佐々木 眞
毎晩風呂に入るので、毎朝風呂を洗っている。
たいていの汚れは落ちるが、擦っても擦っても落ちないのが、いつの間にか風呂の内側の壁面についた茶色い滲みだ。
それは、長年にわたって俺と妻と息子が、代わる代わるこの狭いプラスティックの箱の中に入って、擦りつけた薄茶色の澱だ。
それは、人間の澱。動物の澱。動物の体内からにじみ出る分泌物。
どういう成分だか分からないが、ともかく有機物の澱だ。
この薄茶色の澱をじっと見つめていると、なぜだか昔のいろいろを思う。
なぜ青山で一人暮らしをしていたトップモデルは、ぐらぐら煮えたぎる熱湯の中でまっ白な骨になってしまったのか?
なぜサカイくんは、深夜の浴槽で不慮の死を遂げたのか?
なぜユダヤ人たちは、アウシュビッツで殺され、なぜ私は、ぬくぬくと生き延びてあたたかなこの湯の中でひと時のしあわせを享受しているのか?
いつか私も、父母のように突然心臓まひや脳卒中に襲われ、それがこの薄茶色の澱のついた浴槽で、声なき助けを呼びながら、ひとり真夜中に息絶えるのかもしれない。