豚や

その死体
その骨

流木や小枝や洗剤容器や捨てられた平凡パンチや

たくさん
流れ着いた

夏休みが終わるころ
いつも

空を見上げていた
青空を見上げていた

昨日の朝
河口まで自転車で走った

河口にはサーファーたちが浮かんでいた

浮かんでいた
波を待っていた

 

 

 

#poetry #no poetry,no life

cheap imitation

 

さとう三千魚

 
 

今朝

西の山は群青色です

天辺は

空につづく
薄い雲に隠れている

天辺では
霧の中

ゆりの花も
濡れて

霧は風に流されているだろう

高橋アキの
“cheap imitation” を聴いてる

部屋の

窓を
あけている

子どもの時に見た

空の雲たち
空には小鳥たちが囀っていた

小鳥たち

おもちゃでは
なかった

 

 

 

#poetry #no poetry,no life

あきれて物も言えない 26

 

ピコ・大東洋ミランドラ

 
 


作画 ピコ・大東洋ミランドラ画伯

 
 

東京五輪は閉幕した。「 自分で身を守る段階 」になった。

 

ここのところ絶句している。

ほとんど、
絶句している。

ここのところ、
部屋で、
ジャズばかり聴いている。

ALBERT AYLER.

THELONIOUS MONK.

MAL WALDRON.

LES McCANN.

JUTTA HIPP.

CLIFFORD BROWN.

BUD POWELL.

JOHN COLTRANE.

今日は敗戦の日、雨の日曜日だった。
前線が停滞し西日本各地に豪雨をもたらしている。

絶句している。
6月の終わりに桑原正彦の死の知らせを聞いてから何も手につかない。

 

犬のモコと散歩している。
車で海を見に行く。
ジャズを部屋で聴いている。
女が刻んだサラダを馬のように食べている。

東京五輪は終わったという。
東京の感染は「制御不能」なのだという。

「医療 機能不全」
「自分で身を守る段階」
という見出しが新聞に立っている。

遠い昔のことのように思えるが現在の日本のことなのだ。

この日本という泥舟の船頭たちは操縦を誤まっているように思える。
敗戦を終戦と言い繕い高度成長という神話に酔い失われた20年を通過して時間は随分と過ぎてしまった。
この泥舟の船頭たちはもう一度、新自由主義グローバリズムの先に高度成長の夢をオリンピックでみようとしたのだったろう。

東日本大震災からの復興を世界に示すというビジョンは、
いつコロナに打ち勝つというビジョンに取り替えられたのだったか。

あきれて物も言えない。

夕方、クルマのプレーヤーに宇多田ヒカルをコピーした。
女とクルマで港町を流した。
宇多田ヒカルの「誰かの願いが叶うころ」を繰り返し聴いてクルマを流した。

曇り空の下に灰色の海は広がっていた。
海は空の色を映す。
雲の隙間から光が海面に射していた。
海は河口からの濁流でまだらに茶色く濁っていた。

「誰かの願いが叶うころ、あの子が泣いているよ」* と宇多田ヒカルは歌っていた。
「もう一度、あなたを抱きしめたい、できるだけ、そっと」* と、

歌っていた。

 

そこに小さな光が見えた。
呆れてものも言えないが言わないわけにはいかない。

 
 

作画解説 さとう三千魚

 
 

* 宇多田ヒカル「誰かの願いが叶うころ」から引用させていただきました

 

 

 

西の山が見えない

 

さとう三千魚

 
 

今朝は西の山が見えない

淡墨を

白い空に
横に曳いたのか

幽かに
浮かんでいる

きみか

そこに
いるのか

恥ずかしそうに
笑っている

神田の
鶴亀で

飲んだね

また会えると思っていた
また会えると思っていたよ

今朝
真っ白の空に浮かんでいる

窓のこちらで
この男は

絶句の言葉を探してる

窓の外で
燕たち

チキチキと鳴いている
チキチキと鳴いて

飛んでいる

 

 

 

#poetry #no poetry,no life