くるくる回る、はなの歌

 

村岡由梨

 
 

夫とケンカした夜のことです。
私が真っ暗な部屋で一人ぐずぐず泣いていると
はなが そっと やって来て
「ママ、ほら、しゃんとして。
嫌なことがあったら、紙に書くとスッキリするよ」
と言って、
その日は、私に寄り添うように眠ってくれた。
かすかに香るシャンプーの優しさに、
ポロンポロンと涙がこぼれた。

シャワーを浴びていたら
立ち上る湯気の奥に視線を感じて、
曇ったすりガラスに、はなの顔。
見事なブタっ鼻を披露して笑わせてくれる。
すーっ すーっ
ガラスの曇りに、指が動く。
なぞるとお風呂場に咲く


の文字。
嬉しくなって、私も


と書き返す。

魚介類が苦手な、はな。
でも、回転寿司は大好き。
ピアノの鍵盤をたたくみたいに
手元のタッチパネルを ぽーん ぽーん
はなの指先は迷わない。

むしエビ むしエビ たまご
オレンジジュース
むしエビ いくら
エビ エビ エビ エビ
フライドポテト

青い皿に、エビのしっぽの花が咲く。
「ヘンショクなんて気にしない ガイショクだもん」
食べる姿が、きもちいい。

「全部で幾らになるかな?」
お皿を数えるねむと、食べるはな。
13歳と11歳。
くるくる もぐもぐと
よく回転する姉妹です。

帰り道、ごきげんな はなが
クルンクルンと側転する。
一瞬の夢のように消えてしまう、小さな白い観覧車。
ショートパンツからすらりと伸びた肢体に
思わずドキッとしてしまう。
けれど、私にとっては、いつまでも
ちいさなちいさな かわいいはなちゃん。

 

今日も、ダダダダダッと走って帰る音がする。
ダダダダダッ
ブオゥンと風が吹く。

「ただいまー!」

 

 

 

青い海

 

深夜に

水をやった
枯れ木に水をやった

春に白い花をつけた
小梅だったが

この夏
枯れた

旅行から帰ったら枯れていた

若い頃

狂気から
助けを求めてきた

きみを
助けられなかった

青い海を
見ていると

死んだ者たちの顔が浮かぶ

笑っている
白い歯で笑っている

わたしも笑っている

 

 

 

きょう東京は曇り

 

駿河昌樹

 
 

きょう
東京は曇り

グレーと
ホワイトと
ところどころ
ヴァイオレットの
重い雲
軽い雲

ずいぶん安易な重ねかたで
シンプルな
マーク・ロスコ

曇天が
どんなに美しいか
見続けていて
しみじみ
確認し直している

曇り空が大好きだったエレーヌ・グルナック
「見飽きない…
「ほんとうに大好き…
なんどとなく
宇宙空間に放たれ
すがたを消したようでも
どこか
星雲のあたりを
どこへ向かってか
直進中の
そんな言葉たち

きょう
東京は曇り

グレーと
ホワイトと
ところどころ
ヴァイオレットの
重い雲
軽い雲

 

 

 

長尾高弘著「抒情詩誌論?」を読みて歌える

 

佐々木 眞

 

 

「抒情詩誌論?」という不思議なタイトルがつけられていますが、著者も腰巻で談じているように、別にいかめしい詩論とか格調高い論考なぞではまったくなくて、あえていうなら、「ただの詩集?!」ですので、良い子の皆さんは、けっして敬したり遠ざけたりしてはなりませぬ。

実態はその逆で、まことに口当たりがよくて読みやすく、これほどノンシャランでとっつきやすい詩集なんて、いまどきどこを探してもないでしょう。

それは著者が、普段通りの話し言葉、ざっかけない日常の言葉で、読者に向って、(というより著者自身に向って、かな)語っているからなのですが、かというて、その語りかけや自問自答の内容がつまらないとか面白くない、なんてことはさらさらないのが、私としては不思議なくらいです。

著者の飾らぬ人柄にも似て、さりげなさの中に人世の信実や知恵がくっきりと浮き彫りにされ、独特の滋味やユーモアが漂うという、そんなまことに味わい深い玄妙な詩集。
あえて言うなら「現代詩」に絶望している人に薦めたい1冊です。

ではいったいどんな詩集なのかと迫られたら、ぜひ「らんか社」のたかはしさんに電話して、実物を取り寄せて読んでみてほしい、と答えるしかないのですが、とりあえず「ものづくし」という定義集のような作品の中から、いちばん短いのをご紹介して、おしまいにしたいと存じます。

「サンドイッチ」
足を伸ばして寝ていたら、
ふとんごと食われてしまった。

さて、久しぶりに素敵な詩集を読んだおかげで、私も久しぶりに抒情詩ができました。
ありがとう、長尾さん。

「パンドラの星」

昔むかしあるところに、1人の詩人がいました。

地上では誰ひとり自分の詩を読んでくれません。
はてさて、どうしたらいいだろう?
いろいろ夜も寝ないで考えていると、突拍子もないアイデアがおもいうかびました。

地球がダメなら宇宙があるさ。
宇宙ロケットで詩集を打ちあげたら、もしかして水星人やら金星人、火星人、木星人たちが読んでくれるのではないだろうか?

そこで詩人は、毎晩毎晩夜なべして、糸川博士にならって超ローコストなペンシルロケット作りに熱中しました。

構想1秒、実践3年。
先端部に「らんか社」から刊行された500部の処女詩集「これでも詩かよ」を搭載した「あこがれ」1号が打ち上げられたのは、西暦2020年、十五夜のお月さまが東の空に皓皓と輝く師走の夜のことでした。

「あこがれ」は、秒速20キロの速度で大気圏を離脱し、長い長い航海に旅立ちましたが、やがて35億光年の彼方に到着しました。

そこでロケットが、あらかじめセットされていた通りに先端部の蓋を開け、500部の詩集を広大な真空地帯にまき散らすと、まっしろな詩集たちは、無明長夜の闇の中を、白鳩のように羽ばたきながら、パンドラ銀河団めがけて舞い降りていきました。

詩人の処女詩集「これでも詩かよ」が、パンドラの箱文学賞を受賞したという第一報が、超長波電磁波に乗って地球に到着したのは、それから間もなくのことでしたが、残念なことには、その地球も、その詩人も、もはやこの世のものではなかったのでした。

 

※らんか社ホームページ
http://www.rankasha.co.jp/index.html

 

 

 

 

みわ はるか

 
 

鍋の具材をスーパーで見ていた。
ネギ、豆腐、しいたけ、えのき、つくね団子、ウインナー、もやし、お肉・・・・・・・。
ぐつぐつ煮たっている鍋の様子を想像する。
時々ピシャッとつゆが飛んだりする、
時間とともに出汁のいい香りがしてくる。
野菜はしんなりして、お肉の赤身は消える。
みんなが一つの鍋の中で、色んな色で輝いている。
それを友人みんなでのぞきこむ。
ただただ見つめる。
そんな時間が好きです。
そんな風に一緒に時を過ごせる友人は宝物です。
ずーっとこの時間が続けばいいのになと思う。
でもきっとそれは無理なんだろうなとぼーっと鍋の湯気にあたりながら感じる。
みんなそれぞれにライフステージがあって、優先順位が変わってくるから。
何から食べようかなんて考えてなくて、鍋の会が終わった後のことを考えている人がいるかもしれない。
来週末の予定を練っている人もいるかもしれない。
鍋のことだけを考えている人が一体どれくらいいるんだろう。
友人は大切だけれど、もっともっと大事なものがみんなの周りにはたくさんあるような気がする。
煮立ちすぎた鍋は味が濃縮して何度も咳き込んだ。
しめのご飯を投入した鍋はそんなにおいしくなかった。

 
私事ですが、最近調子があまりよくないようです。
短いですがこれだけしか書けません。
でもこれからもずっと書き続けたいと思っていますのでよろしくお願いいたします。

 

 

 

味噌づくり

 

塔島ひろみ

 
 

カビが気持ち悪くて学校を辞めた
顕微鏡を覗くと 動いている
ふくらむ 芽を出す 増殖する
カビは溌剌と、黄金色に照り輝き、みなぎる生命力を発出していた

キモかったよね、と、友達が言う
友達と水道でカビを扱った手を洗う いつまでも洗う
ハンカチを忘れた友達にハンカチを貸す
友達の手がぐにゃぐにゃと動いてハンカチに擦りつけられている
掌に刻まれた細かい手筋が、彼女のアイデンティティーをハンカチに擦りつける
返されたハンカチを そのあと私はゴミ箱に捨てた

自転車で夕暮れの中川べりを家に向かう
風が吹いて柵に絡みついたヤブガラシがやわらかく揺れたあと
巻きひげをスルスルと空中に伸ばし、何かをつかもうとするのを見た
慌てて、逃げるように自転車をこぐ

生きているとは何ておぞましいことなのだろう

私たちは学校で味噌を作る
カビが他の生物を分解吸収して老廃物を放出することを〈腐敗〉というが、この現象で人間に有用なものが生じる場合、それは〈腐敗〉ではなく〈発酵〉である
そう教える先生の首筋の毛孔から汗がにじむ
毛も生えている
それに向き合って、35個の胞子が首を揃え、頭からニョキニョキと発芽を始めた
吐き気を催してトイレに行くと 鏡に映った自分の頭からも芽が出ている

私たちは大豆をぐしゃぐしゃにすりつぶしてミソを仕込んだら、次は誰かが殺した豚を使ってハムを作る
私たちの生理は、成長は、腐敗ではないのか
顕微鏡で見たら私たちの増殖は、アスペルギルズの増殖よりはるかに気持ち悪いものではないのか

コトちゃんは学校に行けなくなり、退学した
精神疾患だと診断された
レントゲンを撮った医師は、コトちゃんの神経がS字に曲がっているのを発見した
「普通はまっすぐなものがこんな風に曲がっています。治療して修正していきましょう」
そう言ってコトちゃんの歯茎を開いた医者は
コトちゃんの神経が薄桃色に美しく輝き、ゾワゾワと蠢き、優しく膨らんでいくのを見たのだった
コトちゃんの曲った神経は、溌剌と生きていた
医者は神経をそのままにして歯茎を閉じた

私たちは1年かけて人間に有用な味噌になる
コトちゃんは何になるだろうか。

 
 

(11月6日 江橋歯科医院診療室で)

 

 

 

さとう三千魚詩集『貨幣について』―外に出ろ

 

長尾高弘

 
 

さとう三千魚さんの『貨幣について』をまとめて読んで、叙事詩の一種のような感じがした。
「まとめて読んで」というのは、その前にバラで読んでいるからだ。彼の詩にはすごいリズムがあって、そのリズムだけで何も考えなくてもこれは詩だと思ってしまう。私はちょっとそこのところで壁にぶつかって先に入れてなかったような気がする。

彼の詩は、たぶんまずTwitterやFacebookで断片的に一部が現れ、ひとつのまとまりになったときに改めてTwitterやFacebookに発表され、ほぼ同時に彼が主宰しているネット詩誌の「浜風文庫」に掲載されるのだと思う。私はFacebookで直接かFacebookでの告知によって「浜風文庫」でかといった形で、この本のかなりの部分をすでに読んでいるはずだ(申し訳ないけど、しっかりと追いかけて全部読んでいたわけではなかった)。

そのようにバラで読んでいた『貨幣について』の諸篇(つまり、詩集で番号が付けられている2ページから4ページほどの塊)は、これからいつまでも続くんじゃないだろうかと思っていた前の詩集『浜辺にて』の諸篇が「浜風文庫」からすーっとフェードアウトしてから、当たり前のように、それまでと同じもののように登場していた。少なくとも、ぼんやりしていた私にはそう見えた。

ところが、まとめて読んでみると、『浜辺にて』と『貨幣について』はまったく違っていたのである。単純に言って、『浜辺にて』は一つひとつの塊の独立性が高かったのに対し、『貨幣について』は塊が時間とともに数珠つなぎにつながっている。実際には『浜辺にて』の諸篇もまったくバラバラだったのではなく、時間に沿って間歇的につながっていて複雑な織物をなしており、中身をランダムに並べ替えられるような本ではなかったが、『貨幣について』は、それこそ「貨幣」という言葉を芯として40篇がしっかりとつながっている。うかつにも、私はまとめて読んでみるまで、そのことに気付かなかったのである。

しかし、本当の意味でこの長篇詩の叙事性に気付いたのは、それからさらに何度か読んでからだと思う。もちろん、今でも全部に気付いているわけではないだろうが、少しずつわかるところが増えてきて面白くなってきているところだ。

最初は、「貨幣」というテーマが天から降ってきたかのような印象を与える「どこから/はじめるべきなのか//知らない//どこで終わるべきか/知らない」という5行で始まっている。01から04までは、参考書からの引用なども多く、お金についての観念的な思考で堂々巡りをしているように見える。

05からは、「わたし」が出てきて、生活のなかでのお金との関わりを記録するところから出直している。食事の代金やタクシー代の具体的な数字が生々しくて面白い。当たり前の日常のようでいて、さとう三千魚という個別性をはっきりと感じる。一方で、07、08の文化の日や12の写真展、14の猫との暮らしのエピソードなどで、お金の安定性(01、02の「すべてのものが売れるものになり/すべてのものが買えるものになる」という言明に現れているもの)にちょっとした動揺が起きる。16の休日出勤と差入れはさらに微妙な動揺である。

そして17でついに磯ヒヨドリやカモメを指して「彼らは貨幣を持たない/彼らは貨幣を持たない」という言葉を書きつける。このあたりから、話の展開が一気にスピーディになる。それまでもさんざん酒を飲んでいたさとう氏だが、18ではちょっと度を越してしまう。「新丸子に帰って/スープをあたためた//深夜に目覚めた//スープは焦げていた」というのだから、一歩間違ったら火事になっている。安定性からかなり外れてきた。

そして19では、この焦げたスープから、「貨幣も焦げるんだろう//貨幣も燃やせば燃えるんだろう//貨幣を燃やしたことがない/一度もない」という思考が生まれる。生活のなかで見たものから貨幣についての新しい思考がふつふつと湧いている。だんだん、詩の動きが激しくなっていくように感じるのは、ちょうど半分くらいたったこのあたりでそのような思考が生まれ始め、それ以降、そのような発見が次々に湧いてくるからだろう。何しろ、19の後半では、通過する貨物列車を見ながら、「貨幣は/通過するだろう//貨幣は通過する幻影だろう//消えない/幻影だ」と呟いており、矢継ぎ早に新たな思考が生まれているのだ。こういった思考は、比喩的思考、つまり詩的思考と言えるだろう。

やがて、彼はショウウィンドウの老姉妹(の人形?)を見て、「貨幣は/この老女たちを買うことができるのか?」と言い出す(21)。先ほども引用した冒頭の「すべてのものが…」とは大きな違いだ。そして、日野駅で見た雪を思い出し、「ヒトは/雪を買わないだろう」という確かな考えをつかむ(23)。さらに、ライヒの「Come Out」、つまり「外に出ろ」という曲から、「貨幣に/外はあるのか//世界は自己利益で回っている」という重要な言葉を引き出してくる。貨幣の世界は、生を捨象した堂々巡りだという認識に達したのだと思う。その「生」を「枯れた花」という死にゆくもので表すところが心憎いところだ。

彼の「貨幣」についての思考はここではっきりとした形をつかんだと言えるだろう。そしてなんと「三五年の生を売る/労働を売る」(36、37)生活から離脱し、老姉妹を見て帰った新丸子から引き上げてしまうのである。そして、熱海駅で倒れ、「ぐにゃぐにゃ揺れ」ながら、「世界」が「高速で回る」ところを見る。「脳は正常なのにエラーを起こすのだと医師はいった」(38、39)。これから本当の闘いが始まるというのだろうか。

叙事詩と言っても、これは英雄が活躍する物語ではない。確かに会社を辞めるのはひとりの人間にとって大きな事件だが、この物語はそれが中心になっているわけではない。ポイントは、『貨幣について』が決して『貨幣論』ではないところ、つまり、思考を生み出した焦げたスープや通過する貨物列車を捨象して、得られた思考だけを積み上げていくテキストではないところにあると思う(だから、貨幣についてのすべてを論じ切っていないと本書を評価するのは野暮なことだ)。時間が流れていて、ひとりの人間のなかでぼんやりとしたイメージでしかなかったものがさまざまなものを触媒として具体的な思想を生み出していく過程を描き出しているのである。たとえば、焦げたスープから燃えるお金をイメージして新たな思考をつかむのは、大げさかもしれないがひとつの事件だと思う。そのような事件の積み重ねが物語を形成している。しかも、事件の一つひとつが詩なのである。

しかし、それだけではまだ『貨幣について』の叙事性について言い足りないような気がする。
普通、叙事詩であれ、物語であれ、そういったものは、描かれる前に大体終わっているものだろう。最終的に書かれた細部までは事前に決まっていないだろうが、おおよその展開はあらかじめ作者の頭のなかに入っているはずだ。しかし、先ほども触れたように、冒頭で「どこから/はじめるべきなのか//知らない//どこで終わるべきか/知らない」と言っている本作は、ほぼノープランで始まったのではないかと思う。

ここでちょっとプライベートな話を挟むことをお許しいただきたい。この長篇詩が書かれる直前、2016年の夏にさとうさんに誘われて、西馬音内のお姉様のお宅にお邪魔して、日本三大盆踊りのひとつである西馬音内の盆踊りを見せていただいた。さとうさんとは、2015年の春に亡くなった渡辺洋さん(短かった闘病期間に生命を絞り出すような3篇の詩を「浜風文庫」に書かれた)の葬儀で初めてお会いし、棺を見送ったあとで『貨幣について』の版元である書肆山田の鈴木一民さん、詩人の樋口えみこさんと清澄白河の蕎麦屋さんで酒を酌み交わして故人を偲んだのだが、そのときにさとうさんが冥界から死者が帰ってきて踊る西馬音内盆踊りの人間臭さ(はっきり言えば猥雑性)について話してくれた。それは是非見てみたいと言っていたのが1年後には実現して、鈴木さんと私とで押しかけてしまったのだが、台風で開催が危ぶまれていた盆踊りを奇跡的に見ることができた夜、それぞれの蒲団に入って電気を消したあと、さとうさんから、定年まで会社に残らず、早期に退職するつもりだという話を聞いた。しかし、それは2、3年先にという話だったように記憶している。だから、その後彼が2017年の3月いっぱいで会社を辞めてしまうと言ったのを聞いて、正直なところちょっと驚いてしまった。

下衆の勘繰りだし、本人に否定されてしまえばそれまでだが、ひょっとして、『貨幣について』を書き始めて、「三五年の生を売る/労働を売る」生活の本質が見えてしまったために、そういう生活と早く決別しようという気持ちになったのではないだろうか。まして、熱海駅での昏倒事件は、本作を始めたときには予想もしていなかっただろう。貨幣についての思考によって昏倒するということではないのかもしれないが、あまりにもタイミングがよすぎる(友だちとしては心配だが)。『貨幣について』に書き記された言葉がさとうさんのライフを突き動かしているような気がする。ロミオとジュリエットも言葉が人生を狂わせる物語だが、本書はあらかじめ筋書きが決まっていたわけではないはずだから、言葉がヒトを動かすという意味ではロミオとジュリエットよりも迫真性が高い。ちなみに、『浜辺にて』は「浜風文庫」の初出からかなり手が入れられているが、『貨幣について』は中頃のごく一部が書き換えられているだけだ。

やっぱりこれは一種の叙事詩ではないだろうか。叙事詩だからどうということはないのだけれど。