内田光子

 

加藤 閑

 

 

内田光子モーツァルト20番(旧盤)

内田光子モーツァルト20番(旧盤)

 

内田光子モーツァルト20番(新盤)

内田光子モーツァルト20番(新盤)

 

去年(2013年)の11月21日、京都西本願寺北舞台で演能があった。演目は「清経」で、シテは当代きっての名手、喜多流の友枝昭世。一般公開の舞台ではなかったが、その模様は12月22日にNHK教育テレビで放映された。

能「清経」は、平家の将来をはかなんで入水した平清経(重盛の三男)が、妻の前に現れてその有様を語り修羅道に落ちた苦しみを見せるというもので、世阿弥の真作とされている。筋立ても詞章もしっかりしており、抒情味溢れる人気曲である。

この日友枝昭世は、その抒情的な側面をいっそう際立たせる演技をしてみせた。清経のクセは、入水の様子を詳しく語って聞かせる長大なもの(本格の二段グセ)になっている。その途中、船の舳板に立って横笛を吹く場面に入る前に思い切って長い間をとった。ここは確かに見せどころなので見所(観客)の注目を集めたいところだ。しかし、「清経」は何回か観ているけれど、これほど大きな間ははじめて体験した。当然そのあとの、笛を吹き、今様を歌って身投げに至る動き(心の動きも含めて)は強調されて観る者に迫ってくる。

 

内田光子の弾き振りのモーツァルト(ピアノ協奏曲第20番ニ短調K466、2010年クリーブランド管弦楽団)を聴いていて、第三楽章の繰り返しのところの間があまりに大きかったので、この「清経」のことを思い出した。内田光子はもっとも日本人らしくない日本人だけれど、その「間」の扱い方をみていると非常に日本的と感じることがあると書いていた人がいるのを覚えている。そのときは面白い見方だと思ったし、今回「清経」を思い出したことを考えると、わたしの中にも内田光子の「間」と能の「間」に近しいものがあるという思いがあるのだろう。

実際、武満徹なども「間」とか「さわり」が日本の音楽に固有の美意識だということをくりかえし発言している。彼の場合は、そこに自分の音楽のアイデンティティーを求めていたという事情もあるように思う。琵琶や尺八をソロ楽器として書いた「ノヴェンバー・ステップス」その他の曲をはじめ、その指向はやがては雅楽を書く方向に向かう。武満徹の雅楽「秋庭歌一具」は一種土着的な雅楽の響きを西洋音楽の語法で洗練させた傑作だと思うが、彼が死の床で聴く最後の音楽が「マタイ受難曲」だったという話は、彼の音楽の根が彼自身の種々の発言以上に西洋音楽の土壌に伸びていたことを窺わせる。

 

そう思うと、内田光子の「間」もどれほど日本的と言ってよいのかと思ってしまう。そもそも「間」というものがそんなに日本固有のものなのか。誰だって何か重要なことを言おうとかしようとかする前は、言葉を飲み込んで息をつめる。それは半ば生理的なものだ。それを「間」といって意識化してきた歴史があるので、日本的な美意識の代表のように言われるのだろう。

もともと、内田光子という人は意識的に音楽をつくり、きわめて恣意的な演奏をする人だという印象が強い。もう十何年前になるが、先ほどのモーツァルト、ピアノ協奏曲第20番ニ短調K466の旧録音(ジェフリー・テイト指揮、イギリス室内管弦楽団、1985年)を初めて聴いたとき、他の誰とも違うモーツァルトという印象が消えなかった。それがテイト指揮のオーケストラと不思議と調和しているように思ったのだ。新録音は内田光子が自らオーケストラの指揮をとっているが、テイト盤にあった調和の心地よさのようなものはあまり感じられない。ふたつの録音を聴くと、別のものが出会うから調和があるのだと気づかされる。

 

やはり何年か前に、クリスティアン・ツィマーマンがピアノもトゥッティも思い通りの音楽にしたいと、みずから団員を集めてオーケストラを組織し、ショパンのふたつの協奏曲を録音して話題になったことがあった。(ショパン、ピアノ協奏曲第1番、第2番、クリスティアン・ツィマーマン、ピアノ・指揮、ポーランド祝祭管弦楽団、2000年)

内田光子も弾き振りをしているが、オーケストラの音楽づくりはものすごく独特というのではない。むしろオーソドックスな解釈と言える。それなのに、例えばシューベルトの「即興曲集」のCDを聴くと、内田光子の演奏はとても恣意的な音楽になっている。これは世評の高い録音だけれど、あまりにも内田光子の主張が全面に出ていて息苦しいほどだ。この曲に関しては、昔からツィマーマンの弾いたディスクが好きだった。さりげないと言ってよいほどの、清潔ささえ感じさせるような自然な音楽の流れ、それでいてツィマーマン以外の誰の演奏でもない。

同じシューベルトの最後のピアノ・ソナタ。(変ロ長調、D960)これも評判のよいディスクだし、わたしも内田光子の最良の録音のひとつかと思う。それでも何がいちばん印象にのこっているかというと、第1楽章の左手のトリルの驚くべき強さなのだった。もちろん美しい部分は多いのだが、このトリルに関してはなにか美しい体の動物に思いもかけず生じた瘤を見たような感覚が後々まで尾を引いた。

内田光子の演奏に対するこだわりは大きい。そのこだわりが曲とマッチすると非常に力のある音楽となるが、もともと個的なこだわりを普遍的な演奏にするために彼女が払う努力は相当なものに違いない。

 

最後にもう一つ、内田光子の素敵なディスクに触れておきたい。シェーンベルクのピアノ協奏曲(作品42、指揮ピエール・ブーレーズ、クリーブランド管弦楽団、2000年)を中心に、新ウィーン楽派のベルクやヴェーベルンのピアノ曲を収めたもの。ヴェーベルンの曲にもっとも惹かれたが、それはきっとわたしの好み。20世紀音楽をほとんど聴かないわたしに、これらの曲や演奏を比較して何かを言う力はない。かつて、クァルテット・イタリアーノがこれらの作曲家たちの弦楽四重奏の作品集を出したことがあったが、そのときもやはりヴェーベルンに惹かれた。ヴェーベルンには深い闇と黎明を暗示する沈黙がある。内田光子の弾くヴェーベルンにも沈黙がある。それがときとしてあの「間」にとても似ていると感じられるのは、沈黙も多く抒情と抒情の間に存在するからだ。しかし、内田光子の演奏は、このふたつは別のものだということを雄弁に語っている。