レ・サングロロン デ・ヴィオロン

 

駿河昌樹

 
 

詩というと
ヴェルレーヌの『秋の歌』に
やっぱり
極まっちゃうのかな

思う

近代の

の場合は

簡単
シンプル
音の粋

だれもに沁みる
嘆き節
嘆き節以外に
詩なんぞ
ある
もんか!

あきらめ悟ったうえでの
明瞭な
つぶやき

ああ、いいね
あの音

 レ・サングロロン
 デ・ヴィオロン
 ドゥ・ロトン
 ブレス・モンクー
 デュヌ・ラングー
 モノトン

 トゥ・シュフォカン
 エ・ブレーム・カン
 ソンヌ・ルー
 ジュム・スヴィヤン
 デジュー・ザンスィヤン
 エ・ジュプルー

 エ・ジュマンヴェ
 オ・ヴァンモヴェ
 キ・マンポルト
 ドゥサ
 ドゥラ
 パレイユ・アラ
 フゥユ・モルト*

「なによりも音楽を!」
と言った人の
詩だから
まずは音でしょ
カタカナを通したのでもいいから
まずは音でしょ

意味は添え物

人生の意味や意義が
いつも
添え物でしかないように

だから
訳す必要はない

 秋の何挺かのヴァイオリンの
 長いすすり泣きが
 抑揚のあまりない愁いに満ちた音色で
 私の心を傷つける

 時の鐘が鳴る時
 息苦しくなり青ざめて
 私は昔の日々を思い出し
 涙を流す

 そして私は立ち去っていく
 悪い風に
 枯葉のようにそこここに
 運ばれながら

などと
なるべく芸もなく直訳ふうに意味を取ろうとしながら
訳す必要など

 
しかし
芸もなく直訳ふうにしてみると
うまかったなあ
上田敏は

思い出す

 秋の日の
 ヰ゛オロンの
 ためいきの
 身にしみて
 ひたぶるに
 うら悲し。

 鐘のおとに
 胸ふたぎ
 色かへて
 涙ぐむ
 過ぎし日の
 おもひでや。

 げにわれは
 うらぶれて
 ここかしこ
 さだめなく
 とび散らふ
 落葉かな。

やっぱり
これも
うまかったなあ
堀口大學の
訳も

思い出す

 秋風の
 ヴィオロンの
 節ながき啜泣(すすりなき)
 もの憂き哀しみに
 わが魂を
 痛ましむ。

 時の鐘
 鳴りも出づれば
 せつなくも胸せまり
 思ひぞ出づる
 来し方に
 涙は湧く。

 落葉ならね
 身をば遣る
 われも、
 かなたこなた
 吹きまくれ
 逆風(さかかぜ)よ。

金子光晴の訳も
あったなあ
これは
すっかり口語になっていて
なるほどなあ

思い出す

 秋のヴィオロンが
 いつまでも
  すすりあげてる
 身のおきどころのない
 さびしい僕には、
  ひしひしこたえるよ。

 鐘が鳴っている
 息も止まる程はっとして、
 顔蒼ざめて、
  僕は、おもいだす
 むかしの日のこと。
  すると止途もない涙だ。

 つらい風が
 僕をさらって、
  落葉を追っかけるように、
 あっちへ、
 こっちへ、
  翻弄するがままなのだ。

そもそも
音だけでいいのだし
これだけ
訳もいろいろあるのだし
訳す必要など
ない
こんなふうには

 秋
 すすり泣く
 ヴァイオリン
 緩急なく
 ながながと
 音のびて
 愁いのしみる
 わがこころ

 時の鐘
 鳴ったりすると
 泣けてくる
 思い出すのだ!
 むかしの日々を!
 息も詰まり
 青ざめたかな?
 すこしは
 顔も

 そして
 枯葉
 まるで
 枯葉
 荒っぽく
 そこやここ
 吹き散らされて
 去るほかに
 なきわたくしと
 なりにけり

 なりにけり

 
 

*Chanson de l’Automne  Paul Verlaine (1844 – 1896)

Les sanglots longs
Des violons
  De l’automne
Blessent mon cœur
D’une langueur
  Monotone.

Tout suffocant
Et blême, quand
  Sonne l’heure,
Je me souviens
Des jours anciens
  Et je pleure;

Et je m’en vais
Au vent mauvais
  Qui m’emporte
Deçà, delà
Pareil à la
  Feuille morte.

 

 

 

いちみり

 

道 ケージ

 
 

いちみり
あといちみり
風に消えるか
風を迎えるか

罪人になるか
罪人にするか

あといちみりは
耐えられない
耐えられる

起こってみないと
わからない
どこかで
音がする

バンジョーではない
祭りではない
何かが轢かれている
何度も何度も
細切れ
切り落とす

穴のような
寝床で
腐ったものを食べる
雑巾のようなものが放り込まれる

皿の破片がアヘンのように白い
指で拾う
どこに落とすか
マネスキンだよ