新丸子の
駅の
帰りの
夜道には
白い花が
咲いてる
ヒメジョオンの白い
花をみた
もう
ユリオプス・シルバーシングルの
黄色い花たちは
いない
白い花のまえに佇つ
白い花のまえに佇つ
島影のよう
俤のよう
ヒメジョオンの白い花のまえに佇つ
新丸子の
駅の
帰りの
夜道には
白い花が
咲いてる
ヒメジョオンの白い
花をみた
もう
ユリオプス・シルバーシングルの
黄色い花たちは
いない
白い花のまえに佇つ
白い花のまえに佇つ
島影のよう
俤のよう
ヒメジョオンの白い花のまえに佇つ
これは詩人吉増剛造が物語る、いわゆるひとつの波乱万丈の人生と、その創造の秘密であるが、近頃これくらい面白い読みものもあまりないだろう。
それは本書の折り返しで、当年とって77歳の文化功労者が、かのアインシュタインの真似をしてアッカンベーをしてみせる写真を見れば、一目瞭然だろう。
あなたが、「素手で焔をつかみとれ!」という気恥ずかしい副題をつけられたこの本を読み始めても、あなたの期待は裏切られないだろう。だろう、だろう。
そこには、この人物が、それぞれのエポックを代表するような、錚々たる人物と次々に遭遇しながら、切磋琢磨し、おのれの人生と芸術を築き上げて、今日の大をなしてゆく事の次第が、初めは処女の如く、終わりは龍虎の如き勢いで、鼻息も荒々しく、縷々陳述されているのである。であるん。
彼の藝術的受容のキーポイントになっているのは、どうやら「声」らしい。
声、Voice、ヴォイス、ヨーゼフ・ヴォイス、Voice Of Yoshimasu
例えば太宰治や柿本人麻呂や芭蕉、アレン・ギンズバーグの詩歌や散文には、エルヴィス・プレスリーやボブ・ディランに通じる生々しい声があって、これが心の奥底にまっすぐに届く、というのは、私のような門外漢でもたやすく追体験できる。
声、Voice、ヴォイス、ヨーゼフ・ヴォイス、Voice Of Yoshimasu
そのドーンとやって来る声=「内臓言語」は、彼が大きな影響を受けたと語っている聖句やエミリー・ディキンソンの詩、キェルケゴールの言葉、そして一休宗純の書にもどこか通じている、父母未生以前の原初的で普遍的な炎、のようなものなのだろう。
そして彼はこの炎を自分のものにするために、心身を常に「非常時」に置き、原初的で普遍的な歌や声や踊りを宣揚するだけでなく、愛妻マリリア選手由来の“即席シャーマン”となって、それらに限りなく憑依するばかりか、夫子自身がそれらの発火源(詩魂の火の玉!)になろうと悪戦苦闘しているようだ。
したがって彼にとっての詩的活動とは、幾たびも、また幾たびも詩魂の火の玉となって、この宇宙の創造主に体当たりせんとする特攻機のZigZag&螺旋運動、詩的テロルそのものであり、人はその軌跡を「作品」と称しているに過ぎない。
この間の事情をば、不肖わたくしめの詩で翻訳するなら、
『見よ東海の空あけて 旭日高く輝けばァ、
今日も我らがGozo選手は単機Zero戦を駆って、紺碧の空の果て、言語も枯れる真空地
帯の極北を目指し、離陸していくゥ。
かつてニーチェが「人間とは乗り越えられるべき何かである」(佐々木中訳)と定義したように。
かつて「ゔぁれりー」が、「風立ちぬいざ生きめやもォ」と歌いながら「えらんゔぃたーる」の彼方へと飛翔したように。
そしてまた、かつてセーレン・オービエ・キェルケゴールが喝破した「反復とは繰り返しではなく、瞬間毎に生き直すことである」を実践するがごとくに』
ということになろうか。だろうか。そうだろうか。
それでは、肝心の吉増剛造の詩の値打はどうなのかと問われたら、私は「あれらは出口なお刀自ではなく、出口王仁三郎が代筆した「大本神諭」のようなもので、その価値を論じてもあまり意味はない」と答えるだろう。だろう。
それよりも「詩人は、すべからく詩作の内部で生きるほかはない。爾余は“半死にの余生”ということになるが、それもさして悪いものではない」というのが、私の吉増剛造観である。であーる。
余談ながら本書を読んでいちばん感嘆したのは、著者が多摩美で「詩論」講座を受け持ったときに、ホテルに泊まり込んで200名のレポートを全部読んで、一人ひとりに全部違う出題をしたというエピソードであった。
こういう離れ業は、学生と教育への愛と興味と誠実さがなければ、やりたくてもなかなか出来ないものである。
声、Voice、ヴォイス、ヨーゼフ・ヴォイス、Voice Of Yoshimasu
ひとしきり
騒いで
鳥が眠りにつけば
月がやってくる
今日の月は
きっと
あおいから
枝を ひろげて
月をまつ
2016年
Yoriko Hattoriさん作曲 “月に逢えない夜は” に寄せる
https://m.youtube.com/watch?v=6Q6df7SH47w
羽は いらない
欲しいのは
焦がれつづける
わたし
2016年
#詩 #羽 #空 #人羽南鳳 #曲 #YorikoHattori
https://m.youtube.com/watch?v=S9Jbyr4_4vQ
昼には
野菜サラダを
食べた
馬のように食べた
馬のよう
馬のよう
シャリシャリ
野菜を
噛んだ
午後に
横になって
Dennis Johnsonの
Novemberを聴いてた
木漏れ日の
したに
草むらがあり
母と姉が座って笑ってた
今朝も
鳥の鳴くまえに
目覚めた
それで
ベットの上で
ごろごろ
してた
わたしはヒロシマの痛みをしらない
わたしはヒロシマの痛みをしらない
アメリカ大統領が
誰かが書いた原稿を読んだ
ことばは
物語のようだ
吊るされた痛みがある
吊るされている
ゴマに含まれる
栄養成分セサミンが
いかにすごいのかを
くり返す
深夜のテレビ通販番組を
生気のない目で見ていた
ご老人が すてきな笑顔で
階段をすたすたと のぼっていく映像と
きらびやかなゴマのズームが エンドレス
「古代エジプト商人は
その健康パワーを信じ
ゴマ一粒と牛一頭を
交換したともいわれる・・・」
空
空
空
・
・・
・・・やばいだろ。
天国の古代エジプト商人をおもった
彼の目に 今、現代の
ゴマを取り巻く状況は
いったいどのように映るのか
週末 駅前のバーミヤンで
家族連れが デザートに注文する
「ゴマ団子」
ぺちゃくちゃ むしゃむしゃ
皿 および テーブル および 床に
ぼろぼろ ぼろぼろ ぼろぼろ こぼれる
幾粒もの空空空ゴマ
水に流され
布巾で拭かれ
箒で掃かれる
幾粒もの空空空ゴマ
つまりは
空空空空空空空空空空空空空空空空空空0牛、
目を覆いたくなるのではないか
天国でばかにされては
いないだろうか
だって たった一粒のために
牛を売っぱらった 彼は
腹を空かせて 死んだのかもしれない
「セサミンを摂取した人間は必ず死ぬ
間違いない
いつかは必ず死ぬ」
手元に 図書館で借りた
最果タヒさんの
『死んでしまう系のぼくらに』
という詩集がある
この世の生きとし生けるものすべては
「ぼくら」という3文字のなかで
肩を寄せあって暮らすのであるが
もし、
天国にも窓があるのであれば
その窓は
マジックミラーのようなもので
あって
ほしい
と願う
是枝監督の最新作「海よりもまだ深く」を映画館で見た。
夜、一人で見た。
前作に続きカンヌ国際映画祭に出展された作品だ。
単調で退屈な毎日がこんなにも美しいものかと感動した。
上映中終始スクリーンに映し出される世界に釘付けになった。
主演の俳優さん、女優さんをはじめ出演人みんなの無理のない自然な演技がいい。
なりたい自分になるために、守りたい誰かと会うために、放っておけない人と時を過ごすために。
そんな人との関わりのなかでぽつぽつと生きていく。
納得しがたい状況に置かれても、必ずやってくる明日をぽつぽつと生きていく。
自分の思い通りにはもう成り得ないと分かってもぽつぽつと生きていく。
未来は必ずしも明るくはない。
だけれども、イルミネーションのような明るさはなくとも豆電球くらいの明るさなら結構たくさんあるんじゃないかなとも思う。
映画館で映画を見るのは年に数回くらいだ。
ただ是枝監督の作品は劇場で見たいと思っている。
ふんわりと温かく、どこか厳しく、どこか切ない。
そんな人間模様が好きです。
陰であんなにもある人の悪口を言っていたのに、表では嘘のように仲良しでいる。
それがどこでも当然でどこにでもある光景だと、社会人になってわたしよりもずっと長く生きている大人が教えてくれた。
わかってはいるけれどわたしはきっとそれに慣れるということはどうしてもできなくて悲しくなる。
そんな自分が情けなくなる。
人間なんて信用できないと思ってしまう。
でもその人はこうも教えてくれた。
それでいいんじゃないかな。
すべての人を信頼する必要なんてないからね。
そうじゃない人の方が多くても全然いいんだよ。
すっと救われた瞬間だった。
完全には払拭できずにもんもんと生きていかなければならないんだろうけどそういう人の存在はありがたいなと思う。
今日は天気予報がはずれて雨が降っていない。
最近オンラインで購入したローラースケートを河川敷でやろうと思う。
また
鳥の
鳴くまえに
目覚めた
砂糖を
ひとつ
すくって
コーヒーに
いれた
小鳥たちはしばらく
鳴いて
もう
鳴かない
スプーンで砂糖をすくった
スプーンで白い砂糖をすくった
昨日は
神田で甥と会った
母の遺骨を渡してくれた