michio sato について

つり人です。 休みの日にはひとりで海にボートで浮かんでいます。 魚はたまに釣れますが、 糸を垂らしているのはもっとわけのわからないものを探しているのです。 ほぼ毎日、さとう三千魚の詩と毎月15日にゲストの作品を掲載します。

sketch for summer

 

さとう三千魚

 
 

晴れた

今朝は
青空に西の山が浮かんでいるよ

きみは
いま

どこにいるの

夏が終わって
オリンピックの後で

durutti column の “sketch for summer” を聴いているよ

夏には
秋田の西瓜を食べたな

夏は終わって
巨峰を食べたよ

シャインマスカットも食べたよ
梨も食べた

水彩スケッチのきほんという本が届いた

秋には

浜辺の景色をスケッチして葉書を送るよ

秋には
きみに

 

 

 

#poetry #no poetry,no life

障子の張り替えが連れてきた闇と温もり

 

ヒヨコブタ

 
 

強くなりたいと
思うときがある
こころの芯のぶぶんで

猫が破り散らした障子をはりかえていたら
母にされた嫌なことが次々と思い出されてしまった
なにくそとのりを剥がすのだが
一度よみがえった悲しさが
蓋を開けたのか次々と

のりをごりごりむしりとる
なにくそと黙々作業をする

母にはその記憶はないらしい
腹が立ってくる
なにくそとその度に手を動かす

わたしを産んだそのときに
彼女にはつらいことがあったらしい
だからってとごりごりむしりとる
剥がした障子紙を破る

夕暮れも同じときがある
とても美しいその時刻
外に出されて不安だったこと
なぜ怒りをかったのかわからず
さみしさと不安との戦いだったこと

見かねた近所のおばあちゃんに
部屋に招かれるとき
あとでさらに怒られることに怯えながら
緑茶をゆっくり飲んだ
静かにそのひとの暮らしを覗く

そのおばあちゃんが好きだったチョコレートを
時々もとめる
一口ずつ頬張る彼女は
もうこの世にはいないのだけれど

たまにしか帰ってこないその人の息子家族を母は
親不孝だといった
冷たいと
けれどもそのひとたちは
とても優しいひとたちだった
静かでガミガミなにかをいうような人でもなく

個人タクシーの車をみがくおじいちゃんは
もっと穏やかで
ずっと傍で眺めているとニコニコして話しかけてくれる

こどもじだいには
そんな大人たちに観察されては
わたしも彼らを思っていた

大人のいう評価とことなる思いを持っていた

夕暮れの美しさとこころぼそさには
温もりもある
さみしいところにつれていかないで
わたしはこころのなかでいまも時々唱える
美しさのなかのさみしさ

 

 

 

島影 35

 

白石ちえこ

 
 


新潟県新潟市

その浜辺には、時間が止まったような静けさと真昼の明るさがあった。
すべてのものが長く影を引きながら、静かにじっと、砂の底に沈んでいくのを待っていた。
ところどころの木の柱はどこかの部族のまじないのようにも見えた。
砂には、わたしが歩いた足跡だけが浅く残っていたが、やがてそれも消えていった。

 

 

 

Breakfast at Tiffany’s

 

工藤冬里

 
 

9月21日―9月26日

悪意の朝食の席でしんじつの時計と日月星座表をバラした破片の歯車をプレートに積み上げてみせただけの
https://twitter.com/TiffanyAndCo/status/1426023962857803780?s=20

今井は僕の捨てた半分を活性化させようとした。彼のパフォーマンスはすべて繰り返さずに切られるべきで、それによって虚無があるいは押さえ込まれただろう

脅しと自虐が入り混じった
https://twitter.com/TiffanyAndCo/status/1426024405772029952?s=20

9月22日
不可能




https://twitter.com/TiffanyAndCo/status/1426022919465967618?s=20

振り返ってヘーゲルをばかにすることができるのは、当のヘーゲルによって植え付けられた、歴史は進歩するという感覚によってなのである それは例の虐待のループに似ている

台湾のコマツナギはインディゴになるがこれはならない
でも揉むと指先がみどりに染まる

the ザッソウと呼びたくなる食べられないひょろっとした北米原産ヒメムカシヨモギは鉄道に沿って世界中に広がり原爆の広島ではしょうがなく団子にして食べた

9月23日
嘔吐バックスで老いる交換

街の灯りも月も同じだ
加工画像と言い切った

星雲・星団bot

フランツ君ご明察
レジェンド自演はある意味ジ・エンド
https://twitter.com/franzkafkabot/status/1440779012653993984?s=20

ヤブラン、松葉、クマザサ、レモングラス、ミント、

正しい​人​も​正しく​ない​人​も、病気​で​も,貧しく​て​も,年​を​取っ​て​い​て​も、

伊予病院は景観条例的にはショッキングピンクのジャンボタニシくらいアウトである

https://youtu.be/n57OebPOvmY

ジョイフルがヒカルに縋ったのは東鳩が中田呼んだ頃とは明らかにちがう世界線だ
昔勤めていた府中の会社では蹴るとか胸ぐら掴むとか当たり前で、世の中の奴なんてそんなものだと思っていた ドライブ・マイ・カーで「パワハラになるわよ」というセリフがあり、TV的な温度に潜り込むだけではなく押し上げて台風消滅、みたいな前線を感じたが、それと似ている
鉄板でオーバーイージーとトーストを焼くダイナーがあれば通うし旧松葉や角打ち並の捌きの出来るギャルソンのオープンカフェなら座る
などと言いながらファミレスとユーチューバーのコラボメニューをひっくり返している←イマココ

枯れた番いの秋の野芥子に絡みつく雀瓜

内側に棘を探して
橋を探して
増水の
足が水に触れると
初めて遥か上流で止まった
遥か上流で
足を水に入れる勇気があるか
孤独な蜜蜂が貧弱なイネ科の花とは呼べない花の周りで仕事している
寒くはないが風を避けて体の横に流す
波風立てずに生きてきた
背骨の問題だ
成り行きに任せてはいけない
遠ざけないようにして
ひたすら触りたい海月
座り直して
風を避(よ)けて
zoomに映る私達
苦手な趣味に付き合って
歌を散文に
頭が男の女
ヨルダンの急流

今井の最期の楽譜群にover the rainbowの書きかけが歌詞付きでちらと見えてあ、と思った
今は虹を渡って裏側に行けるらしいから

あとgoodmanでは伊牟田のkazooで虹の鰹節というのをやっていたことがあって

虹は

上の水が減って下の水が凍ったのであれば

虹は
架け橋

渡れぬ川を渡る

渡った地点の30キロ上流に粘土質のテル・エ・ダーミエは在る

そこで青銅の鋳造が行われたのはそのためである

粘土

ヨルダンの上流と下流に人類は二分される

9月24日
https://twitter.com/_YukioHakagawa/status/1441056264570621963?s=20

似た欲望が噴出する個所は面皰に似ている。断食が有効なのはそのためだ。
https://twitter.com/looking_awry_/status/1441162527644139535?s=20

だから食べ過ぎはやめとけってフランツ君。シュタイナーに会った時行成り玉子を食べてはいけませんと言われたぢやろ
https://twitter.com/franzkafkabot/status/1441156502530629637?s=20

恒大集団地価暴落リスト軽井沢に軽い騒めき

蔓ごと

Ocúpense de sus propios asuntos

水引 絶滅危惧種

9月24日
ダルそうな山鳩君
https://twitter.com/_YukioHakagawa/status/1441318508067835907?s=20

9月25日
意訳意訳でここまで来たか筑後国から目眩く

僕のコロナ対策ですが、ardbegのスキットルを携帯していて痛くなってきたら喉で飲みます
https://youtube.com/shorts/aT2naWVF3BY?feature=share

多和さんの石の作品「風景ーレベル」、水平面が乱れてきています

三好さんのSIX TEEN FLAG、右下隅に一つだけ消えたはためきがあります

池の端から光体を見る
永遠にこのままだったらどうなんだろう
ふらつきながら階段を下りる
永遠にこのままだったらどうなんですか
真っ二つに割れている
永遠にこのままだったらどうなんだろう
永遠にこのままだったらどうなんだろう
永遠にこのままだったらどうなんだろう
どうにもならない
このままだったら

 

 

 

#poetry #rock musician

月と沼

 

道 ケージ

 
 

沼に差し掛かると
そこへ入るのだった
抜き身は
紫の波紋濡れ
悔いを落とす

月影は伸び
這うように後退りしたのだった
茅で傷だらけになり
黄色い目でマンセー

岸辺ではなく
丸みから肌を知る
時と月(突起と突き)
殺後
笑う

 

 

 

あきれて物も言えない 27

 

ピコ・大東洋ミランドラ

 
 


作画 ピコ・大東洋ミランドラ画伯

 
 

滝が落下していた

 

ここのところ絶句している。

ほとんど、
絶句している。

朝には窓を開けて西の山を見ている。

昨日の朝も、
窓を開けて西の山を見ていた。

絶句している。
6月の終わりに桑原正彦の死の知らせを聞いてから何も手につかない。

桑原とはこの疫病が終わったら神田の鶴亀でまた飲もうと思っていた。飲もうと約束もしていた。
もうあのはにかんで笑う桑原と会って話すことができない。

絶句している。

昨日の朝も、
窓を開けて西の山を見ていた。

それから松下育男さんの詩「遠賀川」と「六郷川」という詩を読んだ。
それらの詩は「コーヒーに砂糖は入れない」という今年18年ぶりに出版された松下育男さんの新しい詩集に入っていた。

それらの詩をわたしは既に読んでいてどこかわたしの川底のようなところに沈んでいたのだろう。
松下さんの詩は川底のような場所から語られた声だったろう。

そして、
窓の遠くに見えていた青緑の西の山に滝が流れ落ちるのが見えた。

幻影だった。
松下さんの詩を読んだことによる幻影だったのだと思う。

 
 

空0多摩川は下流になると六郷川と名を変えた

空0私が育ったのは六郷川のほとり

空0川は私たちの生活のすみずみを流れていた

空0日本人のふりをしていたが
空0私たちは実のところ川の人だった *

 
 

そう、松下育男さんは「六郷川」という詩で書いている。

わたしも川のほとり、雄物川という川の近くで生まれて育った。

子どものころ、
ただ、川を見に行くことがあった。
釣りをする人たちを後ろから見ていた。
夏休みには川で遊んでいた。
川に潜って川底を泳ぐ魚たちを横から見ていた。
川の人は魚の言葉がわかる人たちだろう。
声を出して話さないが魚たちにも言葉があるだろう。

西の山に真っ直ぐに落下する白い滝を見てわかったような気になった。

水は上から下に落ちるのだ。
それで川になる。
川は流れて海になる。
それからいつか海は空にひらかれる。

当たり前のことだ。そんなことが腑に落ちた気がした。

 

今日は日曜日だった。
雨の音がした。
朝から雨が降っていた。
西の山は灰色に霞んで頂は白い雲に隠れていた。

午後に雨はあがった。
姉から秋田こまちの新米が届いた。

高橋アキの弾く「Cheep Imitation」を聴いていた。
「Cheep Imitation」はサティの「ソクラテス」を題材としてジョン・ケージによって作曲されたという。
それはケージがサティに捧げた音たちだったろう。

 

そこに言葉はなかった。
そこに小さな光が見えた。

呆れてものも言えないが言わないわけにはいかないと思えてきた。

 
 

作画解説 さとう三千魚

 
 

* 松下育男 新詩集「コーヒーに砂糖は入れない」(思潮社)から引用させていただきました