死と、ひまわり

 

村岡由梨

 
 

このところ、毎晩上原へ行って、
御年85歳の志郎康さんのオムツを交換する。
まずベッド脇にあるポータブルトイレに座ってもらって、
デンタルリンス入りの水で、口をゆすいでもらい、
アローゼンという便通の薬を1g服用してもらう。
それが終わったら、熱めの蒸しタオルで、顔→背中→手の順に清拭する。
背中を拭くと、志郎康さんはいつも「ああ、気持ちがいい」と言う。
そして陰部と臀部に薬を塗り、
日中用のリハビリパンツではなく、
就寝用のテープ式オムツをあてて、ベッドに寝かせて、帰る。

昨日の夜は嵐だった。
嵐の日でも、もちろん上原へは行かなければならない。
びしょ濡れになりながら、急いで自転車を走らせていたら、
道のど真ん中にネズミの死骸があった。
突如目の前に現れた「死」に、私は戦慄した。
ネズミの頭は潰れていて、頭の周りに血がまあるく広がっていた。
雨に濡れたアスファルトに、
空虚な穴がぽっかり開いているみたいだった。

志郎康さんに、どうして長生きしたいのか、聞いてみたことがあった。
志郎康さんは、
「世界がどう変わっていくか、まだ見ていたいから。」
と、少しも迷わず真っ直ぐに答えた。

別の日の夕方、上原から、自転車で東北沢へ。
志郎康さんの薬を受け取りに、駅前の薬局へ行く。
再開発が進む、東北沢の駅前の変化には驚くばかりだった。
いつの間にか、ロータリーのようなものも出来上がっていた。

薬局で、薬が出来上がるのを待っていた私はふと、
東北沢の駅前のマンションに住んでいた、
富子さんのことを思い出した。
富子さんは、変わっていく東北沢の風景を最後まで見届けることなく、
2018年、94歳で亡くなってしまった。
志郎康さんの言うところの、
「世界が変わる」ってこう言うことなのかと、
何だか腑に落ちたような気がした。

そこにあったものが無くなること。
そこにいた人が、いなくなること。
そこに無かったものが、現れること。
そこにいなかった人が、生まれること。
そんな風に世界は呼吸して、日々生まれ変わっているんだなあ。
でも、

 

今日も夜9時に上原へ自転車を走らせる。
ネズミの死骸は跡形もなく無くなっていた。
誰かが拾ってゴミとして捨てたのか。
カラスか何かがくわえて持って行ってしまったのか。
まるで何事も無かったように
ネズミなんて元からいなかったかのように、
刻々と変化し続ける世界の残酷さを思うと
何だかとても気が滅入った。

それでも、
「若さゆえの希望」
それだけで、死は鳴りをひそめてしまう。
眠は、16歳の誕生日にひまわりの種をもらったので
早速大きな鉢に植えて、熱心に世話をし始めた。
「どうしてひまわりの種が欲しかったの?」
そう尋ねたら、眠は
「空に向かって真っ直ぐに伸びていくのを見たいから。」
と、少しも迷わず真っ直ぐに答えた。

85歳の志郎康さんと、16歳の眠。
決して希望を捨てず、
何事もまずは受け入れる
やわらかな思考の志郎康さん。
太陽の光を存分に浴びて、
変わりゆく世界を真っ直ぐに見つめる、
ひまわりと眠。

どうか私を置いていかないで、世界。
ふたりの「真っ直ぐ」を私にも下さい。
そして「死」を壊したその先にある
その先の先にある「世界」の変化を
私も生きている限り見届けていても、いいですか。

 

 

 

ボディステッチ

 

村岡由梨

 
 

手のひらに刺繍しようと思って、
100円ショップで縫い針と赤い糸を買った。
手のひらの皮膚の、血が出ない痛みもない
ギリギリの深さまで針を刺して、すくいとる。
きれいな模様にしたいけど、
なかなか思い通りにいかない。
すごく惨めだけど、
きれいな赤だな、と思った。

手のひらを握って、私の「作品」を隠す。
みんな目に見える傷にしか気付かないんだね。
そういえば、縫い針って消毒したっけ。
ボディステッチって不潔かな。

だんだん赤い糸が引きつって、こんがらがって、
イライライライラする。
私の中のイライラとムズムズが
赤く盛り上がって白く膿む。
おでこ、鼻、あごの下。
頰にできたニキビは、
特に最悪で、
私を絶望させる。打ちのめす。
針の先っぽを、なかなか治らないニキビに刺したら、
白い膿がプツッと出た。

何度も何度も擦り切れるほど顔を洗っているのに
なかなかニキビが治らない。
これは私の数々の悪行に対しての、神様からの罰なのかな。
みんな私じゃなくて、私のニキビを見てるんだね。
醜いね。汚いね。
いちいち言われなくても、わかってる。
誰にも見られたくない。私を見ないで。
私が自分の醜さにどれだけ苦しんでいるか
お前らなんかにわかってたまるか、と心底思う。
能天気な笑顔の奴ら、みんな消えていなくなればいい。
中学の卒業アルバムなんて、とうの昔に捨ててしまった。
一人だけ背景の違う、歪に顔を歪めた顔写真なんて。
どこまで残酷なの。どこまで私を苦しめるの。

 

赤い糸が絡まる 絡まる ほどけない 助けて
糸をひく入れ歯。悪臭のする陰部。汗ばんだ手。
日常の些細な事柄が、
あまり気持ちの良くない思い出を引きずり出す。
私たちのせいで捕まった、哀れな男性のロッカーを開けたら、
裸のリカちゃん人形の写真がいっぱい出てきたんだって。
逃げられないように、
みんな両脚を切断されてたんだって。

思い出さないようにじゃなく、
思い出しても大丈夫になるために、
精神科に通う。薬を飲む。
先生、私に赤い薬をください。
両脚を失くした私は
汚い思い出から、なかなか逃げきれない。
数少ないきれいな思い出は、
誰にも知られないようにノートに書き留めて
枕の下に隠した。
誰にも知られたくない痛みは
カッターで太ももに赤く刻んで、
スカートの下に隠した。

夜、街を彷徨っていたら、
赤ん坊の叫び声みたいな
皮膚を切り裂くような音がキーンと聞こえて

夢を見た。
お風呂場で手首を切って
真っ赤な血がどんどん広がって
止まらなかった。
真っ赤な浴槽に浸かって、一人で泣いていた。
誰も私のことなんか気にかけない。
誰も助けに来てくれない。
そんな夢だった。

水洗トイレに座って、
赤い経血が一筋、滴り落ちるのを見た。
一本の赤い糸が便器の水たまりの中で
ゆっくりほどけて広がっていくみたいで
とてもきれいだった。

糸を縫い付けた手のひらが痙攣して、少し疼く。
明日になったら、針を刺したところから
少しずつ膿み始めるだろうな、と思う。

ひどく膿む前に
縫い付けた糸を抜いてしまう前に、
刺繍した手のひらを
本当は誰かに見て欲しかったな、
なんてね。
笑えないよ。
バカみたい。
最悪。最悪。最悪。

 

 

 

お葬式ごっこ

 

村岡由梨

 
 

ねえ、ママさん。
今日わたし、ネズミの死骸を見つけたんだ。
だから、ビニール手袋を買って、
それをはめて、死骸を持って、
神社の木の根元に穴を掘って埋めたんだ。
パパさんは
「バイキンがついてるかもしれないから、気を付けなさい」
って少し嫌がってたけど。

それからお花屋さんへ行って、
「死んだネズミにお供えする小さな花束を下さい」
って言ったら、店員さんは少しびっくりしたような顔をしたけど、
かすみ草と1本の赤いガーベラで、小さな花束を作ってくれた。
その花束を、ネズミを埋めた木の根元に供えました。
死んだネズミの口元が、
猫のサクラの口元に少し似ていたよ。

大好きなサクラを愛おしそうに撫でながら、眠は言う。
「うちにいる3匹の猫を搔っ捌く夢を見たの。
猫は肉食動物なのに、草食動物みたいに消化器がいっぱいあった。
ふふふ、可笑しいでしょ?」と屈託なく笑っている。

何かを失ったことってある?
何かを悲しいと思ったことある?
もし今サクラが死んでしまったら、どう思う?
私が矢継ぎ早にそう聞くと、眠は朗らかに笑いながら言った。
「サクラが死んだことなんてないんだから、わからないよ!」

ねえ、ママさん、
もし今ママさんが死んだら、私に悲しんで欲しい?
いたずらっぽく笑って、眠が言う。
私は少し考えて、無理に悲しまなくていいよ、と答えた。
私の嘘つき。

でもね、時々眠のことがわからなくなるよ。
眠の心の中にある、暗くて黒い冷たい渦に飲み込まれるような気がして
心の芯からゾッとするの。
そしてどうしようもなく惹かれるの。
ねえ、本当の親子ごっこをしようよ。
あなたは、私の想像なんてはるかに超えている。
本当に賢い人だね。

私が、そう言うと
眠は「ほめないで」と気色ばんで反論する。
ほめられたくない。
ほめられると、心が冷たくなる。
わたしを全力で否定して欲しい。
わたしが大嘘つきだって、認めてほしい。

わたしは、わたしの本質を本当に理解して、
わたしを否定してくれる人が欲しいの。

ママさんは、全然わかってない。
ママさんは、全然わかっていない。
わかったような気でいないで。
わかったような詩も書かないで。

 

 

 

花の起源

 

村岡由梨

 
 

2007年に生まれた次女に『花』と名付けたのは、
「平和」を想起させる名前にしたかったから。
『花』の漢字を分解すると、
「艹」「イ」「ヒ」となる。
「艹」は植物を、「イ」は生きている人を、「ヒ」は死んだ人を表す。
生きている人と死んだ人の上に、草花が生い茂っている。
その光景が何だかすごく自然で平和に思えて、
娘を『花』と名付けたのだった。

今、世界は平和ですか。
世界中の人々は今、まるで
空っぽの鳥かごを見て呆然としているみたいだ。
その鳥かごにはきっと、
愛とか、慈しみとか
大切で温かな生き物が入っていたはずなのに、
それがどんなものだったのか、世界は思い出せずにいる。
盗まれたのか、殺されたのか、
それを失ったことがただ悲しくて
ドクン ゴボッと ナプキンに落ちてくる
経血みたいに揺れて、
徐々にスピードを上げて汚れていくみたい。

「ママ、ここにあるナイフで手を切ったら、どうなるの?」
「すごく痛いと思うよ。血も出るだろうし。」
「ふーん」
「どうしてそんなこと聞くの?」
「いや、別に。」

いや、別に。って
何て悲しい言葉だろう。
もっと私を信じてほしい。
心を閉ざさないでほしい。
自分勝手な私がそう言う度に
君は私から遠ざかっていく。

この世界の綺麗事の一切を脱ぎ捨てて、
使い物にならない自分をビリビリに破り捨てて、
手首をナイフで切り刻むように
君の内側に、真っ赤な言葉を刻みたい。

私が死んだら、そこらへんにある原っぱに
適当に転がしておいていいよ。
ぞんざいに扱っていい。
時々思い出してくれるだけでいい。
そして偶に生きている美しい君がやってきて、
ウジのわいた私の傍に寝っ転がってくれたなら、
それが私たちの「平和」なのかもね。なのかな。
ほったらかしにして、最後に残るものが
きっと大切にしなくてはならないもの。
骨片とか。
思い出とか。

ただそれだけの、少し拗ねて書いてみたお話。

素直になれない、ただそれだけの話。
きれいな思い出の上に、
いつかきれいな花が咲くことを願って。

 

 

 

『花の歌』を弾く花へ

 

村岡由梨

 
 

気が付けば、いつも下を向いて歩いている。
顔を上げれば、雲一つない青空が広がっているのに。
際限なく続くアスファルトの道。
そこに、めり込むように歩いている。
この世界で、苦しまずに生きる方法は無いんだろうか。

花が、ピアノでランゲの『花の歌』を弾いているのが聴こえる。
胸が詰まる。
私は死ぬまでに、あといくつの作品を残せるだろうか。

冬の夜に、窓を開け放つ花。
「夜って、いい匂いがするね。」
彼女はもう、世界の美しさを知っている。
一方で、世界を怖がる花もいる。
「世界はゼリーで、自分はその中の異物みたい。」

ある時ふと、自分が尊敬する人や好きな人たちは
皆、夭折していることに気が付いた。
34歳。45歳。45歳。46歳。
今、私が死んだとして
彼らのように美しい死体になり得るのだろうか。
世界の本当の怖さをまだ知らない、
15歳と13歳の娘たちを遺したまま。

20時過ぎ、世田谷代田の陸橋にぼんやり佇んで
スマホで『花の歌』を聴く私がいた。
行き交う車の音が何度も遮るのに抗って
大粒の涙を流しながら、とぼとぼと歩き出す。
自分が帰るべき場所へ向かって。

 

 

 

新しい年の終わりに

 

村岡由梨

 
 

あなたは今、幸せですか。不幸せですか。
って聞かれたら、何て答える?
私にはわからなくて、
何もわからなくて、不安で仕方がないから
曖昧な言葉ではぐらかさないで
まっすぐ私の目を見て答えてほしい。

ある晴れた寒い日に
工事現場から少し離れた道端で、
交通誘導員のおじいさんが
所在無さげに何度も腕を組みかえながら、
寒さから身を守るようにして縮こまっていた。
一方私の手元のスマホでは、
SNSのタイムラインに
美味しいもの、楽しいことがあふれていた。
キラキラ キラキラ
自分はこの人より、幸せか不幸せか。
比べてしまう。疲れてしまう。
世界中の争いや諍いが収束して、
飢えた子供たちや、迫害されて苦しむ人たちが
少しでも減って欲しい。
そう強く願いはするけれど、
一方で、キラキラした自分のタイムラインなんか、
真っ黒に塗りつぶしてやりたい、とも思ってしまう。
幸せで満たされた他人が、さらに幸せになることを望めない、
醜悪な自分がいる。
私には夫がいて、娘たちもいて、3匹の猫もいる。
仕事があって、住むところもある。
食べることにも困らない。
それなのに、なぜ
これ以上、何を望んでいるのか。

心療内科のクリニックがあるビルのエントランスに
小さなクリスマスツリーが飾ってあるのを見て、
軽い頭痛のような、絶望のようなものを感じてしまう。
思わず叫びたくなる。
夜20時過ぎ、仕事からの帰り道で、
民家が電球でデコレーションしてあるのを見て、
深い哀しみに沈んでしまう。
近くのコンビニの店員がサンタの帽子をかぶって働いているのを見ると、
何か良くないものを見てしまったような後ろめたさで、
足早に店を去ってしまう。
あんなにクリスマスが大好きだったのに、
子供の頃に感じたような、
体の中から溢れ出る高鳴りで目が潤む幸福感。もう手が届かない。
あの頃に戻りたいけれど、
私はもう、年をとりすぎた。

 

野々歩さんが右手の小指を骨折したので、
一緒にお風呂に入って、頭と体を洗ってあげる。
ある時、野々歩さんが鼻血を出して、
次から次へ、血が流れた。止まらない。
「ゆりっぺの白い背中に、俺の血がたれたら、すごくいいコントラストになるね」
私の背中に、野々歩さんの鮮血がポタポタと滴り落ちている。
決して私自身の肉眼で見られない光景が、
愛する人の鮮血で自分の体が染まる悦びの光景が、
そこにはあった。

私の財布には「お守り」がしまってあって、
どうしても苦しい時、取り出して眺める。
幼かった眠が、私にくれたメッセージだ。

「まま おたんじょうび おめでとう
ふるつけえき が すきなんだね
まま わ きれいなんだね
おりょり が うまいんだね
たたむのも うまいいんだね
かわいい おじょうさま なんだね
ねむより」

ねむ と はな は まま の たからもの
まま は しあわせだね
せかいで いちばん しあわせ だね
でも なんで なみだが とまらないんだろう
しあわせだから かな

 

あなたは今、幸せですか。不幸せですか。
って聞かれたら、何て答える?
花にそう聞いたら、
「幸せだよ」
と、はっきり答えた。
そう言ってくれる人が、そばにいてくれて、本当に良かったと思う。
花は、「夜の空は紫色」だという。
花の見た空は、花にしか描けない。
紫色だけでなく、黒や群青色の絵の具を用意して、
白いキャンバスに挑む花は、
自由なんだろう。幸せなんだろう。
幸せとは、無限に広がる自由なんだろう。

あと少しで、2020年が終わる。
もう少しで、新しい年の始まりだ。

 

 

 

ピリピリする、私の突起

 

村岡由梨

 
 

とにかく、とても疲れている。
見たいもの、読みたいもの、書きたいものがいっぱいあるのに
時間にちょっとした隙間が出来ると、
体を横たえてしまう。眠ってしまう。

小さいけれど、私たちの生計の要になっている会社を回すこと
家族のこと
きょうだいのこと
義両親のこと

いろいろな問題がぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐる
眠れずに、意識が右往左往する。
そこで、あの女の罵声が聞こえてくる。

「このクソ女。てめえは余計なことしなくていいんだよ」

うなされる自分の声で、目が覚める。

 

飼い猫のサクラが、NHKのホッキョクグマの番組を熱心に観ていた。
母グマは、まだ幼い子供達を守る為に、オスを近寄らせない。
貴重なエサのアザラシを捕まえるために、色々な知恵を尽くす。
例えば、分厚い氷の穴のすぐ側で待ち構えて、
呼吸をしに水面に上がってくる獲物を狙う、など。
でも、なかなか捕まらない。
アザラシもかわいいけれど、
この際、食べられても仕方がない。
がんばれ、がんばれと心の中で応援する。

私は、自分の空腹をこらえて子グマ達にお乳をあげる母グマの姿を見て、
娘を産んだばかりの頃の自分を思い出していた。

 

その日私は、ほんの数週間前に産まれた娘を抱えて、
病院の母乳外来に来ていた。

私は赤ん坊の頃、
なかなか母乳の出ない母の乳房を嫌がって、
粉ミルクばかり飲んでいたという。
それでも、おしゃぶりは手放さなかった、
と母から聞いた。

私の母乳の出は良好で、
娘の体重も順調に増えていた。
何か悩みはある?困っていることは?
と年増の助産師に聞かれて、私は正直に答えた。
「乳首を吸われると、性的なことを想起してしまって、
気持ちが悪くて、時々気が狂いそうになるんです。
乳首がまだ固いから、切れて、血が出るんですけど、
自分の乳首が気持ち悪くて、さわれなくて、
馬油のクリームを塗ることが出来ないんです。」

すると助産師は、バーンと私の背中を叩いて
「なーに言ってるのよ、セックスと授乳は別モンじゃないの!」
と大笑いした。
私は、自分の気持ちを話したことをひどく後悔して、
その助産師を殺したいと思った。

10代の頃、人を殺すためにナイフを持ち歩いていた。
結婚するまで、おしゃぶりをお守りのように持っていた。

4歳の時、良く晴れた日に、
空中に舞う埃や塵が日光の中でクルクル回る様を見ながら、
干したばかりのふかふかの布団に寝転がって
ぬいぐるみ相手に、初めてのエクスタシーを覚えた。
そして、その直後に知らない男から電話がかかってきて、

「今、どうだった? 気持ち良かった?」

と聞かれて、戦慄したのだった。

 

思い返せば、私はずっと
ペニスと乳首に翻弄されていた。

道ですれ違った知らない男に、小学生の私は
人気のないところに連れて行かれ、
悪臭のする不潔なペニスを無理矢理口に入れられて、
その時私は泣いたけれど、
今も昔も、この男に対する怒りは全く感じない。

それよりも、もっと幼い時、
母が同棲していた男の男友達に
「君の眼には魔力がある」とか言われて、
キスされたり、まだ未発達な乳首を触られたりした。
相手の汗ばんだ手で触られるのは嫌だったけれど、
この時のことに関して、
誰かに対する怒りを感じることはない。

怒るべきところで、怒らない。
表出する怒りと、表出すらされない怒り。
私の心は構造的に、何かが決定的に欠落している。
でも、これが私でなく、娘たちの身に起こったことだとしたら。
私の中で何かが崩れ落ちて、
私はきっと壊れてしまうだろう。

夫とのセックスも、うまくいかない。
人と肌と肌を触れ合いたくない。
でも、愛する人と触れ合いたい。
絶頂と嫌悪が同時にせり上がってきて、
刹那、自分をナイフでメッタ刺しにして、
乳首を切り落としたくなる。

硬くなった私の突起が、ピリピリする。
目を閉じると鍵穴がいっぱい見える。
鍵穴 突起
鍵穴 突起
マスクの下の唇が湿気でふやけて、
そのふやけた唇の皮を、歯で噛み切って食べる。
自分の死んだ細胞を食べる。
自分の味がする。
ホッキョクグマはアザラシを食べる。
アザラシの味がするだろう。
アザラシはホッキョクグマに食べられる。
男は自分の突起を私の穴に入れる。
私は、男の突起を口に入れられる。
 

で、何が言いたいのかって?

とにかく、あんたのことが大っ嫌いっていうこと。
いつでも自分が人の輪の中心にいないと気が済まない人。
「みんなで写真を撮るよ」と言っても、
「嫌だ」と言って、一人だけそっぽ向いてる人。
出来れば、二度と会いたくない。

って、散々言ってみたものの、
こんな風に私のことを嫌っている人も、たくさんいるんだろうな、
なんてことも考える。
あんたを嫌っている私。誰かに嫌われている私。

転換。転換。何たる自意識(笑)

所詮、物事は視点の転換で、
ホッキョクグマじゃなく、アザラシの視点の番組だったら
私の がんばれ は ひっくり返る。

 

本当はもう、誰にも触れられたくないし、触れたくない。
本当はもう、大声でわめき散らして、
何もかもめちゃくちゃにしてしまいたい。
でも、今の私にはそれも許されない。

ひとりになりたい。
誰にも気付かれずに、
ある日プツン、と いなくなりたい。

 

 

 

変容と変化

 

村岡由梨

 
 

火曜日、眠が入院した。
病院の帰りの電車の中で、私は
人目もはばからずに泣いた。
激しい孤独感に襲われて
足がすくんで
周りの音が聞こえなくなった。
夜、ホッケを3切れ焼いた。
米2合は多すぎた。
いつもいた人がいなくなるということは
こういうことなんだな、と思った。

金曜日の夜中、野々歩さんと
新しい映像作品の編集を終えて、
フランスの友人へ送った。
月末までに、送る約束をしていた。
作品の中に出てくる幼い眠の姿を見て、
花が泣いていた。

木曜日、眠の外出許可が下りた。
野々歩さんと、眠と花と
病院の最寄り駅のおそば屋さんで、
天ぷらそばを食べた。
眠は、私が眠に持たせた
「床下の古い時計」という本と
バーネットの「秘密の花園」が
すごく面白かったと言ってくれた。
それから、病室から夕日が見えたことや、
別の病棟に入院しているおばあさんと窓越しに目が合って、
向こうが手を振ったので、こちらも手を振り返した、
と話してくれた。
目に見える傷と目に見えない傷を抱えた人たち、少女たちが
世界から隔絶された場所で
懸命に生きていることを思った。

金曜日の夜、
突然母から電話があった。
「変なことを聞くけれど」
と母は話し始めて、
私と弟は、どれくらい歳が離れているのか、と訊いてきた。
一年と二ヶ月ちょっとじゃない?
と私は答えた。

一年と二ヶ月ちょっと?
それだけしか離れてなかったのね。
じゃあ、あなたは、
そんなに幼くしてお姉ちゃんになったのね。
つわりも酷かったし
母親が一番必要な時期なのに、
あなたに構ってあげられなかった。
悪いことをしたわね。
あなたは弟の手を引いて、
一生懸命お姉ちゃんをしていた。
でも、おしゃぶりをなかなか手離さなかった。
それは、眠と花も同じね。
今、お風呂に入ろうとして、急に思ったのよ。
あなたに悪いことをしたって。

電話を切って、
私は、声をあげて泣いた。

許すとか許さないとか、
そんなおこがましいことを言いたいのではなかった。
親だからといって、
完璧な人間であるわけでも、あるべきでもなく、
時には正しくない選択をしてしまうこともある、
ということが腑に落ちて、
痛いほどわかったような気がしたからだった。
「親である以上、子供の模範となるような存在でなければならない」
「100%の愛情で子供に応えてやらなければならない」
そんな理想に縛られて、
「完璧な親」でいてくれと、
母に強いるようにして、自分は生きてきたのではないか
そう思ったからだった。
人は不完全な存在であるからこそ、
互いに補い合って生きていられるんだ
苦しいのは自分だけじゃない。
そんな当たり前のことに、気が付いた。
靄がかかって行き先の見えない道の途中で
不安で立ち止まっていたけれど、
まっすぐな風が吹いて、スーッと遠くの景色が見えた。
そんなような気がした。

元々壊れやすい人たちが集まって「家族」になって、
やはり壊れてしまって、また再生して、壊れて。

私の中で今、何かが変わろうとしている。
自ら勇気を出して変わろうとしたわけではなく、
否応無しに変わらざるを得なくて、変わった、
という消極的な変化だけれど。
世界の美しいものを素直に肯定できる、
そんな自分になれるような気がしている。
 

土曜日、眠の外泊許可が下りた。
自宅のひと駅手前で降りて、歩いて帰ることにした。
眠が以前、アトリエの帰りによく寄り道をして
遠くの景色を眺めていた歩道橋が無くなって、
おしゃれな建物に変わっていた。
丁度雨が降ってきたので、そこで雨宿りした。
眠と野々歩さんと
酒粕の入ったチーズケーキを食べながら、
雨が止むのを待っていた。
夜、オニオンスープとピーマンの肉詰めを作った。
米は2合で丁度よかった。
テレビはつけなかった。

今日は、夕飯に、銀鱈の西京漬けを4切れ焼いた。
米は2合で丁度良かった。
今日もテレビはつけなかった。
花が泣いた。
今もまだ、私たちは狂乱の只中にいる。
飼い猫のサクラが、お姉ちゃんのナナの頭をなめていた。
その様子を見て、皆で笑った。
眠はもう病院には戻らない。

夜、花と散歩をした。
花といろいろな話をしながら
神社を通って
落ち葉を踏みながら歩いた。
ぽとん、と
どこかで銀杏が落ちる音がした。

 

 

 

 

村岡由梨

 
 

娘たちが、壊れた。
周囲の大人たちの毒に侵されて
ついに、壊れてしまった。

自宅から12km離れた病院に入院させて、
帰り際、もう一度一目会うことも許されず、
私たちは、
第三者が管理するドアの鍵によって
いとも簡単に分断されてしまった。

自分の子供が苦しい時に
側にいて手を握ってやれないなんて。
帰りの電車の中で、涙が止まらなかった。
身勝手な涙だった。

私の身勝手。夫の身勝手。
私の両親の身勝手。夫の両親の身勝手。
私のきょうだいの身勝手。
夫のきょうだいの身勝手。
私の両親のそのまた両親の身勝手。
夫の両親のそのまた両親の身勝手。

身勝手は伝染する。
いつか誰かが断ち切らなければ。

大人になりたくない、
ずっと子供のままでいたいと、
現実から目を背けて、逃げていた私。
けれど、それではダメなんだ。

私はもう大人で、
娘たちを保護して
命をかけてでも守ってやらなければいけない立場なんだ。

思えば私は、口を開けば自分の話ばかり。
娘たちの言葉に、真剣に耳を傾けることがあっただろうか。
こうして言い訳みたいな詩を書いて、
どこまでも自分本位の私に、反吐が出そうだ。

娘が言った。
「ママは人に、本当のごめんなさい、や
本当のありがとう、を言ったことがあるの? 」
そう言われて、私は言葉に詰まった。

 

ある日、飼い猫が、無邪気に私の肩に飛び乗ってきた。
その瞬間、鋭い爪が私の皮膚を引き裂いた。
何の悪意もなく、引き裂かれた、皮膚。
血がジワジワと染み出してきて、
ヒリヒリと痛んだ。
「これはまずいね」と言った夫が、
抗生物質を塗ってくれた。
「これ、たぶん痕に残るよ」
と言われた私は、
ジワジワと血が染み出してくる傷痕を
いつまでも
いつまでも、見ていた。

今この瞬間に子と引き裂かれてしまう悲しい親は
世界中に数え切れないほどいるだろう。
でも、私には、眠と花がいる。
ごめんなさい。
ありがとう。

いつか娘たちに心の底から信じてもらえる日まで。
時にもがきながら、生き抜いてみようと思う。

 

 

 

Transparent, I am.

 

Yuri Muraoka

 
 

I sat next to a blind old man who had undergone dialysis and closed my eyes. The world went completely dark.
When I sunk into darkness, I knew that the world was shaking.
I got slight motion sickness from this vibration.
In the darkness, I searched for light.
A light.

One fine day,
I took pictures of the sky with my phone
because I got a little uncomfortable when waiting my turn at a mobile phone store in Shimokitazawa.
I wanted to remember the beauty of the light twinkling through the clouds.

In the midst of all the people who were happily coming and going, I was lonely, no matter where I was.
It was meaningless existence.
Even though I stared at my hands in a daze
I couldn’t see anything because they were transparent.

 

1. The Woman with Light Blue Eyeshadow ( In the conflicting time )

 
That day, unconscious me woke up sensing the light on a hospital bed.

Parts of white boxes and black boxes, piled up in my room,
disappeared and the rest of them floated in the air.
I had taken a large dose of medication
because I couldn’t bear the horror of ‘reality’ collapsing beneath my feet.

I met a nurse in the hospital where I was taken to.
She was a woman with heavy suffocating makeup
and an unusually small body.

In a wheelchair, and unable to move my limbs,
she handed me a thick book and told me to read it.
After reading it, I tried to tell the woman about the contents
but the woman said,
”Such a book does not exist.”

It couldn’t be.
It’s the book you just gave me.
My throat became tight and I could not speak.
I tried to shout, “No, No” as loudly as possible.
The woman tried her hardest not to laugh and said,
“Get your act together!”
while sneering at me.

Next, the woman handed me a piece of paper and told me to write some words. I complied.
But at the next moment, the words I had supposedly written,
had disappeared like a thread coming undone.
I appealed to the woman about it.
She said,
“Where is the paper ?”
Certainly the paper had disappeared.
Crying, I protested,
“You’re wrong, You’re Wrong.”

I fell out of my wheelchair and crawled on the ground
in a desperate attempt to escape from that room,
but the woman went on ahead of me and stood at the exit
saying with a voice of annoyance and derision,
“Hey, come on!”

Hey, where is Nonoho-san?
Where’s Nemu-chan?
Where’s Hana-chan?
They don’t really exist.
You don’t really exist either.

Nonoho, my dear, don’t open the door of the black and white room.

My little bird twisted its thin legs in the wire mesh at the bottom,
dying grotesquely with an ominous squeal.
Nemu was twisting her body grotesquely, walking strangely.
A screaming Hana whose eyes were slit open with a cutter.
I shudder at the things I’ve loved so much.

They say that anyone who sees their doppelganger will die.
When I encounter myself again, I think I will die.

 

2. Consultation Room (February 2009)

 
It was February 2009 I entered the consultation room for the very first time, while holding the hand of just 3-year-old Nemu
and with Nonoho, my husband, holding a still young Hana in the baby sling.

The doctor said,
“Imagine a blueprint for your family’s ‘future’ in your mind.
You have to start doing things to get closer to that.”

Because the doctor told me that, I imagined our family picture in the future. There were Nemu and Hana, growing up beautifully.
My husband Nonoho was still the same in middle age.
But I wasn’t there.
I’m the only one who isn’t there.
I’m invisible, I can’t see anything.
As I was crying bitterly,
little Nemu looked up at me worriedly,
“Mommy, are you okay?”

After we made love to each other,
falling apart with ecstasy from the waist down,
I became pregnant with my daughter Nemu.
A small refrigerator on its last legs,
a small table,
mismatched dishes –
Life was like playing house.
And then our second daughter, Hana, was born.
We become a ‘family’.

Occasionally, I have beautiful dreams.
My daughters lounging in a meadow of yellow-green semen,
playing cat’s cradle with the black and white umbilical cord
stretching from my transparent vagina.

Occasionally I have happy dreams.
My little girls saying such things as,
“Do you want kombu? Do you want pickles?”
while making a big rice ball for their dad.

Occasionally, I am chased by scary dreams.
Where’s Yuri! I’m going to kill you!
My father is looking for me.
I am hiding with bated breath.
Everyone is angry at me as a bad person.

You’re a bad person.
You are a lying human being.

You are… You are…
You are… You are…
Who are you?
Who are YOU?
Who am I?
I am who
I am… I am… I am…

I am

 

 

“If you’re in so much pain and you want to die, you can die.
It’s very sad, but your life belongs to you,”
my young daughter once told me gently.
I was moved to tears because I was so ashamed of myself
and could not forgive myself for making her say such things.
I had no right to feel pain and be sad,
but she hugged me while I sobbed saying,
“It’s okay. It’s okay.”

 

I sat next to a blind old man and closed my eyes.
The world went completely dark.
How will the world change next time I open my eyes?

This time I will hold you in my arms when you cry.
I will hug you, rub your back, and say,
“It’s okay. It’s going to be okay”

 

(Translation by HONYAKU beat)