〈プアプア〉の人格化と詩形式の崩壊に伴う表象の変化
瀧口遼真
明治大学文学部文学科日本文学専攻
第三章:中期〈プアプア詩〉における詩と詩人の表象―― 詩形式の崩壊と否定的感情
3―1 〈プアプア〉の人格化と詩形式の崩壊
「売春処女プアプアが家庭的アイウエオを行う」を例に
第三章では、中期〈プアプア詩〉における詩と詩人の表象について考察を行なう。
中期では、前期で定まった〈プアプア詩〉の形式が作品を追うごとに崩れていく様子を確認することができる。特に、前期では作者の性的欲望を詩語に変換する概念であった〈プアプア〉が人格を持つようになり、概念としての機能を果たさなくなったことが、形式崩壊の大きな要因となっている。「極私的分析的覚え書」を見ると、鈴木自身もこの点を認識していたことがわかる
「凶区十五号に私は五編の詩を発表した。それで私はこれら一連の詩は終りにしてしまいたかった。プアプアは完全に人格化してしまって、私の頭の中の仮空の存在となってしまい、それは私の日常生活の事物と対立して、その関係は停止した、死んだような状況をつくり上げてしまったからだ。私はそこから逃げて別のところに行きたかった。」 xv
鈴木によれば、〈プアプア〉が完全に人格化したのは『凶区』十五号に掲載された「法外に無茶に興奮している処女プアプア」から「美しいポーズとして最後に処女プアプアは死聳え立つ」の五編にかけてということになる。一方、詩篇を確認すると、それ以前の作品から〈プアプア〉の人格化を確認することができる。『凶区』十四号に発表された「売春処女プアプアが家庭的アイウエオを行う」を例にとろう。
ア
ここにカットされる妻の首
これがねらいだったのね、結婚のねらいね
廊下は生えて来た無数の乳房のために足音がしない( 註2)
(「売春処女プアプアが家庭的アイウエオを行う」)
この作品は「続私小説的プアプア」と同様に、私と妻の関係にプアプアが介入するという構図をとっている。ただし「続私小説的プアプア」における〈プアプア〉は、「私」と「妻」が靴を買っているそばで靴をぬぐという穏やかな行動にとどまっているのに対し、「売春処女プアプアが家庭的アイウエオを行う」における〈プアプア〉は「妻」の首を切断するという過激な行動によって夫婦関係に介入しているという点で大きく異なる。「私」および鈴木志郎康が当時の妻との関係に苦悩していたことは、エッセイや〈プアプア詩〉の中でも書かれているが、少なくとも妻の殺害は性的欲望に基づくものではなく、〈プアプア〉の意志に基づく自律的な行動である。また、本作では「妻」と〈プアプア〉の対立が一場面だけでなく終わりまで一貫しており、詩全体がひとつの物語であるかのような構成となっている。突如「妻」の首をカットした〈プアプア〉は、復讐として「妻」によって女性器を解体される。その後「私」は〈プアプア〉と性行為に及び、頭部のみとなった「妻」は性行為の様子を眺めながら自慰行為に耽る。このような物語的構成は、前期までには見られなかった。
ただし、「売春処女プアプアが家庭的アイウエオを行う」の時点では、まだ〈プアプア詩〉の形式から完全に逸脱しているとは言いきれない。上野昂志も『現代文化の境界線』で述べているが、本作では〈プアプア〉は明確な生死の規準を持たないナンセンスな言葉としての性質を保っており、「妻」に性器を解体された後も「私」と性行為に興じているなど、一人の「人物」にはなっていない xvi 。そして〈プアプア〉に触発されるように「妻」も頭部のみのまま生き続けており、作品全体に無秩序で非現実的な雰囲気が漂っている。また〈プアプア〉自体も、一部本来の機能にはないような行動をとってはいるものの、「私」の性的欲望を作品世界に出現させる役割は果たしている。これらから、〈プアプア詩〉の形式はまだ保たれていると考えられる。
しかし、その後作品を追うごとに〈プアプア〉はより人格化を強めていき、それに伴って〈プアプア詩〉自体も作者の私性を取り入れたフィクション「私小説」から、完全な虚構の詩世界へと変貌していく。そして語り手の「私」の詩に対する発言や、作中における詩や詩人の表象も悲観的なものとなっていく。
3―2 「私小説的処女キキの得意なお遊び」における詩と詩人の表象
中期〈プアプア詩〉の分析に先立って、第二節では「私小説的処女キキの得意なお遊び」における詩と詩人の表象を分析していく。本稿では本作を中期の第一作に位置付けている。「私小説的処女キキの得意なお遊び」は前期に含めた三篇の詩と比較しても従来の詩形式からの逸脱が顕著であり、それに影響されるように作中での詩や詩人の描かれ方が否定的・悲観的なものとなっている。
まず詩形式に着目しよう。先述の通り、従来の〈プアプア詩〉では、鈴木の実体験を〈プアプア〉という概念を通して詩語に変換するとともに、註釈などを用いて詩語の元となった実体験を併記するという手法を用いていた。詩語の元となる実体験がなければ〈プアプア詩〉は成立し得ないからである。ところが「私小説的処女キキの得意なお遊び」では、実体験と思われる描写が極端に少なくなっている。直接詩の中で登場している現実的描写は、「風呂に行くのも止めよう( 註2) 」、厳島神社と思われる「朱塗りの社殿」と「原生林に踏み迷い( 註5) 」、「駅前」という四つに留まっている。前期で欲望の出所を読者に公開する役割を果たしていた註釈は本作でも七つ置かれているが、このうち三つのみが鈴木の実体験に即したものであり、残りの四つは現実的要素の補完にまでは至っていない。「私小説的処女キキの得意なお遊び」は、詩の根幹にあるべき実体験に基づく描写が希薄になっていることがわかる。
次に、〈プアプア〉的な概念がいかに機能しているかについても確認する。本作では〈プアプア〉は登場していないが、代わりに〈キキ〉が登場している。この「キキ」という言葉自体は、「プアプア」と同様に意味を持たないナンセンスな響きを持っている。しかし、鈴木は〈キキ〉について「彼女は学校にきちんと通っているところをよく見られた。六月と十月には衣替えをした。彼女の将来ははっきりしており、結婚式があって、家庭があり、性交がある」と註釈で解説している。この設定は作中で基本的に一貫して変わることがない。「私小説的プアプア」では、冒頭に「十五才の少女はプアプア」であると宣言しながらも、細かくキャラクターが指定されることはなかったため、一つの人格を備えた存在にはならずに概念として機能することが可能であった。一方本作の〈キキ〉の場合は、註釈で設定が細かく指定された上、その設定から逸脱することなく作中で動き続けているため、概念ではなく一人の女性であるかのように読めてしまう。
人格化した〈キキ〉は、最早〈プアプア詩〉のための装置として機能せず、自律した行動を取る。作者の実体験に関係なく、「私」の睾丸をころがし、松本君に連れ去られ、最後には「私」を犯す。中でも「睾丸ころがし」と最後の姦通は、「私」が性的欲望を解消するために〈プアプア〉や〈キキ〉を犯すという本来の構図から離れ、〈キキ〉自身が性的欲望を解消するために「私」を犯すという主客転倒の様相を呈している。最終行で「私」が〈キキ〉の処女膜に犯されることによって、「私」という人称を喪失し「平和を愛する正午の男となって終」る様子は、「私」を根幹に置いて成立していた〈プアプア詩〉が、〈キキ〉の人格化によって逆に侵されていく過程を象徴していると言えるだろう。
いやな感じの鏡の中の正午の私の背後から黄色いキキがやって
くる
するともう詩はだめだ、つまらない、なってない
キキの登場がテーマならもういうことがなかろう( 註1)
私ははつらつとした処女キキと遊ぶよ
睾丸ころがしでキキは私を包み込む姿勢を取る膨張する面積のキキのからだが迫ってくる
(略)
処女キキが処女なる私の正面から噂されっぱなしの革命を男形として差し込む
これが睾丸ころがしの実態だ
手淫の夜重ね
これが詩だからなってない
(「私小説的処女キキの得意なお遊び」)
詩形式の破綻は、作中における詩や詩人の表象にも影響を及ぼしている。冒頭の「するともう詩はだめだ、つまらない、なってない」という嘆きは、〈プアプア詩〉が詩形式と成立し得なくなっている状況を端的に表している。直後に「キキの登場がテーマならばもういうことがなかろう」という一文があるが、まさに本作は〈キキ〉の自律的な行動に詩の展開が左右されており、「私」の行動あるいは作者の実生活は副次的な要素に成り下がっている。〈キキ〉は作者や「私」の性的欲望と関係なく「睾丸ころがし」を始めるが、ここでもやはり「これが詩だからなってない」として悲嘆的な発言が見られる。
〈キキ〉の自立行動や、実体験に基づく描写の減少などから、本作が前期と比べて虚構的性質を強めていることは明らかだが、その傾向を一層強めているのが「松本君」の登場である。「松本君」は「私」の友人で、詩を書く人間すなわち詩人として描かれるが、「註3」で「私には松本君という友人はいない」とあるように、フィクショナルな人物である。「松本君」の登場によって詩はさらに虚構の度合いを強めていくが、彼が口にする言葉は、〈プアプア詩〉の崩壊を目の当たりにしている鈴木の心境とも考えられるものがある。
昨日の日曜日に松本君が来て詩の話をした( 註3)
彼はもう詩を書きたくないが
ますます詩に誘われて手淫するばかりだ
そんなひとりよがりな
言語を台無しにするよ、と私はいった
(略)
註3 私には松本君という友人はいない
彼は、「もう詩を書きたくないが/ますます詩に誘われて手淫するばかりだ」と「私」に悩みを打ち明ける。手淫、すなわちマスターベーションは一人で性欲を発散するという点で、他者とともに行なう性行為とは対称的関係にある行為であるが、この関係は字義通りの性行動としてだけでなく、詩作に対する態度としても読むことが可能である。
鈴木が〈プアプア詩〉の創作過程を性行為にたとえていることは第一章で既に述べた。処女膜に男性器を挿入するように、鈴木は「にせの充足」を満たすために〈プアプア〉を通じて表出させた詩語に実生活をぶつけ、言葉に込められた性的欲望を読者に公開する。これを踏まえて「手淫」を分析すると、まず共に性行為を行なう他者が存在していない以上、男性器を女性器に挿入するというプロセスが成立しない。鈴木の述べる創作論に置き換えれば、性的欲望自体を詩語にすることはできても、欲望の正体を読者に公開するために実生活をぶつけるという過程がない、ということになる。つまり「自慰」とは、読者を意識しないまま一方的に性的欲望を込めた詩語を表出し続けることを意味している。実際「私小説的キキの得意なお遊び」では詩語と実体験の結びつきが見えにくく、言葉や〈キキ〉の行動の背景にある鈴木自身の生活は隠されたままとなっている。「松本君」の「手淫」は、本作における鈴木志郎康自身の創作態度と共通していると考えられる。
こうした「松本君」に対して、「私」は「そんなひとりよがりな/言語を台無しにするよ」と忠告する。この忠告は、鈴木の自作に対する自己批判と捉えることができよう。そして「私」は創作意欲を失った「松本君」に対し、〈キキ〉を貸すことで事態の打開を促す。
それなら処女キキを貸しましょう
とにかくも実体だ
(略)
私は処女キキの朱塗りの社殿のいきさつを思って泪していると
どうしたのか恋情の原生林に踏み迷い( 註5)
何処へ行ったのキキ
淋しいよキキ
情ないよキキ
あんまりだよキキ
女は貸すものだよキキ
新造のキキ
これは詩だよキキ
(「私小説的処女キキの得意なお遊び」)
松本君は〈キキ〉を連れて退場し、「私」はひとり残されたまま〈キキ〉不在の悲しみに暮れる。この途中で、唐突に「これは詩だよキキ」というフレーズが出現する。様々な要因から既に〈プアプア詩〉の形式は崩壊しているため「詩」は〈プアプア詩〉ではないことは明確である。「実体」となってしまった〈キキ〉を放棄したことから、〈プアプア〉や〈キキ〉を通さずに直接自身の実体験を詩の中に表出していくことの表明と考えられる一方で、「私小説的」な詩から完全な虚構としての詩を目指していく宣言とも見ることができる。
ここで鈴木志郎康自身の創作活動に着目すると、〈プアプア詩〉以後、彼は自身の実体験に基づく私小説的な作風を放棄し、架空の人物を登場させるフィクショナルな詩の執筆を行なっている。詳細は第四章で述べるが、このことを踏まえると、〈キキ〉を失った「私」が叫ぶ「詩」は、実体験を〈プアプア〉〈キキ〉を通して虚構化するプロセスを経ない、完全な虚構としての詩を意味していると考えられるのではないだろうか。
注釈
xv 鈴木志郎康『罐製同棲又は陥穽への逃走』( 季節社、1968年3月) 、130ページ
xvi 上野昂志は『現代文化の境界線』( 冬樹社、一九七九年十二月) の中で以下のように述べている。
「私小説プアプア」( 原文ママ) から始まって「続私小説的プアプア」を経て「売春処女プアプアが家庭的アイウエオを行う」に至る三作は、「プアプア」の人称化が強められ、それにつれて「私」と「妻」との間に入り込む度合が強くなるが、そしてその意味で「プアプア」が具体化してゆく過程としてあるが、しかし、にもかかわらず、「プアプア」は本来的に無意味なことばに帰着するべく運命づけられているのである。それ故、「プアプア」と「私」と「妻」との三角関係も、厳密にことばに始まり詩空間のなかでのみ終わるように限定されているのだ。それを、「私」や「妻」の側からいうなら、「私」たちは、純粋詩語としての「プアプア」の生きる空間を生きることで、改めてことばそのものとして対象化される、ということなのだ。( 117・118ページ)
論文提出年月日:2026年1月14日
