マリア・カラスの7分間の超絶的アリア

音楽の慰め 第26回

 

佐々木 眞

 
 


 

昨年は、不世出のソプラノ歌手マリア・カラス(1923年12月2日 – 1977年9月16日)の没後40周年でしたので、私は彼女の記念アルバムを毎日のように聴いて過ごしました。

そのひとつは彼女が1949年から1969年までにスタジオでレコードした全69枚のCDセットです。1枚140円の廉価盤(MARIA CALLAS 「The Complete Studio Recordings」)でしたが、まず49年11月8日から10日にかけてイタリアのトリノで録音された最初のリサイタルを聴いて驚きました。

アルトゥーロ・バジーレ指揮、トリノ・イタリア放送交響楽団の伴奏に乗せておもむろに歌いはじめた「イゾルデの愛の死」は、録音こそ古いものの、まさしくカラスの胴間声そのもの。いささか青臭く、なんとなく自信なさげで、未熟といえば未熟な歌唱ではありますが、時折聴こえてくる、どすの効いた迫真のサビとうなりは、すでに彼女の自家薬籠中のものとなっています。

そうなのです。ハイCで切開される鋭い線のような高音はもちろんですが、このブルブル震えるような低音こそが、カラスなのです。

一度聴いたら二度と忘れられなくなる、懐かしくも恐ろしいその声。聞く者の内臓に食い入り、深々と肺腑をえぐっては泣かせる、この表情豊かで戦慄的なバスの音色こそが、カラスという人の専売特許なのでした。。

ベルリーニの「ノルマ」と「清教徒」からのアリアの抜粋も、じつに見事なもの。まさに「栴檀は双葉より芳し」を地でいく鮮烈なデビュー振りといえるでしょう。

今度は一転して、最晩年のカラスを聴いてみることにしましょう。1969年2月と3月にパリのサル・ワグラムで録音された、本当に最終期のカラスの歌唱です。

カラスは、ニコラ・レッシーニョの指揮するオルケストラ・ドゥ・ラ・コンセルバトワール管をバックに、ヴェルディの「シチリアの晩鐘」「アッティラ」そして「イ・ロンバルディ」からの3つのアリアを、かすれるような声で懸命に歌っています。

その音程は下がり、あの豊かだった胴間声は激しくきしみ、さながら魔女の断末魔の叫びのようにも聴こえます。
しかしその蹌踉たる絶叫のなかに、私は無残な老醜を、それと知りつつ超克しようとする女の誇りと意地のようなものを感じ取り、一掬の涙を銀盤に灌いだことでした。

この永久不滅の名盤に続いて、今度は彼女のライヴ公演のリマスター盤「マリアカラスライヴ録音1949-1964」(MARIA CALLAS LIVE「remastered live recordings1949-1964」)が登場しました。42枚と3枚のブルーレイ・ディスク、それに貴重な写真を収録した小冊子の付いた超廉価の豪華版です。

ライヴで一入燃えた彼女の真価は、前記のスタジオ版よりも、こちらのほうで発揮されているようです。
たとえば1952年4月26日、フィレンツェ五月音楽祭でトゥリオ・セラフィン指揮フィレンツェ市立劇場管弦楽団に伴われて歌ったロッシーニ「アルミーダ」第2幕のアリア「甘き愛の帝国では」においては、なんと驚いたことに、あの高い、高い、高いニ音が、3回!も、しかも音程をはずすことなく! トリルの連続する超絶技巧で歌われていて、聴く者を圧倒します。

満員の聴衆はもとより指揮をしていた彼女の恩師セラフィンも、この驚異的な7分間には、思わず息をのむほどびっくり仰天したのではないでしょうか。

 

老ゆるともカラスはカラス鶴の声宇宙の彼方にさえざえと響く 蝶人

君知るやカラスの後にカラスなくひばりの後にひばりなきこと