星や木や動物や人間

 

工藤冬里

 
 

夜通しであっても
母音の形の僅かな違いを聞き 聞きたいとも思っている
どんなことを聞きたいか 
通り道に 
水の中にあるものに似たものに向かって装飾される母音ではなく
信頼されていることを子音の骨は欲している
自動精算機の認知の入った繰り返しに友情を感じるだろうか
俯いても上を向いても座っていてもその清掃員は目を閉じていた
正しい指揮法のタクトの軌跡が
投げ出されたthreadの光の線のように番号を振られて
賭け事に祈りを持ち込まなかったplayerのprayer 蛇の代わりに魚
毎日かかってくるフリーダイヤルから 樺太につなぐ
エル・グレコ色の壁
星や木や動物や人間

 

 

#poetry #rock musician

塀の外へ

 

さとう三千魚

 
 

昨日
こだまに乗った

いつも
こだまに乗る

11番A席だった

海側の席に座り
由比と

熱海と
小田原で

海を見る

新宿駅で降りた
中村屋で秋艸道人の書を見る

横浜の新高島駅のBankARTでAyakaのタイ語の絵を見る
URUNOの動くオブジェを見る

塀の外へ

歩いてみる
残るものがあるのか

歩いてみる

 

 

 

#poetry #no poetry,no life

岬のひと

 

野上麻衣

 
 

そのひとは
たっぷり
水辺を泳ぎきり
海のさきっちょをながめて
舟にのった

とってきたばかりの
檸檬をしぼる
その手で
波にふれ

海鳥の声に
しんと沈んで
オールを漕いだ

ずっと ずっと
ながめていれば
ひとびとは
とおくに ちかくに
波になびいて

安心して。
風がはこんでくれるから。

あの場所は
いつものつづき
うたっているのは
岬のひと

 

 

 

「ご主人」とか「奥様」とか呼んではいけない

 

駿河昌樹

 
 

       人間は、自分の目の前を通り過ぎていく事件の
       真の原因も影響範囲も、ほとんど見抜けないものである。
               クレメンス・フォン・メッテルニヒ

 

住宅会社のPR書籍の企画・編集の話を
ときどき仄聞する
あってもなくてもいいような本を
とりあえず予算がとれたからということで
その会社の中心にない部署の人間が
なんとか本でもでっち上げて存在証明をしたい
そんな事情で右往左往しているだけなのが
傍で聞いているとよくわかる

それはいいとしても
こういう本は漠然とした世間にむけて作られるため
世の中の現状に敏感に反応する
デュルケームなら「社会的事実」と呼ぶだろうような
なんらかのリトマス紙を使ったり
巧妙適切な抽象化を用いたりして
はじめて認識できるかたちで出てくる状況が
こういう企画によって鮮やかにつかみ取れたりする

住宅を注文してそこに住むようになった顧客を
「ご主人」とか「奥様」とか呼んではいけない
という指示が会社からライターに出ているという
ではどう呼ぶのかというと
夫のことは「オーナー」と呼べというらしい

営利目的の店舗の所有者や使用者なら
「オーナー」で問題ないだろうが
一般の住宅の男性所有者を「オーナー」と呼ぶのは
やはりおかしな気がする
しかし頼まれて文章を書くライター稼業では
発注元のクライアントの意向に従う他ないので
住宅会社の要求通りに「オーナー」と書くのだろうが
日本語のふつうの使い方を平気で無視する
こうした企業の思いつき通りに作文を続けると
数年のうちに日本語は変なほうへと歪んでいく
歪み切った日本語がすでにまかり通っている

もっともこの話を耳にして
「ご主人」や「奥様」に違和感のあった私などは
これらの言い方を避けるのももっともだとも思う
男女平等で共同で暮らしているというのに
どうして男が「ご主人」で女が「奥様」なのか
歴然とした差別と身分分けが入り込んでいるではないか?
少年時代からこのようにつよく感じて
「ご主人」や「奥様」は個人的な忌み語のようになり
これらの表現を口にせざるをえない場合は
なんとなく声が低くなり不明瞭な発音になって
コミュニケーションに微妙な不都合が生じた
「旦那さん」なる言葉も非常に不愉快に感じた

「夫」はともかく「妻」という言葉さえ
刺身のツマのようなものを想起させるので
なんとなく言いづらい気がした
実際に現行の漢字表記だと「妻」と書いて
刺身のツマを表わすので露骨でもある
辞書にはちゃんと「主となるものに添えるもの」
などと説明が書いてあったりもする

私自身の中では理屈上は大いにけっこう
ようやく日本語もまともになって来つつあるか
などと思いはしながらも
これらの表現が使えなくなるとなれば
現実の運用面では非常に不便にもなるのがわかるので
コミュニケーションを取る対人面の「私」には
これはけっこう困ることになるなと思ったりする
ひとりの人間の中ではこういったことにおいて
すっきりと統一などされていないわけで
どうしようもなく内部分裂していたりする

自分の妻のことを「嫁」と呼ぶ男たちがいるが
これなどは「ご主人」や「奥様」以上に
激しく違和感のある言葉に私には聞こえる
東京の人間は絶対に妻を「嫁」とは呼ばない
地方に出かけてこういう表現を耳にするのならば
その地方の方言として聞くからいいし
女性が嫁いだ先の義父母が女性を呼ぶのに
「うちの嫁」と言うのならば正確な使用と言える
「嫁」という言葉には発話者の家系こそが主で
そこにつけ加えるのを女性に許したという認識がある
東京に出てきている地方の人からこの言葉を聞くと
東京人は怒りのようなものを感じる
ならば妻が夫をふつうに「婿」と呼んでもいいのか?
「うちの婿はこんな料理が好きだから…」などと
近所の主婦たちとふだん話していてもいいのか?
そんな疑問がふつふつと湧いてくる
東京の人間は現在は地方からの上京者に寛容だが
こうした言葉づかいを平気でされると
内心ではけっこう怒り心頭に達するところがある
田舎者だからこういうのだろうな
などと心の中で収めていこうとするので
問題はいっそう深刻になっていく
京都人などと違って東京人はなんでも受け入れるようだが
根のところでの差別意識は恐ろしいほど深い
京都人を軽蔑していない東京人はまずいないが
それをまったく顕わさないようにして持ち上げたりして
サービス上の便宜を図らせておくのが東京人である

最近の若者と話していて感じるのは
彼らが「男」や「女」という言葉を軽蔑語として認識していて
みだりに「男」や「女」などと発してはいけないと思っていることだ
「男性」や「女性」と言わなければいけない
私も青少年時代に「男」や「女」などと言うのは野卑だと感じ
「男の人」や「女の人」と言わなければいけないと思っていた
いつのまにか「男」や「女」などとも言うようになったのは
歳とともにスレて世間ずれしたからでもあれば
中上健次のようなアウトレイジ系文学にも親しんだためだろう
現代では中上健次などは完全に廃れて忘れられ
平気で「男」や「女」などと発言するのは「昭和の人」なので
ようするに時代遅れの老人としか受けとめられない
みだりにこんな言葉を口走ったりすると
「はやく介護施設に入ったら?」と思われるだけの時代になった

ことほどさように
とか
言うほかない時代の流れなのだが
とはいえ
「オーナー」っていうのはダメだろう
と思ってしまう

わざと「ダメ」などとカタカナで表記してみたが
開高健が軟エッセーで盛大に使った
こんなカタカナ書きは
1980年代や90年代にはあちこちで大流行していたが
こんなカタカナ書きを混ぜるようでは
私も「昭和の人」と呼ばれて処理されるだけの老体と見られるだけであり
それがイヤなら
いや
嫌なら
SDGsとかLGBTQとかでっち上げて未来の暴利を貪ろうとする
国際金融+軍事+製薬+マスコミの複合体
いわゆるディープステートの
完全出先機関である電通などが繰り出してくる文章やコピー文体を
積極的に真似て
その文体の中でたったひとりのレジスタンスを繰り出していくほか
この地上には
もう
策はない

というか
そんなこと
昔から
状況は同じであったか?

ね?
ブレヒトさん?
チェーホフさん?

 

 

 

午後四時の森

 

芦田みゆき

 
 

ドクッ という音が
頭上に響き
ミドリは空高く見上げる

覆いかぶさる静寂
(木々のこすれる音…)
(葉の隙間の息づかい…)
(鳥…)
(鳥と虫の羽音…)

割れた太陽が
ミドリの頬に突き刺さる

足裏が冷たい

耳鳴り
血管をしめつける頭内の虫

ミドリは頭を抱えこみ
天空を仰ぐ
ドクン ドクン
脈音が大きくなっていく

その時
ミドリの眼は捕らえた
木肌から零れる
黒い果実の連なり
つややかな実の表皮

 
(羽音)

 
午後四時
森からミドリが駆けてくる
「おかえり」
ミドリは何かを叫んでいるが
ぼくに声はとどかない
あぁ ここには
乾上がった川が横たわっているのだ

 

 

 

 

ミシンとギター ***

 

無一物野郎の詩、乃至 無詩! 46     jyuki 様へ

さとう三千魚

 
 

ジーンズの


空いた穴

ザクザク
ミシンで

縫った

縫い目
尖って

ギター
キィーン 鳴った

薔薇赤い

赤い
赤い

薔薇

咲いた
裂いた

 

 

***memo.

2023年7月2日(日)、静岡市水曜文での即興詩イベント、
「 無一物野郎の詩、乃至 無詩!」第十五回で作った46個めの花の詩です。

タイトル ”ミシンとギター”
好きな花 ”薔薇の花”

 

 

 

#poetry #no poetry,no life

いちばん古い記憶 ***

 

無一物野郎の詩、乃至 無詩! 45     kokoro 様へ

さとう三千魚

 
 

わすれてた

たぶん
おぼえて

ない
風が流れてた

れんげ草の
花の

香りがした

とつぜん
なみだ

流れた

 

 

***memo.

2023年7月2日(日)、静岡市水曜文での即興詩イベント、
「 無一物野郎の詩、乃至 無詩!」第十五回で作った45個めの詩です。

タイトル ”いちばん古い記憶”
好きな花 ”れんげ草の花”

 

 

 

#poetry #no poetry,no life

Vidalita

 

工藤冬里

 
 

目次
・Studio beapot
・Terrine
・森崎和江一周忌
・墓川君
・Ottinger頌
・小説
・俳句
・タイタン号報道に対する正しいコメント
・楢山節
・アルヘンチーナ頌
・Brötzmannの訃報
・過食亭
・少年1
・ワグネル報道に対する瞬間的なコメント
・ラーメン発見伝に対するリアクション
・利他主義について
・世代について
・動向vignette
・少年2
・ある訓示
・内輪を装った情宣
・警戒レベル4
・ベルリンの便器作家Marco Bruzzone氏の出版物“Triple Carb Society”に対する批評
・ニューシャネル
(今週も盛りだくさんのように見えますが実態はフラメンコです)

聖蹟桜ヶ丘のスタジオはまだやってるどころかテープの切り貼りの職人技を見せてくれていた半谷さんはその後ワイアットとアルバムを出した

ピアノの失敗を別次元で感情として同時並行ノイズで表そうとしているところが新しい しょうもないピアノを救う道を示した
https://bruit-direct.org/product/terrine-standing-abs/
 
もう一年か
今生きている人々のシリーズに森崎さんも居たのは良かった
まだ生きているのは杉田さんくらい?
(デスノートかよ)
船のない港
港のない船
嗚呼
生きていたらいけないんだど思わせるしぐさに溺れる鰯
 
can I be of any assistance?
は小賢しい助け舟だ
と墓川は思った
En quoi puis-je vous aider ?
の方がブゼデの母音による暖かみが出る
バンドエイドな
でも国旗で暖かさを比べるのは止めろ
 
日本人、嘘つかない
日本人、嘘つく

このあと朝の国分寺南口の階段で倒れて終わるんですよね

大変怖しい本で、小説とかはこれで読めなくなるだろう

白雨や野良の仔等への未来なし

酸素って普通に吸ってるけどありがたいですよね
 
吉増さんが楢山節の譜面を持ってきていてやってほしそうにしていたけれどやらなかったのを思い出す。ぼくにはそういうことがよくある。深沢さんはフラメンコをやろうとしていたのだと気付いて、何年も経ってからよく演奏するようになった。そういうことがよくある。ありがとう吉増さん、と思う。
 
紋白蝶が帰化したバーベナ・アルヘンチーナを吸っているが新しい味だと喜んでいるのだろうか
https://youtube.com/shorts/L1Lme2NS1_k?feature=share
 
小沢さんとテツとやっていたバンドmachineguntangoの由来
https://www.youtube.com/watch?v=YA92-W0w2Os
 
56号沿いのidleと珈食亭の間の山道を下ったところにビッとくる粘土層があり、コンビニ袋を裏返しにするやり方で一掴み採ってきて盌の形にしてみました。中世代と古生代が交差する辺りです。紫陽花は赤でした。焼けたら「泰山木の花を食べる恐竜がいたら」、という銘にします。

4時半頃鷹の子に行く時少年が道で寝ているのを見かけ帰りの5時過ぎにも少し先の道の反対側にうずくまっていたので引き返してどっか行くなら連れてってやろうかと声をかけたら大丈夫ですと言うばかりでまた歩き出した

 

ロシアは先に去り、それを助ける者はいない、と決められている。 レニングラードでソーグラッド
https://www.youtube.com/watch?v=txGCJx3KmeM
 
麺神辛い ただ、完結している
 
体を乾涸びて朝の切干
ロバート・フロストが「自分を他人のように」の元祖というがその詩が見つからない

新制水沢高校で父と同級だった米寿の岩田さんの、岩手に疎開してきてそのまま居た高村光太郎が講演をするというので南部煎餅を手土産に聴きに行ったが一億総懺悔というのでそれは戦前の発想だ戦争というのは個人の体験であり一億などと言ってはいけない、こいつは駄目だと思った、という話が興味深かった。
盛岡がニューヨーク・タイムズでロンドンに次いで世界で訪れるべき町の第二位に選ばれたというニュースを、女子アナがわんこそばを105杯だか食べてそれをもって紹介の報道としたのはまったくもって情げない、サケの上る市中の川どかいろいろ紹介するごどがあるだろう、と憂えた。
賢治の甥っ子と同級だった、宮澤家は花巻では豪商だった、賢治はそれに反発した、かれは童話作家などではない、と昨日のことのように語った、
あと父は姉が結核で死んだ時非常に落ち込んでいた、と証言した。看病で父にも伝染していたらしく、美術教師だった岩田さんの父が、東京に行く前に肺を治せと言って札幌の美術学校を紹介したらしい。学生服を脱げと言って飲み屋を連れ回していたらしい。その頃のサッカー部は全く人気がなかったらしい。
人は死んで忘れ去られるというのはほんとうのことで、語り継ぐなどと言っても数世代である。生きているうちにそれを実感しておかないといけない。
中華料理屋の看板にハルピンとあるのを見て痴呆の母が歌い出す ハルピンまでもせめおとし クロバトキンのくびをとり とうごうたいしょうばんばんざい
大岡さんがYMOを聴いて一亀さんに電話するくだりも好きだ あれが世代というものの様相である 尾鰭と頭が少しだけ交差するのだ

セトリとか信じられない
どっかのおじさんの世界?
なに「曲」って
バカじゃないの
 
物音から音楽に向かう道は何の解決でもないが、厳然とひとつの道である。その理由。
https://4gradosdelfuego.bandcamp.com/album/transfiguraciones
 
元の旋律を思い出せないまま世代は進んだ
異例の布告から始まったが風化は戦後のように訪れた
戦後のように風化は訪れた
現代病院を見舞う
病院現代の見舞い
これは大きくならない子供の、リフレインのあるvidalitaだ
豚が鼻を半球に押し付け
そのリズムで70年が満ちる
70年が満ちるリズムだ
先に作るべきなのはさらに小さな鼻を押し付ける天袋
泣き声は笑い声
笑い声は泣き声だ
にまにまのたのた
のたのたにまにま
鴨嘴の尻尾のように正確
チーターは爪を引っ込めることができない、と動物豆知識botで知った
きみみたいじゃないか
コインランドリーに似た近藤ノブ子は日本人にいくつあるだろう
模型屋のような品部はいくたりいるだろう
パーマ屋の住人は多死の中vignetteに縁取られていく
住基カードは身分証明書と市町村による付加サービス(コンビニ交付、図書館利用)だけでした
自分を養うように住基を養う
自分を大切にするように住基のために死ぬ
自分の身を飾るように住基の欠点に人前で注意を引かない
自分を癒すように銃器ネット、、
自分が他のせいにするように銃器の事情を考慮する
拡張して自分以上に什器を大切にする
私は自分の終わりにこれ以上ないほど近づいていた
それは饐えた臭いを伴っていた
化膿治五郎は柔術を膿出した
それは蛞蝓の道となった
 
刃物を持った黒尽くめ黒マスクの少年がまた川内に現れて川上小は早退けにしたみたいだけど中村君絡みでなけあ良いけど

アマジヤのあまちゃんは栄光を噛み締めて自分の家に居なさい
 
志々島でなんかやるからピアノ弾いてとあんどさんに言われたのでコスタさん誘って行こうかなと思う
あとはたかちゃんにまた鈍光に誘われている ポンコピピンがなくなってみんなどこでなにしてんだか分からない
 
バラックの危険水位に石手川
 
情けない散らしを危険水位に撒き続けるバンク川のぱんく
本チラシなどなし塗炭錆
 
川元さん命日
放水の日が平日
元々爪を引っ込めることができない性質
癌も流され
雷怖がり猫も流され
池の下集会所が流されていたらツインドームで

Il grano è demonizzato, alcuni dicono addirittura che sia un alieno che si è impadronito dell’umanità, ma da quando Adamo dovette “sudare sulla fronte per mangiare il pane” fino a poco tempo fa, il grano è stato un materiale essenziale. Perché questo stravolgimento del grano? Può essere solo perché il dominatore di questo mondo è malvagio. La rappresentazione di Duchamp di una semplice pasta ha inaspettatamente portato alla luce questa distorsione.
https://www.instagram.com/p/B2jmnOCnQv1/?img_index=1

今日はクリスさんとその友達が大竹展を見たいといって尼ヶ崎から来るので1日付き合う
ポップに対するメタ・メタはメタメタにされる
美術にも窓がなければならない
「美術の窓」って良くないですか
全部過去にあったわけだから
ふるくさすぎるミライカナイ
降ってなくても注意報みたいなイマココ

 

 

#poetry #rock musician

カレー

 

塔島ひろみ

 
 

キツネはレモン石鹸だった
深夜
貨物列車で運ばれて
諏訪橋を渡ったところで
お腹がすいた
においが漂ってきたからだ
なんとも言えない はじめてのそのにおいに
からだじゅうがピクピクし 
お腹がすいてたまらなくなったから
キツネになった
列車から飛び降りると そこは川原で
タヌキがいる!
親子でじゃれあって 遊んでいる
においは向こう岸からだ
川に飛び込む
月のない夜 川はどこまでも黒く 
水はなま温かく キツネを包む
ザッツ、ザッツと 水をかく音だけが耳に響き
岸に着く ムササビと イヌワシと ヒョウと
カッパと ドブネズミが
寝転がって星を見ていた
そこはニセモノの町だった
キツネはにおいのもとを目指して土手を下りる
ぼうっと 白い薄明かりが漏れている一軒の家
隙間から覗くと ドロボウが大きなお鍋でカレーを煮ている
ぐつぐつ ぐつぐつ 茶色いどろどろが
ボコッ ボコッと出っ張ったり 引っ込んだり
暑くて ドロボウは汗をかいて 時々タオルで顔を拭いて
キツネのお腹がグウッ と鳴った
いらっしゃい、よく来たね
キツネはドロボウの子どもになった

ドロボウは夜が明けるとヒトになり
キッチンカーにカレーを積んで売りに出る
キツネは少女になりお客さんの応対をする
おいしいカレー 毎日違う味のカレー ドロボウカレーに
レモンスパイスが加わった
世界のどこにもないカレー 世界で一番おいしいカレー
川原で寝そべっていた動物たちが買いに来る
みんなヒトに化けてお金を持って
夜、川原においで とタヌキがキツネに耳打ちした
ニセモノが集結する川原においで
夜の川原 ススキが群生する湿った場所で
キツネは思い切り走ったり笑ったり つかまえたり転げたり 時々川に飛び込んで
くたくたになった
キツネ! キツネ! ここだよ! ここだよ!
ニセモノたちがからかって笑う 
そのあいだにドロボウはカレーを仕込む

ガタン、ガタン
深夜 貨物列車が橋を渡る
レモン石鹸の箱を積んでいる
川原に来ないキツネを迎えにタヌキが行くと
ドロボウの家は灯りがなく 鍵がしまり
キッチンカーが放置され
カレーのにおいがしなかった
キツネ! キツネ!
タヌキが呼ぶ
ドロボウがつかまった! ドロボウがつかまった!
ニセモノたちは泣きながら呼ぶ
空に向かって 助けを求めて
キツネを呼ぶ
キツネ! キツネ! ここだよ! ここだよ!

ニセモノの町に雨が降る
来る日も来る日も 降り続く
水かさが増し 河川敷は浸水し ニセモノたちは下流へと流れる
恨めしそうに 仰向けに 黒い黒い空を見ながら 流される
カッパのお腹がグゥと鳴った
ネズミのお腹がクーと鳴った
タヌキのお腹がゴーと鳴った
においが漂ってきたからだ
おいしいにおい カレーのにおい
レモンカレーのにおいがする!
あそこからだ!
近づいて来る貨物列車を ムササビが差した

ガタンゴトン 貨物列車が 今にもあふれそうな川沿いを進む
おいしいにおいを
レモンスパイスのカレーのにおいをまき散らして
海へ 海へと 走っていく
ニセモノたちはそれを追うように流れていった

 
 

(6月某日、高砂諏訪橋たもとで)

 

 

 

無題

 

たいい りょう

 
 

尖った針を 指に突き刺してみよ
さすれば 赤い血が噴き出し
痛みを覚ゆるだろう

赤い血しぶきは
わたしが 未だ 生を得ている証だ

そう わたしは 生きているのだ

月夜に 瘦せこけた 体を 投げ出してみよ
さすれば 飢えた狼が 
我が腐った肉を 喰らうであろう

真っ赤に染まった犬歯は
汚れた泥溝へと沈み
ふたたび 浮かび上がることはない

朽ちた樹葉に 水を与えてみよ
さすれば ますます 葉脈は動脈となり
死へと赴くであろう

我が精神は 肉体を離れ
糸が切れた凧のように
何処へ向かうのか

壊れた舟は
森のなかの湖沼へと
消えてゆかん