夢は第2の人生である 第38回

西暦2016年睦月蝶人酔生夢死幾百夜

 

佐々木 眞

 

 

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同期入社の伊藤君を久しぶりに訪ねたところ、私と入れちがいに工場から飛び出してきた男がいた。そいつを追いかけながら「ドロボー、ドロボー、機密書類のドロボーめえ」と怒鳴っている男をよく見ると、伊藤君だった。1/1

私は、次から次へといろんな薬を飲んだ。1/2

原稿の校正をしていると知らない間に年配の女性が目の前に立って私の方を見ている。何の用だろう、それにしてもどうして何も言わないんだろうと訝しく思っていると、日本広告の吉原さんが、「君、ササキさんに挨拶くらいしたらどうなんだ」と詰った。1/4

しかし彼女は相変わらず一語も発しないで、こちらをじっと窺っているばかりだ。すると吉原さんが、声をひそめて「実は彼女はもうだいぶ前に死んでいるんですが、時々こうやっていろんなところに現われ出るので、我われとしても困っているんですよ」と云ったので驚いた。1/4

久しぶりに詩を書いたのだが、途中で難航したので、どこかの誰かの詩を引用したら、これが渡りに船というやつで、次から次に自在な展開が可能になったので病みつきになり、いつもこの手法を活用していたら、いつしか自分の詩が書けなくなってしまった。1/5

展示会を開催するのをすっかり忘れていたので、焦り狂って四方をかけずり回っているうちに、尿意を催したのでトイレに飛び込んだら、そこはなんと巨大な美容院だったが、便器に似た丸いボールがいくつもぶら下っていたので、そこにオシッコをしようとしたら怒られたので、また外に飛び出した。1/6

善戦虚しく最後の決戦に敗れた我われは、村の外れにいある一軒の農家に入り、傷ついた身を労わりながら、最後の一献を汲みかわしていたが、誰も「腹を切ろう」と言いだそうとはしなかった。恐ろしかったのだ。まだ死にたくなかったのだ。1/7

運動と闘争に敗れ去ると、定番のザセツの季節がやってきて、我われは所属するグループ別に、さながら動物園の猿のように、お互いを労わりあい、舐めあっていたのだが、広瀬さんだけは、それらの属を超えて、慈愛に満ちた眼で我らを見つめていた。1/7

飛行機から降りて飛行場を出ようとしたら、大勢の人々が待ちかまえていたので、急遽裏口に回ったのだが。なぜだか吉村さんが後を追ってくるので、引き離そうとどんどん走っていたら、いつのまにか道がなくなって、広い河原に出てしまった。1/9

仕方なく、巨大な岩石がごろごろしている河原を歩き続けているのだが、行けども行けどもいっこうに町が見えてこない。そのうちに夜になってしまったので、持参していたテントを張って、その中で眠ってしまった。

ふと目覚めると、なにか異様な物音がする。ゴウゴウというそれは、たぶん水音だ。これはいかん、このままでは洪水に押し流されてしまう、と思いつつも、これはきっと夢なのだろう、きっとそうに違いないと思い、私はまた眠りこけてしまった。1/9

今夜もバスターミナルへ行くと、門と佐藤が来ていた。出発時間はまだだが、超満員の長距離バスなのでだんだん暑くなってくる。上着を脱いで水を飲んでいると、車内にたくさんの白い鳩が迷い込んできたが、屋根が開けないので、大混乱が始まった。1/10

バスから飛び降りて暫く歩いていると、伝兵衛の家に辿りついたので、私は手に持った火を藁葺きの家に投げ込むと、家は一気に燃え上がった。1/10

外国の服を買おうと、カタログをパラパラめくっていたら、甘い香りのする若くて綺麗な女の子が傍にいて、同じページを覗きこんだ。1/11

村の寄合が終ったので、公民館から帰ろうとしていたら、おばあさんを連れた女の子から「夜道は不案内なので、私たちと一緒に帰ってくれませんか」と頼まれたので、その顔を良く見ると、昼間の若くて綺麗な女の子だった。

二つ返事で引き受け、いろいろ際どい話もしながら家まで送り届けたのだが、おばあさんは御礼の一言も言わずに私を睨みつけるので、その顔を良く見ると、義母だった。1/11

障碍施設の子供たちが、先生に率いられて町の通りを散歩していた。その中に私の子供を見つけたので、最後列を一緒に歩いていたら、おまわりから「こらこら、なにをしとるんじゃ」と怒られてしまった。1/12

初めての大学での初めての授業なので、念のために2時間前から予習しながらスタンバッっていたのだが、もう準備万端整った、と思ったので、見知らぬ夜の街に出て、とあるカフェでノンアルコールビールを口にした途端、その場で気を失って倒れてしまった。実は普通のビールだったのだ。1/13

私はアルコール過敏症で、2002年の5月にも神戸で救急車で担ぎ込まれたことがあり、以来一切酒類は避けてきたのだが、またしても不覚をとってしまった。気がつけば吉田君が「大丈夫?」と心配そうに覗きこんだので、「うん、少し良くなった」と答えた。

私が「すぐに大学に戻らなくちゃ。いま何時?」と尋ねると、「7時10分だ」という返事。「しまった10分も遅れてしまった。30分までに戻らないと休講になっってしまう。ヤバイ。私がフラフラ立ちあがると、吉田君は「自転車が2台あるから大丈夫さ」と請け合った。

「僕が先導するから君は後からついて来たまえ」と云うので、言われるがままに暗い夜道を走っていると、昭和30年代の京都のような、賑やかだけれど寂しい駅前に着いた。ここはいったいどこなんだろう? 大学はどっちなんだろう? ときょろきょろあたりを見回したが、肝心の吉田君の姿はどこにも見当たらない。1/13

高くて大きな家からボヤが出た。家主がが寝巻のままで門の外に出て、心配そうな顔をしているので、私が「もう大丈夫。もうすぐ鎮火するでしょう」というと「そうかなあ。さっき消防を呼んだけど、まだ来ないんだよ村田君」という。「村田じゃないよ、佐々木だよ」といおうと思ったのだが、どうしてだか私は黙っていた。1/14

建築学部の地下へどんどん降りていくと、ひどくぬかるんでいたので、磨きたての靴がずぶずぶ水たまりに沈んでいくのだが、そんなことは気にしないでさらに地下室の地下へと降りてゆくと、ヤクザのような若者が、紅いベベを着た少女をずぶずぶ犯していた。

その傍らには大勢の男女が、盛りのついた猿のように性交しているので、いたたまれなくなった私は、仕方なくもと来た階段を登って建築学部の外に出ると、商店やレストランが軒を並べている駅前広場に出た。1/14

我われは、野戦より籠城を選んだ。全員が城の中に入って、すべての戸や窓を閉ざすと、真っ暗になった。1/15

東京港区の愛宕山に行った。男坂天下の名馬「松風」に跨った私は、一気に男坂のてっぺんまで駆け上がると、お椀の頭をした詩句たちが「オイッチニ、オイッチニ、ソネットを作ろ、ソネットを作ろ」と掛け声をかけながら、一列横隊に急峻な階段を登ってくるのが見えた。1/18

そこで私は次から次へとうじゃうじゃ登ってくる詩句たちの間に、4列/4列/3列/3列の輪割れ目をガッツリ入れて、念願のソネットを作ることに成功したので、「エイエイオウ、エイエイオウ!」と勝ち閧を上げた。1/18

既に戦争が始まっていることを知っていた私は、できるだけ味方に近い敵の領地に向かって移動しながら、脱出の機会をうかがっていた。1/19

私はずっとNYのチェルシーホテルで暮らしていたが、そこへ友人のQが転がり込んできた。Qはそれまで何をしていたのか遂に語らなかったが、まるでずぶぬれの負け犬のような風体でベッドの上をごろごろしていた。1/20

ある日、私は町で乞食のような痩せこけた女と知り合ったが、どこへ行く宛てもないというので、チェルシーホテルの私の部屋に連れてきた。得体のしれない男女3人の共同生活が始まったというわけだ。

それから数日して私が外出から帰ってくると、ベッドの上でQと女がファックしていた。彼らは私が帰宅したと知りながら、猛烈なファックを止めようとはしなかったので、私はそのままチェルシーを出て、二度と戻らなかった。

それから、長い歳月が流れた。私は、その間にようやく乱れ切った自分と生活を立て直し、新しい仕事と人世を取り戻していたのだが、ある日突然思い立って、あのチェルシーホテルの懐かしい部屋を訪れたが、彼らの姿はなく、老いたカンボジア人が一人で住んでいた。1/20

「ヒエーー、助けてーー、わたしまだ死にたくない!」と大声で助けを求めて大暴れする大きな黄色い蝶のぶっとい胸を、左手の親指と人差し指で挟んで、うんとこさ力を入れながら圧し続けて、私はとうとう殺してしまった。1/21

L社の商品企画会議に出席を求められたので、遠路はるばる出かけると、室長が新製品の試作品を私に示して「これで行きたいのです」という。見ればそれは、何の変哲もない2枚のポリウレタンだった。1/22

「従来は白だったが、今度の新製品は、同じ素材を茶色に変える。要するに色変わりですな。大変結構」というと、同席していた20人ほどの連中が、一斉にぞろぞろ退席していく。残ったのは、私と室長だけだった。1/22

私は映画「新・気狂いピエロ」の演出を頼まれた。富める貴族と貧しい不可触選民が、2時間にわたって大殺戮を続ける日仏英米合作映画である。1/23

私の家の中では、夏だけでなく、冬になっても部屋の中を飛び回れるので、快適だった。パソコンの画面上の点点は、たちまち羽虫になって、部屋の中を私と一緒に飛びまわるのだった。1/24

夜中に駅に停車している電車に戻ってくると、ほとんどの連中がまだ起きていた。私は荷物を中央駅に預けたままだったので、明日列車が出発するまでに取ってきたいと思ったが、相談するべき駅員はどこにもいない代わりに、大勢のロシア人たちがラアラア騒いでいた。1/25

某国から、着のみ着のままのヴァイオリニストが亡命してきた。彼女はコンサートを開くときには、草の上に置かれた風呂敷包みの中から、とても小さなヴァイオリンを出してくるのだった。1/26

私は早撮りで有名なちゃらい監督だったので、撮影寸前や直後の妖艶な女優をいきなりその場に押し倒し、素早く事を済ませてから、何食わぬ顔をしてカチンコを叩いていた。1/29

蓮池君が、浅草の問屋で大量のおかきやせんべいを買い込んでいるので、「君はこれを餌にして魚釣りをするんだろう?」と尋ねたら、「とんでもない、これは自分で食べるんです」と答えた。1/30

私は打ち合わせに出ようとこの会場にやってきたが、どの部屋も大勢の人でいっぱいだ。その会合で私は、なんたらフェアについて説明するように頼まれているのだが、その内容については、なにも知らないことに気付いた。1/31

これはヤバイと思って、私の仕事を依頼した人物を探して会場の中を走り回っていると、突然知らない人物から携帯に電話が掛かって来て、「至急お目にかかりたい」という。「今取り込み中だから後にしてくれ」と言うのだが、しつこくせがむので、私はだんだん頭に来た。1/31

 

 

 

*「夢百夜」の過去の脱落分を補遺します。

夢は第2の人生である  第13回

西暦2014年睦月蝶人酔生夢死幾百夜

 
 

ヴェネチアのサンマルコ広場にマーラーの交響曲の楽譜が落ちていたので、リアカーに乗せて自分の家まで持ち帰った作曲家は、それっきり部屋から出てこようとはしなかった。1/31

サーカス団の6人の子供たちが、観客席で見物していた私に「早くここまで登っておいでよ」と誘うので、するするとマシラのように支柱を登りつめた私は、彼らに混じってマーラーの交響曲第6番にあわせて空中連続宙返りを敢行したのだった。1/31

やっと電車が来たので、みな一斉に乗り込もうとしていると、1人の若者が停まっている電車のレールの下の穴に潜り込んでしまったので、心配になった私は彼の後に続いた。1/30

スキー場にやってきたアルバイトの女子大生が、いきなりハモンドオルガンでバッハを弾いたので、同じ大学のアメラグの3名のクオーターバックの選手が、滑降中に激しく転倒した。1/29

「あとは僕に任せて下さい、色々打つ手はありますから」と言い置いて、敵に向かって駆けだした途端、上司の龍宝部長がいきなり私の背中にしがみついた。どうやら敵のリーが、部長になり済ましていたらしい。1/28

夢の中で夢記憶装置が2個置いてあるので、それをオンにしてみたら、私が実際に見た夢とだいたいは一致していたが、部分的には違っていたり、途中でちょん切れていたりするのだった。

超苦手な部下の逆パワハラに猛烈に悩まされていた私だったが、ようやく彼女が他の部署へ出て行ったので、ホッと一息ついて猛烈に仕事がしたくなった。

韓国のどこかで、日本あるいは日本以前の日本列島の影響を受けた文化遺産が発掘されたというので、私だけでなく、友人や専門家の人たちも驚いた。後進地帯から先進国への逆輸出もあるのだろうか。1/27

わが社でたった一人の鴨下カメラマンは、あれやこれやの撮影で引っ張りだこだったが、彼を担当する廣瀬マネージャーの手違いでダブルブッキングが発生したために、あちこちからクレームが殺到していた。1/26

見知らぬ人と名刺を交換したのだが、和服を着たその老人の名刺はお弁当箱くらいの大きさの透明な箱になっていて、その中には金魚が1尾泳いでいるのだった。1/25

いよいよ敵軍との大決戦が迫って来たとき、余が軍服を脱ぎ捨てて郷里の普段着に兵児帯を巻き付けて陣頭に立ったので、幕僚と兵たちは呆然自失の態だったが、これによって余は平常心を取り戻すことが出来たのだった。1/23

国家暗殺局に逮捕された我々3名の前に、3つのコップが出された。2つはただの水だが、1つだけトリカブトの毒が入っているという。「好きなのを選んで呑め」というので躊躇っていると、最初に呑んだ奴が口から泡を吹きながらのたうち回っている。1/22

「なにゆえに」ではじまる短歌を来る日も来る日もセッセと作り続けていたら、某出版社から電話がかかって来て、これが1万首になったら本にしてあげます。但し金200万円也と引き換えです、というので驚いて断った。1/21

リーマン時代の最後の日に、伊勢丹の営業部長のところへ挨拶に行ったら、鳥取特産の「20世紀」を御馳走してくれた。私はその水も滴る大きな梨を頬張りながら、もう2度とこんな美味しい梨を口にする機会はないだろう、と思っていた。1/20

サッカーの試合であらかじめ談合して、彼女がしかるべきときにゴールを決めるように打ち合わせしていたにもかかわらず、どういう風の吹きまわしか、私は自分の持ったボールを敵陣に蹴り込んでしまったのだった。1/19

ブラジルのオジサンが亡くなって突然私に証券の遺産が転がり込んで来たので、これで借金が払えると大喜びしていたら、新日本証券が証券を売り渡すまさにその日に、世界恐慌が起こってすべてがパアになってしまい、私は元のルンペン生活に戻ってしまった。1/18

裏山を登っていくと頂上でキース・ジャレットが富士山を眺めていた。キースは白人だと思っていたが、なぜか黒人の顔をしていた。2人並んで御来迎を待っていたがなかなか太陽は昇らなかった。1/17

久しぶりに新潮社の別館にエンジンの編集部を訪ねたら、6畳間くらいのスペースに8人が座ってぎゅうぎゅう詰めで仕事をしていた。壁には映画「プラトーン」のポスターが貼ってあるので、時が今ではないと知れた。編集長のスズキさんはと訊ねたら行方不明だという。1/17

ワーナーの試写室へ行くと、早川さんが出てきて、「さあこれからホットドッグの原田さんとターザンの澤田さんと一緒にご飯を食べに行きましょう」と誘われたので、トコトコついていくと美味しいチャンコ料理を御馳走になってしまった。1/17

白い貫頭衣の古代の娘たちが、奴隷たちを次々に殺戮してゆく。大沢氏が演出した3D映像は圧倒的な速度と美しさだった。しかもそれらを銀幕越しに炭素年代法で測定すると、それらすべてが紀元前1世紀の素材であることが明らかになった。1/16

森繁久弥と田中角栄が、「そのお、あたしゃあとうとうたたなくなってしまったよ。死んだ方がましだ」と泣いているので、「歳をとればみなそうなるんですよ。あの渡辺なんとかいう三流性小説の作家もインポテンツになったそうですよ」と励ましたが、泣きやまなかった。1/15

近所で起こった女子高校生殺人事件の犯人とおぼしきオートバイに乗った男の撮影に成功した私だったが、それを警察に届けたものかどうかと悩んでいるのだった。

私は一晩中夢を見ていたが、それはまったく同じ内容の夢だったので、すっかり退屈してしまってなにか別の夢をみたいと思い、できればそいつを短縮版に切り替えようと思うのだが、うまくいかないので疲れ果ててしまった。1/14

ハワイで敗戦を迎えた私は、田中さんに頼まれ、そんな技能も実績もないままに邦人たちのスタイリストを務めることになったが、彼らは私に向かって口々になにか仕事はないか、仕事を寄越せと喚くのだった。1/13

学校の校舎のエレベーターの前に山口君がいた。久しぶりなのでいろいろ話をしようと近ずいたがなにも言わないので、よく見たら山口君そっくりの菊人形だった。1/12

りびえらさんは枚方の菊人形の会場に幽閉されてしまいました。りびえらさんに同情した女の子が面会にやってきましたが許してもらえないので、仕方なく門の外でりびえらさんのお母さんとたちつくしておりました。

「お母さん、りびえらさんはどうしてりびえらさんというの」
「リびえらさんはリビエラからお嫁にやって来たのよ」
「りびえらさんはなにか悪いことをしたの」
「いいえ、悪い大臣が勝手に牢屋に入れたのよ」

りびえらさんはリビエラ国のお姫様だったのですが、悪い大臣が黒い戦争を企んだ時にただ独り反対したために、ここに連れてこられたのです。

それから2人は可哀想なお姫様のために「冬のリビエラ」を歌い、1本の薔薇を置いて立ち去りますと、りびえら姫もこんな歌を歌いました。

ふるさとはきっと薔薇の花盛り でも枚方には菊のお花しかない
み園生の泉の底に沈んでいたまがたまの光の懐かしや

するとその歌を聞き付けた名犬ムクが、りびえら姫の絹のハンカチーフをくわえて走ってきましたので、りびえら姫が急いでそれを開いてみるといくつかの木の実が入っていたのでした。1/12

里に初雪が降った夜には、山に棲むキツネが下りてきて村の若者の寝床に忍びこむのだが、若く奇麗な女に変身したキツネは、朝まで男の体の上に乗り、けっして男の自由にさせないのだった。1/11

百貨店に勤める井出君が、売り場の主任にアフリカの土着アートを飾るように進言し、女子販売員も賛成しているのだが、主任はイメージが合わないなどと旧弊な言辞を弄して、あくまでそれを退けるのだった。1/11

まことに陰険な顔をした若者が我が家の長男をいじめている現場に出くわしたので、私はナイフを彼奴の首元につきつけ、「今度このような行為をしたら殺してやる」と激しく威嚇すると、私の決意が本物であると知った男はガタガタ震えてちびった。1/12

三菱鉛筆ユニの改造計画に従事する私は、「I+S+Y」のプロセスで失敗したので、Sを止めてみたら旨く行った。すると今度は悪評高いサントリーホールの音響改造を依頼されたので、音響板を全部撤去して丸裸にしたら妙な浮遊音が解消されて感謝された。1/10

ソープオペラを英国でスタジオ録音することになったのだが、練習練習で疲労困憊していた私たち歌手は、いつのまにかぐっすりと寝込んでしまった。妙な臭いがするので起き出した私がキッチンを見ると、ガスレンジの火がごうごうと燃え、煮物が噴きこぼれているのだった。1/9

女子校の寄宿舎に住みこんで番人をしている私の寝床には、毎晩のように女の子が忍び込んでくる。ある夜などいっぺんに3人も押しかけて来たので対応に苦慮したのだが、最近は毎晩1人ずつになった。きっとみんなで相談してローテーションを組んだのだろう。1/8

「滑川をゴムボートに乗って、海まで下りませんか」と町内会長が誘うので、由比ヶ浜まで下ったら、何百人もの市民が集まっていたので驚いた。もっと驚いたのは、会長が「今日の経費は、目隠しをした少女が触れた人に全額負担してもらいます」と宣言したことだ。1/8

目隠しをした仏蘭西人形のような少女がいきなり私の腕をつかんだので、私は頭にきて海岸を飛び出してどんどん走っていると、突然漱石の南画に出てくるような巨大な岩山に突き当たったので仕方なく登り続けると、ほぼ垂直の傾斜になってしまった。1/8

空中都市に住んでいた私たちは、猛烈な親の反対を押し切って結婚することに決めた。道の向こうに彼女の姿を認めた私が、エイとばかりに飛んだ途端、向こうから飛び込んで来た彼女と道の真ん中で衝突し、私たちは抱き合ったまま落下していった。1/7

知的障がいがある息子と香港のホテルの近くの駅前で待ち合わせをしたのだが、いつまで経ってもやってこない。顔面蒼白になった私は、その界隈を駆けずり回ってその行方を追ったが、駅員が息子はマフィアに誘拐されたと証言したので私は本部へ急行した。1/6

地震洪水津波警報令が施行された結果、コンサートや各種イベントなどは、高度86m以上の場所でないと開催できないことになったので、私たち音楽業界関係者はいつもライヴ開始前のひとときを特別指定会場付近のカフェで過ごすことが多くなった。1/5

ブログにアップする原稿をああでもないこうでもないと考えあぐねていると、だんだん胃の具合が悪くなってきたので、あわててトイレに駆けこんで吐こうとするのだが、ゲエゲエいうのみでいっこうに何も出てはこないのだった。1/4

景気がいっこうに良くならないので、倒産した会社の差し押さえをするGメンの私は、毎日忙しい思いをしていた。私の相棒はGメン仲間の紅一点の鈴木ナオミだったが、長い間コンビを組んでいるにもかかわらず私たちの関係はある一線をけっして越えようとはしなかった。1/3

実に久しぶりに映画の主演女優へのインタビューの仕事でパリに来ているのだが、なぜか街は60年代のようで、タチの映画に出てきた団体の観光客といたるところで鉢合わせする。そのうちに突然昔の恋人までが登場して、私の通訳をかってでてくれたのでとても嬉しかった。1/2

紅白の司会を失敗したタレントが所属する事務所がそのために仕事が激減したので、従業員を指名解雇しようとしたので、私は彼らを糾合して同盟罷業を行い、誰ひとり犠牲者を出すまいとした。14/1/1

 

 

 

夢は第2の人生である  第14回

西暦2014年如月蝶人酔生夢死幾百夜

 
 

はげ山の頂上に「トリスタントイゾルデ」の愛の死が鳴り響く。劇伴はカラヤン指揮のウイーンフィル。歌っているのは私の隣にすっくと佇立するジェシーノーマン。私はその巨大な体躯から流れ出る太い歌に震撼させられた。2/27

荒野の真ん中でさながらさすらいのガンマンのようにたたずんでいるのは、マガジンハウスの「ターザン」でレジェンドと称された辣腕ライターだったが、私がいくら覗き込んでも、テンガロンハットに隠されたその蒼ざめた相貌を伺い知ることはできなかった。2/27

中国を訪問していた私は、なぜか某国の第一将軍に擬せられ、両国の歓迎祝祭儀式の先頭に立って双方の国歌斉唱を聴かされる羽目になったのだった。2/26

新しいスタジオが完成したというのに、私たちはそこをライヴや録音に使うことも許されず、管理者は夜な夜な催すパーティだけに使用しているのだった。2/25

警官隊の突入を前にして、私は彼女と一緒に居るべきだと考えているのだが、もしも彼女がそう思っていないとすれば、それを強要すべきではないとも思い、さてどうしたものかと、心は千千に思い乱れるのだった。2/25

「今日は村上春樹さんにお引き合わせしますから楽しみにしていて下さいね」、という広報の前田さん他1名と一緒に真っ白に塗られたエレベーターに乗っていたのだが、なぜか私はだんだん呼吸困難に陥り、扉が開くや否やその場にしゃがみこんでしまった。2/24

最新型のウエラブル眼鏡型端末を装着しながら試験問題を解いていたら、その答えが全部目に映ってくるので、私は驚いて周囲を見回した。2/24

試験が終わってくつろいでいると、突然資生堂の販促会議の情景が映し出され、新製品の命名を議論していたので、私が何気なく「コンソート・オフ・ふぁっちょん」はどうよ、と呟くと、みながそれに同意したので驚いた。2/24

牧師の私が留守の間に、教会で殺人事件が起こったらしい。急報ですぐに引き返した私は、どうやって事態を収拾したらいいのか迷ったが、まずは会衆一同を落ち着かせなくてはその場に跪いて祈りをはじめた。2/23

私はどういうわけで浅田姉妹が抱き合ってシクシク泣いているのかてんで分からなかったが、どちらかといえば姉の方が美しいなあ、と思いながら見詰めていた。2/22

私が担当していたテレビドラマは、視聴率も取れずさんざんな出来で終わってしまったのだが、終了後のスタッフの絶望と不安に閉ざされた暗い日々を淡々と記録したドキュメンタリー番組が好評で、それが私の今後の唯一の希望なのだった。2/22

なぜか南アルプスの山々の地図に私の名前が記されていたときいたので、豪雪がうずたかく降り積もっているにもかかわらず、その原因をつきとめようと、私は単身現地へ向かった。2/21

わが愛する尼将軍は、今度の戦争の最前線で軍勢を指揮していたのだが、突然の病で忽然と世を去った。2/20

今井さんからの手紙の「君の短歌は扼然なり」と書いてあった。扼然などという日本語はないはずだが、造語にしてもいったいどういう意味だろう。なんだか不吉な文字だなあ、と考えているうちに朝になった。2/19

峠を下りたところで、尨毛の大きな野犬と友達になった。渠は容貌は怪異だが心根はおだやかなようで、街を追放された私の傷心を慰めるために、ときどきピアノでシューマンの小曲を弾いてくれるのだった。2/19

その男は、米国のさる国家的重大事件について偽証した謎の人物なのだが、そんな世間から降りかかる灰色の疑惑などものともせずに、じゃんじゃん仕事をこなしていた。2/18

カルチェラタンの大学でバリケードが張られていたのだが、中の教室で授業があるからどうしても入りたいとがんばる女子の後について荒涼たる空間をうろうろしていると、ロシアのCMが流れていた。2/17

私は前世ではナマケモノだったので、ずっと朝まで1匹のナマケモノとしてうろうろしていた。2/16

マイナーな芝居を見に行ったら、突然妙な顔をした男が、私に舞台に立ってくれというので断ったのだが、彼はこの芝居の演出家でトイレの中まで付いてきて執拗に出演して呉れと懇願するのだった。2/15

映画評論家でもないのに私の名前が新聞にでかでかと出ていた試写会に行くと、会場の後ろには巨人族の2人が立っていたので、私がそれを撮影すると、フィルムをスタッフに取り上げられたので、頭にきた私はその顛末を詩に書いた。2/14

いままで平和そのものだったこの町も、最近はとても物騒になったので、私は切り出しナイフを常に携行するようになった。2/14

当藩の内部抗争はますます激烈なものになり、女性剣士の永原玲子嬢は長刀で斬って斬って斬りまくったために、饅頭屋は饅頭でいっぱいになったのでした。2/12

集英社に行ったらいろいろな雑誌の編集者がどんどん出てきて、名刺も持っていない私に神保町商店街を活性化して焼肉ランチを売れるようにするプロジェクトなどに参加するように要請されたが、もはや商店街にも焼肉にも興味がないので早々に退出した。2/12

この大学では就活指導と婚活を案内を同じ部屋でやっているので、ときどき混乱が起こる。ついさっきも面接指導を受けていた2人を結び付けようとした指導員が、大反発を受けていた。2/11

わが国初の国産宇宙船に乗り込んでいた私たちは、いよいよ着陸という際のトラブル発生でパニクって、窓の外に急接近する海にいつ飛び込もうかとハラハラドキドキしているのだった。

包装紙を次々に破ってゆくおじさんを、僕たち子供は呆然と眺めていた。2/10

永代橋にあるそのショップはとても居心地がよく、私は仕事もさることながらほとんど遊びの感覚でそこでの生活を楽しみ、家に帰るのが惜しいと思えるほどだったので、店の一角で寝泊まりするようになると、奇麗な女の子が毎晩訪ねてくるのだった。2/10

静子さんがとうとう5時ごろに亡くなったのに、私は会議があるというのでそのまま死の床から立ち去ってしまい、夜になってから戻ってきたら彼女の頬は冷たくなっていた。2/9

ヨハネ受難曲に続いてマーラーの交響曲第9番を延々と演奏しているので、耳がタコかイカになり、「いい加減にやめなさい」といおうと思ったが、それほど酷い演奏ではないし、指揮者が女性なので、私はそのまま彼らがしたいようにさせてあげた。2/10

モンドリアンの絵画の中を漂流していた小さな♪の私は、吹いてきた風にあおられて、もんどりうって真っ逆さまに転落してしまった。2/8

高当丸に乗り組んだ私は、他の2隻を率いて戦争のまっただなかであるにもかかわらず、敵の機雷だらけの海を無事に本土まで輸送することに成功したのだった。2/7

コンサート会場で第2バイオリンが若い未熟な指揮者に反発してボコボコにしたという話を聞いた私は、演奏会の前半で帰宅しようとしていたのだが、思い直してまた自分の席に戻った。2/6

マガジンハウスの久米ちゃんから試写会の招きを受けた私は、久しぶりに東京に出かけたのだが、巨大な会場のあちこちにライオンが駆けずり回っては咆哮しているので、くわばらくわばら命あってのものだね、としっぽを巻いて退散した。2/6

健君と2人で長い時間をかけて歩きまわり、この島のもっとも美しい眺望ポイントを探し出すことができた。2/5

「いまから2時間以内にここから逃げ出せば自動殺戮装置は起動しないからすぐに出来るだけ遠くへ逃げなさい」と助言したにもかかわらず、そのジョルディーナという若い娘は逃げ出さずに、むざむざ死んでしまった。2/4

大勢の優婆塞たちが集まり、諸肌を脱いで人の上に人が登って、見る見るうちに巨大な人体ピラミッドが出来上がり、それが大空高く聳え立つのを私は呆然と眺めていた。2/3

毎朝英国のある町を発って仏国のある町まで通っている私は、自分がいったい何者であり、なぜそんなことをしているのか、またいったいそこでどういう仕事をしているのかも分からないまま、毎日そんな行き帰りを続けているのだった。2/1

 

 

 

旅館バス

 

サトミ セキ

 
 

楽しいパーティーは終わった。見知らぬ七歳の少年、四歳の女の子の兄妹を人気の無い暗いバス停に送ってゆく。小さなバス停のそばに古い木の電信柱が立っていた。わたしがホストなのかもしれなかった。
誰も乗っていないバスがやってきた。窓越しの彼らに手を振ったとたん、真夜中の街角という街角から人が湧いて、バスは次第に大きく膨らんでゆく。柔らかいバスは人混みの中でまだ出発できない。
バス会社の人なのか、腰までヒゲを垂らした中年女が「あの人たちにギブ⚫️△◯◯Xをしてください」とマイクを片手に言う。三年前に死んだはずの夫はさっと立ち上がり、彼らの元へ駆け寄った。「ギブなんとかって何」というわたしの問いにも答えず、夫はだれかれかまわず惜しみなくハグしている。わたしがギブ⚫️△◯◯Xをしないからなのだろうか、まだバスは出発しない。
子供はどうしているかしら。狭いバス、のはずだった。ステップを上がると入り口で履物を脱がされた。バスの中には廊下が通り、両側が共同部屋、部屋の入り口には木目が黒光りしている。引き戸はあるわ、布団はあるわ。
そうだ、わたしは旅館バスに乗っていたのだ。四歳の女の子をぎゅっと抱きしめると、「今どこ」と長い睫をぱっちり開いた。半分寝かけた子供の匂いが、オレンジの花の匂いになった。
「起きたらおうちに着いてるからね」北極地方の子守唄を歌ってやると、あっと言う間にかわいく寝入った。しめしめ、わたしも寝るよ。わたしの布団の半分をひきよせ夫が寝ようとしたから、「ちょっと、布団が寒い」と口尖らせると、夫は「わかったよぅ」と素直に姿を消した。
七歳の男の子はちょっと見ぬ間に西洋梨か蟹に変身していた。西洋梨のようなころんとしたからだに頭と二本爪がついて、にこにこ笑いながら甲高い声で話すのだった。再びあらわれた夫は、「俺は子供に好かれるもんね」と自信たっぷりに男の子と話し、ついでに男の子が寝ていた布団で寝始める。
蟹少年はカサカサ音を立てながら、妹の顔に横歩きで近づいていった。妹が「いやーん」と固い甲殻類の感触をいやがったので、「人がいやがることはやめなさいね」とわたしは説教してみた。蟹は自分の足をぱっくり分解して、廊下の入り口に巨大な鍵のように置いたりしている。
いったいバスはもうどの国まで行ったろう。引き戸を開いてバスの外に出ると、既視感ある小さなバス停が目の前にしんとあり、電信柱の上で、白く夜が開け始める。人も車も通らない広々とした暁の大通りで、運転手はのんびりと煙草を吸っていた。
「バスを出すのはヤダね」
「このバスはどこへ行くの」
「はあ、あんたは生徒に人気あるロダン先生だね」
「ロダン先生ってだれ」
「いったい、どこへ行きたいのさ」
我が身を見下ろすと彫刻用作業着の白衣を着ていて、わたしは美術教師らしかった。みんなが眠るバスに戻ろうとして、さっきバスから下りた時までは見慣れた広場の角だったのに、今は紅い髪と碧眼の人々が行き交う地下鉄構内を歩いている。足早に追い越した見覚えのある運転手に、あ、ちょっと、と呼びかけたら、地下鉄の中は靴の陳列室になった。
先が昆虫の触覚のように尖った長い靴。足を入れることができず、上に足を置くだけの靴。面白いから履いてみようか、と思うけれども透明な鍵付きケースの中に入っており、試着できない。中南米から来た足首がついたサボがごろりと無造作にころがっている。
聞き覚えのない子供たちの声に呼ばれる。ロダン先生と呼びかけられたのではないかと思い、はあい、と返事をしてわたしは後ろを振り向いた。

 

 

 

いと、はじまりの

 

薦田 愛

 
 

一九六六年、昭和なら四十一年ごろのこと。
埼玉県川口市
つまり
キューポラの町のはずれ
ふたつの川にはさまれた工場街の一角の
三階建て集合住宅
社宅へ越してなんかげつ
推定四歳半の女児すなわち
わたくし

あおいにおいたたみのうえ
よこずわりにすわって
ほそくとがった
これは
つまようじ
とがってないほうにぎざぎざ
そこに
きゅっとするんだ
むすぶ
白いのやぴんくきいろいのも
りょうてをひろげたよりもっと
ながいほそいそれ
しつけいとっていうのよって
まま、の
てのなかにあるたば
まま
まま、に
ちょうだいといった
「まま、ちょうだい」と

ぺらっとうらっかえせば
まっしろの
ちらしっていうのを
ぬうの
ぬののかわり
ぬうのは、ね
まま、のまね
ままは、ね
ようさいし

あぶないからさわっちゃだめって
ままは
とがってほそぉいぎんいろの
はり、をいっぽん
ふえるとのはりやまからぬくと
あたまのところ
めがひとつ、じゃなくて
ちいちゃくあいた
あな
あなへとおす
いと、を
ななめにきって
くちにくわえて
しとっとさせてきゅるん
ねじってほそらせる
ほぉらほそぉくなったいとのさきが
すいっ
すいっとちいちゃな
とんねるをいま
とおってく
それは
ままのまじっく

つつっとはしるみたい
はり
まっすぐ
それにまぁるく
くれよんみたいな
ちゃこでかいたみちも
めじるしやもようのないところも
ぬののおもてうら
くぐってはおりかえし
すすんではもどり
はりのねもとにきゅきゅっとまきつけ
ふしにするんだ
かたくかたぁく

そんな
ままのまね

しつけ糸と爪楊枝と折込みチラシ
糸と針と布地の代わり
これとこれ、ともたらされたのではなく
こんなふうにと教えられたのではなく
推定四歳半の女児が
どうしてだかたどりついた
ままごと

ままごとのむこう
ままは

いたのまにみしん
ぐんぐんふみこむぺだるの
いったりきたり
みるみるおりてくるぬの? きじ? その
かたっぽうのはじがくるっ
くるるっとたたまれ
しつけいとじゃない
もっともっとずっとあっちまで
おわらないいとで
みしんのうえぎゅるんとゆれる
いとまきにまかれた
いとで
ぬっていく
ぬう
まっすぐまぁっすぐ
ままのまじっく
それは

編むよりも織るよりも
縫うことの好きな女の子
それはわたくしではなく
まますなわちわが母
一九五〇年、昭和でいえば二十五年ごろのこと。
たぶん
香川県観音寺
それとも善通寺
海にちかいちいさな町の中学生は
日曜日
お弁当を提げて先生の家へ行く
ミシンを借りに
まあたらしい生地なんかじゃない
ふるい浴衣をほどいて洗って裁ちあとをつないだ布に
折りしわ残る紙でつくった型紙をあて
ブラウスの前身頃、後ろ身頃
襟に袖

それが最初のいちまい?
ままの
ううん
かぶりをふる母
もっとまえよ
小学生の時から
ぬってた
ブラウスだけじゃなく
スカートも?
ワンピースも?
授業じゃなくてね
好きだったし得意だったから

おさいほう好きなんでしょ
よかったらいらっしゃいって
うれしかった
どきどきしながら
次の日曜日もでかけた
どうぞっていわれたろうか
たたきに靴をぬいだとき
うつむいて
ひきむすんでいた口からふうっと息がもれた
きっと
日の傾くまでいっしんにミシンをふむ
おさげの中学生
洋裁師への道はもう始まっていた

本科師範科デザイン科
三年行ったんだってね
これが出てきたのよって母は
ある日
洋裁学校の修了書を広げる
デザイン画は苦手って前に言ってたね
型紙は起こすけどやっぱり
デザインするより縫うのが好き
だから
もくもくと縫えればよかった
子どものスカートや
社宅の奥さんたちのワンピース
時どき町なかの洋裁品店だったか
工賃表を買ってたしかめてたね
スカートいくら ワンピースいくら婦人物コートいくらと
示されたリスト
それより少なくしかもらわなかった
十年二十年着ても傷まない
出来栄えもあたりまえという矜持を
そっと縫い込み

まま、ママ、
ミシンの糸って二本、針も二本なんだね
家庭科の課題はついに一度も手伝ってもらわなかったけど
それはあなたに似て器用だったからではない
それでよかった
家にミシンがあるから
ボビンの入れ方はすんなりわかったよ
でも
迷いのない速さですすむ
まま、ママの縫い方には追いつかない
洋裁師にはかなわないよ
娘は縫うことをつづけなかった

二本の糸
二本の針が行き交って縫いあげてゆく
からだをつつむもの
ものをいれるふくろ
自分のと娘のと
二着のウェディングドレスを縫った
ふくれ織の白
裾を引く長さの一着を縫いあげた四畳半で
父は細身の母をかかえて声をあげた
ぼくの花嫁さん、と(*)
針は折れ糸は尽き
父はいなくなっても
縫いつづけた母
けれど
夕方になると黒っぽいものは見えにくくてねと
わらって手を止めた
六十歳少し前のことだったか。
たぶん

そして傘寿の春
この春
浴槽の上で乾かされていた
いちまいの布
水を通した生地、スカートを縫うのだと
久しぶりに型紙を取ったときくうれしさ
洋裁師だもの
自分の身は好みのかたち好みの色好みの風合いでつつむ
まま、ママ、そうだね、そうだよ
それがわが母

おっくうでね
型紙起こすのもね
でも、起こしたんでしょと問う娘には
計り知れない何か
暮れる春
立ち上がる夏
思ったよりかたくってねという生地はまだ
母の身体をつつまないまま

 

 

*昭和三十五年の五月のある日、二月から一緒に住むようになった日吉のアパートの四畳半で、わたしは自分のウェディングドレスを縫っていました。質素なものでした。いなかでの結婚式を目前に、それが仕上がったとき、あなたは早く着せたがりました。
気取って、ミシンの椅子の上に立ったわたしに、あなたは照れもせず無邪気に歓声をあげました。
「ワァー、ぼくの花嫁さん!」
いいながら、わたしを軽々と持ちあげて椅子からおろしました。*

空空空空空空空0*薦田英子『いのち ひたむきに』(一九八五年刊)終章「此岸より」