たゞの空間のように

 

駿河昌樹

 
 

おそらく
たゞの空間のようになっていくだろう

空間を満たすひかりのようになっていくだろう

とりたてて
ひかりであろうとする必要もなく
薄闇のようでもいいだろう

漆黒の
まったき闇でもいいだろう

中心はなく

だから
縁も
境もなく
はずれもなければ
外もないだろう

 

 

 

ふいに真の恋に

 

駿河昌樹

 
 

わたしの詩の読みかたなんぞ
いいかげんである
なにをするのもいいかげんだが
詩なんかを相手にするときなんぞ
なににもまして
いいかげんである

けれども
いいかげんな読みかたをしてさえ
りっぱに引き込まれちゃったりするか
どうか
詩の見分けかたは
そこにあるような気がしている

いい詩というのは
読み手のいいかげんさを貫く
まるで
怠け者でぐだぐだで
あたまも悪い愚か者が
ふいに真の恋にだけは貫かれるように

 

 

 

発生即思い出

 

駿河昌樹

 
 

いまとなってはいい思い出だ と よく 言う

これもいつか いい思い出になるよ とも けっこう 言う

ぼくのいま現在の感覚をしゃべらせてください
毎瞬毎瞬が発生即思い出です
いつの頃からかそうなってしまって
もう
ありありと発生即思い出です
一瞬一瞬なにかが起こったと同時に思い出として思い直しているのです

あ 洗濯機がピーピー言って
洗濯の一回分を
はげしく懐かしんでいる!

 

 

 

花からもしっかりと見られているのでなければ

 

駿河昌樹

 
 

桜が咲きはじめている

もう満開のようになっている木もある
まだほとんど咲いていない木もある

ひとりひとり
異なった宿命を与えられている人の世のようだとも思いながら
桜の並木づたいに歩いていく

花を見る
花を愛でる
などと
平気で言ってしまいがちだが
見ることや
愛でることは
やはり
ほんとうにむずかしい
希少な瞬間に恵まれなければ
かなわない
ことでもある

花を見るとき
花からもしっかりと見られているのでなければ
見たとはいえないのだろう

この頃はよくわかっている

花がこちらを見てくれるまでには
ずいぶんと時間がかかり
こころの沈黙もかかる

こちらのこころの沈黙だけが芳香を発して
かれらの注意を引きよせる
沈黙が底知れぬ淵を出現させ
そこから花々を惹きつける芳香がのぼる

桜に見られたことはあるか

どのくらい
あるか

あったか?

それほどまでに
どのくらい
“居ない”
ことが
できてきていたか

 

 

 

いずれきみはそうなる

 

駿河昌樹

 

空白空白空白空白真の導師は、死のようだ。
空白空白空白空白空白空白空白空白空白ラジニーシ

 

ただ居ればいい
そのようにそこに居るだけでいい

ということを
忘れてしまっている人が多すぎて
ときどき
この世はわずらわしい

もちろん
なにを言ったっていい
叫んだり
わめいてもいい
跳ねたり跳んだり
寝転んでみたり
丸まってみたり
どうしたっていい

けれど
そんなきみは
ほら
すぐに失われていくよ

きみにとっても
つぎの瞬間
もう
いない
そんなきみ……

そう言ってやりたいことも
多いけれど
言わない

いまのきみは
死体
どのいまのきみも
死体

灰から灰へ……
という
うつくしい
正見

語るべき思いや
表わしたいこころが
ふいに失せた時に
きみでないものがはじまる
きみでないそれをこそ
きみはきみとしたほうがいい

いずれ
きみはそうする

きみが語りかけるべき相手も
きみが聞くべき相手も
すっかり失せて
こうふく
という言葉さえもう使わないきみの
とほうもない
こうふく

来る

いずれ
きみはそうなる

 

 

 

キリリ

 

駿河昌樹

 
 

わたしは抽象的なものが好きである
つかみようもないものをつかみようもなく思うのが好きである
はっきりしないものをすこぶるぼんやり語るのが大好きである

しかしながら
ことばはものに寄り添わせて並べるとキリリとする
ひとがことばならではのことばに触れた気がするのは
このキリリが随所随所に現われているような場合である

そこでいつも思いなやむのだが
抽象的なものをキリリと表わせたらいちばんだろうと憧れる
つかみようもないものをつかみようもなくキリリとやれたらと悶える
はっきりしないものをすこぶるぼんやりキリリできたらと恋い焦がれる

 

 

 

宇宙はまったく待ってなどいない

 

駿河昌樹

 
 

時間を無駄にしているのは
じんるいの
ぜんいん

わずかの木の実や草を食べるほかは
黙って
空や
海や
川や
森林のみどり
花々のとりどりの色
かたち
雪の白さ
はかなさ
雨のふしぎなやわらかさを
見ていればいいのに
風に吹かれてもいれば
いいのに

それ以外は
たゞの時間の無駄
ちからの無駄

宇宙はまったく
待ってなどいない
望んでなどいない
じんるいが
なにかをこしらえたりするのなど
ことばの連結を
理解ということだと思い間違えたりすることなど
数千年すればなにひとつ残らないのに
まるで
なにごとか成し遂げたかのように
思いあがることなど

 

 

 

人生の門出

 

駿河昌樹

 
 

最近はお風呂に蜜柑の皮を入れてみたりするんだけど
きのうは蜜柑の皮がまだ足りなかったので
どこから入手したものだったか
お風呂のわきに置いてあった入浴剤の
「空想バスルーム 柚子が実るボクの村」っていうのを入れてみたら
柚子の香りがちょうどいい感じで
色もあかるい黄色に染まって
けっこう楽しかった
だいたい「 柚子が実るボクの村」っていう商品名が楽しい
包装に描かれてある絵も子どもっぽくて楽しい
一包しかないのでどっかで貰ったものだろうけれど
なんか買い足したいような入浴剤だ
なんについてであれこだわりというもののないぼくだが
こんなものにちっちゃなこだわりを持ってみるのも
人生の門出をするのには悪くないかもしれない

そう、人生の門出
まだ一度もちゃんと生きたことがない気がしているし
生きるってどういうことかぜんぜんわからないし
どうやって生きはじめたらいいのかもわからないので
そろそろ生きるということを
してみたいと思ったりしている

 

 

 

ウェイリーからシャンポリオンまで

 

駿河正樹

 
 

語学の天才だったアーサー・ウェイリー[i]は、古典日本語と古典中国語も独学で習得し、『源氏物語』[ii]を詩的で美しい見事な英語に翻訳して全世界に知らしめた。第二次大戦後に日本政府に招聘された際、平安朝の日本にしか関心はない、と断ったという。

「日本の古文、文語を読めるようになるには三か月あればいい。三か月で誰にでもできる」と言うほどの天才として、当然の拒絶でもあったというべきだろう。彼が翻訳した『老子道徳経』には「不出戸知天下、不闚牖見天道。其出彌遠、其知彌少。是以聖人、不行而知、不見而名、不爲而成」とある。「戸を出でずして天下を知り、窓より窺わずして天道を見る。その出ずることいよいよ遠ければ、その知ることいよいよ少なし。これを以て聖人は行かずして知り、見ずしてあきらかにし、為さずして成す」。ここに述べられているのは意識に扱わせる対象の積極的な限界づけの勧めであり、大小や遠近、上下、全体と部分の違いが精神や宇宙には本来存在しないことを当然のこととして踏まえた上での、より効率的な精神の旅の指南である。

平安朝の日本にしか関心はない、というのは誰かが拵えた伝説であろう。阿倍仲麻呂の和歌について、漢文で創作したのちに和訳した可能性を指摘しているし、ラフカディオ・ハーン[iii]が日本を理解できていないと批判もしている。本人に会ったドナルド・キーン[iv]は、日本語も中国語も自由に読めるウェイリーにして、どちらも話すことはできなかったと言っているが、「日本語は、話せないというより、決して話そうとしなかったという印象」[v]だったとの留保をつけている。

ウェイリーの関係者には、単に、彼が長旅を嫌ったから、と言っている者もあるそうだが、実相はそんなところかもしれない。誤ってアームチェア人類学者と呼ばれがちな、フィールドワークをしないイギリスのジェームズ・フレイザー[vi]のことが思い出されもするし、旅行嫌いで有名だった哲学者ジル・ドゥルーズ[vii]も思い出される。ちなみに、アームチェア人類学者という表現を作って、フィールドワークをしない人類学者を批判したブロニスラウ・マリノフスキー[viii]は、批判対象にフレイザーを含めていない。彼の『西太平洋の遠洋航海者』出版にあたって、フレイザーから序文を貰ってさえいる。

ウェイリーに並ぶ古典日本語の名手といえば、『源氏物語』を二番目に完訳したエドワード・G・サイデンステッカー[ix]がすぐに思い出される。こちらの場合は現代日本語の翻訳の名手でもあって、谷崎、川端、三島、荷風などは彼の文章で世界に知られることになった。彼の英訳による『雪国』や『千羽鶴』が世界に読まれたからこその川端康成のノーベル賞受賞だったのは疑いようもないところだから、川端は正当にも「ノーベル賞の半分は、サイデンステッカー教授のものだ」と考えて、賞金の半分をサイデンステッカーに渡している。この彼が、『源氏物語』の原文の読み方について、こう書いている。

平安時代の散文を勉強するのなら、十分に読めて、原文で『源氏』の偉大さが感じ取れるくらいにならなければいけないと、いつも学生に強調している。『源氏』の本当の偉大さは原文でなければわからない。そしてその感じがわかるためには、ある程度以上のスピードで読めるようにならなくてはいけない。頭をひねりながら判読するのではなく、要するに普通に読めるようにならなくてはいけないのである。[x]

しかし、『源氏物語』について、おそらく最も刺激的で面白い文芸評論のひとつと思われるものを書き上げた吉本隆明は、サイデンステッカーのこの見解に敢然と反論する。

わたしには、「サイデン」はとんだホラを吹いているとしかおもえない。わたしはたぶん、現存する文芸評論家では、比較的日本古典を読んでいる方に属しているが、『源氏』の原文を「頭をひねりながら判読」してみても、たった二、三行すら正確には判読できない。また「ある程度以上のスピードで読める(正確にだ)ような『源氏』研究者が現存するなどということを、まったく信じていない。
(…)『源氏』のほんとの偉大さが、原文でなければわからないなどという外人の日本文学研究者のホラが、ホラでないというのなら、現代語訳や外国語訳や注釈や解説書のたぐいなど、『源氏』研究者は一切つくらぬがよい。だいいちこの「『源氏』の十年」程度の文章を自国語(英文)で書いて、日本人に訳させる程度の語学力で、E・G・サイデンステッカーが『源氏』を「ある程度以上のスピード」で正確に読めるなどと、信じようにも信じようがないのだ。
わたしは以前に宣長の『古今集遠鏡』の口語お喋言り調の『古今集』の読み下し評釈を読んでいて、宣長がすらすらと正確に『古今集』を読むことができているかどうか疑わしいと思ったことがあった。宣長のような偉大な古典学者でもそんなところだ。すこしばかり原文が読めるなどということは、何程の意味ももたない所以である。
(…)あまりに長編で、しかもその割に物語の進行は遅く反復的であることに退屈したら、きみが悪いわけではない。『源氏』が悪いのだ。わたしの経験では、『若菜(上・下)』の章が、いちばん出来がよくまとまりもあるから、まずそこを読んで、これはいけるとおもったら、みんな読んでみるのがいいとおもう。原文で「ある程度以上のスピードで」読もうなどと考えちゃいけない。一生何もせずにそれでつぶれることになるぜ。現にそんなひとは、大学へゆくとたくさん先生をしているのだ。[xi]

批評家とはかくあるべきもの、とでも言うような面白いお喋りだが、『源氏物語』は、長いには長いが「あまりに長編」というほどでもないし、「物語の進行は遅く反復的」では全くないし、「退屈」するどころではないはずで、すこし誇張し過ぎだろうと思われる。そこに批評家の芸風があるといえばあるが、もともと知的娯楽の一領域であるはずの文芸批評など真面目に受け取り過ぎる必要もないので、観客はその場その場の芸を面白がっておけばよい。

ひとつ、吉本隆明が間違っていると思うのは、語学を含めた言語の能力というのは、個々人においてずいぶんと多様な展開のしかたをするものだということを忘れている点である。おそらく、脳の使い方の多様さや我儘さ、好き勝手さ、それをいくらでも可能にする脳そのものが持つ使われ方における縦横無尽の潜在力から来るものだろう。ある程度以上のスピードで正確に古文が読めるのに、現代文はうまく書けないとか、現代語がしゃべれないなどという外国人は、いくらでもいるだろうと思われる。だいたい、吉本隆明の代表的な文章をどれでも読んでみればわかるが、彼自身がずいぶんと奇妙な言葉づかいで日本語を書く人で、わかりやすい現代文がうまく書けないということなら吉本隆明だってそうではないか、と、たぶん普通の日本人は思うに違いない。

しゃべれないということについては、現代フランス語からルネサンス期の難解なフランス語までをあれだけ見事に読解した渡辺一夫が、はじめて渡仏して恐る恐る煙草を買ってみた時に自分のフランス語が煙草屋に通じてひどく喜んだのを、弟子筋の仏文学者たちから聞いた話として思い出される。たしか、ピエール・ベールを見事に翻訳した野沢協も、話すほうはからっきしダメだったと聞いた。旧制浦和高校時代からの友人には渋澤龍彦や出口裕弘がいるが、渋澤龍彦などは、あれだけの翻訳家でフランス語の理解者でありながら会話はダメだったはずではないか。出口裕弘の場合は二度留学しているので、普通の会話には不自由はなかっただろうが、出口さんとは外苑前にかつてあったバー《ハウル》[xii]の三階で会って、ロートレアモンについての愛着をながながと聞かされたことがあったから、その時に、語学にまつわるこんな益体もない話もついでに聞いておけばよかったかもしれない。

もう少し遠い人だと、もちろん会ったこともない人だが、やはり、ヒエログリフを読解したジャン=フランソワ・シャンポリオン[xiii]のことが思い出される。9歳でラテン語をマスターするところから始まって、ギリシア語、ヘブライ語、アムハラ語、サンスクリット語、アヴェスタ語、パフラヴィー語、アラビア語、シリア語、ペルシア語、中国語、コプト語を習得していく。ロゼッタストーンの写しを18歳の頃には入手していたというから、止まるところを知らぬ天才、得体の知れないようなやる気満々の怪物である。とはいえ、現存していた言語やラテン語などは話すことができただろうが、さすがにヒエログリフの音を話すことは、彼でさえもできなかったに違いない。

吉本隆明なら、ここで、シャンポリオンの場合はヒエログリフを「頭をひねりながら判読」したのであって、「ある程度以上のスピードで」など読んでいたわけがなかろう、と茶々を入れてくるかもしれない。「ある程度以上のスピードで」読めたがしゃべれない場合の例を並べてきたくせに、おまえ、「頭をひねりながら判読」できるもののしゃべれはしないシャンポリオンなど持ち出してきて、撞着を起こしてるじゃないか、と。

そんなことはわかっているが、想いに随いながらの言葉並べをしてきての末尾には、シャンポリオンほどのお飾りも据えておきたくもなるというものではないか。この野郎、シャンポリオンをお飾りになんぞしやがって、と怒られれば、そこはまあ、もちろん、素直に怒られておくほかない。

 
 

[i] Arthur David Waley
[ii] The Tale of Genji(1921~1933)
[iii] Patrick Lafcadio Hearn
[iv] Donald Lawrence Keene
[v] ドナルド・キーン『わたしの日本語修行』
[vi] James George Frazer
[vii] Gilles Deleuze
[viii] Bronislaw Kasper Malinowski
[ix] Edward George Seidensticker
[x] E・G・サイデンステッカー「『源氏』の十年」(安西徹雄訳)
[xi] 吉本隆明「わが『源氏』」
[xii]バー《ハウル》 https://www.hoshiko.jp/barhowl/index.html
[xiii] Jean-François Champollion