由良川狂詩曲~連載第24回

第7章 由良川漁族大戦争~赤目の謎

 

佐々木 眞

 
 

 

「おや、あれは何だ」
と、ケンちゃんが、もういちど確かめるように見やったときには、その赤い点は、すっと消えていました。

ケンちゃんは、後続の若鮎特攻隊に、テテレコ・テレコ、すなわち「俺に黙ってついてこい」の信号を送りながら、スロットルを起こし、再び川底からの急速浮上を開始しました。

さすがにこの深さですと、水温もかなり低く、ケンちゃんは思わず、ブルルと身震いしました。
いつもは柳の木が茂る水面のところからかすかに光が差し込んで、見通しもそんなに悪くないのですが、今日に限って水がよどみに淀んで濁り、一足キックするたびに、泥がそこいら全体から湧きおこってくるような錯覚にとらわれます。

5メートルほど上昇した時だったでしょうか、ケンちゃんは虫の知らせか、なにげなく後ろを振り返りました。

アユたちが見当たりません。

ついさっきまで、ブルーハーツの「リンダ・リンダ」と、山本リンダの「狂わせたいの」をかわるがわる歌っていた、可愛らしいアユたちが一匹もいない!
ケンちゃんの背筋に、冷たいものが走りました。

冷たいものとは、何でしょうか?
それは単なる冷や汗とか、摂氏零度の寝汗とかの生易しい水分ではなくて、
「もしかしたら僕の12年の生涯が今日終わってしまうかもしれない」
という恐怖のH2Oが、ケンちゃんの全身を、ぐっしょりとおねしょのように濡らしたのでありました。

………そして心臓がかき鳴らす驚愕と恐怖の二重奏を聞きながら、茫然と立ち泳ぎするケンちゃんの目の前に、さっきちらっと見かけた赤い点が、再び現れたのです。

しかも、二つ。

いつの間にか、あたりは漆黒の闇にとざされ、真夜中のエルシノア城を思わせる深く濃い闇の奥底で、ケンちゃんをじっと凝視している、不気味な二つの赤い点。

その赤い点は、突如サーチライトのように強い光を放ちながら、ネモ艦長が運転するノーチラス号のようなものすごい速さで、ケンちゃんに接近してきました。

4メートル、3メートル、2メートル。

あと1メートルの至近距離までそいつがやってきたとき、ケンちゃんは、口にくわえた短刀を利き腕の右手に持ちかえ、東大寺南大門の金剛力士のように、そいつの前に立ちはだかりました。

怒涛のように押し寄せる巨大な黒い影の最先端。そこにはおよそ15センチの間隔で、2つの瞳孔が真紅の色にキラキラ輝いています。
全身、黒と金で覆われたいかつい無数のウロコがすべて逆立って、「お前を殺すぞ!」と威嚇しているようでした。

実際そいつは衝突を回避するてめにケンちゃんとすれ違いざま、押し殺したような声で、「俺は、おめえをゼッタイに殺すぜ!」
と囁いたのでした。

その声を耳にした途端、ケンちゃんは、初めてそいつの正体を知りました。

――目が赤い。赤目、赤目、アカメ。そうだ。こいつはアカメだあ!
泳ぎながら、オシッコをちびりながら、ケンちゃんは、学校の図書館で魚類図鑑を眺めたおぼろげな記憶を呼び戻しました。

「アカメ。学名LATES CALCARIFER。熱帯性の淡水魚で、日本、台湾、中国南部、フィリピン、東南アジア、インド洋、ペルシア湾、オーストラリア北部などに分布。日本では宮崎、高知の両県にのみ棲息。」

――確かそう書いてあったのに、なんでこいつが京都府の由良川の上流にいるんだよ!

「大河川の河口部やこれにつづく入り江に棲むが、純淡水域にも侵入。餌はエビ類、小魚など。」

――アユがなんで小魚なんだよ。僕の友達をみんな食べちまって。でもいくら腹を空かしているからといって、まさかお前は、人間様まで喰ってしまおうてんじゃあないだろうな。

「産卵習慣は不明だが、稚魚は秋から出現する。食用。南方地域では重要魚。」

――くそっ、南洋ではお前は人間にバンバン食べられてるからって、由良川でその仕返しをしようってか!

「日本では分布が限られているので、一般には知られていない。ふつうに漁獲されるのは50センチ以下の未成魚。

――しかし、このアカメときたら、全長ゆうに2メートルはありそうだぜ。

Woooおおう!

無我夢中でとびのいたケンちゃんの、やわらかなお腹のあたりを、先端が鋭く尖った6本のナイフを1本に束ねたような真黒な背ビレが、横なぐりに襲いました。

あの6段のギザギザにちょっとでも触れようものなら、ケンちゃんの手足は一瞬のうちに切断されてしまうでしょう。それは背ビレではありません。完全な凶器です。

アカメの背ビレの強襲が空振りに終わって、やれやれと一息ついたせつな、「てらこ」のお店においてある座布団くらいの大きさの真黒な尾ビレが、ケンちゃんに顔をまともに一撃しました。

右のほっぺに、深さ3センチの裂傷を、7か所にわたってつけられたケンちゃんは、一瞬意識を失い、川底めがけてまっさかさまに落ちていきました。

 
 

つづく