なぜに泣かすか宗右衛門町よ

 

工藤冬里

 
 

9.7-13

案の定高市の顔面を凝視め左目の狂信を多糖界と誤解する美共闘右翼はサメとミツバチとカタツムリとヒトが絶滅危惧種であることを知らない

ノイズワクチンは打つものではなく打たされるものですよマクロン河野に 死ぬなら夾雑物ではなく屈辱で死ぬのです

Hasta si sufrieran por causa de la justicia, son felices

チェーン巻いたタイヤじゃんねー
https://twitter.com/TiffanyAndCo/status/1426026039977725955?s=20
あゝみんなそう言ってる
填められたか
指輪だけに

鉄と粘土は決して混じり合うことはないけれども粘土内外の鉄は1000度台で酸素があれば暖色に無ければ寒色に発色します たけし発言はまだ800度台だったのではないかと思われます そこではまだ赤くないツルハシと土がただ分離しているからです。

マサチューセッツの数学教師ノイジャンのハワードさんのアルバムに一曲参加したのがcdr(5ポンド)で出ました ぼくは藤井風さんの〽︎わしかてずーっといーしょにー居りたかあたvうわぁー〜というのをやっています
http://chocolatemonk.co.uk/available.html?fbclid=IwAR0fHYvsnbOaXjCjEkPKikJ8-aIv553KgZ0NNQOvqQ_MYSjWN9s95EOGCsY
https://howardstelzer.bandcamp.com/track/sayonara-baby

河野とは麻生の度の強すぎる現前であり麻生とは眼前180度バチカン逆虹展開でありコオロギは波動測定器である

三省の「切り株の歌」は直感としてたいへん優れている 石飛礫は石化した木であり、山は切り株であり、木として切り出された岩は主権国家群を打ち砕くからだ

No tenían Esperanza

爺さんなんか始めたぞ
https://youtu.be/hI3IHj4Lo0A

自然には非常に人工的な部分があり、私たちは総ゆる自然に感動しなければならないという強迫からは自由にならなければならない
植物の方が本質に近い形状を維持している シリカ系鉱物は植物から派生しているようにさえ見える 陶芸とは鉱物と植物を初源に近づけることである
石油由来の新建材の家を見ることの不快と自然を対立させてはならない
ボードレールやマッタクラーク、赤瀬川が発見したとされる美は、自然と相反するものではない それに対して民藝の美は、木や石を固定化するという点に於いて旧来の自然観そのものでしかない
ランボーは奇跡的に正しいことしか言わなかったが、それは彼が無意識のうちに近代の自然感から自由であったからにほかならない モダンであるということはモダンから自由に動けるということなのだ
それはパリコミューンの茶番を見据えるということだった

エシュルン
正式な称号の下に腕

レモンは不作でミントは終わりかけているが黒糖の喜界島でモヒート
soapを辞めて地球がフラットだったらどうするつもりなんだろう 白頭山に戻ってくるかな

宮台がゴミと呼ぶものの中にいつも争点は含まれている 僕らは一群のゴミとして蠢き渦巻く
(まだその時期ではないという理解によって)「奥深い事柄」を知るようにならなかった者達は幸いである

国の究極の使命は国民の生命・財産、領土・領海・領空・資源を守り、国家の主権と名誉を守り抜く事は不可能でしたと明言することです
みんな何歳なんだろう 学校教育って恐ろしいな
日本劣等北からいただくはBoss the MCだったが北からの一世代前の歴史が総てまやかしであるという伝言ゲームは従軍×慰安婦はなかったというような歴史認識を利するとも気付く 「アウシュビッツはなかった」「アンネは捏造」とかは北ボス同士の妬みと羨望を利用された形
科学は真実を追求する学問ではなく、支配層のための仮説を多くの場合数式を使って実証する体操であって、脳がバイパスを繋ぎ直すことに似ている 数式の単純が賛美されるのはそれが前提として遠回りだからである
例えば白を黒と言うために出来るだけ単純化した式を考えること
単純であればあるほど付随的に美と呼ばれます

Prosigo hacia la meta


https://youtu.be/c1GUM0BEfqw

知り合いの美術家の頭にブドウを生やして野に立っているだけのパフォーマンスを見に行くとまだ生きている しばらくはまだ生きていると言う 鰐の泳ぐ川べりをふと見ると逸れて居なくなっていた女の子もパラレルソサエティのように歩いている あれが橋かよと村の人が言う 女の子は鰐に持っていた魚を与えるが鰐は食べてくれない
自分の頭にブドウを生やした彫刻家はまだ生きているので、村の中に設えられた楽屋のようなところに何人かの美術家と溜まっている 説明を読み周到に用意された空恐ろしい展示であることが知れ愛着を感じるが御暇する 便乗家達は切り返し出来ないクジラのバスを吊り損ね民家の屋根を壊してしまう

昔は「パチンコ行ってくるわ」と言って出て行ったのが今は「閉じた系に於ける量子時間結晶の観測」と言うヒモ いや道後ミュージックの子らに訊いたらもうヒモは死語だし離散したって

星取表戦後統治の折り込まれ

Estén llenos de fruto justo

CyTwombly

ウクライナの友人から届いた非常に情報量の多い焼き物
仕事量は資本主義の詰み具合に準じ、即興と偶然のパラメーターは十五代吉左衛門に近似する

正当性を標榜することの終わりを説明する時に目が泳いでいてはいけない

さびしく、再び会いたいと思っている
弱くて無力な人を特に深く気にかけている
数年以内に100万種以上絶滅
たとえ透明人間であってもメタな設定の配役を増やすことは出来ない
大変であることが分かっていても産んで育てるのは優生や駆除の逆の位置
一人も滅ぼされることなく、全ての人が悔い改めることを望んでいる
もらい泣きではなく死そのものをさびしく思う
忍耐しながら寄り添う
俯瞰してまとめる力

万緑に花の一瞬途絶えたり
と手帳を読み上げたのは何年か前に僕に書いておけと言われたものらしい
名句じゃないか!と僕は自画自賛する
すると日曜版の子供俳句に
万緑におしっこくさい犬のそば
というのもあります、と言う

組曲わすれこうじをやっと返却した. 名指す時の通例を変えてみることを学んだ. たとえばうたう黒い円盤、とか. 河岡義裕「新型コロナウィルスを制圧する」(文藝春秋)を借りる
図書館車に90のお婆さんがまた加藤周一日本文学史『序説』補講二冊を寄贈すると言って持ってくる。バカだから二冊買ってたの、と言う

 

 

 

#poetry #rock musician

最後一次睇吓呢個風景

 

Sanmu CHEN / 陳式森

 
 

最後一次睇吓呢個風景
妳如是說

如是雙重的季節向妳致意。

等一等,黑沉沉的玫瑰;
重傷的青銅已沉默不歌。
不辭的心充盈着秋闇的餘輝。

等一等,賦格的玫瑰;
醉舟離開妳睫毛的星座
離開星星的群島。

等一等,不眠的玫瑰;
詩節骨離,杯酒往何處?
最 !
瀝血的刻度寸斷象牙。

以後,我詩中的玫瑰不再是玫瑰。

.

 

 
 

・翻訳はこちらで
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夢の ウグイスダニ

 

今井義行

 
 

いまは どこも コロナ禍で 閉鎖されて

しまって いるのだろうけれど

ウエノ アサクサ ウグイスダニは

東京の 3大・男街で

わたしは ウグイスダニの かなり古い

旅館へと 足繁く通う 常連客だった



番頭さんに 2000円 払って

「きょうは ちょっと 遅いんだね」なんて 言われて ロッカーで

浴衣に 着替えて 2階の部屋へ のぼっていったりした 部屋は 全部で
4つあって わたしのお気に入りは 薄ら陽の射すミックス・ルームだった・・・



そこには 4つの 蒲団が 並べられていて 天井には 紅いランプが

灯っていた そこでは もう 浴衣を脱いで絡み合っている 人たちもいれば

浴衣を着たまま うつ伏せになって

相手を 待っている 人たちもいた



わたしは 浴衣を 着たまま

仰向けになっているのが 好きだった

誰かがおとずれて 浴衣をめくられ

なすがままにされるのが 好きだった

・・・・・・・・・

ひと遊びしてから わたしは風呂に入った

そして からだを 丁寧に洗ってから

もう夜になっている ウグイスダニの街へ出て 屋台の焼き鳥屋で 焼き鳥を
食べながら コップ酒を2杯呑むのが 好きだった



そのあと わたしは 夜の ウグイスダニを 徘徊するのが 好きだった・・・

ラブホテル街を 徘徊していると

あちらこちらに タチンボが立っていた


ニホンジンも居れば ガイコクジンも居て 

わたしは 幾たびも 声をかけられた

わたしは タチンボを 買う気は無かったのだが ある通りへ出たとき

小さな交番があって 2人の若い巡査が 立っていた



小さな交番の前には 小さな通りを挟んで 

ガイコクジンのタチンボが 客引きをしていた 「オニイサン ドオオ?」

目の前で 客引きを しているというのに

2人の若い巡査は 何にも 言わなかった

不思議に思ったわたしは 若い巡査の1人に 「・・・あの 余計なお世話かも
しれませんが あのガイコクジン女性 注意しなくても いいんですか?」

「ああ いいんだよ 彼女は 若いアルゼンチーナで 毎日の生活が かかっている
んだもんね」

「ああ それは そうですよ ね」

「上司が 目を 光らせているわけでもないし 今では 彼女とは 友だちだよ おーい アルゼンチーナ 今夜の売り上げは どう?」

そうしたら 若いアルゼンチーナが 交番に近づいてきて

「オマワリサン コンヤハ ダメダメ」と 大げさな身ぶりで 答えた

「・・・ここのところ 何にも 事件が 起こるわけでもないしねえ ああ 
ちょっと お腹が すいてきちゃったなあ おい アルゼンチーナ 
それから アナタ せっかく会ったんだから めしでも 食いにいかないか? 俺が おごるから」

「アア イクイク」と アルゼンチーナは 跳び上がって 喜んだ

「じゃあ わたしも ご一緒させて もらいます」

「それじゃあ 行ってくるわ」と 巡査が もう1人の巡査に 言った

「おう 楽しんでこいよ」



わたしたち3人は 近くのラブホテルの1階にある ひなびた定食屋さんに 
入った

「いらっしゃーい おまわりさん! あら 今夜は 3人連れで 何だか 楽しそうねえ・・・!」

初老のおかみさんが エプロン姿で そう言った



わたしたちは 4人掛けの テーブルに座って 店に貼ってある メニューを見た

「俺は 天津丼!」

「アタシハ ショウガヤキテイショク!」

「アナタは 何にする? ここの餃子は 皮から手作りだから 美味いよ」

「じゃあ わたしは ジャンボ餃子定食!」



「せっかくだから ビールでも 飲もう!
オーイ おかみさん 瓶ビールの大きいやつ とりあえず2本ね」

「はい はい」

・・・・・・・・・・・

しばらくしたら 湯気を立てた 料理が運ばれてきた 

わたしたちは コップに ビールを注ぎあって 「かんぱーい」と 言った

「くうーっ ビールが 冷えてて 美味いこと!」

「ワタシノ ショウガヤキテイショクモ サイコウーッ!!」

「ああ おまわりさん ここの餃子 皮が モチモチしてて うま~い!!」

「・・・だろうっ?」

「おかみさーん ビール あと2本追加」



わたしたちは 最近あった 出来事など

ああだ こうだと しゃべりあって

顔を 赤く 火照らせながら

2時間くらい 楽しく 過ごした


・・・・・・・・・・・


「さあ そろそろ それぞれの持ち場へ

引きあげると するか! アナタはどこから 来たの?」

「調布市から 来てます!」

「気をつけて 帰りなよ また会おうな!」

「はい」

「オマワリサン ゴチソウサマデシタ」と アルゼンチーナも 言った

「JRの 山手線 間にあうかな」と

わたしも 言った


「また 待ってるよお」と
定食屋さんの おかみさんも 言った

わたしたちは 外へ出て

お月さまが 煌々と出ている 空を見た 



「ああ いい気分 おまわりさんなんて

バカバカしくって やってらんねえよ!」



そうして わたしは 巡査と アルゼンチーナに 手を振って

「じゃあ また 今度ね」って 言った



・・・・・・・・・・・



そういう 出来事から ずいぶんと 経つけれど わたしは もう 彼らとは 
1度も 会ってはいない


夢の ウグイスダニで 彼らは どうして いるのかなあ・・・なんて ときどき 
思い出したりは するけれど も・・・

・・・・・・・・・・・



わたしは今 東京の下町の  「平井」という 街に住んでいる

平井は おじいさん おばあさんの多い街だ



平井の駅前にも 小さな交番があって

わたしは 駅前に出る度に 交番を見てしまう



すると やはり 若い巡査が 立っていて  重いショッピング・カートを苦労して
押している おばあさんに つかつかと 近づいて 
ショッピング・カートを 一緒に押してあげたりしているのだ・・・


そんな時  わたしは 「こうゆう おまわりさんもいるんだな」と 
つい 思ってしまうのだった・・・・・・・・・・・



 

 

 

恋の病

 

小池紀子

 
 

好きで好きで
胸が締め付けられる想い

まるで熱病のように
恋焦がれる

はやる気持ちが止められなくて
君への想い 溢れ出す

今すぐ君の元へ駆けつけたい

僕だけの君でいて欲しい

いつか雑誌で読んだ
大人の恋なんて
僕には出来ない

 

 

 

この夏の霊魂をのせた一艘の舟が揺籃の地を過ぎるとき

 

駿河昌樹

 
 

ほとんど言わないことなのだが
たまに
言っておいてみても
いいかもしれない

わたしは
じぶんが書くものが誰かに読まれるとは
思っていない

誰かに読まれたことがあるとも
思っていない

いずれは読まれるだろうとも
思っていない

そのように思いながら言葉ならべをする人
わたし

ヘンだとは思わない

わたしは厖大な書籍を所有しているが
古いものは
現代では
まったく読まれていないのを知っている

うちからは十五分も歩けば古書店街に着くが
そこには
かつて発行されたものの
今では好事家にしか見向きもされない本が
まさに山積みされている
本が貴重な尊いものだなどという妄想を一瞬に打ち砕くには
絶好の光景がどこの古本屋にも見られる

書くのが
なにか意義がある
などと
思うのが
どうかしているのだ

書けば
ひょっとして
読まれるかもしれない
などと
期待するのが
どうかしているのだ

読まれたら
どうにかなるのだ
なにかが起こるのだ
などと
考えるのも
どうかしている

読まれる
というのは
書いた者の期待するような読まれ方をする
ということで
パラパラ
ページをめくられて
適当に断片的な言語印象を拾われていくことを意味しない

だいたい
書いた者も
書いた者の未来に
裏切られ続ける
続けていく

本というのは
作ってしまったが最後
死屍累々の紙束のひとつになるだけのことで
それ以上のなにかとして
残るかもしれない
などと
期待するのは狂気もいいところ

ソ連が崩壊し
東ドイツが崩壊してから
しばらくして
マルクス主義専門の古書店に行ったことがある
政治や経済の本はもちろんだが
マルクス主義的文芸批評や文明批評や精神分析の本まで
ごっそりと並んでいて
本や思考や精神が一気に無効化していく現場を眺めていた
『腹腹時計』なども売っていて
あ、これがあれか
これが…
などと
ランボーみたいな反応をしたが
それだけのことで
革命は流産していた
暴力は遠い老人だった

もちろん
本は使いようだから
帝国主義的発想や連合赤軍的文明批評や
オウム真理教による悟り方全書だって
いくらでも価値はある
しかし
それらを論文のための思考の助けに使うことはできなくなる
資料としてしか
もう使えない
その際にも周到に注をつけ
説明を加えながらでしか
使えない

わたしは短歌結社に入っていた頃
毎月発行される歌集をさんざん貰ったり
買ったりしていて
年間で優に数十冊は溜まっていったものだったし
それらのどれもそれなりに面白くはあり
作者の思いというものにそれなりに触れた気になったし
いちいち礼状を書いたし
いちいち感想を書き送ったし
その後に作者に会えば「いい歌集でした」と
紋切り型のご挨拶から始めたものだが
いま手元に残っているのは
もう
一冊もない
ぜんぶ古本屋に売ってしまった
古本屋の中には「こんなの貰っても
ぜんぜん売れないから燃えるゴミなんだよね」と
正直に言ってくる店もあったりで
数十年そんなことをくり返すうちに
歌集というのはまったくなんの意味もないと思い知った
意味が多少とも出てくる歌集というのは
出版社が費用を出してスターを作ろうとする時の歌集で
それ以外の自費出版はなんにもならない

スターというのは
どのようにしてなるのだろう?
馬場あき子に何度か言われた
寺山修司は中井英夫のお稚児さんになってまでして
ああして出して貰ったんだからね
中井英夫に尻を差し出してね
なるほど
そうしないと
スターにはなれないのだろうか?

詩集も同じことで
いろいろな人からたくさん貰い続けたものだし
中にはなにかの賞を取ったものや
いろいろと取り沙汰されたものもあったりしたが
引越しのたびに手放し
何度も引越ししたいまでは
もう昔に貰った詩集も雑誌も一冊も手元には残っていない
自分の書いた詩が載っている詩誌さえ
いまの住まいに越すにあたっては全部売ってしまった

あちこちで買い集めた
かつて
ちょっと著名だった詩人たちの詩集も
ほとんど手放してしまった
西脇順三郎全集も売り
ほとんど持っていた入沢康夫もすべて売り
清水昶を売り
清水哲男を売り
飯島耕一だけは好きだが買わなかったので売りさえせず
石原吉郎は残し
ほぼすべてを持っている吉増剛造はすべてを残しているが
たぶんもう読まないだろう
と思いつつ
サイン入りの『熱風』(中央公論社、昭和五十四年)をこの前見たら
これは面白く
見直し始めている
1990年代に盛んに書いていた団塊の世代の詩集は
すべて捨てた

稲川方人だけは手元に起き続けている

堀川正美の『太平洋』の初版は持ち続ける

現代詩文庫はほぼ全部を持っていて
ほぼ全部を読んだが
詩を一度いちおう読みましたというのは意味をなさないので
だから何だ?
ということでしかないがもう読まないと思う

  ああ、霊感がいっぱい、あたりまえのこといっぱい*


吉増剛造

  この夏の霊魂をのせた一艘の舟が揺籃の地を過ぎるとき**
  この夏の霊魂をのせた一艘の舟が揺籃の地を過ぎるとき

  この夏の霊魂をのせた一艘の舟が揺籃の地を過ぎるとき
  この夏の霊魂をのせた一艘の舟が揺籃の地を過ぎるとき


吉増剛造

 

 

*吉増剛造『熱風』(中央公論社、昭和五十四年)p.66
**吉増剛造『熱風』(中央公論社、昭和五十四年)p.122

 

 

 

浜辺で会った

 

さとう三千魚

 
 

ここのところ
アレクセイ・リュビモフのピアノを聴いている

リュビモフの顔は

死んだ

義兄に
似てる

平均律クラヴィーア曲集の第一巻

前奏曲を
聴いてる

繰り返し
聴いてる

そこに

義兄がいて
兄がいる

母がいる
父がいる

中村登さんがいる
桑原正彦がいる

一昨日だったか


河口まで自転車で走った

河口にはサーファーたちが浮かんでいた
ノラたちがいた

空は曇ってた

海浜公園では
ヤマダさんに会った

ヤマダさんはサッカーの選手だった

いまは
育成の仕事をしているといった

義父が亡くなって
みんなで見送ったといった

よくしてもらった
といった

いまあるのはみんなのおかげだといった
感謝しかないといった

 

 

 

#poetry #no poetry,no life

冷たいブギーにしてくれ

 

工藤冬里

 
 

8月30日-9月6日

カワラタケを見つけたので煎じて飲む
癌に効きます

鳥や蝉を吉濱君のmaxで遅くしていた頃は豊島はまだのどかで、話題に上るのは処理場のことだけだった。

上の水は全部落ちたのではない。虹が映る程度に落ち着いただけだ
比喩なのではない。比喩的なのだ
残り10巻で教えようと思っていたことをネタバレ注意の但し書きなしで吹聴するのが奴らというわけだ
見ても見ても見切れないのはそのためだ
空海のカバラい金
「モーターボートの
湖水を走る
本能の城」

ロケットのことだったんだよ露助さん
風物詩
熱帯夜金魚鉢から外に出て浅い眠りを起きる勇気か
憂鬱https://youtu.be/AFn2ogJZoPU

もう森へなんか行かないp81「静寂のなかで黒貂がざわめく」に鉛筆で傍線、William Blake “Tiger”(?)てふ書き込み有驚愕
1世紀以上ユスターシュやってるわけだご苦労さま

ハリースミスはカバラだからだめだ

残雪「突囲表演」はマンボーのさなかに読むと「なんどいえないほど素晴らしい」。もちろん、その「なんともいえない」ことの感じ方は人それぞれであるが。

デュジャルダンと黒田夏子はジョイスを通して繋がるのだが、それによって要支援2とか要介護Iとかのモードに入ったデュジャルダンなどというものが人気のない真剣さとして出版されていかざるを得ないのである

同郷の三品君の二冊目を見る。いま、なにが書けるだろう、とある。そうだろう、タリバンが撃つアルカイックを雑貨と呼ぶ覚悟ならザッカバーグから削除されるくらいの知識は必要だ。

「短歌をたのしく」という百円本の、黄金町の生方たつゑの顔をじーーーーーーーーーーー ✖︎ Xっと見る。ギギの顔は思い出せない。

シンプルなアプローチには勇気が要ります
難解なものや数字はだめです

人を物のように見ない
物を人のように見ない

真実を語るのはなんでも価値があると思っているかもしれないけど、得意そうに悪霊の真実を語るのは意味がない。その組を潰すためにチンピラの性癖のあれこれをスッパ抜いてもしょうがないのと同じことだ。スパッと親のタマを取るのはそれより強い勢力だからだ。

ヨテンボリのマグフォールさんから貰った冷たいブギーを探していたらシングルのテスト盤みたいなのがあったんだけど中にempressも裸で入っていてそれを聴いている雨

冷たいブギーにしてくれ
ジェフリー・リー・ピアースはメイヨの音程とイアンの声質とさらにその二人にはないさらけ出しヨーデルを併せ持った英雄だったんぞなもし

本州を板にパドリング、ですな
https://twitter.com/monaural7/status/1433215101692112897?s=20

アートペッパーとempressは一見関係ないように思うけれど頭蓋の中のコロナ脳を響かせる点で同一のはみ出した音色を持っている
ホンダのガソリン車のアクセルの踏み込みの感じも少し似ている
結果的に命より大事なツイートになっていく
いつの間にか後続の車がいなくなっている
ミキシングの中央のクリック音 異様な前景
これが絵画に於ける象徴界てやつだ

家から出られない猫が幸福であるように金魚鉢の中の人類も自足することが出来る。鏡を貼った店の奥行きに我々は安心する。
水の上を歩き、空に溺れること。虹を逆さに眺めること。

送った荷物大丈夫なのか

ニコラは泣きそうな笑顔の大柄な人でempressの後はパートタイマーというのをやっていた。泣きそうな大柄な人

bitterendが”貧困”後のカンヌで勝ちに行ったハルキ映画がヒロポン抜きのMC(マイ・チェーホフ)で趣味はフラットアーサーいじめといった通俗ラノベ宇宙の舞台は半導体抜きの日台韓にタクシードライバー経由電通ロードムーヴィー要素。人力のドラムは良かった。

Cesen de amoldarse a este sistema de cosas

金銀銅の序列は文化や版図ではなく滅したり開放したりする関わり方であった。ところが鉄は貴金属とは異なっている。それはひたすら強度に関係している。それは最終的に粘土と対比されるために存在している。

投げ入れて投げ入れて海馬選択岐
洗えば済むと思っているのか
これがそれだ
あれじゃ死ぬわな
と思った

地震の際、水、通信等に関して「なんともない部分」が必ず残っていて、原爆体験がある場合二度生き残ったことになるわけだが、逆にそこが問題なのだった

 

 

 

#poetry #rock musician

風鈴

 

みわ はるか

 
 

近くの神社でたくさんの風鈴が飾られているというのを広報で知った。
風鈴好きのわたしはすぐにとことこと早足でそこへ向かうことにした。
その日はうだるような暑さ、もこもこと存在感をあらわにする入道雲、けたたましい蝉の鳴き声がそこら中で聞こえるような日だった。
黄土色の涼しげな帽子、日焼け止めを露出する肌に塗り、黒いサンダルで出かけった。
サンダルから覗く足の爪は赤かった。
そういえば昨日自分でマニュキアを塗ったことを思い出した。
街は以前のような活気はなくなってしまったけれど、みんな静かに夏を楽しんでいた。
玄関先の朝顔に水をやり、しっかりと庇をつけたベビーカーを母親らしき人が押し、キャップをかぶった若者は汗を滝のように流しながら走っていた。
夏、それだけでなんだかとってもうきうきする。

神社に着いた。
それは見事な風鈴たちだった。
赤、黄、緑、青、紫色の5色が隣同士被らないように丁寧に吊り下げられていた。
風通しがよい場所なので一斉に音色を奏でていた。
同じ方向になびく何百もの風鈴。
首が痛くなるのも忘れてずっとずっと見上げていた。
まもなく夏が終わる。
ものすごく残念で悲しい気持ちになった。
いつまでも見ていたかった。

築100年はたっているだろう茶屋に入った。
小柄で白髪のかわいらしいおばあさんが1人で経営していた。
数席あるカウンターには常連客らしいおじいさんが静かにコーヒーを飲んでいた。
何か話すわけでもなく、ただただ静かに時の流れを楽しんでいた。
縁側には中年の髭もじゃのおじさんがヨレヨレの赤いポロシャツを着て座っていた。
煙草をそっとふかしながら庭を眺めていた。
眼鏡の奥にはつぶらな瞳がひそんでいた。
わたしはあんみつを頼んだ。
少々出てくるのに時間はかかっていたけれど、1つ1つ果物、餡子、寒天がとてもきれいにカットされていた。
甘すぎず、ちょうどいいお味だった。
木造の家屋、昔ながらの柱や土壁、黒電話・・・・・・・。
定休日がなく、マスターの気まぐれでクローズする。
全てのガラス戸や窓が開放されている。
相変わらず蝉の鳴き声が響いていた。

帰りに駄菓子屋に寄った。
昔買ったペロペロキャンディーとショウガ味の豆を購入した。
まだこういう店が残っていることが妙に嬉しかった。
小さなかごをぶら下げてまた来よう。
この時だけは小学生のような純粋で素直な自分になれる気がする。

「夏」、静かな「夏」の終焉をまだもう少し堪能したい。