michio sato について

つり人です。 休みの日にはひとりで海にボートで浮かんでいます。 魚はたまに釣れますが、 糸を垂らしているのはもっとわけのわからないものを探しているのです。 ほぼ毎日、さとう三千魚の詩と毎月15日にゲストの作品を掲載します。

♪パパパ~横浜の県民ホールでモーツァルトの「魔笛」を視聴して

音楽の慰め 第14回

 

佐々木 眞

 

 

西暦2017年の3月19日、私は横浜の県民ホールで、モーツァルト最晩年のオペラ「魔笛」を鑑賞しました。

王子パミーノと夜の女王の娘パミーナ、鳥刺しのパパゲーノとその恋人パパゲーナが、魔法の笛と愛の力で数々の試練を乗り越えて結ばれる「夢幻秘教劇」で、その最大の聴きものは夜の女王の2つのアリア、それからパパゲーノとパパゲーナによって歌われる「パパパの二重唱」です。

前者の超絶技法も凄いけれど、後者のまるでこの世のものとも思えない純真無垢な歌声を耳にすると、薄命の天才が夢見た人類の楽園が、いまそこに花開いているような気がして、いい演奏に出会うと思わず涙があふれ出るのです。

その日も私はひそかに「パパパ」を楽しみに、横浜の山下公園のすぐ傍の会場までやって来ました。

私にとって生涯忘れがたい感動的なチェリビダッケと読響の一期一会のコンサートは、この県民ホールで行われたのですが、あれからおよそ半世紀の歳月が流れたのだと思うと感無量でした。

さて当日の演出・装置・照明・衣装は勅使河原三郎という人でしたが、全体的にはこのオペラの本質をわきまえない小賢しい仕事ぶりでがっかり。終演後にブーが出たのは当然といえましょう。

照明・衣装・装置はさすがに小奇麗でしたが、ドラマの狂言回しに伊東利穂子というバレリーナを起用し、主要な歌手を差し置いてほぼ出ずっぱりでオペラのあらすじを説明させたり、音楽に合わせてやたらくねくれと踊らせたりするのは、いったいどういう了見なのでしょう。鑑賞の妨げになること夥しいものがありました。

かつて亡きニコラス・アーノンクールとクラウス・グートのコンビが、2006年のバイロイトの「フィガロの結婚」で舞台にケルビーノの分身ケルビムを登場させた時にも感じたことですが、「魔笛」の主人公は、あくまでもモーツァルトの音楽なのです。過ぎたるはなお及ばざるがごとし。下手に余計な演出をしないほうが観客の心に届くのです。

装置は天井から吊るされた大中小の金属製のリングが、舞台転換に合わせてさまざまに組み合わされるというスタイルでしたが、以前どこかのワーグナーの「ニーベリングの指輪」で見たような気がする既視感の強いもので、まあ可もなく不可もないというところでしょうか。

さて肝心の音楽ですが、初めて耳にした神奈川フィルのフルートの名演には唸らされました。以前同じこの舞台で演奏したオトマール・スイトナー指揮のベルリン国立オペラの室内楽なアンサンブルには及ばないものの、神奈川フィルは、N響のような官僚的なオーケストラと違って、やる気と適応力、そして管弦楽の高い技術と合奏能力を兼ね備えていたのはうれしい驚きでした。

問題は指揮者です。このオケの首席の川瀬賢太郎という1984年生まれの若手指揮者は、バロック時代の音楽、しかもオペラを、ロマン派の乗りで振っているようで面喰いました。
有名な「魔笛」の序曲を重苦しく響かせるのは構わないが、テンポがいかにも遅すぎるし、遅くしたからといって、クレンペラーのような秘儀的な壮重さが醸し出されていたわけでもない。第1幕全体がそんなペースですから、歌手はきっと歌いにくかったに違いありません。

ところが休憩をはさんだ2幕に入ると、なぜだかテンポが速くなりました。
もとより「疾走する悲しみ」と称される作曲家の音楽ですから、早いところで早くてもいっこうに構わないけれど、フリーメイソンの神聖な儀式の音楽を、まるでドボルザークのスラブ舞曲のすたすた坊主のように通り過ぎてもらっては困るのです。
現代詩と違って、古典音楽にはそれにふさわしい形式と表現方法があるということを、この人は誰からも教わらなかったのでしょう。

いま世界中のオーケストラが資金難に陥り、ギャラの高い中堅以上のベテランを敬遠して若手指揮者を抜擢しているのですが、同じ若手でも、ちゃんとした音楽的素養と伸びしろのある前途有為な人材を登用してもらいたい、と思ったことでした。

歌手については夜の女王を歌った高橋維選手が素晴らしかった。たった2曲でオペラ全体の出来栄えを左右する重要な役どころですが、立派に重責を果たしていました。
パミーナの幸田浩子は、やはり高音部で声を張り上げると斑があり、終始部で音程がふらつく癖がありますが、弁者&神官の小森輝彦という歌手よりは遥かにましでした。
ザラストラの清水那由太、タミーノの金山京介、パパゲーノの宮本益光、モノスタトスの青柳素晴、三人の侍女と童子は、二期会合唱団の面々ともども健闘していたと思います。

最近は主に東欧から二流三流の歌劇団がやって来て、かなり高額な料金で円をかっさらって行くけれど、あんなのに比べたらこちらのほうが遥かにレベルは高いと私はなんでも鑑定団いたした次第です。

とまあかなり辛口の感想になってしまいましたが、この「魔笛」の演奏はオペラの複雑な性格もあってなかなか難しい。私もこれまで国内外の公演を実演、録画録音を含めて数多く見たり聞いたりしてきましたが、これこそ最高というものにはまだお目にかかっていません。

強いて挙げればヴォルフガング・サバリッシュ指揮N響が1991年10月29日に上野の文化会館で公演した「魔笛」でしょうか。主要な歌手はクルト・モルなどの外国人、演出は江守徹、衣装はコシノ・ジュンコ、照明は吉井澄男などの日独共同制作でしたが。

私はサバリッシュもN響もあまり好きでもないし、高く評価もしていないのですが、この一期一会の名演、とりわけパパゲーノとパパゲーナの「パパパの二重唱」にはいたくいたく感動したことでした。

 

*「パパパの二重唱」
https://www.youtube.com/watch?v=FZkLDInGzEQ

*夜の女王のアリア「復讐の炎は」
https://www.youtube.com/watch?v=dpVV9jShEzU

 

 

 

夜中のつぶやき詩を書いてやるっちゃ

 

鈴木志郎康

 

 

俺っち、
息をしてるっちゃっ、って。
夜中に目が覚めちまってね。
変な夢っちゃ。
俺っち、
ごろんと小肥りの
体躯だっちゃ。
ほっ、
生きてるっちゃ。

部屋の薄明かりに、
あと何年生きるのかねえ。
今日また右太ももを痛めちゃってさ。
二本杖でも歩けないっちゃ。
八十一年と十ヶ月生きたなあ、
同じ思いっちゃ。
テーブルの上には
一つ灯りが点いてるっちゃ。
まだまだ、
小肥りで、
詩を書くっちゃ、ってね、
思って、また眠ったね。

夜が明けてみれば、
夜中の、
部屋の薄明かり、
なんて当てにならない。
小肥りっちゃ。
ウッヒョッヒョ、ヒィー、アハハ。
また、これ。
いや、それ。
これ、これ、それ、それ。

 

 

 

貨幣について、桑原正彦へ 31

 

昨日
桑原正彦のアトリエに行った

描きかけの絵が壁にならんでいた

建売り新築住宅と
100円ショップが主題だといった

床に
青いシュラフがあった

そこに寝て
起きては描くのだろう

そこにも枯れた花たちはいた

貨幣に外はあるか
貨幣に外はあるのか

 

 

 

貨幣について、桑原正彦へ 30

 

世界は自己利益で回っている

安倍も
金髪の花札男も

自己利益を見ている
ヒトの自己利益を見ている

ライヒは

外に出ろ
外に出て彼らに見せてやれ

そう言った

貨幣に
外はあるか

貨幣に外はあるのか
いやだなあ

そこには
枯れた花が在るだけですよ

 

 

 

貨幣について、桑原正彦へ 29

 

一昨日
山形新幹線で帰った

新庄で降りて
車で西馬音内まで帰ってきた

ライヒは

外に出ろ
外に出て彼らに見せてやれ

そう言った

母は
去年の昨日

涙を一つ流して逝った
ライヒは外に出ろと言った

貨幣に
外はあるのか

世界は自己利益で回っている