@140710  音の羽

 

萩原健次郎

 

写真 14-07-05 16 26 41

 

水の催し
そこから羽化した、小さな蝿が
暗雲に混じって
ぶれている。
そういう視界に
生き物とそうでないものの
区別をつけて
あるいは、蝿たちが見ている
わたしという、一塊も、そうでないものと
別けられている。

無機の兆しが
景に満ちて
だれかに、なつかしく思われたいと
夏の坂道に、ある。

ぶうぶう、ぶうぶう、
ずっと遠くから鳴っている
それが、営みの末なのか端なのか
確かめようともしない。

川の両岸に
花の子が、空へ垂直に
よろこんで、立っているようで
紅も、白も不憫で
あまり見つめられない。

ちらちらと、生きているようで
さみしそうにもしていない

里の人に育てられた
茄子に、ビニールの覆いにも
黙礼をして、
ただ、背を押されるようにして
気を、降ろしていく。

荷のない午後に
逆さまに。

 

 

 

「何が閣議決定か。馬鹿らし。独裁ごっこだ。」と、フェイスブックに書いた夜に

根石吉久

 

写真

 

「閣議決定」という言葉を、この歳になってようやく覚えた。内閣のメンバーが集まって決定したことというようなことらしい。つまり、国会の議事を経ずに決定されたということである。
つい20分ほど前まで前日だったのだが、前日の夕方近く、集団的自衛権というものが閣議決定された。閣議で決定するものだから憲法の元で合法なはずだが、集団的自衛権が合法なのか違法なのかについて国会の議論は経ていない。
集団的自衛権を使えば、例えば、アメリカが他の国から攻撃されている場合、日本がアメリカと一緒になって攻撃する国と戦争することができるらしい。アメリカ本土でではない。どうせアメリカのことだ。いつだって、よその国に軍を送り、よその国で戦争をしているのだ。たいていは、アジアかアラブだ。

そこで日本の軍隊が戦争をする? なんのこっちゃ。

憲法に書いてあることを普通に読んでみれば、これは憲法と相容れない。
軍靴の音が聞こえるかといえば、私には今はまだ聞こえない。私が鈍くて、戦争を知っている年寄りたちはすでにその音を聞いているかもしれない。

私もすでに年寄りの仲間だが、ぎっくり腰の年寄りになってしまった。
話は急にぎっくり腰のことになる。

最初にぎっくり腰をやったのは、千曲川の河原でだった。家の中に猫のトイレを作るのに砂が必要だから、バイクで砂を運んでくるつもりででかけた。スコップで麻袋に砂を入れ、バイクの荷台に載せようとしたら、それまで感じたことのない痛みが背骨のあたりを雷の光のように走った。冠着山や三峯に黒い隈ができたように思った。河原が急に暗くなったようだった。

その時は何日くらい寝ていたのか覚えていない。

自宅自作をやっていた間は、相当重いものを持ち上げたりしたが、これも何回くらいぎっくり腰になったかを覚えていない。何度もやったことは確かで、なおりきらないうちに軽トラを運転して、軽トラのドアを開け、座、席か、ら下、りるとき、のつら、い感、覚は、その場、所と一緒、に、覚えて、い、る。  う。

夜中じゅう起きていて、昼頃起きるようなことが癖になっていて、これは今でもなおらないが、この寝起きのパターンと力仕事とがどうも相性が悪いらしい。
ぎっくり腰をやるのは、起きてからそれほど時間が経たないうちにやることが多い。

脳梗塞をやる前から、起きてから何時間もぼうっとしている状態から抜けないことは常態だった。ねぼけている状態が3時間も4時間も続くのだ。
昼に起きて飯を食って、自宅自作の現場に行き、高い足場の上に登ったりもしたのだが、現場仕事をやっていてもしばらくの間は、どうもぼんやりしていることがあった。丸鋸の刃が回る音で、神経だけが醒めてきて、体はまだ一部眠っているような状態でやっているのが常態になっていたように思う。
体がしゃきっとしてる時は、相当重いものを持ち上げたりしてもぎっくり腰になることはない。体が一部眠っているような、だるくて仕事に取りかかるのがいやだと思うようなときに、ちょっとした動きでぎくっとなる。一度やれば、3日ほどは寝たきりになり、トイレに行くのもつらい。体をほぼ普通に動かせるようになるまでに一週間、痛みがなくなるまでに二週間はかかることが多い。
40歳台から50歳台にかけて、語学論の掲示板を夜中じゅうやり、朝方眠ることを10年ほど続けたが、この間が一番ぎっくり腰をやった。頻繁にやるので、「俺はプロだ」と言ったことがあるが、自分ながら何のことだかわけがわからない。
どうもコンピュータの前に座って朝になるような生活と、体を使う仕事とは、そうとう相性が悪いらしいとだんだんわかってはきたのだ。

でかいやつもあれば小さいやつもある。小さいやつなら、3日ほど寝ていれば普通に体を動かせるようになるが、一番ひどかったのは、3ヶ月ほど痛みが取れなかったのがあった。歩いたりはできるのだが、痛みが取れず、医者に行っても変わらず、岡田幸文さんに電話でボヤいたら、岡田さんが雑誌の記事の腰痛体操をコピーして送ってくれた。その体操をしてみたら、体の中で何か動いた感じがあり、それきり痛みがなくなった。糸が何かにひっかかっていたのが外れたという感じだったのは、実際に神経という糸がひっかかっていて、それが外れたのじゃないだろうか。
仰向けに寝て、両腿が腹の上にくるようにし、両脚を折り、膝小僧を手で持って胸の方に軽く引いたままにし、しばらくそれを維持しているというだけで、体を大きく動かすような体操とは違う。それだけの動作が、この時はテキメンだった。医者に行き、牽引だの、赤外性で暖めるだのいろいろやってもらっても、痛みがとれずにいたのだが、腰痛体操を一回しただけで、すっと痛みがなくなったのにはびっくりした。
医者に行き、友達に教わった体操をしたらなおったと言うと、医者は嫌な顔をし、だったらその体操を続けろと言った。わざわざそんなことを言いにくるなという感じだった。参考になるかなと思ったので、痛みがとれたのにわざわざ行って話してあげたのに。

60歳を過ぎていたかどうか、60歳前後に、温泉に入っていてぎっくり腰をやった。何が原因かわからないので、感覚的にしか言いようがないが、どうも体の状態が陰の時と陽の時とがあるようで、ゆっくりと陰と陽の時期が交替しているようなのである。温泉に入るとそれがわかる。陽の時は、体の芯までお湯の温度が届く気がする。体が温まるのも、湯上がりに体を冷やすのも気持ちがいい。陰のときは、長くお湯につかっていられないし、長くつかっていられる時でも体の芯のほうに冷えたものがいつまでもある。温まった感じがしない。
温泉でぎっくり腰をやったのも、陰の時、あるいは陰の極の時だったのだろうと思う。お湯に入っていても、うそ寒い感じだった。湯口のお湯を飲もうと思って、カップを取ろうと、少し離れた位置から手を伸ばしたら、ぎくっと来た。どこで何が待ちかまえているか、わかったものではない。温泉でぎっくり腰をやったと言うと、人は笑う。信じない人もいる。馬鹿言うなとも言われた。

今年。梅雨に入る前、5月の晴れた日の日差しがきつい時はよく温泉に行った。2時から3時半頃まで温泉にいて、4時過ぎに畑へ行くということを晴れた日の日課のようにしていた。せっかく湯に入ってさっぱりして、また夕方汗をかくのが欠点だが、暑さよけにはいいアイディアだと自分では思っていたのだ。

梅雨に入って空気に湿気があるようになって、すぐに今年のぎっくり腰をやった。温泉から出て、そのまま畑に直行し、草を刈って立ち上がったら、ぎくっと来た。

二週間寝た。英語のレッスンの時だけ起きた。

どうも温泉で体を温めるのと、ぎっくり腰になるのが関係がある。起きて温泉に行っても、体は目をさまさない。逆にまた眠りに入ろうという態勢をとってしまうようだ。そういう状態の体で力仕事をしてぎっくり腰になるのは、起きて間もない時間にぎっくり腰をやったのと同じ原因なのではないか。それを激化しているようなものではないか。

陰の周期が来ている時、体がまだ寝ている、あるいは眠りに入ろうとしている時にぎっくり腰をやるのではないかと考えるようになった。神経と体は、ずれている。少なくとも私の場合は、ずれている。

いろいろやってみるが、今回は体の痛みが取れてから天狗山と呼んでいる公園へ通っている。天狗を信仰しているわけではない。
雑木のゆるい斜面の木を切り、桜を植えて公園にしたところだが、車道がつづら折りになっている。そのつづら折りを串刺しにするように、斜面を直登できるような散歩道ができている。ここを歩くと、斜面を一番きつい角度で登っていくので、ほぼ15分で息が切れ、呼吸が荒くなる。体に血がめぐるのがわかる。公園の一番高いところに着いたら、なだらかな車道のつづら折りを歩いて車を駐めたところまで降りてくる。降りてくる間に、呼吸は元に戻っていくが、その間に体が目を覚ます感覚がある。歩きながら、ああ、目を覚ましていくなあ、と思う。

隣町の戸倉で飯を食うことが多いので、飯の後、セブンイレブンでコーヒーを飲み、食休みしてから天狗山に行く。それで体が目を覚ました感覚を得てから畑に行く。これが今のところいいみたいだ。一度、小さく、体をしゃきっとさせるのはいいみたいだ。まことに小さな生活の知恵だ。

ぎっくり腰はつらい。本当にどうにもならないということを思い知らされる。寝返りが打てないとか、小さい咳をするだけで激震のように痛みが走るとか、椅子から立ち上がるのに1分も2分もかかるとか、その1分2分がとてつもなく長い時間に感じるとか、まあいろいろ言ってみるが、つらいのだ。もう俺は終わったんじゃないかと思ったことが何度もある。

今回のぎっくり腰は一度は痛みが取れたのだが、どうも不快感のようなものがすぐに復活する。
昨日、畑が暗くなりかけて仕事を切り上げたとき、軽トラに乗ってすぐに、集団的自衛権はどうなったんだと思い、iPhone のフェイスブックを立ち上げた。ニュースフィードに山本太郎の「無法者め!」というようなタイトルの記事があって、閣議決定がなされたのだと知った。

帰りの車の中で、そうだ、首相だとか大統領だとかやる人は、重いぎっくり腰を何度かやった人に限るという国際法を作るといいと思ったのだ。あんまりぴんぴんしてるような人が首相やら大統領やらやるもんじゃない。ぴんぴんしてるやつには資格がない。安倍の腹痛程度じゃ駄目だ。自分の体ひとつが自分で動かせない感覚を知ってる人がやるべき職だ。自分では動かせないが、他人にはなおさら動かせないのだ。女房だって駄目だ。自分でそうっと動かすしかない。机に両手を突いて、1分も2分もかけて、腰を30センチほどあげて、その後10秒くらいかけて、ゆっくりと腰を伸ばすような不自由こそが、外交ってものじゃないか。現実ってものがなければ、腰が痛ければ、痛い間は寝ている。俺はそうする。現実ってものがあるから、椅子に腰掛けなければならない。そしてなお、30センチ腰を上げる長い長い旅をしなければならない。安倍はこの旅を知らない。

国際法はまだまだの出来だ。法整備はできていないが、首相になりたい人や大統領になりたい人は、その前にぎっくり腰をやろう。
そうじゃないと、生活を思いやるということができないようなハンチク野郎が生活に迷惑をかけるのだ。

畑から帰る途中で、そんなことを思ったので、最初に集団的自衛権のことを書いたのだった。神経がひっかかるようにひっかかっている。腰痛体操ではどうにもならない。

ん?
集団的自衛権?
集団的の「的」って何だ?
自分の腰を撫でながらだが、近頃の日本語はどうもなまくらだと思う。

そういえば、フェイスブックに、次のようにも書いたのだった。

「解釈」!
そんなもの、学校の教室ででもやってろ。
「解釈」が直接的に生活に触ることは、犯罪者の直接性と同じものだ。

 

 

 

かずとんとん

辻 和人

 

何だって?
「和人さん」はもうヤダッて?

結婚式から一週間程たった頃のこと
妻になったばかりの妻は
洗ったばかりの髪を撫でながら
寝室に入るや否や
「他人行儀で何かヤダなあ。いい呼び名ないかなあ
和人さん、和人くん、カズトカズト……
あっ、『かずとん』
『かずとん』いいかも…
決めたっ
これから『かずとん』って呼んでいい?
いいよね?」

それから
軽くフシをつけて
「かずとん、かずとん
かずとんとん」
と呟いた

一瞬で、ぼく
「かずとん」になってしまった

それまでのぼくたちは「和人さん」「美弥子さん」ってな感じ
会話の中で敬語使っちゃたり
彼女、夫婦であるからにはもっと親密に、もっと柔らかくあるべきって
考えたに違いない

「じゃあさ、君のことこれから『ミヤミヤ』って呼ぶよ」と言い返したけど
「かずとん」に比べるとインパクトなし
だいたいどっから来たんだ?
「とん」って?

「うーん、特に理由ないけど
かずとんにはすごく似合ってる感じがする
かわいいじゃない?
オジサンくさくないし
カタカナよりひらがながいいかな
かずとん、かずとん
かずとんとん」

かずとん、かずとん
怪獣の名前みたいだな
おとなしい小型の怪獣だ
森の中に住んでいて
クマさんやシカさんとも仲良くやっていたりするんだろう
うんうん、きっとそうだ

「じゃ、おやすみなさい」
「おやすみなさい」
電気を消し
しばらくして、妻の寝息を確かめた
よし
かずとんになって
寝床を抜け出す

とんとんとん

ドアを透過して階段を降りて

近くに深い森はないから
マンションの庭の木立ちの中
実体はないから
もっこもこ伸縮する輪郭みたいなものを
体の代わりに踊らせて

かずとん、かずとん、かずとんとん
かずとん、かずとん、かずとんとん

すると
寄ってきたのは、寄ってきたのは
クマさんとシカさん
やあやあ

特に理由はないけど
かわいくて
カタカナよりひらがなが似合うものに
ぼくは、なった

かずとん、かずとん、かずとんとん
かずとん、かずとん、かずとんとん

理由がなくて
体もないから
まだ3月だけど寒さは感じない
今夜はこのまま寝ちゃおう
朝だよーって
ミヤミヤが
起こしに来るまで

 

 

 

七十九歳の誕生日って、ちょっと困っちゃうね。

鈴木志郎康

 

 

さて、どうやって切るか。
困っちゃうね。
わたしの似顔絵が描かれた誕生日祝いのケーキを前にして、
蝋燭の火を吹き消して、
ケーキを囲んで待ってる孫娘たちの前で、
いよいよ、
自分の顔にザックリとナイフを入れる段になった。
ちょっと困っちゃうね。

テーブルを囲む息子野々歩と嫁さんの由梨と孫のねむとはなと
妻の麻理とわたしと6人で
六つに切ればいいわけだが、
自分の顔が六つに切り裂かれるって、
ちょっと困っちゃうね。
ケーキの六つの部分はどこも同じだけど
顔の部分となると自分では気に入らない所もあるんだ。
わたし自身は何処を食べればいいのかいな。

まっ、誰が何処を食べたかは秘密。
幡ヶ谷のコンセントというケーキ屋さんで由梨が買ってきた
このケーキはクリームがさっぱりしていて、とても美味しかった。
で、顔の味はどうだったかな。
わたしを除いて、ケーキはケーキで、顔は無かった。
とうとう七十九歳か。腰が痛く、杖をついてもふらふら歩きで、
外に出るには電動車椅子っていうわたしの身体。
まっ、身体は身体だ。せめて美味しい詩を書きたいね。

毎朝の食事の後は新聞の字面を辿るのが楽しみなんて、困っちゃう。
誕生日から九日過ぎた朝に朝日新聞を開いたら、
「構図変わる新時代」と来た。
「/自ら国民を守り/米軍は有事駐留に」(注1)って見出しで、
思想家で麗沢大学教授の松本健一氏の談話ですよ。
わたしが七十九歳になったばかりで、「新時代」だってよ。
わたしはただ家にいて寝たり起きたりばかりで、困っちゃうね。
まっ、ちょっと困っちゃうけど、まあ、ひょいひょいか。

「日本国憲法の改正を逃げてはならない。」(注1)と来たよ。
わたしゃ、ひょいひょいですよ。
「日本は明治維新で開国し、敗戦で2回目の開国をしました。」(注1)
なるほど、ひょいひょいだね。
「現在、『第3の開国』の時期を迎えていると考えています。」(注1)
ちょっと待ってよ。日本の國っていろんな國と付き合ってるし、
ペルシャ湾、インド洋、イラクなんかに「自衛隊の海外派兵」してるじゃん。
開国してるのに、またその上に開国するって、どういうことかね。

開国しているのに更に開国する時期が来たなんて、困っちゃうね。
そんな、そんなドラマチックな時代に、ひょいひょいと
わたしは七十九歳の誕生日を迎えちゃたんだ、困っちゃうね。
今や、歴史的なヒーローが活躍する時代ってわけね。
すると、この『第3の開国』のヒーローは安部晋三首相なのか。
そりゃ、ちょっと困っちゃうね。
「日本を取り戻そう」って幻想を振り撒いて、
憲法解釈を変えて集団的自衛権の行使を認めるヒーローね。

このヒーローは、うんっぐっくですよ。
「国民を守るどころか戦争に巻き込む危険がある」と、憲法学者の
小林節氏は「憲法を国民から取り上げる泥棒」と言ってる。(注2)
ちょっと、ちょっと困っちゃうね。
一国の総理大臣が泥棒呼ばわりされてしまうなんて。
いやいや、この「憲法泥棒さん」は居直って、
憲法改正までやり遂げて、ずるずるっと、
国家と国民を守るための自衛隊を軍隊にするヒーローに変身するんだ。

第九条の「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、
国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」って、
素晴らしいじゃん。人類の歴史は戦争の歴史ってことを終わらせるってこと。
「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」ってのは、
正々堂々と人殺しはしないってことでしょう。いいですよ。
松本氏は「解釈変更なんて姑息だ。改憲で正面から解決しろ」
「9条に『国家および国民を守るための自衛軍を持つ』
という条項を加えることが必要です。」(注1)だって。困っちゃうよね。

自衛軍にしろ、軍隊にしろ、ひょいひょいとは行かないですよ。
怖いですよ。軍隊は、できるだけ効率よく人を殺すって集団ですよ。
わたしは子ども頃の戦時中、将校だった叔父さんが持ってた軍刀と
穿いていた長靴が怖かった。祖母に甘いものを持ってくるいい叔父さんなんだけどね。
いろいろと読んだ日本兵が捕虜を銃剣で突き殺す話が忘れられない。(注3)
最近で言えば、丸山豊の『月白の道』に書かれたビルマ戦での、
戦うというより蛸壺で耐えに耐えて死んでしまう身体を思ってしまう。
と言ったって、これはまあ、わたしの感傷なんだね。うんっぐっく。

軍隊は戦争が始まれば、人を殺す人たちの集まりになるのだ。
軍隊が戦えば沢山の人が死に、自然も人が作ったものも破壊される。
うんっぐっくだ。
人は生まれて自然に死ぬのがいいのだ。
自然を喜び、自分たちが作ったものを喜ぶのがいいのだ。
戦争は人を殺し、自然を破壊し、人が作ったものを破壊する。
戦争をしちゃ駄目だ。戦争には反対だ!!戦争する軍隊は無いのがいい。
うんっぐっく。うんっぐっく。

「軍隊がなければ国土、国民、主権という近代国家の3要素を
守ることはできず、他国に守ってもらわねば独立を保てない。
保護国になるしかない。」(注1)っていうことだ。
うんっぐっくになっちゃうよ。うんっぐっく。
うんっぐっく。うんっぐっく。
軍隊が守らなくても独立して行ける国って考えられないのか。
国同士で互いに攻めないって約束すればいいんじゃないの。
うんっぐっく。うんっぐっく。

いやあ、ちょっと困っちゃう。困っちゃう。
「未来図を描かねばならない新しい時代がきたのです。
新時代に対応できるように憲法を改めなくては
真の独立国として国民を守ることができなくなります。」(注1)
國を守るために人を殺し破壊する。うんっぐっく。うんっぐっく。
守らなければ人が殺され破壊される。うんっぐっく。うんっぐっく。
うんっぐっく。うんっぐっく。うんっぐっく。うんっぐっく。
軍隊無しってことで、どうにかなんないのかね。

人を殺したり自然や人が作ったものを破壊しなくても、
生きていられるっていう、そんな世界を創ろうとしないのか。
生きる場所を奪われれば攻めなければならない。
独立って言って國土という領域を決めて自分たち以外を排除するからだ。
国境の無い世界ができないのか。
一人ひとりが民族の違いということを乗り越えられないのか。
一人ひとりが互いに信じるものの違いを認め合うことができないのか。
生きるのには、やっぱりテリトリーが要るのかなあ。うんっぐっく。

この詩を書いているこの仕事部屋に突然他人が入って来て、
「ここはオレの部屋になった。出ていってくれ」と言われたら,
わたしゃは怒るね。「なに言ってるんだ。おまえこそ出て行け。」
と争いになるだろうな。攻撃には反撃するってことか。
言葉で解決がつかなければ暴力沙汰になるのか。うんっぐっく。
わたしは法律で解決できるから、武器は要らないと信じている。
実際わたしはピストルも刀もアーミーナイフも持っていない。
七十八年、日本で生活していて現実に武器を向けられたことはない。

個人の場合と國の場合とは違うのかなあ。うんっぐっく。うんっぐっく。
現実に、他の國は軍隊を持っている。
攻めてくるかも知れないから、独立するには軍隊が必要っていう。
それなら、他の國が軍隊を持っていなければ、
攻められることはないから、軍隊は要らないわけだ。
ひょいひょいですよ。全世界の國が軍隊を持たなければ、
どの國も軍隊というものは要らないことになる。
そうなりゃ、ひょいひょい、ひょいひょいですよ。

そうだ、世界中の國の憲法に、「日本国憲法」の
「武力を持たない。戦争をしない」の第九条があれば、
この世界から軍隊は無くなり、ひょいひょい、
戦争も無くなる。ひょいひょい、ひょいひょい、
とまあ、七十九歳の頭は数日考えて、
さっぱりとした結論を得たってわけ。
でも、わたしの結論は非現実的で、まあ空論なんだよね。
困っちゃうね。困っちゃう。

軍隊って、実は、国民一人ひとりの心を縛り上げる存在なんだ。
国民に有無を言わせないための権力の暴力装置ってわけ。
そこんところをわたしはうっかり忘れちゃてる。
困ったもんだ。うんっぐっく。うんっぐっく。
自衛隊の最高指揮官は内閣総理大臣ってことになってる。
っていうことは、今日、現在の自衛隊の最高指揮官は
安部晋三ってわけだ。うんぐっく。うんっぐっく。
うんぐっく。うんっぐっく。うんぐっく。うんっぐっく。

時代は変わって行くのよ。
わたしは外国と戦う戦力を持った國の国民の一人になるってことか。
わたしは戦争をしない國で七十八年も平和に生きてきたっていうのに。
それが、今や「東西冷戦構造が壊れ、
グローバル経済とナショナリズムが勃興する一方、
力の衰えた米国への一極依存は続けられなくなっている」(注1)っていう
新時代には「日本は憲法を改正して軍隊を持つべきだ」という。
思いも寄らなかった。わたしは七十八年間戦争に行かずに平和に生きた老体!!

そもそも、わたしは自分の将来を想像できないで生きてきたんだ。
行き当たりばったりの人生だった。ひょひょいとね。
第二次世界大戦の最中帽子革靴で澄まして立っている五歳のわたしは、
焼夷弾が降りしきる路地を逃げる九歳のわたしを想像できなかった。
國が戦争に負けた焼け跡で鉄くずを掻き集める小学生のわたしは、
朝鮮戦争に行くアメリカの戦車が夜中家の前を通り抜けた翌朝、
制服制帽でぎゅうぎゅう詰めの国電で通学する中学生のわたしを
想像できなかった。その中学生のわたしは、

浅草六区の映画館の暗闇の高校生のわたしを想像できなかった。
その高校生のわたしが、僅か数年後にヴェトナム戦争反対のデモに行ったわたしが、
フランス語の原書を読んでいるなんて想像できなかった。
そしてまたそのわたしがNHKのフィルムカメラマンになっているなんて、
さらに二年後、広島で悦子さんとアパート住まいをしているなんて、
そしてまた、愛してると信じてた悦子さんと離婚して麻理と再婚するなんて、
いやいや、全くもってとてもじゃないが想像できなかった。
自分のことで精一杯に想像外の人生を生きていたってことですね。

原爆を落とされるなんて、広島の人たちは想像できなかった。
わたしゃ広島に住んで『原爆体験記』に記された場所を歩いても想像できなかった。
「国民を守る」が、「原爆を持たなければならない」になるってことは想像できる。
「国民を守る」なんて言葉にすると、可笑しくなってくるね。うんっぐっくだ。
国民として守られて、わたしは詩を書いてきたってことなんですかね。
国民として守られて、わたしは極私的な映画を作ってきたんですかね。
危ないぞ。国民を守るなんて、国民が戦場に行かない連中のために死ぬってことだ。
わたしゃ、国民として詩を書いたことなんてなかった。

詩って面白そうだで、わたしゃ、高校生で詩を書き始めて、
人を驚かしてやろうと詩を書き続け、ひょいひょいとね。
詩人と言われような者になっちまった。こんなわたしは、
あの焼け跡の少年には、まったく想像もできない見知らぬ遠い存在だよ。
困っちゃうね。うんっぐっく、わたし自身は見知らぬ存在だ。
今じゃ、急激に人口が減少する日本の新たな時代になっちゃってね。
わたしは確かに老い耄れて自分でも見知らぬ存在なのだ。
新時代の実感はないけど、眼をしょぼしょぼと詩を書いてる。

年金暮らしの七十九歳のわたし。うんっぐっく。
今、現在、麻理と暮らしている。殆ど家で過ごしている。
新聞の字面を追うのとテレビのドラマを見るのが楽しみになっている。
twitterやFaceBookやMixiに庭の花を毎日投稿している。うんっぐっく。
眼が弱っているので本を読むのがきつい。うんっぐっく。
実際、困ってるのは、片づけられないってことなんですよ。うんっぐっく。
何とかしないと、何が何処にあるのやら、本当に困っちゃう。
勢い込んで、こんな詩を書くなんて、想像できなかった。

とまあ、この詩を書き終えて、急に気分が落ちてきた。
なんだい、こりゃ。気分がどんどん落ちていくぞ。
ぐーんと落ちたところで、寂寥感が襲ってきた。うんっぐっく。
また始まるってことのない、もう終わってしまったということか。
今までに経験したことのない寂しい空白ですよ。うんっぐっく。
この日頃の空白で新聞の字面に引っ掛かってしまったってこと。
そんなところってわけですね。ひょいひょいひょいですよ。まあね。
ここんとろは、詩を書いてこの時間を乗り越えて行こうじゃないですか。

 

(注1)朝日新聞2014年5月28日朝刊。「オピニオン・インタビュー」での松本健一氏の談話。
(注2)朝日新聞2014年5月29日朝刊。
(注3)Google検索「日本兵が捕虜を銃剣で突き殺す」。

 

 

 

 

ミカラ・ペトリ

加藤 閑

 

 

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ミカラ・ペトリは10代はじめからコンサート活動を行なっている。最初の頃は家族(ハンネ・ペトリのチェンバロ、ダビッド・ペトリのチェロ)でミカラ・ペトリトリオを編成し、コンサートやレコーディングを行なっていた。しかし、突出した才能をかかえた家族が演奏を続けていくのは難しい。やがて多くの演奏家やオーケストラと共演するようになる。
そうした中で、ギター、リュート奏者であるラース・ハンニバルと出会い、1992年からデュオのコンサートを開始する。共演のディスクも発売された。1994年に「Souvenir」(邦題「愛の贈りもの」)を発表し、その3年後には「AIR」(邦題「G線上のアリア」)が出ている。この頃、ペトリとハンニバルは結婚しており、「愛の贈りもの」というタイトルや「AIR」のジャケットデザインにはそれが色濃く反映している。

「AIR」はわたしが買ったミカラ・ペトリの最初のディスクである。それまでにも、彼女が参加しているCDを手にしていることがあったかもしれないが、ミカラ・ペトリがいるということを意識したことはなかった。だが、「AIR」にはリコーダーの演奏家として強い存在感を示す女性がいた。ディスクはサティの「ジムノペディ1番」からはじまる。このCDがどれくらいペトリ自身の意向が入っているのか、ハンニバルの意見が反映されているのか、またプロデューサーや製作スタッフの意図がはたらいているのかはわからない。ただ、最初にサティをもってきた選曲だけを見ても、これまでとは違うリコーダーのディスクをつくろうという意欲が伝わってくる。
「ジムノペディ」は1番、3番、2番の順で使われている。あたかもこのディスクに集めた曲を要所々々で束ねるように最初と真ん中と終わり近くに配されている。このサティの曲がどちらかというと暗い色調を帯びているせいもあって、そのほかの曲の演奏がことのほか明るい。グリーグの「25のノルウェイの民謡と踊り」からの5曲などは当然としても、「悪魔のトリル」として有名なタルティーニのソナタ、ト短調も超絶技巧を極めるデモーニッシュな印象などさらさらなく、ただひたすら軽快で明るい。天衣無縫とはこういうことをいうのだろうか。こうしたところは、もっと以前の録音を聴いても変わらない彼女の特性と言える。

もうひとつ、このディスクの特徴は、全体にみなぎっている幸福感にある。わたしは演奏家の私生活の状態で演奏をとやかく言うのは極力排除したいと思っているが、手をつないで駆け出した二人の写真の白いジャケットも、天稟にさらに磨きをかけた明るいリコーダーの音色も、結婚式のアルバムを開くような香気に満ちている。ペトリはハンニバルに出会って、それまで演奏のことばかり考えて閉ざされていた自分が開放されたというようなことを言っている。ここに収められた曲はことごとくその幸せがあふれているような演奏だ。こう書くと情感に流れそうだけれど、それを引き締めてとどめているのが、3つの「ジムノペディ」とミカラ・ペトリの技術だと思う。正確な音程、揺るぎない運指は誰にも真似できない。バロック演奏の知識のなさや使用楽器の歴史的な曖昧さを指摘する人もいるようだが、無意味なことだ。学問としてオーセンティックな演奏を追求するのが無価値とは言わないが、ミカラ・ペトリはそういうところで音楽をしていない。

リコーダー奏者ミカラ・ペトリについて書けば、当然フランス・ブリュッヘンに触れなければならない。ミカラ・ペトリが登場するまでは、リコーダーといえばブリュッヘンだった。しかし、ミカラ・ペトリがリコーダー演奏の天才だとすれば、ブリュッヘンの才能は音楽そのものを構築していく方向に向かっている。彼は、ニコラウス・アーノンクールやグスタフ・レオンハルトとともに、バロック音楽を中心としたレパートリーの演奏を続けた後、世界中の優秀な古楽演奏家を集めて18世紀オーケストラを結成する。彼らの演奏は、その前に41番までの交響曲を70曲以上として全集を仕上げて当時の音楽界をあっと言わせたクリストファー・ホグウッドのモーツァルトを演奏面で凌駕していく。ブリュッヘンは古楽器や楽譜の検証を重視しながらも、それよりもさらに音のひびきや音楽性の高さに重きを置いた。それは1985年以降、矢継ぎ早に繰り出された録音を聴けば明らかだ。シューベルトのハ長調の大交響曲(D944)など、フルトヴェングラーの次に来る名演だと信じている。

ブリュッヘンとペトリと、録音している曲に重複はたくさんあるが、耳にしたときの心地よさはミカラ・ペトリが圧倒的に勝っている。かつて「リコーダーの妖精」として華々しくデビューし、いまもリコーダーの第一人者として広範なポピュラリティーを獲得しているのも頷ける。しかし、もう一度聴こうということになると、ブリュッヘン盤を選ぶことが少なくない。彼にとって古楽の研究は、そのまま自身の音楽を深めていくことにつながっていたように思える。18世紀オーケストラは毎年世界各国をまわるツアーに出る。最後にオランダに戻ってきて最後の公演を行ない、その録音をディスクにするという活動を繰り返していた。そんな彼らの傑作のひとつにモーツァルトの「レクイエム」の録音がある。
これはオランダではなく、日本各地でコンサートを行なった後、東京の最終公演が録音されたディスクだ。当日のコンサートのままに、「フリーメーソンのための葬送音楽」、「クラリネットとバセット・ホルンのためのアダージョ」そして「レクイエム」の順で納められている。全体に抑制された表現をとっているが、内に秘めた力が伝わってくる演奏になっている。「レクイエム」の間に歌われるグレゴリオ聖歌も典礼の雰囲気を高めていて、ブリュッヘンが常に音楽表現として最高のものを求めながら、古楽演奏を続けているのがわかる気がする。一度聴いたら胸の底の方にいつまでも沈んでいるような音楽になっていて、何度も繰り返し聴けるものではない。

 

 

 

 

@140610  音の羽

 

萩原健次郎

 

 

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は、ね、
ねっ
それは、虫の
それとも鳥の
人の根に響く、蒼空の
雲の根、骨、ね、

迂回して、濃緑の木の根の道を歩いていくと陽は
斜めからさして、匕首になり、陽の匕首は、時刻
によっては、鋭利に光り、錆びて病んだ鈍い面を
見せたり、陰が、その尖りを消したり、それはも
うまたたく刹那で、明滅している。
はようみいひんかったら
光の三角も、滅んでしまう。

数をかぞえる、猫の声
魚の声
草の声
ぴちゃぴちゃにゃあにゃあ、ふうふうと
ね、
恋去り
小唄かよと
ひるがえっている
きれいな舞いすがたに
ね、
からむ脚が、
きゅっきゅっ言う。

白昼を服す飲料に混ぜた羽の音の粉々にあたりの
松もその下の薊も被せられて息できなくなってう
ろつく犬ころも猫撫声もふわふわしている種子も
骨肉のすべてが粉末になって枠どりされるそれも
真実の世と記されているから一旦はああ本当だと
驚いてみるがただ匕首で切り刻まれたただの世の
切れ端にすぎず生きた証と言ったら犠牲になった
犬にも薊にも笑われる

わたしにも
根が焼けると
思うことがあって
すこし冷やしてから
きょうは帰ろうと
思う頭が
は、ね、
根は焼けずに
夕照と音羽の真水に溶かされて
麦の筒で吸われる。

世、根、
吸われて、
どこかの胃にいるのは。

 

 

 

収穫することにやぶさかではないが・・・

根石吉久

 

サツマイモ予定地
サツマイモ予定地

 
ブラウザに公開される「ページ」というのが、フェイスブック上に作れるらしいと分かり、一つ作っているうちに二つできてしまったのが二年ほど前のことだった。片方を、語学論と称してきたものを掲載するのに使うつもりだったが、井上陽水の my house のURLなどを貼り付けて遊んで、放置してしまった。もう片方は、使い途が思いつかなかったので、そっちもそのままにしてしまった。
今年、畑に出たのは二月の終わり頃だっただろうか。アイフォンで写真を撮って、畑からフェイスブックに送ってみた。アイフォンでは文章が書きにくいので、写真だけ送っておき、夜、英語の仕事が終わってから、ビールを飲みながら短い文章を書くことが多かった。ごく短いコメントは、畑でアイフォンで書くこともしたし、畑から帰る途中、コンビニの駐車場に車を駐め、コーヒーを飲みながら書くこともあった。

畑でサツマイモを作り、去年作った石釜で焼き芋を焼き、焼き芋屋になることを予定しているとフェイスブックに書いたら、山下徹さんが、今年の秋、焼き芋を買いに行くつもりだと書き込んでくださった。神戸から長野まで、焼き芋を買いに来てくださるというのである。山下さんが、私の焼き芋屋の最初のお客様になるのだろう。

何年か前、サツマイモを作り焼き芋を焼いたことはある。その時は、ドラムカンを改造した窯で作ったが、焼き芋はうまくできた。
そのとき芋を作った畑と今年は畑が違う。今年、サツマイモを植える予定のところは、ずっと草を生やして放置しておいたところであり、草の根が土の中にびっしりと広がっている。耕さずに、ノコギリ鎌で草の根を切るだけで、サツマイモの苗を植えるつもりでいたが、少しは鍬を入れないと駄目だろうか。あのままでは、草の根に縛られたようになり、芋がふくらむ場所がないのではないか。
前に遊んだ時とは、窯も違うし、畑も違う。畑が違うからできる芋も違うはずだ。焼き具合も違うはずだ。どうなるだろうか。
その後、山下さんはフェイスブックの違う写真にコメントして下さり、秋、奥様も同行する予定だと書かれた。ううむ。お二人で来られて、しかも、うまく芋ができてなかったら、芋を買ってきて焼いて、ごめんなさいと言うしかないなと思ったが、問題はそれだけではない。山下さんは、奥様に農業指導をして欲しいと書かれていたのだ。

考え込んでしまった。

考え込むと言っても、どうせ私のことだから、30秒ほど考え込むことをしただけなのだが、その後、畑にいて、喉に魚の骨がひっかかったようなこころの状態になっていた。気になって何度も思い出すのである。農業指導かあ、と思うのである。

俺はいったい何をしてきたのか、と思うのである。

実に様々なことをしてきた。一貫していたのは、農薬・化学肥料を使わないということだけで、その他に一貫していたことは思いつかない。土手草を使ったり、キノコ栽培後の廃菌床を使ったり、30センチもスコップで掘って廃菌床を敷き詰めてみたり、土手草を畝の上に敷き詰めてみたり、最近では、畑の通路の草を刈り、天気がよければ一日か二日、天日で乾かして草の干物を作り、それを5センチ、10センチ程度に浅く埋めて土とまぶしたり、とにかくいろいろやってきた。
その時々で、手応えがあると人に話したりもした。こうやるとこうなるということを話して、人様がそのやり方を採用してくれ、試してみてくれることもあった。そのことで、その人に迷惑をかけたかもしれない。
例えば、川口由一の方法を試したときだが、「草は刈ってその場に置く」ということを試したのだった。川口はその方法は「誰にでもできる」と言うのだが、とんでもないことだった。確かに「刈ってその場に置く」というだけのことなら、「誰にでもできる」。刈ればいいのだし、その場に置けばいいのだから、ぎっくり腰をやっているとか、体が動かせないとかでなければ、私にもできる。しかし、このやり方は、いつも注意深く畑を見ていなければならない。草によっては、新しく出てきた芽が、刈って置いたものを持ち上げてしまって、枯れ草の下がスカスカになったりする。草が土に触れていなければ、雨が降ってやんでも、すぐに乾いてしまう。そうなれば、草はなかなか土になっていかない。その場合には、伸びてきた新しい芽をもう一度刈るようなことをして草を弱らせ、刈られて枯れた草が土に接しているか、土にごく近いところにあるように直さなければならない。手間がかかる。
「刈ってその場に置く」という行為自体は「誰にでもできる」が、絶えず畑を見ていて、細かく手を入れていくことは誰にでもできるわけではない。私の場合は、英語の練習用の教材を新しく作り始めたり、去年のように庭に石釜を作り始めたりしてしまうと、畑に行くことは激減する。それが、そのままこの方法の失敗につながっていった。一言で言えば、専業で「草は刈ってその場に置く」のでなければ、まずほとんど失敗する。

部分的なことを人に話しても、うまくいくとは限らない。
しかし、部分的なことだけ聞いて、それを試してみてくれた人はいて、その人の元でも、私の失敗と同じことが起こった。つまり、ただ単に畑が草ぼうぼうになったということである。草を刈って、その場に置いて、その場で草を育てているだけになったのである。作業全体の中には、どれだけ畑に時間が使えるかということも含まれている。川口はそのことには触れず、「誰にでもできる」と言っている。だから、「とんでもない」なのである。

川口の方法の後、ネットで知ったのは炭素循環農法と言われているやつである。炭素循環農法でキノコの廃菌床を使う場合は、菌床に糸状菌がまだ生きているうちに畑の土の浅いところに混ぜる。
山にある腐葉土などをひっくり返してみると、枯れた小枝などが湿り、白い糸のような菌が枝に沿って伸びているのが見えることがある。この白い糸のようなものが糸状菌なのだが、キノコ栽培後の廃菌床の糸状菌を生きたまま土に混ぜ込むのは難しい。
キノコの栽培工場と打ち合わせをして、廃菌床が出る日に一挙に畑に混ぜなければ、「生きたまま」の糸状菌を使うことはできない。野積みにすれば、糸状菌は発酵熱で死んでしまうのだ。それに、キノコの栽培工場から出たばかりの廃菌床を、その日のうちに土に混ぜ込むには、私の方で浅耕できる中型以上の耕耘機を持っていなければできないが、私は持っていない。少しだけ試してみて、廃菌床を使うことはあきらめた。

炭素循環農法のもう一つの資材は、畑やその周りに生える草である。川口由一の「刈ってその場に置く」でも、草は使ってきたので、草を干物にして土に浅く埋める方法でやってみることにした。

なぜかわからないが、川口の「刈ってその場に置く」だと、ドバミミズが殖える。雨上がりなどに、土の中から出て這っていたミミズが、急に太陽に照らされ、土の下に逃げ遅れて死んでいるのを見ることがある。場合によっては20センチもあるような大型のミミズである。この辺ではドバミミズと呼んでいる。鯉釣りの餌に使える。

単にミミズと呼んでいるのは短いやつだ。シマミミズも縞のないやつもひっくるめてミミズと言っている。大きくても5センチ程度、鮒釣りなどに使うのは、3,4センチ程度のもので、堆肥の裾などに棲んでいる。最近では堆肥の山を見なくなったので、ミミズもあまり見なくなった。
ミミズは、有機物がよくこなれていない土、土を掘れば土が腐敗に傾いていて、土が臭いようなところにいる。

炭素循環農法では、「ミミズのいるような土はよくない土だ」と言っている。ここで言う「ミミズ」が、この辺で単にミミズと言っている短いミミズなら、それはその通りなのだが、ドバミミズのいる畑の土は臭わない。ドバミミズは、有機物がこなれて、浄化され、清浄になった土にいる。
有機物は積み上げると腐敗しやすい。だから堆肥の裾にはミミズがいるのだ。これが、炭素循環農法がけなしている「よくない土」だ。それはその通りだが、炭素循環農法は、ドバミミズのいる土のことがわかっていない。ブラジル生まれの農法のせいなのかどうかはわからない。

草などを浅く散らし、絶えず土に直射日光が当たらないようにする場合は、草と土の接するところで、腐敗の過程が生じないまま、草は土に変わっていく。発酵熱も出ない。これが、川口由一の方法がうまくいった場合に起こることだ。これだと、ミミズはいなくなり、ドバミミズが急激に増える。釣りの餌に欲しいときは、畝の草を刈る。ドバミミズは草が刈られる音が嫌いなのか、草の根の震動が土を震わせるのが嫌いなのか、土から出てきて人の目に見えるところを這う。やたら体をくねらせているので、あわてているのがわかる。ちょっと草を刈れば、簡単にいくつも拾えるくらいに出てくる。こういうふうになった土はいい土だ。変な臭いはまったくしないし、林の中にいるときのようなにおいがかすかにする。野菜も育ちさえすればうまい。

だから川口由一の方法はいいのである。いいのであるが、手間が馬鹿にならないのである。手間まで含めて、「誰にでもできる」と言っているのではないのである。くどいようだが。

川口の方法を試しているとき、女房をどやしつけたことがあった。女房が通路の草を根こそぎ抜いたから、どやしつけたのだ。「草は刈ってその場に置く」ということを試しているときだったし、それを試しているのだと女房に伝えてあったにもかかわらず、草を根こそぎにしたからどやしつけたのである。それをやられたのでは、実験ができない。
うちの女房は大変強情で、伝えるべきことを伝えてあっても、それを無視して、勝手に自分のやりたいようにやる。別に百姓仕事に限ったことではない。相手が考えていることを「汲む」ということをしないのだ。あるいは、表面的な論理しか「汲む」ことができないのだ。「草は刈ってその場に置く」はきわめて表面的な論理だが、その時は、それさえ汲まなかった。無視した。だからどやしつけた。
どやしつけたあたりから、女房は畑を手伝うことはしなくなった。今では、私が一人でやっている。

炭素循環農法は、草を「置く」のではなく、「混ぜる」。これは別に独自性を主張できるほどのことではない。農薬や化学肥料が普及するまでは、どこででもやっていたことだ。独自性を主張できるとすれば、草を刈って少し放置し、干物にすることと、その干物を土の浅いところに埋めるのだと言い、「浅いところ」を強調したことだ。

「干物」という言い方は、私が勝手に言っているのであり、炭素循環農法では「秋のもの」と言っている。
春や夏に刈った草も、日干しにして枯れてきたものは「秋のもの」だと言っている。炭素循環農法を広めるためにネットのユーチューブによく出てくる人は、最近の日本人は、「秋のもの」という言い方で言っていることが伝わらないとぼやいている。枯れ葉や枯れ草の「枯れた状態」のことを「秋のもの」と言っているのだが、そんなふうに情緒的に言う必要はない。春に刈って乾かしたものは「春のもの」だし、夏に刈って乾かしたものは「夏のもの」だ。どっちも「干物」だと言えばいいことだ。

今やっているのは、炭素循環農法から得たヒントにもとづいている。しかし、去年の半年ほど、つまり春から秋まで、石釜を作っていたので、畑に通えなかった。そのせいか、野菜がまずい。サラダで食べられるはずの葉物野菜が渋みが強すぎてまずい。これじゃあ駄目でしょ、と思った。

川口由一の方法とまったく両立しないものは、今年の3月半ば頃から着手したポリエチレンの黒マルチの使用である。ビニールやポリエチレンを使った農法を、長年にわたってしゃらくさいものとして眺めていたので、ポリエチレンのマルチをするのは、私としては、完全な敗北である。これが完全な敗北であることは、別の原稿に書いた。

黒マルチは炭素循環農法とは両立する。ユーチューブで講釈する人は、草を「秋のもの」にして、土の浅いところに埋めるということだけしゃべっているのだと思っていたが、マルチをすれば「もっといい」と言っているのをたまたま聞いた。
ちょっと待てよ。マルチは、土と空気を遮断する。そのことで棲みつく微生物はまるで違ってくるはずではないのか。「もっといい」程度の違いで済むのか。嫌気条件を作って、「もっといい」などというのなら、これまでどうして草の干物を土の浅いところに埋めると言ってきたのだ。土の浅いところとは、好気性の微生物が活動する場所ということではないのか。そういうことも気になったが、炭素循環農法はポリエチレンやビニールを使うことは気にしないのだなと思った。

近所にゴミの溶融炉が建設予定だと聞き、自分で持っていた印刷機でビラを刷り、バイクで一軒ずつ村や町の家の郵便受けにビラを配って歩いたことがある。塾に英語を習いに来る生徒が激減した。
ビラにプラスチックを燃やすなということを書いたこともあり、プラスチックやビニールやポリエチレンの「使用後の行き先」「使用後の処理法」が気になるようになった。炭素循環農法は、そんなことは気にしない。
私は、破れたポリエチレンのマルチは、新しいポリエチレンの袋に入れ、畑の通路に浅く埋めようと考えている。草が生えにくくする用途になら長く使える。今のところ、それ以外の使い途は思いつかない。土で汚れたポリエチレンを行政に渡そうが、農協に渡そうが、どうせ焼却するか溶融するかどっちかだと思っているから、行政にも農協にも渡す気はない。

どうにも気になるのが、今年の野菜がまずいということだ。去年一年、畑に通う日が少なかっただけで、こんなにまずくなるのかというくらいにまずい。畑に毎日のように出られなくても、たまには草の干物を土に入れていた。しかし、入れっぱなしで、一月後くらいに土と混ぜ、有機物と土がよく接触するようにする作業はさぼった。渋みはそのせいではないかと推測している。土はなまものだとか、土は生き物だという言い方は、近代科学からは違うと言われるだろう。近代科学以後では、土は肥料分を含む細かい鉱物に過ぎないのだ。しかし、その言い方は科学的に正確であるだけだ。
川口の方法でやるとドバミミズが急激に増えるというようなまったく別の信号を受け取っている場合には、土は生き物だという言い方は非常に正確な言い方だと思う。

黒マルチの他に今年始めたことは、えひめaiというものを使うことである。
以前、EMがはやったことがあるが、微生物や酵素のブレンドを作ることでは、えひめaiもEMも似たような考えにもとづいている。
EMは「有用微生物」の英語の頭文字だが、要するに自然界にいる微生物の中から優等生を集めブレンドしたものである。えひめaiとブレンド具合がどんなふうに違うのかはわからない。というのは、EMは製法が閉じられていて、EM菌というものを消費者が買わなければいけないようになっているからだ。製法が非公開で、その利権を世界救世教が買ったというような噂を聞いた。

えひめaiは、製法が公開されている。

えひめaiで使うのは、イースト菌、納豆、ヨーグルト、砂糖である。これらを一定の割合で混ぜ、35度の熱で24時間、急激に繁殖させる。イーストや枯草菌や乳酸菌が砂糖を餌に繁殖し、酵素やアルコール(微生物の糞)を作り出し、酵素やアルコールが、土中の微生物のうち有機物を発酵させる性質のものを活性化させるのだろうと考えている。
えひめaiの作り方は、ネットで「えひめai」を検索すれば出てくる。えひめaiの元になっているのは、スーパーで買えるような「微生物の優等生」だが、優等生は自然界にただ置かれると弱いものだ。微生物のまま土に混ぜても、おそらく自然界の微生物の餌になるだけだろう。だから、35度の熱で24時間繁殖させるようなプロセスは人工的に行わなければならない。
えひめaiを作ることは、発酵菌を繁殖させ、腐敗菌を抑えるような性質の酵素を作ることだろうと推測している。

黒マルチの下に、ジョウゴで月に一度くらい注入してみようと思っているが、今年の野菜の味の悪さはどうなるだろうか。良くなってくれ。今年の野菜はうまくない。つまり、まずい。

農薬や化学肥料を使わないことの他に、もうひとつ一貫していたことがあると気づいた。土が良くなるのか、悪くなるのかにはいつも興味があったが、収穫できるかどうかにはほとんど興味がなかったということが一貫していた。だから、土や草をいじっているだけで、なんにも穫れないことがあっても、それはそれほど気にならなかった。
百姓をするのは、野菜を「穫る」ことが目的だろう、と言われてもピンと来ない。「穫る」ことにやぶさかではないが、そんなに興味がないのである。それよりも、畝の草を刈るとドバミミズがどんどん這いだしてくるとか、草の干物を埋めようとして、土を浅くどかすとき、以前に埋めた草のせいで土がほっこり軟らかくなっているとか、土をどかすのに力が要らなくなっているということの方がずっと面白かったのだ。台所から出る生ごみを畑に持って行き、以前に生ごみと土を混ぜておいた山を割って、新しくて臭い生ごみをおしあけ、鍬で混ぜる。その時、えひめaiの数百倍液の水をかけてやると、生ごみのいやな臭いが消える。そういうことも面白かった。完全に腐敗の方向をたどり始めている有機物を、発酵の方向へ瞬時に転換させていることが、人間の嗅覚でもわかるのだ。

私は、広い意味でなら、発酵マニアの一人なのかもしれない。

発酵マニアの遊びであり、百姓仕事でも農業でもない。そういうふうに書いてみると、なんか、自分で、納得できる。自分がそういう者なので、山下さんの奥様に「農業講座」(徹さんの言葉だったと思う)はできないのだということがわかる。それを明らかにすることができれば、喉に骨がひっかかったようなこころの状態は、直るのではないか。

なにしろ、収穫を邪魔扱いしないまでも、目的とはしていないので、家族からは馬鹿にされっぱなしである。収穫するというだけのことなら、私よりも女房の方が上手なくらいだ。だから、女房は私を堂々と馬鹿にする。土佐のハチキンにつける薬はない。

こうしたらこうなったと言うことは、手間が許すかぎりなるべく公開していくつもりだが、同じようにやってみてわかったことは、やってみた方が公開して欲しい。私も参考にしたい。
自分が何をして来たのかということが、少しはっきりした。書いてみないと、はっきりしてこないものというものはあるものだ。

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