家畜

 

塔島ひろみ

 
 

博物館で家畜を見た
家畜の剥製と頭骨を見た
ヒトが作り変えた命を見た
市場原理が淘汰した結果のブロイラーと
人の愛と執着が作り出した、異形のウマ
家畜になる前の、空を飛ぶことができたニワトリを、
家畜になる前の息子の、小さいが鋭い犬歯を見た

ブタが娘を折檻していた
奥の展示室で、棒で娘を、ブタの私が叩いている
太らせてから、おいしくなるように叩くのだ
ジタバタと騒いで、鳴く子豚を、押さえつけ、潰し、黙らせる
ブーブーブー 資本主義に負けてはいけない
鳴きながら、ブーブー、唾を飛ばしながら、ブーブー、
お前をヒトには渡さない
娘を叩く
私の家畜にするために

おいしいお前を食べるために

うなだれ、変形し、ぷんといい匂いが立つ肉になって
ブタは電車で、運ばれていった
息子と、娘と、私を乗せて、
隣の菅原さん一家を乗せて、
向いの宮島さん一家を乗せて、
家畜電車は満員だ
家族電車は満員だ

市場へ向う
生きるために、生き延びるために

じゃらじゃら小銭がいっぱい入ったお財布を持って

 

(2019年4月23日、博物館で)

 

<参考 東京大学博物館ニュース「ウロボロス」65号>

 

 

 

はくり、ひとの

 

薦田 愛

 
 

ねぐるしい夜であったか
定かではない
いくにんものひととはげしく踊り
汗して帰った
母というひととくらす
くらしていた
家に

いさかうことがあって
ほどけば何ということもせず
泣いてただただわびるつねの習いもとじこめ
しりぞいた
となりの音と気配を
隔て
ふすまいちまい
ねむれぬねむりをねむった

それは自棄というものかもしれぬ
ことばにうつすと何かがもれおちる
うつしとられたものばかりに宿る事実はうそくさい
ねむれぬねむりがやぶれ
やはりねむっていた
きみょうにしらっとしていて
びんせんというもの
しょくたく
かきおかれた文字があって
いなかった
ひとひとり
母という
ひとが

 

 

 

時代が変わるんだってさ

 

ヒヨコブタ

 
 

なにも思い出したくない朝と夜がある
わたしは
表面的に笑いなぜふざけているのだろう
そんなことにもとても疲れて
追いかけてくる過去なんてうんざりだと手ばなしたくなる朝と夜が

この感覚は昔からだと気がつきもする
すべての記憶を手ばなしたら
嬉しかったささやかなことも消えていくなら
わたしはすべてをからめとり
からめとられていたいのだと応える
じぶんに

ことばのなかにひきこまれるとき
会えぬ誰かとの感触がある
地名のなかのあのみどり
わたしは
ほんとうにはしゃいで、いた
そのあとのこともほとんど覚えているのに

書くことのなかに痛みがあると知っていても
幼く頑ななわたしにそれを伝えようと
いまとそこまで変わらぬかもしれない
すべてのうつくしさもそうでないことも
書きとめてしまうのだと
はやく、はやくと急いていた幼い頃から

大丈夫になることも、ある
不安が増大しすぎる時期も生きた
当然じゃない?と開き直って
わたしは行こうか

30年夢見ながら
よく苦しみました
時代は変わるようだけれど
あなたももれなく変わっていくから
心配しすぎないで、疲れたからだをまとって行こう
少しだけ励ましたいのはわたしだったね
ハグするよ、わたしじしんを

 

 

 

パタタ

 

辻 和人

 
 

パタタだ
テーブルの上だ
パタタパタタ
逃げる逃げる
「かずとーん、ちょっと来てえ、大変大変」
ミヤミヤの切迫した声
駆けつける
職場の華道部のお稽古で使った花から黒っぽいモノが飛び出したっていうんだ
テーブルから椅子へ、椅子から床へ
飛び移ったパタタは
棚の下の暗がり目指して
パタタパタタ
奴か
殺虫剤を取りに行って無我夢中で
シューッシューッ
霧が晴れると
そこにはパタタじゃない
仰向けになった子供のゴキブリが
足を震わせていた
静かになった

ああ、前にもあったあった
会社から帰ってドアを開けた途端
暗い足元に黒い影
パタタパタタ
咄嗟に家は絶対きれいな状態を保ちたいというミヤミヤの言葉を思い出して
すぐさま殺虫剤をバラ撒いた
灯りを点けると
パタタじゃない
大きな脂ぎったゴキブリが足を震わせていた

「ゴキブリさん、ごめんなさい。でも、家はきれいに使いたいから。
かずとん、ティッシュに包んでゴミ箱に捨てておいて」
ミヤミヤがちょっと気の毒そうに言うので
無言で頷く

パタタが
パタタのままだったら良かったのにな
逃げるって恐怖の感情
足震わせるって苦痛の感覚
ああ、やだやだ
手を下すってやだな
パタタがずっとパタタのままで
殺虫剤も
いつか市販されるかもしれない家庭用ドローンからの散布とか
そんな感じならまだ良かったのにな

もう生きていない生き物を
ティッシュを何枚も重ねて
床から摘み取る
脆い胴体がティッシュの中でぐしゃっとなる
ゴミ箱に投げ捨てて
もう知らない、知らないよ
階段を昇って自室に引き上げる
でも、これで終わりじゃないだろう
パタタパタタ
ほーら、やっぱり
パタタが追っかけてくる

 

 

 

橋上女

 

佐々木 眞

 
 

見ろよ イズミ橋の橋の上
今日も佇む 橋上女
降っても 照っても
一日に 何度も 何度も
近所の石橋の上に 佇んで
いつまでも いつまでも
あらぬところを 見つめている

歳の頃なら 五十 六十
身につけているのは 垢で汚れた紅色のダウン
水色のウールのパジャマの 上下をまとい
もっともらしく 両腕を 組んで
足には 黄色いサンダル 履いて
いつまでも いつまでも
あらぬところを 見つめている

それとなく 近寄って 眼鏡の下の 薄汚れた顔を 見れば
小さな 両の目玉は 灰色に濁って
さながら M.ジャクソンンの「スリラー」に出てくる ゾンビのよう
これでは どこを 眺めても 何も見えないだろう
ところが そうではなかった
彼女は 恐ろしい真実を 見据えていたのだ
ギリシア神話に出てくる カサンドラのように

私はその時、むかしアメリカで撮影した たくさんの写真を持っていた
すると 橋上女は 私を 呼びとめて
「その写真を 見せて おくれな」というた
それで 私が 写真を渡すと 彼女は 物珍しそうに見つめていたが
「ほら この写真を じっと見ていて ご覧な」というた
1968年、78年、88年、98年に NYの ブルックリン橋を
私がおなじ場所、おなじ角度で撮った 4枚のカラー写真だ

橋上女が 橋の上で 1968年の写真をかざすと
しばらくして ブルックリン橋は ピンボケになって
しまいには 姿も形も 見えなくなってしまった

「ほれ こっちも ご覧な」と橋上女が 橋の上で 1978年の写真をかざすと
しばらくして ブルックリン橋は ピンボケになって
しまいには 姿も形も 見えなくなってしまった

「ほれ こっちも ご覧な」と橋上女が 橋の上で 1988年の写真をかざすと
しばらくして ブルックリン橋は ピンボケになって
しまいには 姿も形も 見えなくなってしまった

続けて「ほれ こっちも ご覧な」と橋上女が 橋の上で 1998年の写真をかざすと
しばらくして ブルックリン橋は ピンボケになって
しまいには 姿も形も 見えなくなってしまった

私は、橋上女から取り戻した 4枚の写真を 矯めつ眇めつ 何度も何度も見つめたが
そのどこにも ブルックリン橋は映っていない。同じような どろりとした茶色の印画紙が 掌から突き出た 4枚のトランプのように 並んでいるだけだ

この時遅く かの時早く 私は気が付いた
1968年と 1978年と 1988年と 1998年に撮影された写真は なぜか見つめられると 粒子が荒れて 映像がとろけ出し 膨れ上がって 土の色に戻ることを

西暦の末尾に8が付く写真は 10年毎に見つめられると ピンボケになってしまうのだ
それはあたかも 大きな栗の木を 輪切りにした時 その年輪が 10年ごとに膨れ上がっているような ものなのだ

ユーレカ! ユーレカ! これぞ世紀の大発見 ではないか!
手の舞い 足の踏むところを 知らなくなった 私は
かの 橋上女に その 驚きを伝えようとしたが 彼女の姿は どこにもない

橋上女 ことカサンドラは いつのまにやら 姿を消した
さらば さらば 謎の女 カサンドラよ!
お前の 灰色に濁った 両の眼は 誰にも見えない 真実を見ていた