ひかりを飲む

 

きのう
ねむるまえに

ゴンチチのギターで
ロミオとジュリエットを聴いた


目覚めて

窓をあけて
また

ロミオとジュリエットを聴く

仏壇に
水とお茶とごはんを供えて

線香をたて

義母と
女と
犬と
わたしのことも

祈った

それから子供たちや家族たちやあのひとのこと

遠い
友たちのことも

祈った

毎朝
そうしている

それからモコを連れてゴミを出しにいった

近所の家の庭には
紫色のあじさいの花が咲きはじめてた

目がひかりを
飲む

ひかりをのんでいる

 

 

 

空洞のようなもの

 

ねむる
とき

だったのか

ねむって

から
だったか

それは
タイトルか

ぼんやりとした

構造のような
もので

あ〜
これは〜

と思った

今朝
目覚めたら

忘れてた
忘れてしまっていた

とても大切なものを忘れてしまったようで

悲しい
なにか

ぼんやりとした空洞のようなもので

やわらかい
ものだった

すぐに忘れてしまうような
身近なものかな

両足の裏で描いた赤い抽象画を見たことがある

 

 

 

このようになくなるもの

 

雨が降るまえに
昨日

モコと散歩した

灰色の雲が
重なり

韮の白い花のかたまりが
ゆれていた

夜になって
雨は

降り出した

一昨日は
外に出かけていた

中野と
鎌倉と
高円寺と
四谷と
表参道と
新宿で

ヒトと会った

そこにはそのヒトがいてそのヒトの生があり
踠いている

“いつ突き落とされてもいいほど愛しているので”
“役割語の声色を抜いた”

と工藤冬里は書いてた

もう女は役割語を使わない

今朝も
雨は屋根と

窓ガラスを叩いている

the one thus gone.
このようになくなるもの.

荒井くんが
facebookですすめている曲をいま聴いてる

ANTON BATAGOVの曲だ

今朝
ここにいて

雨が窓ガラスを叩いて流れるのを見ている

その向こうに
西の山はあるが

灰色の雨雲でいまは見えない

 

 

 

海から帰って

 

海から帰って

モコと
ソファーで眠った

めざめて
ゴミを出しに行った

それから
溟い部屋で

ラウテンクラヴィーアのパルティータを聴いていた

海では
ノラをみた

海が

ゆっくりとうねるのを
みてた

海にはしらす船が浮かんでいた

漁師たちは
たくさんのしらすたちを捕らなければならないのだ

川面を燕たちが曲線を曳いて飛ぶのをみた

ニラの花が実って
重たく揺れるのをみた

ラウテンクラヴィーアはバッハが出会った楽器だ

反近代の楽器だ

パルティータには
細い一本の道がみえる

その男は
どうなんだろうと問う

ほそい道を歩いていったのだったろう

 

 

 

雷雨の朝に

 

かみなりがなってた

めざめたとき
かみなりが

なってた

雨が
屋根を叩いてた

きのう
眠るとき

両腕をひらいて眠った

鳥になろうとしたのじゃない
眠るとき

いつも
沈んでいく形をさぐる

闇のなかで
女の掌に触れた

すぐに沈んでいった

沈んでいくときに見る景色もあるだろう
忘れてしまう

きのう
工藤冬里の詩に

“私達は誰であれ、ボロアパートに住んでいる”
“バックネットから我を忘れて覗き込んでいることも出来るだろう”

という歌があった

帰ってきた
男の

歌だろう

めざめたとき
かみなりが鳴っていた

階段を降りていくと

モコは激しく全身を震わせていた
雷雨の朝にかみなりがおさまるまでモコを抱いていた

 

 

 

風がふいて

 

どう
なんだろう

どうなんだろうと

問われる
問われている

いつも

だれからかも
わからない

風がふいてた

志郎康さんもそうだった
桑原正彦も

そうだ

工藤冬里もそうかもしれない

風がふいて

いて
どうなんだろう

と問うてくる

なにが
どう

なのか
わからない

わからないところから

桑原は
電話で

ひかりだよね

そういった
なにがひかりなのだったのか

そうだね

と応えた
そのひかりは

遠い闇のなかから聴こえた

昨日
プールで500m泳いだ

それからゆっくり海亀になって
50m泳いだ

夕方には
モコと散歩して

しろいおおきなバラの花のひらくのを見ていた

ハクセキレイたちの鳴いて
遊ぶのを見ていた

地上には
風がふいてた

光っていた

 

 

 

島影

 

島影という
葉書が

届いてた

今朝
気づいた

昨日の夕方

ポストに入れられて
夜中の雨で

濡れたのだった
ろう

たわんでいた

濡れて
たわんで

写真展の葉書は届いた

いつか
どこか

遠くの人に葉書は届くだろうか

雨のなか

傍らの人に
にぎりめしを渡す

水田に身をかがめて
母は

苗を植えていた

身をかがめて
渡す

・・・

そのアルゴリズムを通して
かなしみは抽象されるか

死後硬直の煎餅は
地中で平面となり

・・・

という手紙が

昨日
工藤冬里から届いた

そこにいる
もう長いこといる

ずいぶんといる

そうでなければ
木蓮は

白い花もつけなかった

木蓮の花は
あなたでもわたしでもない

ことばでもない

ただ
佇っていた

島影はいた

島影は
佇っていた

母は
水田に

いた

アルゴリズムから逸れていた

 

 

 

雨になる朝に

 

君子蘭の花が濡れていた

濃いみどりの葉も
濡れて

ひかって

雨になる朝に

女は
働きにいった

ここにいる

この
おとこは

だれのものでもない

コトバを
さがしている

コトバのなかに
コトバでないものを

さがしてる

たぶんそこには
ないね

それは
外にある

コトバの外にある

雨になる朝に

君子蘭の
オレンジの

花が
濡れてた

濃いみどりの葉も濡れてた
ひかっていた

“沖縄”

“大阪”

“日本”

“自治”

“経済”

“成長”

コトバの外部に
人びとの

沈黙はある
雨になる

ヒトビトの沈黙を聴く
世界の沈黙を聴く

昨日

夕方に出かけていった
サックスソロを聴きにいった

そこには

小鳥がいて
呻いてた

呻きはコトバではない

小鳥は
佇っていた

よちよち

歩いて
いた

小鳥は空のむこうに渡っていった

 

 

 

病院から帰って

 

花粉症かな
くしゃみが止まらず

病院に行った

やっと

帰ってきた
薬を沢山くれた

尿と
血液の検査もした

肝臓の値が上がり
尿酸の値が上がり
中性脂肪の値が上がっていた

きっと

なにかは
下がっているのだろう

帰ったら
大崎紀夫さんの本が届いていた

句集 ふな釣り

十年ほど前は
大崎さんの釣りの本を読んだ

大崎さんの釣りの本が
好きだった

ヒトが小さくて
景色がきれいだった

あの頃は
小舟を車に積んだ

ひとり
海に浮かんで糸を垂らしていた

ずいぶん
釣りをしていない

海辺の町にいるから
海をみている

いつも

モコと
海をみにいく

風を肌で感じる

波がよせて
水面の波紋が揺れるのをみている

ずっと
みている

それだけなんだけどね

 

 

 

明るい絵

 

昼まえに家を出て
昨日は

川沿いの道を歩いて駅にでた

電車に乗り
電車を降りた

それからバスに乗り皇居わきを通り
東京駅に着いた

それで
新宿でミリキタニの絵をみた

ミリキタニの写った
写真もみた

アメリカで日本人は収容所に入れられたのだったろう
母の故郷の広島は

焼かれたのだったろう

それで市民権をうしない
アメリカをさまよい生きたのだったろう

絵には
ずっと

痛みがあった
それは

底に
沈んで

猫や魚や

鯉が

明るい色で描かれていた

晩年に
絵は

よろこびだったろう

もいちど
写真の顔をみていた

ミリキタニはなにも言わない

ただ
こちらを

見ている