家族の肖像~親子の対話 その69

 

佐々木 眞

 
 

 

2024年1月

紫式部、なにするひと?
御本を書いたりするひとよ。
ボク、みますお。
みようね。

鎌倉、ツツツー、のあるとこですよ。
コウ君、ツツツーの信号、まだ苦手なの?
ダイジョウブですお。大丈夫。

コウ君、歯医者さんで虫歯を治してもらおうね?
嫌ですお。ダイジョウブですお。大丈夫。

ボクはねえ、オオヤさんとマイさん両方好きですお。
そうなんだ。お母さんも。

まひろ、泣いちゃったよ。
大丈夫だよ、コウ君。

まひろ、寂しかったんだよね。
そうだね。

ボク、まえポンキッキ好きだったんだお。
そうなんだ。

ボク、「光る君へ」の音楽、好きですお。
へえ、そうなんだあ。

 

2024年2月

めぐりあうって、なに?
また会うことよ。

お母さん、これなーに?
これはね、シロヤマブキの実なんだよ。
はい、わかりましたあ。

請求書って、なに?
これだけお金使いましたから下さい、というお知らせよ。

お父さん、あした石原さとみの番組、録画してくださいね。
分かりましたあ。

コウ君、うちのお金を黙って使うの、ドロボウだよ。ドロボウどうなるの?
ケイサツにつかまります。
つかまると、どうなるの?
困ります。
そうでしょう。ドロボウしたらダメよ。
分かりましたあ!

ドロボウ、困ります。うちお金ないのよ。
はい、分かりました。大事に使います。

ボクはイイコですよ。
そうなの? ワルイコは?
ドロボウですよ。
コウ君、ドロボウ?
違いますよ。

比較的って、なに?
わりあい、よ。

タイミングって、なに?
ちょうどいい時よ。

「転校生」で蓮佛さん、死んじゃったでしょう?
死んじゃったね。

お父さん、ホンマって、なに?
ほんとう、のことだよ。ホンマカイナ、ソウカイナ、エーだよ。

ボクは我慢できます!
なにが我慢できるの?
分かりませんお。

コウ君がどんどん遣うから、うちのお金、全部なくなっちゃうよ。
ぼく、無駄遣いしませんお!

お母さん、ごめんなさいとボクいいました。
お母さんのお財布の中のお金はお母さんのお金です。コウ君のお財布の中のお金がコウ君のお金です。
分かりました、分かりました!

お母さん、モリダクサンて、なに?
いっぱい、いっぱいのことよ。

 

 

 

佐々木小太郎古稀記念口述・村島渚編記「身の上ばなし」その6

「祖父佐々木小太郎伝」第6話 弟の更生
文責 佐々木 眞
 

佐々木 眞

 
 

 

私には金三郎という、たった一人の弟があった。この弟が十三、私が十七の時、忘れられぬ思い出話がある。

その時、私は蚕糸講習所を卒業したばかり、弟はまだ小学校在学中だったが、家は貧窮のどん底に落ちてしまったので、弟は学校をやめさせて京都へ奉公に出すことにし、私が連れて行った。

京都へ着くと、丹波宿の十二屋に落ち着いてから、程遠からぬ東洞院佛光寺の下村という縮緬屋に弟を連れていき、私はその夜十二屋に泊まり、朝発って帰ろうとすると、弟が帰って来て「もう奉公には行かん。兄さんと一緒に綾部へ帰る」というのだ。

私はそれをいろいろとなだめすかして、主家下村へ連れていき、家の人にもよく頼んで、逃げるようにしていったん十二屋へ戻ったが、何だか弟が後を追ってくるような気がするので、それをかわすつもりで、知りもしない違った道を北へ向かって走っていくと、大変な人混みの中へ出てしまった。

それは北野の天神さんの千年祭の万燈会のにぎわいだったのだが、少しブラブラして道を尋ねて桂へ出、丹波街道を園部へ向かって歩いた。

私は家を出る時、少しばかりの旅費しか貰わなんだので、一文の無駄遣いをしたわけでもないのに、この時財布に十二銭しかなく、これでは昼飯を食ったら今夜の泊まり銭がなくなるので、昼抜きのまま、とうとう園部にたどり着いて、来がけにも泊まったかいち屋という宿屋に泊まった。

十二銭では、まともな泊まり方はできない。
私は、「胃病だから晩飯は食べない」と言って直ちに床に入って寝た。
裏を流れている川の瀬音が、昼飯も晩飯も食べないスキハラにひびいいて、なかなか寝付かれなかったその夜の情けなさが、今も忘れられぬ。

朝は宿屋がお粥を炊いて、梅干を添えて出してくれた。
それを残らず食べて宿賃十銭を払うとあとは二銭。宿屋が新しいわらじを出してくれたのを、「そこまで出ると下駄を預けてあるから」と言って裸足で宿を出、道々落ちわらじを拾って、はいては歩いた。

昼頃になると、朝のお粥腹がペコペコに減ってきたので、いろいろ考えた挙句、寂しい村のある百姓家に入り、「昼飯を食べ損なって困っているから、何か食べさせてください」と頼むと、米粒の見えないような大麦飯にタクワン漬を副えて出してくれた。

私はそれを食べ、最後の二銭をお礼に置いて、一文無しになって明け方川合の大原に着いた。大原には貧しからぬ父の生家がある。そこで出してもらったお節句の菱餅をイロリで焼く間ももどかしく、まるで狐つきのように貪り食い、そのまま道端で寝込んでしまった。

さて私の弟は、メジロ獲りが上手で、メジロを売って儲けた十銭だかの金を、後生大事にこの時の京都へ持っていったものだ。
弟はこのチリメン問屋に三、四年くらいいたと思うが、「アメリカに行きたい」と言って、英語の独習などをやっていたが、ついに主家にひまを貰い、神戸に行って奉公した。
渡米の機会を狙っていたものらしい。

それから朝鮮の仁川に行こうと密航を企てたのだが、発見され、仁川で降ろされた、ということだった。仁川では、日本人の店に勤めて、なかなか重用されていたようだが、その後徴兵検査で内地に帰り、福知山の20連隊に入営した。

明治四十四年に退営後、福知山の長町筋に家を買い、嫁も貰ってなかなか盛大にメリヤス雑貨の卸問屋をやっていたが、その資金などをどうしたものかは分からない。
その頃の私の家は、相変わらず貧乏だったはずだが、父はトコトンまで貧乏するかと思うと、不意にまた儲けて盛り返し、七転び八起きしたもんだから、あるいは調子の好い時、弟に相当の資金を与えたのかもしれない。

ところが弟は女房運が悪く、初めの嫁は離縁し、二度目の嫁には病死され、それに腐ってひどい道楽者になり、芸者の総揚げなどという身分不相応の大大尽遊びなどをやって、とうとう福知山で食いつぶしてしまい、京都へ出て西陣の松尾という大きなメリヤス問屋の番頭に住みこみ、そこで好成績をあげて主家に信頼され、間もなく自立して同商売の店を持ち、なかなか好いところまでやっていたのであるが、またもや酒食に身を持ち崩し、手形の不渡りなどで度々窮地に陥り、そのたびに私のところへ無心にきた。

その都度私には内々で、妻がだいぶ貢いだものだが、結局京都の店は持ち切れず、東京に逃げ、ここでも一応成功していた風だが、大正十二年の大震災で焼け出され、一時は人力車夫までやったようだ。

それから大阪に帰り、親戚をたよって、今度はお家芸の下駄屋の夜店を出し、少し儲かったので、手慣れたメリヤス雑貨にかわり、ここで嫁を貰って、今度は堅気になるかと思ったら、また性懲りもなく道楽をはじめ、商売もめちゃめちゃになり、手形の不渡りなどでだいぶ好くないことをやったとみえて、警察から綾部の私の家へ弟のことを尋ねてきたりして、ひどく心配したものだ。

その時父の病が篤く、電報で知らせたのだが、なかなか帰ってこない。
ようやく帰ってきて臨終に間に合ったが、これがまた隠岐から帰った時の父同様、着の身着のままのみすぼらしい姿だった。
後で聞けば帰ろうにも旅費の工面がつかず、河内の方まで行って、友だちに帯を借り、これを質に入れて旅費を作って帰ってきたということだった。

葬式の時は、幸い私が夏と冬のモーニングを作っていたから、夏の分を弟に着せ、ちょうど四月の花時分だったので、どうにか恰好がついたのであった。

さてこの弟について、私はこの際、父の形見という意味で三、四千円の金を与え、好きな所へ行って、好きな仕事をさせようと思った。
実を言えば、この道楽者とは、後難のないよう、きっぱり縁を切りたかったのである。
それを弟に、今日は言おうか、明日は言おうか、と折を狙っていた。

だが私は、キリスト教入信以来すでに十余年、弟に対してこんな仕打ちをすることに対して、愛の足らぬことを深く反省させられた。
これは全然肉親の愛情に欠けた、神の御旨にそむくことで、クリスチャンのやるべきことではない、と思い直した。

かつて本間俊平氏から聞いた、氏が、凶悪な強盗犯の免囚を、自己の経営する大理石工場の金庫番にして更生させた話を思い出し、ただ己の安きを求めて弟を疎んじるようなことせず、「救わるるも、滅ぶるも、いっさい弟と共に」の決心を固め、まずこれを心に誓い、神に祈り、それから容を改めて弟に語った。
はじめに私の考えていたことが、まったく兄弟の義に背いた悪魔の考えだったことを述べて、「まことにお前に対して申し訳ない」と、手を突いて詫びた。

すると弟は、オイオイ泣き出して、「兄さん何をいうのだ。兄さんに詫びられるわけがどこにある。どうか手を上げてください。皆私が悪かったのです」と、気狂いのようになっていうのだった。

互いに心の奥底まで打ち明けて、兄弟の間の溝はすっかり取れ、弟が京都へ奉公に行った時のことを思い出して、神の前に幼子となり、「兄弟力を合わせて一仕事やろう!」と誓い、私の希望を容れて、弟は酒も煙草も絶って、更生することを誓った。

薄志弱行、放蕩無頼の弟も、永久にこの誓いを破らず、深く私徳とし、私を尊敬して、次節に記すつもりだが、私が財産の大部分を投じ、兄弟共同の事業として経営したネクタイ製造業に粉骨砕身し、よく私を助け、持ち前の商売上手と過去の経験を生かして、工場を守りたててくれた。

昨年十二月、私の家に弟が来た時、私は鯛づくめの御馳走をつくり、絶対に買ったことのない上等の酒二合を求め、私が手ずから温めて弟に勧め、「よく辛抱してくれた。今日はひとつゆっくり呑んでくれ」といって、とりもった。

弟は、「こんなうまい酒を呑んだことがない」といってよろこんだが、血圧が高いからといって、みなまでは飲まなかった。

その時弟は、死んだ妻のことを「実に良い姉さんだった」とほめ、「私が酒をやめてからこのうちへきて泊まる時、姉さんは、土瓶の中へお茶と見せかけて酒を入れ、私の枕元において飲ませてくださったものだ」と白状した。

それから弟は、「私は、ほんとうはキリスト教に入れてもらいたかったのだが、私のような者は、とても入れてもらえんと思って、今まで黙っていた。兄さんはきっと長生きされるが、私は血圧は高いし、とても長生きはできん。死んだらせめて葬式だけでも、キリスト教でしてもらえまへんやろか」といった。

私は、「お前のその心が、すでに神に通じとるのだから、葬式などわけもないことだ」と返事しておいたが、その言葉がシンをなした如く、ことし五月七日脳溢血で死に、葬式は遺志の如く、京都紫野教会で山崎享牧師の手によって行われた。

遺児男二人、女一人、いずれも同志社大学に学び、長男、長女はすでに卒業し、長男は早くより父の業を継ぎ、弟は、後顧の憂いなく安らかに眠った。
神の御恩寵は、私の上のみでなく、父の上にも、弟の上にも豊かだった。
感謝の至りである。

 

 

 

西暦2023年11月25日から26日に朝にみた夢

 

佐々木 眞

 
 

 

ある夏の日の朝、突然あらゆる交通機関が停まってしまった。

大勢の人が職場へ行こうとしても、電車もバスもタクシーも動いていないのでどうしようもない。
その結果、国民の大半が丸一日自宅待機の状態になってしまったが、
このことについて当局からの発表は何もなく、マスコミも何も伝えない。

人々は疑心暗鬼に駆られながら眠れない夜をすごしたのだが、
夜が明け、翌朝になっても事態は何も変わらず、
電車もバスもタクシーも、まったく動いていない。

ここ首都圏から少し離れた海辺の旅館では、朝から宿泊客たちが大広間に集まって、
三々五々ああでもないこうでもない、と口々に自分の意見を述べるのだが、
相変わらず確かな情報はどこにもない。

旅籠のおかみの老婆が、勘定場から出てきて、最新の国連情報を披露したが、
その話の中にも、今回の事件に触れた発表は何もなかった。
すると、なぜかおらっちの弟の善チャンが出てきて、母の愛子さんから聞いた話を始めたので、
何か重大発表かと思ったみんなが耳を澄ませると、案に相違してこんな昔話だった。

今からおおよそ半世紀前の昔、
夏場は臨海学校だったその旅籠で、中津川のおばさんは、まだ幼かった愛子さんに
「この世は所詮へのへのもへのやけど、とりあえず毎日早寝早起きせんといかんで」
と、噛んで含めたそうだ。

 

2024/1/23

 

 

 

佐々木小太郎古稀記念口述・村島渚編記「身の上ばなし」その5

「祖父佐々木小太郎伝」第5話 父帰る
文責 佐々木 眞
 

佐々木 眞

 
 

 

前にも述べた通り、私の父は酒好き遊び好きで、飲む、打つ、買うの三拍子を、いずれ劣らず達者にやったものだ。それがいつまでたっても目が覚めず、四十を過ぎても五十を越してもまだやまず、かえってひどくなるというだらしなさ……もともと商売上手と人にもいわれ、世間の気受けもよく、金も相当儲けてきたものであるが、何分お人好しで、勝負事をしても人に取られるばかり、(おもに花をやった。本バクチはやらなかった)そのくせ大きなことが好きで、コメや相場に手を出して、身上にまたしては大穴をあける。金のかかる女出入りも絶え間がない、といった具合だから好い目の出よう道理はなく、母が忠実に守る履物屋の店もだんだんさびれ、借金は増す一方で家計は一日一日と窮地に追い込められていった。

その火の車の中で、明治四十三年四十九歳で母は病死した。
気の毒な母! まるで父に殺されたような母! 母をいとおしめばいとおしむほど、父への憎しみが深くなるのを、どうすることもできなかった。母のかたき、と私の父を見る眼は日増しに険しくなった。

母の死後ますますヤケになった父は、もはやわが家にも綾部の町にもいたたまれなくなって、大正元年、五十八の好い年をして若い芸者を連れて、世間には内緒で隠岐の島へ逃げて行ってしまった。

私はそれを舞鶴まで送って行きはしたものの、父に対する感情はとげとげしく、別れを惜しむというしおらしさなどはどこにもなく、父にもなかった。

父を送って帰った夜から、早くも債鬼は門院に迫って、私を借金地獄に追い込んで、貧乏あずりにあがき苦しむ日々が続いた。幸い私はこの四苦八苦の逆境を案外早くきりぬけて、借金払いも大体済ませ家業に忠実な妻と共に、履物店も旧状以上に回復し、生活もほぼ安定し、郡是株の強行買が当たって、だんだん好い目がが見えてきた。

今までは思い出す隙もなく、もちろん父からは一度の便りとてなく、人のうわさにも聞かず、その消息は一切分からなかった。その父が、ひょっこり帰って来ようとは、夢にも思わぬことだった。

大正五年、師走も近い冬の一夜、綾部の町には人声も絶え、寒い木枯らしが町を吹いてガタガタと障子に音雄を立てていた。

真夜中近い頃、入り口の戸をホトホトとたたく者がいる。静かに、あたりを憚るように。
「どなた?」と訊ねても返事がない。うかり開けられぬと思ったが、泥棒とも思われないので、妻菊枝と二人で立っていって開けてみると、父だった。

父帰る! この寒夜に上に羽織るものもなく、汚れた筒袖姿の、四年見ぬ間に六十の坂を過ぎて、追いやつれてみすぼらしい父が、ションボリと戸の外に立っていた。
おずおず敷居をまたいで中へ入るなり、土間に身を投げくどくどと前非を悔いて詫びいる父に対して私の眼に涙は浮かばず、私の口はやさしいいたわりの言葉を発することができなかった。

この冷たい私とは反対に、私の妻は父に対してやさしかった。食事を供し、着替えを与え、暖かい寝床に寝させていたわった。その後もけっして悪い顔を見せず、明け暮れの世話をよくし、私に内緒で小遣い銭なども与え、キチンとした身なりをさせて大切にした。

しかしながら妻のこの仕打ちが私には苦々しかった。「そんなにまでせんでもよい」と口に出して叱ったりもしたが、ひたすらに父を憐れむ妻の純情にほだされて、私の頑な心も少しづつほぐれていった。

父は隠岐にいる間のことをあまり語らなかったが、やはり腕に覚えのある桐買いをやり、これを加工して下駄の素材を造っていたものらしい。ところが運悪く火事に遭って焼け出され、おまけに連れていた芸者に逃げられ、寄る辺はなし、せんすべ尽きてようやく松江に渡り、そこで歯科医をしていた君美村出身の四方文吉氏に泣きついて旅費を借り、綾部まで帰ってきたということで、しばらくは乞食同様の見過ぎをして放浪していたものとみえて、からだ一貫のほかは一物も持たず、着のみ着のままの着物は垢だらけシラミだらけで、これを退治るのに妻は困ったということである。

妻はどこまでも父に親切だった。一人では寂しかろうと福知山の実父に相談して、身内から後家さんを連れてきて一緒にし、離れの一室を与えて寝起きさせたが、二年ほどすると女が病死してしまった。

すると今度は町内のさる後家さんに話して、西本町裏の小さい家に住んでもらい、そこへ父を同居させ、生活費全部を支払って世帯を持たせた。その間は父も気安く私の店に出入りして、夷市などで忙しい時には、随分よく手伝いもしてくれた。

ところが父と同居していた未亡人が、息子の朝鮮移住について行ってしまった。その時父はすでに七十を過ぎていたので、家に引き取った。父は孫娘の守りなどをして好いおじいさんになりきり、昭和四年四月、七十五歳で死んだ。

最後の二年ほどは盲目になったが、楽しみのない父を慰めるために、私は早くラジオを買った。綾部にも、福知山にもまだラジオ屋がなく、大阪から五つ晩泊りで技術者が来てとりつけたが、町では郡是、三ツ丸百貨店の次だった。

なお父は私の信仰に倣ってキリスト教に入り、死の前年に丹陽教会の岡崎牧師から洗礼を受けた。

今から思えば、それはどうすることもできない宿命的のものではあったが、私はあまりに父を憎み、父に冷たかった。おちぶれ果てて隠岐から帰ってきた時、もし妻がいなかったら、私は父を家に入れなかったかもしれない。

「おらが女房をほめるじゃないが」私は死んだ先妻に感謝せねばらなむことが数々ある。なかでも私が冷酷であった父に対して、私の分まで孝養を盡してくれて私に不孝の謗りを免れさせ、不孝の悔いを残さずにすませて呉れたことは、妻に対する最大の感謝である。

 

 

 

こころを濡らす

 

佐々木 眞

 
 

久し振りに新橋のヘラルド・エースの試写会に行くと、いつものように最前列の左端に座ったヨドチョーさんが、声を枯らして
「映画を見なさい、良い映画を見ればこころが濡れますぅ」
と、皆に聞こえるように叫んでいた。

たぶん先日ここで上映された、『ローマの休日』事件のことをいうておるのだろう。

その日、おらっちときたら、あろうことかローマの宮殿で、王女のオードリー・ヘプバーンが「ローマ、断然ローマです」
というた瞬間、大の男が大声を上げて、泣いてしまったのだ。ほかの映画ヒョーロンカ連中が、誰も泣かなかったのにぃ……

くそったれ、一人くらい、泣けよ、
こころあらば、こころ濡らして、泣けよ!

こころ優しいヨドチョーさんは、おらっちのそんなこっぱずかしい噂を、紳士的に打ち消してくれようとしているんだろう。
有難いことだ。

まもなく、本日の試写が始まった。

上映されたのはタランティーノ監督の『レザボア・ドックス』だったが、あまりの暴力シーンの連続に、おらっちが狭心症の軽い発作を起こして
ニトログリセリンの白い錠剤を1粒飲んでいると、真中へんに座っていた落語家のタテカワダンシが、

「糞面白くもない、こんなエイガ見てられっか!」
と叫んで、隣の太った手下に「おい、けえるぞ」と告げて、会場からあらあらしく出て行った。

ヨドチョーさんも、おらっちも、それ以外の人も、試写会場の扉がグラグラゆれて、外光がチラチラ漏れ入るのを、みんな見ていた。
まるで『レザボア・ドックス』が、スクリーンをはみ出したみたいだった。

おらっち、なんせ招待された身だ。
いくら下らない映画でも、ダンシ師匠ほど勇気がないので、出ていけない。
じっと目を瞑り、心臓を抑えに抑えて、地獄のような100分間に耐えていた。

ヨドチョーさん、
こころを濡らす映画があるように、
こころを壊す映画もあるのです。

 

 

 

如月の歌

 

佐々木 眞

 
 

西暦2023年を総括する「現代詩手帖」の12月号を、ざっくり読んではみたけれど、どの作品のどの1行にもさしたる感銘を受けず、
それならむしろ谷川俊太郎翁が、今年の1月24日付朝日新聞の「どこからか言葉が」で書いている

  意見は言わずに 詩を書きたい私です
  書き続けるうちに意味に頼らない言葉が雪のように舞い降りてくる

の、「意味に頼らない言葉」の一語のほうが、よっぽどインパクトがあるんじゃないかなあ、と思った。

が、待てよ。
これまでおらっちの腹にガツンと来た、「意見や意味に頼る言葉」だってたくさんあったはず。
急遽そいつらを呼び出して、今宵の座興にしてみようじゃんか、と思いついた次第。
あえて出典は示さないので、お暇なときに探してみてくださいな。

*西暦2024年如月に贈る言葉10選

「われ、山に向かいて目を挙ぐ」

「舗道の下は浜辺」

「すべての武器が楽器になればいい」

「あヽ中央線よ 空を飛んで あの娘の胸に 突き刺され!」

「砦の上に我らが世界 築き固めよ勇ましく」 

「世界がぜんたい幸福にならないうちは、個人の幸福はありえない」

「中国に兵なりし日の五ケ年をしみじみと思ふ戦争は悪だ」

「人世に意味を! 詩に無意味を!」

「かれは、人を喜ばせることが、なによりも好きであった」

「いかのぼりきのふの空のあり処」

 

 

 

武器を楽器に

 

佐々木 眞

 
 

能登半島地震では、家が潰れ、230人もの死者が出て、遭難者は寒さに凍え、
水や食物もなくて泣いているというのに、おらっちときたら、朝から晩まで、
コーヒーメーカーがコーヒーを抽出しない、と大騒ぎしていた。

ガザでは、悪辣非道なイスラエル軍が、おんなこどもを含むパレスチナ人を、
見境なしに殺しまくっているというのに、
おらっちは、昼ご飯をラーメンにするか、讃岐うどんにするかで、ごっつう悩んでいた。

ウクライナでは、怪僧プーチンが、おんなこどもを含むキーウ市民を、
ミサイルや無人機で、見境なしに殺しまくっているというのに、
おらっちは、川柳がうまくできないので、終日いらだっていた。

でも、
あっちは戦争、こっちは平和
あっちは地獄、こっちは天国

と、簡単には決められなくて、
戦火のさなかにいるひとが、かえって生き甲斐をかんじていたり
いっけん平和のなかにいるひとが、半分死んでいることだって、ありえるのよ。

でも、でも、
おらっちが悪いのか、そっちが悪いか、知らんけど
にんげんが悪いのか、神さんが悪いのか、知らんけど

いくさ、やめないか?
いくさ、もう、もう、やめないか?
いくさ、はよ、はよ、やめてけれ。

ああ、世界中の人々が願っているように、
すべての武器が楽器になればいい。
そうすればおらっち、もっと大きな声で、生きてる喜びなんかを、歌えるのに。

 

 

 

「夢は第2の人世である」第104回

 

佐々木 眞

 
 

 

2023年9月

有名な思想誌の偽物が登場して話題になっているが、そこでは本物そっくりの偽物著者が本物の論旨を借りて、正反対の結論を出している。つまり思想なんて筆先三寸でころころ変わるし、変わっても構わないものなんだ。9/1

ある多忙な人物とのインタビューを頼まれたのだが、「4つの質問を4分以内にせよ」という条件がついていたので、そんなアホな、と断ってしまったのだが、うんと簡単な質問なら可能だったと、今頃になって後悔しているずら。9/2 

「です・ます体」でものを書くと、その噺をとりまくもっともらしさが次第に消え失せて、噺の真正さと空恐ろしさが浮き上がって来たので、怖くなって、「である体」に切り替えてしまったのよ。9/3

A子さんはとても素晴らしい人なんだが、突然選挙に出たら、見事当選してしまったので、ほんにんも、おらっちも、吃驚仰天だった。9/4

八百万神が列島に降臨して、1968年をもう1回やり直して、全国民が生き直すことになったらしい。もしかすると、国と民草の運命が、劇的に回天するのではないかと、みな興奮しているようだ。9/5

その住宅会社では、おらっちが画用紙に悪戯書きした童話風、あるいは漫画風のスケッチに基づいた一戸建て住宅が、ジャカスカ現場で採用されていったので、おらっちは時折恐ろしくなったものだ。9/6

道端に栗が落ちていたので、それを拾って進んで行くと、子どものコジュケイに出くわしたが、黙って電柱の陰に消えていった。そのとき、一陣のそよ風が「アリガトウ、サヨウナラ、ゲンキデネ」と囁くのだった。9/7

20代の若さで夭折した、天才キダンを悼む人々の群れ!9/8

ジャニーyouのおらっちは、ウィーン少年合唱団の童たちをアルファベット順に呼び寄せ、毎晩彼らに奉仕させて、おらっちの精液を愛らしい口唇に注ぎ込んでいたが、誰一人知る者はいなかったずら。9/9

某社のホームページの評判が悪いので「なんとか改善してほしい」と頼まれたので、冒頭の気持ち悪いブグウギ人形のダンスシーンを削除したら、それだけで注目率が倍増したのだった。9/10

頼んでいた本がようやく届いたが、とても時間がかかった。日本歴でいうと明治、大正、昭和、平成、令和、緑藻、弁義、下痢と流れ下って、いまは雲古の時代だが、そのかみの明治の初版本を発注したのだから、推して知るべしである。9/11

施設の職員なんて安月給に決まっているのに、長男は時々ヒガさんにファミレスに連れて行ってもらって、大好物のロースカツを御馳走になっているらしい。困ったことだ。9/12

住み込みのバイト学生の私は、「その子を落語が分る人間に育ててくれ」と両親から頼まれていたのだが、私自身あまり落語に詳しくなかったので、落語塾は諦めて、誰でも入れる千駄ヶ谷中学校に入学する結果に終わった。9/13

おらっちはスーパーで「トイレットペーパーを拡販せよ!」と命ぜられたが、なにをどうしたらいいかさっぱりわからずにうろうろしていたら、「君はてんで売り上げを伸ばせなかった」と店長にいわれて、直ちに解雇された。9/14

お隣のAさんたちと一緒に、集団検診を受けたのだが、Aさん一家が、突然モザールのオペラのアリアを歌い出したので、みな吃驚だった。9/15

久し振りに電気屋さんに来てもらったのだが、新しい電化製品が物凄く多機能になっているので驚く。しかも以前は10年だった耐用年数が5年に短縮されたので、思わず「原発とは大違いだね」といってしまった。9/16

「こんちは、イデですがあ」というて、茶色い下駄のような顔つきの男が入って来たので、すぐに誰だか分ったのよ。9/17

久し振りに倫敦へ行ったら、ロイヤルアルバート・ホールで、ハイドンの倫敦交響曲の演奏会をやっていたのだが、誰が指揮しているのかは分からなかった。9/18

あたいは、最初の子どもを堕ろされたので、2番目の子どもは絶対に堕ろさないぞ、とぐあんばって産んだのだが、しばらくして、棄てた。9/19

おらっちが、治安維持法で牢屋に入れられている間、なけなしの私財を保管しておいてくれと頼んだのに、案の定その女は、おらっちがシャバに出て来ると、行方を眩ませていた。9/20

毎年来る年金情報の書類で、障害者手帳の発行日を記入させる項目があるのだが、なんでこんな細かいことを書かせるんだと、頭に血が上るが、それらを書き込んだ書類を、1枚1枚確認する役人の顔を見ると、AI貌であった。9/21

棄てても捨てても、婦人便所の壁に浮き上がる4月の蛇じゃった。そこで、カッウーの建設に協力した人たちは。全員殺されたが、しばらくすると、みな蘇えった。9/22

ともかく戦争中のことなので、そのホテルの大半は軍隊が占拠し、わずかに残った地下2階にわたしらは押し込められ、地表を出歩くことも許されなかった。黒澤監督と小津監督を除いて。9/23

名前からしてウオータービルという建物の中に我が社は入居していたが、雨が降る度にフロアが水浸しになるので、社長のおらっちは、いつも大喜びでピッチピッチチャプチャプランランラあン!と歌いながら、長靴を履いて踊っていた。9/24

原発の建設に協力した連中は、殺されても、殺されても、地獄の釜底から蘇って、原発音頭を歌い、猫じゃ猫じゃを、踊り狂うのだった。9/25

おらっちは、組織の上層部からの特命を受けて、上司Мと共に特殊任務に就いたが、いつものように、大嫌いなМの指示は、いっさい無視して、行動した。9/26

ヘンデルのオラトリオでヘンデルノートの私は、歌詞を忘れたので、テキトーに歌いながら、相手役の女の方Hへ近づき、彼女がきちんと下着をつけてるのか否かを確かめよとしたのだが、舞台が薄暗くて、よお分らんかった。9/27

月明かりで時計をみると、まだ1時12分である。これから朝までちゃんと寝られるか、心配で心配で仕方がないが、うまく寝つけるまで、五言絶句を作り続けようと思った。9/28

夢の女に出会ったので、手を繋いで歩き始めたのだが、ふと思いついて女の手をギュギュと握ってみると、女もギュギュっと握り返したので、なんだかひどく安心したことだった。9/29

巣伊水筒の中で、あんきに泳いでいた2匹のメダカが食べられたのは、次のような、長い長い噺が、あるからだった。9/30

 

2023年10月

東大に東大平和会というレコード鑑賞の組織があったはずだが、今はどうなっているのだろう、と思って本郷へ行ってみたが、その形跡はてんで無かった。10/1

日曜日に、家族そろって町に出かけようと、電車に乗った。買い物なんかしてから、また電車に乗って、帰宅しようとしたのだが、乗った車両が、ホームからはみ出していたので開かず、そのまま、隣の駅まで運んでいかれたのよ。10/2

おらっちは、悪人リストをつくっては、順番に暗殺していった。10/3

久し振りにオグロ選手と出会った。彼と会うときはいつもどこかで御馳走してくれたものだが、今回はそういうことを期待することも、また実際にそういうこともなく別れたのだが、何度も御馳走されたおらっちはたった一度も御馳走し返したこともなかったのを申し訳なく思った。10/4

3、4、5番のナンバーが記された名建築家の設計による木製の椅子を、超ヒレツな男が、こっそり教会の外に持ち出そうとしているので、隠し持ったワルサ―で消してやった。10/5

余の畢生の大詩集が陸続と返品になって狭い我が家に殺到するので、寝るところもなくなってしまったずら。10/6

親分がいつのまにか零落したので、仕方なく150人の食客ともども、今を時めき権勢を誇る第一子分のところに身を寄せているそうだ。10/7

こないだタチウオを呉れたお兄ちゃんが表通りを歩いていたので、「やあこんにちは」と挨拶すると、いくら食べても減らない万能御飯を呉れた。10/8

その天気占い師の予報はとてもよく当たると評判なので、試しに手相を見てもらったら、おらっちがいつどこでどんな風に死んでいくのかを延々と語り始めたので、怖ろしくなって逃げ出した。10/9

この辺りは英米贔屓の地方かと思っていたのだが、ことごとく独逸、それもナチ贔屓の家ばかりなので、驚いているうちに村八分に遭ってしまった。10/10

ナンシーが緑色のコンブ状の異物が漂っている風呂の水をきれいにしてほしいと再三再四頼んでくるのだが、そのコンブが大好きなおらっちは、その都度断っているのだ。10/11

眠っている間に大量の寝汗を出しながら、物凄く怖い夢を見たので、夜中に箪笥の中から取り出した別のパジャマに取り換えたのだが、またしても怖ろしい夢を見そうでこわい。10/12

家族みんなで山間の宿に泊っているのだが、とても寒いのでこたつの中に入っていると、いつしか妹と2匹の犬になってしまって、お互いの頭と頭を突き合わせ、もたれあって体を温めあっている。10/13

夕方2匹で宿を出て、くらくふ谷を下って町の方へ降りて行くと、四つ角に大きな獅子のように獰猛そうな謎の動物が瀊居していて、ウオオオ、ウオオオと威嚇するので、怖ろしくなって宿まで逃げ返ったのよ。10/14

宿に戻って、また炬燵に入って2匹の犬になってお互いの頭と頭を突き合わせ、もたれあっていると、だんだん温かくなって体中が気持ちよくなってきたのよ。10/15

明日3年の死刑囚の刑が執行されるのだが、3人とも短歌の詠み手なので、三者三様の辞世の歌を遺せるよう、獄中歌人指導員のおらっちは朝からてんてこ舞いの忙しさだ。10/16

そのうちの一人は知る人ぞ知る歌人なのだが、いったん確定した挽歌を、2度3度と書きなおし、執行寸前におらっちに口伝えた最終改訂版が全集に収録されることになった。10/17

我が身にフライトあるやも知れず、というフレーズが脳裏に浮かんできたので、大いにもがいていたら、不意に空中に浮かんでしまった。10/18

逝きし春の頭を台座から取り外して、その本体はもとより、汚れたネジや蝶つがいを綺麗な水で丁寧に洗い流すこと。私はその作業を率先して「やりますり!」とと名乗り出たのだが、それが軽い認知症のしるしだとは夢にも思わなかった。10/19

年に1、2回だけ東京に出て芝居か展覧会を見物することがあるのだが、その時昔ながらの上品な良家の奥さんを見て心が動くこともあるが、もう若さも元気もないので日本画の中の登場人物を眺めるようにしてしばらく遠くから眺めているのである。10/20

これは、女性が妊娠しているか否かが分かるダンスだと誰かがいうたが、いくら見詰めてもさっぱり分らんかったずら。10/21

編集長にレイアウトを見せながら色々相談しようと思っていたら、酔っぱらった編集長の傍に問題のあるキャメラマンが同席していたために、ちゃんとした打ち合わせができず、ヤバイことになっちまった。10/22

巴里の街中で私が迷っていると、親切なモノンクルオジサンが、「これで好きな所へ行けるよ」

というて自転車を貸してくれた。シャトレ座での子ども作文教室が終わったので、「ラインの黄金」を見物しようかとも思うのだが、どっちのオペラ座なのか分らないのだ。10/23

私は統一庁から何百万人という大家の治安を維持するように命じられたが、具体的にどうしていいのか分からないので、アオバセセリを捜して野山をほっつき歩いていた。10/24

あたしは関西支社ではいつもチヤホヤしてもらっているので京都支局を拠点に関西ネットアークを構築し、すちゃらか大放送を繰り広げようと秘かに構想を巡らせていたのだが、大阪と神戸支局の大反対で脆くもついえさった。10/25

わが大全集を自由が丘まで持参することになったのだが、あの部厚い5冊をどうやって詰め込んだらいいのか考え続けていると、いつの間にか朝になっていた。10/26

ドコモが1万円で売り出したので、こっちは9千円で対抗することにしたが、どっちもどっちなので盛り上がらないずら。10/27

エレガントな婦人服を覆い切りパンクなイメージで売ったらどうなるだろうと意欲的な宣伝広告キャンペーンを展開してみたのだが、売上はまったく変わらなかったので、阿呆らしいことをしたと反省したのよ。10/28

万事が絶好調で推移しているので顔の助が急に自信過剰になって「やいおめえら、よっくこの顔の助の顔を見ておけ。いまおらっちがオタケビを上げるからな」といって雄叫びを上げた途端に龍になって空の高みに飛び去った。10/29

「クイズの塔」という名ののっぽビルジングが立っていて、例えば3階は人文、4階は地理、5階は人情というふうにカテゴリー別に分類してあるのよ。10/30

 

2023年11月

大恩ある大親分を逃亡させるどころか、おらっち自身が逮捕せざるをえない事態に陥り、おらっち激しく後悔したのだが、後の祭りだった。11/1

EUDころ60を丘の上から犯久で落下させ、イタリア平にケアとうさせたのよ。11/2

イスラエルのミサイルが飛んできてあたいの家を家族丸ごと爆破したが、あたいだけは生き残って瓦礫の山の底から這い出てきたのよ。11/3

「さあ、これがトヨタの最新力作だあ」というて、ハイブリッド車を勧められたが、それが今や世界の最前線にある電気自動車からいかに時代遅れの代物であるかがてんで分っていないようだった。11/4

今夜のコンサートが終了したあと、解散する人の流れが分かったので、明日は各種演奏会のチラシを満載したキオスクを要所要所に配置しようと思った。11/5

世界中の山々を征服したそのアルピニストは、帰国するとタデシナ高原の麓に隠遁し、ついに征服できなかった若い娘と暮らしているそうだ。11/6

なんせ右翼放送局の肝入りでできた映画なので、スクリーンのところどころでその肝を見せつけると、観客衆はそのエグイ醜さと悪臭にのけぞるのだった。11/7

上司がねえ。まっことくだらんことばっかりいいくさるので、ドタマにきたおらっちは、そいつをぶっ殺してしもうたが、あまりいい気持にはなれなんかったずら。11/8

こんにちはイデです!という声がしたので、え、あのイデ君が我が家に顔を出したのかあ、と驚いて階段を駆け下りて玄関口をのぞいてみたのだが、イデ君の影も形も見えなかった。11/9

おらっちっが車に乗せられて警察へ向かう途中、対向車に乗っていた黒犬が窓から窓へ飛び移って、おらっちの顔をペロペロ舐めまくるので参ったずら。11/10

昼飯を息子と一緒に食べようとソバ屋で1時間近く待っていたが、まだ順番が来ない。今思い出したのは、息子はソバなんか好きでもないし、もしかすると出されても食べないかもしれない。最初から豚カツ屋に行けばよかったと激しく悔んでいる。11/11

その人と話していると、その人もこの世ではもう二度と私と会うことはないだろう、と思いながら話していることが分って、なんだか悲しくなってしまった。11/12

アメリカ移民300ドルが終わると、自動的にチンと日付が変わって、音メタ的に大音量の太鼓が鳴る、というさいしんしきシステムだった。11/13

グリュミオーとハスキルがモザールの後期ソナタを演奏するというので、久し振りにサントリーホールにいったら、カザルス、コルトー、フルトヴェングラー、ワルター、クレンペラー、新しいところではグールドやクライバーまで聴衆席に収まりかえっていたので驚いた。11/14

不人気の異次元内閣がとんぷく薬局のお薬手帳でポイントが溜まると全員アロハでハワイ旅行に行けるようにしたので、とんぷく薬局だけは大繁盛だ。11/15

おらっちは「3月6日の武装蜂起は占い師が験が悪いというから、4月1日にしよう」と説いたのだが、仲間たちは「いやそれは4月バカみたいだから断固3・6にする」と言い張って決行したのだが、案の定失敗に終わったのよ。11/16

脳味噌の塩梅が悪いので、いつもの脳外科にいったら早速いつものように開頭して「こいつのせいでアセラル効果が減退したんでしょう。全部切除しときましたから、すぐに良くなるでしょう」と明言したのだが、半年経っても良くならないのはなぜだろう。1/17

山陰本線の綾部駅を降りるとタクシーが停まっていなかったので駅前から西町商店街を通って西本町25番地のてらこ下駄屋に着いたが誰もいなかった。11/18

カーペンターズから招かれて楽隊かと思って加盟したら、これが大工の組合で、壊れた煉瓦塀の体積を計算することが中学時代と同様全く出来ないおのれに気づいて、やっぱし駄目なんだと絶望してカーペンターズを辞めたのよ。11/19

紅楼夢に出てくるような女のような男のような子どものようなチャイナドレスを着た纏足娘を踏んだり蹴ったりしていたぶっていたら、急に吐き気がしてやめざるを得なくなった。11/20

ここは南米のどこかなのだが、大平原に無数の灰色の鳥が歩き回っているのだが、おらっちはその名を知らないし、知りたくもないずら。11/21

横長のテーブルの真ん中に座らされて食事をしている。右には大好きな女の子がいるのだが、左は大嫌いな上司だ。ステーキを喰っている最中にお腹が痛くなってきたのでトイレに行きたいと思うのだが、まっこと難儀なことになったずら。11/21

「コハコナラズ」という言葉が乱発されるのだが、その意味が分らないので迷惑だ。「子は子ならず」だろうか? 「孤は孤ならず」だろうか? それとも「こはこならず!」なのだろうか?11/22

鎌倉に早く帰りつかなければならないので、気ばかり焦る。見知らぬ駅に平戸橋行とかいうバスが停まっていたので、思い切って乗ってみたのだが、運転手も乗客もいないのでどっち方面に行くのかさっぱり分からない。11/23

我が軍営を視察に訪れたパナナン大将は、まっさきに便所の中に入ってその汚らしさに鼻をつまみながら、「トイレをきれにしない軍隊が敵に勝ったためしはない」と大声で訓示を垂れたのでした。11/24

玄関で話声が聞こえるので急いで2階アから降りてみると丸坊図のジョージの後ろ姿がとらっと見えたのでジョ0イ、ジョージと(叫んだが「行ってしまった。残念な「ことをした。11/25

ある夏の日の朝、突然あらゆる交通機関が停まってしまった。
大勢の人が職場へ行こうとしても、電車もバスもタクシーも動いていないのでどうしようもない。その結果、国民の大半が丸一日自宅待機の状態になってしまったが、このことについて当局からの発表は何もなくマスコミも何も伝えない。

人々は疑心暗鬼に駆られながら眠れない夜をすごしたのだが、夜が明け、翌朝になっても事態は何も変わらず、電車もバスもタクシーもまったく動いていない。
ここ首都圏から少し離れた海辺の旅館では、朝から宿泊客たちが大広間に集まって、三々五々ああでもないこうでもない、と口々に自分の意見を述べるのだが、相変わらず確かな情報はどこにもない。
旅籠のおかみの老婆が、勘定場から出てきて、最新の国連情報を披露したが、その中にも今回の事件に触れた発表は何もなかった。
すると、なぜかおらっちの弟の善チャンが出てきて、母の愛子さんから聞いた話を始めたので、何か重大発表かと思ったみんなが耳を澄ませると、案に相違してこんな昔話だった。
今からおおよそ半世紀前の昔、夏場は臨海学校だったその旅籠に連れてきた中津川のおばさんは、まだ幼かった愛子さんに「早寝早起きせんといかんで」と言い含めたそうだ。11/25

あたしは海風の中に塩のにおいを感じた。うず高く積まれた塩浜の丘の上に立つと、空の上に2つの鯱鉾が浮かんでいたが、それがバッハの2丁のヴァイオリンのための協奏曲を演奏しているのだった。11/26

昨日はクロネコヤマトの人に助けてもらったのだが、今朝はそのクロネコの車が別のクロネコの車とバス停の傍で衝突していて、昨日の親切な運転手が車の下敷きになって血塗れで苦しんでいるので、おらっちはなんとか恩返しをしようとケータイを取り出したが救急車の番号が分らないのだ。11/27

リーマンたちはみながみな別人AIを所有していて、午後5時に退社するとそれから後はその別人AIが残業したり、有楽町のガード下でいっぱいやったり、AI同士で新年会や忘年会に出たりするのだった。11/28

昔の映画をみていたら銅山が出てきたので、「あ、銅山だあ!」と叫んだら、「違う、象だ、だ。象山だ」というて佐久間象山が現れた。11/29

昼過ぎにみすぼらしい男の子が迷いこんできたので、仲良く一緒にマツボックリ遊びしたのだが、「キミ、どこから来たの?」と訊ねると「御成から」という。彼の父親がモーリタニアの女性と再婚して3人で死んでいると言うので、家まで送っていくことにした。11/30

頼まれた原稿にどうも現世秩序と権門の禁威に触れる文言があったようで、編集者が気にしているようだが、それらの空気に忖度して早手回しに原文の修正や削除を申し出ようとするおのれの醜さを恥じて、じっと沈黙しているところだ。11/30

 

2023年12月

血塗れの瓦礫だらけのガザの地で土俵入りした熱海富士の右足が夕陽の逆光ですっくと伸びたシルエットが美しかった。12/1

怪しい男が海水浴場で少年のカメラを持ち逃げするのを目撃したケンちゃんは、こんな卑劣な行為をする奴は絶対に許せない! これから裁判長になって牢屋に叩き込むのだ!と息巻きながら、ハンオコを押し続けるのだった。12/2

わが隊の指揮官は、「戦闘が始まっても、すぐには反撃せずに、本部の判断を待ってからにせよ」と命令したが、いざ戦闘が始まると、おらっちを含めた兵士の全員が撃って撃って撃ちまくったのだった。12/3

研究費が枯渇してしまったので、私は図書館の特別顧問兼守勢研究員に就任し、自分の研究に必要な書籍資料はぜんぶ購入してまかなうことにしたのよ。12/4

刑法が改訂されてクガタチで犯人捜しをすることになったので、自民党安倍派には誰もいなくなった。12/5

絶好球が来たので、得たりやおうとバットを振ったのだが、ホームランにはならずセンターを超えるライナーになってしまい2塁までしか行けなかった。やや内角寄りの球だったのでちょと詰まったのだろう。12/6

新人類が新人世、新人世と叫び続けるのでそれはどういう意味なんだろうと考えつづけているうちに朝になったずら。12/7

由良川の河川敷にやってきた都会育ちの純ちゃんが、偶々ヒバリの巣を見つけて、新品の革靴で土を詰め込んで入り口を塞いでしまったので、上空を舞っている親ヒバリが心配で心配でピー、ピー鳴くと、穴の奥から子ヒバリたちも助けて、助けてと懸命に鳴き叫ぶのだった。12/8

2人の少女は赤い三角錐の上に乗って微動だにしなかった。が、しばらくすると三角錐から降りた小さいほうの少女が、大きい方に向かって、「ここは危険になってきたから、しばらくスイスに逃げましょうよ」というのを聞いて、これはまずいことになったな、と思った。なぜなら私は大きい方の少女に恋していたから。12/8

地下にある温泉に入ろうと暗い廊下を歩いていると、いきなり抱きすくめられたので、そいつの横顔を見るとなんとジャニー野郎だったので、振りほどこうとしたが物凄い腕力である。なるほどだからジャニーズの連中はみんなやられてしまったのかと得心できた。12/9

おらっちと彼女との付き合いを深紅のカアテンの陰からいつでもそっと監視しているのが彼女の兄弟であることを、おらっちは知っていた。12/10

掌を海にたとえたりすることがありますか?と聞かれたので、いいえ、でも右手の親指よ人差し指を湾の入り口とみなしたりすることはありましたね、と答えた。12/11

我はあまりにも感情的な、彼奴等に言わせると扇情的な文章を書くというので、あっという間に言論界から干されてしまった。12/12

久し振りに忘年会が開かれるというので企画室の会場に行ったら誰も居ないので、宣伝の会場に回ったら、セイさんとイマナカさんがぐでんぐでんに酔っぱらっているだけで誰もいなかったので、仕方なく家に帰って寝た。12/13

同級生のマリちゃんに会ったら、顔の右半分は火傷をしたのか黒くなっていたが、右半分は雪のような白肌だったし、相変わらず大きな瞳でこっちを見据えたので、覚えずギクリとした。さすがはツウちゃんと並んで仏文のマドンナと言われただけのことはある。12/14

戦場で負傷して担ぎ込まれた病院でレントゲン写真を見せられたホームズとワトソンは、欠落したお互いの骨と骨とを組み合わせると初めて1人前の人体になると気が付き、退院してからは一緒に暮らすようになった。12/15

向こうのあぜ道を風采の上がらない猫背の男が歩いているので、「やあこんにちは!御機嫌いかが?」と訊ねたら、「戦なんかくだらないからやめれ」とぼそりというので、やっぱりミヤザワ選手だったんだと思った。12/16

我ら兵士は敵を「丸太」と呼べと上から命じられ、その丸太を銃剣で突き刺していたのだが、ちょっと勇気のある兵士はわざと体すれすれの地面を突き刺して良心の呵責の試練に遭わないような配慮をしていた。12/17

その洋館に迷い込むと、イケダノブオ夫妻がつくった「ゴーン/おふ」という題名の西洋童話風の幻想的な動画を上映していた。12/18

瀕死状態でくたばりかけていたおらっちを助けてくれたサンタクロースは、おらっちを赤鼻のトナカイの橇に乗せてその酒池肉林の館に連れて行ってくれた。そこでは4人の絶世の美少女がおらっちにつききりで面倒を見てくれたのだが、おらっちはその中の一人だけ2を熱愛したので残りにの3人の憎しみをかったのだった。12/19

男3人と女3人合計6人でサル金持ちの別荘で遊んでいたんだが、いつの間にか2組の男女が居なくなってしまった。春の夜は長いので、残された僕たち2人だけでダブルベッドに横たわって、なんとなくなるようになってしまったずら。12/20

誰かが書いた極秘文書のおおかたは削除したのだが、最後の4項目だけはいくらやってもどうしても消せないので、「崇神天皇の怨念のせいだ」ということになった。12/21

その韓国の寿司名人がつくった寿司は最高にうまかったので、同じ韓国人のおらっちは、「これからは寿司は韓国に限る。北朝鮮は知らないけど」と思わず叫んだのよ。12/22

私は頻尿なので、定期的に泌尿器科で薬をもらって飲んでいるんだが、子規の晩年と同様に食後にどっさり柿を食べるので、いつまでたって頻尿は治らなかった。12/23

3Dデジタルで放送されたsの障子の桟の美しさは比類がないもので、全世界から賞賛の声が寄せられたそうだ。12/24

おらっちが山道を登っていくと道端に2つの毬栗と10個以上の菓子パンが落ちていたので、それらを拾いながら急な坂を上っていると、後ろからやってきておらっちに追いついた女の子が、「これはうちで焼いたパンだから、返してください」という。12/25

バカダ大学ノヒジョーキン講師になって、「現代の音楽論」を担当することになったのだが、現代も音楽も不案内なので、仕方なくNHK-FⅯの「現代の音楽」を録音したやつを学生に聞かせてお茶を濁していたら、各方面からクレームが来たので、困っているところ。12/26

シガハラ印刷のシゲハラ社長に中山競馬では武豊をどっさり買ってくれと頼んだはずだったが、見事に一等賞に輝いてから連絡してみると、忙しくて馬券を買い忘れたというのでガックリだった。12/27

私らは同じ学校の国文、英文、仏文、独文の4人の男女の同級生だったが、毎日のように学食でランチをしていいるうちに、2組のカップルに分かれていったのよ。12/28

敵の火力がいかに優勢でも、わしのピンが1本でもあれば、そいつを使って彼奴らをあっという間に全滅させてしまうので、わしはマーラーの第1番とか「内乱の予感」とか、進撃の巨人」とかいろいろに呼ばれていた。12/29

近くの大学の構内を散歩していたら、部室の中に綺麗なネエンチャンが1人で座っているのを見つけ、色々話をしていたら、なんとなくお互いにモヨウしてきたので、ここで一気に畳みかけようとおっぱじめたのだが、すぐさまおらっちは不能人間だったことを思い知らされる羽目に陥ったずら。12/30

膵臓ガンのステージ4の宣告を受けたおらっちは、日向国の南端の浜辺の村で最期の日を迎えることにした。12/31

2人で協働して敵をやっつけるゲームをしているのだが、肝心のその相方がトロクてなかなか攻めきれず、イライラするのだが、その相方もおらっちをトロイと思っているらしい。12/31

九州の最南端の、村には1軒のホテルしかないという僻地の映画祭に招待されてやってきたおらっちだったが、ホテルでの飲み食いはサインで許されるとしても、帰りの交通費すらないので、映画鑑賞どころではなかったずら。12/31

 

 

 

家族の肖像~親子の対話 その68

 

佐々木 眞

 
 

 

2023年10月

「よごさないでね」、とホソカワさんいってくれたよ。
そうなんだ。

ならぬって、してはいけないのこと?
そうだよ。

フクモトリカ、「こんど充電してね」っていうでしょ?
なぬ?

お父さん、明日ビデオにとってね。
分りましたあ。

お父さん、大好きですお。
ほんとかな?
ほんとですお。

お母さん、早く良くなってね。
分りましたあ。

お父さん、お母さん、良くなった?
もうちょっとね。
もうちょっと?
そう、もうちょっとだよ。

お母さん、薬のんだ?
のみましたよ。

マコトさん、死んじゃったよ。
誰が?
タケナカさんが。
ああ、昔のドラマね。

お父さん、御飯ですお。
分りましたあ。

お母さん、今日、美容院いったの?
行きましたよ。

もりだくさんてなに?
いっぱいいっぱい、ってことよ。

お父さん、販売課は第2作業室でしょ?
そうなんだ。

お父さん、お母さんは?
さて問題です。お母さんは、どこへ行ったでしょう?
おばあちゃんち。
ブブー。
岸本歯科。
ピンポン。

コウ君、こんどキシモト歯科いって、虫歯なおそうか?
い、いやですおおおおお!
なんで。抛っておくと大変なことになるんだよ。
い、い、いやですおおおおお!

 

2023年11月

コウ君が「1万円探してください」、だって。
なぬ? 生きがい探してください?
生きがいじゃなくって、1万円札よ。

お父さん、ぼく電気つけておきましたお。
ありがとう。

お父さん、あしたハシモトカンナのビデオとって。
今度はカンナちゃんですか。はい、分りました。

お父さん、ごはんにしよ。
はい、分りましたあ。

くらもちさん、ボランテイアだったでしょう?
そうだね。

お父さん、録画した?
しましたよ。
お父さん、録画した?
しましたよ。

私はイヤミです。ぼく、イヤミ好きですお。
お母さんも。

ぼく、ウエハラミツキとハシモトカンナ、好きですお。
そうなんだ。

旅立つって、なに?
あの世にいってしまうことよ。

旅立つって、引退でしょ?
そう、引退も旅立ちだね。
お父さん、ビデオ終りました。止めてください。
わかりましたあ。

取材ってなに?
いろいろ調べたり、聞いたりすることよ。

おじいちゃん、おばあちゃん、死んじゃった?
死んじゃったね。

中井貴一、最後おうちに帰ってくる?
病気になって死ぬためよ。

「ぜひ」「どうぞ」でしょう?
そうね。

 

2023年12月

お父さん、録画してくれた?
したよ。バッチリ録画したよ。
ハ、ハイ。

オクラ、にゅるにゅるですお。
そうだね、にゅるにゅるだね。

ちなみに、ってなに?
じっさいのところ、よ。
アベヒロシ、ちなみに、っていいましたよ。

お母さん、今年年越しそば食べますよ。
食べましょうね。

コウ君、今年なにどしだったっけ?
ウサギですお。
来年は、なに年?
クマ年ですお。
クマ年かあ!

お母さん、ほんまにって、なに?
ほんとうに、のことよ。

お母さん、寝てくださいね。
分かりました。

お母さん、良くなってね。
だいぶ良くなりましたよ。

お父さん、録画した?
したよ。
DVDにしてくださいね。
するよ。

イエヤス、国のことでしょう?
そうね、国のことをやったのね。

ぼくマツモトジュン、すきですお。
そうなんだ。

 

 

 

佐々木小太郎古稀記念口述・村島渚編記「身の上ばなし」その4

「祖父佐々木小太郎伝」第4話 株が当たった話
文責 佐々木 眞
 

佐々木 眞

 
 

 

大正3年、欧州戦争が勃発して糸値暴落し、郡是製紙会社は払込資本金十四億円余に対して、三十億余円の大損をした。「郡是はつぶれる」という噂が高く、二十円株が四、五円の安値に落ちた。

波多野翁に満幅の崇敬と信頼を払い、大の郡是ビイキだった私は情けなくてたまらなかった。波多野さんほどの人のやる仕事がつぶれるような気づかいはない。今悪くてもきっと立ち直ると私は確信し、金があればあの際限もなくさがっていく株を片っ端から買って、郡是を救いたい。波多野さんを助けたいと思ったが、まだ借金地獄にあえいでいる私に、株を買うような金なんて一文だってありはしない。

その頃、蚕業講習所拡張のため、そばにある私の所有地、三畝歩あまりの桑園を売ってくれと教師の西村太洲君から話があった。

その時私は、ようやく差し押さえをといてもらうだけの返済は果たしていたが、まだ残りの借金が山ほどあって、この桑園も二重三重の抵当に入っていたから、西村君に「売るにしてもこの借金払いをしてからでなくてはいけないし、そんなことをしたところで、私の手に入る金よりも債権者に払わねばならん金の方が多いにちがいないから、余裕のない今の私にはとてもできない」というと、西村君は、「そこはうまくやるつもりだから、まかしてくれ」という。

しばらくすると西村君がやってきて、「万事うまくいって、これだけ余った」といって、五十四円という少なからぬ金を、私に呉れたのである。まるで夢のような話で、何だかタダからお釣りをもらったような気がした。

この天から降ったような金で、私はドン底まで下がり切って捨て値になっている郡是株を買いあさった。百姓は株がきらいで、タダにならぬ間にと誰も彼も売り急いでいた。
私は綾部付近から和木、下原の方へ行って買った。買った株はすぐ抵当に入れて金を借り、その金でまた買い買いした。高木銀行がよく便宜を図ってくれた。
大正四年になると、郡是は窮余の策として六十億円に増資し、優先株を発行したが、その優先株が非常に有利な条件がついていたにもかかわらず、すっかり嫌われて、払い込みの十二円五十銭ならいくらでも買えた。

その頃私は、蚕具の催青器を発明し、続いてオタフク懐炉を発明して実用新案をとり、これは波多野さんに推奨されて大成館(蚕種製造会社、郡是の別働隊)から発売され、私はその宣伝のために各地を回った。

そのついでに私は、三丹地方ばかりではなく、その頃分工場や乾繭場が新設されて、郡是の新株式の特に多い津山、木津などへ行って、優先株を買いあさった。津山では武蔵野という一流旅館を本陣とし、いきなり女中に百円のチップを渡し、紀の国屋文左衛門の故智?に倣って、実は新聞紙が中身の札束包みを主人に預け、その主人の紹介で津山製紙会社の重役をしている田中、倉見という地元に信用のある人物を頼んで、地方の株主が売りたがっている優先株を、当時地方値は払い込み以下であったが、すべて払い込み額十二円五十銭で買うことにし、両氏は熱心に活動してくれて、買うて買うて買いまくったものだ。

一方、蚕具の方も専門技術者に好評を博し、郡長から町村長への紹介状を貰って売って回ったのだから、これもよく売れた。

戦局が進むにつれて、世界の金が米国に集まり、米国の好景気を反映して、糸況も日を追って好転し、郡是株もメキメキあがった。津山ではまだ十二円五十銭で楽に買えるのに、綾部ではすでに二十円もするようになり、毎日綾部から電報で相場をいってくるのを見て、「今日は一億円儲かった」と思った日が、三日も四日もあった。

蚕具の方は、後に大成館が会計の不始末で破産同様になり、私は旅費を出してもらったくらいのことで、売上から貰うはずの割り前は一文も貰えなんだが、そんなことは何でもなく、片手間仕事の株買いで大もうけをして、昨日の貧乏から一躍して、小型ながら株成金と地元の人から謳われるようになった。

郡是は翌五年には百億円近い大儲けをして、一挙に頽勢を挽回し、五月には優先株を抹消し、資本金二百億円となり、将来の大飛躍が約束され、株価はグングンあがった。まったく波多野さんの手腕と徳望の然からしむるところ、私の予想はちがわなんだ。

大正五年三月の郡是株主名簿を見ると、三千余の株主中、私は第二十五位の大株主になっていた! といっても持ち株はわずか七拾八であるが、この時の郡是は、まだ何鹿郡以外には出ていない時で、私以上の二十四人の株主といえば、波多野さんをはじめ葉室一統の人々、その他地方にソウソウたる素封家揃い! 私などとは提灯と釣鐘以上に何もかも段違いの人たちばかりだったのである。

昨日まで借金取になやまされて、日本一の貧乏人だと思っていた身で、「いったいこんなことでいいのか」と私は迷った。そこでさっそく波多野さんのところにお礼かたがた相談に行った。(この一条は「波多野鶴吉翁伝記」にも載せられている。以下これを引用する。)

……すると翁は、ありあわせの紙に宥座の器を描き、「この器は平生は傾いておる。水を注いで半ばに達すれば、正しく真直ぐになる。なお注いで一杯にすれば、覆ってしまう。君も自分の財産との釣り合いを考えて、ほどほどに株を持っとれば好い。私などはしょうことなしに今度はたくさんの株を持たされて、払い込みの準備などあるわけでなく、全く困っている。君もいつ払い込みがあっても構わぬ程度の株を持っとるのでなくてはいけない」といわれた。

なお宥座の器のことは荀子宥座篇にあり、魯の恒公の廟にあるもので、孔子がこれについて教えを垂れている。ただし翁は、その愛読せる「二宮翁夜話」にこの記事あるに拠ったものであろう。

この時翁は、右の宥座の器の訓に次いで、「積極と消極」ということについて教えられた。この言葉は当時一般の人にはまだ耳うとい、いわば知識人に使われていた新語といったようなもので、翁はこの新語解説にことよせて、私に処世の要諦を説いたのである。

「積極」については、「自分に確信があったら、冒険と思われるようなことでも、勇気を奮ってドンドンやれ!」と説かれたものだ。この時私の持っていた七拾八株は主として在来の旧株ばかりで、少数の優先株が交っていた程度だったが、この頃はすでに郡是はつぶれない、きっとよくなる、という確信と、私の財力にも多少の余裕が出てきた関係から、引き続き優先株買いに狂奔することができたのである。

それがためには随分剣の刃を渡るような冒険もやったものだ。津山の武蔵野旅館に泊まった時も、最初百円のチップと偽装札束を預けていちおう大尽風を吹かせてみたものの、着替えの時、旅館が蒔絵の美しい衣装箱に入れて出したのは、黄八丈のドテラにコリコリした縮緬の兵児帯、私の脱いだのは袖口の切れかけた袷にヨレヨレの木綿の帯! それを女中が丁寧に畳んで衣装箱に納める時には、私は冷や汗が出た。

そんなことから偽装札束のトリックがばれはしないかと、毎日気が気でならなかった。時々金庫から偽装札束包みを出してもらって、大きくしたり、小さくしたりして預け替えた。

金のやりくりには格別苦心したもので、店で使っていた二三人の若者を、津山、綾部間を往復させて株の売り買い、その他金策を機敏にやらせたもので、丹波紀文はついに化けの皮を現さずに最後までやりおおせて、まず存分に儲けたものだ。

それもこれも若さのさせたことではあるが、一は私の波多野ビイキ、郡是ビイキのさせたわざ、なお波多野翁積極の教えに刺激され、元気づけられたことも多く、やはりこの時も何ものかが乗り移っていたような気がする。

こんなわけで私は、案外早く貧乏あずりから脱することができて世間が明るくなり、私自身にも元気が出、青年仲間からも立てられて、その頃選挙の取り締まりが苛酷で、町の高倉平兵衛氏などが選挙違反で検挙された時、義憤に燃えて私が急先鋒になり、年長者で声望のある医師吉川五六氏を会長とし、町内青年の幹部を糾合して大いに官憲の横暴を鳴らし、間もなく今度は郡是応援の町民大会を開き、これには大島実太郎氏のごとき名士も同調し、波多野翁も演壇に立って声涙共に下る感謝の演説をされたもので、これが優先株の引き受けを容易にして、郡是の危機を救う上に役立ったものである。

これが二日会の発端となり、この二日会は今日も続いて市民の健全かつ有力なる世論機関となっている。数奇な運命に弄ばれ、しばしば逆境に苛まれつつも、まんざらすくんでばかりもいず、私は私なりに青年時代にふさわしい血の気の多い思い出もある。

私の貧乏あずりは、父が隠岐へ逃げた大正元年と翌二年とが最もひどく、三年を境目に下駄屋の方がだんだん順調にいきだして、だいぶん楽になり、四年、五年と大いに株で儲けて株成金といわれるまでになったのである。

父については次節で述べるが、大正元年に隠岐へ逃げて四年越して五年には失敗して家へ帰ってきた。この父に対して、私はまだ十分打ち解けることはできなかったけれど、父の代に重なった大変な借金ももはやきれいに返してしまったし、最初差し押さえの封印を解いて貰う時には、随分無理を言ってまけてもらった借金もあるので、そうした向きへは後から改めて挨拶し、どちらへ向いてもアタマのあがらんようなところはなく、帰ってきた父としても肩身の狭い思いをせずに済むように、世話になった人には、十分の上にも十分の感謝をし、親戚、知友、隣近所の人たちにも、私たちのよろこびをともに喜んでもらおうと思い切った大祝いをした。

まず一石の餅を一週間かかって搗き、その頃の銘酒「正宗」と「福娘」の樽を二挺買い込み、親族故旧、隣保朋友を交々招き、毎日芸者三四人をあげて、一週間の盛宴を開いた。株券や銀行の預金帳を三宝に載せ、「これだけが私の財産です」とみんなに公然と披露した。

私は、決してこんなことを、見栄や自慢でやったのではない。いわんや、さんざん苦しめられた債権者や困った時何の助けもしてくれなかった親類にあてつけでしたのでもない。あの時すげなくされたことは、皆私にとって薬だった。

父の道楽が、私を貧窮のどん底に陥れたことも、同じく私への良薬だった。甘やかされずに神の試練を満喫させられたからこそ、私も発奮し、神も助け給うたのである。
かく思う時、今は何もかも感謝であり、その感謝の微衷を表すだけのことをしたのである。

この時芸者を大勢呼んだものだから、私は急に芸者にもてるようになり、付きまとわれだした。私は三十三でまだ若かったし、ウカウカするとこの誘惑に陥って、父の二の舞をやりはしないかと、我ながら心配になった。

宴会に出たり、人を呼んだり呼ばれたり、押しかけ客もあったりして、酒を用いる機会が非常に多くなって、時間と金銭の浪費がおそろしくなった。かねて何事も波多野翁を目標とし、翁に倣っていけば間違いないと信じていた私は、翁の信仰するキリスト教に心を惹かれていた。

翁の受洗したのは、今の私と同じ三十三の年だった。私もここで入信して、シッカリと身を固めようと思い、教会通いを始めた。私は「波多野翁から洗礼を受けたい」と無理をいっていたが、大正七年二月二十三日、翁は突如として脳溢血で急逝されたので、その直後の三月十日、私は丹陽教会牧師、内田正氏から洗礼を受けた。

いわば悪魔よけにキリスト教に入ったといえば、いえないこともない。世間からもそう見られたようだが、思えば十二才の時母の眼病を観音様に祈った時から、苦しい時の神頼みに、稲荷様、金毘羅様、座摩神社、北向きのえびす様と、種々雑多の神様、仏様を祈ったものだが、いずれもそれぞれ奇跡的の感応を受け、「祈らば容れられる」という私の幼稚なおすがり信仰が、波多野翁崇拝と結びついて、私をキリスト教に行かせたのであって、結局「行くべき時、行くべきところに行きついた!」のである。

これこそ神の御摂理である。今の私は、信ずることによって、いかなる苦痛困難も、必ずみな喜びと感謝に代えて下さる神の御恵みを思い、ますます信仰より信仰へと努めはげみ、取るに足らないこの身ながら、聊かにても神の御栄光を顕わすことに精進して、神と人への奉仕に努力している。