サトミ セキ「虹を生むひと」について

 

さとう三千魚

 
 

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サトミ セキさんの「虹を生むひと」という不思議な本を読んだ。

虹にかかわる七つの物語でできている。
しかもこれらの物語はノンフィクションであるという。

1.
カエルくんとわたし
ロドリーゴ、光の桃

2.
アルザス・地球でただ一つの結晶を探す旅
ベルリン・傷跡が虹に変わる街で

3.
花も実もあるウソを書け
ラクリメ

4.
グラストンベリーの虹

わたしにはこれらの物語は著者のサトミ セキさんが「虹」に出会うための旅の記録であると思われた。

「虹」とはなんだろうか?
わたしたちは「虹」を雨上がりの空に偶然に見掛ける。
綺麗だな、と思い、通り過ぎている。

サトミ セキさんはその「虹」を通り過ぎることのできないものとして見ているようだ。

1.
カエルくんとわたし
ロドリーゴ、光の桃

から、一部を引用してみる。

タクシーを呼び、土曜午前三時の首都高速を走る。兄は助手席に座り、わたしは後部座席を占拠して横になる。ふと起き上がると、なんという美しさだろう、と目を瞠った。

高速道路の両脇の光が濡れて滴り流れてゆく。前にも後ろにも一台も走っていない夜の高速道路を、ベルベットのような滑らかな走り心地でタクシーは進んでゆく。首都高速をわたしたちが独り占めしているのだ。

点滅するコンビナートも、夜空に無彩色の煙をもくもくと吐き続ける煙突も、海に浮かぶ船も、からだの中で見知らぬものが暴れている恐怖も、美しい悪夢のようにわたしを通り過ぎていく。おなかが捻れるように痛いが吐き気はなんとかおさまっていて、この美しさが何にもかえがたい貴重なもののように思えてくる。

もうひとつ引用してみる。

立ったまま抱かれている赤ちゃんも、午後の日射しの中で眠っていた。ソーセージのようにくびれのある丸々とした左足は母親の膝に触れていて、靴下を履いていない小さな五本の足指が、ときおり開いては「離さないでね」というように、お母さんの膝のスカートをぎゅっとつかんだ。

おそらくはこのような光景はわたしたちの日常のなかで何度もみている光景だろう。
そして、わたしたちはその光景を忘れ去る。
だが、サトミ セキさんはこれらの光景を忘れがたい光景として見ているのだ。
ここにあるのは自身の死をまじかに体験した者のみる景色だろう。

2.
アルザス・地球でただ一つの結晶を探す旅
ベルリン・傷跡が虹に変わる街で

からも、一部を引用してみる。

一見何の変哲もない平凡な石も、手に取っているうちにその石しか持たない個性や味わいが見えてきて、手から離れなくなってしまう。元素記号も同じ石でも、人間と同じく地球でただ一つしかない。結局、お金を出して手に入れるかどうかは、その石に無条件で惹かれるかどうか、手にしたときに驚きや心地よさがあるかどうかで決まってくる。

・・・・・宝石店ではクラックがある石は傷物としてはねられる。しかし、石の内部に浮かぶ傷は、時に太陽光を七色に分光する虹になって、その石を魅惑的に輝かせる。
虹が浮かんで、このカルサイトはまるで違う石となった。この七色の光は目に見えない世界へとわたしをつなぐ。光が凍りついた結晶のようなこんな美しいものが、現実に存在しているのが不思議だった。

わたしもまた海辺で小石や流木を拾ってきてしまうのだが、
つげ義春の「無能の人」のようにサトミ セキさんもまたヨーロッパの片田舎の町に石を探しにいったのだろう。

ここでもサトミ セキさんは石の中に「虹」を見ようとするわけだ。

石もそうだし、絵もそうだし、音楽もそうだ、ことばだってそうだ。
それがわたしにとってかけがえがなくただ一つのものだったらわたしはそれにお金を支払うだろう。
どこでもいつでも手にはいるものには「虹」がないだろう。

それがわたしにとってかけがえがなくただ一つのものというのは「命」ということだろう。
命というものはなかなかお金で買うことができない。
命と等価のものがかけがえのないものといえるだろう。

それはなかなかこの世ではお目にかかれないものとわたしたちは思ってしまうが、
サトミ セキさんは石の中に「虹」を見ようとするわけだし、カフェにもはいれないほどすっからかんになるまでお金を石に使ってしまうわけだ。

このままだとわたしはサトミ セキさんの本をどんどん引用してしまいそうだ。
それでは、これからの読者たちの体験を奪うことになってしまう。

最後の章、

4.
グラストンベリーの虹

から少しだけ引用してみたい。
ここでサトミ セキさんは実際の「虹」に出会うことになるのだろう。
それがサトミ セキさんが出会ったかけがえがないただ一つの「虹」だろう。

生まれてから死ぬまでを、いっときに眺めることができたとしたら、このような眺めだろうか。虹が出るためには、まず雨が降らなければならなかった。雨が降るためには雲が必要だった。雨雲は黒く、その中では雷は光り、そして、しばらくするとその土地から去ってゆく。太陽の光を浴びている時には雨の世界を想像できず、稲妻が光っている黒雲の下にいるときにはいつ虹がでるのか予想もできない。

かけがえのないものはわたしたち誰にでもあるのだろう。
この世には、かけがえのないものを見る者と見ない者がいるだけだ。

 
 

サトミ セキ
「虹を生むひと」がんと命を巡る7つの旅

株式会社 幻冬社ルネッサンス
ISBN978-4-7790-1119-1

 

 

 

フリードリッヒ・グルダ親子の思い出

音楽の慰め 第8回

 

佐々木 眞

 

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私は、昔は音楽といえばクラシック、クラシックといえばベートーヴェン 、ベートーヴェンといえばフルトベングラーの第9交響曲が大好き、という笑うべき超保守的人間で、モーツァルトなんて内容空疎な軟弱な2流の音楽家と勝手に思いこんでいました。

しかしどんどん歳をとっていろいろな音楽に接しているうちに、必ずしも「ベートーヴェンが硬派で、モーツァルトが軟派」ではないこと、2人とも天才ではあるが、どちらかといえばモーツァルトの方が神様に近いところにいるような天才的な音楽家で、ベートーヴェンは、そんなモーツァルトの音楽に迫ろうと懸命に努力を重ねた音楽家ではないかと考えるようになってきました。

極端なことをいうと、私にとってベートーヴェンの音楽は、人間的な、あまりにも人間的な音楽であり、モーツァルトのは(「神に愛されし人」という意味の“アマデウス”という名前が示す通り)天上から降って来る神様のような音楽なのです。

そんなモーツァルトの音楽は、いつどこで、誰の演奏で聴いても、私たちの心を楽しませたり、慰めたりしてくれるのですが、今宵はウイーンっ子のフリードリッヒ・グルダが演奏するピアノ・ソナタを聴いてみましょうか。

この「モーツアルト・コンプリート・テープ」6枚組は、題名通りもともとテープに録音されていたものを、CDに焼きなおしたものです。
1956年から97年にかけて、フリードリッヒさんがこっそり自宅などでテープレコーダーに録音しておいたのを、彼の死後、息子のパウル君が発見したんだそうです。

そして彼が、それを独グラモフォンから売り出すようにしてくれたお陰で、私たちはこの素晴らしいモーツァルトに接することができたのです。

それだけではありません。パウル君は偉大なお父さんが未完のままで放り出していたK.457の第3楽章を、できるだけグルダ風に追加演奏して、親子合奏完結盤を新たに制作してくれました。

私は父グルダには会ったことなどないのですが、1961年生まれの息子のパウル君には、かつて渋谷のタワーレコードでひょっこりはちあわせしたことがあります。

私が6階のクラシック売り場でCDを物色していると、すぐそばにひとりの若い外国人がやってきて、やはりウロウロしています。その顔がどうもどこかで見た顔で、よく見るとすぐ傍に張ってあった「パウル・グルダが渋谷タワーにやって来る!」というポスターの写真の顔なのでした。

あちらの国の人たちは、こちらの国の人たちと違ってべつだん知り合いでなくとも挨拶代りに笑顔を差し向けますが、このときもパウル君が私に頬笑んだので、急いで慣れない「頬笑み返し」をしながら私が、「もしかして貴君はパウルさんにあらずや?」と尋ねると、その青年ははにかみながら、小声で「イエス」と答えたので、私はそれ以来、パウル君の熱烈なファンになったのでした。

そんなパウル君が、亡き父君のために編んだ、私の大好きなモーツァルトのピアノ曲集は、これからも生涯の愛聴盤となっていくのでしょうが、どのソナタに耳を傾けても、聴衆をまったく意識しないインティメートな表情と赤裸の心に打たれます。

どうやらグルダは、モーツァルトその人に聴いてもらうために、深夜そっとベーゼンドルファーの鍵盤に触れていたように思われてなりません。

そしてその白眉は、ボーナスCDに付された「フィガロの結婚」の自由なパラフレーズ集ではないでしょうか。たった1台のピアノが、スザンナの、モーツァルトの、そしてグルダの生きる喜びと悲しみを、あますところなく表現しています。

 

ああグルダのフィガロ この演奏を耳にせず泉下の人となるなかれ 蝶人

 

参考 https://www.youtube.com/watch?v=1ssk4tfKcIM

 

 

夢は第2の人生である 第42回

西暦2016年皐月蝶人酔生夢死幾百夜

 

佐々木 眞

 
 

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私が海に身を躍らせると、目の前に広がっているのは夥しい数の墓標だった。それは私が潜っても潜っても眼下にいつまでも広がっていて、墓標のピラミッドの周りには名も知らぬ青い魚が泳いでいるのだった。5/2

私は港の沖合の小島の木陰の小舟に乗って、様々な秘密情報や音楽を敵に占領された本土の人々に向かってFMで流していた。5/3

戦後復員兵士たちでぎゅうぎゅう詰めだった大阪支店だが、半数は別の建物に移動したのでだいぶ楽になったが、5階の窓から眺める風景は荒涼たる焼け野原だった。5/4

朝も10時を過ぎたのに、会社があるその駅では、電車に乗り切れない乗客が途中下車したり、線路に降りて長蛇の列を作って歩いているので、私はいまごろ息子たちはどうしているんだろうと心配になった。5/5

大船行きの電車がもしかしたら載せてくれるのでは、という期待に胸を膨らませた人々が一斉に駆け寄ったが、電車は速度を落とさず走り去り、線路の上には切断された両足を呆然と見詰める小太りの婦人だけが取り残された。5/6

知らない人からどんどんケータイが掛かって来るので、よく見たら機種は同じだが別のものだった。しかし、いつどこで私のものとすり変ったのかいくら考えても思い当たらないのだ。5/7

外出から帰って来て、外の様子を孝壽君に報告すると、彼はそれを几帳面に記録していた。彼はその後病気で、どこかの病院に入院しているというのだが、大丈夫なのだろうか。5/7

私はあらかじめ彼に、「過去の死刑に関する判例集を渡して研究しておくように」と命じておいたので、最難関の司法試験を最高の成績で突破したときいて、とてもうれしかった。無脳人間にもそこまでは出来るのである。5/8

関東大震災で倒壊した高層マンションの西棟を、東棟の最上階から見下ろしながら、私は殺到する負傷者の治療に忙殺されていた。あの西棟の10階の部屋にいた、私の愛する妻子はどうなってしまったのかと案じながら。5/9

「私は原子炉の前で素っ裸になって全身を晒した結果、不死身になったんだ!」と宣言すると、六つ子は蒼ざめて胸に手を当て、「イヤミはシェー!」と叫びながら逃げ出した。5/10

余りにも荷物が多すぎて鎌倉駅で降りられなかったので、次の逗子で降りようと懸命に準備していたのだが、そばにいた小僧が邪魔立てするので、バッグを振り回してぶっ飛ばすと、車体の障壁ごと線路の向こうにすっ飛んでいった。5/10

美しきエトワール、オーレリー・デュポンをガルニエ座から拉致した私は、彼女を後ろ手に縛り上げ、ナイフで脅かしながらフェラチオを強いたのだが、そのめくるめく快楽にたちまち気を遣ってしまった。5/11

3万円払ったが、おつりは30円しか返ってこなかった。5/12

いきなり声がした。「ここにABCと3つの世界がある。お前らは普段Bに住んでいるのだが、時にはAやBに行く時もある。しかしその場合、お前たちは姿形がすっかり変っていることにまったく気づいていないのだ。」5/13

お城で失われた珍品の数々を、元の持主に返す催しが開かれ、我われ業者は3日間待機していたが、誰も現われなかったので、それらを全部引き取って古買に付そうと楽しみにしていたが、ふと眼を離した隙に誰かが全部引っさらっていった。5/14

誰かが私のことを社会人と紹介したので、「そうではありません、私は大学5年生です」と訂正した。5/15

わが社の新製品であるコーヒーメーカーの色をなに色にするかを巡って、何週間も大論争が続いていたが、結局これまでと同様の無難な白にすることに決まった。5/16

わが社の全社員が大講堂に集まって社長の訓示を聞いている最中に、どういうわけか見知らぬ人々が通りかかって、興味津津の面持ちで耳を傾けているので、社長も我われも驚いた。5/16

皇室から作曲を依頼されたので、できるだけ馬鹿馬鹿しい漫画的な曲をつくったら、意外なことにおおうけして、「次もぜひお願いしたい」ということになった。5/18

功なり名遂げた私は母校に招かれたので、「何でも疑ってかかれ」とか「モザールを聞けばモー君が美味しいミルクを出すという与太話は迷信だ」とか「世界一丈夫で美しいパンティはまだ誕生していない」というような話で、お茶を濁した。5/20

写真一筋の余は、「自然や人世の化生を写し取る」をモットオに、今日もシャッターを切り続けていた。5/21

親戚大集合の催しに遅刻した私は、焦っていたのか前に座っているフジイ氏に熱い味噌汁をぶっかけてしまい、謝りながら慌ててハンケチで拭いたり、大童だったが、このフジイ氏とは何者なのか、いくら考えても思い出せなかった。5/22

政府がこれまでの規定を全部反故にしたので、我われの会社でも全員が居残って、この国に残留するか否かを熱烈に討論していたのだが、山口君だけは「今日はひどく疲れたので帰ります」というて、闇の中に消えた。5/23

腹立ち紛れに、つい暴言を吐いてしまったことを、いたく後悔したが、後の祭りだった。5/24

私は長年にわたって脳裏に浮かんだ思いつきを、そのつど手元のテープに録音していたのだが、何百何千もあったカセットテープはいつの間にかすべて姿を消してしまった。5/25

正月早々出勤した私だったが、上司から幹部会に出席するよう命じられていたことをすっかり忘れていた。会議は本社ビルの2階の大会議室で行われているので、急いで駆けつけたが、あいにくそのフロアだけエレベーターが止まらないようにしてあったので、大いに焦った。5/26

誰かが「裏口から入れるよ」というので、急いでいったんビルを出て、裏側に回ろうとしたが、生憎の大雪で、行けども行けどもなかなか辿りつかない。額に汗して歩き続けているうちに、かえってビルからどんどん離れていくので、私はますます焦った。5/26

背後から私を追って来る人のように、私の家を追ってくる家があった。私が人から逃げ惑うように、私の家も逃げ惑うのだった。5/27

TYOの木村君と話していた男が、突然高価なオーディオ製品をいじりはじめたので、木村君が「駄目駄目、それを勝手にいじると、スギヤマ・コウタロが怒りますよ」と注意したので、「そうか、あの大人しいスギヤマ・コウタロウも怒ったのか」と思って、私もその男を注意した。5/27

この街で行きかう人々の顔は、みなぽっかりと穴が開いた□の形をしていた。5/28

ウッチャンはファックス機の新品をあげる、「ただだよ」と来る人ごとに言うたが、誰一人下さいとはいわなかった。5/29

大阪支店の遠藤君が、私を見知らぬ飲み屋に連れて行った。そこには同じ支店の営業部の連中が、三々五々呑んだり食ったりしていたが、いつのまにかいなくなったので、真っ暗な道をよろめきながら歩いていたが、肝心の遠藤君も行方知れずになってしまった。5/30

さっき通りかかったガソリンスタンドでは、赤いミニドレスんのおねえちゃんが誘ったので、なにしたんだが、今度のガソリンスタンドでは、白いミニドレスのおねえちゃんが誘ったので、またなにしてしまった。5/31

 

 

以下に「夢百夜」の未掲載分を追加します。

西暦2014年長月蝶人酔生夢死幾百夜

 

日払いマンションに住んでいた私。毎日会社から帰ると、お金を入り口に投入して扉を開き、2DKの部屋に入ると、奥の6畳間に居る女の処へ行って、朝まで抱いたり抱かれたりしているうちに、とうとう尻子玉を抜き取られてしまった。9/1

マンチェスターかリバプールの小さな村に、私たちは3人で住んでいたのだが、MORE OVERという歌が有名になると、「MORE OVERとつぶやくとすぐに有名になれる」という伝説が生まれて、世界中から大勢の人が押し寄せた。9/3

大部屋住まいの新米役者見習いの私は、大先輩の五味龍太郎氏の付き人として、信長に侍従する日吉丸のような謙恭な態度で、諸先輩の芸を盗みとろうとしていたが、いつまで経ってもなんの収穫もないのだった。9/4

テレビで宝くじの当選番号を放送していたので、私はそれを全部メモしてから宝くじ協会の倉庫に忍び込んで、当たりくじだけを拾って引き揚げた。これで当分生活できそうだ。9/5

久しぶりに地上に降りてきたら「テニスのなんとか選手を知ってるか」、「テング熱を知ってる蚊」などとブンブブンブとうるさいので、「んなもん知るか、要らんことを知るくらいなら、なんも知らんほうがよっぽど健康的じゃ」と答えると、そいつはアキレタボーイズになって黙ってしまった、9/5

私たちは、決死の覚悟でその城砦に立て篭もったのだが、指導者たちは、籠城の意思を固めたために、日が経つにつれて食糧が乏しくなった。これでは戦うためではなく、飢え死にするためにここへやってきたようなものだ。9/6

私の城の主はだんだん若返って、いまでは孫の代から曾孫、玄孫の代にまで及ぼうとしていた。9/7

1937年、帝国陸海軍の上海攻撃に井汲氏と参加することになったので、私らは緊張高まる日本海の荒波を乗り越えて、中国本土に到着した。9/9

私がモンブランの設計図を立体化した着ぐるみを身にまとっていると、吉田秀和翁がなぜか非常に興味を持って「とってもいいね」とほめたたえるので、私はいつのまにか大勢の人々に取り囲まれてしまった。9/10

李氏朝鮮時代に渡海した私は、素晴らしい馬を見つけたので、「これはいくら?」と尋ねたら、「5千ウオンだよ」というのだが、その時代にウオンなる通貨単位が存在しているか否かが不明だったので、さんざん迷った挙句に買わずに帰国した。9/11

最愛の耕君が、大阪道頓堀の名物カニ料理の前で行方不明になったので、旅行はそこで中止となり、警察が大捜索を開始した。9/11

イケダノブオが「佐々木さん、これからは耳たぶデザインの時代だと思うんです。それで耳たぶデザイナーの名前を考えてくれませんか」とせがむので、面倒くさくなった私は、「耳たぶデザイナーでいいじゃないか」と答えた。9/11

オバマ氏に招かれて、キッチンがついた6畳間だけの木賃アパートへ行った。煎餅布団が敷きっぱなしの狭い部屋は、ごみやがらくたでいっぱいだったが、孤独な大統領は「私が心からくつろげるのは、世界中でここだけなんですよ」と、涙目でぼそぼそと呟くのだった。9/12

スイスのチューリヒで開催されている国際ネーミング大会から招待されて、私は空港からタクシーで会場に直行したのだが、何千名も収容できる国際会議場には、人っ子ひとり、猫の子一匹いなかった。9/12

暮れなずむ巴里の街角のカフェで、西田佐知子が「♪オークレールドラリューン、メザミピエロ」と歌っていたが、「アカシアの雨に打たれて」とは勝手が違うので、ずいぶん音程が狂っていた。

インディアン、つまりアメリカ先住民の襲撃に備えて最前線で銃列を敷いていた私に、隣の男が「あんたの母校はどこだい?」と聞くので、「長岡先祖学校だよ」と答えると、「それははじめて聞く名前だな」と言うので、私もそう思った。9/13

茂原印刷が謹製した円、ドル、ユーロ、ポンドなどの紙幣の偽札は、みな溜息が出るような傑作ばかりだったが、特に素晴らしい出来栄えだったのは、キューリー夫妻やドビッシーの肖像が印刷されたフランの旧札であった。9/14

インド帰りの吉田君が「上野桜木の家に来て泊れ」というので、久しぶりに東京に出かけた。まだ旅館や下宿のある本郷西片町や母の生まれた谷中の坂道を辿っているうちに、急激に懐かしさがこみあげてきて、もう一度この地で青春を送りたいと思った。9/16

私の右の胸のあばら骨の下にいた武装兵が、私の左胸のあばら骨の下にいた無防備の人々に襲いかかって皆殺しにしたので、彼らが極右のテロリストと分かった。9/17

若い男女2人がシャドー・バスケットをはじめたので、中年男もそれに加わろうといたのだが、その動きについていけず、尻尾を巻いてすごすご逃げ出した。9/18

卒業生たちがお礼参りにやって来て、学校のすべての教室に大量のウンチをまき散らしていったので、私たち在校生は驚いたが、それがもしかすると黄金に変わるのではないかと思ってそのままにしておいた。9/20

こんなに狭い島なのに権力闘争は続けられ、細川宮はナチの応援を求めて接触しようとしていたが、荒川将軍は「そんなことは断じて許さん」と息巻いていた。9/20

宝くじが外れたというので、私は右腹を偽の息子に刺されたが、それでもなお豆腐を作る手をやめなかった。9/21

最近私のSNS友になった戸田という男が、朝から晩まで大量のメールを送りつけてくるので、私は夜も寝れずノイローゼになってしまった。9/22

大阪支店の支店長に、「「JALには商品を卸すけれど、ANAには卸さない」というのはどういう理屈かね」と、問いただしているうちに朝になった。9/22

必死に逃げ回ったけれど、ついに捕えられた私は、太陽神ラアのピラミッドのてっぺんで心臓をえぐり取られることになった。9/23

私のように才能のない醜い男が、ふぁっちょんデザイナーになれるなんて、思ってもいなかったのですが、どういう風の吹き回しか実際にそうなってしまうと、まだ子豚のように醜く肥る前の真木よう子似の美人が近寄って来て、「一夜を共にしたいわ」なぞと囁くのでした。9/25

明日から戦車隊の後部砲員に配属されることになったが、エコノミー症候群の私は、その密閉された狭い空間が恐怖で、今のうちに屋外に出て深呼吸をしておこうと思うのだが、それも出来ないのだった。9/25

その広告会社の本社兼社員用アパルトマンには、てんで仕事をせずにデスクの上で寝そべっている大勢のぐうたら社員がいたが、彼らの大方がクライアントのアホ馬鹿子息だったので、会社は首にするわけにもいかず、飼殺しにしているのだった。9/26

その会社の本社ビルジングの最上階は6畳くらいの狭い1室があって、そこには風采の上がらない無精ひげをはやした中年男がひとりで住んでいたのだが、朝な夕なに有名人やタレントたちが訪ねてきて、なにやら怪しい人世相談に乗ってやっているのだった。9/26

明田五郎の家は地下にあるというので、我われがどんどん階段を降りていくと、烏賊や蛸が切り刻まれている部屋や、血まみれの嬰児の死体が散乱している部屋が、まるで菊人形のようにあらわれたが、地底の奥底の部屋に五郎は座っていた。9/27

深夜まで残業したあとでタクシーで帰宅し、車から降りて我が家に向かっている。真っ暗な坂道を喘ぎながら登っていると、なにやら足元でもぞもぞ蠢くものがある。はじめはゲジゲジかムカデかと思ったが、良く見ると蠍の大群だった。1メートル近い巨大な奴が躍りあがって尻尾を振った。9/28

レリアンの今井社長が、「すぐにテレビCMを制作してもらってくれ」というので、市電に乗って電通の築地本社へ行き、某プランナーに依頼したのだが、「ったく、やんなっちゃうなあ、忙しくて3日も家に帰っていないんですよ」とブウブウ文句をいう。9/29

それをなだめすかして、「ともかく今晩中になんとかしてくれよ」と頼むと、彼は社内の自動販売機に1万円札を入れて「CM企画キット」を取り出し、私に向かって「ではオリエンをお願いします」という。9/29

つまり、このCMのターゲットは誰で、訴求する商品のセールスポイントはなにかを教えてくれ、と迫るのだが、私はまさかこんな展開になるとは思わなかったので、「ミ、ミ、ミッシーカジュアル」とつぶやいたまま、絶句した。9/29

 

西暦2014年神無月蝶人酔生夢死幾百夜

 

日本百名山に次々に挑戦していた私は、いよいよ富士山を征服しようと、いつものようにヘリに乗り込み、頂上から縄梯子を伝って降り立ったのだが、待てよこれは「登頂」ではなく「降臨」ではないかと思い当たり、すべてをやり直すことにした。10/1

その会社の経営者が幹部に示す月次方針は、いつものように絵と文字が複雑に入り組んでいるために、解読するのに骨が折れるのだが、今月のは文字がなく、パウル・クレーのような絵しか描かれていなかったので、経営会議は紛糾した。10/2

その村の入り口にひとりの老人が座っていたが、私に「ネットのことをわしに聞くな。auに電話して聞け」と告げると、また眠りこんでしまった。10/3

ラムパル峠のてっぺんまでやって来たので、私は「きみがここまでわざわざ送ってくれたから、僕はもう寂しくなんかない。寂しくなったら、きみのことを考えるさ。もう充分だから村に引き返しなさい」というと、彼女は「でも私はどうすればいいの」と呟いた。10/4

久しぶりに授業に出ようと思って大学にやって来たのだが、友人とお喋りしている間に時が経ってしまい、いつどこの教室でどんな講義があるのかも分からないので、焦った私は校舎のはずれの鉄塔の下の夏草に潜りこんで、いつまでもキリギリスの鳴き声を聴いていた。10/5

断崖絶壁に白い中古のフォルクスワーゲンを停めた男は、白い手袋を嵌めてハッチバックを開け、(私はこんなカブトムシを初めて見た)、大量のバイブルをその後部空間に並べて販売を始めると、いつのまにやら大勢の人々がやってきて、競うようにそれを買うのだった。10/6

全国シューズ学会における彼女の発言は、出席者から拍手喝さいで迎えられたが、それは彼女の赤裸々なプライベート・フィルムの上映に対して贈られたものだった。10/7

酔っぱらった吉村氏が、ナイフを振りかざして襲いかかって来たので、私はカスバの木賃宿を飛び出し、そこに止まっていた自転車に飛び乗って、大砂漠の底に通じる坂道を猛スピードで降りながら、もう二度とカスバの女王には会えないだろうと思って、紅い涙を流した。10/8

クグツのごとき風体の正体不明の3人組を見た瞬間、脅威を直感した私は、襲われる前にやれ、とばかりに彼らを馬から引きずりおろし、奪い取ったスコップでめった打ちにして、顔面を靴で蹴り上げたが、のたうち回っている彼らを見ながら、「待てよ、これは私よりも弱い無辜の民ではないか」という後悔が頭に擡げてきた。10/9

ネットを開くと、だいぶ時間が経ってから、鮫と人間の頭と石榴が出てきた。道理で時間がかかったわけだ。10/11

「雌鶏」を「面食い」と取り違え、「大事にしてください」を「お大事にされてください」などと言う教養のない男が、親のコネで理事長に就任したので、私たちは嫌気がさして仕事を怠けるようになった。10/12

しかもその新たな経営者は、「野球の試合でホームランを打った者には、おいらのカミサンを抱かせてやる」とおふれを出したのだが、彼女の写真を見た私たちは、一層やる気を失ったのだった。10/12

台風が来るから早く寝ようと思っていると、台風が早く来るから早く寝ようと思っていると、台風が早く来るからと思っていると、台風が来るから早く寝ようと思っていると……10/14

台風がやってくる/雨か風か/トイレにいかねば/台風がやってくる/雨か風か/トイレにいかねば/台風がやってくる/雨か風か/トイレにいかねば/台風がやってくる/雨か風か/トイレにいかねば/台風がやってくる/雨か風か/トイレにいかねば10/14

真っ暗闇の道を、オートバイのうしろに彼女を乗せて疾走している。左側から張り出している樹木を避けて右にハンドルを切り、また左に戻ろうとしたら、巨大な茶色のヒグマが両手をバンザイして立ちふさがっていたが、私はそのまま突っ走った。10/16

いまでは国家警察によって、我々のすべての私生活が動画に記録されるようになってしまったのだが、私は長年にわたって鋭意研究努力を続けた結果、彼奴らによってそれが再生されないようにする特殊技術を開発することに成功した。10/18

港町の安宿で呻吟していたら、橋本氏が「Tender is the Night だよ」と囁いたので、「ダーバンの港はほのぼの明け染めて今宵限りはデボラも優し」なるアフリカ短歌和歌が生まれたのだった。10/19

商社の巴里駐在員の私は、日本の某有名企業から物見遊山にやってきた3人の女性の接待を命じられた。初日はA子をアテンドして終日市内を観光し、晩飯の後で踊りに行ってホテルまで送っていったら、そのまま朝帰り。翌日はB子、その翌日はC子の繰り返しで、私は死んだ。10/20

夜中に妻が突然頭部への激痛を訴えたので、タクシーを呼んで湘南鎌倉病院へ行くと、救急外来には多くの患者が思い思いにソファーに寝そべっていて、ほんの2,3人しかいない新米医者から名前を呼ばれるのを待っているのだった。10/21

公金を横領して会社を首になり、起訴されて有罪判決を受けた情けない男の話が新聞に出ていたので、ケケケと嘲笑っていたら、なんとそれは私のことだった。10/22

いつものように大方の反対を強引に押し切り、大人向けの製品なのに、「ユベッ子」という商標を押しつけて裁断しようとするマエ・セイゾウを、私は面と向かって「いい加減にしろ、世界はお前を中心に回っているんじゃあないぞ!」と怒鳴りつけた。10/22

久しぶりに省線電車に乗ると左に井出君が座っていて、右側にチイチイパッパと群れている若手女子デザイナーのあれやこれやについて、くわしく伝授してくれた。

会社の中で大勢のスタッフが展示会の準備をしているのを見物しながら、あちこちうろついていると、いつの間にかどこかで見たことがあるような、しかし実際は初めて見る可愛らしい女の子が頬笑みかけ、私の右腕を取って暗がりに導く。

接吻をうながされたので唇を近付けると、彼女は「そうじゃなくて猫又キスよ」と言いながら、いきなり上半身を海老反らせて一物を含もうとするので、私は大いに慌てふためいて、進退に窮したのであったあ。10/23

その商業施設には「オールウエイズ・ハッピー」という標語を掲げた店が出店していたが、その真後ろには「トゥジュー・トラバイエ・ボクウ」と書かれたショップが向こうを張っていた。10/24

おひるごはんを立食べてから、みんなで立ち新井のの道を歩いていると、ドングリの実がたくさん落ちていた。すると妹は、「私はどうしてここにドングリの実が落ちているのかを説明する本を書いた。そしてどうしてドングリが姿を消すのかについて説明する本は私の友人が書いたのです」と云うた。10/25

短歌の五七五七七をデジタルではかる測定機が開発されたというので、大勢の歌人たちが、我も我もと自分の歌を積算しようとしていた。10/27

夜遅く書斎で仕事をしていると、家の外でなにやら物音がする。恐る恐る窓を開けると誰かが逃げ出したので、「こらああ!」と怒鳴ろうと思ったが、声が出ない。そいつを見ようとしたが眼が開かない。10/28

私が小説だか論文だかを死に物狂いで書きまくっていると、だんんだん小さな石のような物になって、海の中に沈んでしまった。しばらくするとその石のような物が動き出して、私の分身のような者となり、またしても小説だか論文だかを死に物狂いで書きまくるのだった。10/29

お萩を食べても食べても、新しいお萩が出てくる。10/30

私の治めている城に、和泉式部を名乗る女が「一夜の宿を借りたい」と申し出てきたので、泊めてやった。式部とともに城内を歩いていると、恋人との別れを辛がって泣く関野や、早く子供をおろせと女を責める桐野など、兵士の心中が手に取るように分かった。10/30

鈴木正文課長は、「今日から3日間特別教習を行う。徹底的に扱くからそのつもりでおれよ」と発破をかけたが、私は「またここから坂が下るのか。そいつを固く踏みしめねばならぬ」と思っていた。10/31

 

 

 

鈴木志郎康 新詩集「化石詩人は御免だぜ、でも言葉は。」を読んで、ブオーッ、ブオーッ。

 

さとう三千魚

 

 

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鈴木志郎康さんの新しい詩集「化石詩人は御免だぜ、でも言葉は。」を読んだ。

それで、わたしの受けとった詩人の声は、「新しい詩が成立する場所に立ち会い新しい詩を生きるためには、何でもありだぜ。」という声です。

この八十歳を過ぎた、痛い腰や足を引きづり杖をついたり車椅子に乗ったりしている詩人は自身の詩を生きるために何度でも自身の詩を捨てて新しい詩を生きることを実践しているのだということが伝わってきます。

そして、この詩集から不思議な声が漏れ出し、沁みでてくるのをわたしは聴くのです。

ほとんどの詩が「浜風文庫」で読んでいた詩でしたが、詩集となってあらためて一連の詩を読み通してみるとこの声が不思議に思えるのです。

 

ホイチャッポ、
チャッポリ。
何が、
言葉で、
出てくるかなっす。
チャッポリ。
チャッポリ。

 

「びっくり仰天、ありがとうっす。」という詩の冒頭部分です。

この「ホイチャッポ、チャッポリ。」は何をあらわにしているのでしょうか?
擬音語でもなく、擬声語でもなく、擬態語でもなく、擬情語でもないように思われます。

いわば言葉にならないものでしょう。
言葉にならないでわたしの身体から漏れ出し、沁みでてくるもの。
かぎりなくわたしの身体に近いもの。

 

ヒィ、
ヒィ、
ヒィ、
ピーと鳴らない
口笛吹いて、
土手を歩いていたら、
川面に、
ボロ服着た人が浮かんでいたっす。
女の水死体が浮かんでたっす。
そこいらの草の花を取って、
その上に投げたら、
一つだけ、
当たったっすね。
ヒイ、
ヒイ。

 

「女の土左衛門さんにそこいらの花を投げたっす」という詩から冒頭を引用しました。
ここには鈴木志郎康さんが子どものころに見た水死体のことが書かれているでしょう。この子どもは女の水死体を見て、びっくしして可哀想に思ってか草花を投げつけたのでしょう。

そのことを思い出しているこの詩人から「ヒィ、ヒイ。」と声が漏れ出し沁みでてきたのです。

 

ぐだぐだ書いたけど、
書いてもしょうがないことですね。
身体って、
当人だけのものなんだからね。
病気のことを言葉にすると、
「お大事に」
と、言葉が返ってくる。
身体の中に
突き上げてくる鋭角があるって言ったって、
当人じゃないからどうしようもないものね。
でも、そこで、
鋭角が身体の内側を削った果てに、
身体は温かいものになるんですね。
身体が当人だけのものでもなくなってくるんだ。
つまり、その先に身体の消失ってこと。
そこに、
名前と言葉と写真とか、
身体なき存在が残ってくる。
また、記憶の中の存在になる。
温かい存在ってこと。

 

「鋭角って言葉から始まって身体を通り越してしまった」という詩から一部引用しました。

「突き上げてくる鋭角」って痛みのことでしょうか、その先に身体の消失があり、身体は他者の記憶となる、と書かれています。
人は逃れ難く誰でもそのように死を迎えるでしょう。

その近くに「温かい存在」があり、そこから声は漏れ出し沁みだすでしょう。
「温かい存在」は大切なものであり愛しいものでもありましょう。
「温かい存在」とは人を根底から支えるものでしょう。

わたしは詩は詩人自身を支えることができるものだと思います。
鈴木志郎康さんの詩は鈴木志郎康さんを支えれば良いのだと思います。
そして鈴木志郎康さんの詩が鈴木志郎康さんを支えられるのであれば、その詩は鈴木志郎康さんが大切に思っているものたちを支えることもできるのだと思います。

大切のものたちは奥さんの麻理さんだったり、猫のママニだったり、子供たちであったり、友人たちであったり、庭の草花だったり、子供のころにみた女の土左衛門さんだったり、詩の読者さんだったりするだろうと思います。

鈴木志郎康さんの新詩集「化石詩人は御免だぜ、でも言葉は。」は、詩はけっこう素敵なものなんだぜ、ということを示してくれていると思います。

 

 

⬛️「化石詩人は御免だぜ、でも言葉は。」

2016年8月28日初版第一刷 発行
菊変(214×140) 258ページ

※購入方法は書肆山田サイトでご確認ください。

 

 

 

最後の4つの歌~リヒャルト・シュトラウスの「白鳥の歌」

音楽の慰め 第7回

 

佐々木 眞

 
 

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誰もがシューベルトのように「白鳥の歌」を歌います。

松尾芭蕉の生前最後の句は、「旅に病で夢は枯野を駆け廻る」でした。
与謝蕪村は「しら梅に明くる夜ばかりとなりにけり」と歌って死にました。
子規の絶筆3句は、「糸瓜咲て痰のつまりし佛かな」「 痰一斗糸瓜の水も間に合はず」
「 をとゝひのへちまの水も取らざりき」でした。

また時代を大きく遡って、「古事記」で大活躍するヤマトケケルノミコトの最後の4つの歌は次のようなものでした。

○倭(やまと)は国の真秀(まほろ)ば たたなづく青垣 山籠れる 倭し麗し

○命の 全(また)けむ人は 畳薦(たたみこも) 平群(へぐり)の山の 熊白檮(くまかし)が葉を 髻華(うづ)に挿せ その子

○愛(は)しけやし 我家(わぎへ)の方よ 雲居立ち来も

○嬢子(をとめご)の 床(とこ)の辺(べ)に 我が置きし 剣(つるき)の大刀(たち) その大刀はや

そして今宵わたくしが皆様にご紹介したいのは、リヒャルト・シュトラウスの「白鳥の歌」です。

リヒャルト・シュトラウス(Richard Strauss1864~1949)はドイツの後期ロマン派を代表する作曲家で、リストの交響詩やワグナーの楽劇を華やかな技法をもって発展させましたが、戦後は第3帝国の音楽院総裁を務めるなどナチスとの悪い噂も取り沙汰され、あまり幸福な晩年とはいえなかったようです。

彼が死の前年の1948年に作曲した「最後の4つの歌」は「春」「9月」「眠りにつく前に」「夕映えの中で」の4曲からなっていますが、とりわけ私の心に迫って来るのは廃墟となった故国と老人の絶望を身を捩るようにして呟く「夕映えの中で」という昏い暗い歌曲です。

ヨーゼフ・フォン・アイヒェヘンドルフという詩人の言葉に、シュトラウスが曲をつけたのですが、これを吉田秀和氏の最晩年の邦訳でご紹介しましょう。

私たち、困苦と喜悦を切り抜け
手に手をとって やってきた
そのさすらいから 休もう
今こそ 静かな国の上で

あたり一面、谷は身を傾け
大気はもう暗くなってきた
ただ雲雀が二羽上へ上へとのぼってゆく
夢からさめやらぬまま 靄の中へ。

こちらにおいで、鳥たちには勝手に囀らせておけ
もうじき眠りにつく刻になる、
私たち、お互いはぐれないよう
この人気の全くないところで。

おゝ、広々と静かな安らぎ、
夕映えの中で かくも深く
私たち 何とさすらいに疲れたことか
もしかしたら、これは、死?
(吉田秀和「永遠の夜」より引用)

さあ、それではこの名曲中の名曲を、ドイツの名歌手シュワルツコップの独唱で聴いてみましょう。
伴奏はアッカーマン指揮フィルハーモニア管弦楽団、あるいはジョージ・セル指揮ベルリン放送交響楽団の演奏がお薦めです。

「最後の4つの歌」の最後の曲の最後の言葉「Ist dies etwa der Tod?」の問いかけが響きわたるとき、私たちの心もまた、地球最後の日の夕闇に沈んでいくような悲哀を覚えるのです。

 
 

 

 

 

夢は第2の人生である 第41回

西暦2016年卯月蝶人酔生夢死幾百夜

 

佐々木 眞

 
 

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会社の事務の人が今日でお別れだというのにその課の人が誰も誘わないので、一緒に食事をした。始めてちょっと話をしただけだが、優秀な人だと思った。4/1

僕たち3人の山岳兵はファシスト政権軍と戦っていたが、そのうちの1人が負傷したのでひとたびは見捨てて立ち去ろうとしたが、思い直して2人で山奥の隠れ場に退避し、彼の傷が癒えてから再び前線に立ちもどった。4/2

酒池肉林の限りを尽くしたあとで、この世の別天地のような桜花爛漫の国についた私は、紅白の桃の花を咲かせる1本の木の下で夢のようなひとときを過ごした。4/5

私の城に遊びにやってきたパバロッティの前で、私が彼のライヴァルであったドミンゴとカレーラスのLDばかり映し出していると、次第に怒りをあらわにして額に青筋が立ってきた。4/5

社食で昼食をとろうとしたら、ランチメニューが品切れで困っていたら、他のメニューの惣菜をかき集めて急遽新ランチを作るので、あと10分待ってほしいとアナウンスがあった。4/6

カール・ヘルムのジーンズを身に付けた私は、リングの上で黒人にヘッドロックされ息も絶え絶えになっていたが、シンヤ君がいたので、「今度LAに行ったら、ジーンズを2本買ってきてくれないか?」と頼んだ。

シンヤ君が「いいすよ。ブランドはなににしますか?」と聞くので、私は「ちょっと待ってくれよ。いまこいつをやっつけながら考えてみるから」と返事すると、それまで黙って話を聞いていた黒人が「やっぱりカール・ヘルムがいいんじゃにすか」というた。4/6

何ヶ月振りかで登校して、シンジョウ教授の教室に入っていったら、いきなり仏文和訳を命じられたので、目を白黒させて脂汗を流していると「キミは予習をしてこなかったんだな。そおゆう不届きな者は私の授業に出る資格はない。とっとと出てゆけ!」と激怒せられた。

これは私が悪かった。仕方なく退室しようとしたら、怪しい男が可愛い女の子と一緒に教室に入ってきた。
鈍く光るナイフを突き付けられて蒼ざめているのは、なんと私の昔の恋人ヨイコではないか。私はいきなりヨイコの腕を摑んで、教室の外へ飛び出した。

すると男も、あわてて私らの後を追ってくる。
私らはキャンパスの坂道を転がるように駈け下りて全速力で走ったが、男に追い付かれそうになってしまった。
あわやというその瞬間、ヨイコは持っていたバッグの中から財布を取り出し、ありったけのお金をばら撒くと、男は夢中になって拾い集め、それを自分のバッグに入れた。

そのすきに私らは全速力で逃げ出したが、しばらくすると、またしてもその男に追い付かれそうになった。あわやというその瞬間、ヨイコは持っていたバッグの中からiPhoneを取り出し、その場に抛り投げると、男は夢中になってそれを拾った。

そのすきに私らは全速力で逃げ出したが、しばらくすると、またしてもその男に追い付かれそうになった。あわやというその瞬間、ヨイコは持っていたバッグの中から六つ子おそ松君を取り出し、その場に抛り投げると、男は夢中になっておそ松君を追いかけ、やっと追い付くと自分のバッグに入れた。

そのすきに私らは全速力で逃げ出したが、しばらくすると、またしてもその男に追い付かれそうになった。あわやというその瞬間、ヨイコは持っていたバッグの中から一松君を取り出し、その場に抛り投げると、男は夢中になって彼らを追いかけ、拾い集めた。

そのすきに私らは全速力で逃げ出したが、しばらくすると、またしてもその男に追い付かれそうになった。あわやというその瞬間、ヨイコは着ていたジャケットを脱ぎ捨て、その場に抛り投げると、男は夢中になってそれを拾い、自分の身につけた。

そのすきに私らは全速力で逃げ出したが、しばらくすると、またしてもその男に追い付かれそうになった。あわやというその瞬間、Y子は着ていたセーターを脱ぎ捨て、その場に抛り投げると、男は夢中になってそれを拾い、自分の身につけた。

そのすきに私らは全速力で逃げ出したが、しばらくすると、またしてもその男に追い付かれそうになった。あわやというその瞬間、Y子は着ていた天使のブラを脱ぎ捨て、その場に抛り投げると、男は夢中になってそれを拾い、自分の身につけた。

そのすきに私らは全速力で逃げ出したが、しばらくすると、またしてもその男に追い付かれそうになった。あわやというその瞬間、Y子は着ていたスカートを脱ぎ捨て、その場に抛り投げると、男は夢中になってそれを拾い、自分の身につけた。

そのすきに私らは全速力で逃げ出したが、しばらくすると、またしてもその男に追い付かれそうになった。あわやというその瞬間、Y子は身につけていた黒いパンティを脱ぎ捨て、その場に抛り投げると、男が夢中になってそれを拾おうとしたので、私は思わずヨイコの手を離し、それを拾って素早く身につけたのだった。

ロンドンまで逃げた私たちだったが、執拗に追ってきたトランプ大統領の手下どもにとうとう捕まってしまった。古くて狭いパブに監禁されている私たちを助け出そうと大勢の支援者が駆けつけ、一緒に戦おうと言ってくれた。4/8

再び北海道への移住が許可され、私は12人の希望者のひとりとなった。別荘にはスウェーデン人の令嬢を同伴していったが、私は彼女に日夜精を吸いとられたために、ほとんど仕事にならなかった。

敵が放つ刺客の暗殺を恐れていた私は、いつも従者を私の身代わりにしていたのだが、或る日その従者が私の目の前で暗殺されてしまったので、世を儚んだ私は出家して仏門に帰依した。4/8

私はアイスクリーム店を経営して金儲けしようと、我が家の改装を業者に頼んだのだが、見積もりを大幅に値切ったせいか、カウンターがあまりにも高くて、お客さんの手が届かないために、せっかく店開きしても誰も買いに来なかった。4/10

せっかく田舎から上京してこの文藝本部を訪ねてくれたというのに、俳諧部の連中は全員銀行、いや吟行に出かけてしまったので、仕方なく私たち和歌部で対応したのだが、微妙なところで話がバルバロイになってお互いに消化不良に陥った。4/12

急に腹が痛くなって下痢しそうになった。急いでトイレに走ったが2人も先客が待っている。ようやく1人待ちになったが、こいつがなかなか出てこない。もう限界と思った時、ヒグマ君がボックスを揺すってそいつを抛り出してくれたので助かった。4/13

デスクに戻ると、黒板の左上に小さな字で「次期WHD担当は佐々木さんです」と白いチョークで書いてある。WHDっていったいなんだ? 私はなにをすればいいんだ? 誰かに尋ねようと思うのだが誰一人いない。4/14

2つの大都会の中間部の田舎の小さな町で、私は誰からも知られずにひっそりと暮らしていた。おそらくこのまま無名のままで地上から消え去っていくのだろう。4/14

なんとか教の宣教師は、その聖なる教えについて滔々と御託宣を並べ立てたのだが、私はその間じっと項垂れて、2筋に分かれて放水するオシッコをなんとか1本にまとめようと腐心していた。4/15

南太平洋の楽園に到着した私は、その島に上陸することになったが、旅の途中で荷物もバッグも財布も無くしてしまったので、この世の極楽と呼ばれるそのリゾートに着いてもてんで嬉しくなかった。4/17

すると落ち込んでいる私に同情したのか、1人の親切な島民が、南洋特産の極彩色の魚を呉れたが、その魚は「私を殺さないでください」とでもいうように、一度も目を閉じないで、じっと私を見つめているのだった。4/17

試写室を出ると知り合いのハーフの女の子がいたので、しばらく雑談した。十分に魅力的な容貌と肉体の持ち主だったが、無念にも私はあがってしまって、話の継穂が尽きたので「じゃあね、バイビー」と唐突に別れを告げた。4/18

それから私は、女と同棲していた高級アパルトマンの5階の部屋へ帰ろうとしたのだが、突然何年も帰っていない女房のことを、あの懐かしいみそ汁の味と共に思い出し、踵を返して元の古巣への道を辿っていった。4/18

その中国人は料理の達人で、空中からいきなり卵を取り出すと、美味しい卵焼きを即座に作ってみせた。4/19

会社で働いている私に、「電話ですよ」とギャルがいうので、受話器を取って「もしもし佐々木ですが」と喋るや否や、細かい穴から水が猛烈な勢いで流れ出し、オフィスはたちまち大洪水になってしまった。4/20

自称寛永生まれのオオサンショウウオお婆さんのピアノ・コンサートを聴いた。なんでもフジコ・ヘミングウェイというお婆さんの演奏があまりにも酷いので、それなら自分がちゃんと弾こうと思ったのだそうだ。4/20

思いもよらぬところで、偶然昔の恋人と再会した。聞けば離婚した後に再婚し、明日新しい亭主と外国へ旅立つという。私たちは恐らくもう2度と会えないだろうと思いながら軽く抱擁して別れた。4/21

「もしかするとあなたは「ここに1着のセーターがあります」という例のたとえ話を持ち出すんじゃないでしょうね」と彼女が言うので、私はまんまとその挑発に乗って「ここに1着のセーターがあります」で始まる、長い長いたとえ話を語り始めた。4/22

彼は昔は私と同じような貧乏人だったのに、最近どんどん金持ちになっていく。どうして?と尋ねたら「水道の蛇口からどんどん10円玉が出てくるので、それを貯めてお金持ちになったんだ」とその秘密を漏らした。4/23

CMは細く長く打つのがいいか、それとも資金のありったけを投じて一気に流すのがいいか大先輩のイマイさんに聞いたら、「そりゃ断然後者だよ」というので、私は朝から晩まで全局でCMを流し続けた。4/24

進駐軍に差し押さえてられていたオケが、ようやく解放された。指揮者がいないこのオケでコンサート・ミストレスを務める母は、久しぶりにコンサートができる嬉しさを全身で現しながら、上体と頭を激しくゆり動かしつつ音楽に没入していた。4/26

本日をもって競馬のジョッキーの世界から足を洗ったH氏は、心機一転料理学校に通うことにしたそうだ。4/27

バカ田大学の近所に住んでいた私が、朝早く駅に急いでいると、キャンパスに通学する無数の学生たちがワンサカワンサカ大河のように流れてくるので、私は身動きできなくなってしまった。4/29

長らく陰険な上等兵と2人で行動していた私だったが、ようやく上官から独立行動を許され、「アラン・ラッド似の謎の男を追跡せよ」という命令に従って、全国を流浪することになった。4/30

 

 

以下に「夢百夜」の未掲載分を追加します。

 

西暦2014年文月蝶人酔生夢死幾百夜

 

 

J.クルーの来秋冬シーズンのメンズのパンツのシルエットが、みんなサブリナパンツのように絞られいるので、驚いてデザイナーのエミリー・ウッズに修正するように頼むのだが、彼女はどうしても妥協しない。7/31

持っていた自転車の鍵を、東京駅の新幹線乗り場の改札口の機械に挿入したとたん、私は新大阪の駅に到着していた。7/30

水の上を浮遊する廃市を2日間流離っていた私は、なにも口にしていなかったので、そこで出された肉じゃが定食を、世界でいちばん美味しい料理として賛嘆しつつ頂戴したのであった。7/28

下水配管が集まっている場所に巨大なサッカー練習場があったので、ここでボールを蹴り合っていたら、四方八方から押し寄せる人々によって、私は王として戴冠された。7/28

素敵な小道をどんどん辿っていたら、愛らしい少女と出会ったので、私は彼女を家に連れ帰って寝た。

某重大事件の犯人を追う私は、2人の詩人の協力を得て知床半島のウトロの番屋までやってきたのだが、なんの手がかりもなかった。

政府の大号令で大舞踏会が開催され、老若男女が踊り狂ったが、それが終わると、「今後はいかなる歌舞音曲も慎むように」という命令が出されたのであった。7/26

最高級ホテルでのショーが真夜中に終わったので、私が北島君に帰ろうかと声をかけたが、「僕はもうちょっとここにいる」というので会場を眺めると、黒人のプロデューサーが、ショーに使われた衣装や小道具や高級車や時計などの小物を、全部お客に呉れてやっているのだった。7/25

私とある老人がSNSで好きなことを語り合っていると、今井さんが「そんな無駄話は即刻やめろ」と文句をいうので、「ここは死にゆく者のための空間なんですよ」と反論した。7/24

バラエティ番組に出ていた色っぽい女優が、「背中から尻尾が出ている友達をここへ呼んできてもいいかなあ」というので、プロデューサーの私は、「いいとも」と鷹揚に頷いた。7/23

車の運転は運転手にまかせ、後部座席で乳繰り合っていた私たちだったが、ふと前を見ると誰もいないので青ざめた。7/22

山澤君が操縦する蒸気機関車は、猛烈なスピードで展示会場に突入し、いろいろな障害物をなぎ倒しながら、壁に激突して、ようやく停止した。7/21

戦争が始まって徴兵されることになったので、まだ童貞で恋人もいなかった私は、いわゆる風俗へ行ったのだが、もはやその種のセックスショップは閉鎖されており、味気ない思いで営倉の門を潜ったのだった。7/19

古めかしい大劇場で、演劇を観ていた。はじめは全然詰まらなかったのだが、ようやく面白くなりかけてきたところに、突然大地震が発生、いまにも天井が崩れ落ちそうになったので逃げ出そうとするのだが、足がすくんで動けない。7/18

「「時は西方に流れる」という題名の映画の撮影に同行しませんか?」と誘われたので、私は妻と一緒に3ヶ月間全国を流浪する、ロングバケーションに旅立つことになった。7/17

その少女と関係するのかしないのかが、その場に居合わせた人々にとっての最大の関心事になってしまったようなので、私はおおいに戸惑っているのだった。7/16

激しく泣き叫ぶ声が聴こえたので、息せき切って駆けつけると、一頭の小象が、仰向けになってのたうち回っていた。7/15

足元にまとわりつくリトルピープルを蹴飛ばしても、蹴飛ばしても、まだくっついてくるので、私は疲労困憊してしまった。7/14

ぬばたまのお伝は、「お客さん、よってらっしゃい、みてらっしゃい、これはほんとに美味しいお酒ですよ」と巧みに客引きをしながら、じつはこえたごから汲んで来た汚ない水を売りつけているのだった。7/13

せっかく生まれ落ちても、この小さな蓮池では立ち泳ぎしていないとおぼれてしまうので、子供たちは、必死で手足を動かしているのでした。7/12

「空」派が勝つか「海」派が勝つか、という熾烈な社内闘争の結果、アトム衛星がC衛星を撃墜して後者が勝利を収めたので、私は初めて名刺を作ってもらえることができた。7/12

荒涼とした夜の街の広場で、息子はたった一人でなにか訳の分からない言葉を呟きながらうろついていたので、私は全速力で走り寄って、その太った体を両手で抱きしめた。7/10

私が撃った銃弾は6発であったが、あとで回収されたそれらは、条痕がくっきりと刻まれ、午後の陽ざしを浴びて、黄金色に輝いていた。7/10

戦闘中に気がつくと、心臓のすぐ傍を弾丸が貫通しており、夥しい血が流れ出しているので、私はいよいよ自分はこれで死んでしまうのだと初めて悟った。7/9

さる戦国大名の依頼を受けた私は、「ともかく兵に戦争を徹底的に楽しませ、てんでカッコよく死なせてやりませうヨ」と言って、濠の前面にお色気たっぷりのおっぱいの絵を描いたり、大砲の色をピンクにしたりしたので、次々に注文が舞い込んだ。7/8

恋人同伴でショウを見物に来たら、日隈君が「課長どういうつもりですか、このショウの準備は全部うちの課の担当なんですよ。それにもう1箇所イベントもあるし、一体どうするんですか」、とパニクッっている。7/7

「米国からばかりじゃなくて、英国からも借金しないと不公平じゃないか」と彼がいうので、私はまた新しい手土産を持って未踏の地雷原に分け入る羽目になった。7/6

私はナボホ族の女が呉れた旨そうな肉を口に含んだが、彼らが昨夜ヒュー族の男たちを虐殺するところを見ていたので、すぐに吐き出した。ところが仲間のペー公は私がいくら止めろといっても聞かずにムシャムシャ食べている。7/4

ナボホ族を征服させた私たちを歓待しようと、美女が美食を持ってきたが、私は前回の経験に懲りて、蒸しパンだけを口に入れたのだが、じつはそこにも殺されたヒュー族の男たちの肉が含まれていると分かったので、私は直ちに一族を皆殺しにした。7/4

「1500億円相当の秘伝の舞の奥儀を、特別に8000万円で教えてつかわす」というので、私がどうしようかと迷っていると、その名人は、「さあどうする、どうする」と、手に持った浄瑠璃人形を、私の顔にぐいぐい近づけるのだった。7/3

裏口から逃げだした私と彼女は、オートバイに乗った奴らに追いかけられたので、必死で逃げたのだが、とうとう追いつかれた。「ヤバイ、万事休す」と思われた瞬間、彼らは私を追い越して駆け抜けていった。7/1

 

 

 

西暦2014年葉月蝶人酔生夢死幾百夜

 

ベートーヴェンの「第9」を演奏することになった。基本的にはベーレンライター版に依拠しつつ、ブライトコプフ旧版の良さも取り入れ、いうなれば柔道の受身のような自然体の良いとこ取りで臨んだわけであるが、演奏は、それはそれは酷いものだった。8/1

街のどこかにある家の地下室に横たわっていたら、突然スポットライトが当てられて、誰かが「歌を歌え」というのだが、私にはそんな器用なことはできないので、いつまでも固辞してうだうだ言っている。8/1

どこかで時計が鳴っているので目が覚めたが、よく聞いてみるとそれはすだく虫の音だった。あんな金属的な響きはいままで耳にしたことがないが、けっして不快な音ではなかった。8/1

夜の弾丸配送列車での運送を依頼した3社に対して、私はその委託を急遽キャンセルしようとした。2社はすでに出発していたので間に合わなかったが、さいわい残る1社の弾丸列車は、まだ発車していなかったので助かった。8/2

頭が2つで体が1つの人間と、頭が1つで体が2つの人間がいた。
前者の頭のうちの1つは私の頭であったが、見知らぬ別の頭の持ち主との折り合いがつかないので、困る。
また後者の頭の裏表は、別々の人物の顔になっていて、その1つは私なのだった。8/2

頭の中のノートにマーラーの全交響曲の全楽章を書き出しながら、頭の中でその音楽を鳴らそうとしたが、全然だめだった。
考えてみれば楽譜を読み書きできない私には、はなからそんな芸当ができるはずがない。8/3

グラグラ自転しながら公転する巨大なお皿の上で、人形のジェロームとフラッシャーがうごめいていたので、はズドンと1発で仕留めてやった。8/5

閻魔大王による審判が終わった。
お情けで今生の思い出に1曲だけ聴かせてやるというのでジュークボックスのバッハを押したのに、流れてきたのはなんと「千の風になって」であった。8/6

ようやくパリの地下鉄構内に入ったが、ここでいきなり投石を受けた私たちは、やむをえずその正体不明の集団に対抗して石やゴミや棒を投げ返したので、そこらじゅうに血まみれの負傷者が続出した。8/7

2年前のリストラを上回るリストラをやらねば会社がつぶれてしまう、と思い込んで、私は出張をキャンセルして、本社への道を急いだ。8/9

リストラのことで頭がいっぱいになっていた私は、毎朝新聞の全15段広告を代理店に発注するのをすっかり忘れていたので、夜の街を疾走した。8/9

カタログ撮影の3人のモデルが上京してきたので、次々にものにしてやろうと思い、まず最初の女に手をつけたのだが、次の日になると誰が誰だかわからなくなってしまったので、もう手を出すのをあきらめてしまった。8/10

大儲けを企んだ投資に失敗して一夜にして資産を失ったオブローモフを憐れんだ婦人ソーニャは、一文なしの初老の男を彼女が経営する旅籠に招いた。8/11

そして彼女は、来る朝ごとに彼の部屋の窓から見える白雪の前庭に、さまざまな意匠を施した世界中の珍しい風景や花鳥風月、珍奇な見世物を、みずからの手で色彩豊かに飾り付け、傷心の男オブローモフを慰めた。8/11

会社の製品を上代の半額で社員現売して、大量に外部に横流ししている社員がいるとわかり、突如監査が入ったので、私たちは「俺じゃないぞ、俺じゃないぞ」と大騒ぎしていた。8/12

海底からにょろにょろと立ち上がるヒドラの2本の足を、私は自分の足でキックしながら撃退していたのだが、ヒドラはその攻撃の手を休めずにだんだん肉薄してくるのだった。8/12

私の好きな尾道のおじさんは、舟遊びが大好きで、東京湾にボートを係留している。8/13

おじさんと2人で山本橋を散歩していたら、おじさんが「ほら見て御覧、ほらほらあそこ」と指さしながら、夕暮れの運河に落ちてしまった。おじさんは毛皮の首巻きのついたコートを着たまま、浮き沈みしている。

ようやく岸壁に辿りついた尾道のおじさんに「あれはわざとおっこちてみせたんでしょう?」と尋ねたら、「そうじゃない、ずるずる滑り落ちてしまったんだ」と笑いながら答えた。8/13

大地震で海に落ちた2人の女の子は、すぐに元気を取り戻して、それぞれ2人の男の子から声をかけられたが、2人ともてんでその気はないのだった。8/13

菊池は作曲家だったので、ジャノメミシンに向かってある少女への思いを作曲しようとしたのだが、それほど彼女を愛しているわけではないことが分かった。8/15

私がやむにやまれず意思表示をするやいなや、官憲は「秘密保持法違反のヒコクミンめ!」と怒鳴りつつ私を拘束した。8/15

こんなド田舎の茶店などいつ潰れてもおかしくないというのに、私はルリマツリの花で覆われた土蔵に名人を招いて、連日連夜の連歌三昧にうつつを抜かしていた。8/16

引っ越し用の荷物を積む込むトラックがやってきたので、運転手に「これは物集高見の荷物なんだがね」と言ったが、知らん顔をしていた。8/17

首の入ったずだ袋をたくさん並べて風入をしていたら、捨てたと勘違いしたのだろう、誰かが全部持ち去ってしまった。817

一晩中窓を開けたまま眠っていたので、上弦の月が、私の額をいつまでも照らしていた。8/19

その大分限者は、太平洋を見はるかす大邸宅の3階に住んでいたが、ときどき私たちが住んでいる2階まで降りてきて、キョロキョロと様子を窺うのであった。8/19

かの有名なる彫刻家に頼まれて、彼の膨大な作品の複製を製作をすることになったのだが、考えてみれば、それで一生食いっぱぐれこそしないものの、自分の作品は作れそうもないので、意を決して断った。8/20

半世紀ぶりにマージャンをやることになった私は、いきなりチンイツトイトイドラサンイッパツツモバンバンで上がったのだが、この「バンバン」こそが我が国の高度成長の原動力となり、バタイユの生きる歓びであり、ベルグソンのエラン・ヴィタールであったことが初めて分かった。8/21

「象の飼育に必要な毎月の経費100万円は、ここから出してください」と言われた。私は金川氏の預金通帳を預かっているのだが、いつも残額がすれすれなので、ハラハラドキドキさせられているのである。8/22

また電通の岡田君が出てきて、「この広告の掲載誌は何部お持ちしましょうか?」と尋ねる。
彼は三越の社長の御曹司であるという噂があるが、本当だろうか?親とは似ても似つかぬ顔立ちと性格の人なのだが。8/23

私は日本人が大好きなアメリカ人だったが、大川のほとりを散策していたら、おばあさんが私に興味を持ったのかいろいろ話しかけてきて、とどのつまりは旧芭蕉庵の近所に下宿することになってしまった。8/24

部下の男女がヴェルサイユ宮殿で挙式するので、仲人を頼まれた私(景山民夫になっていた)が仕事を終えて駆け付けると、待ってましたとばかりにスピーチを指名されたのだが、いくら考えても2人の名前すら出てこないので、頭の中が真っ白になり、滝のような汗を流していると、ミンミンゼミが大きな声で鳴いてくれたので助かった。8/25

祖父小太郎の展覧会を開催しているという連絡があったので、はるばる駆け付けてみたのだが、だだっ広い会場に人影はなく、展示物は祖父に何の関係もないものばかりなので、私は途方に暮れてたたずんでいた。8/27

「憲法」という文字をどう「読み解く」かでいろいろな意見が出たが、「ケムンパス」と読むのが正解だと、全評議員の意見が目出度く一致した。8/28

世田谷のノッポビルで撮影があるというのでやってきたが、指定場所には定時になっても1人の女性モデルしか姿を現さない。
仕方なく色々話し合っているうちにすっかり意気投合して屋上へ行って抱擁、接吻したのだが、それ以上は許そうとしないのだった。8/28

大恐慌に突入したために、私が関係している5つの会社からすぐに連絡するよう急を告げる電報が届いていたが、私は全部ごみ箱にほうりこんで山本大介と一緒に銀座に飲みに出かけた。8/28

江ノ電の中で短歌新聞を読みふけっている少年は、腰越に住んでいることを、なぜか私は知っていた。8/29

暖房のないシカゴの鋼鉄ビルの最上階で凍えていた私を温めてくれたのは、春の女神アフロディーテだった。私らはことのついでに何度も愛し合ったのだったが、2か月ほどで別れてしまった。8/29

11時にパリのIRCAMを出て、そのレストランを探した。それと思しきレストランは街道に面して建っていたが、私は車から飛び降りることができなかったので、そこへ行くことができなかった。8/29

4年生になった私たちの別れの時がやってきた。在学中に有名になったデザイナー黒田信夫が、「1年生の時に、俺はこの日のために君たちのために黒いスーツを作ってやったことを覚えているかい?」と聞くので、そういえば黒い奇妙な服をもらったような気がしはじめた。8/30

なかなか電車が動かないので、私たちは駅のホームに降りた。大勢の子供たちが乗車口を出たり入ったりしていると突然ドアが閉まり、電車が動き出したために、何人かの子供は線路に振り落とされ、回転する車輪が彼らの頭や手足を切断していくのがはっきり見えた。8/30

田中陽子がブラジル国王に選ばれた瞬間、彼女の心身が、私に転位してしまった。そして次の瞬間、私は押し寄せる群衆の渦に飲み込まれてしまった。8/31

 

 

 

夢は第2の人生である 第40回

西暦2016年弥生蝶人酔生夢死幾百夜

 

佐々木 眞

 

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かつて友人だった男が脳こうそくで倒れたので、その代理に私が呼ばれて、彼が復帰するまで、「名前だけの社長」を務めることになった。3/1

海水浴を楽しんでいたら、大きな箱がプカプカ浮かんでいたので、その上にイスと机を置いてくつろいでいたら、各国の軍艦が見物にやってきた。3/2

A男とB子が、私を銀座の料亭で接待してくれるというので、喜んで出かけたのだが、酒や料理はそっちのけで、やおら販促物のパンフレットを持ちだして、これについてなにか意見を述べろ、と強要する。

その口調が変なので、よく見ると、彼等はもう存分にきこしめてぐでんぐでんに酔っぱらっているのだ。こんな連中と打ち合わせなんて、とんでもない。「想定外のコンコンチキだ!」と捨て台詞を吐いて料亭を飛び出したが、2人はどんどん後を追ってくる。

瞬く間に追い付いた男の顔をよく見ると、なんと前の会社にいた日隈君ではないか。彼は「佐々木さん、そんなに大急ぎで逃げ出さなくてもいいじゃありませんか。せっかくあなたの昔の恋人を連れてきたのに、一言も言わずにほおっておくんですか」という。

じぇじぇ、それではあの酔っ払い女がそうだったのか、と思わずその場で立ち止まると、「ほおら、急に態度が変った。それじゃあ僕たち先に東京タワーに行っていますから、あとから来てくださいな」といいざま姿を消した。3/5

地下道ですれ違おうとした男が、いきなり私の腰に腕をまわしてエイヤとぶん投げようとしたので、そうはさせじとこっちも彼奴の腰に腕をまわしてナンノナンノとこらえているといつのまにか周りに人だかりができた。3/6

すると男は急に力を抜いて「いやいやこれは失礼つかまつった。ほんの冗談、冗談。許されよ、許されよ。アラエッサッサア」と言いながら一礼し、すたこらさっさと立ち去った。3/6

「私Adogの田村ですが」という電話が掛かってきたので、いったい誰だろうと訝しく思ったが、すぐに先週名刺を交換した取引先の女性だと分かった。

「なにかご用ですか?」と尋ねると「送って頂いた企画書の件で直接お目にかかりたい」というのだが、私はそんな企画書を送った覚えはないので、はてどうしたものかと思い悩んだ。3/6

小高い丘の上で黄揚羽と戯れながら巨大な水色の蝶が飛びまわっている。翅の色はクスサンに酷似しているがこれはこれは新種の揚羽に違いないと確信した私は、薄絹の採集網を一閃してそれを捕獲し、部厚い胸部を一気に押して窒息させた。

まだ生温かいその大きな蝶を三角の硫酸紙に折りたたんでいたとき、私は突如急な便意に襲われたので、三角紙に包んだ蝶をその場にそっと置き、近くの草むらで用を足してすぐに戻ったが、それはどこにもない。いくらあちこち探しても、影も形も見当たらなかった。3/7

大阪のデザイナーたちは「東京のデザイナーなんか最低。なんとかしてください」とみんな声を揃えて新社長の私に言い付けるのだった。3/7

私は超多忙だった。まず所属するカルテットの演奏会が目前に迫っていたが、委嘱した新曲がまだ出来あがっていないから練習さえできないでいたのである。3/8

次に新雑誌の創刊号に64ぺージももらっていたのだが、その中身をどうするのか何ひとつ決まっていなかった。最後は自分が監修するふぁちょんブランドの次期シーズンのデザインがノーアイデアだった。

にもかかわらず月日は矢のように飛び去っていくので、私は仕方なく3つ目の仕事部屋全体を大きな布で覆って外から見えないようにしたので、まったく気にならなくなった。3/8

「只今から26種の植物の植え込みを行います」と宣言したサトウ君は、私の弁当箱の中に無秩序に散らばっていた多種多様な苗を、26の棚田のように整然と区画整理して綺麗に植えこんだので、みんな拍手喝采した。3/9

25歳の処女の大活躍の御蔭で、宿願の用水が切り開かれたのだが、不幸なことに彼女の過去の罪業が暴かれ、逮捕監禁されることになったが、「功罪相半ばする」と判定されたので、無罪放免されることになった。3/10

ふと周りを見渡すと、第1章に出てきたサーカスの親子と、第2章で登場したじいいさんばあさん、第3章でSMに耽っていた男女がいずれもこの巨大な木の下の青い草の上で憩うているのだった。3/11

彼が起きると朝の7時半で、女も起き上ったが、彼は「疲れただろうから、君はもっと寝ていなさい」と言い残してベッドを離れた。3/12

私たちが乗った世界一大きな風船が、熱帯夜の赤道上空に差し掛かったので、窓を開けると月の光と共にわずかばかりのそよ風が吹き、極彩色の鳥が舞い込んできた。3/13

どういう風の吹きまわしかアレがだんだん硬くなってきたので、「オオ、イイゾ、イイゾ」と驚いて様子をみているうちに、やっぱりみるみる凋んでいった。3/13

燃えるゴミ、燃えないゴミのほかに、燃えるか燃えないか分からないゴミがあるので、我が家では3番目のカテゴリーを新たに設定して、土曜日に出したのだが、市役所のゴミ車は引きとってはくれなかった。3/14

わが社が冷果会社を吸収合併した途端、トランプにそっくりの顔をした社長が、「すぐそこにオフィスを作って仕事をしろ」というので、氷と氷の間にブースを作って、イヌイットのような生活をしている。3/15

私はその大学の寄宿舎に住んでいたのだが、ある日同級生の山口君が「君の誕生日はいつだ」と聞くので「じつは今日なんだ」と答えると、「それは目出度い。実は私の映画俳優の伯父も今日が誕生日なんだ。今から連れてくるからここでお祝しよう」と行って出かけたきり、いつまで経っても帰ってこなかった。3/16

うちの事務所は新進気鋭の男女の作曲家を抱えているのだが、いくら新曲を書いても楽譜出版や演奏の見込みは皆目ないので、ここ10年間は演歌の編曲でなんとか食っていた。3/17

その時大きな幕がざっくりと切り開かれて蒼ざめた馬が嘶き、地は大きく震えたので、我われは「第7の封印」が解かれたことを知った。3/18

野球賭博をやったと噂されている巨人の生意気な若手選手が、バッターボックスに出て来たので、大きく振りかぶった私が、顔すれすれのビーンボールを投げると、彼奴はバットを投げ捨てて、ダッガウトへ逃げ出した。3/19

私は役満の「九連宝燈」をてんぱっていた。たぶん9面待ちだと思うのだが、もしかするとそうではないかもしれない。そう思うと額に脂汗が玉のように滲みだし、馴染みの雀荘に居たたまれずに逃げ出したくなるのだった。3/19

私が要塞に入って最初にしたことは、3.7インチ高射砲の砲身に右手で触ることだった。私は、手に入れたばかりの自分の武器を、自らの手で触れて確かめたかったのだ。3/19

夜になると7時間立哨せよと命じられたが、だんだん眠くなってきた。立ったまま眠っているとオオカミに喰われるので、私は皆と同じ寝袋に潜り込んで朝までぐっすり眠ってしまった。3/19

私は原子炉だが長い間使われていなかったので、技術者が恐る恐る「出力は30ぐらいでよろしいでしょうか」と聞くので、「大丈夫、とりあえず45までならいけそうだよ」と教えてやると、嬉しそうな顔をして「では、どうぞよろしくお願いします」と頭を下げた。3/20

本邦の代表的なテノール歌手は、先日の健康診断でガンの宣告を受けたにもかかわらず
昨日はモザール、今日はバッハ、明日はヴェルディを国立劇場で歌うことになっているというので、すぐに手術をするように勧めたが、ガンとして言うことを聞かない。舞台で歌いながら死にたいそうだ。3/22

5年前に会社を辞めた吉田君が突然やって来て、「ただ同然の値段で高級別荘地が手に入るから、いますぐ現地へ行きましょう」とせっつくので、「いまから会議があるんだ」と断ると、「この絶好のチャンスを逃したらもう二度と手に入りませんよ」となおも勧誘する。3/22

某国の宰相に良く似た男が暗い部屋の中にいたので、私は静かに背後に回って彼奴のそっ首をかいた。3/23

「戦争が始まったので、今日からネットの物販はできなくなる」と通達にやって来た役人が、たまたま昔の部下だったので、私はぎりぎりで「しきみ」の実を買うことができた。3/24

ジェームズ・ボンドの私は、新幹線が停車している高架線路の下にあるカフェでコーヒーを飲んでいたのだが、誘拐犯がドアを出て線路に降りた瞬間に立ちあがって、マグナム弾を連射すると、そいつはあとかたも無くなった。3/26

小泉首相は、閣議で立憲主義てふ言葉をこの国から追放しようと演説しただけではなくて、実行したのであった。3/27

せっかく寄席に行ったのに、誰一人客が来ていないので、私は万やむを得ず高座に上がって、自分自身のために一席伺う羽目になってしまった。3/28

いつまでも胸に秘めているのが心苦しくなってきたので、私はこの絶好の機会にむかしむかし黄色い花のような連中を殺してしまったことを告白した。3/28

さすが日本を代表する大手メーカーの大展示会だ。広大な空間をフルに生かした様々な物販ブースが何百と設営され人だかりができている。私たちもすぐに入場したいと思ったが、なんせ招待状を持っていないからどうしようもない。3/29

必死でもぐりこむ口実を考えていたら、O社の吉田氏が通りかかったので、これ幸いと大声で呼び止め「吉田さん、吉田さん、ちょっと中へ入れて下さいよ。生憎記者招待券を社に置いてきちゃたんで困ってるんですよ」と頼み込んだ。

すると吉田氏は「なんだ佐々木か。お前なんか、ウチの社にとってなんのメリットもないからなあ」と嫌みを言うので、「おや、そんなことないですよ。なんならおたくがいま喉から手が出るほど欲しいものを言ってみなさいよ。たちどころに希望を叶えてあげるから」と返した。

すると吉田氏は声をひそめて「じつは渋谷の専門店百貨店情報が入ってこないんで弱ってるんだ」というので、「なんだ、そんなこたあお安いご用ですよ。手元に渋谷流通協会の報告書が手元にあるんで、よろしければお貸ししますよ。リース代はお任せしますから、そちらで適当につけてもらえばいいですよ」というと、吉田氏はこちらへすっ飛んできて中へ入れてくれた。3/29

L社の宣伝部へ行き、次シーズンのテーマを尋ねたらアリゾナ州のイメージだという。アリゾナ州のどんなイメージなんですかとまた尋ねたが、ただ「アリゾナ、アリゾナ」とオウム返しに答えるだけで、具体的な内容がある訳ではないことが分かった。

「だいたいアリゾナ州ッってどこにあるんですか?」と聞いたが、それすら理解していないようなのであきれ果てた。「いったい誰がそんなテーマに決めたの?」と尋ねたら、カンという人物だという。

「カン氏はどこにいるの?」と聞いたら、「あそこです。あそこでふんぞり返っています」というので、見るとどこかの国の官房長官そっくりだったので、私はカン氏には会わずにL社を出た。

L社を出たら、そこはアリゾナ州だった。見渡す限り荒涼とした砂漠が広がり、風がヒューヒュー吹きすさんでいる。ふと見ると大勢のインデイアンの子供たちが私を取り囲むようにして迫ってくる。

怖くなった私は彼らから逃れてどんどん高い山に登っていくと、円陣を組んだリトル・インデイアンたちもどんどん私を追って高い山のてっぺんまで登ってくるので、困ったなあ、どうしようと立ち往生していると大正時代の着物をきたおばさんたちがやはり円陣を組んで、リトル・インデイアンたちの円陣にまともにぶつかっていくので、「嗚呼助かった」と喜んだ私は、その間に沖縄の亀甲墓のような建物の中に入り込んだ。ここならきっと安全だろう。3/30

ウイキで「第9」を検索すると、直ちにその男の猛烈に下手くそな「おお、フロイデ!の野太い一声がユーチューブの映像で出てくるのだが、その下手くそさが並外れているのであっという間に世界的な人気を博し、近々ベルリンフィルに呼ばれるそうだ。3/31

 

 

 

*「夢百夜」の過去の脱落分を補遺します。

西暦2014年皐月蝶人酔生夢死幾百夜

 
 

京の町を散歩していたら「はい、鉄板誕生400年記念日です」と言われて、誰かに写真を撮られてしいまったが、あれはいったいどういうことだったんだろう?5/31

ボーカルとギターの双方が、おのれが目立とう目立とうと競っていたので、私が謡と三味線と笛太鼓の演奏を聴かせると、2人とも黙り込んでしまった。5/30

「お客さん、どうせなら年増より初々しい少女のほうがよろしいでしょ」と、番頭は卑猥な笑いを押し殺しながら、珍客である私への人身御供を吟味しているのだった。5/29

いちおう胸の彫りものは終わったはずなのだが、私が「どうも龍のデザインがいまいちすっきりしないな」というと、彫師は「そうでやんすか。もう一度あっしが零からやり直しやしょう」と胸を叩くのだった。5/29

「東京を出て大阪に行かむとする者は神戸をめざすべく、仙台をめざす者は岩手をめざさざればついに大阪、仙台に到る日はあるまじ」と、或る者したり顔に語れり。5/28

私が小説の中で「「ドアンゴ」という名前の車は、漫画みたいなふざけた命名でよくない、むしろ安吾にすべきだ」と書いたら、その会社の社長から「よい案なので早速改名します」と電話があった。5/27

真夜中にバッハの「主よ人の望みの喜びよ」が2回鳴ったので、いつもの無言電話かと思って放置していたら、3回目にまた鳴って、それは渡辺さんのご主人が、たったいま湘南鎌倉病院に救急車で運ばれた、という電話だった。5/26

水道の水で乾き切った喉を潤し、ようやく元気を取り戻したので、再び元の道を南に向かって進む。行けども行けども誰にも会わない。やがて陽が沈み、空がゆっくりと黄昏れると、道はふっつりと消え去り、深い暗闇の奥底に私は取り残された。5/25

自転車に乗ってどんどん進んでいく。どこまで行っても道路に車はない。道路も周囲も行けども行けども無人である。はらっぱの向こうに一軒屋がみえてきた。平屋の一間に入ると真ん中に囲炉裏の灰穴があったので、私はそこで用を足した。5/25

水辺の別荘のすがれた庭で、私たちはふぁっちょん広告の撮影をしていた。その別荘の持主の老人が、ノーメークでモデルとして出演したのだが、モノクロ写真がかえって人物と風景に深い陰影を与えていた。5/24

その顔をよく見ると、知り合いの大辻嬢だった。彼女は養父の暴力と抑圧をうけて念願の巴里留学の夢が絶たれようとしていたので、私は無償の留学制度があることを教え、身元保証人になってあげるから早く旅立て、と助言したのだった。5/23

私が講演代を半額に値切ったことをまだ覚えていたらしく、ぶつぶつ文句を言う掘氏に別れを告げて、半島の小村の市場へ行くと、魚や野菜が信じられないような価格で並んでいたので、私がどんどん手にとっていると、レジの女性が大きな袋を貸してくれた。5/23

雨宮さんの家は、しろつめ草が茂る広大な丘陵の中にあり、放牧された牛たちがのんびりと空ゆく雲をながめていた。私は彼の奥さんと子供の3人ずれで、その大草原をこころ行くまで散歩するのが常だった。5/22

海外勤務員がなんだか落ち込んでいたので、「君の日記をネットで全世界に発信すれば、面白く読んでくれる人がきっといるはずだよ」と慰めると、次第に元気を取り戻して、「そうでしょうか。ぼくやってみます」などと口走るのだった。5/21

売上不振のこの会社にあって、他の誰もリストラされないのに、なんで販売課の課長の俺だけが指名解雇されるのか。しかも過去2カ月は抜群の売り上げを誇っているのに、と激しく怨みながら、私はノサップ岬の白い波頭を眺めているのだった。5/20

私は愛する少女のためにそのミュージカルをつくり、そのラブソングをつくったのだが、彼女はそんなこととはついぞ知ることなく、涙を流しながら、千秋楽まで毎晩主題歌を絶唱したのだった。5/19

「なにゆえ短歌」というネットでやっている怪しい短歌制作の試みを、授業でもやっていたら、教室の中に得体の知れない老若男女がおしかけてきたので、女子大生たちはきゃあきゃあ悲鳴を上げながら逃げ出した。

「般若のお辰」が迫ってきたので私は驚いたが、お面の奥から昔の女の顔が出てきたので、また驚いた。原宿でお茶していると、隣の席に嫌な女が2人座っていてしきりに私らを窺うので、急いで店を出て彼女のマンションへ行った。5/16

そのひとは、かつてはヘレン・ケラーのように偉大な人物として慕われていた。老いてアルツハイマー症を患ってからは、ほとんど昔日の面影は失われたにもかかわらず、若き日の美しさと冒しがたい気品がかすかに漂っているのだった。5/15

「ドスコイ、エンヤコラショ、おいらの掘った左の穴は、直径100×100」とシコを踏んだ途端左足のふくらはぎが攣った。ようやく回復したので、「ドスコイ、エンヤコラショ、おいらの掘った右の穴は、直径100×100」とまたシコを踏んだら、今度は右足が激しく攣った。5/15

私は巨大な蜂の巣のような巨大な穴の最低辺で働いていたので、遥か上方を見上げると大小いくつのもシャンデリアがさんざめいて、とてもここが地獄のような労働工場とは思えないほどだった。5/14

「ちょっと口を開けてくれませんか」と歯医者が言うので、言われるがままにしたところ、彼はいきなり麻酔注射をぶちかまして、予期せぬ大手術が始まったのであった。5/13

クリークを渡ろうとしたら、底には巨大な2匹の白蛇がうねっている。仕方なく側面をつたって前進しようとしたのだが、そこにも白魚のように白い無数の子蛇たちがうねうねダンスを踊っているので、さてどうしたものかと私は考え込んだ。5/12

プラクシートという所で世界演劇祭が開催されているというので、そこへ行こうと思ったのだが、いくら調べてもそんな名前も地名も出てこないので、私は途方に暮れた。5/11

日露交渉の日本側の通訳を担当することになった私は、プーチンを担当するロシア側の美貌の通訳官と恋に落ちてしまい、業務などそっちのけで愛を交わしていたのだった。5/10

3Dプリンターで拳銃を作ろうとしていたら、みょうちきりんな男が出てきて「シュウダンシジェイエイケングア」どうしたこうしたと言っているので、削除しようとしたが出来ない。仕方なくプリントアウトした奴を、危険物塵出しの日に出した。5/9

私はローバーミニに4人の外国人の女をぎゅうぎゅうづめに詰め込んで、逃走を続けていたが、それは彼女たちを、アフリカの偉大なる王への貢物にするためだった。5/7

野茂になった私は、捕手はもちろん監督の言うことなどもまったく聞かないで、勝手に剛速球を投げ込んでいた。それが墓穴を掘ることが自分でも分かっていたにもかかわらず。5/6

私は原稿を書いている時間が無いので、やむをえず生まれて初めての口述筆記を試みたのだが、私の秘書の男は(こいつはバカ殿のどら息子だった)、それについていくことができず、いたずらにドラエモンの漫画を書き散らしているのだった。5/5

その黒人の牧師は、説教を始める前に聴衆に向かって「まず喫煙をやめるように」と警告したが、聴衆がその指示に従ったのを知ると、「説教代は消費税込みで20.8ドルだ」と言い放った。5/4

息子が何度も「お父さん、すぐに食器を洗ってくださいね」と頼むのだが、パソコンに向かって仕事をしていた私が生返事ばかりしていると、彼は突然怒り狂い、地団太踏んで暴れ出した。5/4

「白いドレスの女」という映画について私が書いたコラムについて、それが国家情報局のビッグデータに収蔵されているデータとの整合が取れていない、という理由で文句をいわれた。そもそも題名からして違っているというのである。5/3

あの日私は、下から押し寄せてくる水をものともせずに、机の位置を少し高い場所に移動して、下からどんどん届けられる荷物を次々に処理して、普段通りに夕方帰宅したのであった。5/2

来年度の予算を立てている村田マネージャーが首をひねっているので、「消費税が上がったから困っているんでしょう?」と水を向けると、そうではなくて「盆踊りの経費をどうしても捻出できないので弱っている」というのであった。5/1

 
 
 

西暦2014年水無月蝶人酔生夢死幾百夜

夢は第2の人生である 第19回 西暦2014年水無月蝶人酔生夢死幾百夜

 

 

「あまりにも多忙だったので、パンフレットの文字校正をする余裕がなかったのです」、と若者たちは、懸命に弁明するのだった。6/30

私たちが運営しているNPO法人は、今年は赤字のはずだのに、なぜか50万の黒字になっているので、調べてみたら安倍蚤糞という会社から350万円の寄付があった、ということが分かった。彼らは水面下で税金をばらまいているようだ。6/29

その謎の電話会社は、先住民に誘拐された一家の悲劇を、隠喩だか、暗喩だか、モチーフにしているという噂があったので、私以外は加入していなかった。6/26

「これは陰茎ではなく、イチジクの形をした肥料なのです。原料は花のエキスなので舐めると花のキャンディにような甘い味がしますよ」と、そのセールスマンはイチジク浣腸をぶらぶらさせた。6/26

地下のスタジオでカモラマンと一緒に撮影をしていると、役員室から尾上理事長が降りてきて、「このパンフレットには違う判子が押してある」などと、じつにくだらないイチャモンをつけたために、撮影は中断のやむなきに至った。6/25

夜の海の奥底には、無数の深海魚がひめやかに泳ぎ回り、その隠微な世界は、波の上からのぞきこんでいるだけでは、到底伺い知ることができない。6/24

停車中の電車に乗り込むと、大学の演劇部の仲間たちが、座席にすわっている乗客たちを次々に殺しているので、恐ろしくなった私は、電車から飛び降りて線路伝いに逃げだした。6/23

独り暮らしをしているマンションで家政婦を頼んだのだが、火はつけっぱなし、水は出しっぱなしで、部屋中が水浸しになってしまったので、すぐに追いだした。6/22

もののはずみで誰かが「こんな会社辞めてやる」と言い出し、まわりの連中も「我も我も」と続いたので、ブラックプレジデントの私は、「本当に辞めたいなら、人事課長の中沢君か係長の内田君に届け出なさい」と言うた。6/21

夢の中なので、いくらお金を借りようが使おうが関係がないということにようやく気づいた私は、それこそ夢中になって欲しかった高価なあれやこれやを、どんどん手中に収めていたのだが、ふと「夢から覚めたらどうなるのか?」と心配になった。6/20

私はAに金を貸した。その金をAはBに貸した。しばらくしてAは、「Bが行方不明になった」と私に告げたが、おそらくそれは嘘だろうと思いながらバイトを続けた。6/19

私は、息子が私のお金を無断で持ち出したことを知っていたが、なにも言わなかった。しばらくして金庫を覗くと、そのお金は元に戻っていたので、息子が返したことが分かった。6/19

地震警報が発令されたので、私らは間もなくやってくる津波にそなえて、各戸に1個ずつ配布されている大きな浮輪を膨らませようとしたのだが、慣れない作業ゆえに捗らず、焦りまくっているうちに、それは襲ってきた。6/17

客がギネスばかりのんでいるロンドンのパブで、私はノンアルコールのビールを頼んだはずなのだが、それはいつまで経っても運ばれて来なかった。6/16

彼らは男ばかり数名で共同生活をしているようだった、ノノヘイが病気の時はセキノが、セキノの具合が悪い時はスギザキが代わりに仕事に出て、お互いに助け合っている姿が好ましかった。6/15

東京を逃れて京都にたどりつき、熊野神社あたりで学生相手の一膳飯屋を物色していたのだが、唯一の女性である前田嬢が「これは嫌、これもダメ、ちゅうちゅう蛸かいな」と文句ばかりつけるので、いつまで経っても昼飯にありつけない。6/14

世の中が戦争一色に染まって来たので、もう黙っているしかないといったんは思ったのだが、あまりに酷い事態を迎えつつあるので、最後の科白を言おうとした途端、突撃兵たちの集団に飲み込まれてしまった。6/13

私が率いる1個小隊は、東に向かっていたのだが、西からやってきたわが軍団の大波にのみ込まれてしまったので、みな三八銃を抱えたまま、ちりじりばらばらになってしまった。6/13

「これからはワンショットごとに消費税を掛けることになった」というので、念のために撮影済みのフィルムを調べてみると、確かに映像毎のすぐ後の黒いフレームには「消費税8%」と書きこんであった。6/12

私は息子を海につれていって泳ぎを教えようとしたのだが、彼は親の言うことは全然聞かず、しばらく放置していたら独りで沖合まで行って勝手に泳いでいるのだった。6/11

塹壕戦に従軍していた私らは、指揮官が全軍突撃を命じたので、三々五々前面の狭い砲撃口から外へ出ようとしたのだが、そもそもそこが狭すぎるうえに、銃や背中の飯盒が邪魔になって、押し合いへしあいするうちに全てが終わった。6/11

プロレスの八百長試合で、私が「ハイ」と声を掛けると、甲が乙に業を掛ける段取りになっていたのだが、んなこたあすっかり忘れて試合を見物していたために、試合はそのまま終了してしまった。6/10

最新のメンズ市場の販売動向を中島選手が延々とレポートしている間、僕たちはねんねぐーしたりあらぬ空想にふけったり、どうやって借金を返済するか算段したりしていた。そして僕たちはこういう時間こそはリーマンにとって至高の時であることを知っていた。6/9

大勢の兵隊を乗せた巨大な軍用列車は、なぜか線路から浮かんでしばらく空中で静止していたのだが、突然呪縛が解けたように汽笛を鳴らして疾走し始めたので、兵士も群衆も鳥も喜んで叫んだり鳴いたりした。6/8

洗濯物を家の外に干しておいたのだが、いつの間にやらそれが道路に落ちてしまって、その上をたくさんの車が轢き過ぎていくのだった。6/8

苦心惨憺の末に1枚1面当たり3時間の長時間超高音質安価LPレコードの開発に成功した私は、CDの音の暴力に悩まされ続けていた全世界のクラシックファンから感謝されただけではなく、一躍大金持ちになってしまった。6/7

死刑囚の私の首の上からシューっと唸り声を上げてギロチンの刃が落ちてくるのを聞きながら、私はそれが初めてではなく、いままでに幾たびか経験していたことを思い出していた。6/6

戯れにガイガーカウンターを買った私が、自分の体や周囲の家具や植物などにそれを向けると、物凄い音響を発してガアガア、ガアガアと唸り続けるので、私は思わずそいつを取り落としてしまった。6/5

プロデューサーは、私が演出する番組の視聴率が悪いのを気にして、あれやこれやの提案を口にするのだが、私は昆虫の名前はすぐに覚えられるのに、どうして野の花や草花の名前を覚えられないのかと考え込んでいた。6/3

私は寝る前に黒い靴下を履き、これなら水虫も痒くならないはずだ、と考えていたのだが、夜中に蚊に刺されてしまったことは想定外であった。6/3

私が彼の女を奪ったために、彼はたいそう私のことを怨んでいたが、これまで彼は大勢の男たちの女を無理矢理奪っていたので、これもいい薬だと私はひそかに考えていた。6/2

グリーン州のグリンランドがこんなに素晴らしい緑の楽園とは知らなかった。観光客は誰ひとりいないし、風と鳥の鳴き声以外は朝から晩まで物音一つしない。私はなにもかも捨ててこの地に永住したいと願った。6/1

 

 

 

平成スチャラカ社長行状記

 

佐々木 眞

 
 

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某月某日
地下道ですれ違おうとした男が、いきなり私の腰に腕をまわしてエイヤとぶん投げようとしたので、そうはさせじと、こっちも彼奴の腰に腕をまわしてナンノナンノとこらえていると、いつのまにか周りに人だかりができた。

すると男は急に力を抜いて「いやいやこれは失礼つかまつった。ほんの冗談、冗談。許されよ、許されよ。アラエッサッサア」と言いながら一礼し、すたこらさっさと立ち去った。

某月某日
さすが日本を代表する大手メーカーの大展示会だ。広大な空間をフルに生かした様々な物販ブースが何百と設営され人だかりができている。私たちもすぐに入場したいと思ったが、なんせ招待状を持っていないからどうしようもない。

必死でもぐりこむ口実を考えていたら、O社の吉田氏が通りかかったので、これ幸いと大声で呼び止め「吉田さん、吉田さん、ちょっと中へ入れて下さいよ。生憎記者招待券を社に置いてきちゃたんで困ってるんですよ」と頼み込んだ。

すると吉田氏は「なんだ佐々木か。お前なんか、ウチにとってなんのメリットもないからなあ」と嫌みを言うので、「おや、そんなことないですよ。なんならおたくがいま喉から手が出るほど欲しいものを言ってみなさいよ。たちどころに希望を叶えてあげるから」と返した。

すると吉田氏は声をひそめて「じつは渋谷の専門店百貨店情報が入ってこないんで弱ってるんだ」というので、「なんだ、そんなこたあお安いご用ですよ。手元に渋谷流通協会の報告書があるんで、よろしければお貸ししますよ。お代はお任せしますから、そちらで適当に値をつけてもらえばいいですよ」というと、吉田氏はこちらへすっ飛んできて中へ入れてくれた。

某月某日
「私Adogの田村ですが」という電話が掛かってきたので、いったい誰だろうと訝しく思ったが、すぐに先週名刺を交換した取引先の女性だと分かった。

「なにかご用ですか?」と尋ねると「送って頂いた企画書の件で直接お目にかかりたい」というのだが、私はそんな企画書を送った覚えはないので、はてどうしたものかと思い悩んだ。

某月某日
かつて友人だった男が脳こうそくで倒れたので、その代理に私が呼ばれて、彼が復帰するまで、「名前だけの社長」を務めることになった。

某月某日
大阪のデザイナーたちは「東京のデザイナーなんか最低。なんとかしてください」と、みんな声を揃えて新社長の私に言い付ける。

私が「名前だけの社長」になったお祝に、A男とB子が、私を銀座の料亭で接待してくれるというので、喜んで出かけたのだが、酒や料理はそっちのけで、やおら販促物のパンフレットを持ちだして、これについてなにか意見を述べろ、と強要する。

その口調が変なので、よく見ると、彼らはもうきこしめて、ぐでんぐでんに酔っぱらっているのだ。こんな連中と打ち合わせなんて、とんでもない。「想定外のコンコンチキだ!」と捨て台詞を吐いて料亭を飛び出したが、2人はどんどん後を追ってくる。

瞬く間に追い付いた男の顔をよく見ると、なんと前の会社にいた日隈君ではないか。彼は「佐々木さん、そんなに大急ぎで逃げ出さなくてもいいじゃありませんか。せっかくあなたの昔の恋人を連れてきたのに、一言も言わずにほおっておくんですか」という。

じぇじぇ、それではあの酔っ払い女がそうだったのか、と思わずその場で立ち止まると、「ほおら、急に態度が変った。それじゃあ僕たち先に東京タワーに行っていますから、あとから来てくださいな」といいざま姿を消した。

某月某日
5年前に会社を辞めた井出君が突然やって来て、「ただ同然の値段で高級別荘地が手に入るから、いますぐ現地へ行きましょう」とせっつくので、「いまから会議があるんだよ」と断ると「この絶好のチャンスを逃したら、もう二度と手に入りませんよ」となおも勧誘する。おいらはしつこいひとは嫌いだ。

某月某日
取引先のL社の宣伝部へ行き、次シーズンのテーマを尋ねたら「アリゾナ州のイメージだ」という。「アリゾナ州のどんなイメージなんですか」とまた尋ねたが、ただ「アリゾナ、アリゾナ」とオウム返しに答えるだけで、具体的な内容がある訳ではないことが分かった。

「そもそもアリゾナ州ってどこにあるんですか?」と聞いたが、それすら理解していないようなので、あきれ果てた。「いったい誰がそんなテーマに決めたの?」と尋ねたら、カンという人物だという。

「カン氏はどこにいるの?」と聞いたら、「あそこです。あそこでふんぞり返っています」というので、見るとどこかの国の官房長官そっくりだったので、私はカン氏には会わずにL社を出た。

L社を出たら、そこはアリゾナ州だった。見渡す限り荒涼とした砂漠が広がり、風がヒューヒュー吹きすさんでいる。ふと見ると、大勢のインデイアン、もとい、アメリカ先住民の子供たちが、私を取り囲むようにして迫ってくる。

怖くなった私は、彼らから逃れてどんどん高い山に登っていくと、円陣を組んだリトル・インデイアンたちも、どんどん私を追って高い山のてっぺんまで登ってくるので、「困ったなあ、どうしよう」と立ち往生してしまった。

ところが、たまたまそこに居合わせた大正時代の着物をきたおばさんたちが、やはり円陣を組んで、リトル・インデイアンたちの円陣にまともにぶつかっていくので、「嗚呼助かった!」と喜んだ私は、その間に沖縄の亀甲墓のような建物の中に入り込んだ。ここならきっと安全だろう。

某月某日
私たちが乗った世界一大きな風船が、熱帯夜の赤道上空に差し掛かったので、窓を開けると、月の光と共にわずかばかりのそよ風が吹き、極彩色の鳥が舞い込んできた。

 

 

 

おやすみなさい~ブラームスの子守唄

音楽の慰め 第6回

 

佐々木 眞

 
 

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私は花鳥風月にだけは恵まれた田舎で育ちましたが、音楽的な体験はほとんどありませんでした。家にあったヤマハの古いオルガンで賛美歌を自己流ででたらめに弾くくらいが関の山で、家でクラシックのレコードを聴いたことなど一度もありませんでした。

ところが私が小学5年生だったころ、ある日、大本教の本殿のすぐそばにあった体育館に全生徒が集まるように命じられました。

そして校長先生から、「今日はアメリカからやって来られた歌手の方が、みんなに歌を聴かせてくださるから、静粛に聴くように」という前触れがあり、続いてうらわかい、おそらくは20代のソプラノの歌手が、年長の女性ピアニストとともに登壇しました。

そこで彼女が歌ったシューベルトやモーツアルトやブラームスのリートが、思えば私の音楽体験のはじまりでした。

「野ばら」の愛らしさや「魔王」の不気味な恐ろしさ、「菩提樹」の旅情、とりわけコンサートの最後に歌われたブラームスの「子守唄(原題はWiegenlied)」の、あの母胎に回帰していくような優しい旋律は、歌い終えた彼女の美しい面立ちとともに、あれから幾星霜を経た閲今日も、ありありと瞼の裏に残っています。

その後私は、田舎の町の映画館で、「菩提樹」という映画をみました。これはウォルフガング・リーベンアイナーという人が監督した1956年製作のドイツ映画で、あの有名な「サウンド・オブ・ミュージック」と同じタラップ一家のアメリカ亡命旅行を描いていましたが、その「菩提樹」の最後のシーンが、今なお忘れられません。

ナチスを逃れて無事にニューヨークでのコンサートを成功させたマリア(美貌のルート・ロイヴェリック)が、この素敵な曲を美しい声で歌っていました(同じロイヴェリックが主演した「朝な夕なに」も、トランペットが活躍した主題歌とともに忘れがたい映画でした)。

私はこれは実際はロイヴェリック自身の声ではなく、おそらく名歌手ルチア・ポップの吹き替えではないかと想像しているのですが、歌い終わったルート・ロイヴェリックが、まるで聖母のように微笑みながら、ドイツ語で「 Gute Nacht(おやすみなさい)」と観客(わたし)に囁いて、ザルツブルグからの逃避行が「めでたし、めでたし」で終わる無量の浄福感は、私の心に長く揺曳したものです。

それからまた長い長い年月が経って、私はドイツ・グラモフォンが特別限定版で発売した46枚組のブラームス作品全集を購入し、1曲1曲をなめるように聴いていたある日のこと、久しぶりにこの子守唄に出会いました。

作品49「5つの歌曲」の4番目のこの曲を、女声ではなく、なんとバリトンのフィッシャー・ディスカウがしめやかな声で歌っています。

ということで、どちらさまもここらで Gute Nacht!

 
 

*参考 ウイーン少年合唱団によるブラームスの「子守唄」

 

 

 

空谷の跫音~イタリア弦楽四重奏団の空耳アワー

音楽の慰め 第5回

 
 

佐々木 眞

 
 

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イタリア弦楽四重奏団のモーツァルトの「ハイドン・カルテット」を70年代の旅先で耳にしたときは、最初の一音で陶然となって、なぜだか涙が出て仕方がありませんでした。

ああ、これがモーツァルトだ。これが弦楽四重奏だ。これが弦のほんたうの響きだ。
と確信できて、それは同じ頃に聞いたクーベリックのマーラーと同様にかけがえのない音楽体験となったのでした。

その後同じ曲をいろんな機会にいろんな団体で聴いたが、みな駄目でした。
大好きな東京カルテットも駄目でした。鉄人アルバン・ベルクも、てんでお呼びでなかった。

それから幾星霜、いまではとっくの昔に解散したこの四重奏団がかつてフィリップス、デッカ、DGに入れたCD37枚の録音を順番に、それこそ粛々と聴いていくなかに、K387のその曲がありました。

「春」という副題がつけられたそのト長調4分の4拍子のその曲の、冒頭のAllegro vivace assaiを久しぶりに耳にした私でしたが、どこか違うのです。

それはまぎれもないイタリア弦楽四重奏団の演奏ではありましたが、あの日、あの時、あのホールに朗々と鳴り響いた、あの奥深い音ではなかったのです。

それから私は急いでCDを停めて、そのほかのモーツァルトやベートーヴェンやシューベルトなどがぎっしり詰め込まれている黄色いボックスにそっと仕舞いこみました。

半世紀近い大昔の、あのかけがえのない音楽と懐かしい思い出が、もうそれ以上傷つけられないように。