国立新美術館で「マグリット展」をみて

 

佐々木 眞

 

 

 

君も知るように、「巨人の時代」には「飢餓」と「呪い」と「禁じられた書物」が欠かせない。

これこそが「永遠の明証」と「終りなき認識」の「生命線」なのだから。

「哲学者のランプ」が「自由の入り口で」照らすのは「弁証法礼賛」の「前兆」だ。

「空気の平原」で「絶対の探求」を目指す「人間嫌いたち」は、「禁じられた世界」へと「炎の帰還」を果たすだろう。

ごらん、「精神の自由」と「真理の探究」を求める「狂気について夢想する男」によって、自称「スノッブたちの行進」が「再開」された。

さあ我われもすみやかに旅立って、「精神界」の「赤いモデル」を目指そうではないか。

「ガラスの鍵」を使って密かに「王様の美術館」に忍び込み、「幕の宮殿」に飾られている「イレーヌ・アモワールの肖像」から「礼節の教え」を盗み取ろうではないか。

 

 

おや、そうこうする間に、いつのまにか「火の時代」が始まったようだ。

「恋人たちの散歩道」を待ち伏せしている「不穏な天気」と「風の装い」をよくごらん。

「誓言」をもって「白紙委任状」を「テーブルにつく男」に渡した「大家族」は、もはや「上流社会」の「同族意識」など抛り投げてしまい、「神々の怒り」と「自然の脅威」の前に恐れおののいているようだ。

今では「世紀の伝説」と化した「エルノシア」では、ハムレットの代わりに「不思議の国のアリス」が「観光案内人」となって、「心のまなざし」と「美しい言葉」で「心臓への一撃」をお見舞いしている。

「アルン・ハイムの地所」を流離う「巡礼者」たちは、「手の力」で「稲妻」を呼び集め、「ある聖人の回想」が物語られる瞬間を心待ちにしているようだ。

しかし、「彼は語らない」。

「水浴の女」たちが、いつのまにか「困難な航海」に出かけたからだ。

 

 

さあ友よ、今日は「ゴルコンダ」の「大潮」の日だ。

みなが待ち望んだ「ヘーゲルの休日」だ。

「空の島」にはいかなる「概念」もその「影」すらなく、「傑作あるいは地平線の神秘」という「イメージの忠実さ」、あるいは「イメージへの裏切り」という名の「即自的イメージ」だけが、「ハゲタカの公園」で鳩のように大空にはばたいている。

「一夜の博物館」には、「心臓の代わりに薔薇を持つ女」という名の「女盗賊」が、「博学な樹」に攀じ登って、「完全なる調和」を夢見ている。

さあ「町の鍵」を深く差し入れて、今こそ「美しい虜」を思うさま「凌辱」しようではないか!

「光の帝国Ⅱ」に滞在中の「シェヘラザード」と懇ろになって、「微笑」と「媚薬」で彩られた、終りなき「会話術」と「ことばの用法」を教わろう!

「青春の泉」から「絶対の声」をくみ上げ、果てしなき「愛のワルツ」を踊ろう!

けれども「観念」せよ、汝ら老い先短い者たちよ。

お前たちは、「ヨーゼフ・ファン・デル・エルスト男爵と娘の肖像」からは「応用弁証法」を、

「宝石」と「夜会服」を身に纏った「無知な妖精」からは、「レディ・メイドの真実」の「喜劇の精神」を学ばなければならない。

昼なお暗い「オルメイヤーの阿房宮」の「座敷席」で、一輪の「深淵の花」を見るまでに。

 

 

注 この詩は、2015年3月25日から6月29日まで東京国立新美術館で開催されたルネ・マグリットの展覧会に出品されたほぼすべての作品の題名を用いてつくられた。括弧の中の言葉がそれである。

 

 

 

return 戻る 帰る

 

今度、富山に来たときみたいに酔った次ぎの日にまた飲むような自堕落をやりたいものだ。

そう、
荒井くんはfacebookでコメントした。

昨日、浅草橋で荒井くんと飲んだ。
別れたんだ。

最終電車で新丸子に帰った。

帰る場所はある。
あてどない。

 

 

 

plant 植物

 

いたね

そこにいた
生まれるまえから

生まれた
あとにも

ずっとね
そこにいた

なにも
喋らないが

軒下や

荒れた空地や

裏山や
浜辺や

砂原や

そこにいた
いのちが

あったのか
夏の街の片隅にも

いた

ヒトは消えても
繁茂すればいいさ

 

 

 

赤と黒のボールペンドローイング

 

今井義行

 

 

神田の川面のとがった金属線のゆくえに
和泉橋は架かっている 中古カメラ店はもう開いている
靖国通りを右折して、
「おはようございまあす」と迎える
白衣を引き摺る石黒ダノン
作業療法士というより歳のわかい探偵のようだ
なぜわたしが彼女を石黒ダノンと呼ぶかといえば
朝8:30にわたしが必ず食べる
発酵乳プチダノンと重なるからだ

この五月に入所したばかりだという

太陽の燃えがらを思いうかべながら
きせつのかわりめに着る服にはいつもまようんだ
──と わたしは・・・・
リハビリルームの賑わいの中で
苦笑して それから少し微笑ってみた

都合の良い丘からは相手の内面など読めはしない

大きな大きなボールを両腕に挟んで膨らんで膨らんでいくイメージ、
それから吸って吸って吸って吐いて、はあ───

かつて入院してベッドで血中の毒素を抜く
初期点滴治療を受けたとき
わたしは「詩人としての精神まで解毒されてたまるか」
とあらがったものだった
けれど いまはそういうところからは解かれている
≪一日は遠い
むかしのことのようだ≫という
さとう三千魚さんの詩句にうなずきながら

詩は たましいのミルフィーユのようですね
と思う

よく晴れた午後。
ゆるやかに蛇行する旧中川の河川敷に沿ってのんびりと歩いていった日曜日があった
そこでは名も知らぬ魚がぴしゃんと跳ねたり
名も知らぬ小さな薄紫の花がひっそり咲いたりしていた
鉄橋をくぐるとき
水面に鷺が立っていてこつこつと藻草をつついていた
吸って吸って吸って吐いて、はあ───
深い呼吸や筋肉をぐっと伸ばすことが楽しみになった

作業療法士を子どもあつかいしちゃあいけないな
と顧みて 子どもについてふと考える
子ども 子ども 子ども 子どもたち・・・・

子どもたちは 無論 天使たちではなかった
子どもたちは 人類の 素人たちだった
まだ はじまったばっかりの
何もかもが 途中の生物であるから
ときどきに 図らずして
宇宙の奥が ぎらっと顔をのぞかせるような
色彩の嵐を 広告の裏に描きなぐったり
身体に入ったばかりの ことばを
霧吹きのように 吐きだして
部屋中を 新鮮なことばの森林に変える
森林浴のなかへ差し込む 夏陽のかがやき

子どもたちは 多分 新星などではなかった

年齢を重ねると 拙いなりに学習をして

図らずして 人間のプロになってしまう
そんな喜びと悲しみを自覚できてるか
わたしたちは 生きてあることの慣れと
競走しなければ こころなど伝わらない

昼休みリハビリルームのテーブルでわたしは詩を書いた

「赤と黒のボールペンドローイング」

壁に飾られた大きな額の中に
きっちりとした横長の長方形があって
そこに・・・・・どしゃぶりの黑い針金が降りしきっている
その図柄は 参加者のアッキオが
数回の入院と度重なる自殺思念を経て
手先がたどり着いた「ボールペンドローイング」なのだという
極細のボールペンの切っ先で垂直に下ろされた
フリーラインは緻密に描き重ねられていて
その姿は至近距離で見ると真黒な霧の塊にしか感じ取れないのだが
数mほど離れた自分の座席から眺めてみると
真黒な霧の塊の間から深紅のあかい柱が等間隔に浮かび上がってきて
わたしは そのとき深紅の格子窓の向こうに広がる黑い庭に
臨んでいるような心地になったのだった───
何度かしか隣り合わせたことのない
アッキオの「赤と黒のボールペンドローイング」
わたしは格子窓の向こうの黑い庭を一緒に歩きながら
アッキオともっと話してみたいなと思った

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

わたしには 地面を見ながら
歩く 癖があるのです
哀しいわけではないけれど
姿勢が 俯き気味なのでした

地面には地面の話し声がする
硝子の欠片や蟻の姿が
よく見えて うれしい

オールド・ブラック・ジョーが聞こえる
(フォスターはminorityに共振したひとなんだ)

あ、この小石は光っているから
家に持って返ろう

散歩をしているとき地面に
八つ手の影が はっきり見えた

八つ手のグレイの影は
ひとつひとつの
指の先を大きく開いて
手を振り続けていた

わたしの靴底は 八つ手の影と
楽しく話しているみたいだった

アッキオのA4の古いノートには書きかけたことばの断片や
草むらのようなスケッチがめぐらされていた

指紋もあちらこちらに付いていた・・・・・

歌わなくなってしまったひとたちを知っている
歌わなくなってしまったおんなはひとみで歌う
なぜ歌わなくなってしまったのかはききません

音楽が奏でられると ひとみは
うれしそうに 時にさびしそうに運動している

まつげはどうしてあるのだろう
おんなは泣かない もしもの受け皿か

でも まつげとまつげのあいだには
こまやかな すきまがあるから
泣いたとしても すきまから零れます
名を知らぬ紙のはなびらの端が
花のように折れています───

下町では沢山のインドのひとと
行きかう機会もときにはあった
彼等は日本語で
逞しく生きてる 笑いながら

インドのひとと 近い空間に
居合わせるおりに
気づくことがある
インドのひとのからだの香りは
燻った シナモンの香りなのだ

老若男女問わず シナモンだ

水無月の香木──六月の薫香
それは 古代から続いている
スピリチュアルな癒しの香り
なのだろうか・・・・・

終礼の時間に司会の席で石黒ダノンが
満面の笑みで
「お酒って、とても偉大なものですね!」といった
断酒のリハビリルームでなぜそういうことばが出てくるか
参加者にも不思議すぎるし
おそらく本人にも分かっていないのではないか
でも天真爛漫すぎるのでそれはそれでいいのか
それにしても・・・・・
作業療法士というより歳のわかい探偵のようだな

「今井さん、また月曜日にね」
そういって、
66歳のアッキオは二階の階段をおりていった

 

 

 

hut 小屋

 

こだまは

三島を
過ぎ

熱海を過ぎた

空は

灰色だった
熱海の海も灰色だった

灰色の世界を生きたことがある

どこまでも灰色だった

なぜだろう
なぜなのか

わからなかった

灰色の空の下に
小さな小屋がほしいな

灰色の砂原の
小さな

小屋に棲みたいな

 

 

 

油断

 

爽生ハム

 

意思に任せて
すぼみゆく豪語
入らないよ
入らないよ
廃語になれたら
入らないよ
もう白けている
寄りかかる谷間の熱
出られないかも
この場所も昔と違うから
待ち疲れたことにする
出られないかも
嘘も承知で
出られない人が認められる
役立たないのに認められる
気持ちがいい
抱きあって平坦な気持ちよさ
やさしく入ってないよ
まだ

 

 

 

いつもよりちょっとみっともない顔

 

辻和人

 

 

ファミちゃん
レドちゃん
先日はありがとうございました
久しぶりに実家に帰って君たちの元気そうな顔を見て
安心しましたよ
もうぼくより両親の方に懐いているようで
少しさみしい気もしましたが
ぼくにもいっぱい頭を撫で撫でさせてくれてありがとう
えーっと
今日はぼくにとって特別な日になるだろうから
応援してくれると嬉しいです
そんじゃ行ってきます

ミヤコさんと横浜美術館前で待ち合わせて
奈良美智展を見る
入ってすぐのところに展示されている
女の子の頭のでっかいブロンズ像にいきなり度肝抜かれちゃった
「いやあ、ド迫力だね。」
「こういうこと思いつくのが奈良さんのすごいトコなんでしょうね。」
細いライトに照らされて
暗い展示室にぽっかり浮かんだ数体の巨大なおかっぱ
かわいいというより
深沈とした悟りきった表情
まるで大仏の首のよう
眺めながら心をうろうろさせたら
怖いかも
押し潰されるかも
でも気持ちをぴたっと岩のように静めていたら
守ってくれるかも

「面白かったですね。」
「たくさん作品見ましたけど、最初の彫刻のインパクトはすごかったです。」
美術館を出て、さてどこ行きましょう?
じゃ、赤レンガ倉庫に寄りましょうか?
ってことで
9月も後半なのでもう暑くもなく寒くもなし、時間もあるしで
ぶらぶら
「あれ、大道芸人さんかしら?」
「無料の野外ライブかな? ちょっと見ていきましょうか。」

鼻を赤く塗った若い男女2人が軽快な音楽に合わせて
器用にピンをジャグリング
3本ずつ持ったピンを空中でコロッと回転させながら交換
背中で受け止めたりして
うまいもんだねえ
20程用意された丸椅子は全て小さな子供たちに占められていて
みんな声も出せない程熱心に見入っている
あっ、男性の方が1本落としちゃった
気にしない気にしない
ペロッと舌を出して肩をすくめる仕草をしたかと思うと
以前に倍するスピードで放り始めた
演技がひと段落、盛大なパチパチパチ
「思わず見入っちゃいました。
やっぱり芸人さんとの距離が近いから。生は迫力が違います。」
うんうん、生きている体の量感と躍動感は確かに違う
見入ってる子供たち、それに
ミヤコさんの刻々変わる表情も

ぶらぶら、ぶらぶら
赤レンガ倉庫へ
外見は重々しい感じだけど、中はお店でぎっしり
それも女性が好きそうな店ばかり
アクセサリーにスカーフ、アジアン雑貨……と
「今日は買わないですけど、ちょっとだけ見ていいですか?」
今度は石鹸屋さん
色とりどりの石鹸が何やら高貴な佇まいで鎮座してる
肌にも環境にも優しいしっとりした質感、ですか?
フルーティな香りが誘う甘い眠り、ですか?
100円の石鹸しか買ったことのないぼくにはまさに別世界だな
「私、昔から香り関係が好きで、
良い香りのものには目がないんですよ。
アロマテラピーや香道にも興味があります。」
「うっとり」と現実をクールに両立させながら
ミヤコさん、楽しんでる
周りの女子の方々もみんな真剣に楽しんでる
いいなあ、楽しんでいる生身の姿ってのは
ヒクヒクッ、ピクピクッ
意志が生きて、動いてる、動いてる
いいぞ、ヒクッ、ピクッ
「つきあわせちゃってすいません。満足しました。さ、行きましょうか。」

ぶらぶら、ぶらぶら
山下公園へ
午後3時半の長閑な海を眺めながら
白い客船がボーッと通り過ぎるのを眺めながら
カモメが悠然と空に浮かんでいるのを眺めながら
しっとり手をつないで
ぶらぶら歩く
9月下旬ってのは本当に穏やかな時季
夏の名残りを感じさせながら、暑くもなく寒くもなく
「のんびりしてていいですね。波もとっても静かで。」
「ええ、山下公園久しぶりに来ましたけどきれいでいいところですね。」
海があってまっすぐな道があって花壇があってところどころベンチがあって
つまりはまあ
平板な眺めなんだけどね
ぶらぶら歩くのには向いている
奈良美智展鑑賞したし赤レンガ倉庫寄ったし
大道芸なんてのも覗いたりして
この後中華街で食事だけど、それまでまだたっぷり時間がある
このたっぷりの時間
ただぶらぶら歩こうと当初から決めている
それはね……
「ねえ、ミヤコさん、港の見える丘公園の方に歩いてみませんか?」

氷川丸を左手に橋を渡れば港の見える丘公園のふもとだ
ここからちょっと急な登り道
ぼくたちは歩くの好きだしそんなのちっとも苦にならない
イギリス館、フランス領事館遺構
「この辺、ハイカラ文化の発祥の地だったんだって改めて思いますね。」
「ヨーロッパ風の噴水多いですしね。ハイカラを意識した造りにしたんでしょう。」
平坦な山下公園と違って
港の見える丘公園は起伏があるのが特長だ
上がったり下がったり
曲がり角も多い
噴水と花壇が点在して
ベンチにはカップルの姿が
定番だなあ
デートの定番
ぼくたちもゆるい潮風に吹かれちゃったりして
定番の姿の一つに収まってるわけだ
いいね、定番
そしてもうすぐ展望台
「わぁ、ベイブリッジですね。写真でも撮りましょうよ。」

夕暮れ近い、と言ってもまだ明るい横浜港をバックに
定番の写真、撮り合っちゃいました
横では、中国人観光客の団体さんが派手にはしゃいでいる
「天気が良くてラッキーでしたね。
あの方たちもはるばる日本まで来て、いい景色見られて、良かったですね。」
「いやあ、本当に天気には恵まれましたよ。
中国の方たちにもいい土産話のネタになるんじゃないかな。
ところでだいぶ歩いたし、ちょっとあそこのベンチで休みませんか?」
さてさて
ここからが今日の本番なんだ
ファミちゃん、レドちゃん、見ててよ!

展望台からちょっと離れたところにポツンとある
さっき密かにチェックしておいたベンチに向かって歩き出す
……おい、不思議だな
思ったより緊張してないよ
花壇に植えられたマリーゴールドがすごくよく見えるし
すれ違う人の表情もよくわかる
時間がぼくのために
ゆったりゆったり流れてくれてるって感じだよ、おい

「ミヤコさん。お付き合いしてきて、ぼくは、
ミヤコさんのことがとても好きになりました。
ぼくと結婚していただけませんか?
ぼくはミヤコさんを幸せにしたいし、ぼくも幸せになりたいんです。」
「……ありがとうございます。お申し出お受けします。」

マジか?
お受けしてもらっちゃったよ?
家庭持っちゃうってことだよ?
奈良美智さんのジャイアントおかっぱ少女が見守ってくれてたのか
深沈とした表情の大きな岩の塊が、まだ明るい青い空に浮かんで
うんうん、と
ぼくの願いにOKを出してくださったのか
やったね!
今更ながら心臓がバクバクしてきた
プロポーズ記念にミヤコさんの写真を1枚撮らせてもらった
スマホに残されたのは
頬を紅潮させた
いつもよりちょっとみっともない表情の顔だった
そのみっともない顔を何よりも大事に思うぼくが
まさに今ここにいるってこと

ファミちゃん
レドちゃん
応援ありがとう
今日の最大のミッションは無事成功
まだ4時すぎ
ぶらぶら歩きをもうちょっと続けてから
中華街でおいしいお店を見つけてご飯を食べることにするよ
来月、御礼と経過報告を兼ねて君たちに会いに行くから
その時はまたいっぱい頭を撫で撫でさせておくれよ、ね?

 

 

 

swim 泳ぐ

 

めざめて

facebookをみてたら
日記のようだ

と思った

ひかりの記憶を写真で
止めておく

ことばも
すこし添える

画面を
指先でたどれば

みんなの記憶のなかに
わたしの記憶のひかりも

ある
先週の日曜日

500m泳いで
港の水面を見てたんだ

 

 

 

言文一致

 

長尾高弘

 

 

言文一致体だとか口語体だとか言うけどさ、
誰かを相手に話してるときに、
「だ」とか「である」で言い切ったりする?
たとえば、「今日は何曜日だっけ?」と訊いてさ、
「水曜日だ」って答えられたらびっくりするよね。
「水曜日である」だったらぶっとんじゃうよ。
「水曜日だよ」とか「水曜日じゃない?」とか
ただ「水曜」とか、そんなもんでしょ。
「だ」で止められちゃうのはキツイよ。
壁にぶつかってぽーんと跳ね返されるような感じがしちゃう。
「そんなこと聞くんじゃねえよ、バカヤロウ」かなんかが
ついてきてるような感じまでするよ。
普通ならさ、
相手の様子を見て、
機嫌を損ねないようにしゃべるものじゃん。
「水曜日だよ」ってさ、「よ」を付けてくれるだけで、
ちょっとほっとするんだよなあ。
逆に「水曜日だ」って、「よ」がないだけなのに
えらく横柄な感じがするよ。
「だ」でもそうなんだからさ、
「である」なんて絶対使わないでしょ。
「である」を口で言うってことで
ちょっとイメージできるのは演説かなあ。
でも、演説で「である」なんて使ってたのって、
自由民権運動とかそういう時代だよね。
今は政治家がしゃべるときでも、
「ですます」を使うと思うよ。
あの傲慢な総理大臣でもさ、
国会でマイクの前で話すときには、
「ございます」まで使ってるもんね。
そのくせ座っているところから、
「早く質問しろよ」とか汚い野次を飛ばしたりもするけどさ。
「である」はないよ。
「吾輩は独裁者である」なあんてね。
ありえない。
「である」については柳父章さんがこう書いてるよ。
《「である」という言い方は、
《実は、beingなど西欧語の翻訳の結果として、
《いわばつくられた日本語なのである。*
翻訳の結果だってさ。
つくられた日本語なのであるだって。
最初っから文章語ってことじゃんねえ。
柳父さんの文章も、
文章だから「である」てんこ盛りだよ。
そこへ行くと、「です」とか「ます」は
言い切ることがあるんだよね。
「今日は何曜日だっけ?」
「水曜日です」
こんなふうに「です」を付けて答えるってことは
対等な関係じゃないからだよね。
距離があるから言い切りの断定がびゅんっと飛んできても
手前でぽとんと落ちちゃうのかな?
でも、「ある」とか「ない」とかは対等な相手に言うんだよなあ。
「なかなかうまいことを書けたぞって思ったときに限って
あんまりリツイしてもらえないもんなんだよねえ」
「あるある!」
「ねえねえ、右から二番目の子とかどう?」
「ないない!」
ふたつ続けてでも言っちゃうよ。
「ある」なんて「である」と一字ちがいなんだけどねえ。
どこが違うんだろう?
話がばらけてきちゃったけどさ、
文章に出てくるのに、
しゃべってるときに使わねえなあってのを
あとひとつ、
逆説の接続助詞の「が」ってやつね。
「昨日は晴れだったが、今日は雨だねえ」
とは言わないでしょ、普通。
「昨日は晴れだったけれども、今日は雨だねえ」
とも言わないと思うんだよね。
「けれども」ってちょっと長ったらしいからさ、
そんなくどくど言ってらんねえよって感じだよ。
やっぱ、普通は
「昨日は晴れだったけど、今日は雨だねえ」
ってなところだよね。
別に最後は「だねえ」じゃなくていいんだけど。
でも文章で「けど」とか書いたら、
きっと呆れられるよね。
女子高生のLINEじゃないんだからって。
おっさんだってLINEじゃあ「けど」って使ってると思うけどなあ。
TwitterやFacebookでもね。
話がすっかりばらけちゃったけどさ、
言文一致体なんて言ったって、
文章の言葉は口でしゃべる言葉からは
ずいぶんずれてるってところは
最低限間違いないと思うんだよね。
前はあまり意識もしなかったんだけどさ、
最近ようやくね、
そういうことって大事だなって
考えるようになったのよ。
って言うのもさ、
詩ってのはやっぱり声を必要とすると思うんだよね。
ってことは普通の言文一致体の散文ってやつよりも
ちょっと本物の口語に近づけてみたらどうかな
ってなことも思うわけ。
でもやり過ぎると、
ちょっとうぜえよって感じになっちゃうけどさ。
そう言えば、
ちっちゃい頃、
口でしゃべったそのまんまを書くやつは
バカみたいに見えるからやめろって、
教えこまれたような気がするよ。
それで大人に褒めてもらえるように
一所懸命文章の書き方を覚えこんで、
気がついたら、
口語と文章語の区別もつかないくらいに
なっちゃったんだねえ。
変なの。

 

 

*『翻訳語成立事情』岩波新書、1982年、114ページ。

 

 

 

disease 病気

 

あまり
ならないけど

むかし
なったこともある

十二指腸潰瘍と
花粉症と

欝と

そのころ
一度に

やってきたね
谷底の地平を歩いていた

投げ捨ててみたり

奪われて
みたり

すると
病気も癒えるさ

なにも
かも

うふふと
笑って

佇つさ