michio sato について

つり人です。 休みの日にはひとりで海にボートで浮かんでいます。 魚はたまに釣れますが、 糸を垂らしているのはもっとわけのわからないものを探しているのです。 ほぼ毎日、さとう三千魚の詩と毎月15日にゲストの作品を掲載します。

シンプル ファースト

 

みわ はるか

 
 

友人の結婚式の当日の朝。
まだどのワンピースを着ていくかで悩んでいた。
クリーム色のふんわり型のワンピースで行こうか、ワインレッドのタイトなワンピースにしようかぐるぐる迷っていた。
ネットで注文しておいた新しいスマートフォンケースもギリギリ届いて写真の準備は万端。
素直で甘いものが大好きな友人の門出を祝うような快晴の空模様は、参列者のわたしの気持ちまでわくわくさせてくれた。

値段が高くて練りに練られた料理はやっぱりおいしい。
だけれども、それがたいして親しくない人ととの席だったり、一人であったりしたらちっともおいしくない。
親しい人との食事がどんなにいい時間で貴重なものかとここ数年で思えるようになった。
それがたとえ白米と味噌汁だけであったとしても。

きれいに手入れされた畑を見た。
わたしの大好きなチューリップがものの見事に咲いていた。
赤、黄、白、紫…。
一緒にきれいだねと思ってくれる、感じてくれるそんな人の存在は心を豊かにしてくれる。

NHKをじっと見る。
抑揚のあまりない話し方にほっとする。落ち着く。安心する。
きちんと丁寧に化粧をして、物怖じせず話す知的な姿に憧れる。
季節にあった服装も上品で素敵だ。

学生時代は最後には卒業という目標があった。
特に先のことに迷うことなく生きていた。
周りのサポートしてくれる大人にも恵まれた。
今、社会人になった今、しっかりと輪郭のあるものが見えにくい。
そして色々考えるようになってたまにぷしゅーと空気が抜けてヘロヘロになってしまう。
せっせせっせと自分でまた空気を足して立ち上がる。
心に響いた言葉や、新しい信頼できる人との出会いを材料にして、また頑張るぞーと進み出す。

シンプルで丁寧な生き方が素敵だなと思う2017年、春。

10時のお店の開店に合わせて、買い忘れたご祝儀袋を手に入れるべく自転車に急いで飛び乗った。

 

 

 

貨幣について、桑原正彦へ 35

 

今朝
車できた

新丸子の部屋の
最後の掃除にやってきた

掃除機をかけ雑巾がけをした

部屋に残ったのは
カーテンと

ベッドと
青い本棚だけだった

絵が架かっていた壁に四角い影が残っていた

影はわたしの債務のようだ
債務はわたしの欲望の裏側にある影絵だ

 

 

 

貨幣について、桑原正彦へ 34

 

昨日の夜
ひかりで東京から帰った

燕たちが飛んでる

お茶の水で千先さんと会った

千先さんは
アマゾンの怪魚を撮ったといった

白目が
綺麗な白だった

それから
浅草橋で荒井くんと会った

荒井くんは
富山から帰っていた

浅草橋の駅で総武線が通過した

 

 

 

由良川狂詩曲~連載第11回

第4章 ケンちゃん丹波へ行く~いざ綾部へ!

 

佐々木 眞

 
 

 

「よおし、分かった。僕はすぐに綾部へ行く。お前もすぐに由良川へ戻って、みんなに安心するように伝えてくれたまえ」

と、ケンちゃんは漱石の坊っちゃん風に水盤に向かって叫びました。
それを聞いたQちゃんは、思わず、

「やったあ、やったあ、ついにウナギストとしての使命を果たせたぞお。うれしいなあ、うれしいなあ!」

と、本日最長不倒距離の跳躍を試みて、その喜びを力強く表明したことでした。

ケンちゃんは、波頭を超えて数千里の大冒険が終ったばかりだというのに、ふたたび命懸けの大旅行へ旅立つ、か細いQちゃんの背中を、そっと人差し指で名でなでてやってから、水盤の中のQちゃんを、手のひらですくいとり、自宅の前をさらさらと音を立てて流れる滑川の支流へ、そっと放してやりました。

Qちゃんはケンちゃんに向かって尾ひれを小さく3回振って、さよならをいうのももどかしそうに、彼なりの全速力で下流めがけて泳いでいったのですが、Qちゃんのそんな姿を、この付近をいつも周回しているシラサギとカワセミが、無言で見送っていました。

「さ、急に忙しくなったぞ。今日中にぜんぶかたずけなくっちゃ」

ケンちゃんは、ふだんはやりませんが、やる時はやる男の子です。
その日のうちに全教科の1週間分の予習復習宿題その他もろもろを一気にやっつけてしまうと、大好きなお母さんと兄貴のコウちゃんに宛てて、さらさらと書き置きをして、冷蔵庫の扉に貼り付けました。

そしてドラエモンの貯金箱を金づちでぶち壊して出てきた全財産を、着替えと一緒にリュックの中に入れ、その日の午後1時5分、十二所神社発鎌倉駅行きの京急バスに飛び乗ったのでした。

冷蔵庫のメモにはこう書かれていました。

「お母さん、コウくん、お帰りなさい。突然ですが、綾部へ行ってきます。
由良川の魚たちが、悪い奴らに滅ぼされてしまいそうなんだ。
そして、僕しか助けられないんだ。
だから、2,3日綾部へ行ってきます。
5月の連休で学校も日曜を挟んで3連休だからいいでしょ?
綾部のおじいちゃんとおばあちゃんに、電話しといてください。
お金は、貯金を使うからダイジョウブ。
心配しないで帰りを待っててネ。バイビー!
追伸 勉強はぜんぶ終わらせといた」

そしてその日の午後3時ごろ、鎌倉駅から横須賀線に乗ったケンちゃんは、一路丹波に向かったのでした。

横浜駅で新幹線に乗り換え、京都に着いたのが午後7時半、そこから山陰本線の急行で1時間半、ちょうど夜の9時過ぎにケンちゃんは綾部の旧市街の目抜き通りににある「てらこ」の入り口に立っていました。

「こんばんは、ケンです!」

と言ってケンちゃんが、既に店仕舞いを終えたのに煌々と明かりをともしている下駄屋さんのガラス戸をとんとんたたくと、おじいちゃんとおばあちゃんが、2人揃って飛び出してきました。

「おお、、おお、よおきたのお、ケンちゃん。鎌倉のお母さんから電話があったから、まだか、まだかと待っとったんやど」

セイサブロウさんは、そういって可愛い孫の顔をうれしそうに、心配そうに、のぞきこみました。おばあちゃんのアイコさんは、黙ってケンちゃんを抱きしめ、ほっぺたにブチュっとキスをしました。
ケンちゃんはすぐに逃げ出そうとしたのですが、アイコさんはなかなか放してくれません。

その夜は、久しぶりに話が弾みました。
綾部と鎌倉の2つの町を結ぶ有名な武将の話を、セイザブロウさんがしてくれたのです。

室町幕府を開いた足利尊氏の母は、その名を上杉清子といい、上杉の本貫地は丹波の上杉でした。彼女は上杉の光福寺というお寺で生まれ、少女時代を過ごしたのです。
光福寺はのちに丹波安国寺になりますが、このお寺は足利氏支配下の全国に設置された安国寺の筆頭と定められ、最盛時には寺領三千石、塔頭十六、支院二十八を数えました。
丹波梅迫の安国寺は、綾部の市街地から由良川を隔てた北の山の斜面にあり、本堂の右手の木陰に清子と尊氏、そして尊氏の妻、赤橋登子の墓が並んでいるそうです。

その足利尊氏は鎌倉に住み、後醍醐天皇の命によって、新田義貞などと共に鎌倉幕府を倒し,京に室町幕府を開いた人ですから、綾部に生まれ、京に遊び、鎌倉に住むケンちゃんのお父さんと少し共通点があるような気もしますが、時代も人物のスケールもまったく違うので、やはり全然関係ないのでしょうね。

ところでケンちゃんのお父さんのマコトさんは、半年前に会社の仕事でNYに出張したのですが、一週間で帰国するはずが、どういうわけか行方不明になり、NY市警に捜索願を出したのですが、今のところなんの手がかりもないのです。

支店の人の話では、なんでも三カ月ほど前にブロンクスで黒人の女性と一緒に歩いているところを見かけたそうですが、それっきり。
みんなは、事故にでも遭ったのではないかと心配しているのですが、じつはマコトさんは以前スペインのマドリードでも行方不明になり、半年後に突然成田に元気な姿を見せたので、会社も家族も、もうすぐ帰ってくるだろうと、たかをくくっているのでした。

そんなわけで父親不在のケンちゃんでしたが、とっても元気。
アイコさん心づくしのタケノコご飯を、おいしくいただき、その夜はぐっすりと眠りました。

 

空白空白空白空白空つづく

 

 

 

家族の肖像~「親子の対話」その17

 

佐々木 眞

 
 

 

わたし、オダカズマサです。
こんにちは、オダカズマサさん。

カズマサさん印刷してください。
はい、分かりました。

カズマサさん、神奈川生まれだお。
神奈川のどこ?
横浜だお。
へええ、そうなんだ。

あっけらかんて、どういうこと?
しれっとしてることよ。

述べるって、言うことでしょ?
そうだよ。

ラッシュアワーはワイドドアでしょ?
そうだね。

カナメ君とノゾム君笑ってた?
うん、笑ってたよ。

ケーキって洋菓子のこと?
そうだよ。

ムカイオサム、にこにこしていた?
にこにこしてたよ。
ムカイオサム、笑ってた?
笑ってたよ。

お父さん、小田急の急行、世田谷代田止まらないのよ。
そうなんだ。
各駅停車だけですよ。
リョウちゃん、世田谷代田だお。
そうなんだ。

お父さん、にらんじゃだめ?
にらんでもいいよ。にらんでごらん。おや、耕君にらんだね。

コバヤシさん、あんず、あまずっぱいね。
はい、あまずっぱいですね。

お母さん、ぼくサトイモすきですお。
そう、じゃあ買ってきて食べましょ。

わからずやってなに?
いうことちっともきかないひとのことよ。耕君、わからずや?
じゃないですお。

禁じるってなに?
しちゃだめっていうことよ

みそ汁の英語は?
ミソシル、ミソスープだよ。
ぼく、みそ汁すきですお

侮辱ってなに?
バカにすることよ。

ことしお母さんジュンサイ買って。
はい、わかりました。

お父さん、ハスはジュンサイに似てるでしょ?
うん、似てるね。

 

 

 

貨幣について、桑原正彦へ 33

 

閃光は言葉の先にあった

閃光は

言葉の外部にあった
貨幣の外部にあった

閃光は

理性ではないもの
ばかげているもの

閃光は

強い風のなかを飛ぶもの
テトラポットにしろく砕けるもの

閃光は
閃光は

わたしではないもの
あなたではないもの

 

 

 

昨年六月の詩「雑草詩って、俺っちの感想」を書き換える。

 

鈴木志郎康

 
 

俺っち、
自分が去年の六月に書いた詩を、
書き換えたっちゃ。
書いた詩を書き換えるっちゃ、
初めてのこっちゃ。
雑草詩って比喩の
使い方が
気に入らないっちゃ。
印刷された縦書き詩行を、
こりゃ、
雑草だっちゃってね、
決めつけて、
ひとりで盛り上がったのが、
去年のことだっちゃ。
それが失敗だっちゃ。

去年出した新詩集の
「化石詩人は御免だぜ、でも言葉は」の
校正刷りがどさっと届いたっちゃ。
紙の束を開いて、
横に書かいた詩が、
ぜーんぶ、
縦に印刷されてるじゃん。
当たり前っちゃ。

Webの「浜風文庫」に発表した時には、
横書きっちゃ。
詩集にすると、
縦書きっちゃ。
紙の上に、
縦に印刷されてきた
校正刷りを、
二回読んだ感想なん、
日頃のことが書かれた
詩の行が縦に並んでるじゃん、
雑草が、
ひょろひょろ、
ひょろひょろ、
って、生えてる。
こりゃ、
雑草が生えてるん、
ページをめくると、
また、雑草、
また、雑草、
抜いても抜いても生えてくる
雑草じゃん。
俺っちが書く詩は、
雑草詩じゃん。
と、まあ、
俺っちは
盛り上がってしまったっちゃ。
これがまず失敗だっちゃ。
雑草の比喩に、
引っかかっちまったってこっちゃ。

俺っちは、
雑草って呼ばれる草の
ひとつひとつの名前を
ろくに知らないっちゃ。
いい気なもんだっちゃ。
今年になって、
木村迪夫さんの詩を読んだら、
その名前が
ちゃんと書いてあったっちゃ。
蓬、茅萱、薊、芝草、藺草、蒲公英、
びっき草、へびすかな、どんでんがら、ぎしぎしー
見たことない草もあるけど、
俺っちも、子ども頃に、
蓬を摘んで、
草餅食ったこともあったっちゃ。
詩の一行一行も、
書かれた言葉は、
それぞれ違った姿で立ってるんじゃ。
一緒くたにするな、
馬鹿野郎、
俺っちって馬鹿だね。
無名の、
雑草って一絡げしちまってさ。
道端に繁茂する
雑草のイメージに酔っちまってさ。

雑草を、
無用な草、
価値のない草、
その比喩に、
俺っち自身の詩の言葉を乗せちまって、
でも、
生命力が強い存在って、
ことで、
自身の詩を持ちあげちまってね。
この思いつきは、
俺っちにして、すすっ素晴らしいぜ。
なんてね、
盛り上がっちゃったってのが、
またまた、
失敗だっちゃ。
踏まれても、
引き抜かれても、
生えてくる
雑草。
貶されても、
無視されても、
どんどん、
どんどん、
書かれる
雑草詩。
いいじゃん、
じゃん、じゃん
ぽん。
って、
いい気なものでしたってこっちゃ。

雑草って比喩は、
有用な栽培植物に向きあってるってこっちゃ。
有用が片方にあるってこっちゃ。
有用な詩ってなんじゃい。、
評価される詩か、
ケッ、
評価の土俵ってか、
アクチュアルのグランドってか、
まあ、そこから、
なかなか身を引けないねえ。
そんで、もって、
雑草詩って盛り上がっちゃったってわけさ。
俺っち、
雑草詩を書き続けるっちゃ。
無用の詩を書き続けるっちゃ。
格好悪い詩を書き続けるっちゃ。
格好悪いが格好いいっちゃ。
俺っちの
ひとりよがりのヒロイズムじゃん、
いいじゃん、
じゃん、
ぽん。
じやん、
ぽん。

そこでちょっと、
詩を書くって、
ひとりで書くってこっちゃ。
ひとりよがりになりがちだっちゃ。
でもね、
誰かが読んでくれると、
嬉しいじゃん。
共感が欲しいじゃん。
読んだら、
話そうじゃん、
話そうじゃん。
じゃん、
じゃん、
ぽん。

 

昨年の6月に書いて発表した「雑草詩って、俺っちの感想なん」

 

 

 

シロウヤスさんのアマリリス

 

長田典子

 
 

シロウヤスさんのアマリリスは
薄いピンクのはなびらに赤い筋が優雅に入っている
2017年2月8日に初めて一つ目の花を開かせ
2017年2月15日に四つ目の花が開いて
2017年2月16日に四つとも花が咲きそろって
2017年2月18日に一つ目の花が萎れはじめ
2017年2月24日に四つ目の花が萎れはじめた
はなびらに入った筋はそれでも脈々と走っていて
2017年4月6日には枯れ果ててもなお
はなびらは赤い血管をどっくんどっくんさせて存在している

きっついことがあると
うでにカッターナイフをあててしまいます
すうー、すうぅぅーー、
沁みるような痛さは きっついことをわすれさせてくれるから
しねたらいいけど しぬのはこわいから
しなないていどに 赤い線を引いていきます

シロウヤスさんのアマリリスは
枯れて うすい茶色になっても
ある、そこにある
脈打っている
存在している

どっくん どっくん どっくん どっくん

うでから血が吹き出るのは見たくないの
にじむていどにね
すうー、すうぅぅーー、すううぅぅぅーー、
カッターナイフで
赤い線をうでに引きます
なんぼんも なんぼんも

シロウヤスさんのアマリリスは
2017年1月16日に
「アマリリスの蕾が出てきた なんかうれしい」って
今年初めてフェイスブックに登場し
2017年1月22日に「アマリリスの花茎がすうーっと伸びた」

2017年2月1日に「アマリリスの蕾が姿を現した」となって
2017年4月6日の「枯れ果てたアマリリスの花弁」まで
途中、薄いピンクのはなびらにソバカスが浮かびはじめても
2017年3月19日までシロウヤスさんは写真に撮り続けて49回ポストし
2017年4月6日の「枯れ果てたアマリリスの花弁」まで50回
フェイスブックで公開され続けた

ねばり ついきゅうする
シロウヤスさんの作家魂
どっくん どっくん どっくん どっくん
脈打っている
存在している

ふともも が かたほう
とっても ほそいのは 知ってたよ
きみは 言った

ずっくん ずっくん ずっくん ずっくん

きみの 火の玉が からだの芯をつきのぼり
わたし あたまのてっぺんまで 水飴です
とろけて ふやけて よじれていく さいちゅうに
そんなとこ見てたんだ きみ

ずっくん ずっくん ずっくん ずっくん

わたしはきみ に なり
きみはわたし に なり
ふとくて あっつい いっぽんの血管になったあとで
きみは
わたしのせなかを さすりました
ぶあつい てのひらを ひろげて
ぼくは 気にしない
その ほっそい ふともも が
すっ、きっ、

どっくん どっくん どっくん どっくん

きみは わたしのうでの
赤い線を
ぺろぺろ ぺろぺろ
いぬみたいに
なめました

脈打つ 血管
脈打つ わたし きみ

シロウヤスさんのアマリリスの血管

しぬのはいけないね
いつも通るマンションの7階から見える四角いコンクリートの駐車場
通るたびにフェンスに両手をかけ 覗き込む
しんでしまおうか
しんでしまおうか

しぬのはいけないね

きみは わたしのうでの
赤い線を
ぺろぺろ ぺろぺろ
いぬみたいに
なめました

81歳のシロウヤスさんは元気に詩を書き続けて
2017年は
1月 5つ
2月 4つ
3月 6つ
4月 3つ

2017年4月7日のメッセージで教えてくれました

シロウヤスさんのアマリリス
81歳のシロウヤスさんが2月8日から4月6日まで写真に撮り続けたアマリリス
枯れても ある
そこに ある
すごい ある
アマリリス

どっくん どっくん どっくん どっくん

ねばり ついきゅうする
シロウヤスさんの作家魂

これ、わたしのお守り

フェイスブックを開いて
きみに見せました

シロウヤスさんのアマリリス

ある
脈打つ

きみ
わたし

 

 

 

続続とがりんぼう、ウフフっちゃ。

 

鈴木志郎康

 
 

とがりんぼう、
逃げちまった
とがりんぼう、
って、唱えて、
朝食のトーストを食べて、
朝日新聞を読んでたら、
八十八歳の数学者の
佐藤幹夫さんが弟子たちに言い伝えた言葉が出ていたっちゃ。
「朝起きた時にきょうも一日数学をやるぞと思っているようでは、ものにならない。数学を考えながらいつの間にか眠り、目覚めた時にはすでに数学の世界に入っていないといけない」(注)
ってね。
すげえ没頭に集中だっちゃ。
きっと、弟子だちは、
ご飯食べてる最中にももちろん数学、
うんこしてる最中にももちろん数学。
これだ、これだとばかり、
早速、俺っち、
この言葉をもらったっちゃ。
「朝起きた時にきょうも一日とがりんぼうをひっ捕まえて詩を書くぞと思っているようでは、ものにならない。とがりんぼうを尖らせ詩を考えながらいつの間にか眠り、目覚めた時にはすでに詩の世界に入っていないといけない」
ってね。
これぞ、
とがりんぼうを
確実に尖らせるやり方だっちゃ。
さあ、摑まえるぞ。
さあ、尖らせるぞ。
さあ、詩を書くぞ。
とがりんぼう、
とがりんぼう、
ウフフ、
ウフフっちゃ。

ものにならない、
ものになる、
ものにならない、
ものになる。

ものになる
数学って、
なんじゃい。
人類の数学史に残る公理の発見っちゃ。
とがりんぼうを
掴まえて、
尖らせ、
ものになる
詩って、
なんじゃ。
人類の詩の歴史に傑作を残すってことかいなあああ。
ケッ、アホ臭。
俺っちが、
とがりんぼうの
尖った先で、
言葉を書くと、
その瞬間、
火花散って、
パッと燃え尽き、
灰になっちゃうってこっちゃ。
そこに、
新しい時間が開くっちゃ。
嬉しいって、
素晴らしいって、
ウフフ、
ウフフっちゃ。

まあ、
仮に、此処に、
八十二になる老人が居てねっちゃ、
とがりんぼうを、
尖らせろ、尖らせろ、
つるつるつるーんを、
引っぱがせ、引っぱがせ、
ってね、四六時中、
食事しながら、
うんこしながら、
とがりんぼうを
追いかけてるっちゃ。
でもね、飴舐め舐めテレビ見ちゃう。
つい、飴舐めちゃう。
口が甘あくて幸せだっちゃ。
そこでね、
とがりんぼうに逃げられちゃうってわけさ。
それでも、
とがりんぼうを、
追い回してて、
詩が、
ものになるかどうか。
遠いところで頭を掠め、
やがて、此処に、
不在がやって来るっちゃ。
本当、世の合理は酷しいってこっちゃ。
つるつるつるーん、
ツルリンボー。

 
 

(注)朝日新聞2017年4月9日朝刊。
佐藤幹夫(88)・ノーベル賞と並ぶとされるウルフ賞受賞、京都大学名誉教授、京都大学数理解析研究所元所長が弟子に伝え、語り継がれる言葉とある。