夢素描 14

 

西島一洋

 
 

 

雨が降っている。

川の中だ。
浅い川だ。
川岸も川底も全てコンクリートだ。
川幅は広い。
暗渠もある。

濁ってはいない。
透き通っているが、臭い。
汚泥の匂いだ。
糞尿の匂いだ。
強い消毒薬の匂いも混じっている。

全身裸で横たわると、流されていく。

川底はスルスルとしている。
滑らかだが、藻ではなく、汚泥の沈殿物が、うっすらと覆っている。
沈殿物の中には、ドロドロになった便所紙もある。
表面は、細い髪の毛のようなものが、流れに沿って揺らいでいる。

半身は水面(みずも)より上に出ている。
時折、全身が沈み、
川底に当たり、クルクルと回転されながら流される。

すこーし傾斜が強いところに出ると、スピードが出る。
といっても、時速40キロメートルくらいだ。

流されていると、建物があるはずなのに、見る余裕が無い。
せいぜい川岸まで程しか視界に入らない。
流されることに必死だからだ。
ただ、建物に囲まれている気配は十分にある。
建物は、全てモノクロームで、凸凹(でこぼこ)したバロック建築だ。

人の気配は全く無い。
ずーっと一人っきりで流されている。
川の中にも、川岸も、それらを囲むように林立しているだろうと思われる建物の中にも。
人の気配は無いのだが、虫のような気配があるのが不思議だ。
ただ、生命体ではない。

動かない虫だ。
死んでいるのではない。
ただ動かないだけだ。

動いているのは、川と僕一人だけだ。
あとは、きちんと見えてはいないが、
気配としては、じっとしている、というのを感じる。
それらは動いていないのに、それらの気配だけは感じる。

川幅の広いところに出た。
突然、虫の気配も、建物の気配も無くなった

空間というか、天空というか、空というか、何も無いというか、そのような気配が生じてきた。
何もないのに、あるという気配ではない。
何も無いという、そのものの気配なのだ。
言葉的には矛盾しているが、無という有が感じられるのだ。

怖くは無い。

この辺りに来ると、川は二股に分かれている。
上流から下流に向けて二股になるというのは、不自然ではある。
しかも、二股になることによって、水量も増える。
流れの勢いも増す。
これも不自然だ。

血管で言うと、静脈でも動脈でも無い。
静脈は、山から、小さな川が、徐々に一つになって海に流れ込むという態だ。
動脈は、津波のように川が海から逆流して、陸の奥に行くに従って分散していくという態だ。
そのどちらでもないのだ。

雨も強くなってきたが、音が無い、静かだ。
しかし突き刺さるような雨の力だ。
豪雨を超えてはいる。
視界は薄暗いが景色はハッキリしている。

二股のどっちかを選ぶ余裕も無く、僕は左の方の流れにぐいと引き寄せられた。

雨はまだ降っている。
まだ降っている。
いつまでも降っているので、
雨に飽きてしまった。

もう少しで、橋の下をくぐる。
木造の橋である。
木は腐ってカスカスだ。
崩れる寸前の太鼓橋だ。

僕が行くまで崩れずに、
ずーっと待っていてくれる。

おそらく。

 

 

 

家族の肖像~親子の対話 その54

 

佐々木 眞

 
 

 

今日はおばあちゃんち行ってえ、図書館行ってえ、西友行ってえ、お弁当買って帰りますお。
分かりましたあ。

今日はサケご飯にして、お母さん。
分かりましたあ。

オシャレって、なに?
すてきな洋服を着て外を歩くことよ。お母さん、オシャレしたいな。
オシャレ、オシャレ、オシャレ。

お母さん、目黒構内って、なに?
目黒の駅の中よ。

引退って、辞めることでしょ?
そうだね。

お父さん、連佛さんのドラマ録画してくださいね。
分かりましたあ。

「バイバイ、さよなら」と言ってくれたよ。
誰が?
サユリさんが。
いつ?
昔。

お父さん、ぼく連佛さんのビデオ見ますよ。
分かりましたあ。

お父さん、連佛さん泣いちゃたよ。
なんで?
分からないけども。

連佛さん、なんで寝ちゃったの?
お酒のんで、よっぱらっちゃったのよ。

またたくって、なに?
キラキラすることよ。

掛け算のカケルは、バツに良く似てるね?
バツ? ああ、そうだね。

お父さん、2つ録画してくれた?
バッチリ録画しましたよ。

お母さん、あした図書館と西友行きます。
リョーカーイ!

ヤマモトリョウコは、旅館で働いてるの?
東京の旅館で働いてるみたいよ。

連絡帳にね、鎌倉郵便局は嫌いです、と書いといてね。
分かりましたあ。

竹中直人さんの斉昭、死んじゃったのね?
そうだね。

お母さん、「今まで普通に渡っていた、鎌倉郵便局の信号が苦手になった!
怖くて渡れなくなった。」そう連絡帳に書いてください。
いつから怖くなったの?
3月から。
信号なんで怖くなったの?
「タッツタッツタ」というようになったからだお。
そうなんだ。知らなかったなあ。

お父さん、「恋はディープに」見ますお。
分かりましたあ。

患うって、なに?
病気になることよ。

ぼくはシュウマイです。
こんにちはシュウマイさん。

ぼくは、「戦うラーメンマン」好きですお。
そうなんだ。
ラーメンマン、ラーメンマン。

ぼくヘチマ好きですお。
そうなんだ。
ヘチマ、ヘチマ、ヘチマ。

お父さん、録画した?
しましたよ。帰ったら一緒に見ようね。

みっともない、恥ずかしいことでしょう?
そうねえ、ちょっと恥ずかしいことかな。
みっともない、みっともない、みっともない。

洗濯物、乾きましたよ。
雨が降ってきたから、こうやって部屋で乾かしておきましょうね。
分かりましたあ。

 

 

 

いのちとの別れについて思うこと

 

ヒヨコブタ

 
 

こころのなかに
降り積もっているかつての
命あったひとたちのことを
おりにふれ思う

じぶんよりうんと若い命との別れがあった
それを悔やむより
よく頑張ったよと
いまはそんなこころもちで

幾人かの友人が世を去ったとき
それはまだ見えぬ未来に変わる
じぶんのなかで
そのひととの細かな会話や
すこしのエピソードがわたしを慰めるから
まだ生きていかねばならぬのだと
強く強く思わされてきた

なかには
とても酷い人生のように見えるひともいた
生まれ変われたならきっとと思う
にこやかにただふつうに
生き返ることを願う

そういうことを
すこしずつ共有できる僅かな友がいるのは
めぐりあわせとしか思えぬこと
大量消費されるようにたいがいは忘れるひとのなかでは
わたしは
黙する

美化することもなく
蔑むこともない
皆がいつか行く道の
そのひとつでしかないのだろうと
わたしは再び
ことばを探しに
潜っていく
深い深い水のなか
高い高すぎる空の上に
ことばを這わせて

 

 

 

島影 31

 

白石ちえこ

 
 


北海道札幌市 旧山本理髪店

店の外から馬車の行く音や、活気のある、通りの喧噪が聞こえてくる。
山本理髪店にはお客さんが一人。横たわって顔を剃ってもらっている。
カミソリの歯が鈍く反射している。
理髪店の片隅に、一着のコートがかかっていた。
黒くて、分厚くて、ずっしりと重そうなコートだ。
祖父のコートもそうだった。

店に入ったときは薄曇りだったのに、外はいつのまにか吹雪きになっていた。
辺り一面、白く霞んでいる。
町には、もう誰もいなかった。

 

 

 

あなたは、右も左もわからない私の透明な手を引いて

 

村岡由梨

 
 

洗面台の鏡に映る幼い私は、半泣きだった。
いつもは優しい母が、めずらしく厳しい口調で言った。
「もう一度聞くわよ。
あなたが右手を上げて鏡を見る時、
鏡の中のあなたが上げているのは、右手?左手?」
「…わかんない」「わからない」「わからないよ」
「わかるまで、そこに立っていなさい」
母は突き放すように、言った。
私はいつまでも泣いていた。

わからなかった。
世界には「右」「左」と名付けられた概念があるということ
幼いなりに理解していたつもりだった。でも、本当のところ
右って何だろう?
左って何だろう?
どこからどこまでが右で、
どこからどこまでが左なの?
右と左の境界線はどこにあるの?

大きくなって、携帯のナビを使って目的地へ行こうとしても、
右と左がわからないから、難儀する。
ナビが私のめちゃくちゃな指示に取り乱し、次第に狂う。
「次、右です」「次、左です」
右です左です右です左です右です左です右です左です
畳み掛けるように、私を責める。
地面が液体のように揺れて、風景が歪んで、私に覆いかぶさる。
車酔いのようなひどい吐き気がして、思わず地面に座り込んだ。
世界にひどく意地悪をされたような気がして、絶望した。

その時、誰かが優しく私の手を引いた。
「僕の指差す方が右で、反対が左だよ」

僕を信じる?

 

信じるよ。黄緑色の名前のあなたを。

そして私たちは結婚した。

若かった私にとって、結婚は困難の連続で、
「結婚」という奇妙な病に罹った私の両腕は、
黄緑色の斑点だらけになってやがて腐り落ち、
私は永遠に翼を失ってしまった。

それでも私たちは17年も結婚生活を続けて、
長い年月を経ても尚、
あなたは変わらぬ愛情を注いでくれた。
右も左もわからない私の透明な手を引いて、
「今夜は月がきれいだよ」と言って
外に連れ出してくれた。
でも、不安だよ。
いつか私があなたを失うことがあったら、
私はまたこの世界に放り出されて、迷子になってしまうのかな。
そうなる前に、私はもっと強くなりたい。
あの日、鏡の中で泣いていた幼い私自身を抱きしめるために。

この世界の有り様を、私自身の内なる言葉で名付けよう。
「右」じゃなくてもいい。「左」じゃなくてもいいじゃない。
目的地に辿り着きさえすれば。

この詩が、幸せな結末になるか不幸せな結末になるかは、私次第で、
自分の思いは自分の言葉で決着をつけたい。

「僕を信じる?」
「信じるよ。黄緑色の名前のあなたを。」

私たちは、黄緑色の油絵の具で汚れたお互いの手と手を取りあって、
「右」と「左」の境界線を真っ直ぐ歩いていく。
まだ名前を持たない未知の世界を
私たちの内なる言葉で名付けるために。