最終の
こだまで
帰ったのだ
家々の
灯りが
流れるのを見ていた
流れて
いた
灯りを
住むと生きるの間に
置いた
コトバも
置いた
ヒトは流れていった
コトバも流れた
ママと言った
ママと言って泣き叫ぶ
子どもが
駅のホームにいた
最終の
こだまで
帰ったのだ
家々の
灯りが
流れるのを見ていた
流れて
いた
灯りを
住むと生きるの間に
置いた
コトバも
置いた
ヒトは流れていった
コトバも流れた
ママと言った
ママと言って泣き叫ぶ
子どもが
駅のホームにいた
丹波の国は、いまは京都府と兵庫県に分かれていますが、古くから京の都のすぐ近くにあって、山城、摂津、播磨、但馬、丹後、若狭、近江の7カ国に接し、わが国の分国のなかでも重要な国のひとつでした。
しかし江戸時代のはじめに関祖衛という人が著したといわれている『人国記・新人国記』で紹介されている丹波の人々の印象は、けっして好ましいものではありません。
「この国の風俗は、人の気懦弱にして、めいめい自分勝手、己れを自慢し、他人の非を謗り、他人の素晴らしいところを悪くいい、まるで女の腐ったような心を持っている。百姓は農業だけを専らにしないで商売を兼業し、金もうけしようとする。すべてに勇気を持つこと少なく、やたらに人に諂い、昨日の味方も今日は敵となり、あわれむべき世渡り第一主義といえる。
思うに、この国は四方が山々にとりかこまれ、みな谷間の人家である。冬の雪も北国ほどではないにしても相当なものだ。偏屈で了見が狭いのは、そんな風土からきているのであろう。人の性格が堕弱なのは、この国が都に近く、その乱れた風俗を見るにつけ自然と気持ちがくずれて素朴で飾らない気質を失ってしまったのであろう。
とくにひどいのは婦人のだらしない風俗であって、どうしようもないほどである。しかし能力のある人が生まれてきたならば、気持ちの柔らかな意地で成立している社会であるから、無双の人も出現するだろう。戦乱の世にあってこの国を治めようとすれば、たった5日でおさまってしまうであろう」
と、ほぼ全面的にコテンパンであります。
この女性の風俗の乱れについては相当有名だったようで、おなじ江戸時代の中期に諸国の民謡を集めた『山家鳥虫歌』では、前の著作をなぞるように、
「此の国都に近く其の風を倣ひ、とりわけ婦人の風締りなし。此所に多く蚕を飼ふ」とありますが、「締りなし」と書かれるくらいですから、それ相応の事実がその当時にはあったのでしょう。
ところで丹波の国の綾部というところは、この国のひとつの中心地として大和朝廷と共に栄え、奈良時代に入ると由良川沿いの低地では桑が栽培され、養蚕業が盛んになりました。
養蚕機織を主な生業とする秦氏、漢(あや)氏がこの地に渡来し、大きな勢力を持っていたといわれ、「綾部」という地名も、江戸時代のはじめまでは「漢(あや)部」と記されていたそうです。
時代がさがって明治に入ると、綾部の養蚕業は次第に盛んになり、明治29年には波多野鶴吉という人が、郡是製糸という会社を創設しました。現在の「グンゼ」ですね。
この波多野鶴吉翁の鼻の欠けた立派な銅像が、綾部の市街地を見おろす寺山の麓に立っています。なぜ鼻が欠けているかというと、翁は若き日にさんざん女道楽をして性病に罹ってしまい、鼻はその後遺症だというのです。
いわば身から出た錆で自業自得なのですが、それからが凡庸な私たちとはまったく違います。この不名誉な事件に懲りた翁は一念発起し、この地方有数の養蚕教師となって何鹿(いかるが)郡蚕糸業組合を設立。丹波の綾部の養蚕技術を日本全国にとどろかせたのでありました。
またこの実業家は熱心なキリスト者としても有名で、彼が設立した前述の「郡是」という会社は、単なる製糸会社ではなく、一面では人格の陶冶のための宗教的組織、他の面では地域社会における経済的文化的拠点という要素を兼ね備え、何鹿(いかるが)郡のセンターに屹立していました。
明治という時代の特性を頭においても、この時代のこの国に、これほど浪漫的で理想主義的な企業はそれほど多くはなかったでしょう。
まあそんな次第で、「蚕都」綾部を代表する「無双の人」のこそ、この波多野鶴吉翁に他ならなかったのです。(じつはこの盆地には、あの大本教を立ち上げた出口王仁(わに)三郎というもう一人の「無双の人」がおりましたが、彼についてはまた改めてお話したいと思います。)
ところで、さきほど引用した『山家鳥虫歌』は、丹波の女性の風紀と養蚕を結び付けて奇妙にエロティックな記述をしています。
「前に出でてあるものに感ずるといふ事、不思議なるものなり。蚕は性の霊なるものにて、物に触れ形をなす」
さあ、これはいったいどういう意味なのでしょう。ちょいと飛ばして、次を読んでみましょう。
「中国の漢の時代にある寡婦が、ある夜どうも寝られないので、枕によりかかって自分の家の壁が崩れているところから、お隣の家で蚕を飼っているのをなんとなく眺めていた。その蚕はちょうど繭を作っているところだったが、出来あがった繭を見ると、その女の姿形によく似ていた。目許、眉のかかり具合などははっきりしないが、物思う女の形をしていたのを、琴の名人の蔡中郎(さいちゅうろう)という人が金に糸目をつけずに買い求めてきて、その琴の弦にして弾いたところ、その音はじつに哀れに聴こえた。
その寡婦が蚕になったのではない。ただ蚕の性の霊のせいだ。人間は万物の霊である存在だから、いろいろ奇怪なことを引き起こすと思うかも知れないが、そんなものは表面だけのことであって、いちばん奇怪なるものの正体は、『陰陽二気』だけだという事をしっかり考えるべきべきだ」
読みながら私は、ある夏の日の午後、丹波の綾部の蚕糸試験場の無人の一室に放置された何千何万という蚕たちの純白の群れが、上になり下になり、鈴なりになってムシムシと不気味な音をたてながら、桑の葉をむさぼり食う光景を見て、なぜか心が凍るような戦慄を覚えたことを思い出しました。
このように、蚕に“性霊のささやき”が天与されていて、一種の性的な霊媒の気を持つ怪しい虫であることは、かなり早くから世に知られていたのです。
みなさんの中には今村昌平監督が1963年にメガフォンを取った『にっぽん昆虫記』で、左幸子さんの左肢の内側のところを秘所に向かってゆっくりと這い上ってゆく第五齢の白い蚕の姿を覚えている方がいらっしゃるかもしれません。
あれなんかも、蚕が性の霊なるもので、物に触れ、形をなす、その寸前の怪しい雰囲気をなかなか巧みにとらえていたと思います。
ともあれ、丹波の国に綾部という町があり、その綾部の中心に一匹の巨大な蚕が蠢いていて、その蚕の中心に性霊が渦巻き、その渦巻きの中心にひとりの哀しい女が佇んでいる。
綾部という言葉を耳にすると、私はどうしてもそんなイメージが浮かんでくるのです。
空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空次回へつづく