great song after great song

 

工藤冬里

 
 

全てをカレーにして
ステップ・ファミリーも鍋に入れて
前にも見たヴィデオも溶けるまで煮て
エアコンは強に
数の子はもう潰して
シーツは部屋で干す
降る降る言って雪は降らない
風は強い
財布はポケットに
充電器で手の甲が熱い
ナミさんが横浜でライブ中にステージで死んだ
大きな鍋に
ヒット曲を次々と投げ入れて

 

 

 

#poetry #rock musician

つけ加えない

 

駿河昌樹

 
 

あゝ あれを忘れたな
と思う
あれもあれもあれも
忘れたな
と思う

でも
いいんだ

つけ加えようか

思う

20世紀末期に流行ったように
どうであれ
それで
いいんだ
という
風味

つけ加えようか

思う

思うだけで
つけ加えない


けれど

 

 

 

金切鋸

 

工藤冬里

 
 

バリアフリーの手摺のために
ステンのパイプを切る
(合金で鉄が切れるんだ)
モリブデンかタングステンか
(よくそんな鋸持ってたな)
銀が金に、銅が銀に代わるように
石も鉄に底上げされる
そんな時代が来ますか
僕は石で切れます
石で髪も切ります
午後にはリハビリの人が来ます

 

 

 

#poetry #rock musician

最後の努力

 

工藤冬里

 
 

教えることはひとごとのように共に考えることに変わり
それでもそのひとごとを行為の契機にする動機付けを与えるための視覚効果が工夫されていった
走ることはたのしい
と言い聞かせるアスリートのように
一度は黒焦げになった頭蓋を焼杉板にして
塩害防止の黄土を目と耳に塗り
シナプスを組み替えていった
そんなふうにして
真珠採りの筏の家族は
最後の努力を
最後まで続けていった

 

 

 

#poetry #rock musician

pass over musings

 

工藤冬里

 
 

釘を踏み抜いて土方が出来なくなり、日野にあった血液検査のラボの徹夜の仕事に変わった。皆肝炎に罹って辞めていった。肝炎は勲章のようでさえあった。休憩室のMTVではレッグウォーマーのマドンナが「ライク・ア・ヴァージン」を唄っていた。そこで知り合った男からSGを借りて、週一で「unknown happiness」とか「河口湖畔にて」といった曲を練習していた。人体内部の病巣を見すぎて顔面がボコボコに腫れるので米軍基地の草刈りの仕事に変えた。朝、岩田を起こしてはキャンプ座間やキャンプ相模原に行った。その頃はよくダモのDUNKELZIFFERを聴きながら仕事していた。ライブは自分で企画しようとすると、国立公民館以外にはできそうなところはなかったので大抵はそこの地下音楽室でやっていた。貸してくれ易そうな「常磐会」という名前にして申し込んでいた。
マヘルが自分で発表したアルバムは、一九八五年の「マヘル・シャラル・ハシュ・バズ 第一集」と、「pass over musings」という二つのカセットだけである。「・・第一集」のタイトルは、「サヌルリム第一集」からの借用で、以前のNYの断片や、今井次郎ベースの京都のコクシネルなども入っていて、マヘルというよりその時点までの集大成的なニュアンスが強いが、「pass over musings」は純粋にマヘルで、テレヴィジョンで言うなら二枚目である。タイトルはジョイ・ディヴィジョンから取られていて、誰もその歌詞の意味を考えてみようとはしなかった八〇年代初期に、瞑想を拒否し、黙想を黙々に伏して、中天から家々の戸口に付けられた血を確認しようとしている。ジャケットの写真は浩一郎が釜山で撮ってきたもので(当時の釜山ではメイヨ・トンプソンとデヴィッド・トーマスの絵葉書が売られていた)、赤い文字部分は当時の、一字一字シールを貼るやり方で作られている。国立の北口から恋ヶ窪の方に上った台地にほら貝のスタッフが始めた、当時は珍しいピザのテイクアウトもできるハイカラな店が出来て(ヒッピーというのはいつもハイカラなものなのだ)、そこで三谷がカセットのダビングをさせてもらって編集して作った。作れば五〇部は売れた。それが昔も今も変わらない「スマートなオーディエンス」の規模であった。園田による録音が残っていた八六年二月の国立公民館での演奏は、「pass over musings」の発売記念として企画されたものである。対バンは光束夜で、彼らのその日の演奏もレコードになっている。

 

 

 

#poetry #rock musician