貨幣について、桑原正彦へ 20

 

貨幣も
焦げるんだろう

貨幣も燃やせば燃えるんだろう

新丸子の
夜道を帰ってきた

夜道では
老いた姉妹のいるウィンドウのまえで

佇ちどまる

それから
黄色い花のまえで佇ちどまる

過ぎ去るものと
佇ちどまるものと

それを包むものが世界にはある

 

 

 

長尾高弘著「頭の名前」を読みて歌える

 

佐々木 眞

 
 

 

かつて鎌倉の青砥橋という田舎に「青砥」という地元の主婦が運営している精進料理の店があって、贔屓にしていた。

それは安くて美味しい料理もさることながら、部屋の壁に私の大好きな画家、熊谷守一の書が掛かっていたからだった。

良寛に似ているようで、もっと純朴な「五風十雨」を飽かず眺めていると、お店の人が、守一95歳の書「一去一来」も見せてくださった。

最晩年の枯れた書体が、背景の軸物の薄茶色や床に活けられた秋海棠と映えて、まことに情趣深いものがあった。

熊谷守一の猫の絵などは、誰が見たって本当に素晴らしい味わいを持っていて、それこそわが国を代表する最高の芸術家といえようが、それを支えているのは彼の中の卓抜な観察者であった。

あるとき彼は、地面をうろちょろしている蟻を丸一日じっと見つめていたが、「長い間疑問に思っていたが、とうとう分かった。蟻は左の二番目の足から歩き始めるんだね」と語ったそうである。

この小さな詩集に収められている16の作品は、どれも比較的短く、私が知る作者の風貌のように、表現は質朴にして平明そのものである。そしてその多くは日常の茶飯事を主題にしている。

しかしそのいずれの中にも、私は熊谷守一流のアリへの視線を感じる。

身近な素材を腰を折って熟視し、そこからささやかな、しかし自分にとってはとても大切な知見をそっと引き出す、作者独自の方法とその見事な達成を、私はあきらかに認めたのである。

 

 

 

濃紺のセーターの闇はね、濃かったっちゃ。

 

鈴木志郎康

 
 

みなさんはそれぞれ、
異なった日々を過ごしているんだよね。
俺っちはこの冬、
セーターを着て過ごしているっちゃ。

今日はね。
濃紺のセーターを着たってわけっちゃ。
左の厚ぼったい袖に左手を通し、
右の厚ぼったい袖に右手を通し、
もこもこの毛編みの中に、
頭を潜らせたっちゃ。
グウーン、
潜り抜けた一瞬の闇は、
濃かったっちゃ。
赤いセーターとは違うのよ。
濃い闇だっちゃ。
顔を出したら、
いつもの俺っちの部屋だったが、
眺めがちょっとだけ
違っていたっちゃ。
違っていたっちゃ。
ズンズン、
グウーン、
グウーン。

この違いはなんじぁね。
ああ、普段はそれが見えないっちゃ。
そうして一瞬一日と年を重ねちゃった。
ズンズン、
グウーン、
グウーン。

 

 

 

高橋啓介著「なんとかして」を読んで歌える

 

佐々木 眞

 
 

 

大人になっても子供の心を失わない人がいるなどと世間ではよくいいますが、そんな人実際にはなかなかいませんよね。少なくとも私が知る限りでは。

しかしこの本の最初の2つの詩を読んだだけで、このタカハシさんという人は、もしかするとそういう稀有な魂の持主ではないかしら、と誰もが思うのではないかしら。

「疑似体験」は、次のような3行からはじまります。

 

きれいなきみをおもいながらベッドにはいる
つかれたからだにかわがながれ
きりのおもいにひかりがさす

 

1日の闇雲で五里霧中の労働にくたぶれた若きリーマンに、ようやっとやすらぎの夜が訪れた、というわけです。

ちょっと話が飛びますが、いま京都の伏見でお医者さんをやっている私の弟は、少年時代に、「兄ちゃん、わいらあ毎晩きょうはどんな夢を見れるんかと思て、楽しうてしょうがない」などと申しておりましたが、まあそんなところでしょうか。

で、次の3行がこうなります。

 

ぼくの×××は
△△△することで
それをあらわし
きみの○○○○はどうだ

 

どうですか。分かりやすいパズルですね。
というか、分かり過ぎるほど単刀直入な突っ込みが、作者の人世への明朗闊達な楽天性をおのずから表明しているようです。

以下、好きな女の人をしたなめずりしながら料理していくタカハシさんの「疑似体験」が続いて、あっという間に終わってしまうまるで童話のような短い詩ですが、じつに率直で、真っ正直で、健康的でしかも純乎としている。
私はお酒は飲めませんが、ウイスキーでいうとピュアモルトというところかしら。

ともかくこの詩集は、冒頭からこんな感じで始まるのですが、2番目の「木になるたのしみ」では、タカハシさんは、なんと本当に葉緑素になり、樹木になりきってしまうのです。

世の中にこれに近い人はいますが、絶対にこんな人はいない、と断言できます。
誰か、なんとかしてあげてください。

そうして驚いたことに、私はそんなタカハシさんの、ちょっとした知り合いなんです。
どうだ、参ったか。
ザマミロ。

 

 

 

ビリジアンを探して

 

芦田みゆき

 
 

2017.1.29
深夜、目をつむると、見知らぬ光景が次々を現われ、あたしは息苦しくて眠れない。その光景は、闇から湧き上がり、強烈な光となって眼前に広がる。そして消滅し、また、新たな光景が湧き上がる。
街のあちこちは、今日訪れた場所にとてもよく似ているが、よく見ると何もかもが異なっていて、細部は欠落している。記憶を切り刻み、失われた部分を想像で編み上げた新しい街。そこで、ビリジアンは全体に宿る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

赤いセーターを着て詩を書いちゃったよ。

 

鈴木志郎康

 

 

セーターを着るたびに、
一瞬の闇を潜り抜けるっちゃ。
顔を出すと、
そこは
相変わらずの、
俺っちの部屋。
赤いセーターの裾を下ろすと、
セーターの中の闇に包まれて、
からだが温もったね。
テーブルの上のiPadに向かって、
詩を書くね、
詩が書けるよ。
赤いセーターを着て詩を書くっちゃ。
嬉しいっちゃ。
ラ、ラ、ラ、
ラン、ラ、ラン。
家の狭い庭に
北風が吹き込んでくるっちゃ。
ここんところ、
そんな毎日だっちゃ。

 

 

 

貨幣について、桑原正彦へ 19

 

貨幣も
焦げるんだろう

貨幣も燃やせば燃えるんだろう

貨幣を燃やしたことがない
一度もない

新幹線から
流れていく景色を見てた

駅のホームで
過ぎていく貨物列車を見ていた

貨幣は
通過するだろう

貨幣は通過する幻影だろう

消えない
幻影だ

 

 

 

薦田愛著「流離縁起」を読みて歌える

 

佐々木 眞

 
 

 

この詩集を読んでいるうちに、私の脳裏にはひとつの奇妙な映像が湧き起こってきた。

それは、ひとつの巨大なコクーンである。

青空のただ中に、青白い繭が、まるで最新型の雲のように、ぽっかり浮かんでいる。

近寄ってよく眺めてみると、そのとても薄くて半透明な表皮の奥に、一人の女性のシルエットが透けて見える。

それは、素晴らしく美しい眺めだ。
なかにいるのは、知的で謎めいた女性のようだ。

その外貌は、平成の御世にまだ生き続けるという和泉式部や清少納言、あるいはまだ誰も会ったことのない小野小町という名の女性を思わせるのであるが、その正体は謎に包まれている。

いつのまにか空はたそがれ、黄金いろに光り輝くコクーンの中で、彼女は踊り始める。
出雲阿国のように不可思議な舞を、舞い始まる。

踊りながら彼女は、真っ赤なルージュを塗りたくったうすい唇の間から、真っ白な、細くて長い長い糸を吐く。

するとその糸は、私たちが知らない国の言葉、まだ誰も読んだことのない物語の言葉になって、繭の中に織り込まれてゆく。繭の内壁に、どんどん繰りこまれていく。

孤独な舞は、いつまでも続き、白い糸は、果てしなく吐き続けられ、折り重なった糸は、どんどん彼女を覆う。

やがて地上から最後の光線がふつりと消え、世界中が深い闇に閉ざされると、踊り歌う女も、巨大なコクーンも、街も、うたかたのように姿を消してしまった。

 

 

 

物言えば

 

長尾高弘

 
 

物言えば唇寒し秋の風って言うけどさ、
最近本当に息苦しくなってきたと思わない?
もう二年前になるけど、
さいたま市の九条俳句の問題があったよね。
公民館の俳句教室で会員が互選した作品が
毎月の公民館だよりに載ってたんだけど、
「梅雨空に『九条守れ』の女性デモ」
って句が選ばれたときには、
公民館が掲載を拒否したって話だよ。
さいたま市は、市内の全公民館に
「世論が大きく二つに分かれる問題で、
一方の意見だけを載せられない」
などと説明しなさいっていう
マニュアルを送ったんだってさ。
公民館だよりに掲載される作品は、
市民の作品であって、
市の作品じゃないのにさ、
これって変な話じゃない?
色々な意見を自由に言えるのが、
民主主義社会ってものじゃないの?
それに、掲載拒否された俳句は、
憲法を守れってものだよ。
憲法ってのは、
政府の暴走を防ぐために、
市民が政府に守ることを義務付けている法でさ、
その法を守れという俳句の掲載を拒否するなら、
市が市民そっちのけで暴走しますよ
って言ってるようなものじゃん。
おっかないったらありゃしない。
また、あの戦争の時代を繰り返すことになるよ。
何も言わずに国のために死ねって時代さ。
その点、
区民文化祭でこの詩をそのまま発表できる横浜市は、
さいたま市よりはいいのかもしれないね。
だけどさ、
育鵬社の社会科教科書を使うのは止めた方がいいよ。
歴史の現実を見ないで、
日本はいい国だ、
よその国より優秀だって自慢したところで、
ろくなことはないよ。
故事ことわざ辞典によると、
物言えば唇寒し秋の風って言葉は、
もともと松尾芭蕉の「座右の銘」にある句で、
人の悪口を言えば、
なんとなく後味の悪い思いをする、
ってことなんだってね。
この句の前には、
「人の短をいふ事なかれ己が長をとく事なかれ」
と書いてあるらしいよ。
よその国の人を馬鹿にして、
日本のあることないことを自慢するようなことは、
しない方がいいよってことでもあるよね。
昔の人はちゃんと正しいことを言ってるわけさ。
もちろん、おれだって、
こんなことを書いて発表して、
後味が悪くないわけはないんだよ。
ただ、言うべきことを言わないで、
口を塞がれるのは嫌なだけさ。

 

2017年1月26日~31日に都筑区民文化祭(横浜市)に出展