鈴木志郎康
悩みと言えば悩みなんだ。
傲った悩みだ。
捨てちゃえば片が付くものを
捨てられないで悩んっじゃうんじゃ。
困っちゃうね、
困っちゃうね、
どんどん溜まっちゃう。
どんどん溜まっちゃう。
なんとそれが新刊の詩集なんですよ。
わたしんちに宅配便と郵便で
どんどん、秋口から冬にかけて
三日と空けず、詩集が、
新刊の詩集が
見知らぬ詩人さんたちから送られてくる。
見知らぬ人の詩なんて読む気がないのにね。
視力も弱っちゃてるしさ。
今日は詩集は来なかったけど、
同人誌が来た。
積み上げられた詩集は、
今、卓上に三十三冊。
居間の床に積み上げられた
詩集の山が今十五の山を超えていく。
困っちゃうね、
階段の踊り場、積み上げれた布団のわき、本棚の前などなどと、
仕事場には足の踏み場もないほどの本の山。
邪魔なんですが、
捨てるのも
売るのも
気持ちが引っ掛かちゃう。
捨てられない、
困っちゃうね。
まあ何とか読もうと、
来た順にテーブルの上に積み上げているのね。
折角送ってくれたのだから、
ちょっとは読んでみようと思っている。
そのうちに、
そのまま、
そのまま、
時は止まらず、
テーブル上の詩集のわきで三度三度のご飯を食べているうちに、
溜まって行くってことなんすよ。
あーあ、あーあ、
あーあ、あーあ。
困っちゃうね、
どんどん溜まっちゃう。
このあたしの悩みってのは、
詩の一つのプロブレムproblem
詩を書くのは楽しいが、
見知らぬ他人の詩を読んでも楽しめない。
困っちゃうね。
自分の詩は出来るだけ沢山の人に読んで貰いたいけど、
出来るだけ沢山の人の詩なんて読みたくもないのよ。
書いている人の姿が見えない。
困っちゃうね。
プロブレム
プロブレム
何で、詩集を見知らぬあたしに押しつけるの。
いや、いや、
ただ、ひたすら、
読んで欲しいって気持ちなのさ、
あんた高名な鈴木志郎康さんなんだろ。
おれって高名詩人なんだね。
いや、いや
送って置けば、
眼にとまって、
なんか評価されるかも、って。
評価って、何だよ。
詩人として認められるってことですよ。
たしかに、あたしも、四十七年前の若い時に、
『罐製同棲又は陥穽への逃走』を出したとき、
名の知れた詩人さんたちに送って、
眼に止めていただいて、
話題にされて、
H氏賞を貰えた。
その構図ですよ。
だから、いろんな賞の選考が始まる前になると、
送られてくる詩集が急に多くなるんだ。
賞を取らなければ読まれないってんでね。
いや、褒められたいとかさ、
一番になりたいとかさ。
でもまあ、とにかく、詩集が多くの人に読まれれば、
無理に他人に送り付ける必要がなくなるんじゃないのかね。
自分の詩集を多くの人に読んで貰いたい、
だが、そのために開かれた
交流の広場がないってことか。
詩集を広める広場がないってこと、
遂に行き着いた。
プロブレム!
困っちゃうね。
いやいや、詩集の広場ならあるじゃない。
「現代詩手帖」その他の詩の雑誌の
「詩集時評」とかさ、
各新聞の「詩の月評」とかさ、
詩集を取り上げるメディアはあるじゃん。
でもさ、
刊行された詩集を全部取り上げるってことはないじゃん。
それにさ、新聞でも雑誌でも選ばれた詩人さんが、
その人の主観で選んだ詩集だけしか取り上げない。
取り上げられなかった詩集は忘れ去られちゃう。
せっかく書いたのに、
忘れ去られちょうなんてやりきれない。
困っちゃうな。
じゃあ、どうすればいいのよ。
先ずは、
まあ、全国民に詩を読む習慣を身につけて貰うのよ。
詩人たちは詩人たちで誰もが書いている人の姿が見えて、
面白がって読む詩を書くってことよ。
それで、
発行された詩集が全部揃っている書棚が欲しいね。
そこに行けば、誰の詩でも、書かれた詩は、
自由に手に取って読めるってこと。
そういう詩の広場があって
詩をもって人の交わりが生まれるってことになれば、
いいじゃん、えっ、いいのかなあ。
書かれる詩も変わってくる。
そんなことあり得ない。
困っちゃうな。
と思っているところに、
同人誌の「山形詩人」Vol.84が送られてきた。
発行人は木村迪夫さん、
編集人は高橋英司さん。
その「後記84」に
「昨年末、農作業小屋の二階に小さな書庫を作った。段ボール
箱に詰め込んで重ねておいた、過去四十年間に集まった詩集を
並べてみた。約二千冊。壮観なものである。しかし、百冊ほど
を除くと、タイトルすらほとんど記憶になく、初めて目にする
ような印象なのである。自分にとつて、そのような詩集はおそ
らくゴミ本なのだろう。人によっては、自分に必要なものだけ
を残し、その他はすべて廃棄すると聞く。それはそうだろう。
都市のアパートやマンション暮らしでは置き場所に困る。生活
空間が圧迫される。」
と書いてあった。
「その点、筆者は田舎暮らしゆえ、空間的には困らない。大工
仕事の手間暇、費用はかかったが、
所蔵するに不都合はなかった。」
と書いてあった。
二千冊を納める書棚!
いいなあ。
うらやましい。
「しかし、筆者が本を捨てられないのは、空間に余裕があるか
らではない。一冊一冊の詩集に込められた作者の熱い思いが、
捨てないで、と呼びかけてくるからである。その声は自分の声
でもある。」
そうなんだ。
だから捨てられない。
「いかに評価の低い、つまらない詩集でも、作者にとっては
かけがえのない一冊だと思う。だから、書庫が満杯になっても、
筆者は詩集を捨てない。書架を増設するだけである。とはいえ、
筆者が死んだら、息子や孫たちは、丸ごと全部処分し、書庫を
空っぽにするだろう。それは知ったことではない。」
だってさ。
そうかあ、
あたしが死ねばあたしんところでも問題はそく解決なんですね。
農作業小屋に書庫を作るこういう人がいるなんて、
救われる。
なんちゃって、
実は、詩集を読みこなす力が
自分に無いのを棚に上げて、
プロブレムとか
何とか騒いだ末に、
送られて来た同人誌の
コピペ
コピペ
で、さよならですか。
詩人さん、
詩集が来なくなったら寂しいよ。
困っちゃうね。