michio sato について

つり人です。 休みの日にはひとりで海にボートで浮かんでいます。 魚はたまに釣れますが、 糸を垂らしているのはもっとわけのわからないものを探しているのです。 ほぼ毎日、さとう三千魚の詩と毎月15日にゲストの作品を掲載します。

濃紺のセーターの闇はね、濃かったっちゃ。

 

鈴木志郎康

 
 

みなさんはそれぞれ、
異なった日々を過ごしているんだよね。
俺っちはこの冬、
セーターを着て過ごしているっちゃ。

今日はね。
濃紺のセーターを着たってわけっちゃ。
左の厚ぼったい袖に左手を通し、
右の厚ぼったい袖に右手を通し、
もこもこの毛編みの中に、
頭を潜らせたっちゃ。
グウーン、
潜り抜けた一瞬の闇は、
濃かったっちゃ。
赤いセーターとは違うのよ。
濃い闇だっちゃ。
顔を出したら、
いつもの俺っちの部屋だったが、
眺めがちょっとだけ
違っていたっちゃ。
違っていたっちゃ。
ズンズン、
グウーン、
グウーン。

この違いはなんじぁね。
ああ、普段はそれが見えないっちゃ。
そうして一瞬一日と年を重ねちゃった。
ズンズン、
グウーン、
グウーン。

 

 

 

高橋啓介著「なんとかして」を読んで歌える

 

佐々木 眞

 
 

 

大人になっても子供の心を失わない人がいるなどと世間ではよくいいますが、そんな人実際にはなかなかいませんよね。少なくとも私が知る限りでは。

しかしこの本の最初の2つの詩を読んだだけで、このタカハシさんという人は、もしかするとそういう稀有な魂の持主ではないかしら、と誰もが思うのではないかしら。

「疑似体験」は、次のような3行からはじまります。

 

きれいなきみをおもいながらベッドにはいる
つかれたからだにかわがながれ
きりのおもいにひかりがさす

 

1日の闇雲で五里霧中の労働にくたぶれた若きリーマンに、ようやっとやすらぎの夜が訪れた、というわけです。

ちょっと話が飛びますが、いま京都の伏見でお医者さんをやっている私の弟は、少年時代に、「兄ちゃん、わいらあ毎晩きょうはどんな夢を見れるんかと思て、楽しうてしょうがない」などと申しておりましたが、まあそんなところでしょうか。

で、次の3行がこうなります。

 

ぼくの×××は
△△△することで
それをあらわし
きみの○○○○はどうだ

 

どうですか。分かりやすいパズルですね。
というか、分かり過ぎるほど単刀直入な突っ込みが、作者の人世への明朗闊達な楽天性をおのずから表明しているようです。

以下、好きな女の人をしたなめずりしながら料理していくタカハシさんの「疑似体験」が続いて、あっという間に終わってしまうまるで童話のような短い詩ですが、じつに率直で、真っ正直で、健康的でしかも純乎としている。
私はお酒は飲めませんが、ウイスキーでいうとピュアモルトというところかしら。

ともかくこの詩集は、冒頭からこんな感じで始まるのですが、2番目の「木になるたのしみ」では、タカハシさんは、なんと本当に葉緑素になり、樹木になりきってしまうのです。

世の中にこれに近い人はいますが、絶対にこんな人はいない、と断言できます。
誰か、なんとかしてあげてください。

そうして驚いたことに、私はそんなタカハシさんの、ちょっとした知り合いなんです。
どうだ、参ったか。
ザマミロ。

 

 

 

ビリジアンを探して

 

芦田みゆき

 
 

2017.1.29
深夜、目をつむると、見知らぬ光景が次々を現われ、あたしは息苦しくて眠れない。その光景は、闇から湧き上がり、強烈な光となって眼前に広がる。そして消滅し、また、新たな光景が湧き上がる。
街のあちこちは、今日訪れた場所にとてもよく似ているが、よく見ると何もかもが異なっていて、細部は欠落している。記憶を切り刻み、失われた部分を想像で編み上げた新しい街。そこで、ビリジアンは全体に宿る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

赤いセーターを着て詩を書いちゃったよ。

 

鈴木志郎康

 

 

セーターを着るたびに、
一瞬の闇を潜り抜けるっちゃ。
顔を出すと、
そこは
相変わらずの、
俺っちの部屋。
赤いセーターの裾を下ろすと、
セーターの中の闇に包まれて、
からだが温もったね。
テーブルの上のiPadに向かって、
詩を書くね、
詩が書けるよ。
赤いセーターを着て詩を書くっちゃ。
嬉しいっちゃ。
ラ、ラ、ラ、
ラン、ラ、ラン。
家の狭い庭に
北風が吹き込んでくるっちゃ。
ここんところ、
そんな毎日だっちゃ。

 

 

 

貨幣について、桑原正彦へ 19

 

貨幣も
焦げるんだろう

貨幣も燃やせば燃えるんだろう

貨幣を燃やしたことがない
一度もない

新幹線から
流れていく景色を見てた

駅のホームで
過ぎていく貨物列車を見ていた

貨幣は
通過するだろう

貨幣は通過する幻影だろう

消えない
幻影だ

 

 

 

薦田愛著「流離縁起」を読みて歌える

 

佐々木 眞

 
 

 

この詩集を読んでいるうちに、私の脳裏にはひとつの奇妙な映像が湧き起こってきた。

それは、ひとつの巨大なコクーンである。

青空のただ中に、青白い繭が、まるで最新型の雲のように、ぽっかり浮かんでいる。

近寄ってよく眺めてみると、そのとても薄くて半透明な表皮の奥に、一人の女性のシルエットが透けて見える。

それは、素晴らしく美しい眺めだ。
なかにいるのは、知的で謎めいた女性のようだ。

その外貌は、平成の御世にまだ生き続けるという和泉式部や清少納言、あるいはまだ誰も会ったことのない小野小町という名の女性を思わせるのであるが、その正体は謎に包まれている。

いつのまにか空はたそがれ、黄金いろに光り輝くコクーンの中で、彼女は踊り始める。
出雲阿国のように不可思議な舞を、舞い始まる。

踊りながら彼女は、真っ赤なルージュを塗りたくったうすい唇の間から、真っ白な、細くて長い長い糸を吐く。

するとその糸は、私たちが知らない国の言葉、まだ誰も読んだことのない物語の言葉になって、繭の中に織り込まれてゆく。繭の内壁に、どんどん繰りこまれていく。

孤独な舞は、いつまでも続き、白い糸は、果てしなく吐き続けられ、折り重なった糸は、どんどん彼女を覆う。

やがて地上から最後の光線がふつりと消え、世界中が深い闇に閉ざされると、踊り歌う女も、巨大なコクーンも、街も、うたかたのように姿を消してしまった。

 

 

 

物言えば

 

長尾高弘

 
 

物言えば唇寒し秋の風って言うけどさ、
最近本当に息苦しくなってきたと思わない?
もう二年前になるけど、
さいたま市の九条俳句の問題があったよね。
公民館の俳句教室で会員が互選した作品が
毎月の公民館だよりに載ってたんだけど、
「梅雨空に『九条守れ』の女性デモ」
って句が選ばれたときには、
公民館が掲載を拒否したって話だよ。
さいたま市は、市内の全公民館に
「世論が大きく二つに分かれる問題で、
一方の意見だけを載せられない」
などと説明しなさいっていう
マニュアルを送ったんだってさ。
公民館だよりに掲載される作品は、
市民の作品であって、
市の作品じゃないのにさ、
これって変な話じゃない?
色々な意見を自由に言えるのが、
民主主義社会ってものじゃないの?
それに、掲載拒否された俳句は、
憲法を守れってものだよ。
憲法ってのは、
政府の暴走を防ぐために、
市民が政府に守ることを義務付けている法でさ、
その法を守れという俳句の掲載を拒否するなら、
市が市民そっちのけで暴走しますよ
って言ってるようなものじゃん。
おっかないったらありゃしない。
また、あの戦争の時代を繰り返すことになるよ。
何も言わずに国のために死ねって時代さ。
その点、
区民文化祭でこの詩をそのまま発表できる横浜市は、
さいたま市よりはいいのかもしれないね。
だけどさ、
育鵬社の社会科教科書を使うのは止めた方がいいよ。
歴史の現実を見ないで、
日本はいい国だ、
よその国より優秀だって自慢したところで、
ろくなことはないよ。
故事ことわざ辞典によると、
物言えば唇寒し秋の風って言葉は、
もともと松尾芭蕉の「座右の銘」にある句で、
人の悪口を言えば、
なんとなく後味の悪い思いをする、
ってことなんだってね。
この句の前には、
「人の短をいふ事なかれ己が長をとく事なかれ」
と書いてあるらしいよ。
よその国の人を馬鹿にして、
日本のあることないことを自慢するようなことは、
しない方がいいよってことでもあるよね。
昔の人はちゃんと正しいことを言ってるわけさ。
もちろん、おれだって、
こんなことを書いて発表して、
後味が悪くないわけはないんだよ。
ただ、言うべきことを言わないで、
口を塞がれるのは嫌なだけさ。

 

2017年1月26日~31日に都筑区民文化祭(横浜市)に出展

 

 

 

由良川狂詩曲~連載第8回

第3章 ウナギストQの冒険~日本列島ひと巡り

 

佐々木 眞

 
 

 

ウナギのQちゃんの長話は、まだまだ続きます。

「ちょっと大変だったのは丹後由良の海岸かな。あそこは昔から波が荒くて、海水浴のお客さんも、どっちかいうと波の静かな若狭湾の高浜か和田のほうまで足を伸ばしていたくらいだから……。
でも最近高浜には原発が出来てしまったから、僕らも敬遠して、近寄らないようにしてるんだ。真冬でも暖かいお湯が流れ出ているから、そこに集まる馬鹿な魚たちもいるんだけどね。

由良川の河口が若狭湾、日本海にそそぐところは波がきつくて、塩もからいし、けっこう苦労したけど、いたっん沖に出てしまえばもうこっちのもの。
日本海ってさ、けっきょく対馬、津軽、宗谷、間宮の4つの海峡に取り囲まれた大きな湖みたいなもんなんだ。対馬海流のおかげで冬でもわりと温かいしね。
遠く東シナ海から時速0.04ノットで北上する対馬海流に乗って、能登半島、舳倉島そして佐渡海峡を過ぎたあたりで、ここらへんでよくある嵐がやって来たんで、思い切って水深300メートルくらいまで潜ったんだけど、それでも水温は零度、塩分は34%くらい。オホーツク海や北太平洋や東シナ海とくらべると、この日本海は水に溶け込んでいる酸素の分量がとても多いから、僕たちのとってはとても泳ぎやすいんだ。
アカガレイやヒレグロたちが楽しそうに泳いでいたよ」

 話がとつぜん実践的かつ専門的になったので、ケンちゃんは尊敬のおももちで、Qちゃんを見つめています。

「お父さんにあらかじめ教えられていたんで、男鹿半島を過ぎたあたりでは、うっかりして北海道のほうまで流されないように注意してたんだ。
なぜって対馬海流は、ここで2つにわかれてしまうから。もし僕が白神岬と龍飛岬の間で右折して津軽海峡に入らなければ、もう二度と由良川には戻ってこれないぞ、って厳重に警告されてたからね。

津軽海峡の春景色を眺めながら、下北半島の尻屋崎と亀田半島の恵山崎の間を、僕の巡航速度0.75ノットで通りぬけ、やれやれ、これでようやく無事に太平洋に出られたか、と思ったら、猛烈な勢いで体温が下がって来て、今までとは逆に南へ南へと流されていく。

その原因は、千島列島からやってくる冷たい親潮のせいなんだ。4月とはいっても、まだ北国の春は氷のように冷たいし、僕は南の海生まれだから、もう死ぬかと思ったけれど、みんなの代表として派遣されてきているわけだから、こんなことで文句を言っては罰が当たる、と思いながら、まわりのプランクトンを口当たり次第にパクパク呑みこみながら、朝から晩まで太平洋を南に流されてた。

ところが数日たったところで、突然全身が3メートルはあろうかというキハダマグロ、そしてカツオの大群が何千、何万匹の大集団で僕めがけて高速戦闘機のように襲いかかってきたんだ。

まるでバーチャルリアリティの世界。水も温かいところと冷たいところが交互に入り混じって、気持ち悪いったらありゃしない。
あ、そうだ。この辺が親潮と黒潮、寒流と暖流が激突するので有名な鹿島灘の沖合かなと思ったけど、プランクトンを求めて黒潮の南部水域からまっしぐらに北の海めがけてやってくる索餌北上群の威力のすさまじさがあまりにも物凄くて、僕はあっというまにきりもみ状態。
滝壺に落下した1匹のメダカみたいに激しい水流にぐるぐると巻きこまれてしまってアップアップ。ウナギの癖に水におぼれちゃった。

意識を失ってからどれくらい時間が経ったんだろう。そこは真っ暗のクラ。物音一つしない不気味な暗黒の世界。

ほとんどソヨとも水の流れが感じられない水深千メートル、いやもっと深いかもしれない。砂地のうえで30分くらいじっと横たわっていたら、だんだんまわりがぼんやり見えるようになってきた。
すぐ近くを、のそのそ歩いているトゲズワイガニを見付けたときは、うれしかったよ。それとかミドリモミジボウなんかも、僕のそばでボケーっとしてた。

じょじょに体力も回復してきたし、そろそろ上にのぼってやろうかな、と屈伸運動を行い、日課の腕立て伏せ20回、腹式呼吸20回、それにNHKの第2ラジオ体操を自分で歌いながら自分でやり終わって、ゆっくり真昼の暗黒界を見渡したとたん、僕は思わず腰を抜かしてしまいましたよ、ケンちゃん」

「ど、どうしたの、Qちゃん」

「つまりですね、僕のまわりに、いつのまにやら銀色にキラキラ輝く光源体が、あっちからも、こっちからもETのようにむらがって、初夏の宵の蛍火のように、こっちへ来い、こっちへ来い、って僕を呼ぶんです。

考えてみると深海ってほとんど人の出入りはもちろん、魚の出入りもないもんだから、僕みたいな変なストレンジャーがやってくると、みんな人恋しい、いや魚恋しい魚ばっかりなもんだから、もう珍しがっちゃって、何キロも離れた遠方から、手土産を持ってワレモワレモと押しかけてくるんですね。

まず第7騎兵隊のカスター中佐のように、光り輝く連隊旗を掲げたチョウチンアンコウが、全身真っ黒なオキアンコウと闇の中で鉢合わせ、
「おうおう久しぶり、久しぶり、この前会ったのは、たしか大西洋のはずれのどっかだったなあ、お前、元気?奥さんも元気?」
などと、やたら懐かしがったりしています。

いっぽうこちらで鉢合わせしたのは、全身を美しくライトアップしたフジクジラとカラスザメ。サメ肌をくっつけあって、大きなめんたまをうるませながら、「こんなところで会えるとは!」と涙をポロポロ流してよろこんでる。

そこへやって来たのは、サメ肌コンビよりもっともっと大きな目玉をウノメタカノメ、ウオノメもギョロギョロさせながら、僕に急接近してきた全身棘だらけ、完全武装のトリカジカとワヌケフウリュウウオのふたり。こわいよお!

おっと、そこへまたしても海底リングに乱入してきたのは、やたらめったら怒り狂っているソコクロダラ、カナガタラ、イトヒキダラの極悪3タラトリオ。
これでもう1週間以上口に何も入れていなくって腹ペコのペコ。
「こうなったら目にするもの口に入るものなら、石でも悪魔でもなんでも食ってやるぞ!」と物凄い鼻息をブツブツ辺り一面に吐き散らしながら、こんな歌を唄うのでした。

おちよ、おちよ、
だんだら餅 おちよ
金と銀とにわかれて
わがものよ

 
 
 

重い思い その六

 

鈴木志郎康

 
 

重い
思い。

重い思いが、
俺っちの
心に
覆い被さって来るっちゃ。

明け方、お腹が空いて、
ベッドで、
ガサガサ、
ガサガサガって、
紙袋をまさぐって
芋かんぴを
口に入れてると、
美味しい。
と、
隣のベッドで、
麻理が、
「うるせい」って、
目を覚ましてしまったっちゃ、
「ほんと、うるせい存在ね。
でも無くてはならない存在なのよね」
って、言うだけんどもよ、
夜明けの薄明かりの中で、
存在って、
いつかは無くなるときが来るもんじぁって、
思ったっちゃ。
うーん、
富士山の存在とか、
天皇の存在とか、
どうしようもねえなぁ。
かなわねえなぁ。
無くなんねぇよ。
俺っちは、
にっぽんに生まれちまってさ、
にほん語を話し、
にほん語で詩を書く、
にっぽんじんなんじぁね。
そこで、
「霊峰なる富士山の存在は永遠なりぃー。」
「千代に八千代にぃー」
って声が迫って来るっちゃ。
永遠かぁ、
永遠ね。
俺っちは、
自分、
存在って言えっちゃ、
やがてはいなくなるんじぁね。
俺っちは消失するまで、
この一個の身体を生き抜くぞぉ。
と言って、
九十まで生きられるか。
ギーッギエンギエン、
ギーギーギエンギエン、
プーポイ、
プーポイポー。

芋かんぴポリポリって、
書き始めたら、
富士山が出てきちゃってさ、
変な詩になっちゃったね。

まあまあ、
俺っちは、
尽きる命の一個の身体よ。
百までは無理でも、
この一個の身体を生き抜くぞぉ。
麻理も長生きしてね。

八十も過ぎれば、
同世代の知人が、
もう何人もいなくなってる。
寂しいね。
これも、
重い
思い。

俺っちは一個の身体を生き抜くぞぉって、
極私的人生ってわけかい。
またそれかよって、
言わないでよ。

今日はうんこが三回出たよ、
麻子仁丸の効き目かな。

一月二十八日の室内温度が十八度、
アマリリスの蕾が花被の中で成長してる。

テーブルの上にある芋かんぴに、
つい手が出てしまい詩を書きながらポリポリ、美味いなあ。

アンドロイド研究家はテレビの中で言った。
人間らしさの存在感を出す細部を実現するのが難しい。

人間らしさの存在感だってさ。
誰でも人には存在感があるのさ、それは人が生きてるってこと。

人の振る舞いってのが見えなくなっちまった。
もう十年もしょっちゅう会ってる奴がいないのが寂しい。

「ユリイカ」2月号読んでひとつ覚えたバイラルコミュニケーション、
ピコ太郎のPPAP現象はこれの爆発だったんだね。

俺っちって、目が覚めてるあいだは意識して、
いま何時、いま何時って、時計を見たりテレビを見たり。

夕飯で餃子六個とミニトマトハンバーグ四個食っちゃった。
味噌汁も大麦入りの麦芽ごはんも美味しかったね。

ここらで、
軽い言葉で、
思いも軽く、
楽しんで、
タッタッラッタァ、
タラッタッタァ、
トットットッ、
トットットッ、
トットットッ、
トッ。

おっと、危ない、
転ばないでね。
二本の杖をしっかり、
突いてね。