遠近法に従って立つべきだ *

 

西の山をみる

今朝も
目覚めて

机の前の窓をあけて
西の山をみている

山の上の空は
少し

明るいが
その上に暗い灰色の雲がいる

今朝は
鳥も鳴かない

高速道路の騒音が聞こえる

雨になるのか
尾形亀之助にそんな詩があった

遠近法には
消失点があるのだという

若い時
宇宙の地平線ということを思った

宇宙が光速以上で拡大しているとしたら
そこには宇宙の地平線があり

その先はみえない

だけど
その地平線からこちらをみたら

消えていくわたしがいる
消えていくわたしたちがいる

消えていく地平線をみて
それで

このままでいいんだと思った

いまも

西の山をみている

山の向こうに
いまは

いない人たちがいる

 
 

* 工藤冬里の詩「(電信柱が)」からの引用

 

 

 

バク

 

小関千恵

 
 

https://soundcloud.com/ozeki-chie/ivd3umkinrpm/s-oMF5p

 

 

青草

一円にバク

ねこの眠り

天井のプロペラ

朝霧にバク

遊歩道にバク

夕食にバク

床下から出てきた実弾にバク

笑い声にバク

てのひらにバク

震え

優しさ

想いでにバク

バクはよくみえない
でも、なんとなく分かってる

カバンの中のバク
隣人にバク

みずたまりのバク
お寿司にバク

バクを恐れて
バクと眠って

バクと遊んで
バクを忘れてる

バクに呼ばれて
バクに甘んじて
一度くらいは、それを愛だと思った

心臓がバク

お腹がすいてバク

勝ちたくてバク

細菌もバク

広島と長崎に落とされたあの夏のバク

バクを落とした人のバク

わたしのこころのバク

なにを食べるの?

夢とか 時間とか

どうして 食べるの?

バク

バク

 

 


(バクの時計: Miwako Satake)

 

 

 

(電信柱が)

 

工藤冬里

 
 

電信柱が
遠近法に従って立っているけれども
小さくなっていくわけではない
でも本当に小さくなっているのだとしたら
わたしたちの悩みは
遠近法に従って立つべきだ
善悪よりも遠近の方が重要なのだ
青空は愛する
連なりの奥の
奥の
遠い夜の
その遠さを

 

 

 

天使

 

松田朋春

 
 

ピタゴラスを源流に、響き合いが美を生む音の組み合
わせを和音として整理したのが西洋音楽だった。
ながらく人はその文法のなかで音の物語を紡いできた。
音楽を言語として考えると、和音は意味の単位で、そ
の連なりが物語たる音楽である。

いまから百年ほど前にオクターブの十二音を厳密に平
等に扱うことで和音の成立を排除する反文法的音楽が
発明され、人間の魂は新たな段階に入った。

ここで「意味」と「和音」と「重力」を等号で結んで
みる。いずれも「接地」に関わる作用だと言えないだ
ろうか。月面を歩く宇宙飛行士の映像を見るたび、そ
の歩行は自由なのか不自由なのかがわからなくなる。

二十世紀の芸術は我々のなかにある「接地」を切断す
る試みであった。それはもちろん芸術に限らない。こ
れらは次の世紀に進展する「肉体以降」への最初のレ
ッスンである。

結果として、そこでは天使的なものが分離されるだろ
う。滞空して行き来する。ふれると感情が芽生える。
曲線と色彩を産出する。光をとおす。初恋や万引きを
そそのかす。

天使を感じる
殺しても殺されても機嫌がいいような午後の散策
愛の空間

 

 

 

いずれきみはそうなる

 

駿河昌樹

 

空白空白空白空白真の導師は、死のようだ。
空白空白空白空白空白空白空白空白空白ラジニーシ

 

ただ居ればいい
そのようにそこに居るだけでいい

ということを
忘れてしまっている人が多すぎて
ときどき
この世はわずらわしい

もちろん
なにを言ったっていい
叫んだり
わめいてもいい
跳ねたり跳んだり
寝転んでみたり
丸まってみたり
どうしたっていい

けれど
そんなきみは
ほら
すぐに失われていくよ

きみにとっても
つぎの瞬間
もう
いない
そんなきみ……

そう言ってやりたいことも
多いけれど
言わない

いまのきみは
死体
どのいまのきみも
死体

灰から灰へ……
という
うつくしい
正見

語るべき思いや
表わしたいこころが
ふいに失せた時に
きみでないものがはじまる
きみでないそれをこそ
きみはきみとしたほうがいい

いずれ
きみはそうする

きみが語りかけるべき相手も
きみが聞くべき相手も
すっかり失せて
こうふく
という言葉さえもう使わないきみの
とほうもない
こうふく

来る

いずれ
きみはそうなる

 

 

 

アラサー、「時間」と向き合う

 

みわ はるか

 
 

数ヵ月先に親族の結婚式に参加しなければならなくなった。
こんな書き方をすると怒られそうだが、女性にとってこれは頭を悩ます問題である。
友人であればある程度きれいめなワンピースでも持っていればたいていは無難にすむ。
しかし、親族となれば話が違う。
参加するというより迎えるという立場になってしまうのであまりにも華やかなものは好まれない。
着物を着る人が多いと聞くがこれがまた会場が遠方で、式が終わったらすぐに帰らなければいけない日程のため現実的ではない。
さらに、一昔前の人たちは着物の1着や2着自宅にあるというのが普通であったらしいが残念ながらわたしは1着も持っていない。
持っていたところで自分では着られない。
きれいめなワンピースを数着はクローゼットにしまってあることを思い出したが会場の雰囲気にはいまひとつといったところ。
物が増えることが好きではないわたしにとって今後使用するあてがない物を買うという選択肢は毛頭ないし・・・・。
うーんと声に出してしまいそうな勢いで眉間に皺を寄せているとふっと名案を思いついた。
華やかな会場でも気後れしないきちんとした洋装をレンタルすればいいんだ!
少し考えれば誰でも思いつくようなことなのだけれど、その時のわたしはこの上ない解決策を見つけたかのように顔がニヤニヤしていたと思う。
それからは早かった。
Google様に頼りながら自宅近辺の貸衣装屋さんを探した。
2つ程目星をつけて週末に来店する旨の予約をとりつけた。
これで準備は整ったとPCを閉じ、TVの前に座り煎餅をボリボリとかじっていたらいつのまにか安心したのか深い眠りについていた。

週末はすぐにやってきた。
朝が苦手なわたしは休日は昼頃まで寝ることが多いのだが、その日は眠い目をこすりながらカーテンを開け、洗面所で顔を洗った。
朝ごはんはパスして、急いで化粧を済ませると車に飛び乗った。
1件目のお店は小さな可愛らしいお店で、隣にはカフェを併設していた。
ちょっとしたアクセサリーも売られているスペースもあり、おとぎ話に出てくるような建物であった。
中に入ると先客がいたため少し待つこととなった。
普段、カフェとか可愛らしい小物が売っているようなお店にほとんど行く習慣がなかったため新鮮だった。
月ごとに違う石?をアクセサリーにして売っていたり、石?水晶?のようなものをそのまま陳列してあったり。
心の中で石がこんな値段するのかと驚いて、2、3回値札の0の数を数え直した。
しばらくするとわたしより若いと思われる化粧の濃い店員さんに案内され貸衣装が並べられた部屋に入った。
・・・・・・・・・・・・・・・・。
確かにある。数十着のドレスがハンガーに所狭しと並んでいる。
それに合わせたパンプス、アクセサリー、鞄。
だけどそれはわたしの想像していたものとは違った。
どちらかというとパーティーとか、1.5次会で着ていくようなややカジュアル系のものでリカちゃん人形に着させるような可愛らしいものばかりだった。
わりとふりふり系のものが多かったのだ。
30才を目前にしたわたし、童顔で幼く見られがちなわたし、わーーーー着られない。
ものの数分でこの店のコンセプトを理解したわたしは「すいません、すいません」とひたすら謝って、逃げるようにその店を後にした。
簡単に見つかると思っていたわたしは一気に崖の下に落とされたような絶望感にひたった。
次の店もこんな感じだったらどうしよう。
心は半泣きでナビに次の行き先を入力した。
2件目は淡い水色の外壁に守られた3階建ての造りだった。
恐る恐る入口から入ると年配のあまり化粧っ気のない、それなのにどこか上品な感じの女性がにこにこと出迎えてくれた。
ドレスは膝下で、なるべく大人っぽく見えるものがいいんだと初めから要望を伝えると、慣れた様子で何着かわたしの前に並べてくれた。
それはまさにわたしが探しているものだった。
色々試着させてもらって黒のノースリーブのロングドレスでラメ入り薔薇の刺繍が入ったものにした。
ボレロはベージュのこれまたラメ入り。
鏡の中の自分が違う人に見えて目をぱちくりさせた。
あんなにもめんどくさいと思っていた自分の衣装選びの時間がなんだかとてもうきうきしたものだったなと感じた瞬間だった。
小学生のころ、遠足のお菓子は〇〇円までだと決められてスーパーで駄菓子エリアの前をうろうろしていた時間。
なんとなくいいなと思った同級生にどうしてもバレンタインでクッキーを渡したくて慣れないキッチンの前で何時間も奮闘していた時間。
数時間のセレモニーのために事前に袴を決め、当日は着付けやヘアアレンジのためにものすごく早起きをしなければならなかった大学の卒業式。
たった一瞬のために準備する長い長い時間。
諸手続きを済ませて店を後にするころにはすっかり日が暮れていた。

ウインドウショッピングが苦手なわたし。
休日は昼まで毛布にくるまっているのを好むわたし。
いつも終わるのをまだかまだかと願って参加する職場の飲み会。
まぁいいかと下処理を省いてしまう夕飯づくり。
自然な流れだけれど疎遠になっていく友人関係。
見て見ぬふりをしたくなる両親の老い。

もう少しだけ1つ1つを丁寧に扱っていったら、楽しんでみたら、何か変わりそうな気がしてきた。
頭の中で考えすぎて疲れる前に行動にうつして見るのもいいのかな。
そういえばこないだ職場の若い子が上司から「あなたは体当たりで仕事をするから困ります」
と言われていたけれど、なんだかわたしにはそういう所が欠けているのかもと思った。
まだきっと若いから。
若さだけは誰も後からは手にできないから。
まだまだやるぞーとなんだか不思議な力が湧いてきた。

そんなことを感じながら今年初めて梅が咲いているのを発見したアラサーの夕暮れ時の話。

 

 

 

空の青 *

 

5時に目が覚めた

それで
階段を

下りて
いった

モコを起こさないように

そっと
いった

そっと
トイレの水を流した

紅茶をそっと淹れて
カップを持って

階段を上った

それで本のある部屋で岡潔をすこしひらいたのか

7時になり
階段を下りて

仏壇に蝋燭を灯し水と飯を供え花の水を替え線香をあげる
手をあわせる

モコを抱きあげる

味噌汁を作り
野菜を切り
犬飯と
サラダをモコにやる

女を送り出した

モコを抱いてた
木蓮の白い花をみあげた

今朝はそんな感じだった

もう昼が過ぎている
晴れてる

工藤冬里の”徘徊老人”を聴いている

さて
空は青い

別に付け足すこともない

Thinkin”Bout You. **
空を見ている

青い

 
 

* 工藤冬里の詩「もうだめだ」からの引用
** 工藤冬里のCD「徘徊老人 その他」収録曲のタイトル

 

 

 

夫婦

 

赤司琴梨

 
 

勤めはじめた会社の窓から見える
タワーマンションのおへそのあたり
夫婦が暮らしているのが
よく目にちらつく

旦那さんは不満を抱えているし
わたしも不満を抱えている
だから二人とも食事のとき
不注意で
自分の服を汚してばかりでいる

会社員はもうやめにして
紳士用のクリーニング屋を開いたらどうだ
紳士用スラックス 紳士用靴下
タワーマンションの一階で
全部回収したらどうだ

年金が二分の一になってしまうから
わたしも婚姻を結びました
知らない山に帰りますので
知らない人とご飯を食べますので
ことぶき退社させていただきます

洗濯バサミが足りなくて
シミの取れないわたしの抜け殻が
ベランダから飛んでいった
それから下を覗きこみ続けている

奥さんが膝を立てたままで
味気ない鶏肉を齧っているのが見える
予定通りに区切られていく鶏肉
乾いた唇

 

 

 

 

塔島ひろみ

 
 

空は青いのがよいと思った
広く、晴れわたり、カモメが悠々と飛んでいる
日が暮れて、赤く輝く西空もまた、好きだ
その空は、家々の屋根も、この部屋の汚ない絨毯も、私の指も伸びた爪も、なんとも魅力的な色に染めてくれる
そして夜
大きな月と闇の中に瞬く星
たまに渡り鳥の群れが現われ、どこへともなく飛び去っていく
空を見るのが好きだった

その空は、その、どれでもなかった
電信柱と同じ色の、そこから垂れた電線にぶら下がっているような、空だった
くすんでいた

老婆は、北風が強く吹く夕暮れに、狭い路地からぬっと現われ
卑屈さと、自信とが入り混じった醜い顔で、空を指差し
「ほら、すごいわよ」
と私たちにそれを見るように促した
「あんなに」
「鳥よ」
と嬉しそうにずるそうに言った
その方向に私が見たのは、薄汚れた屋根屋根の上にだらしなくたるむ何本もの電線、
その電線に止まる数羽の、電線と同じ色の冴えない鳥
その隙間に、そこに建つ特徴のない家々の壁と同じ色の場末の、この江戸川区西小岩2丁目の空が、少しだけあった
ちょっぴり何かを期待して見上げた私はがっかりし、視線を下ろすと
この寒さに薄手のカーディガン一枚羽織るだけの老婆の そのカーディガンの紫色が、鮮やかだった
そうですね、とだけ言って踵を返し、歩き出す
「空を見なさい!」
「空見なきゃダメだろ!」
後ろから狂った女の怒声が追いかけてくる
早足で逃げた

私だって空を見るのだ
もっといい空を知っているのだ
この坂を登れば新中川にかかる橋に出る
そこには電柱も電線も邪魔しない空が一面に広がるのに
澄んだ雲が風に流れる大きな空は、いろんないやなことも忘れさせてくれるのに
どうしてあんな空を女は自慢するんだろう

カラスの鳴き声が空のどこかで遠く響いた
橋の向こうから自転車で、高校生の集団が走ってくる
気付くと 一緒に歩いていた娘がいない
振り返る

坂の下の澱んだ場所に、娘はいた
何年も前につぶれた楽器屋の看板の脇で、老婆と並んで、空を見ていた
二人は、少し笑って、電線に仕切られた西小岩の空を眺めていた
その空は、今私の上に大きく広がるこの空と同じ、何もない、ただの、空でしかない空
同じ空だ

鳥が来た
私の頭を通りすぎて、鳥は彼女たちが見ているいびつな電線に向って飛んでいく
そこに止まる

 
 

(2月某日、西小岩2丁目街道沿いで)

 

 

 

もうだめだ

 

工藤冬里

 
 

こんなのはまだ序の口ですよ
人々は恐れのあまり気を失うんです
そのあとそれを諸国家の力で克服したように見せかけて
そこで本当の終わりが来るんです
スペイン風邪の年に生まれたA(百歳)は
車の中でそのように述べた

事は簡単ではない
書けない言葉がある
年老いて妊る正しさに曝されて
不愉快でもある
追い出される者がいる
物事は
イカの存立平面上にある
追い出された子に弓を教える
番える間が子育てだ
がエジプトから妻を貰うと
矢は放たれたままとなって
今日に至る
世界を彷徨うムハンマドは弓を習ったのだ
彼はすべての人に敵対し
すべての人は彼に敵対する
だから
悪気があるかどうか
だけを見てほしい
半面だが嘘ではない正しさの外の荒野を
ナレーターの声色で進む
荒野に抜け道はなかった
イチジクを枯らし
兄弟を許し
コンビニの界面を撫でるムハンマド
咳が出てきた

こんなのはまだ序の口ですよ
人々は恐れのあまり気を失うんです
そのあとそれを諸国家の力で克服したように見せかけて
そこで本当の終わりが来るんです

ギターを失くした渡り鳥
〽みーんな去年と同じダヨ
バッサリのバの音が足んねえ
何も忍bazz腎臓擦り潰し麺打ち
腰のある麺打ち
ブラック徳島という店に入った
そこから抜きつ抜かれつして帰ったら2時だった
それからギターを失くす夢を見て
血合いの側をアミに押し付けた
百舌が枯木で啼いている

こんなのはまだ序の口ですよ

手に取るように手に取る
クリックするようにクリックする
眺めるように眺める
でも打つように書く

人々は恐れのあまり気を失うんです

空の青
撮れる自分を撮りながら
撮れない自分を撮っているのか

そのあとそれを諸国家の力で克服したように見せかけて

「はやくおきすぎたあり」
ありはにわからはいだしていえのなかにはいってみましたがなにもありませんでした
ストーブははるがいちばんあったかいな
といういえのしゅじんのこえがきこえました
おしまい

そこで本当の終わりが来るんです

免疫力をつけるには寝るのが一番です
相模原事件を扱った辺見庸の月というのを読みましたが、震災以来よく見られる、厳粛さを勘違いしたジャーナリストの浅さのようなものを感じます
放射能やコロナを神の位置に置くと晩年を身辺整理しやすくなるので彼らはそうしているだけです
ご自愛ください

こんなのはまだ序の口ですよ

風邪の表情

人々は恐れのあまり気を失うんです

雪の山がごつごつしているなあ
遠くにあるのに

そのあとそれを諸国家の力で克服したように見せかけて

周章テル乞食ハ貰イガ少ナイ

そこで本当の終わりが来るんです

ピダハンよりも随分前に書かれたボルヘスの「ブロディーの報告書」は、ひとまとめにして把握されたくないホモ・サピエンスの宣教師の欲求を字にしたものだ。
権威において常に下位に置かれることを潔しとしない被造レジスタンスは、カフェの炭水化物の眠気の中で、ネフィリムの遺伝子を夢想するだけだ。
それを食べる資格はない!と夢で警告を与えられたのなら、田んぼにトラットリアを出すな。
永遠に、そうです永遠に、
と言う時の口馴れた’そうです’
親になったなら心に刻み込もう
現生人類の子供は親だけのものではないこと
鳥のマスクで逃れようとして
星座は酢飯の稲荷の黒胡麻と教え
畳まれた油揚げの襞を存立平面とする
大阪のライブハウスでそのばくてりあに這入られ、高知で発症した
番えられはなたれるまで歌留多する

こんなのはまだ序の口ですよ
スペイン風邪の年に生まれたA(百歳)は
車の中でそのように述べた