木村迪夫詩集『村への道』をじっくりと読んだ

 

鈴木志郎康

 
 

 

詩集『村への道』(2017年2月20日書肆山田刊)は山形で農業を営むわたしと同い年の老いた詩人の詩集だ。詩人木村迪夫さんは、山形県上山市の牧野部落に住んで農業をやるかたわら詩をかいている。いや、傍らではなくて農業も詩作も木村さんに取っては同様に生きて行く上で欠かせないものであろう。「あとがき」に「わたしに詩を書かせたのは、明治生まれの文盲の祖母であった」と書いている。祖母は二人の息子、その一人は木村さんの父親、が戦死したのを知って、「三日三晩蚕室にこもって号泣した」のちに「三日後に蚕室から出て来た祖母は、次のようなうたをうたい出した。

 

ふたりのこどもをくににあげ
のこりしかぞくはなきぐらし
よそのわかしゅうみるにつけ
うづのわかしゅういまごろは
さいのかわらでこいしつみ

にほんのひのまる
なだてあかい
かえらぬ
おらがむすこの
ちであかい」

 

と「蚕飼いの労働歌にかえて」歌ったということだ。息子を戦争で奪われた母親の心情と思いがストレートに伝わってくる歌だ。この祖母の歌を書き留めたのが孫の木村迪夫さんなのだ。少年の迪夫くんは祖母が「おれに字が書けたら、戦争で犠牲になったこの悲しみ、苦しみを書き残して死にたい」と口ぐせのように言うのを聞いていた。そして「おれには字が書ける。祖母の思いをおれが引き継がねば」と決意したと言うことだ。詩人木村迪夫さんの詩の原点がここにあると思う。
それから木村さんは詩を書き続けた。『村への道』の最後ページにある「同じ著者によってー」を見ると、その他に15冊の詩集を出して『村への道』は81歳になった詩人の16冊目の詩集で二十篇の詩が収められている。詩集の三分の二あたりに「わが死地」という詩がある。その詩には自分が生まれ育った村に対する気持ちが語られて、最後に

 

「わが死地は
この村以外に無いと
心に決めて
久しい

すると
何故か 急に
わが村が
美しく見えてくる」

 

と書かれている。一連目には、

 

「少年期から
青年期にかけて
——にくしみのふるさとーーであった」

 

と書かれ、二連目には、

 

「労働にあけくれる日々——
早くから
村脱出の夢を抱いて寝た」

 

と書かれて、そして三連目四連目には、

 

「村と人との温くみを覚えるようになったのは
四十歳か
五十歳か
ずい分と歳を取ってからのことだ

そのわが村落も
いまは人かげも無く
農業後継者も無く
見渡すかぎり田野や
畑野も
荒れ始めようとしている」

 

と書かれて、「わが死地は」の次の連に続くのだが、その間に空間を取って、いきなり

 

「——TPPが 追いうちをかけるーー」

 

という一行が書かれている。TPPのことはよくわからないが、農産物の輸入が増大して国内農業が縮小し、農業者の意欲が減退して離農者が増えると言われている。つまり、TPPによって農業が壊滅的になるということだ。木村さんはそんな壊滅すると予想されている自分が生まれ育った農村を死地と決めて愛情を深めていると言うのだ。
詩集『村への道』は そういう生まれ育った農村を愛しむ気持ちを持って書かれた詩集と思われるが、その前半の詩には自分のことと村の生活が書かれ、後半には牧野部落のことが語られている。最初の詩「夜の野へ」には自分自身を見つめ直すところが語られている。夏の暑苦しい夜、部屋から走り出て村道を経て畦道へ駆け抜けると、自分の思い出の影が草に足取られて転ぶ。そこで「いまは亡き詩兄K氏がうたってくれた」詩を思い出すのだ。この詩兄K氏は農村の貧しい現実に対して言葉で闘った黒田喜夫ということで、その詩は黒田さんが木村迪夫のために書いてくれた詩ということだ。

 

「土地のない男は流れ去る
けれども少しだけ土地のある男は
必ず死ぬ 獣を映す眼の脂の色よ」

 

「土地のある男は必ず死ぬ」の男は牧野で農業を続けて来た木村さん自身のことと受け止められるが、その後の「獣を映す眼の脂の色よ」はわたしにはどうもよくわからないけれど、猛々しく生きろということなのだろうか。木村さんは「不帰の村への想いをおこしてくれ」と黒田さんに呼びかけて、曼珠沙華の花を添え、草むらに寝転がってまどろんでしまい、明け方に目覚めるが、頭には東北の有名詩人の宮沢賢治や有名歌人の齋藤茂吉を嫌う黒田喜夫の詩の一節が残っている。その木村さんの眼の前には村全景が迫って、「あれた桑の老木の森」が眼に止まるのだ。木村さんは自分の先行きが見えない農村に生きる多少は名が知られているが、牧野の草むらに寝転がる無名の詩人として生きて行くことを自覚しているのであろう。

次の「吹く、春の風が」では、トラクターに乗り春風に向って畑を耕しながら、「おれは 現役の百姓なんだ/おれは まだまだ若いんだ/勇気は十分に残されている」と自分を励ましている。この詩は「集落(むら)は/春/農夫(ひと)も/春」と終わり、農業をやり続ける自負が感じられる詩だ。

三つ目の詩の「少年期——遥かなる歳月の彼方に」では子供の頃を回想している。稲刈り後の田圃で三角ベースの野球をして、球が沼田に落ちた時、「(還らない父さんの声だけが、なぜかボールのように/弾んで、ぼくの耳に返ってきた)」ということで、父親の戦死が少年の木村さんの心を占めていたと思われる。働き手の男のいない農家はそれだけ収入にも響いていたことだろう。詩の後半には、夜になると「星空ばかり眺めて」「炎となって燃える音のする星を見付け/ぼくは/その星を/〈未来星〉と名付けた」という。そして現在の木村さんはこの星に「この村の行く末を」問いかけるのだ。

四つ目の「夏の花」は、「こころやすい美人の同僚に促されて/会議のあと/役所の地下通路で買った/鉢植の」ハイビスカスの花に、沖縄に行った時にその赤い色に「身の内の還らない血の色を見た」という思い出や、梅雨のはげしい雨の後に同じような雨上がりに娘さんを嫁に出した時の思いを寄せて、今は夫婦二人だけの暮らしになったと慨嘆する作品だが、木村さんには後継者がいないことを暗に語っている。

五つ目の詩には「稔りをはしる声」というタイトルで、稲が稔って来た時のその稔りを稲を作って来た者が全身で受け止めたこみ上げてくる感慨が歌われている。

 

「なおもしとぶるしずくの
早い沈みの時刻(とき)の際で
おう
おう
おう と
さけびの声を挙げ
暮れゆく宙天に木霊し
稔りをはしり やがて地に還る
部落(むら)と
農夫(ひと)との
影の
たたずみ」

 

とこの詩は終わっている。

 

七つ目の「眠れ/田んぼよ」は、雪の積もった田んぼを前に、自分たちが黒く日焼けしながら細心の注意を払って稲を育てて来たこと、また田んぼを流れる水が村の歴史を物語ることを思って、今は田んぼも村人も春を控えて静かに深く眠れと語りかける詩だ。最後に「ふたたびの春の/醒(めざ)めのために (死ぬなよ)」と締めくくられているところに木村さんの郷土愛が感じられる。

八番目の詩は「遥かなる詩人たちへ」と題され詩で、スーツを着て電車に乗って講演に行き、黒田喜夫や祖母のこと、また木村さんの家の隣に住み着いて稲や牧野部落の歴史を独特の映画に作った小川紳介のことを話し、帰って来てはしゃいだ気持ちに水を掛けて畑に走り、自分は農民なのだと自覚したと語られている。

九番目の詩は「煌めく日々の終わりに」というタイトルで、五十数年前に夫婦になってから、日中には乗用草刈機で草を刈り、夕方には四十数年前に植えた巴旦杏の樹を伐り、夜になると深い闇が満たす部屋で仰向けに寝ると、老いてもなお「見果てぬ夢を追いつづける」という日常が語られている。

十番目は「雑草(くさ)のうた」だ。雑草は田んぼや畑には害となる植物だから農民は殺草剤を撒いて枯らしたり鎌で刈ったりする。木村さんは「吹く、春の風が」ではトラクターに乗って畑の草刈りすると、また「煌めく日々の終わりに」では乗用草刈機で草を刈ると書かれている。この詩では、その刈り捨てる雑草の名前を一つ一つ挙げて、雑草を自分の身に引き寄せて「雑草に/安息の季節はあるか/きらめく鎌の刃先に/眠りの村の/未来は映ってみえるか」と語っている。稲と心を共にし、また雑草とも心を共にする木村迪夫さんがここにいる。

十一番目は「枕頭詩篇 Mさんへの手紙」という詩。「Mさん」が誰方か分からないが、表現者の木村さんが敬愛して近況を素直に告げることのできる友人なのだろう。その友人に向かって、表現者としての木村迪夫が姿を現している。風邪をひいて寝ていて胃は完治していると言われているのにその胃が痛む。寝床の中で十五、六年前に山形県トータルライフ研究会が刊行した写真集『風と光と夢』に見入ってしまう。その頃は自分もまだ若く、そこに写っている女性たちのはつらつとした姿に村の未来が映し撮られているようで、生きる意欲が湧いて来るのを感じる。枕元には古典となった近藤康男編著『貧しさからの解放』と大牟羅良著『ものいわぬ農民』が置いてある。『貧しさからの解放』は戦後の農山漁村の貧困の現実と背景を指摘して貧しさからの解放を示したといわれる本であり、『ものいわぬ農民』は著者が古着の行商として戦後の岩手県を歩き農民の本音と農村の現実を生々しく綴ったといわれる本だ。木村迪夫さんは死ぬまで勉強しようという気概を持っているのだ。そういう木村迪夫は奥さんから

 

「お父さんは大した才能も能力も無いけれど
いい友だちをいっぱいもっていて
幸せだね
一番だね」

 

と励まされている、というが、外は「めずらしく大雪で」、部屋に寝ていると自分の老いを感じないではいられないというわけだ。この詩は「死期はまだ先なのだから」という言葉を繰り返して終わっている。

十二番目にあるのは「別れのブログーー追悼 立松和平さん」というタイトルの散文だ。これは立松和平が亡くなる前の年に木村迪夫さんについて書いた文章のようだ。木村迪夫さんが「ものいう農民」であること、「がっしりした体躯」と「鋭い目つき」の持ち主であること、「一生懸命働いてきた 出稼ぎにいって金を貯め 農地を買い足してきたのだった 米中心の経営にし減反になるとその部分を転作にしてなんでもつくってきた だが村の人口は減るばかりだ 村では農業後継者のいる人はほとんどいず 自分と妻とが頑張れるうちはなんとか農業はつづけるが それ以上はもう無理だ というのである」ということ、「『この頃 詩が書けなくてな 悲しくなってくるのは そのこともあるのさ』 木村さんは いきなりこういった 悲しみの深さが 私などでは想像するよりも深いのかもしれない 『詩は特別なものだろうけど 詩が書けなくてなったら 木村さんではなくなってしまうよ 詩は書かなくちゃ 』私はこう返しただが 二十年ぶりの再会はなんだか悲しかった 一〇〇万人のふるさと 二〇〇九年 夏」と書かれて立松さんの文章は終わっている。この散文によれば、木村迪夫さんは農業でも表現者としても、後継者がいないまた詩が書けないという危機的状況にあるのだなあと分かったような気になって来る。

この後、十三番目の「夏の彼方へ」と十四番目の詩集の題名なっている詩の「村への道」へと続いて行き、この詩集のクライマックスになるのだ。「夏の彼方へ」は梅雨時に「膝丈までのびた」雑草が雨に濡れてじっと立っているのを見て、

 

「こころが重すぎて
歩けそうにもなくなるが
やがてくる再びの真夏日の
その日まで
耐えて待つ覚悟をする

栽培(つくる)ことを止めて久しい
ぶどうの棚の下の雑草の
その靭さをわが身に置き換え
現実(あらわ)な降りの激しさの
梅雨(あめ)のなかに
性懲りもなく
わたしは
屹立(た)つ」

 

と危機的な状況にあってもそれを受け止めて、独立して屈することなくこの状況を生き抜いて行くというわけだ。単に「立つ」ではなく「屹立」という言葉を使って状況の厳しさに立ち向かう気持ちを表していると思える。
「村への道」は一読してした時に妙な気持ちになった。詩の二行目の「冬の河を遡(のぼ)ってきた農夫の姿がある」のこのいきなり出てくる「農夫」は一体何者なのかということだ。それまでの詩の農夫は木村さん自身か牧野部落の農夫だったが、わざわざ「冬の河を遡ってきた」この農夫は現実の農夫ではない。

 

「百年の孤独のような凍えから解放された
農夫は
この先の百年の村のかたちを眼のうちに
黄色にけぶる空と地のはるかな接点を
歩きはじめる」

 

という過去から未来に向かって歩き始める永遠の農夫なのだ。木村迪夫さんが厳しい状況に耐えた果てに考え出した農夫と言えよう。その農夫が「ゆっくりと/村へとつらなる道の坂を/越える」のだ。木村迪夫さんはこの農夫を出現させた。ここがこの詩集のクライマックスだと思う。わたしの理解の及ぶところではないが、次の詩の「わが死地」を読んだところからすると、この農夫は農村愛の化身とでも言えないだろうか。その農夫が牧野部落にやって来ると予言するようにこの詩は終るのだ。

そして十五番目の詩は「わが死地」だ。「わが死地は この村以外ないと 心に決めて ひさしい すると 何故か 急に わが村落が 美しく見えてくる」とこれまでの郷土への複雑な思いが吹っ切れたような心境になったということだ。

十六番目の「わが青春の記」はがらっと変わって散文とわずか四行の行分けの言葉がついた作品になっている。一九六五年前後の元気だった青年学級のことが書かれ、「一九六一年からわたしは、上山市東部青年学級の専任指導員を務めるようになっていたが、六五年の初頭に入っても青年たちの熱気はまだまだ衰えることはなかった」ということだ。詩人の「真壁仁先生にきてもらい」宮沢賢治のことを話してもらったりした。そして「学習会が終わったあとは、皆んなでスクラムを組み、ロシア民謡を声高らかに歌った。
ああ なつかしの
仲間たちよ
青年学級の 仲間たちよ
いまも元気でいるか」
で終わっている。最初にざっと読んだとき、あれれ、なんでこんなこと今更書いているかと訝しく思ったものだった。木村さんは若い頃、村からの脱出願望を持っていたのではなかったのか。それなのに若い仲間を組んで歌っている。そうか、そんなふうにして村に住み続けたのだ。それから続く三篇の散文を読み、中国で戦死した父親に呼びかける詩を読み、最後の「牧野部落」という散文を読み終えて、敢えて、散文を連ねて詩集を終えるということがなんとなく分かった気がしたのだった。

十七番目は「稲穂」というタイトルの五つの小節からなる散文だ。最初に「しかし米価がいかに低かろうと、豊作はやはり喜ばしいものである。稲穂を抱える両腕におのずから力が入り、笑みがもれる。鼓動が高なり、やがて心が静まる。稲作農家としての至福のときである。」と書かれ、木村さんに取っての稲の意味合いが語られている。二節目には、そういう稲作農家の集まりである牧野部落のシンボルマークが募集によって稲穂になったことが語られている。三節目は、牧野部落の夏祭りには農婦(おんな)たちが稲穂の図柄の法被を着て踊り稲穂の旗がはためき、「これこそ、縄文紀以来の伝統に生き、未来へと生き継いでいこうする村だとの、こころ根ではあるまいか。」と語られ、稲穂のシンボルマークから縄文へと思いが伸びて行く。四節目では、真壁仁の作品の「稲の道」の引用だ。「友だちが持ってきてくれた野生の稲の穂一本/芒(のぎ)がひどく長くて/そのはじっぽに/縄文紀の光がきらっと見える」「揚子江をくだった奴が/黒潮にのっておれたちの列島へ渡って来た」と縄文紀の稲の渡来がメコン川の稲の穂を手にした感動を持って語られている。五節目はその詩を受けて、秋の稲刈りが済んだあと、「稲の道」を暗唱しながら、「昆明の奥地から、この牧野の原に至り着くまでの、道のりの長さを、はるかな年月のわたり。」をしきりに思うということだ。農民であり詩人の木村迪夫さんはここで視線をぐーんと高い処に持ち上げて生活の場である牧野部落を遥かに見ることになったわけである。これこそ農村愛のなせるところではないか。

十八番目は「敗戦」というタイトルで、牧野部落の人たちが敗戦をどう受け止めたかを部落の会議録を引用して語った散文だ。「一九四五年の、牧野部落総会記録誌を、読む。『敗戦』を牧野部落では、どう受け止め、どう対処したかが気にかかった。」と書き始められ、十月十七日から翌年の三月までの連続した六回の会議録が引用されている。そこには外地派遣の家族の懇談会、疎開学童の帰郷、甘藷の提出、人口調整、農業調査などの件が記載され、十月三十日の「進駐軍ニ對スルカツ亦日本人ノ道義ノ高揚ニ關シ其ノ筋カラノ旨令ノ報告」とか、更に十一月十七日の「終戦ノ時局ニ對シ戰爭中ノ責任上辭職ノ件 協議ノ結果會長以下役員一同総辭職スル事ニ決定 常會ニ計ル事」とか、そして翌日の十八日の「會長以下役員一同総辭職ノ件常會ニ計リ 協議ノ結果今迄通リ務ムル事ニ決セリ」とかなど、また翌年の二月十七日の「新圓切替ニ關スル件」とかの議事録に、村人たちが生活の場で敗戦を受け止めていた様子が伺える。木村さんはこの会議録の中の「外地派遣ノ家族一名宛出席懇談会開催」という項目に注目して、こうしたことで、「『戦果大ナリ、ワガ皇軍奮闘セリ』の虚偽の報しか、聞かされてこなかった」村人たちは敗戦の実態を理解したのだろうと指摘している。そして最後に「結果として、陸軍軍人、一般国民合わせて三百万人の犠牲者を出したと厚生省が発表したのは、二年も経ってからのことである。」と付け加えて散文は終わっている。この懇談会で木村さんの祖母は木村さんの父親の戦死を確認したということであろうか。

いよいよ終わりに近付いて十九番目は、「祈り大地」という詩だ。「敗戦から七十年/父親の果てた中国への想いは/わたしの心から長い年月消え去ることはなかった」と書き始められている。「父親の死地」は「余家湾という静かな農村」ということだ。少年の頃に別れた父親の心優しい面影を七十年忘れることはなかった。そして遂に木村さんはその余家湾に行って、父親の霊に呼びかけるのだ。

 

「母親の眠る
まぎの村へ

祖母が悲しみと怨念のうたをうたって逝った
あなたには遠くなつかしい
まぎの村へ

おやじよ
七十年ぶり親子ともども

ニッポンへ帰ろう

まぎの村へ帰ろう

いまも緑濃い大地へ
そして田圃へ 出よう
畑へ行こう

ふたたび戰爭の無い
まぎの村の未来へ
一緒に
帰ろう」

 

木村迪夫さんの心の叫びだ。それは祖母、母、父とその子の自分という一家が揃って牧野という土地に葬られたい、そこで家族揃って永遠を過ごしたいという切なる願いであろう。土地と家族というところに木村迪夫さんの思いは至ったのだ。牧野という土地に深い愛情を感じるようになったからこそ、父親が亡くなった元の戦地にまで行って、父親の霊を呼び戻そうとしたと言えよう。
さて、最後のニ十番目の作品は「牧野部落」と題されたニ節からなる散文だ。牧野には「わたしが子供のころ、多くの雑木林が残っていた。原生林そのままで生い茂っていた。」と、つまり〈樹海〉でマギノの語源は「紛(まぎ)れ野」からと言われるということだ。そして、その雑木林がドングリなどの植生の限界地だと語られ、河岸段丘の一帯は水も豊富で、ドングリの実や鮭鱒も取れただろうし、多くの縄文人も集まってきていただろうと想像できるというのだ。そしてここで一転して切り返して、「このように地域的にも、歴史的に豊かな牧野部落を、若い時分わたしは、住み良い部落などとは一度も思ったことは無かった。」と書き進め、遅れて湿った狡猾で貪欲で小権力構造に組み込まれた人々の村社会と決めつけて、「『いつかこの村から脱出してやる』その思いだけを増殖させながら、少年期から、青年期を生きてきた。」と一節目を書き終えている。そしてニ節目に入るとこの脱出願望を支えていた村の否定すべきところが一挙に肯定されてしまうのだ。「原生林のように、静かで少しばかり寂しくてもいい。そこに住む人びとの心が美しくなどなくてもいい。狡猾で、貪欲で、ときには卑猥で、村うちの生き死の噂の絶えない、部落であっていい。これからも永い年月、生きつづけて欲しい。わたしたちが死んだあとも、小さな歴史を地深く刻みつづけて欲しい。」で終わっている。木村迪夫さんは変わったのだ。今まで否定すべきとしていたものごとを肯定して、こだわっていた自分を滅却してしまった。一節目から二節目に飛躍的に変わった心の変化の理由は語られていない。想像するに、その変化は村を脱出することなくそこで生活し続けてきて、村に愛着が生まれ、その土地をわが死地と決めたからであろう。最近は木村さんにお会いしてないが、容貌や身体つきもきっと変わったことでしょう。でも、その変わり目をきちんと一冊の詩集にしたというところで自分と向き合う詩人の木村迪夫さんは変わっていないと思えるのだ。

「あとがき」を読むと、木村迪夫さんの詩歴の一端が語られている。祖母の歌を書き留めたときから、男手の無い極貧の農民として「このまま一介の土百姓として虫けらのごとく地中に埋もれて生涯を終わりたくないと念じた。自己主張のできる、言葉を持つことができる人間として生きねばならないとも決意した。」という意識で詩を書き始めたという。そして七十年、現代詩に託して、反戦への思いと政治に翻弄されて来た「東北の農民の、怒りと悲しみを表現しようと努力してきた。」ということだ。今や、「そんなわたしを、人々は農民詩人と呼んでくれる。しかし、わたしは、真実、農民詩人としての枠を超えた、普遍的な詩人でなければならないと念じている。」と言うだ。
普遍的な詩人というのは、この詩集の最初の詩「夜の野へ」で木村さんのために黒田喜夫が「宮沢賢治が嫌いだ、斎藤茂吉が嫌いだ」と書いた有名な人物のことではないだろうか。詩を書けば、誰でもできるだけ多くの人に読んで貰いたいと思うが、詩を書くわたしには実はそれはどうでもいいことに思えるのだ。まあ、敢えて言ってしまえば、わたしには普遍的なんて糞喰らえざんすよね。そこで、まあ、普遍的な詩人を目指す木村さんに、この詩集をじっくりと読ませていただいたお礼に、余計なことですが、軽口を滑らせれば、木村さんの身の周り普遍的な詩の素材はいっぱいありますよって言いたいですね。牧野部落のドングリ、木村さんが作っているお米、耕している田圃や畑そのもの、その土そのもの、空気、風、そんなものごとを対象にするのでなく、主役にして、そのときどきの気分に乗せて心を込めて上手い言葉で書けば、普遍的な詩ってものは出来るんじゃないですか。でも、木村迪夫は牧野部落に根ざして生活する詩人であって欲しいですね。わたしは木村迪夫の姿が見えている「吹く、春の風が」とか「稔りをはしる声」とか「眠れ/田んぼよ」なんかが、それと木村さんが夜中に田んぼに走って行く「野の夜へ」も好きですね。

一冊詩集をこんな風にじっくり読むなんてことは何十年振りのことだった。木村迪夫さんとは面識がある。牧野部落の木村さんの家にも行ったことがある。木村さんの家の隣の小川プロを尋ねた時も木村さんとお会いした。でも、ここ暫くはお会いしてない。木村さんもわたしも1935年生まれで同い年なのだ。そして、わたしは学童疎開で牧野部落の上山市の隣の赤湯温泉に疎開させられて、栄養失調になったということもあって、へんな言い方だが、親しみを感じていた。送っていただいた詩集は読んで来た。今回も『村への道』を貰ってさっそく読んだが、「わが死地」には惹きつけられたが、詩集全体では散文で終わっていたりしていてよく理解できなかった。そこでまあじっくり読んでみようという気になったのだ。読んで、木村迪夫さんがなんか、いやしっかりと自分の心の変化を語っているのが分かって、木村さんはよかったなあとひとり頷いている。