michio sato について

つり人です。 休みの日にはひとりで海にボートで浮かんでいます。 魚はたまに釣れますが、 糸を垂らしているのはもっとわけのわからないものを探しているのです。 ほぼ毎日、さとう三千魚の詩と毎月15日にゲストの作品を掲載します。

ヒソク ヒショク(秘色 翡色)

 

道 ケージ

 
 

空0大阪で開催された李秉昌博士記念公開講座「高麗『翡色』の秘密を探る」に出掛けた。
空0京畿陶磁博物館館長崔健氏がまず壇上に登る。演題は「狻貎出香と高麗翡色」。以下はその記録である。
空0『袖中錦』の作者太平老人は、「高麗秘色青磁を第一」と記し、その色を賞嘆している。水の滴るようなその青緑、オリーブのごときその異色、見た者はその肌に触れようとし、或る者はその所持に身を窶す。ところで、高麗に派遣された宋の使臣である徐兢は『宣和奉使 高麗図経』において、高麗人は青磁の第一級品の色を「翡色」と表すと記している。それゆえ、最上の高麗青磁を中国では「秘色」、高麗では「翡色」と形容したと考えられる。では、「翡」とは玉たる翡翠を指しているのか、それとも雄翡翠の意義なのか。驚くことに、高麗の文献に「翡色」が用いられた例はない。中国人の徐兢が「高麗人は翡色と呼ぶ」とはっきり書き留めているにもかかわらず、当の高麗人の著作には「翡色」という表現がないのである。崔健氏はいささか顔を紅くし、水差しの水を飲む。
空0『高麗図経』の時代、およびそれ以前には確かにあった翡色青磁がそれ以降に途絶したということなのか。かの高名な李奎報は一貫して青磁を緑色と形容している。それは青磁が翡色ではなく緑色であったからなのか。「翡色」の青磁とはそもそもどのような色なのか。先生、唾を呑みこむ。

空0「翡色」の「翡」がカワセミから来たのかヒスイに由来するのかは諸説ある。あの青はカワセミか、ヒスイか、はたまたラピスラズリか。遥か昔、カワセミは幼鳥時、翡翠の玉を飲み続け、遂に発色した。自らの種の醜さに親鳥は苦悩煩悶したあげく、雛に玉を与え続けたのである。いかなる進化の偶然かカワセミの羽根は青の構造色を獲得した。それゆえあの青は色素によるものではない。玉虫、アワビの貝殻と同じく、表面構造の反射で発色している。カワセミが今でも噴出型の激烈な排糞をするのは幼少期に飲み込んだ玉を排出することの名残である。
逆に、ヒスイがカワセミを羨み、カワセミの構造色を奪取したという説を唱える者もいる。石にすぎぬヒスイがカワセミに恋をしたわけである。しかも、それは見るも惨たらしいやり方でカワセミを取り込んだ。その残虐ぶりがヒスイを硬玉と軟玉に分かった。極上の勾玉に耳をあてると今でもカワセミの鳴き声が聞こえるらしい。私が糸魚川でヒスイを盗掘をしていた時、その声を連れの女が聞き滝壺に飛び込んだ。 「青八坂丹の玉」の話をしてくれた女だった。「糸魚川と宗像は結びついとるとよ。八尺瓊勾玉も青やしね」。それが最後だった。

翡翠の鳴き声が聞こえる
押しとどめてくれる青だった

空0カワセミに瞬膜がついていることも元はヒスイと関係が深い。瞬膜とは、目蓋とは別に水平方向に動いて眼球を保護する透明の膜である。白熊が雪眼、アシカが陸上の埃、キツツキが木っ端から身を守るために目を瞬時に膜で覆うことがよく知られている。人の半月襞は瞬膜の痕跡器官であるが、半月の時、涙もろくなるのはこの器官のゆえである。カワセミが餌を捕食するために水に突入するとき、この瞬膜が水中眼鏡の役割をする。元々は水中のヒスイ玉を咥えるための眼力が膜を作りだしたわけだが、ヒスイはことほど左様に自然石と見分けにくく拡大鏡の役割もあったという研究者もいる。

 
 

もともとは以下のページを参照にしている。だが、作品はこの内容とはほとんど関わりないものとなっている。お礼とお詫びを記しておきたい。
wikipedia等にはいつもながら、お世話になっている。だから、これは、wiki詩の試みと言っていいのかもしれない。
http://chinaalacarte.web.fc2.com/kanshou-135-hishoku.html#jump

 

 

 

トポ氏散策詩篇 Ⅷ 〜 Ⅹ

 

南 椌椌

 
 


© k.minami + m.shoei

 

トポ氏がゆるい寝返りのなかで
ふふふと目覚めたのは
午後の3時を回るころだった
ゆめうつつ この言葉好きだね
ことばが 矢も盾もたまらない
意味もなく 相互を干渉するでもなく

たとえば こんな風に
惑星おののく夜の音楽の そしら
手のひらにかざす悔恨の いろは
たとえばこんな風に
文化湯の番台 新聞紙に穴あけて
同級生のリューイチ ミヨコを見てる
そんな境遇にあこがれて みふぁそ
手のひらを陽にかざす ちりぬる

トポ氏は雑木の庭に出て
革トランクの底から   ✶
草臥れた古い詩帖を取り出して
まどいなく火を焚いた
思い出すだけで ほほが火照る
いくつかの ゆめと うつつが
在ることがさびしいと 燃える

空0あの水脈(みお)をわたる少年たち
空0踝のくるりが 羽ばたくための骨だという
空0腓骨 脛骨 舟状骨
空0そとくるぶし うちくるぶし
空0脛骨を静かに遡行すると
空0鼠径部 妖しい子の子(ネノコ)の通り道

やがて打ち震える古代半島
peninsula とpenis は同義ではない?
父が生まれた 父がひざを抱えた
光に包まれた村があらわれる
絵に描いたような ハナタレの歓声が
逆反りに腰のまがった ハルモニに
調子っぱずれの 肩おどり(オッケチュム)を
ひょこ譚 ひょこ譚 踊らせる

きしむ古代半島から放たれる
いびつに美しい球形 桃や李や梨や柿

荒井真一が編集発行人だった
傍若無人不埒可憐な雑誌『仁王立ち倶楽部』   ✶✶
そもそも1986年〜89年の『仁王立ち倶楽部』には
トポ氏散策詩篇と題する 脳天気な
いくつかの断章が載っている
そういえば そうだった
35年なんて 「あっ」

空白空白空マメゾウを出ると
空白空白空カナシミが私を襲って来た
空白空白空ナグル、ケル、ハグ、カム
空白空白空徒らな悪戯はもうよせと私がいうと
空白空白空カナシミ氏はこういうのだ
空白空白空笑わせてはいけない
空白空白空カナシミはいつもおまえの友だちさ

空白空白空七月になると
空白空白空ムクゲを抱えて一斉に
空白空白空死んでしまう祖母たちの
空白空白空死生観はとても恐いものだ
空白空白空淡いムラサキの花弁を地に帰し
空白空白空静かな晩年を迎えたいと思うばかりだ
空白空白空白(仁王立ち倶楽部1986年12月号より)

さとう 三千魚さんも 寄稿者だった
三千魚さんは「わたしの育児」というエッセイに
尾形亀之助のこと書いてた
「昼の部屋」の明るさ
その視線の低さについて
隣りあわせの 生と死
亀之助の詩と松本竣介の画による
選詩集 『美しい街』 を買ったのは昨年のこと

空0太陽には魚のようにまぶたがない
空白空白空白空白空白空白0(尾形亀之助 昼)

あらしんは不思議な男だよね   ✶✶✶
太陽でも 魚でもないだろうに
まぶたがあったのかどうか 覚えていない
三千魚さんの親友なのが不思議なんです

空0狂ったように踊り続ける
空0仮装の父のほかは
空0もうだれもいないのだった
空0楽隊の淋しい野原のために
空0半島の南北戦争で死んだ
空0父の弟の言葉を摘んでは撒いた

手紙を燃やしたことのあるキミなら
知っているだろう 灰になろうとする一瞬
陽炎のように刻印される文字
炙りだされるのは
泣きたくなるような 声と声と声

空0冬の夜にひかる記憶の汀
空0半島の南の尖りにぶらさがった村
空0泥土がそのまま涙の丘になった
空0死んでゆくための手習いのように
空0痩せた牛がもんもん泣いていた
空0弧を描いて沈む村にひびく
空0どこにもいない 遠くから
空0ハナタレたちの 翳りのない歌声
空0葉脈の小径を辿る 孵ったばかりの
空0玉虫が かなしいじゃないか

トポ氏は残りの詩帖はまとめて
よしよし頷き 火にくべた
ほんの数分で さっぱりと燃えた
ありがとう半世紀
そこでトポ氏は夕闇のなか
窓の外にむけて 歌った

どこそこ かしこにいますか いませんね
ぼくのけいるい ぼくのともだち いませんね
ねえご主人 飲みに行きませんか
この近くにあった マダムシルクっていう店   ✶✶✶✶
まだあったよね
あそこで カウンターにひとり
テキーラを飲むのが好きだった

 
 

✶ 宮澤賢治に「革トランク」という愛すべき作品がある。
✶✶ 美学校の今泉省彦さんが 『仁王立ち倶楽部』 を教えてくれた。
✶✶✶ あらしんは荒井真一の通名、まぶたはたぶん まだある。
✶✶✶✶ マダムシルクは1969年開店の現存する西池袋の店、50年間通い続けている。『仁王立ち倶楽部』に広告が載っている。

 

 

 

人とそのお椀 11

 

山岡さ希子

 
 

 

お椀を前方 床に置き その中を 右手人差し指で 突っ張るように 指差す 他の指は硬く丸めている 左腕 脇をしめ 肘を曲げ 親指が長く 斜め上外 天を指す 他の指はやはり硬く丸めている 
中腰 両膝を付き 踵は上むき バランス悪く 足は太く 体は前傾 頭はやや傾げ

 
 
 

復讐

 

松田朋春

 
 

大切なものを奪われた
夏の終わりころ
立つこともできず
水を飲むことすらできなかった
たばこだけは吸えた
床にころがって瑠璃の煙を見ていた

そんな人がいたとして
復讐をしなければならない
奪う人は男で
あらゆるものを持っているだろう
人が生み出す本当につまらない魅力の
品々はもちろんのこと
大きなさざ波がヤスリのように空をけずる湖や
わたぼこりにさえ宿る祖先の思いやりや
まばたきすらしない女の微笑みや
ヒスイ色の鸚鵡さえも持っていて
それは300年生きるのだろう
だれひとり思いつけもしないような出来事も
結局はその男のものだろう

それでも復讐をしなければならない
それがわたしだとして
わたしはその男の
大切なものを奪わねばならない
だが奪われることすら
その男のものなのか
空は奪われたことのないものの目には
決して見えない青色をしているのに

わたしは鸚鵡の前でそう話していた
鸚鵡はわたしと同じ顔になり
時に男の顔に戻りながら
言葉を繰り返した

わたしはそれほど長くは話さず
ただとても人に言えないような
恥ずかしい言葉の限りを
鸚鵡に教え
その目の色を確かめて
引き上げた

ほどなく鸚鵡は男の窓から放たれた
鸚鵡はわたしの教えた言葉に
夢中だったのだ
男の目を見て話し続けたことだろう
恥ずかしく
恥ずかしい言葉の限りを
とても人前に出せないような
うれしそうな素振りで

湖のほとりの森で
鸚鵡は今日も
恥ずかしく
恥ずかしい言葉の限りを
くりかえす
男が手放さざるを得なかった
世界の最初のほころびとして
その死後100年経っても
鸚鵡は復讐に夢中なのだ

 

 

 

乱視の世界

 

村岡由梨

 
 

眼鏡を外してクリスマスのイルミネーションを見た君は、
何層にもダブる光を見て、「きれい」と言って笑っていた。
視力の良い私と、乱視の君。
同じ世界に生きているのに、
まるで違う景色を見ているんだね。
私は私で、君は君。
もっと知りたい、わかりたいんだ。
君が生きる乱視の世界の美しさを。

もうすぐ新しい年が始まるというのに、
世界が終わる夢を見た。
ヒトは全員殺されて、
ネコは丸ごと皮を剥がされた。
剥がれた皮に顔を近付けたら
あたたかいお日さまの匂いがした。

巨大な津波のように大きくうねる世界から、
「人殺し」と罵られ
追われた私は、
薄暗い台所の、流しの下の、戸棚の中に隠れていた。
「世界」と「私」は安作りの薄いトビラ1枚で分断されて、
自分の心臓の音だけが聞こえていた。
放っておいても、遅かれ早かれ
私は死んで焼かれて灰になってしまうのに。
涙をいっぱい溜めて、憎しみと怒りに満ち満ちた君の両眼。
いつになったら許されるのだろうか。
いつになったら逃れられるのだろうか。

歯を磨いていて、少し開いた前歯の暗闇から
「サンタクロースなんか、いない」なんて言葉、聞きたくない。
希望を捨てて絶望に生きるなんて、つまらない。
どうせ生きるのなら、
借りものの言葉なんかじゃなく、
自分自身の歌声で精一杯抵抗して。

私は私で、君じゃない。
君は君で、私じゃない。
けれど、私たちはひとつの世界で生きている。
時には眼鏡を外して、私に貸して。
もっと知りたい、わかりたいんだ。
君が生きる乱視の世界の美しさを。

 

 

 

 

小関千恵

 

前説

嫌いな人が居ないことを
人に信じてもらえない
それでわたしは不審者だ

諸々のことが
地球のようにまぁるくなっているだけの
真っ白な朝

わたしたちは目覚めるたびに
その闇に驚き 踞って泣いた

偽物と幻想
鏡に映った陽だまりの墓場

まぁるさの中で
まぁるい空は浮かんでいた
だけど空にまで領域が有るだなんて おかしかった
棲み分けられた日々に
支配のナイフのような 誰かの月は
光っていた

エイリアンは濡れていた
生きている摩擦で
運動場の線も見えないままひるがえり
そのナイフを 身体に刺していた

あぁ
強く
絶対的な
わたしたちのそら

一度は背負った羽を降ろす
飛ぶとは 地球上を飛ぶことのようで
眠っているときの居場所は
このまぁるさの外のように思う


地球の外で泣いている

空白

沈黙の宇宙に 鳴り響いているだろうか
意味に降伏しない
音楽のように

いつか
地球へ降り注ぐことがあるならば
凡ゆる
凡ゆる エイリアンの
朝焼けの時刻へ

 

 

 

 

きみの夫は下層であった *

 

若かったころ

四谷の

三栄町の
公園の

鳩の

地面のパン屑をついばむのを
みてた

夏の初めの
空の

水いろの

松の葉がさわさわと揺れ
てた

さわさわと
さわさわと

揺れて

いたな
みていたな

若かったころ
きみの夫は下層であった *

鳩たちは

公園の
パン屑を拾って

生きてた

若かったころ
きみの唇は赤く睫毛は長く黒く

きみの夫は
四谷の

教会の鐘の音を聴いてた

若かったころ
若かったころ

知らなかった

ラルゴも
エレジーも

知らなかった

きみの夫は
松の葉がさわさわと揺れてた

きみの夫は下層であった *
きみの夫は下層であった *

いまは
1886年のエレジー **を聴いています

 
 

* 工藤冬里の詩「酢waters」からの引用
** エリック・サティ「1886年の3つの歌」の「エレジー」のこと

 

 

 

人生の門出

 

駿河昌樹

 
 

最近はお風呂に蜜柑の皮を入れてみたりするんだけど
きのうは蜜柑の皮がまだ足りなかったので
どこから入手したものだったか
お風呂のわきに置いてあった入浴剤の
「空想バスルーム 柚子が実るボクの村」っていうのを入れてみたら
柚子の香りがちょうどいい感じで
色もあかるい黄色に染まって
けっこう楽しかった
だいたい「 柚子が実るボクの村」っていう商品名が楽しい
包装に描かれてある絵も子どもっぽくて楽しい
一包しかないのでどっかで貰ったものだろうけれど
なんか買い足したいような入浴剤だ
なんについてであれこだわりというもののないぼくだが
こんなものにちっちゃなこだわりを持ってみるのも
人生の門出をするのには悪くないかもしれない

そう、人生の門出
まだ一度もちゃんと生きたことがない気がしているし
生きるってどういうことかぜんぜんわからないし
どうやって生きはじめたらいいのかもわからないので
そろそろ生きるということを
してみたいと思ったりしている