湯浴み手ぬぐい

 

薦田愛

 
 

たぷたぷりたたっぷたぷ
とそこに
湯は張られてあり
みなそこへゆきそこからかえる
まるくみちみちとしたちいさな子を抱えるわかいひととその母らしいひとや
前髪きれいなボブのひととそのままちいさくしたような切れ長の瞳の子や
杖つきながら脱衣場よこぎり椅子に腰おろすや丹念に
一枚またいちまい身につけてゆくひと人ひと
引き戸が開くたびに温気がすっと流れ込む

重ね着にも程がある
三枚四枚五枚着込んだ私はようやくすべて脱ぎきり
ぎゅぎゅうロッカーにおさめ
洗顔ジェルやシャンプー洗い髪を束ねるタオルやクリップ水入りボトルを手に
引き戸の向こうへ踏み入る
足うらが濡れる
市立薬草薬樹公園丹波の湯
漢方の生薬もろもろ栽培されてきた数百年を
観て香って歩く公園にしたアイデアってなかなかそして
温泉の代わりに薬草薬樹を活かしたお風呂を設けたという次第よきかな
移り住んで三年あまりちょくちょく来ている
朝晩冷え込む十一月下旬
使い古しの電気温水器が故障いやついに壊れてお湯が出ないわが家から
ここは
徒歩では厳しいけれどユウキの車でなら十五分あまり
ありがたや
よかったねえ駆け込みお風呂があって
「まったくなあ
 じゃあ一時間半後にね」
と手を振るユウキが早くも業者さんを探しあて
交換する機種も決まったものの実物が
年内に届いて工事ができればいいけれどと
見通しはまだ立っていない
そういえば去年の今時分だったかここの脱衣場で
市内いちばん寒い町から来たという年配のひと
お風呂が壊れて交換まで三週間かかるのだと
うーんまさに今のわが家じゃないか
あれっほんの十日前のこと高松の母の部屋を訪ねたら
蛇口からお湯が出ないのでメーカーと管理会社に連絡して急き立て
翌日には修理のひとが来て直ったのだったよ
まさかまさかわが家まで

サウナとジェット風呂、ぬるめの薬湯は当帰もしくは十種ミックス
髪を洗いタオルに包んで身体を洗ったらジェット風呂へ
ほおおおっ
息がもれるのは身体のどういう仕組みなんだろう
ゆるむというのか湯気の湿り気が隠れたスイッチを押すのか
ぼこぼこ泡に圧されて温まったら
覗いてみて小さめぬるめの薬湯へ
こちらの浴槽も窓の外は緑
当帰の湯にひとり
おばあさんとは呼びたくない短髪の
年配のひと
しずめた身体はくつろいでいる
お湯のなかだもの
ふっと目をつむっている
無粋にいうなら中肉中背の体格
皺もしみも拒まず
きっとたくさん働いて乗りきってきたひと
なのだろうな
気持ちいいお湯ですねえ
などと声かけるのもためらわれ
少し離れてじぶんの身体をしずめる
ほおおおおっ
もれる息をちいさく逃がす
目つむるひとのまとう空気を揺らしたくない
窓の外と葭簀をのせたガラス張りの天井から差し込む初冬の光が
湯気を分けて
まぶたを閉じているそのひとの
面差しと身体を明るませる
私に絵筆があるなら
湯と湯気と光につつまれたそのひとの姿を描きとめるのに
しらないそのひとの
ただそこに在るかたちの
佇まいの荘厳
と言いたくなる
絵のようです
おごそかできれい
などと声かけても
訝しいから
声をのむ

そのひとより先にあがって
薬湯のしずくを洗いながし
ビニルに包んでいた手ぬぐいでくまなく拭く
しばらく前から家でも
風呂上がりはバスタオルをやめて手ぬぐい一枚
そう
リュックの中に手ぬぐい常備三、四枚
鈴木志郎康さんの詩の手書き原稿をデザインして
さとう三千魚さんが作成なさった藍染めの手ぬぐいも
持ち歩いているのだけれど
バスタオルの代わりにするのは気恥ずかしく
色褪せかけた縞柄の一枚でぬぐう
スッとしずくも湿りも吸い取ってくれて
ありがたや
脱衣場の
次々に来るひと着て帰るひとの行き交いを縫って
ロッカーを開け
まだすぐ着て帰れない
インド綿のノースリーブワンピースをかぶり
ヘアブラシや乾いたタオルを手に洗面台へ
生乾きの髪では風邪をひく
ドライアーをつかう前に
顔をあらう
冷水で
そうだ
あの藍染めいちめんの地に
志郎康さんの文字志郎康さんの言葉が浮かぶ手ぬぐいを
おしあてる
今度こそ
あ、あぁ
やわらかい
顔いちめん
やわらかくてあたたかい
使いはじめに四度五度もみ洗い
色をおとした生地が乾いて
やわらかい、なあ、と
両の手でひろげれば

それゆけ、ポエム。  *
それゆけ、ポエム。

 
 

* 鈴木志郎康さん作品「詩」より

 

 

二〇二四年一月一日一六時一〇分頃、能登半島付近を震源とするマグニチュード七・六の大地震。続発する揺れのさなかに在る方々の安全を、切に祈りながら。
(わずか半月、家の蛇口から湯が出ず、入浴できなかった日々でさえ不自由をかこった。一月の寒空のもと、不安と緊張に晒され、倒壊現場でいのちの危険に瀕しておられる方々が、少しでも早く心身ともに安心安全な環境で過ごせますように)

 

 

 

白に、キミドリ

 

工藤冬里

 
 

無糖ストロングゼロをコンビニの裏で半分捨てて2023を終わらせたのがアル中には早過ぎるというなら何が遅過ぎたというのか世界を締め殺すのには

〇〇史という設定が崩れてきても泪のギターは残る。鋭角の残存物となった嘘は全面対決に向かう。ひとりの嘘として泣いているのだ。

最後の赤軍はリモコンで地雷の蕪を抜き、横たえる。横たわる蕪は満月の下で再び人間爆弾となり、狼狽えながら肺をやられる。股引の身体性を捨象したバルザック的な兵士として、蟹は月夜の畑に横退る。

見えるものは影にすぎず見えない方法そのものが実体である。祭壇は人が望むものではない。銅の体を着けたままその奥に入ることはできない。

咳を殺してベタ塗りの黒
Q&Aは
主題さえ分からず
不本意な年末
名誉回復のために考えついたのが国
国が先
目的が変わらないとはルートを変更するということ
名誉回復のために考えついた国には
無意味だった年始
主題さえ分からず
Q&A
咳を殺してベタ塗りの黒
国では誰が一番嬉しいだろうか
敵意が最も激しくなる時
戻れないとは思わなかった
強風に揺れる泰山木
雨混じりの明かるい日差しの中
世界にはもっと気味の悪い天候のところもあるんだろうなと思いながらも遠くの
雪山に合わない黄緑を見ている

能登の親戚は山に逃げて車中泊

 

 

 

#poetry #rock musician

錆びたナイフ

 

たいい りょう

 
 

言葉は 錆びたナイフのように
他人(ひと)ではなく
自分を 深く 傷つける

怒りは 怒りを呼び
怒りの連鎖を生む

砂糖は 体に悪い

意味の分からない言葉たち

人は 言葉によって 分かり合え
愛し合えるのだろうか

男は しばし 歌を唄い続けた

錆びたナイフを片手に

 

 

 

一本足の少女

 

村岡由梨

 
 

透析のクリニックの、やけに白い待合室で
一本足の、灰色の男を見かけた。
私は、全盲のおじいさんの車椅子を押して
待合室に入ったばかりだった。
人たちは皆うつむき加減で
テレビから聴こえてくる笑い声にじっと耐え、
迎えの車が来るのを待っていた。
翌々日も、同じような時間に同じ場所で
その男を見かけた。
その男も車椅子に乗っていた。
迎えが来るのを、待っていた。
私は、男の見えない足を見ていた。
見てはいけないものを、見ていた。
そして、おじいさんの車椅子にブレーキをし、
近くのソファに座ってぼんやり考え事をしていた。
娘たちのこと、夫のこと、猫たちのこと

遅かれ早かれ終わりはやってくるのに、
私たちはなぜ、出会ってしまったんだろう。

そんな悲しい詩の言葉を、
心の中で反芻していた。

やがて、その一本足の男を見かけることは無くなった。

 

ある日、待合室のあまりの沈黙に耐えかねて、
テレビのチャンネルを変えた。
昼のニュース番組だった。
灰色の瓦礫の山の中に、
片足を失った少女が立っていた。
片足だけでなく、親も兄弟も住む家も無くしたという。
泣き腫らした、燃え尽きたように黒い瞳が
怯む私を突き離して、遠くを見ていた。
一本の松葉杖にしか頼る術のない
不安定にグラグラ揺れる世界が、そこにはあった。

決して目を背けてはいけないものから
目を背けて逃げた私は、
真っ赤に燃える荒野にいた。

そこには、右足を失った18歳の眠がいた。
足元には猫のサクラが寄り添って
じっと前を見据えて
死にたい自分と、闘っていた。

荒野には左足を失った16歳の花もいた。
靴も履かずに、花は
割れた手鏡の破片で血を流しながら、
背筋をピンと伸ばして
昔の自分と、闘っていた。

眠は、使い古したクロッキー帳と鉛筆で、
花は、痛みと引き換えに手に入れた
スネークアイズとスネークバイツで武装して、
自分達を食い潰そうとしている世界と必死に闘っていた。
時には一方に無い右足になって、
時には一方に無い左足になって、
グラグラ グラグラ グラグラと
不安定に
沸騰する
世界
世界と少女たちは互いの肉体や精神を食い千切ろうと、
ギリギリの均衡を保って屹立している。
彼女たちの視線の先にいるのは
もはや私なんかじゃない。
彼女たちは叫び、抵抗し、暴れ回る。
彼女たちには叫び続けてほしい。
この世界が壊れるまで。

 

 

 

2023の終わりに

 

ヒヨコブタ

 
 

今年もあと数日、というところでやってきた落とし穴のような闇
いつも何度もおもってきたのだけれど
結局のところはわたしは生き延びられている
今回も新しい年になればふっと軽くなるだろうか
そしてわたしはあといくつ年を重ねるのだろう

いつもきれいに色づくイチョウが、色づいたことの美しさと、また例年よりものすごく短期間で落ちてしまったことを
家を出られる日、裏表の気持ちでながめていた。
死について考えるのは無責任にも自由で
わたしのその時はいつなのかすらわからない
大切な人たちのそのときは覚悟はあるというのに、じぶんにいたってはまったくだということも

誰とも別れたくはないのに、それは決まっている
わたしはもう少し強くならねば
強くなることも芯を持つことも
じょじょに身につけられますように
その日までに間に合いますように